ゴールデン・デイズ小話ログ


もし現代に帰るなら、夜がいい。
仁が寝ている夜のうちに、誰にも気づかれずに帰ってしまって、朝には慶光が戻ってきている。
そんなのがいい。
光也が消えたことを少しだけ悲しんで、慶光を大喜びして迎えて、そうしてときどき光也のことを懐かしんでくれればいい。
笑い話みたいに、「お前が光也という人格だったとき、素行も成績も悪くなっててびっくりしたぜ」なんて言ったりして。

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おそらくきっかけは些細なことだったんだろう。
僕にはもう思い出せないくらい、些細なこと。
不用意な発言が彼を傷つけたということはわかるが、僕の言ったことの、さていったい何が彼の逆鱗に触れたものか。
それでも落とされた喧嘩の火種は、あっという間に広がって燃え上がって取っ組み合いにまで発展した。
取っ組み合い、というか――光也が一方的にこっちに掴みかかって来ている感じだったけれど。
「どーせっ、バカだよ……っ!」
彼は顔を真っ赤にして、僕のネクタイを掴んだ。
ぐいぐい引っ張られて苦しいので、悪かったよ、と彼をなだめてみる。
「何が悪かったかほんとにわかってんのか」
しまった、油を注いでしまったようだ。
激昂した彼はますます強くネクタイを引っ張る。
僕は首を絞められまいとなんとか抵抗するが、かなり苦しい。
思わず涙目になってしまうほど苦しい……おい、なんでお前のほうが泣いてるんだ?
僅かに首周りが緩み、僕は呆気に取られながら呼吸をする。
光也は顔だけでなく目も真っ赤にして、
「オレは、確かに慶光よりバカかもしんないけど、でもな、バカはバカなりに、考えてんだってこと、無視すんな! お前に否定される筋合いはねえんだ!」
泣きながら怒鳴る彼も、結構苦しいのだろう、息が上がっている。
僕はそれを見ながら、どうしようもない気持ちになる。
酸欠も手伝って、心臓を直接ぎゅっと掴まれているような切なさだ。
光也という存在が、僕をそうさせるのだ。
「言っただろ、オレはお前の隣に立ってんだって! お前がオレを心配するように、
オレもお前が心配なんだって、どうしてそんな簡単なことをわかんねえんだよお前はっ!!」
彼は叫んだ後、うつむいて本格的に泣き出してしまう。
声を出さないようにか、強情に噛み締められた唇から目が離せないでいると、
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かっていたことじゃないか。そう、初めからわかっていたこと。
オレは慶光じゃなくて、慶光にはなれないし、慶光にはかなわない。
床に打ち付けられた頭がずきずき痛んだ。
自分の身体に圧し掛かっている仁の顔は、胸に押し付けられていてよく見えない。
「お前のせいなのか」
さっき否定したはずの強烈な罪悪感が、また襲ってくる。
オレのせいじゃない。オレは悪くない――たぶん、それは正しく、光也はどちらかといえば被害者で、奇妙な運命に巻き込まれただけだ。
それでも、打った頭よりも胸を痛ませるこの罪悪感!
光也は顔に降ってきた水滴を拭うこともせず、仁の叫びを受け止めている。
返せ、と何度も悲痛な声が響く。光也にはわかってしまう。どれほど仁が、慶光を好きなのか。本気で慶光を求めているか。
でも、なら、それじゃあオレは何?
オレはいらないじゃないか。光也は必要とされていない。やっぱオレじゃだめだよ、ジィちゃん。
この世界で異分子であっても、仁が認めてくれているならいいと思った。
その仁が光也を否定した、それは全世界から否定されたのと同じことだ。
目の奥がじわりとした。
違う、泣きたいんじゃないんだ、濡れて寒いだけ――光也は無理矢理唾を飲み込み、ごめんと呟いた。
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が関東大震災の話をしてくれたとき、思い出したことがある。
こっちに飛ばされる前、でかい地震があった。
お袋が階段から落ちそうになって、オレはそれをかばった。
そのまま気づいたときには大正の道路で倒れてたから、考えたことなかったんだけど。
もしかしなくても、あのまま階段から落ちてたら、オレは大怪我をしてたんじゃないだろうか。
「で、お前は、じいさんがお前を助けるために、仕方なくお前を飛ばしたと思ってるわけか」
慶の言葉に、オレは頷いた。
「だって、ジィちゃんはきっと、自分が来たかったと思うんだ。なのにそうしなかったのは、なんでかなって考えたら……他に理由を思いつかなくてさ」
「まぁ、普通は階段から後ろ向きに落ちりゃ、頭打って下手すりゃお陀仏だもんな」
「ジィちゃんの声が聞こえたって言ったろ? もしも時が戻るなら、アイツをきっと助けに走るのに――って。ジィちゃんは時を戻して、自分で助けたかったんだよ」
「ふぅん」
慶は面白そうな顔をした。なんていうか、大人の笑い方だった。
上から頭を撫でられてるようで、オレはあんまり面白くない。
「お前はそういう考えに行くわけね」
「異議あり?」
「そうだな、例えば俺は、俺が来たのはお前を助けるためだったと思ってるけど」
何気なくさらっと、そういうことを言う。
大きな手が伸びてきて、くしゃくしゃっと、本当に頭を撫でられた。
やっぱり子ども扱いされている。
でもオレはそれを振り払うことなく、ただ慶の手が離れたあと、乱れた髪をぱっぱっと直しただけだった。
「どーせ、オレは慶の助けが必要な未熟者だよ」
「いや、お前は凄いよ、光也」
慶の口ぶりは普段どおりだから、全然凄いように聞こえないんだけど、目を見れば、本気でそう思ってるんだってことはわかる。
「じいさんはお前に託したかったんじゃないか。自分じゃできなくても、お前ならやってくれるんじゃないかって。そう思わせるところがあるよ、お前には」
黒い目の中に、一瞬、コーヒーみたいに苦いものがよぎった。
「……慶も、オレに託したいことがあんの」
慶は笑って、今度はさっきより強くオレの頭をぐしゃぐしゃにした。
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「みつー?」
ひとつぞんざいなノックをして部屋に入れば、彼は長椅子でうたた寝をしていた。
無防備な寝顔を晒し、聞き取れないくらい微かな息、死んでいるんじゃないかと不安になるほど静かな眠りだった。
もし時折柳眉が顰められていなければ、仁は迷うことなく彼の胸に耳を押し当て、心臓の拍を確かめていただろう。
仁が光也の額に指先をやり、髪に触れると、彼は初めてそこで「ん」と苦しげな声を上げた。穏やかだった呼吸も次第に乱れだす。
……悪夢に捕まっているのだろうか。
仁は傍らにしゃがみこみ、光也の顔に目線を合わせた。
それが合図だったかのように、彼の目が開く。
現れた黒の双眸はやや潤みながらも、ひたりと仁に据えられた。
「あれ……じ……ん?」
いつもなら、寝起きでこれだけ接近していると殴り飛ばされるものなのに、光也は寝ぼけているのか「そっか仁か」と呟いただけだった。
ごく小さなあくびをして、しばらくまつ毛を瞬かせる。
「んー……。ゆめ、見てた」
どんな、と仁が聞き返すより先に、彼は話し始める。
「どっか庭園で……昼で、けっこ明るくて、なのに迷路みたいになってて……お前が俺から逃げやがる」
その淡々とした説明に、もしや彼はまだ夢の住人なのではという思いを抱く。
「あんまり逃げっから、俺はキレて……」
切れた?
「何が切れたんだ?」
「あ、えーっと――――……堪忍袋の緒?……が、キレて? なんで逃げんだよって怒鳴ったら、お前、笑うんだもんな。性格悪いったらねぇ」
「夢だろ」
「夢だけど、でも、お前って人間をよく表した夢だと思う」
「ひどいな」
「正当な評価だ」
その言葉に苦笑しながら、仁は立ち上がった。
光也の顔に少しずつ血の色がさしてくるのがわかり、いつもの彼が徐々に戻ってきているのを感じてほっとする。
彼にはできるだけ苦痛から遠ざかっていて欲しい。
あんな顔を、いつまでもさせておきたくはない。
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はお前の望みはなるべく叶えてやりたいんだよ、と彼は言った。
 事実、仁は光也を甘やかす。仁だけに限らず、こちらのおおよその人間が光也を甘やかした。
 それは光也が記憶喪失になった可哀想な慶光だからだったり、慶光の身分のせいであったり、変貌前の人柄のせいなのだろう。
 なら、光也が望むのは。光也は仁を正面から見つめた。
「じゃあ、オレを一人で立たせてくれ」
 甘やかされるほどに、寄りかかりたくなる。それではいけない。甘やかされっぱなしなのは違うと思う。
 助けてもらうのではなくて、オレは、お前を助けたい。
 一方的に支えられてるだけじゃ嫌なんだ。一緒に歩きたいんだから。
「オレはお前と対等でいたい」
 言い終えた光也の黒髪が揺れる。
 沈黙、一秒、二秒、三秒。
 仁は組んでいた腕を解いて、きっぱり言った。
「無理だな」
「……は?」
 人が真面目に話していたのに、いきなりぶち壊されて、光也は呆気に取られて口を開けた。
「え、……え?」
 呆気に取られているうちに胸倉を掴まれて、すわ殴られるのかと思ったら、口付けられた。
 さっきから予想が覆されっぱなしだ。
 シリアスな雰囲気はいずこへ? 光也が目を白黒させて仁を見ると、彼は真面目くさって言った。
「光也」
 こんなところだけシリアスっぽくったってどうする、と光也は思う。
「恋愛なんてより惚れたほうが負けなんだから、どうしたって僕はお前に弱いんだ」
「……」
 光也は諦めにも似たため息を吐いた。
「それならやっぱ対等だ」と教えてやらない自分はずるいのだろうか、と考えながら。
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ろからばっと抱きつかれて、光也はつんのめりそうになった。
 こんなことをするのはこの屋敷に二人しかおらず、そして一人は百合子と出かけている。
 光也は残ったもう一人の名前を呼んだ。
「……仁! いきなりなんだ、離せっ」
 仁は光也の首筋に顔を埋めるようにしたまま、動かない。
「温かいな、みつは」
 何言ってんだこいつ、
「……まぁ、生きてるしな」
 体温あるし、さっきまで暖炉の側にいたし、と繋ぐ。
 仁の腕に込められた力が少し強くなった、と思った瞬間に、彼の声が聞こえた。
「僕はずっと冷たい水の中にいたんだ……」
「は!? お前、この時期に水に入ったの!? 風邪引くって!!」
 光也は振り返ったが、仁の茶色い髪しか見えない。
「……そうじゃなくて」
「じゃあなんだよ」
 わけわかんねえ、と光也はぼやいた。
 仁が今どんな表情をしているのかもわからないし。
 ただ、温かい、と繰り返した仁の声の響きはいつもとちがってひどく真面目な雰囲気で、振り払うのがためらわれた。
 光也は身体の力を抜いて、仁の好きなようにさせることにした。
 大人しくなった光也を不思議に思ったのか、仁はもぞ、と頭を動かした。
「もう離せとは言わないのか?」
「それでお前の気がすむならいいよ。甘んじて抱きしめられててやる」
 でも少しの間だけだからな、とつけたす。大サービスだ。
 抱きしめられながら、光也は聞こえる心臓の音を数えていた。
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「ごめんな」
「なぜ謝る?」
「オレは、お前から慶光を奪ったんだ」
「謝るな……」
「お前に慶光を裏切らせた」
「お前のせいじゃない! 僕の――僕が勝手に、お前を好きになったんだ」
「だとしても、やっぱりオレも同罪だよ」
 なぁ、お前、本当に引き返せねぇの?
「でももう遅いんだ、僕はお前に出会ってしまったから」
 それでも光也のことが好きだ、なんて、聞きたくない……。
 耳を塞いでしまえたらどんなにか。けれどオレの手は仁に捕えられている。
「……ごめん」
「謝るなと言っただろ」
 でも、謝るほかないじゃないか。
 仁、お前は知らないだろうけど、オレ、きっとこのままだと、もう一個罪を犯すよ。
 いつか来る別れの日に、何万回の謝罪でも足りない罪。
 オレはお前から『慶光』を奪って、お前が代わりに手に入れたはずの『光也』まで奪うんだ。
 だからジィちゃん、早く帰ってきて。オレが仁のものになってしまう前に。
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友。――――男色関係にあること。
「で、僕とみつがそうだって?」
「……」
光也は真相を知って呆然としていた。
だってまさかあの亜伊子の口からそんないかがわしい単語が出るなんて思わねぇじゃん!
格好のネタを提供してしまった。自分から罠に飛び込んだようなものだ。信じられない失態。
光也は今すぐ時間を戻したくなった。
ジィちゃんオレにも奇跡の力を! もしも時が戻るなら、二度とこんな言葉の意味を尋ねたりしないのに!!
けれど、不純な動機じゃ神様も時間を巻き戻してはくれないらしい。畜生。
「亜伊子に、まつりとやらの誤解を解くよう言っておかねぇと……」
つうかとんでもねぇガキだ。人をなんだと思ってやがる。失礼にも程があるぞ。
光也は己の迂闊さを誤魔化すために、まだ子どもの亜伊子の友人に八つ当たり気味のことを考えた。
「まぁ待て」
「……なんだよ」
むっつりと光也が答えると、仁は輝かんばかりのいい笑顔で言った。
「このさい誤解ではなく真実にしてしまうという手もあるぞ」
「は?」
「よし光也、僕が念友の意味を教えてあげよう」
え、意味ならもうわかったからいいよ……という言葉は、仁のつけたした「実地で」というセリフで吹っ飛んだ。
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