それはどういう話の流れだっただろうか。
 クラスメートとの談笑が、女の色気の話になった。
 やはり色気という点に関しては洋装よりも和装の方がいい、ドレスは美しいが、着物の裾からふとした拍子でのぞく足だとか、白いうなじの眩しさには敵わない、いやいや洋装の方が露出が増えて、などと熱弁をふるう級友たちの盛り上がりを、光也はついていけなくなって少し離れた目線で見ていた。
 横の仁も同じだろう。その証拠に、大して興味もなさげに文庫のページを繰っている。
「おいおい、相馬、春日、食いつきが悪いぞ」
「お前ら、こういう話題にはいっつも乗ってこないんだな」
「健全な男子たるもの、もうちょっと会話に加わってもいいんじゃあないの」
「冷めすぎ!」
 いっせいに文句をつける友人たちに光也は言った。
「猥談に加わってもなァ」
「右に同じ」
 本に栞を挟みこみ、仁は立ち上がった。ブーイングする少年たちを綺麗に無視し、光也の肩に手を置く。
「帰るぞ、みつ」
 その言葉に従わない理由はなく、光也も席を立つ。
 えーもうお前ら帰っちまうのかよ、との声に片手を上げて応え、仁の隣に並んだ。
「じゃあな。女の話も程々にしとけよ」
「お前らはもてるからそんなこと言っていられるんだあ!」
 背中にかかった抗議に肩をすくめながら、光也は仁と連れ立って部屋を出た。


 鞄をぶらぶらさせて歩く。
 高等学校の制服を着ているので、ときおり若い女性が自分たちを振り返る。
 初めは不思議だったのだが、この時代における高校がどういうものか知ってからは納得した。
 現代でいうところの灘や開成、麻布だ。東大進学を目指すようなエリートぞろいなのだ。
 音楽高校を目指したことはあるが、流石に東大を目指したことはなかった光也だから、そのエリート連中に自分が混じっているというのが不思議な感じがする。
 今もまた、袴の女学生3人組が、頬を染めてきゃあきゃあと横を通っていった。
「かしましいなあ」
 女3人寄れば何とやら、と笑う仁に、光也はふと、気になっていたことを訊いてみた。
 先ほどの級友の最後の叫び(こう言うと断末魔みたいだ)は本当なのだろうか。
――――お前らはもてるからそんなこと言っていられるんだ。
「なあ、ジ……慶光って、もてたの?」
「ん? そうだな」
 仁が顎に手をやる。
「慶光は外ヅラがおそろしくよかったからな。女受けはしていたんじゃないか」
「へぇ……」
 つまりもてたのか。
 何だか祖父の新たな一面を発見した気分になった。
 思い返せば、以前仁に「笑顔と慇懃無礼の鬼だ」と言われたり、周りから「立てば芍薬――」などと称されていたっけ。
 しかも家柄に容姿に頭と揃えば、これはもうもてないほうがおかしい。
 光也はどちらかといえば、女はうるさくて勝手な生き物だと思っているから、慶光の真似はできそうにない。
 ジィちゃんの評判落としたらごめんな、と行方不明の慶光に心の中で詫びて、光也はうつむいた。
「オレ、うまくやれてんのかな」
「充分だろう」
「ほんとにそう思うか?」
「思う。僕としてはうまくやれてないほうがありがたいんだがな」
「なんで」
「お前に近づく女が減れば、それだけ嫉妬をしないですむ」
「くっだんねェこと言ってんじゃねェよ」
 ぱこっと音をさせて、仁の後頭部を鞄ではたく。
 彼は叩かれた部分を押さえた。
「痛っ。くだらないとはなんだ。僕はいたって真剣だ!」
「余計ダメだろ」
 歩きながら、二人で軽口を叩き合う。いつからか、こんな関係がここちいいと思えるようになってきた。
 まるで、ずっと前からの親友であったかのような錯覚を覚えてしまうほど。
 それがいくつもの奇跡と嘘の上に成り立っているとしても、光也はこの日々を愛しはじめていた。
 いつか手放さなくてはならない幻だと切り捨てるには、温かすぎたのだ。


 現代の自分の家の何倍だろうか、どっしりと構えた大豪邸が今の光也の帰る場所だ。
 映画のセットのようなのに、現実的なこの世界。
 そこにはちゃんと人間の息づかいがあって、ブラウン管の向こうの出来事ではない、確かな温もりがある。
 仁に手渡された紅茶のカップだって、ほら、こんなにも手のひらに熱い。
 一口含むと、舌に熱すぎて、危うくカップをひっくり返すところだった。
「うあっちい……」
 舌先の痛みをこらえながら、ふぅふぅと息を吹きかける。琥珀色の面にさざなみが立った。
 ふと顔を上げると、仁が微笑みながらこちらを見ていた。
 知らず、光也の頬が赤くなる。
「な、なんだよ」
「いや? 心が和む光景だなと思って」
 仁はすまし顔で紅茶を飲む。その仕草がとても様になっていた。
 端正な顔立ちだ、と思う。光に透ける前髪、眼鏡の奥のエメラルドグリーン、鼻梁は整っているし(ハーフなだけある)、差別のきつかったこの時代ではどうかわからないが 光也の元いた現代ではさぞかしモテるのではないだろうか。
 目にかかった前髪を払う仁に、つい見とれた。
「なあ」
「ん?」
「慶光はモテたんだよな。お前はどうなの」
 問いかけに、仁の動きが一瞬止まる。
 カップを置くかちゃりという音がした。
「どうした、今日は質問が多いな」
「……嫌なら答えなくてもいーよ」
「そういうわけじゃない。……気になるのか?」
「べっ、別に。ただ、なんとなく……」
「なんだ。妬いてくれたのかと思って喜んだんだがな」
「ご愁傷様、それはぬか喜びだよ」
 光也はカップを持ち上げ、視界が湯気でいっぱいになった。白い湯気が、気まずい頬の赤みを隠してくれればいい。
「だれが妬くか」
「僕は妬くぞ。お前が好きだからこそ」
「……」
 最近はこういったやりとりが日常茶飯事になっている。
 仁が光也にちょっかいを出し、迫り、それを光也が青筋を立てながら拒むか、真面目に取り合わず無視を決め込む。その繰り返し。
 うまくあしらえば、最後には必ず仁は引いてくれた。
 たぶん、自分が慶光じゃないからだろうと光也は思っている。
 だから心のどこかで高をくくっていたのかもしれない。
 どこまでの踏み込みから危険領域なのか、光也はその境界を見誤った。
「あ、質問ついでに、もいっこ」
「なんだ」
「お前も、女の色気にムラっときたりすんの?」
 冗談のつもりだったその質問で、明らかに部屋の空気が変わったのを、光也は肌で感じた。
――――――――え。
 だが、後悔しても口にした言葉は消せない。
 混乱する頭にそれでも浮かんだのは、逃げなければ、ということだった。逃げる? どうして? どこに?
 目の前の仁は静かに笑っている。それは、波一つたたない水面のようだった。
「本当に質問が多いな」
「や、やっぱいいっ……」
 立ち上がろうと思うのに、足が床に貼り付いたように動かない。ぞくり、寒気が走る。
 なんでだ、なんなんだよこれ? どうしちまったっていうんだ?
 仁の唇は笑っている――――違う、そういう形に歪んでいるだけだ。
 ぎし、と仁の座っていた椅子が鳴った。
「女を見て、そそると思ったことはない」
 そうかよ、と言葉の一つでも返したいのに、舌が回らなかった。
「僕が欲情するのは、みつに対してだけだ」
「――――!」
 かっと血が上る。光也は今度こそ立ち上がって駆け出そうとした。
 だが、それより仁の方が早かった。腰を浮かしかけた光也の前に立ちふさがり、肘掛に手を置いて光也を見下ろす。
「どけよ」
「嫌だ、と言ったら?」
「力ずくでもどかす!」
「へえ」
 仁の緑は猫科の動物の目だった。食われる、と強烈に思った。
「僕のほうが強いぞ」
「やってみなきゃ……!」
「わかるよ」
 なんでもないことのように仁は言う。
「確かに純粋な力勝負なら、あまり差はないだろうな。だが、お前は駆け引きに長けてない」
 素直は美徳でもあるけどな、と言われたって光也はちっとも喜べなかった。
 ぎっときつく睨みつけた瞬間、何故だか仁の纏う空気がゆるんだように感じ、怪訝に思って気を抜いた刹那、
「だから、油断していると、足元をすくわれるぞ。ほら、こんなふうに」
 仁の声と同時に、ぐらりと光也の身体が傾く。
「っ」
 椅子の背もたれに背骨がぶつかり、柔らかな布に受け止められるように密着する。
 この高級家具は、人が寝そべれる程度には広い。
 ソファに倒れこんだ自分の上に仁が乗っかってきて、光也は混乱した。
「て、め。なにす」
「言わせたいのか? まあ、僕はかまわないけど」
 ぎり、と予想していたよりもずっと強い力で腕をとられる。
 これから何をされるかわからないほど子どもじゃない。
 でも……それと信じられるかどうかは別だ。
「ふざけんなよ……っ」
「ふざけてなどいないさ。僕は真剣だよ、いつも。こと、お前に関しては」
 彼の言うとおり、怖いくらいの雰囲気に呑まれて、わずかに指先すら動かせない。肌がびりびりする、痛い。
 みっともなく泣き叫んで本気で抵抗すれば、彼も興が削がれてやめるかもしれない。
 そんな光也の思考を先読みしたように仁が告げる。
「悔しい? 悔しいなら抵抗していいよ。無駄だろうけど」
「テメェが、こんな最低な野郎だとは思わなかったよ!」
 精一杯の虚勢を張って、怯えていることを悟られまいと試みた。
 仁は簡単にそんな光也を看破し、嘲るように笑う。
「最低……?」
 かかる重みが増して、ぐう、と肺から空気が吐き出される。
「僕の気持ちを知っていて、平気であんな残酷なことを言えるんだから、お前も相当だよ」
「……え」
 はっとして仁の目を見上げると、その緑はいつもの自信に溢れたものではなく、傷ついた色をしていた。
「その無神経さは驚嘆に値するね」
 なんだよ、そんな悲しそうな声で言われたら、なんかオレが悪いことしてるみたいじゃないか。
 どう考えたって、無理矢理やられそうになってるオレのほうが同情されるべきなのに。
 こいつが嘲笑ったのは、ひょっとしたらこいつ自身なのかもしれない――そんな考えが光也の中に浮かんだ。
 背中に感じるソファの柔らかさ。
 掴まれた手首の鈍い痛み。
 なお鮮やかな仁の虹彩。
 紅茶はきっと冷めてしまっただろう。
 思い返せば確かに迂闊だった。仁を傷つけたのだと理解できた。
 彼に謝りたくなって、唇を開きかけたが、瞬間塞がれたせいで阻まれてしまった。
 バカ、「ごめん」って言おうと思ったのに。
 図々しく押し入ってきた舌は生ぬるく、正直気持ち悪かったが、すぐにその嫌悪感は消えて快楽が残る。
 去っていく舌を無意識のうちに追いかけそうになって、慌ててひっこめた。
 シャツのボタンをはずされ、平らな胸があらわになる。
 仁が呟いた。
「別に、男の身体だとか女の身体だとかは関係ないんだ」
 ――――可哀相だなあこいつ、オレを抱いたってそれは慶光の身体ではないのに。
「僕がみつを好きで、好きだから身体に触れたい。……それだけのことさ」
 ――――お前がそんなに好きなみつは、オレとは違うのに。
 いいように服を乱されながら、光也は自分の心が逆に凪いでいるのが不思議なくらいだった。
「……っ、ふ、ああっ、あ」
 仁の指先が光也を捉える。このまま流されてもいいかもしれない。
 でも、光也はそれでも構わないが、仁にとっては知らずに裏切りを犯すことになる。
 彼は光也と慶光を同一人物だと思っているから。
「みつ……」
「く……っ」
 ごめん、でももう、オレも戻れないみたいだ。
「っ……あ、……あっ……はぁっ……はっ……ぅ」
 ごめん、と口に出してみたが、喘ぎにかき消されて仁に伝わったかどうかは判らない。
 ごめん仁、ごめんジィちゃん。
 慶光が帰ってきたら、オレはいらなくなるんだろうか。この時代からも、こいつからも。
 今目の前にあるものを手放したくなくて、光也は熱でぼやけた意識の中、仁のどこでもいい、どこかを掴もうとした。

 温かくて、寂しくなった。


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抑え目で。(06.02.15)