歴史を変えるために走り出すか否か。問うまでもない。下手に介入すべきではないなんてことはわかっている。
違う、それも言い訳だ。臆病者の。結局俺は、怖いだけなのだ。大勢の人の命に責任を負うのが。
目の前の一人を助けようとして、その向こうの千人を殺すかもしれない。
かえって悪い結果を招かないという保証はどこにもない。
津波のような雪崩のような、大きな歴史のうねり。
それは俺一人がちっぽけな両手を広げたくらいで止まるようなものでは到底なく、一緒に巻き込まれて押し流されるのがオチだ。
だから俺の足は、半田付けされたように地面にくっついていて、どうしてもそこから一歩が踏み出せずにいる。
情けない話だ。


冬の朝は暗い。冷気の滲み込んだ薄灰色の闇が、街の底に沈んでいる。
こんな日に布団から出るのはかなりの精神力を必要とするが、俺は大あくびを一つして、もぞりと身を起こした。
従弟殿の声が聞こえたからだ。
窓を開けると、身を刺すような寒さが侵入してくる。
「けーい」
白い息を吐きながら、光也はこちらに手を振っていた。元気のいいことだ。
その姿が、尻尾を振る子犬に重なる。俺は笑った。
「よう、久しぶり」
「うん。あがってい?」
さみぃよ、と言いながら手袋をした手を擦るようにしている。
「うーん、でも実は部屋の中もあんまり気温は変わらないと思うぜ。今火、起こすけど……」
「なんでもいいから、とにかく入れて」
部屋に入った光也は、火鉢を見て喜んでいるようだった。
「すっげー、レトロっ。なんだっけ、枕草子?」
すぐさま近づき、身体を温めている。
これじゃ犬ってより猫だな、と俺は考えを改めた。
「そりゃ火桶だ」
光也の白かった肌は真っ赤になっている。
病的なほどの艶、というか……こりゃ、不埒な輩にはちょっとした目の毒なんじゃないか?
「さむ。また熱でも出たら仁に怒鳴られるな……」
「なんだ光也、風邪か?」
「あーうん、だからここんとこ慶に会いにこれなかったんだよ」
「大丈夫か?」
だったら、こんな寒い中無理して来ることもないだろうに。
会えたことが嬉しいくせに、俺はそんな大人ぶったことを言ってみる。
「たいしたことねーよ、ちょっと熱出しただけ。たぶん仁の風邪を貰っちまったんだ」
おや、と俺は少し意地悪く眉を跳ね上げて笑った。
「伝染るようなことでもされたか」
「気色悪い冗談やめろって言ったろ」
脛に蹴りを入れられた。結構容赦ないな。
昔から乱暴なところはあったけど……って、俺も人のこと言えないか。これは血なのかね? でもジィさんはおっとりした人だしな。
どうでもいいことを考えていた俺は、むっとしたままの光也の視線に気づき、ひとまずここは謝っておくかとちっとも心のこもっていない謝罪を口にした。
「ごめんごめん」
「……」
ジト目で見るなよ、可愛くないから。
俺は保護者代わりとしての面目を保つべく、真剣にやることにした。
からかうのもほどほどにしないと、本当に言いたいことが紛れて見えなくなってしまう。
「それは風邪ってより、精神的な負荷がかかりすぎて、オーバーヒートしたんじゃないか」
「オーバーヒート?」
光也はきょとんとした。そっちのほうが年相応で可愛いぜ、お前。
「自分じゃ平気だと思ってても、やっぱりどっかしら無理があったんだろう。なにしろ80年近い時間を越えちまって、知らないところに放り出されたんだからな……負荷はそうとうかかってるはずだ」
赤い頬で、俺の言葉を聞いている光也。頬だけじゃなく、目まで火を映しこんで赤く染まって見える。
……ふと、このイトコを救うためになら、俺は迷わず駆け出していけるのかもしれない、と思った。
炭がぱちりと爆ぜた。
「おにーさんは、お前が危険なところに飛び込んでいくのを見ていられないよ」
冗談に聞こえる様に気をつけて言った。なのに光也は、ちゃんと本音を聞き分けやがった。
「ありがと、慶」
快活に笑う。まっさらで屈託がなくて。打算だとか、思惑だとかもまるでない。
羨ましいなあ。俺はその真っ直ぐな光に、どれだけ救われているか。
きっとあの、仁君、も、同じなんだろう。
凍りついた足を溶かす火のような、熱くて激しいもの。
火傷するかもな、と思いながら、俺は光也の肩に手を伸ばした。


ブラウザバック推奨
(06.08.14)