おはようございます、とキスをくれるときの柔らかな笑顔が好きだ。ああ古泉だ、と思う。
 決まって幸福で胸がいっぱいになって、泣いてしまいそうになる。
 古泉が心配そうにどうしたんですかと尋ねるから、俺はなんでもないと答えて身体を起こした。
 すぐに長い腕が追ってきて、引き止めるように腰に絡む。
 裸の背中に、すり、と甘えた仕草で顔をこすりつけられた。
「……もう少しだけ、こうしていませんか? せっかくの休日なんですから」
 二十三歳の甘えん坊は、こちらがいいとも駄目だとも言わないうちに俺を胸の中に抱き込んで、勝手に耳の後ろやうなじを唇で吸った。
「んっ……今日、出かけるって言ったのは、お前だろ」
「そうですね。だから、もう少しだけ……ね?」
 ふかふかのベッドの上で抱きしめられていると、意識がゆっくりと溶けだしていくようで、このままでもいいかという気持ちになってしまう。
 このままずっと、こうして、檻のような腕に閉じ込められ続けるのだ。
 もぞ、と身じろぐと、足に不快な感触が触れる。
 シーツに滲みこんだ体液やローションの成れの果て。
 ベッドはとても広くて、シーツも当然ながらそれに見合うだけの大きさを持ち、洗うのが毎回大変だった。
 精液だけならまだしも、血がついていると落とすのに手間がかかる。
 でも昨夜の古泉は優しかったから、今日は漂白剤の出番はなさそうだ。
 一時期は本当に怖かった。下手なホラー映画よりよっぽどホラーだった。
 俺が女と話したり、言っていた時間より帰りが遅くなったりしただけで古泉は荒れて、物が壊れたり、部屋の中がぐちゃぐちゃになったり、服が駄目になったり、身体に新しい痣が増えたりした。
 そして嵐のような時間が去った後、古泉は俺を抱きしめて泣きながら謝るのだった。
 ごめんなさい、あなたが好きだ、いかないで、ずっと僕のそばにいて、ごめんなさい。愛してるんだ。
 一緒に部屋を片付けて、傷の手当をして、血のにじんだ唇にキスをした唇で、俺のことが死ぬほど好きなのに、愛し方がわからないのだと古泉は言う。
 本気で古泉が死んでしまうんじゃないかと思ったし、救ってやりたいと願っても、俺自身も痛いことだらけで、無力で惨めな自分を思い知らされてばかりいた。
 だが、このあいだ俺が古泉に乞われたとおりに仕事をやめてから、今のところ古泉の機嫌はいいようで、昨夜のセックスも幸せなだけだった。
 言うとおりにさえしていれば、古泉はとても優しい。
 俺は古泉の狂気に触れないように息を潜めて生きている。
 たぶん、本当はこんな関係はまともじゃないんだろう。
 それがわかっていても抜け出せないのは、きっと俺も狂ってしまっているんだ。恋
 愛は精神病の一種って、誰が言ったんだっけ?
「んん……」
 しばらくぬくぬくと体温の移った布団の気持ちよさを楽しんで、ようやく起きる気になったのか首筋に埋めていた顔を上げて古泉が俺を放す。
 俺は身体を反転させて正面に向き直り、古泉のキスを受け止めた。
「おはよう」
 もうだいぶ日が昇っちまってるからお早くはないけどな。
 それから二人してシャワーを浴び、服を着替えて、俺がキッチンに立つ間に、古泉は出かける支度をし始める。
 やかんを火にかけて湯を沸かし、マグカップに熱湯を注いで暖めておく。
 昨日は和食だったから、今朝は洋風にした。オーブンに入れたクロワッサンはあと少し。フライパンの上のハムには卵を落として、黄身は半熟程度の硬さ。コーヒーにはミルクと砂糖。
 ――――こうやって、食卓に古泉の好物を並べるために料理の練習をした。
 それまで着ていた服を処分して、古泉が好きな色ばかりを身に纏うようになった。
 飲み会や残業で帰宅が遅くなるのを許してもらえなくて、やっと仕事のノウハウを覚えて楽しくなってきたところだった職場に退職願を出した。
 家にいろと言うから、どうしても必要な最低限の外出以外しなくなった。
 僕のほかに誰も見るなと抱きしめられて、家族や友人知人との接触を絶った。
 古泉の持ち家だと言う二人で暮らすには広いマンションの一室に住み、古泉の部屋の古泉のベッドで眠り、古泉の買ってきたものを調理して食べ、古泉の選んだ服を着て、古泉の帰りを待ち、古泉と風呂に入り、古泉に抱かれる。
 今の俺は古泉のためだけに生きているようなものだった。俺の全てが古泉のために存在していた。
 俺は古泉以外の何もかもを遠ざけ、俺自身すら失い、俺には古泉しかいなくなる。
 古泉が大事だった。古泉の笑顔が見たかった。古泉が笑ってくれるならそれでよかった。
 古泉が壊れてしまうくらいなら、俺が我慢すればいいんだと自分に言い聞かせた。
 俺がこいつのそばにいてやらなくては。
 古泉が好きなものは俺も好きになったし、古泉が嫌いなものは、俺も。
 だが、俺にもひとつだけ、絶対に古泉と同じ想いを共有できないものがあって、古泉は自分を嫌っていたが、俺は、古泉のことをどうしても好きだった。