久しぶりに冷え込んだ日だった。
 昼になってもあまり気温があがらず、暖房のきいた電車からホームに降りるとその温度差に驚く。
 風が強くて、冷たい空気がコートの下に潜り込んでくる。
 駅の改札を抜けて、色彩のぼやけた、どこか寂しい三月の空を見上げた。
 太陽がはっきり出ればもう少し暖かくなるのに。
 細い腕が僕の腕をぎゅっと抱きしめるように絡みつき、こちらに注意を向けようと引き寄せてくる。
「さっむぅ〜い。ね、いっちゃん」
 弾力のある胸が押し当てられ、ふわふわの巻き髪が肩を跳ね、ピンク色のグロスが塗られた唇がぷっくりと膨れた。
 寒いのも当然だろうという短いスカートから足が伸びている。
 ハルミのことを、僕の友人たちは「あんな可愛い子が彼女なんていいよな、しかも巨乳だし!」などとこぞって羨ましがるが、僕にはいまいちよくわからない。
 確かにルックスは抜群にいいし、胸も大きくて、どうせ誰かと付き合うなら相手の見た目はいいに越したことはないと思っているのも事実だが、それは僕が、誰と付き合っても結局は変わり映えがしないことを知っているからだった。
 どんな美少女も僕にとってはただ「彼女」という肩書になったにすぎず、みんな同じだ。
 定期的にデートして、一緒にいて、キスをして、ときどきセックスもする。それだけ。心にまでは食い込まない。
 僕は告白というものをしたことがない――――いつだって。
 ハルミもそう、好きです、付き合ってください、と言ってきたのは向こうのほうからだった。
 そのころ僕は前の彼女と別れたばかりでフリーだったし、特に断る理由も問題もなかったので、別にいいかとなんとなくで付き合って、そろそろ三か月になる。
 これを言うと怒られそうだが、それなりにやることもやっているにもかかわらず、彼女に対して愛しいという感情は僕の中にはなかった。
 付き合ってと言われるままに付き合ったように、きっと、別れてと言われても同じように簡単に別れられる、その程度だ。
 薄情かもしれないが、どうも恋愛に関してそこまでの熱を傾けることが出来ない。
 ドラマの中のような激しい恋なんてノンフィクションの世界にはなくて、みんな現実にはこんなものだったりするのかもしれない。
 そうやって適当に楽しければ、それでいいんじゃないか?
 そんな風に思う僕は、たぶん不実な男なのだろう。
 そういえば前の彼女も、その前の彼女のときもそうだった。
 僕はたまたま容姿に恵まれていたようで、好意を寄せてくれる女の子は大勢いたし、彼女たちはみなそれぞれ魅力的な部分があったが、僕から好きになった相手は一人もいなかった。
 諦めの混じった刹那的な生き方しかできない。
 こんな僕でも、いつかは誰かを本気で愛しいと感じるようなことがあるのだろうか。好きで好きで死にそうになることが。
 まだ二十年も生きていないのだし、出会えていないだけで、もしかしたら、どこかにそれだけ好きになれる相手がいるのかもしれない。死ぬほどの恋に、落ちることがあるのかもしれない。
「あーん、どきどきするぅ。ハルミだけ落ちてたらどーしよお? 自信ないよ……」
 オクターブ高い声、ばっちりとマスカラを塗った黒い睫毛が上向く。
 媚を多分に含んだそれは、同性の反感を買い、異性の心をくすぐるものなのだろう。
 彼女を可愛いと思わないこともないが、それは胸を温かくする類の感情ではなくて、空を見て青いとか灰色だとかいう感想を持つのと同じような、単なる評価でしかなかった。
 ああでもそういえば、ハルミ、という彼女の名前の響きだけは、なんだか心惹かれるものがあって、彼女を呼ぶたび胸がざわめくのを感じる。
「ハルミより僕のほうが落ちてるかもしれないよ?」
「えー、いっちゃんなら大丈夫でしょ。あったまいぃもん」
 駅から流れた人の波は同年代の男女が多く、みな同じ方向へ繋がっている。午後一時から大学の合格発表なのだ。
「えへへっ」
 たった今まで不安がっていたくせに、彼女はもうはしゃいだ声を上げて、掴んだ腕に頬をすり寄せてくる。
「なに?」
「いっちゃんがかっこいいから、みんな見てるねぇー」
「ええ?」
 というよりも、べたべたと腕を組みながら歩いているせいで悪目立ちしているのだろう。
「いっちゃんはぁ、ハルミの自慢のカレシだもん。だから、がっこがバラバラになったら不安なの。だって絶対もてるでしょ? そぉしたらね、ハルミのことなんて忘れちゃうかも」
「そんなことないよ」
 苦笑しながらそう言いつつも、まず間違いなくそうなるだろうなと思った。冷たいかもしれないが真実だった。
 大学の掲示板前にはすでに人垣ができており、喜んだり、携帯を構えて番号を撮っていたり、肩を落としていたりと反応も様々だ。
 僕たちも自分の番号を確認し、数字を探す。
 目当てはすぐに見つかって、ほっと安堵がこみ上げる。
 手ごたえは感じていたが、やはり実際に合格するまではそれなりに不安だったのだ。
 隣の彼女も「あったぁ!」と小さく手を叩いた。
「おめでとう。僕も受かってた」
「ほんとぅ? よかったぁー……、これで春からいっちゃんとおんなじ大学だねっ」
「そうだね。あ、受かったって先生に連絡入れないと」
 人垣から離れて携帯を取り出し、学校にかける。
 三年間お世話になった高校の担任は、僕らの合格の報告を電話の向こうで我がことのように喜んでくれた。
 電話中の僕の腕を彼女が引いて揺らす。
「ね、合格祝いにどっか寄ってご飯食べて遊んでこ?」
「待って、まだ話してるか……」
「キョーン! お前どうだった?」
 ざわめきの中からそこだけはっきり耳に飛び込んできた声に、僕の心臓は痛いくらいどくりと跳ねた。
 何かの発作を起こしたように耳の奥がきぃんと鳴って、ばくばくと胸を叩く鼓動が全身まで響く。
 苦しい。急にどうしてしまったんだ。
「……いっちゃん?」
 ハルミの呼びかけに、はっと現実感が戻ってくる。
「なんでもない。話し中だから、もう少し静かにしてて」
 心配させないように笑って答えたが、痛みの記憶は依然として残っている。
 ――――なんだったんだろう、今のは。





※古キョンです