不安の芽は、もうずっと前から育っていたのかもしれない。


 隣を歩く光也をそれとなく伺いながら、仁は一歩ごとに増えていくどろりとした感情をなだめていた。
 心の中に降り積もる澱は「漠然とした不安」という名前をしていて、その色は、きっと血のように赤い。
 様々な醜い感情と雑じりあい濁っている。
 時折振り返る光也が仁に向ける笑顔は嬉しそうだ。
 光也は仁とは違って、金星に近づくにつれて楽しげな様子になる。
 その笑顔を知っているから「金星に行くな」とは言えない。そして澱は静かに、静かに、だが確実に積もっていった。
 カフェー金星のドアは、開けるときにカランと音を立てる。
 いらっしゃいと出迎えるのは大抵ここの看板娘なのだが、今日は違った。
「! ……慶」
「よっ、光也とメガネの兄さんか。よく来たな」
 光也の声に、体格のいい男がこちらを振り返った。仁は自分の機嫌が下降したのを自覚する。
 慶と呼ばれた彼はこの店のマスターで、仁にとっては大いに気に食わないことに、光也と親しげだった。
 店は普段からもそう大はやりというわけではないが、それなりに客が入っている。
 しかし今日は珍しく閑散としていた。看板娘の節がのんびりとテーブルを拭いている背中が見える。
「暇そうだな?」
 若干の嫌味をこめて仁は言った。
 慶はそれに気付いたのかいないのか、軽く笑った。
「ああ、おかげさまで休憩中。他が来るまでチェスでもするか?」
 訊いたのは仁なのに、わざわざ光也の肩に触れながら答えるのだから、本当に癇に障る男だ。
 人間性という点なら、慶はよく出来た男だろう。それは仁も認める。だが、こと光也に関わると話は別だ。
 だから仁は、なんとしても慶と馴れ合うわけにはいかなかった。光也は否定するが、どうだかわかったものじゃない。油揚げを浚われるのはごめんだ。
 光也はのん気に男の腕の中、「そうだな」などと言っている。仁の胸の中がざわめいた。
 チェス盤の載ったテーブルに着きながら、光也が何気ない様子で言った。
「慶とやると負けてばっかなんだもんな、オレ。昔っから――――」
「昔?」
 違和感を感じて聞きとがめると、はっ、と光也が口をつぐむ。
 慶が光也を軽く小突いたのが目の端に映った。唇が「ドジ」と動くのを、仁は見逃さなかった。
 光也は焦ったように言い訳した。
「ま、前に挑戦して負けたことがあってさっ」
 まただ、と思った。また何か隠し事をされている。しかもその「何か」を、光也と慶だけが共有しているのだ。
 腹の中から苛立ちがせり上がってくる。仁は歯を食いしばった。
 今まで、仁と慶光は、お互いがお互いのことを一番わかっていたのに。
 仁は光也のことをまだよく知らない。光也は仁のことを忘れてしまっている。
 十三年を共に過ごした慶光と違って、光也との日々はまだ二箇月に満たない。
 なのに、仁の知らないうちに慶と親しくしていた光也、そして慶はおそらく、仁の知らない光也を知っている。
 それは直感のようなものだった。
――――認めるものか!
 唯一無二の理解者であったはずの『みつ』。
 仁はチェスに興じる二人を見ながら、やけつく胸を押さえていた。


 帰ってきてから一言も口をきこうとしない仁に、光也は声をかけあぐねているようだった。
 その様子に少しいい気味だと思う。僕を蔑ろにしたことを後悔すればいいんだ。
 椅子に向かい合って座ったまま、仁は不機嫌もあらわに頬杖をついた。
 痺れを切らした光也が立ち上がったのを横目で見る。
 光也には堪え性がないということは知っていたから、こう出ることは予想していた。
「なんだよ、お前、言いたいことがあんならはっきり言えばいいだろ!」
「……言っていいのか?」
 光也を見ないまま低く言うと、彼が怯んだ気配が伝わってきた。
 それでも後には引けないのだろう、光也は「いいよ」と仁を促した。
 そこでようやく、仁は光也に視線を向ける。彼は想像通りの顔をしていた。こちらに挑むような目つきだ。
「お前は、僕を何だと思ってる」
「はぁ?」
 光也はがしがしと頭をかいた。慶光であったときには見られなかった仕草だった。
「何って……改まって訊かれると、ゆ……友人、か? やっぱり」
 答えは胸の傷に沁みた。
「友人、ねぇ」
 痛みを隠して、仁は鼻で笑った。
「じゃあ、金星の店主。あの男は?」
「え……」
 光也が目を見開く。しどろもどろに言葉を探している。
「け、慶は、いい兄貴分みたいなもんで」
「だからあんなふうに触られても平気だと?」
 自分の声がどんどん冷たくなっていくのがわかった。問い詰めれば喧嘩になるのもわかっていたのだ。それでもそうせずにはいられない。
「僕が触れるのは警戒するくせに、あんな男には平気で――だいたい、あいつも僕の前でこれ見よがしにお前に接して、あてつけているとしか思えない」
「お前、なに変な邪推してんだよ!」
 そう、光也の言うとおり、邪推かもしれない。今の自分は嫉妬に目が曇っている。恋は判断を誤らせる危険な感情だ。
 他ならぬ光也に、誰よりも大事な相手に関することだから。
「慶とはそんなんじゃないって言ってんだろ!? 家族愛に近いんだよっ、そうやってなんでもおかしな目で見るのやめろよな!」
 光也の声には怒りが滲んでいた。そして彼は、口にしてはならない言葉を口にしてしまった。
「それに、慶にも失礼だ!!」
 ぷつりと仁の中で何かが切れた。
 仁は光也の胸倉に掴みかかり、光也は仁の手をはずそうと抵抗した。
 光也お前は、あの男の、慶のために怒るのか?
 焦燥感、嫉妬、独占欲。それらがない交ぜになって、仁を突き動かす。
「僕の気持ちを知っているくせに!」
「お前の気持ちがなんだっていうんだよ!」
 しばらく揉み合った後、光也は仁を振り解いた。
 しわだらけになった服もそのままに、烈火の目で仁のことを睨みつけてきた。
 本気で怒っているのだ。
「これ以上話してても埒があかねえ。自分の部屋に戻る」
「光也!」
 乱暴にドアが閉まる音と共に、仁は一人、部屋の中に取り残された。
 どかっと、近くにあった椅子に腰を下ろす。
 眼鏡のフレームに手をやった。
 いらいらした気持ちのまま、ぱきりと折ってやろうかとも思ったが、以前同じ様な気持ちでグラスを噛み割ったときに光也に怒られたことが浮かんで、思いとどまる。
 もどかしくて、どうしようもなくて、心が焼き切れそうだ。
 長い息を吐く。
「可愛さ余って……というやつだな」
 自嘲をこめて呟くと、仁は眼鏡をテーブルの上に置いて目を閉じた。


 慶光は穏やかに笑みを浮かべていた。みつ、と呼んで仁は手を伸ばす。
 いつもいつも静かな笑みを浮かべていた彼が、いつになくつらそうな顔で、頑として譲らなかったこと。仁に釘を刺したあの日の言葉。
「駄目だよ、仁」
 記憶の中の慶光。
「俺はね、お前の父親になりたかった。兄弟になりたかった。それでいて友人にもなりたいって、ずっと思っていた。でも、恋人にだけはなりたくない。わかるだろう?」
 慶光は、そう言って仁を拒んだ。
「よくばりで、我が儘な本心だ。俺は不変でいたい。俺はお前と縁の切れるような、そんなものには決して、なりたくないんだ。だから」
 まるで説き伏せるかのごとく告げられた。
「言っちゃ駄目だよ」
 慶光は背中を向けて歩き出す。仁はそれを追う。
 必死に走る。走って、走って、手を伸ばす。距離は縮まらず、開いていくばかりだ。
 置いていかないでくれ、――――行くな!
 仁が叫ぶと、彼は振り返った。ゆっくりと唇が動く。
「さようなら、仁」
 伸ばした手が彼の腕を掴むことはなかった。
 そして、冷たい闇が世界を覆った。


 仁は跳ね起きた。
「……っ」
 起きると同時に寒気を覚え、肩を震わせた。身体がすっかり冷え切っている。
 全力疾走をした後のように、心臓がばくばくうるさかった。夢の中と同じだ。
 その忌々しさに舌打ちして、テーブルの上に眼鏡を探した。あのまま椅子で眠ってしまったのだ。
 見つかった眼鏡をかけると、ベッド脇に置いてあるランプをともした。
 時計を見ると10時半ばを指していた。
 心臓を落ち着かせようと胸のところをぎゅっと握り締めた。そうしなければ、内から不安に食い破られそうだった。
 みつ、みつ、みつ。
 落ち着くどころか、やるせなさにいてもたってもいられなくなる。
 ランプを持って部屋を出た。


 明かりも暖炉もついていない部屋は、窓から差し込む僅かな月の光はあるものの、濃紺に侵食されている。
 ノックもなしに入ってきた仁に、ベッドの上の光也は驚いて身を起こした。
「なっ……なんだよ! 謝りにでも――――」
 全てを聞かず、仁はベッドに近づくと、光也の身体を掴んでシーツの上に逆戻りさせた。
 軽い衝撃。光也の顔がぎゅっと顰められた。次に目が開かれたとき、そこにあった黒い瞳は戸惑いに揺れていた。
「じ、ん?」
「お前は」
 抵抗を封じるために上に圧し掛かった。
 さっきの夢が、心の中に影を投げかけている。あたかも、今光也の上に落ちる自分の影のように。
「僕をどう思っているんだ。確かに友人なら、変わらずいられるかもしれない。だがそれは、決してそれ以上にはなれないということなのに、僕はもっと、『それ以上』が欲しいのに!」
「仁、おい、どうしたんだよ?」
 特別になりたかった。
 ぬるま湯にずっとつかったまま生きていくよりも、一瞬の炎に焼き尽くされたほうが幸せだと思った。
 怯える光也を見下ろして、仁は言った。
「お前の人格は慶光じゃない。でも、身体は慶光と変わらないだろう」
 彼が息を呑んだ音が聴こえた。
「冗談だろっ……!」
 冗談ではないという証明に、仁は光也を力任せに縫いとめる。
 光也が仁の本気を悟るまで時間はかからなかった。
「っ! やめ」
 死に物狂いで暴れる光也を、逃がさないよう押さえつけた。荒い呼吸音が部屋に響き、耳元の空気をざわめかす。
 青ざめたその頬に口付けを落とすと、光也の長い睫毛が震えた。
「正気かよ」
 ランプの灯りに光る光也の目の中に、険しい眼差しの自分が映っている。仁は笑った。
 とっくにおかしくなっているさ。
 揉み合ううちに、シーツも光也の着物も乱れ始める。乱れた服で、必死でもがく光也、必死なのは仁も同じだ。
 着物の裾から覗く脚に、蹴り上げられないようにと体重をかけた。
 渾身の力を込めて組み敷けば、光也が喘ぐ。
「仁、オレは慶光じゃない……っ、仁!」
 仁は訴えにも耳を貸さず、二人息を切らして、寝台の上で縺れる。
 喘ぎに煽られるように、強引に唇を奪った。ベッドがぎしぎしと耳障りな音を立てた。
「ん!」
 息つく間を与えてやり、光也が酸素を求めて開けた口を閉じる前に、再び口付ける。
 隙間から舌を差し込んだ。噛まれる可能性も考えたが、そうはならなかったのでむさぼるようにキスを続ける。
 ああ、眩暈がしそうだ。逃げる舌を追い、吸うと、腕の中の体がぴくんと動いたのがわかった。
 次第に力が抜けぐったりとなった光也をいいことに、浴衣のあわせから手を差し込み、なだらかな胸に触れる。
「……く」
 格闘の間に、肌は汗をかいていた。
 若干強めに手のひらを押し当てると、はっきりとした鼓動がわかって、少し安心した。ここにいる、この身体はここにある。
 もう一度、今度は柔らかなキスをする。夢中で唇を重ね、だからしばらく気付かなかった。
 光也が、泣いていることに。
「み、」
 急激に理性が戻ってきた。
 下の光也は、怒りに震え仁を睨みながら涙を流していた。
「どうだ、満足かこれで! 仁!」
 叩きつけるような声音だった。水滴が耳の横を通って黒髪に吸い込まれていった。
 仁は彼を拘束していた腕の力を緩める。
 途端に自由になった光也の平手が飛んできたが、避けずに頬で受けた。乾いた音がした。
「どうして……っ」
 光也は仁を殴った手をもう片方の手でそっと押さえた。
 仁は、その叫びにどう答えればいいかわからなかった。取り返しのつかないことをしてしまった自覚はあった。裏切りに等しい。
 せめても最後までいく前に我に返れたのは、本当に良かったと思った。
 だが、どちらにせよ深く傷つけてしまったことに変わりはないだろう。
 仁はすまないと言おうとした。
 だが、口をついて出たのは全く違う言葉だった。
「どこにも行くな。ずっと側にいてくれ」
 それは切実な願い。紛うことなき本音だった。
 語尾が掠れて、そこで初めて自分の頬を伝うものに気付く。いつの間にか仁も泣いていた。
 光也の濡れた目がゆっくりと瞬きをして、目の端に残っていた雫が零れ落ちた。
 しばらく黙っていた彼が、仁を抱きしめる。まるで子どもにするように背中を撫でられた。いつくしむ手だった。
「真実を知ってオレから離れていくのは仁、お前のほうだ」
 囁かれた声を怪訝に思う。
 そんなことあるわけがないとそう否定したかったが、涙が喉をふさいだので叶わなかった。


(2006.01.07、01.08加筆修正)

えーと、あの、色々すみません……。
仁→光ではありますが、光→仁はあったとしても自覚はしてないです。