そうだ確か、最初におかしいと感じたのは、八月の半ばを過ぎた頃だったように思う。
 その日の朝、夏休みだというのに珍しく早く(当社比)起きた俺は、目を擦りながら階下に降り、すでにそこにいた母親と妹に挨拶して、シリアルに冷たい牛乳をぶっかけた朝飯で腹を満たした。
 今日も暑いな、とただそう思ったのを覚えている。
 妙な予感めいたもので胸がざわついて、その摩擦で生まれた熱が肌の内側を浸食するように広がっていく。
 俺よりも先に起き、俺よりも先に朝食を食い終わっていた妹は、ソファの端でクッションを抱きしめてテレビを見ていた。
 子どものほうが体温が高いイメージがあるが、あいつは暑くないのかね。
 顔を洗って部屋に戻り着替えた俺は、リビングのソファの上でごろりと横になったものの、どうにも暑い気がして耐えきれず上着を脱いでしまった。
 できるならジーンズも脱ぎすてたいところだったが、たとえ兄の入浴中に平気で乱入してくる妹であっても、年頃の女の子のいる前でそんな配慮に欠けた真似ができるわけがない。
 しかしなぜこんなにも暑さを感じるのだろう。
 実際、室内の温度は別に高くないのだ。
 空調はきちんと効いているし、冷蔵庫にあったキンキンに冷えた麦茶を飲み干したばかりだというのに、この身の内を舐める火は一体どこからくるものなのだろう?
 夏風邪でも引いたかな。
 俺はすぐ横でクレイアニメを見ている妹を呼び、
「すまんが、ちょっとおでこを貸してくれ」
「いいよぉー、でもその代わり、あとでハサミとノリ貸してねっ!」
 どうにも不公平感の拭えない交換条件ながら、前髪をかきあげて、こつん、と互いの額を合わせてみる。
 うーん、よくわからん。
「なぁに、キョンくんお熱?」
「いや、多分気のせい……だ、」
 顔を離そうとした瞬間に、ふっ、と何かのイメージが、目の前の光景とぶれるようによぎった。
 とても近くにある、誰かの顔。
 一瞬で消えてしまったその面影に思いっきり動揺した。
 おいおい冗談だろ、白昼夢にしてはタチが悪すぎるぜ。
 確かに普段からパーソナルスペースが常人より極端に狭いのか、やたらと顔の近いやつだったが、なんで俺があいつを思い出さにゃならん。
 どうせ思い浮かべるんなら朝比奈さんの天使のかんばせで和めばいいものを、俺の脳に物申したい。
 いささか乱暴にソファに背中を倒し、だらりと力を抜いて横たわる。
 身体を沈みこませたソファの布地が体温を吸い、熱がこもっていく。なんで。なんでだ?
「くそ……」
 妹に聞こえないように小さく毒づいた。
 こうして天井を見上げていても古泉の顔がちらつくとはどういうことだ、何がどうなってやがる。
 しかも体温は上がりっぱなしときた。
 このままでは地球温暖化を加速させてしまうんじゃないか。
 徒な環境破壊は俺の望むところではないので、俺はせめてジーンズを脱がないまでも少しくらいは下げて、外気に触れる部分の拡大を図ろうと思い、腰に手をかけた。
「っ!?」
 それこそ火に触れてしまったような感覚が身体を走った。
 導火線を伝って引火し、爆発したように、衝撃に頭の中が一瞬真っ白に消し飛ぶ。
 なにが起こったのか、咄嗟に理解ができなかった。
 それははっきりと紛れもなく誤魔化しようもなくどうしようもない、欲情というやつで、なんでたかがズボンをずらそうと腰を触ったくらいでこんなことになるのかわからない。
 つまりこの熱はあれか? 欲求不満、とかいう思春期のオトコノコが陥りやすいあれなのか。
 正体見たり枯れ尾花、辿りついてみればなんとも情けない真実である。
 勘弁してくれ、こんな爽やかで健全な朝っぱらから、しかもすぐ横に妹がいるってのに、節操無く催したりしてんじゃねえよ俺の身体。
 俺は同年代の男子と比較して性欲に関してはあまりがつがつしておらず、普段からそんなに抜く方ではないのだが、それがかえってよくなかったのだろうか。
 ううむしまった、溜まってんのかなあ、もっとちゃんと定期的に処理すべきだったか。
 気づいてしまったその欲を振り払うべく、もぞりとソファの上で身体の位置を変え納まりのいい場所を探す。
 目を閉じると、クレイアニメが終わったらしきテレビから流れてくる、高校球児たちの熱戦の開始を告げる、どこぞの学校の校歌が聞こえた。
 そして、甘ったるく湿った囁き声が。
 かわいいですよ、と。