アリカ・ユメミヤは走っていた。風のような速度で走っていた。
すれ違った人間を弾き飛ばす勢いで、城の中を疾走していた。
茶色い髪の毛が旗のようになびく。
いきいきとした頬は薔薇色、青いスカートの裾を絡げて、声の限りに叫んだ。
「マシロちゃーん!」
その声が重なった。
「マシロさまー!」
「あ、アオイさん! マシロちゃん見つかりませんかっ」
廊下の角から現れたアオイに、アリカは息せき切って尋ねた。
アオイはやや疲れた顔で首を振った。アリカも溜息を吐いて肩を落とす。
これだけ探しても見つからないとなると、やはりすでに城の中にはいないのだろう。
アリカたちを振り回す捜し人はマシロ・ブラン・ド・ヴィントブルーム。
アリカのマスターで、ヴィントブルームの女王陛下だった。
「もう、マシロちゃんったら、いつまでたってもお忍び癖が抜けないんだから」
アリカはぷりぷり怒りながら言った。朝にマシロの脱走が発覚してから、今日はずっと走りっぱなしだ。
建てたばかりの新生風華宮はさほど広くはないが、それでもやはり城は城。
隅々までくまなく探すのは、それなりに大変だった。
アリカは、これだけ大変なことを昔から繰り返しているはずのサコミズが何故痩せないのか不思議でならない。
「実はあの人、捜索は他の人に任せて自分は待ってるだけだったり……?」
「アリカちゃん、何か言った?」
「いえ! あ、アオイさん、あたし外を探してきますね」
アリカは更に走る覚悟を決めて、心配げな表情のアオイを励ますように声をかけた。
「マシロちゃんはお忍びの天才だけど、あたしだって走るのも鬼ごっこもかくれんぼも得意だから、まっかせてください!」
発展途上の胸をどんと叩いて笑う。アオイも安心したように笑った。
「そうね。すでに何人か捜索隊を出してるけど、マシロ様を見つけるのはアリカちゃんが一番適役な気がする」
マシロとアリカのコンビはアオイにも、いや、彼女だけでなく今や国中どころか国を越えて認められるところだ。
そしてアリカ自身にも、マシロ女王の乙-HiMEだという自負がある。
だからこそこんなに怒っているのも、事実なのだったが。
アオイの期待のこもった視線を背に、アリカは再び駆け出した。耳につけた青い輝石に、そっと指で触れる。
いついかなるときも共にあると、誓ったのに――――マシロちゃん。
城が完成してからのマシロの働きぶりには、目を瞠るものがあった。
以前のわがままクイーンとはまるで別人のように、国を思い、必死で勉強をし、より良い政治を行おうと努力をしていた。
はたで見ていて心配になるほどの頑張りようだった。
そんな彼女の姿に、民の支持も戻り始めていた。マシロはまるで希望の光だった。
城のてっぺんのひまわりを模した飾りが、マシロという太陽のために咲き誇っているかに思えた。
アリカは誇らしかった。マシロはきっと立派な王様になるだろう。自分は、彼女をずっと隣で支えていこう。
見ていて、エルスちゃん、ニナちゃん、お母さん。
そう決意したアリカは、マシロに負けず劣らず頑張った。
苦手だったダンスも、なんとか見れるようになった。猛特訓のおかげだ。
なにせ、ジパングの王子様をお迎えするのだから、オトメであるアリカはちゃんと「花」としての役目を務めなくてはならない。
マシロのオトメとして恥じないようになろうと思って。マシロのために。一生懸命。それなのに。
人ごみの中、きょろきょろと辺りを見回しながら、アリカは呟いた。
「なんで、よりによって今日、脱走なんてするかなぁ……」
今日来るのだいらっしゃるのだお越しになるのだ、そのジパングの将軍家嫡男、鴇羽巧海頭忠頼様が。
ジパングは東方の神秘の国。
これまで他国との関わりをあまり持たなかったのだが、黒い谷がヴィントの側に出現して以来、巧海は何度もヴィント訪問を希望しているらしい。アリカはそうマシロから聞いた。
彼がヴィントに足を踏み入れるのは、表向き見合いと称してやってきたときと、風華宮の落成式のときと、そして今回で三回になる。
マシロは口では否定しつつも、なんだかんだ嬉しそうだった。どうもまだ彼にほのかな好意を抱いているらしい。
ついには「そうじゃな、いっそのことわらわが正常な道に戻してやればよいのじゃ!」などと、妙な決意を固めてもいた。
アリカにはよくわからなかったが、たぶんあの御付の男の子との例のアレ、に関係することだろうと思う。
そしてアリカも、マシロ女王のオトメとして同席するため、前述のように猛特訓をして今日に臨んだわけなのだ。
「なのになんで、せっかくのお出迎えの日にどっかいっちゃうのよぅー」
しかもアリカに黙って。
女王としての自覚も芽生えたと思っていたのだが、と嘆いていたサコミズやアオイの顔を思い出し、アリカもわめき散らしたくなった。
ここのところ激務が続いていたから、マシロも息抜きがしたかったのかもしれない。
それにしたって、相談くらいしてくれてもいいではないか。
なにせ自分はマシロのオトメなのだから、言ってくれれば一緒に脱走だっていくらでもしてあげたのに。
サコミズが胃痛で入院するようなことを考えながら、ぷぅ、とアリカは頬を膨らませた。
広場のあちこちに出店があり、子どもの楽しげな声が聞こえる。
花を買い求める女性や、噴水の周りを散歩するカップル、休日を満喫する賑やかな家族。
街は活気に溢れ、人々は笑顔を取り戻しつつあった。
先の戦いにより壊れた建物も、修復作業が進んでいる。
傷とは癒えるものなのだ。
肌で感じるヴィントの復興具合に嬉しくなり、マシロは目深にかぶった帽子を少し上げた。
長い髪はまとめられ、簡素な服装と相俟ってぱっと見、少年のように見える。
こうやってこっそり街に出るときは変装が必要なのだ。
「マイ、舞衣! わたしはあれが食べたいぞ!」
きらきらとしたはしゃいだ声が耳に届き、マシロは嘆息した。
歩く騒動のようなアリカと一緒に来たのでは悪目立ちするだろうと考えて連れてこなかったのに、これでは全く意味がないではないか。
小型の嵐のような少女の顔を思い浮かべ、ふと笑みがこぼれそうになる。大切な友人。マシロのオトメ。
「まーい!」
再びの声に、マシロは前方の「悪目立ちする騒がしい連中」を見た。
猫神様でありアリカの師匠でもあるミコトと、マシロの師匠である舞衣と、舞衣の弟でジパングの王子である巧海。
ミコトは舞衣の腕をぐいぐいと引っ張っていて、その輝く瞳は、屋台のアイスに向けられていた。
舞衣はミコトの頭を撫でると、振り返った。
「はいはい、買ってあげるわ。……巧海とマシロちゃんも食べるでしょう?」
舞衣の言葉に、巧海は彼女の手を取った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「わ、わらわは……」
「ん?」
舞衣はミコトに腕を引かれ巧海と手を繋いだまま、マシロの顔を覗き込んできた。
舞衣のこの母性溢れ出る笑顔を前にすると、マシロはつい甘えたくなってしまう。
母のぬくもりなどマシロは知らないが、きっとこんなふうに優しくてあったかくて、抱きしめられると気持ちいいのだろう。
「……チョコミントがよい」
マシロが頬を染めながら答えると、「オッケー、チョコミントね」と舞衣は腕についた二人と共に屋台へと足を向けた。
その後にちょこちょこと付いていく。
どうやら巧海とミコトは舞衣をめぐって争奪戦に突入したらしい。
三人の背中を見ながら、ライバルはあのニンジャだけでなくここにもいるのだな、とマシロはなんとなく思った。
男に加えて師匠がライバルか。前途は多難そうだ。
この状況を見て、アリカはなんと言うだろう?
さしずめ「シスコンはマザコンよりマシってばっちゃが言ってた!」とかだろうか。
容易に想像できて、思わずマシロは吹き出した。
「どうしたの、マシロちゃん?」
「な、なんでもないのじゃ。……ありがとう」
不思議そうな舞衣からチョコミントを受け取り、ちろりと舐めると、冷たい甘さが舌に染み込んだ。
ほてった頬を冷ます甘さだ。ミントのおかげか、心が涼しくクリアになっていく気がした。おいしかった。
四人で噴水のふちの水がかからない場所に腰掛け、食べながら談笑した。
ミコトはアイスにむしゃぶりついて口の周りを盛大に汚し、舞衣に拭いてもらっていた。
対して巧海は食べる仕草にも気品があり、様になっている。
わらわはどうじゃろう……。通り過ぎる人々を見ながら、マシロは考えた。
民に、国に、アリカに、恥じない女王として振舞えているだろうか?
あっという間に食べ終わってしまったミコトに、自分の食べ途中のアイスを渡して、舞衣はうんと伸びをした。
「涼しくて気持ちいいー」
空気が噴水の水をくぐって澄んでいる気がする。
ヴィント市街は、舞衣がガルデローベにいたころとはだいぶ様変わりしていた。
数年前、卒業間際に出かけた旅行で迷い込んでからはずっと黒い谷にいて、そこから出ることはなかったのだ。
「でも、あんまり久しぶりって感じはしないな」
「そうなの?」
巧海が少し驚いたように訊いた。
ミコトはアイスをたいらげるのに夢中になっていて、マシロは雑踏を眺めながら何かを考え込んでいるようだ。
舞衣は微笑んで頷いた。
「外の世界をミコトに見せてもらってたから。ジパングのこともね」
この子は今年でいくつになったんだっけ――――溶けかかったアイスを舐める弟の無邪気な横顔を、舞衣は見た。
現在の巧海は子どもというには大人すぎ、大人というにはやや子どもすぎる。中間期。子どもと大人の狭間。
少なくともこんなふうに甘える年ではないのだろうが、きっと今まで会えなかった分を取り戻そうとしているのだろう。
舞衣がガルデローベに来るまでは本当にべったりの姉弟だったのに、それから随分寂しい思いをさせてしまったのだなと思うと、自分も出来るだけ彼に甘えさせてあげたかった。
何も言わずに行方不明になったせいでどれだけ心配をかけたか、再会したときに身に沁みた。
舞衣の知る巧海は聡明な王子だったが、まだ幼かった。けれど、もう彼はあのころのままの巧海ではない。
映像だけではわからなかったことが、実際会ってよくわかった。
「大きくなったね、巧海」
「うん」
舞衣が言うと、巧海は照れくさそうに笑った。
そもそも、彼のために自分はオトメになろうとガルデローベの門を叩いたのだった。
彼の肩にかかる重荷を、少しでも代わりに背負ってやりたくて。
「私はもう巧海のオトメにはなれないけど、ずっと巧海のお姉ちゃんでいたいんだ。だから、こうやって会えるのはすごく嬉しい」
「そんなの、当たり前じゃない。お姉ちゃんは何があったって僕の大切なお姉ちゃんだよ」
巧海が残ったコーンの欠片を口に入れると、ぱりぱりと軽い音がした。
舞衣は目を細め、髪の毛をかきあげて耳たぶに触れた。
「そういえばマシロちゃん、アリカちゃんは元気?」
「……ああ。最近はダンスの練習で疲れ果てておるようじゃが」
答えるマシロの舌は少し水色がかっていた。
「あはは。オトメは強くて美しくなきゃダメだもんね。アリカちゃんも大変だ」
ガルデローベ時代を思い出し、舞衣はくすくす笑った。
満足げに腹を撫でるミコトの口を拭いてやり、マシロに向き直る。
「じゃあ、マシロちゃんはどうなの? 無理してない?」
「無理をするくらいでなくてはダメなのじゃ。わらわは王なのだから」
マシロは決意を秘めた眼差しでそう言った。
マシロから貰った手紙に「この目でまた民の生活を見たい」と書いてあったのを見て、「それなら僕が協力するよ」と提案したのは巧海だ。
互いに身分を隠して初めて出逢ったときのように、城に籠っていたのでは見えないヴィントの部分を一緒に回ろうと書いた。
姉にも助力を頼んだ(これには個人的な希望もあったが)。
午前中四人で歩いて、以前訪れたときよりこの国は良くなった、と巧海には思えた。
確実に前進していると。
そしてそれは、マシロが自分のやるべきことを理解したからではないかと。
なのに、姉と話すマシロはどこかつらそうだ。
巧海は舞衣と顔を見合わせた。
それからどちらからともなくふっと笑うと、口を開いた。
「どう思う? お姉ちゃん」
「うーん、ちょっと耳が痛いかな」
ジパングの姫でありながら数年にわたり所在知れずだった姉は、そう言って苦笑した。
「でもねマシロちゃん、無理しすぎるのも良くないのよ?」
「だがわらわが頑張らねば……!」
「うーん、たとえばね、あれ見て」
舞衣が指差したのは、先ほどアイスを買った店だった。
様々なフレーバーのあるボックスは色鮮やかで目にも楽しい。
「アイスは美味しいけど、ひとつのコーンにあれもこれもって載っけたら、倒れちゃうでしょ? それに、一度に全部食べようとするとお腹を壊すかもしれない。そういうのと同じことじゃないかな。ね、マシロちゃんは一人じゃないんだから。自分だけで持とうとしなくていいんだよ」
マシロはじっとアイス屋を凝視している。
舞衣はミコトに抱きつかれながら穏やかに微笑んでいる。姉のこういうところがとても好きだ、と巧海は思った。
巧海と離れていた間、きっと舞衣は巧海の知らない色んなことを見て、知って、経験して、考えたのだろう。
「さて、そろそろお昼だし、私とミコトは帰ろうかな」
「えっ……もう?」
自分の声が明らかに残念そうな響きを含んでいて、巧海は内心恥ずかしくなったが、本音なので仕方がない。
「巧海とマシロちゃんも、お忍びはほどほどにね。晶くんたちにあんまり心配かけちゃダメよ」
って、私が言うなって話だけどね、と舞衣は舌を出した。
立ち上がった舞衣がミコトを背負って、噴水に座ったままの巧海たちの方を向く。
そこに、一陣の風が舞い込んできた。
巧海は僅かに目を瞠った。
側のマシロが驚いたように「あ」と言った声が聞こえた。
「やっと見つけたあー!」
舞衣の後ろに見える、息を切らせた姿。
マシロのオトメ、アリカだった。
(未完)
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