ゲーテの本を片手に持ち、仁はソファでくつろいでいる。
光也はというと、本は本でも独和辞典を片手に、な感じで、仁の詩集とは厚さがかなり違う。
しかしその独和辞典でさえ、旧字体というのか、光也の慣れ親しんだ字と大幅に異なり、和訳部分を読むのにも一苦労だ。
今でこそ仁の手を借りずとも大分読めるようになったが、初めの頃は本当に、「なんて読むんだよこれ」の連続だった。
あー、だんだん大正(ここ)の文化に馴染んできたな、オレ……。
果たしてそれは喜ばしいことなのだろうか。
答えは――――――……光也はばたりと辞書を閉じた。その音に、仁が顔を上げる。
「どうした? どこかわからないところでも?」
問う仁に、光也は苦笑して見せた。
「それとも飽きたか」
飽きたというなら最初からだ。
テレビも無い、マンガも無い、ゲームも無けりゃ携帯も無い。映画は弁士、音楽はレコード。
勉強しかすることが無いってのは、拷問だと思う。
その拷問のおかげで、随分と知識が増えたのも事実だが。
もともと物覚えの悪い方ではなかったが、こちらに来てから詰め込んだおかげで、かなり頭が良くなった気がする。
現代に帰れたら、高校で一躍成績トップになれるのではないだろうか。
ドイツ語の詩集をすらすら読む男子高校生、ちょっとすごいかもしんない。
冗談に見せかけた考えに、湧いてくるのは乾いた笑い。
だって、そんな風に茶化しでもしないとやってられないのだ。
「いや、ちっと喉が渇いたなと思ってさ」
仁は緑の目を瞬く。
「何か持ってこようか。何がいい」
……ファンタ、と呟いて、ふぁんた?と仁に訊き返される。光也は軽く首を振った。
「嘘、悪い、冗談。水でもなんでもいい」
仁は一瞬何か言いたげな顔をしたが、結局黙って立ち上がった。
ソファに置かれた本が伏せられた様子も無いのを見て、光也は言った。
「いいのか、栞とか挟まなくて」
「いいんだ。実を言うと僕も飽きていたところだった」
仁は部屋を出て行き、光也の中に罪悪感が膨れた。
口に出せない『ごめん』を何度も心の中で繰り返す。
ごめん。お前のせいじゃないのに。ごめん。八つ当たりだ。
今日は朝からおかしかったのだ。
夢見が悪くて――――平成の夢など見てしまったから、どうしても意識がそちらに行ってしまって。
何より、夢の中で嗅いだ病院の臭いがリアルすぎた。
ため息をついて窓に近づく。
外のだだっ広い庭園を眺めながら、光也の思考は深く落ちていく。
……現代に帰れたら成績トップ、か。
つうか、ちゃんと帰れんのかな。
帰っても、こっちにいたのと同じ日数経ってたらヤバイな。
出席足りなくて留年かな、やっぱし。
それよか行方不明で大騒ぎになってたりして。
また誘拐とか騒がれて、あの人今度こそ発狂してたりして、帰ったらきっとますます過保護になって、下手すりゃ家の中に監禁されるなオレ、ハハハ……。
「って、全然笑えねーよ」
窓枠に手をかけて、光也は目を伏せた。
悪いことばかりのスパイラルになるのは、弱っている証拠だ。
「ちっと今日の夢はきつかったな――――……」
普段気にしないでいる現実が、どどっと覆い被さってきて潰れそう。縋りつくようにカーテンを掴む。
こちらに来てすぐ「ジィちゃんが死んじまう」と泣いたときのように、ぱた、ぱたっと涙が落ちた。
「なにをぶつぶつ言ってるんだ? 光也、お」
振り返れば、トレイを持って戻ってきた仁の姿が滲んで見えた。
グラスが載ったトレイは、置かれたときにがしゃりと音を立てた。
「お前、何を泣いて」
「なんでもねぇっ」
本当のことなど言えるわけがないし、言ったとしてもたぶん信じてもらえないだろう。
彼は光也のことを、記憶喪失になった慶光の別人格だと思っている。
光也だって、例えば友達がいきなり「俺は未来からタイムスリップしてきたんだ」などと言い出したら、まず間違いなく信じない。笑い飛ばす。
自分でも無茶苦茶だという自覚はあり、だから信じてもらえないのも仕方ないのだ。光也自身が信じきれていないのだから。
「なんでもなくて泣くのか、お前は」
「……うるせぇな」
頬に添えられた仁の手を拒む。仁はそれを許さず、光也の顔を掴んで自分へと向けさせた。
文字通り目と鼻の先に緑色の目があって、それには光也が映っていて。
仁が口を開いた。
「なんだか前にも同じようなことがあったよな」
光也だって忘れるものか。
あれは初めてこの屋敷に来たときのことだ。右も左もわからなかった自分を、彼は祖父だと思い込んで連れてきた。
自分の身に起きたことの途方もなさ、現代の祖父の容態を思い、泣いてしまった光也に対して、あろうことか頬にキスをしやがったのだ。
そこまで思い出して、光也は身構えた。同じ轍を踏む気は無い。
そんな光也の変化に気付いたのだろう、仁は笑った。
「口付けたらまた、あのときみたいに泣き止めるかもよ」
「あっ……あれは驚きのあまり涙がひっこんだだけだ!」
「そういえば、お前はよく吐いたり泣いたりするが、大抵キスで解決を見た覚えがあるんだけど?」
「延べ三回しか世話になってねぇ」
「三回なら十分だと思うぞ」
「や、やりやがったらぶっ飛ばすからな!」
光也は身体の前で拳を作り、仁を牽制した。
仁は――――腹を抱えて笑い出した。
振り上げた拳の行き場が無くなる。
「……は?」
光也には、大笑いする仁の、その笑いの理由がさっぱりわからない。
何がそんなに彼の笑いのツボを刺激したのか。
ひとしきり笑った後、仁は眼鏡をはずしながら言った。
「涙、止まっただろ? 光也」
「あ」
確かに、仁に言われたとおり、光也の涙はすっかり止まっていた。ひょっとして、最初からこれを狙って?
いつだってそうだ、こいつはオレを助けようとしてくれるのだから。
レンズを通さない仁の目が悪戯っぽく光る。
「さ、サンキュ……」
「どういたしまして。あーあ、僕のほうが笑いすぎて涙出てきた」
そうして目元に指をやる仁の顔は、まだ何かを企んでいるような笑みのまま。
嫌な予感がして、そういう予感というのは当たるものだ。
「お前がキスしてくれれば泣き止めるんだけど」
「一生泣いてろぉ――――!!」
とっておいた拳は無駄にならずに済んだ。
『仁なりの気遣い』に感謝の意を示して、威力は弱めにしておいたけれど。


もうぐだぐだです(05.12.10)

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