「ごめんやっぱ無理! 今回の話はなかったことに!」
 光也は顔面を蒼白にして後じさった。
「無理って……ここまで来てなかったことにするほうが無理だ!」
 おあずけなんて拷問に等しい、と訴える仁に、男として光也もその気持ちはわからないでもない。
 光也を追い詰める彼の目には切羽詰った色が滲んでいる。それを見て、光也の口の端が引きつった。
 自分でも確かに往生際が悪いとは思う。だがそれでも光也は暴れた。こんなこと言うのは悔しいが、正直怖かったのだ。
 適当に腕を振り回し足をばたつかせ。
 どげし、と痛そうな音がした。
 光也の蹴り上げた足が、見事に仁の腹にクリーンヒットしたのだった。
 仁は痛みに身体を震わせて苦悶している。
 断じてわざとみぞおちを狙ったわけではない。が、おかげで拘束が解けたのは確かだ。
 この機に乗じて光也は仁の下から這い出た。
「わっ……わりい」
 口では謝りながらも身体はベッドを抜け、逃げの姿勢に入っている。
 服を引っつかんで適当に羽織ると、後はこのドアを開けるのみ。
 ありったけの謝罪を早口でまくしたてると、光也はベッドの上に仁を残して部屋を逃げ出した。
 心臓がバクバク言っている。とりあえず急ぎ足で歩く。
 廊下は薄暗い。亜伊子たちはおそらくもう寝ただろうし、屋敷の使用人も一日の仕事を終えて休んでいるだろう。
 誰もいない広く長い廊下を歩きながら服を整えた。
 そしてはたと気付いた。光也が出てきたのは、光也の――というか慶光の部屋なのだ。
 当たり前だ、仁が光也のところを訪ねてきたのだから。
 ということは、自分は今日どこで寝ればいいんだ。光也の足がぴたりと止まった。
 まさか仁の部屋で寝るわけには行かないし、かといって出てきた部屋にまた戻るのも……。
 くしゅん。
 小さなくしゃみをして、光也は肩をさすった。
 夏ならまだしも今は秋もだいぶ深まり、寒くなってきている。
 このまま薄着でうろついていては風邪を引くのも時間の問題で、部屋の外で夜を明かすのは却下だ。
 拳を握り、唇を引き結ぶ。
 とりあえず一度戻って部屋の様子を伺おう。
 そう腹をくくって方向転換、元来た廊下を歩く。深いため息を吐きたくなり、実際吐いた。
「よく考えたらひでーよなあ、これ」
 一度受け入れたくせにいざとなったら怖気づいてドタキャン。しかもみぞおちに一発食らわせて置き去り。
「うわ、よく考えなくてもひでーじゃん……」
 仁に対しての己の非道な仕打ちを反省しながらも、かといってあのまま素直に身を任せることができたかというとノーだ。
 だって、やっぱり、なんか、ほら、その、……だし。
 心の中でぐちぐちと言い訳を繰り返す、女々しいったらない。
 自分の考えに沈んでいるうちに、光也はドアの目の前まで来ていた。
 ちゃんと話して謝ろう。
 意を決して中を覗き込むと、ベッドの脇のランプがぼんやりと灯っており、掛け布団が人型に盛り上がっているのが見えた。
 ……寝てしまったんだろうか。
 光也は恐る恐る近寄った。
 起きているならもう一度謝るし、寝ているなら明日にしよう。
 眼鏡がランプの側に折り畳んで置いてあった。緑色の双眸は隠れている。……寝ている。
 さてどうするか、光也は腕を組んで考え込み、ぶるりと寒気に襲われて二度目のくしゃみが出た。
 あーもーいいや。一緒に寝ちまおう。
 幸いベッドは広く、二人寝たってぶつからずに済むくらい余裕だ。
 仁を起こさないようにそっと潜り込む。毛布の温かさが冷えた身体に沁みこむようだった。
 向きあって眠る彼のほうを伺うと、さっきまでは閉じていたはずの緑の目がこちらを見ていた。
「……!!」
 思わず叫び声を上げそうになって、慌てて口を押さえた。
 仁は真顔だった。
「おかえり」
「た、ただいま」
 寒かったはずなのに汗が流れた。
 仁の手が布団の中から現れ、光也のほうに伸ばされる。光也がぴくりと動いたのがわかったのか、彼は苦笑した。
「もう何もしないよ」
 眼鏡をしていない素のままの顔の仁だった。ふ、と彼は笑った。
「すまない、がっついた」
「で、でも、謝るのはオレのほうで……殴っちまったし」
「ああ、あれは効いたなあ。かなり痛かったぞ」
「悪かったよ」
「それだけ嫌だったんだろう? それなのに、お前の気持ちもくまず先走ったのは僕だ。もうしないよ。お前の嫌がることはしない」
 仁の笑みは優しい。そんな瞳で見ているものが自分であるということに、光也は胸が詰まった。
「嫌……では、ないっ」
「え?」
 仁が目を瞠った。
 光也は恥ずかしいのを我慢して先を続ける。
「ない……が、ただ、ちっとばかし心の準備がだな」
「みつや」
「ごめん。もう少し待って」
 それ以上向かいあっていられずに、光也は反対側に顔を向けた。
 あー、なに言ってんだオレ。恥ずっ。
「待つさ。お前の準備ができるまで」
 その言葉と頭を撫でる手に安心して目を閉じた。身体は温まり、もう寒くはなかった。