志水くんて、可愛い。 それがいつも志水についてまわる形容詞だった。 今までは気にしたことなんでまるでなかった、だって他人が自分をどう思っていようが志水には関係なかったので。 けれど最近、なんだかすごく気になるようになった。 「……ぼく、かっこよくないのかな」 「志水くん?」 ぽつりと言った言葉は、隣を歩いていた香穂子に聞こえていたらしい。 日野香穂子。志水のひとつ上の先輩で、普通科の二年生。そして、志水の彼女。 「あ……いえ、なんでもないです。すみません、香穂先輩」 「そう? 何かあったら言ってね。私じゃ頼りないかもしれないけど」 香穂子はそう言ってくれたが、こんなこと、彼女にこそ一番言いたくない。 僕が男らしくないんじゃないかって。 僕が先輩と釣り合ってないんじゃないかって。 僕が、後輩だからダメなんじゃないか、なんて。 そして志水は、香穂子が悲しそうな顔をした瞬間を見逃した。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― 同じ学年だったら良かったのに、と思わなかったことはない。 せめてあと一年早く生まれることが出来ていたら、と。 しかし香穂子は2年生で、そうして志水は1年だ。先輩と、後輩。高校時代の一年は大きい。 雑音が耳に入る。 志水は知っていた。 香穂子と同じ普通科の2年生で、香穂子のことを好きな生徒がいること。 普通科だけじゃない、志水と香穂子を結び付けてくれたあのコンクールを通して、香穂子を好きになった生徒は、音楽科にだっていた。 いまや学院の有名人となった彼女が告白をされたらしい、という噂が聞こえてくるたびに、それは志水の手をぶれさせた。 だから、香穂子に「志水くん、なんだか音が彷徨ってるね?」と言われたときは、どきりとした。 「え……そう、ですか?」 「うん。なんだか、不安な感じ」 「そ……」 そんなことありませんよ、と言おうとして出来なかった。嘘だったからだ。 言葉を途切れさせてしまった志水に、香穂子は表情を曇らせた。 「やっぱり、何かあったんじゃない? 私には言えない?」 志水は黙ってただ首を振った。 こんな情けない自分を、香穂子に知られたくなかった。 知られたら、呆れられる気がして怖かった。 「ごめん、私、おせっかいだったね。ごめん」 「そんな、先輩が悪いんじゃないです、僕が……僕が、」 僕が、ダメ、だから。 「志水くん……?」 「すみません、僕が悪いんです。先輩は――関係ないんです」 香穂子の手から楽譜が零れ落ちた。 練習室の床にひらりと散らばった楽譜は、志水と香穂子の間にも境界線を作る。 「……やっぱり、私じゃいけないのかな」 香穂子が言った意味が一瞬わからず、遅れて理解したとき志水は目を見開いた。 「他に好きな人がいるんなら、はっきり言ってくれないと、私バカだからわかんないよ」 「な」 「やっぱり、同じ音楽科とか、同じ年の子のほうが、志水くんにはあってるんじゃないかな」 「なんで!」 普段穏やかな彼にしては滅多にないことに、志水は思わず叫んでいた。 「なんで、そんなこと言うんですか」 なんでなんて、さっきの志水もまったく同じことを思っていなかったか。 先輩には、年下で科も違う僕なんかじゃなくて、もっとあう誰かがいるんじゃないか、なんて。 本当は、自分以外の誰かが香穂子の隣にいることになるなんて、耐えられないくせに。 香穂子は志水の怒りに気付いたのか、少し怯えた様子で言った。 「だって、いっつも私に聴こえてくる音が、今日は聴こえないんだもん」 「違います、先輩、そうじゃない!」 「だって……だって、私知ってるの。志水くんのクラスで――ううん、隣のクラスだってそう。志水くんと付き合いたいって思ってる子がいるの、そういう子たちに私がどう思われてるか、知ってるから」 ああ、と志水は息を吐いた。 僕だって知ってます。先輩のことを見ている人たちを。あのコンクールで、先輩に気付いてしまった人たちを。 「先輩。僕も、同じです」 どうしてわからなかったのだろう。 志水が年下であることを気にしていたように、香穂子もまた、自分が年上なのを気にしていたのだ。 科が違うことを、歳が違うことを、不安に思っていたのは志水ひとりではなかったのだ。 香穂子だって、同じだったのだ。 香穂子は涙で濡れた目を上げる。 「え……」 「それが不安で。先輩には、僕なんかじゃいけないのかなって……。だって先輩は凄い人だから。最近落ち込んでたの、そのせいだったんです。こんな風に先輩を泣かせてしまうくらいなら、最初に言っておけばよかった」 「……そうなの?」 「はい。僕、かっこいいって言われたことないし。男らしくないのかなって、悩んじゃって」 大真面目に言った志水に、香穂子は軽く吹きだした。 「志水くんはかっこいいよ」 「良かった」 「うん」 「そうじゃなくて。ええと、それも嬉しいんですけど……笑ってくれたから」 志水がふわりと微笑むと、香穂子が真っ赤になった。 慌てて誤魔化すようにしゃがみこみ、床に落とした楽譜を拾い始める。 志水も気付いてそれを手伝いながら、彼女の赤い頬の辺りを見てなんだか嬉しくなった。 集め終わった楽譜を香穂子に手渡そうとして、思いついて彼女の手に手を重ねた。 「先輩。僕はもう、周りの音は気にしません。先輩も、雑音とか気にしないで、僕の音だけを聴いててください」 本当にかっこいいよ志水くん、と香穂子は言ってくれて、それは志水にとって何よりも嬉しい形容詞になった。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― BACK |