ドイツ語で書かれたページを繰る指に、仁の視線を感じて、光也はゆるく首を振る。
流れる前髪は、男にしては長い。
ことりとペンを置く音が部屋に落ちた。
「あのさあ」
「なんだ? みつ」
いつもの笑顔にぶつかる。
仁は光也をからかうこともあるが、おおむね親身になって勉強を教えてくれる。
「趣味と実益を兼ねているんだ」とは本人の弁だが、光也は内心、少し後ろめたく思っていた。
しばらくこの屋敷で暮らしてわかったが、仁は普段あまり寝ない――というか、睡眠にあてることのできる時間が少ないらしい。
自らの学業など様々な雑事と、祖父の小言などの周囲からの騒音に耐えている。
光也がこちら(大正)にきてすぐ、母親の入院のせいで三日ほど寝ていなかった彼が倒れたこともあった。
光也は身体を仁の方に向けて彼を見据えると、ここのところ考えていたことを口にした。
「もういいよ。もう、教えてくれなくていい」
「みつ?」
「時間をとって悪かった。今までありがとな」
「光也!」
とたん、仁は真剣な顔をして立ち上がった。椅子が大きな音を立てた。
「どういう意味だ! まさか、また家出を――――」
「へ? あ、ち、違うっ!」
光也にしたら言葉どおり仁に悪いと思ったからこそのセリフなのだが、彼はそうは取らなかったようだ。
「もういい、今までありがとう」を別れの挨拶だと解釈したか。
日本語って難しい、と光也はドイツ語の詩集を閉じて、上手く伝えられるような言い方を探した。
「あ、あのさ、オレ、物覚えは悪くない方だろ」
「で?」
仁の態度は「申し開きがあるなら言ってみろ」という感じだ。
「オレから頼んどいてなんだけど、わかんねぇとこも結構わかってきたし、そろそろ一人でも大丈夫だと思うんだよ」
光也は次を繋げるのを若干ためらった。照れくさかったのだ。
「……お前、オレのために自分の時間を犠牲にする必要ないからな」
仁と接していると感じるのだ、こいつの最優先は「みつ」で、なによりも「みつ」に割く時間は惜しまない。
春日という家に生まれて、よい成績を修めることを求められているのに、自分の勉強よりも光也の勉強を見てくれている。
仁は呆れたようにため息をついた。
「まだ気にしてたのか。以前も言っただろう、好きでやっているんだって」
「でも、やっぱさ」
「僕に教わるのは嫌なのか」
「違くて!」
仁に負担を強いていることが心苦しいのだ。
仁は構わないと言うが、だからといって甘えてはいられないだろう。なにより光也自身が嫌だった。
誰かに借りを作って平気でいられる性格をしてはいない。
椅子を直し、ゆっくりと座って、仁は
「お前は、自分はもう教わらずともわかると言う、僕は、お前を教えたいと言う。さて……」
少し考えていたかと思うと、
「ではこうしよう。一人で出来るということを証明してくれ」
詩集に手を伸ばし、適当な箇所を探しているのだろう、ぱらぱらとめくった。
「そうだな……ここを自力で訳して読みあげてみろ」
光也は仁の手から本を受け取った。
そんなことなら、それほど難しくはないだろうと思えた。
学んでみればドイツ語は英語とよく似ていることに気付き、単語もかなり覚えたし、ある程度の読み書きも出来るようになっている。
ここからだ、と指された部分を、訳し始める。綴りを目で追い、日本語に当てはめていく。
「Wie lieb' ich dichだろ……どんなにオレ……私は、お前を……」
ぴたりと光也は口を閉じた。
仁が人の悪い笑みを浮かべてこちらを見てくる。
「どうした? みつ。読めないのか」
「てっ……てめえ、わかってて言ってやがるだろ」
「なんのことだかわからないな。読めないのなら……」
「わかったよ! 読めばいいんだろ読めばっ!」
そらっとぼける仁に、光也はむかっとし、自棄になって、半ば怒鳴るように詩の残りを朗読した。
「どんなに私は、お前を愛っ……、していることだろう、どんなに、お前の目は、輝いていることだろうっ、どんなにお前は……っ」
そこで、躓いてしまった。
答えをわかってはいる。わかっているからこそ、口に出すと負けるような気がした。
仁が自分に言わせたいのはここだろうと思ったから。
口ごもってしまった光也を見計らったように、仁が続けた。
「どんなにお前は、私を愛していることだろう」
「ちょっ……お前、勝手に次を……!」
「つっかえたくせに。僕の勝ちだ」
「そ、それは、だって!」
光也が抗議しようと身を乗り出せば、光也の葛藤も、言えなかった理由も、なにもかもお見通しだといわんばかりの仁の緑の目。
気付いていてそれでもなお、光也の側に在り続けようとする。真摯な瞳だ。
「僕がお前に教えるのは、趣味と実益を兼ねているんだ。……前も言ったな? お前が気に病むことはない」
頭をよしよしと撫でようとしてきた手を払いのけて、光也は気まずさを誤魔化したくてぶっきらぼうに言い捨てた。
「……趣味と実益っつったって、お前に益はないだろーが」
仁の緑色が光る。また、あの笑みだ。
「いや? あり過ぎるほどだ。――――さっきみたいな言葉も聞けるし」
「お前が読めっつったんじゃねぇか!!」
「ゲーテの詩に愛を歌ったものが多いのは僕のせいじゃないぜ。文句があるなら彼にどうぞ?」
仁はひょいと詩集を取り上げる。それを片手に持ち、口を開いた。
「歌と空とを愛するひばりの心にも似て、空の香りを愛する朝の花の心にも似て、私はお前を愛する、熱い血をたぎらせて」
「……」
射抜くように見つめられて、光也はたじろいだ。仁の声には感情がこもっている。
「お前は私に青春と喜びとはずむ心を与えてくれる。新しい歌と踊りに私の心ははずむ。いつまでも幸福であれ、お前が私を愛する限り。……わかっただろ?」
読み終えた仁が本を閉じ、にやっと笑って眼鏡を直した。
「なにがっ」
初めの音、な、がうっかり裏返りそうになったのを光也は自覚した。
うろたえているのを気取られたくなくて、虚勢を張った。
仁はそれを指摘するでもなく、ただ目を細める。
「僕がお前を愛する限り、僕はいつまでも幸福でいられるってことさ」
「……恥ずっ」
光也はがたりと椅子から立ち上がった。仁のほうを見ないようにしながら、手早く机の上を片付ける。
背中に、余裕たっぷりの仁の声がかかる。
「みつは照れ屋だなあ」
「いっぺん殺すぞ!?」
そう言いながらも、光也はうすうす悟っていた。
きっとたぶんおそらく、仁の一連の言動は光也を思ってのもの、光也に気にさせまいとしたのだ。
そして明日もまた自分は彼の隣、この席に座って勉強することになるのだろう。
光也はとりあえず、胸の中でゲーテに文句を言っておいた。
五月のうた、本当は「おおおとめよ!」とか言っちゃう詩です。(05.12.29)
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