「香穂子ちゃんっ、ごめん、遅れた!?」 楽譜をまとめていた香穂子は、笑っていいえと否定した。 「火原先輩、ごめんなさいはわたしのほうです。わざわざ送り迎え手伝ってもらっちゃって」 「だって大変でしょ? それにおれ、先輩なんだから。もっと頼ったっていいぐらいだよ」 放課後の教室に、紅と橙の夕日が差し込んで、息を呑むほど美しい色に染まる。 混じりけの一切ない空気が、これから紺になるにしたがってだんだんと重くなっていくのだろう。 「ええと、じゃあ……お言葉に甘えて、少しわがままを言ってもいいですか?」 香穂子がそう言うと、火原は嬉しそうに顔を輝かせた。 「なに? なんでも言って!」 「これからお花屋さんに行って、それから屋上に行きたいんですけど」 「花屋……で、屋上? って、学校の屋上?」 「はい。……遅くなっちゃいますよね、やっぱり無理ですか?」 「ううん、おれは構わないけど……」 「ほんとにごめんなさい」 「違うよ香穂子ちゃん」 「……ありがとうございます」 「よし。じゃあ、いこっか」 「はい」 ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― 車椅子を押してもらいながら、香穂子は後ろの火原に話しかける。 「昔、車椅子ってちょっと憧れませんでした?」 「あ、わかる。なんかかっこよく見えちゃったりするんだよね、松葉杖とかギブスとか」 「でも、それってすごく不謹慎ですよね。だって、怪我してる本人はきっと大変なのに。そんなたいした怪我じゃないわたしでさえ、こんな風に人に迷惑いっぱいかけてるんだから」 火原は香穂子に迷惑じゃないよ、と言ってくれて、つけたした。 「うん、おれもね、その人の痛みとかちっともわかってなくて、ただ見た目だけでかっこいい! とか思ったりして。そんなのめちゃくちゃ失礼だし、ダメだよなぁ」 「わたしも、わかってなかった」 エゴイスティックな、押し付ける演奏だった。ずっと。 けれど、金澤や柚木や、リリやヴァイオリンが教えてくれた。 痛みと、傷と、地上の光景を。 空にばかり向けていた目を、今度はまっすぐ前に向けよう。 一緒の空気を吸って、生きていこう。 自分に必要だから音を生み、余ったものを無理やり与えるのではなくて、相手から欲しがってもらえるようになろう。 そんな風に、自分の感情を弾くだけではなくて、人の痛みのわかる演奏がしたい。 空の色が次第に変化していく。 カラフルな店先で、車椅子の女子高生と、それを押す大荷物の男子高生が止まった。 「ここ?」 「はい。すみません、ちょっと待っててもらえますか?」 「え、欲しい花があるんならおれが買ってくるよ。香穂子ちゃんは大人しく座ってなって」 「ううん、自分で行きたいんです。自分でやらなくちゃ意味がないから」 「そう……か、わかった。でも、気をつけてね! 転んだりしちゃダメだよ」 膝の上に載せていたヴァイオリンケースを降ろして、香穂子はそっと立ち上がった。 松葉杖で店内に入ると、白い花を探す。なんとなく、白が良いような気がしていたのだ。 松葉杖を花の入ったバケツにひっかけないように注意しながら、香穂子はユリを一本、アスターを一本選んだ。 むせかえるような甘い香りの中で、火原が小さくせきをするのが聴こえた。 香穂子は大急ぎで会計を済ませる。 「お待たせしました」 「ううん。……あ! 香穂ちゃん、3分時間ちょうだい!」 言うが早いか、戻ってきた香穂子を車椅子に座らせると、火原は店内に入ってしまった。 残された香穂子が待った時間は、おそらく3分もかからなかっただろう。 火原は赤いガーベラを一本持って出てきたので、その花をどうするのだろう、と思わず見てしまうと、目が合った彼はにっこり笑った。 「はい、おれからお見舞い」 「え?」 可愛らしい一輪は、火原の笑顔そのものといった感じで、微笑ましい。 差し出されて、香穂子はそれを受け取った。 「ありがとうございます……ふふ、嬉しい」 「どういたしまして」 なんか照れるね、と言った火原の頬は夕焼けの最後の光で赤くなっていて、視線を膝に落とせば香穂子の持っている白いはずの花も、うっすらと赤みがかって見えた。 屋上へと続く階段を、ゆっくり一段ずつのぼっていく。 「香穂子ちゃん、大丈夫?」 「へっき、です」 片手に松葉杖、片手に花を持って、確実に近づいていく。 それまで香穂子の後ろにいた火原が、ドアの前に先に立ち、両手のふさがった香穂子のためにドアを開けていてくれた。 「すみません」 「いえいえ」 風が香穂子の髪を撫でていく。気持ちよくて、思わず目を細めた。 青い空は消えて、これから滲みこむように夜がやってくる。一日が死ぬように終わって、生まれ変わる瞬間。 香穂子は自分が飛び降りたあたりの柵から、下を覗き込んだ。 「香穂子ちゃんっ?」 火原がぎょっとして声を上げるのを、振り返って大丈夫だと笑ってみせた。 これは儀式だ。自分の足で立つための。 一度傷ついた足は、これから回復していく。 そうしたら、そこからもう一度立ち上がり“なおす”のだ。 今までの香穂子は、ヴァイオリンに支えられていた。だけど今度は、自分の力だけで。 「ありがとう。――――さよなら」 過去の自分と、自分を守って壊れてしまったヴァイオリンへ。 香穂子は白い花をそっと落とした。 全てを捨てて、終わりにして、また始まりがやってくる。 決別は少し痛いけれど、必要なのだ。 流れた血は固まって、その下からあらわれる肌は新しく、綺麗だ。人は生きているから。 目を閉じれば最後の音が聴こえた気がした。 それが完全に消えてしまってから、香穂子は満足してくるりと火原のほうを見た。 「帰りましょうか」 「もういいの?」 「いいんです。全部終わりましたから」 言い切った顔は火原が思わず見惚れてしまうくらい美しかったのだが、香穂子はそれを知らない。 ひとつ深呼吸をして、香穂子は足を踏み出した。 さあ。 Fin. ――♪―――――――――――――♪―――――――――――――♪―― BACK |
あとがき
読んでくださってありがとうございました。
最後の最後で火原が一番おいしいところをかっさらっていきました。
この香穂子は愁情が突出して高め、技術は最初低かったけど上達し、BPはあまり稼いでいません。
時期的には3セレ〜最終セレ期間中ですね。
柚木は「香穂子」呼びなので4段階まで済み、下校を一緒にする仲でした。朝は約束はしていませんが、よく一緒になります。
金澤とは作中で「夢のあとに」イベントが起こって3段階。ですが親密度はかなり高いです。
月森が魔法のヴァイオリンを認めてるので、こちらも3段階済み、そして火原は「香穂子ちゃん」呼びなので逆ポイントの3段階。
ちなみに衣装は金澤の一番好み(=火原三番目、冬海三番目)の組み合わせです。
タイトルはすべてリリイ・シュシュ関連からお借りしました。
最後の花が百合なのはそのせいです。それとアスターは花言葉が「さようなら」らしいですよ。
「リリイ・シュシュのすべて」、映画は見たこと無いんですが、本は読みました。
この映画、子犬のワルツの二人(ノッティーとともくん)が出てるんですね。
VALONでSalyuに興味を持ち、タイトルだけは知っていた「リリイ・シュシュのすべて」と出会い、
SalyuことLily Chou-Chouの歌を聴いてから、もう好きで好きで、恐れ多くも全編そのイメージで書いてみたわけですが。
あの雰囲気を出せたかどうかは……まあかなり微妙ですけれども、それなりに満足のいく話が書けたかな、と思います。
それなりに、というのは、予定していた方向とかなり違った方へ行ってしまったからです。
初期のイメージでは、柚木は香穂子を失い、香穂子は金澤のものになるはずでした。
けれどさすがは柚木様、素直に香穂子を諦めてはくださいません。
もっとずたぼろになる香穂子と、香穂子の叫びに自分の思い上がりを自覚する柚木、ずるい大人な金澤が書きたかったのですが、
この辺りは私の筆力が足りずに……。
一番書きたかったのは、屋上からヴァイオリンを抱きしめて飛び降りる香穂子でした。
脳内でぱっとそのシーンのスローモーション映像が閃いて、それを表現するためにこの話が出来たといっても過言ではないくらい。
最終一つ前ファイルに柚木と金澤が対面するシーンを入れるつもりでしたが、
そうすると必然的に柚木が金澤に負けてしまうことになるので(金澤がとあることを悟っているせいで)やめました。
この後、おそらく柚木と金澤で五分五分の戦いが繰り広げられると思いますが、ちゃっかり火原が参入するかもしれません。
実は「君の音楽の彩り」、一歩手前。
金やんはなんとしても告白イベントを起こして他の男との恋愛を潰さないといけませんね!
優先順位低いですから。
あ、無粋なつっこみをしてしまうと、足の骨がぶらぶらするくらいぱきっと折れているなら、1日入院じゃすみません。
包帯なんかじゃなく、ギブスが必要です。
普通に松葉杖で歩いていますが、当分安静にしてないといけません。
本当なら柚木に押し倒された後、なによりもまず病院に行くべきです。
でもそうすると雰囲気出ないので(笑)他にもいろいろとありえないところ満載ですが、まあフィクションですからと思ってください。