以前よりも音楽準備室にいるようになったのは、誰にも邪魔されずに彼女と二人きりになれるから。 ここで煙草をふかさなくなったのは、彼女が匂いを気にするのではと思ったから。 前より真面目に教師という仕事と向き合うようになったのは、彼女のおかげで熱を取り戻せたというのもあるが、なにより他の生徒を指導したり相談に乗ることで、周囲に彼女だけが特別扱いではないように見せ、同じ「指導」「相談」という名目で彼女と頻繁に会っているのをカモフラージュするために。 金澤の学院生活は、自分と彼女――日野香穂子のために動いていた。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― なんとはなしに机の上のプリントなどを手にとって脇へ押しやったり、軽く片付けたりしながら香穂子の訪れを待っていると、控えめなノックが耳に届く。 表情には出さないが、内心そわそわと金澤は鍵を開けた。 「金澤先生」 お気に入りの女生徒、から気になる女へ、そして恋人へと変わった存在がはにかみながら立っていた。 「よ。来たな」 中へ招き入れると、再び鍵をかける。 香穂子以外の生徒の入室を許可するときも鍵をかけることにしているから、周囲に不自然だと疑われることはないだろう。 「せんせ」 「ん？」 「わたし、先生のこと好きですよ」 「……何言ってんだお前さん」 香穂子はにこにこと無邪気に笑う。 香穂子は――見かけだけは――屈託がない。その実、心の中に不安を抱えているだろうに。 金澤にだってわかっている。自分たちは教師と生徒で、おおっぴらにできるような関係じゃない。 隠れて付き合うという今のスタンスが、伸び盛りのしなやかな枝のような香穂子をどれだけ抑えつけているか。 「せんせい」 いつもの先生、ではなくて少し舌ったらずなひらがなに聞こえるのは、香穂子がなんだか切なげな顔をしているからだ。 「背中向いてもらってもいいですか」 素直に従うと、背中にぽすんと軽い音とぬくもりが生じる。 「なんだ、今日はやけに甘えただな」 驚きが声に少し滲んでしまったかもしれない。 触れられて心臓が跳ねることを、この少女は知っているのだろうか。 「日野」 そう呼ぶと、ぴくん、と動いたらしいのが伝わってくる。 「なんか、実感して」 身体を震わせる白衣越しにくぐもった声と、直接耳に届く声とが二重になってくすぐったかった。 金澤は振り向かずに聴いた。 「実感？」 「すごく好きだなって」 「……相変わらず直球だなあ。反応に困るから不意打ちは勘弁してくれよ」 「もう一度呼んでくれますか」 「何を？」 「名前」 言うとおりにもう一度、彼女の名前を舌に乗せる。 「日野」 いつも呼んでいる名前。もうひとつのほうは、呼んだことがない。まだ、呼べないでいる。 ふたりきりの時くらい呼んでもいいかと思ったこともある。でも制御が出来なくなるのが怖くてやめた。 香穂子に力を貰ったといっても、金澤は未だに臆病だ。 教師と生徒という垣根を全て取り払うことを、自分に許してはいけないと思う。 それに、金澤一人の問題ではない。香穂子はまだあと1年あるのだ。 「先生」と「日野」。「教師」と「生徒」。 背中の香穂子はもう一度「せんせい」と呟いた。 ひらがなで「せんせい」。その他大勢とは違うのだと思ってしまう声の甘さは、金澤の己惚れだろうか。 「わたし、せんせいの声が好きです。せんせいに日野って呼ばれるのが好きです。せんせいの声がわたしの名前を呼ぶの、好きですよ」 金澤自身の単なる情けなさの所為なのに、それを香穂子はそう言ってくれるのだ。 発音は同じでも音色が違う。他の誰かが呼ぶものと音は一緒でも、そこに混じる甘さが違う。 ああ、と金澤はうなった。 充電完了、と離れた香穂子の目は、またいつもと変わらずきらきらと明るく輝いている。 にっこり笑うと、少しいたずらっぽい表情をみせた。 「中学の同級生が、結婚するんだそうです」 「そりゃまた早いな」 「先生が私のこと、下の名前で呼んでくれないのは今までちょっと不満でした」 「は」 「でも、それで気づいたんです。私が日野って呼ばれる時間って限られてるだろうから、今のうちにいっぱい呼んでもらうのもいいかなって」 「おい、それって」 「ではそろそろ失礼します、金澤先生」 来たときと同じくはにかんだ笑顔で、香穂子は部屋を出て行く。 さりげなくとんでもない発言をされた金澤は、口元に手を当てて言われた意味を噛み締めた。 「……マジか」 やはり自分はどこまでも、彼女に弱いのだろう。 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― BACK