――藤沢祥子様へ、敬愛を込めて


 仁を拒みきれずに身体を重ねてしまってから、彼は光也が金星に行くのをそれとなく制するようになった。
 光也は、仁が不安がっているのだということがわかる。
 置いていかれること、拒絶されることを最も恐れている。
 だから突き放せない。それをしてしまえば、おそらく光也は永遠に仁との絆を失うだろう。
 仁と光也には確かなものなんて何もなく、ただ刹那的な行為でのみ繋がっていて、一方で慶と光也にはどうしたって仁の入り込めない現代という領域が、本来の場所があり、それを共有している以上、切り離すのは不可能だ。
 だからせめて、彼は光也と慶とを遠ざけておきたいのだろうと思う。
 光也自身も仁を守るために極力側にいるようにしていたから、自然と銀座のカフェからは足が遠のいてしまった。
 ひとつのことを考えると、他の全てのことが考えられなくなってしまう。脳の許容範囲を超えるものは後回し。
 慶にも以前指摘されたことのある、悪い癖だ。
 それがどれだけ慶を壊すことになるかなんて想像もしていなかった。
 悪気のない無神経さは、ときとしてとても残酷に人を傷つけるのに。


 だからこれは罰であり償いなのだ――――畳に押し付けられながら、光也は痛みに顔をしかめる。
 自分の無神経さに対する、罰。慶を苦しめたことに対する、償い。


 手元の紅茶に目を落とせば、琥珀の水面には慶光にそっくりらしい自分の面差しが映る。
 それを見ながら、ふと、最近慶に会っていないなと思う。
 そんな風に思い出すというその時点で、「慶」という存在が光也の中で希薄になってしまった気がして、急に怖くなった。
 慶、光也が「平成」を感じることの出来るただ一人の人間であり、光也と平成を結ぶ糸。
 「大正」の渦に飲み込まれ流されるのを防いでくれる人。
 そういえば、もうどのくらい会っていない? ……慶に会いたい、慶の顔が見たい。
 最大の関門と思っていた仁に切り出せば、しぶしぶながらも了承を得られた。これには少し驚く。
「いいのか」
 念を押すと、
「賭けで負けた約束を反故にするのでは、僕が卑怯者になる」
 と仏頂面で返答がきた。とりあえず許しが出たのでよしとする。
 そうして、付いてきたがった(おそらくチェスがしたかったんだろう)亜伊子と三人で金星を訪れた。
 ドアを開ければ、カラカラン、と鳴る。中に入るときに、何故だか妙に緊張した。
 店はそれなりにまあ繁盛していて、節がちょこまかと、小さい身体で元気に動き回っている。
「いらっしゃいませっ」
 慶はというと、厨房で何かをカップに注いでいた。
 こちらに気づいて、微笑みながらひらひらと手を振ってくる。
 確か以前に来たときはまだコーヒーの淹れ方も見習い中だったはずなのに、だいぶ手馴れている様子で、いったいいつの間に手伝えるほどになったんだろう。
 久しぶりに会う慶は、少し印象が違って見えた。仁にそう言うと、
「そうか? 僕にはわからないが。……わかりたくもないし」
 ふん、と仁は腕を組んで、足を開いて椅子に座った。薮蛇か。光也は己の迂闊さに呆れかえる。
 仁は光也と慶の仲を妙に勘繰っているようで、もしかして本気で恋敵視しているのかもしれない。
 有り得ないのだから、心配するだけバカらしいのに。光也は思うが、仁にしてみれば笑い事ではないらしい。
 恋って本当に厄介だなあ……その厄介な感情を向けられている当人であるはずの光也は、まるで人事のように仁の横顔を見た。
 不機嫌さもあらわな彼の顔は、ただ一点を睨み付けている。
 光也がそちらに視線を向けると、慶が飲み物を運んでくるところだった。
「慶、まだ頼んでないけど……」
「お得意様だからな、いつもみたいにコーヒーでいいんだろ? それと、そちらのお嬢さんにはサービス」
 にこりと笑って、亜伊子の前にいい香りのするミルクティーのカップを置く。
 亜伊子は喜び、仁は渋面を作った。香ばしい空気を吸い込みながら、光也は尋ねた。
「このコーヒー、慶が淹れたの?」
「ああ。修行中の看板が下ろせる日も近いと思うぜ」
 落ち着いた穏やかな雰囲気で、気安さも併せ持っていて、大人で、いつもの慶だ。
 けれどどこか違和感が拭えない。
「ビショップと勝負して!」
 亜伊子が目をきらきらさせて言う。慶は面倒見がいいし、子供に懐かれるタイプなのだろう。
 そういえばオレもよく付き合ってもらっていた、負けてばかりだったが何度も食い下がって、その度に慶はしょうがないなと言って。
 光也が自分の昔を思い出していると、慶は
「今日は、ちょっと無理だなァ……」
「えぇーっ」
 亜伊子が残念そうに声を上げる。また今度ね、と言いながら慶は接客に戻ってしまった。
「どうする、ビショップ。僕とやるか?」
「……いい……キングよりあの人のほうが強いもん」
 あ、バカ、亜伊子! 光也が焦ってももう遅い、仁は本格的に機嫌を悪くし、光也は気まずさにコーヒーを手に取った。
 亜伊子は失言に気づいていないようで、ちびちび紅茶を飲んでいる。
 それからずっと沈黙が続き、どうすればいいのかと光也が頭を悩ませていたときだった。
「なんか、眠くなってきちゃった……」
 亜伊子がカップを置き、ぽつりと言った。
「じゃあ出ようか。マスター殿もお忙しそうだし。いいだろ? みつ」
 飲み干してしまったらしい亜伊子と違い、仁のコーヒーはほとんど残っている。
 あいつの淹れたものなんて飲めるか、とでも思っているんだろうな……光也はやれやれとため息を吐き、腰を浮かせかけた。
 まあ、慶の顔は見れたわけだし、いいか。
 また来ればいい、そう思ったところへ、
「光也」
 光也が振り返ると、慶がなにやら深刻な顔をして立っていた。
「光也、ちょっと話がしたいんだが……帰らないで上で待っててもらえるか」
「断るっ!」
 仁がダン、と足を踏み鳴らした。
「お前が断ってどうすんだよ……」
 仁に呆れていると、光也、ともう一度慶に呼ばれる。
 彼の雰囲気に、真面目な話なのだと思った。なんだろう、慶光のことだろうか。
「ん……わかった」
 頷いた。すぐさま仁の鋭い声が飛ぶ。
「光也!」
「付きあわせたのに悪ィけど、亜伊子と先に帰ってくんねえ? オレは歩いてでも帰るし」
「僕が言いたいのは――」
 ああ、そんなことじゃないっていうのはわかっている。けれど光也も引く気はなかった。
「悪いな兄さん、こいつ借りるぜ」
 慶がぽん、と光也の肩を叩く。
「……っ」
 悔しげに歯噛みする仁を見て、頼むからもうカップを噛み割ったりしないでくれよ、と心配してしまう。
 悪いとは思う。ただ、平成のことは、慶と二人きりでないと語れないのだ。


 何度か来たことのある慶の部屋。足の低いテーブルの上に、慶光のアルバムが広げて置いてあった。
 開かれていたページには、子どものころの慶と光也の写真が貼られている。
 階段を上ってくる音がしてそちらに目を向ければ、慶。
「待たせたか?」
「いや、そんなでもない」
 言って、少し笑ってしまう。
「なんか、カップルの待ち合わせの会話みてえ」
「はは」
 慶も笑っている。良かった、と思いかけて、目を合わせた。色は違うのに、彼は仁とよく似た目をしていた。
 その瞬間、光也は慶が話したがっているのが慶光の話ではないこと、これから起こることをなんとなく悟ってしまった。
「慶、それ」
 慶の手にはビールの瓶がある。
「ああ……後で、飲もうかと思って」
「こっちのビールって、平成のビールと味が違うのな」
「こら、未成年。叔母さんに隠れてなにしてる」
「固いこと言いっこなしだぜ、慶。あの人に四六時中監視されてると、羽目はずしたくもなるんだよ」
 はぁーあ、と大げさにため息を吐いてみせる。
「そのビール、ちょっと貰っていい?」
「しょうがねぇなぁ……叔母さんには内緒だぞ」
「あったりまえじゃん。つーか、いないんだから……ばれるわけ、ないし」
 光也は笑って、うまいとも思わないビールを喉に流し込む。喉を焼く感覚に、ふと涙が出そうになった。
「サンキュ」
 慶に瓶を返すと、彼は複雑な表情でそれを受け取った。
 ひょっとして、怯えているのを気づかれたかな、と思う。
 別に、気づかれたって次の行動が変わるわけでもなし、構わないのだけれども。
「慶、平成でビール何飲んでた?」
「エビス、とか……アサヒだな」
「うわ、エビスってちょっと高めじゃね? リッチ」
「なんで知ってるんだ……。だから、未成年だろお前は」
 平成を思い出すように、光也は慶と色んなことを語った。くだらないことをたくさん。
 よくもまあ話題が尽きないものだ、年もそれなりに離れているはずなのに、意外と同じ題材で話せる。
「なんかさ、たまにすんげえカップ麺食いたくなるときとかない?」
「ああ、まあ……な」
「今頃新しいCD出てんだろうな、とか、あのTVドラマ終わっちまっただろうな、とか」
「ああ」
「そういうの、ふって、考える……」
 普段は忘れてしまっているような、自分を取り巻いていた世界のことを考える。
 さっきから慶の相槌にはどこか熱がない。
 なのに、逆に光也はアルコールのせいか高揚している。そしてわざとそれを強調している。
 光也は大正に来て、理屈じゃなしに知ったことがある――――人間の狂気ともいうべき感情のことだ。
 唐突にふっとこみ上げる、狂気。狂気は普通の顔をして日常に織り込まれている。
 そういった狂気を、光也は今、肌で感じていた。
 潰されるのではないかと思うほどの強い力で抱きしめられた。一瞬呼吸が止まった。
「慶」
「どうして、ずっと来なかった?」
「仁が……嫌がって」
「俺は一人でバランスを取るのが難しくなっちまってる」
「ごめん……」
「光也。お前は、ちゃんといるよな? 俺の作り上げた妄想なんてことは、ないよな?」
 腕の力がさらに増した。
 だが、たとえやすやすと振り解けるような弱い力で抱きしめられていたとしても、光也には慶を突き放すことは出来なかっただろう。
 仁とよく似た目。あれは、とてつもなく深い不安をたたえた目だ。
「大丈夫だ。慶、オレはちゃんといる――――」
 言い終える前に畳に背中がぶつかった。光也は自分を押さえつけている男を見上げる。
 圧倒的な凶暴さでねじ伏せられ、怖くないと言ったら嘘になる。
 身体の大きい大人の慶は、男というよりもオスという感じがした。舌と共に牙でも覗きそうだ。
「お前には悪いが、俺が……確信できるまで」
 ごくりと喉がなる。
「――――逃げられないと思え」
 慶にこんな真似をさせる原因を作ったのは光也だ。
 悪気のない無神経さで、慶を傷つけた。
 だからこれは罰であり償いなのだ――――畳に押し付けられながら、光也は痛みに顔をしかめる。
 自分の無神経さに対する、罰。慶を苦しめたことに対する、償い。
「あの子の茶にな、酒を混ぜた……。今日お前が来た最初から、ずっと俺はこうするつもりで……」
 光也だって、まずいとしか思えないビールを飲んだのはわざとだ。素面では、本気で抵抗してしまうかもしれなかったから。
 酒の入った今だって仁を思い出している。彼としたのは、柔らかなベッドの上だった。
 こんな、布団も敷かないただの畳の上で獣のように犯されていると、その硬さが仁とは違うことを告げる。
 真上から口を割られる。流れ込んでくる唾液を、光也は嚥下した。
「んっ……」
 苦しくてもがくが、がっちりと押さえ込まれていて身じろぎすらままならない。
 慶からは獣の匂いがした。
 腰周りをくつろげられ、ズボンの中に慶の手が潜り込んできたかと思うと、ズボンと下着を足から引き抜いた。
 上着は脱がされるのではなく、胸の辺りまでたくし上げられる。
 晒された部分を吸う、または歯を立てる、慶の口。
「つっ」
 光也の喉がのけぞった。
 肌を這う舌の感触に、勝手に身体が反応してしまう。わき腹を撫でる熱い手のひらは大きく、荒々しい。
 唇がポイントを辿っていく。弱い箇所を突き止められては暴かれた。
「んっ、う」
 慶は平成に残してきた女とかいるのかな……そんな考えが浮かぶ。だがそれも、すぐに熱に浚われてしまう。
「あ……? ぐっ……!」
 口の中に指が突っ込まれた。
 ぐちゃぐちゃと出し入れされるそれを、嘔吐きそうになるのを堪えて舐める。丁寧に舌を使い、絡ませる。
 やがて慶は指を引き抜き、光也の唾液で濡れた指が下肢に、その奥に触れる。
「あ!」
 受け入れることに慣れていないそこに、指が入ってくる。光也は身体を捩ったが、無駄な抵抗だった。
 中で指が曲がり、光也を探る。光也は一生懸命に息をしようとした。息継ぎがうまくいかない。
「――――……っ」
 頭を振ると、長い前髪が目にかぶった。慶が唇でそれを除ける。唇と指の優しさがてんでばらばらだ、と光也はぼんやり思う。
 ぐるりと回転して指が出て行くと、息つく暇もなく勃起したものが侵入を始めた。
 身体を引き裂かれるってこんな感じなんだろうか。痛みに気が遠くなりかける。
「はっ……ぁ……!」
 他人の肉を無理矢理自分の中に含まされている恐怖。自分の存在が土足で踏み荒らされるような、略奪に遭っているような、そんなイメージ。
 がくがくと痙攣しながら光也は目をいっぱいに見開いた。
 慶は手を伸ばし、近くにあった座布団を取って光也の腰の下に差し入れると、光也の足を抱え、ぐ、と、より奥へ挿入する。
 がむしゃらに突かれて、光也は高音で喘いだ。快感が追いつけず、激しい痛みが連続で襲ってくる。
「あ! くぅっ……! ん……はあっ、あぁ」
 自分の声が切れ切れに聞こえる。壊れちゃうんじゃないだろうか、と思った。
「あ、ああっ、ん――――っぁ……!?」
 痛みの中に確かにキャッチできる別のものが、光也の反応を劇的に変えた。
 嘘だろう、俄かには信じがたい。だがこれは紛れもなく快感で、光也に甘い声を上げさせる。
 人間の身体って浅ましい。独り善がりだったはずの動きにも順応してしまえるのだから。
「……あ、あぁああっ!」
 びくびくと震え、光也は昇りつめた。その筋肉の収縮を利用したのか、慶も達したようだった。
「っ……み、つや……」
 光也の目に映る世界が急激に色を失っていく中で、慶の瞳だけがぎらぎらと光っている。
 頭に浮かんだのは、そのまま吐き出されてしまったということだった。仁にだって中で出されたことなんてなかった。
 ああでも、もう限界だ。これ以上目を開けていられない。
 遠ざかる意識の中、最後に声が聞こえた。
「ごめんな」
 謝らないでくれよ……。
 光也は思い、それきり、あとはひたすら真っ暗だった。



紅茶に酒じゃなくてウイスキーボンボンにしたかったんですが、
大正12年ごろじゃないとなかったので断念。
(06.03.07)