目をそらせ、耳をふさげ。



_______+臆病な恋の贖罪+___




柚木印の(と、香穂子が勝手に思っている)鍵のおかげか、次の水泳の授業は何事もなく過ぎた。
「すごい柚木先輩。こんなところでも威力抜群なんて」
さすがだ。
その効果に香穂子は一人感心し、事情を知らない菜美に胡散臭そうな目を向けられた。
その目がふと、髪を上げた香穂子の首筋で止まる。
そこには、2センチ×2センチの小さな正方形の絆創膏が貼られていた。
「あんた、まだ消えてないの、キスマーク」
「あー、なんかお姉ちゃん、かなり強めにつけたみたい……。そう、ひどいんだよ! 聞いてくれる」
「なに?」
「なんにも覚えてないんだって、張本人が! あげく開き直って逆切れだよ! 謝りもしないんだから」
「それはそれは……」
「ほんと、妹って損だよね」
「いやー、妹とかいう以前にあんたが無防備すぎ……」
「え? どういう意味?」
「もうちょっと気をつけなさいってこと。色々とね」
つん、とほっぺたをつつかれる。
香穂子はむー、とむくれてみせた。
「わけわかんないよ」
「わかんないのが問題なの」
子どもを諭すような口調で菜美が言った。
皆そうだ、と香穂子は思う。
皆、香穂子が知らないことを知っているみたいだ。
香穂子だけが取り残されている――――否、香穂子だけが歩くのをやめているのだろう。
あと数歩進めば、視界に入ってくるものがあるのだ。
それは香穂子の知らない『何か』。
自分の理解できないものに対して、本能的に抱く恐怖が、香穂子の足を竦ませる。
その正体を見極めるには、きっと香穂子は子どもすぎた。
そして菜美の言うようにそれこそが――――問題であり、香穂子の罪なのだ。
6月が終わろうとしている。




放課後、練習をしようとヴァイオリンを携えて森の広場へ向かう。
今日は何を弾こう、と考えるのは楽しい。
香穂子の口角は自然と上がり、気持ちも上向きになっていく。
うん、明るい曲にしよう、と適当な場所に落ち着いたとき、後ろから声をかけられた。
「香穂子?」
その声がどことなく自信無さげだったのは、おそらく香穂子が声の主に背を向けていたからだろう。
振り向いた香穂子に、彼は安堵の微笑をくれた。
「あ、月森くん」
月森蓮――音楽科二年で、専攻楽器は香穂子と同じヴァイオリンで、コンクール中香穂子にとっていいライバルだった彼。
「君だと思ったんだが――普通科の制服でヴァイオリンを弾く生徒は君ぐらいしかいないだろうし。ただ」
「ただ?」
「その、髪形が違ったので少し戸惑ってしまって」
今日の香穂子の髪は、まとめてアップにしてある。
「うん、プールの後はたいてい上げることにしてるんだ。じゃないとセーラーが濡れちゃうし……」
「そうなのか。君は水泳をとっているんだな」
「月森くんは?」
「俺は前期の体育は陸上の短距離だが。指に負担が少ない」
「あ、じゃあ和樹先輩もそうなのかな。元陸上部だし、走るの好きって言ってたから。だから水泳とらなかったのかも」
「火原先輩?」
「そう。この間ね、お昼一緒したときにその話になって」
「火原先輩と、二人きりでか……?」
「えっ? ううん、柚木先輩も一緒だったけど」
「そうか、なら……余計悪いな」
「え、なに?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
月森は軽く首を振ってそう言い、腑に落ちないながらも香穂子はそれに従う。
無意識のうちに絆創膏へと手を当てたのは、菜美との会話を思い出したからだろうか。
香穂子の指先が触れた部分に、月森が気づいた。
「怪我をしたのか?」
「え」
「絆創膏が貼ってあるようなので」
「あ、ああ! うん、ちょっとね」
実はこの下にキスマークが隠れているのだ、とは言いづらい。
月森の顔が曇った。
「気をつけたほうがいい。君は少し、自分の傷に無頓着なところがあるから……」
「大丈夫、ちゃんと指は守るよ」 
「いや、指だけではなくて――傷の部位がどこでも。君に怪我などして欲しくないんだ」
え、と香穂子は目を瞬いた。
月森は、香穂子自身を心配してくれているのだ。
ヴァイオリン奏者としての香穂子だけではなくて、普通科としての香穂子をも。
「ありがとう、嬉しい」
つぼみがほころぶような笑顔、それは心の底から自然に浮かんできたものだった。
何故か返答のない月森に、香穂子はそのままの笑顔で続ける。
「ね、せっかくだから合奏をお願いしてもいいかな。……月森くん?」
「! あ、ああ、かまわない」 
森の広場に、二本のヴァイオリンの美しい旋律が響く。
その周りには、足を止めて聞き惚れる者の姿が多く見受けられた。



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