「お前は覚えていないだろうな」
唐突に仁が言った。
ソファにゆったりともたれかかった彼は、姿勢だけ見ていれば堂々としていて立派だ。
けれどその表情は朧だ。掴みどころがなく、儚い。緑の目はこの部屋ではないどこか遠くを見ている。
懐かしんでいるのだろうか、過去を。それとも悲しんでいるのだろうか。
どちらにせよ、それは光也のせいで、消えてしまった慶光のせいだ。
どうしようもないことだが、光也は僅かの罪悪感と悔しさを覚える。嫉妬に近い。
大好きな祖父にそんな感情を抱くことが光也はたまらなく嫌だが、想いとは制御が難しいものだ。
光也は大正に己の居場所を欲している。そして大正における居場所とは仁の隣と同義だ。
ゆえに元の持ち主に複雑な想いを持ってしまうのは当然といえば当然か。
積み重ねてきた年月にはどうやったって太刀打ちできない。だから光也は新しいものを積み上げていくしかない。
光也はだいぶ伸びた髪を梳かしながら言った。
「……何を? 言っとくがオレは慶光じゃないから、光也として経験したこと以外は全部最初から『知らない』ぜ」
こちらに来てからもうすぐふた月。伸ばしっぱなしの髪の毛は、光也に時の経過を思い知らせる。
もうふた月。でもまだふた月。仁と慶光の間には十三年。
「ああ……すまない」
仁は謝罪した。おそらくは、光也の機嫌を少し損ねたのに気づいたのだ。足を組み替えて
「ならば訂正しよう。光也は知らないだろうな」
何を、と光也はもう一度訊いた。
「慶光のやつがな、言ったんだ。僕の父親や兄弟になりたかった、友人になりたかった、でも恋人にだけはなりたくないとさ。欲張りな本心だが、僕との縁が切れるような関係は嫌だ。不変でいたいからと」
「それは……それは」
恨み言なのか惚気なのか光也には量りかねて、それだけを返した。
「僕もまあ、ほぼ同じさ」
「あ?」
仁は苦笑ともつかない笑顔の失敗作のような表情を浮かべた。光也は櫛を持った手を止める。
「僕らは二人とも肉親の情が薄かった。だから互いにそれを求めたのかもしれない。父であり兄であり弟であり息子である。と同時にかけがえのない友でもある」
そんな強い強い絆を結んだ相手、何人も入り込めない場所を共有した相手はオレじゃないジィちゃんなんだよ。
光也は思ったが、黙って櫛を横に置いた。
「僕と慶光で違ったのは、僕は更に欲張りで、恋人にもなりたかったってことだな」
「さようですか……」
髪留めを口に銜え、手を頭の後ろに回す。
髪の毛をまとめていると、まぶしそうに黒髪を見つめる仁の視線に気づいた。
「……」
何かを問おうにも唇に髪留めを挟んだままだ。
まとめた根元を左手で押さえ、髪留めを取ると、慣れた手つきでひとつに結んだ。
すっきりとした耳もとに仁の声が聞こえた。
「いいなお前、綺麗で」
光也は思い切り咳き込んだ。
口に何か入っていたら、盛大に吹き出していたところだ。咳が落ち着いたところで改めて問う。
「何言い出すんだいきなり!」
「いや、綺麗だなと思って」
「はぁ!?」
光也の目は吊り上がるが、仁の目は優しく細められている。
光也を通して慶光を見ているのかもしれないし、ただ単にこの姿かたちを映しているだけかもしれない。
緑の目。そういえば緑は心安らぐ色だと聞いたことがある。
光也は肩の力を抜いて、少し頭を傾けた。前髪がぱらりと揺れた。
「なんかお前、慶光自体になりたかったように思える」
仁は目を瞠り、長い沈黙の後まるで独り言のように言った。
「そう……だな、言われてみればそういう節があったかもな」
滲むのは憧憬。それほど求めていたのだろう、と光也にはその気持ちが少しわかった。
「でもオレは、お前と別個で良かったと思うけど」
「何故?」
「二人じゃなきゃできないことができるだろ」
仁はさっきと同じように目を瞠ったが、今度は沈黙の時間がほとんどなかった。
「へぇ?」
その笑みを見た瞬間、光也はぎくりと身をこわばらせた。
つい今しがたまでは存在したはずの儚さや切なげな雰囲気はどこへ行ってしまったのだろう?
詐欺じゃねぇの、と思う。あるいは白昼夢でも見たか。
仁は眼鏡のフレームに手を当てて、指の間からにやりと笑った。
「二人じゃなきゃできないことって、抱擁や口付けやその先とか?」
「バッ……!」
光也は真っ赤になって否定した。
「んなわけあるか! オレが言いたかったのはだなあ、もっと精神的なもののことであって!」
「冗談だ。わかってる。……ありがとう」
感謝してるんだぜ、とまで言われてしまっては、光也もいつまでも意地をはっているのがガキっぽくなってくる。
「まあ、いいけど」
諦めのポーズのための溜息をついて、光也は目を伏せた。
一人は寂しい。し、怖い。従兄も言っていた。
孤独を埋めてやりたいなんて思うのは、大それた考えかもしれないけれど、それでも光也は願うのだ。
仁は立ち上がると、光也の隣へゆっくりと歩いてきた。
目の前の、腰掛けるもののいなくなったソファの光沢が、柔らかく震えていた。



落ちが思いつかなかったんです。
(06.04.19)

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