まずいことになった。
 たとえばせっかく出力したばかりの森さんに提出するはずの報告書にコーヒーをこぼしてしまったことだとか(元データは無事なので、もう一度出力し纏めればいいだけの話なのだが面倒くさい)床に落ち転がったままの白いカップにどうやらひびが入ってしまったらしいことだとか(あああれはもう使えないな、新しいのを買わないと)、これから彼が来てくれるのにいまだ片付け途中の部屋の中だとか(半分終わったからと休憩を入れるのではなかった、最後まで終わらせてしまうのだったと後悔している。コンピュータ周りに資料が散乱して見苦しい)、それらも勿論まずいことではあるのだが、しかしそんなもの瑣末な問題でしかなくなってしまうくらいに、遥かに凌駕してまずいことになっている。
 僕は手袋を嵌めたままの震える右手で自分の喉を押さえた。
 頭の中がぼんやりと熱くて思考がうまく働かない。
 水が尽きオアシスを求める砂漠の旅人もかくや、永い眠りから醒めたばかりの吸血鬼の百年の餓えを思うほどの渇望、渇いて渇いて仕方がない。
「っは……」
 息を漏らし、ぎゅう、と軍服の胸元を掴む。
 情けない。自制がきかず、欲望に振り回される己が。
 理性の糸をきりきりと張り詰めて必死に抑えているが、甘ったるい溶解液に浸されているその糸がいつまでもつだろう。こんな状態で彼の姿を見たりすれば、張力に耐えきれなくなったバイオリンの弦のように、きっと一瞬で、簡単に切れてしまう。
 だから彼に対し、来てはいけない、どうか来ないで、と祈る気持ちと、早く来ればいいという願いがどろどろと混じり合い、ああ、もう。
 この部屋はすでに僕の欲という絡みつく糸の張り巡らされた蜘蛛の巣なのだ。
 彼が飛び込んできたが最後、僕は、
『……幕僚総長、いらっしゃいますか?』
 ぴ、という音がして、ドアの前にいる彼の姿がモニターに映し出される。
 駄目、駄目だ、逃げてください。
 そう思うのに、喉がひりついて声は出ず、僕の手は扉のロックを解除していた。
「失礼しま、――――うわっ!?」
 彼の腕を掴み、有無を言わさず部屋の内側に引きずり込んで、シュン、とドアを閉めて再びロックする。
「な、なに、え、」
 何が起きているのか解らず混乱している彼が抵抗に思い至らないのをいいことに、身体を反転させて、乱暴にドアに胸を押しつけ、背中から身動きを封じる。
 羽交い締めのように抱きすくめて、首筋に鼻先を埋めた。
 理性を溶かす甘い甘い匂いがする。あなたはここに来るべきではなかったんだ。
「い、いきなりなに……っ、ひっ!?」
 べろりと首の表面を舐めあげ、柔らかい肌にそれこそ吸血鬼のように歯を立てると、彼の身体がようやくはっきりともがいた。
 傷にはならないけれど噛み跡くらいは残る、その程度の強さで歯が食い込み、確かな肉体の歯ごたえに信じられないくらい興奮する。
 ああ、彼の身体だ。
 人体の急所に噛みつかれているせいで緊張を孕み、抵抗しづらそうにしている彼をぎしりと軋む音がしそうなほどさらに抑えつける。
「ちょっ、こらやめ、離せ……! いったいどうしたって、」
「……ごめんなさい」
 耳の後ろから熱い息とともに囁くと、目の前の背中がぞくぞくと震えたのがわかってしまった。
 僕の今の声はよっぽどひどいことになっているらしい。オス臭い欲情を隠せもしない。
 それに、今から彼にすることも、よっぽどひどいことになるだろう。だから謝っておく。ごめんなさい。
「――――もう、逃がしてあげられません」
 あなたを壊すなんて冗談じゃない、だけれどそれに近いくらいは貪ってしまうかもしれない。そのくらい、我慢が出来ない。手加減が出来そうにない。僕は彼の耳に齧りついた。
「いっ!」
 さっと鮮やかに赤が差す、その肌の色の変化をとてもかわいいと思う。貝殻みたいな耳朶も。
「こ、こいずみっ、なっ、やめろ!」
 止まらない、止まれない。
 そのまま耳を舐めると、牙の拘束のなくなった彼は腕を振り上げて身を捩ろうとし、青い帽子が床に落ちた。
 僕は彼の足の間に膝を割り入れて、太ももをぐいと押しつけながら股から尻を擦りあげるようにして刺激する。
「え、あっ!?」
 軍服の黒いズボンを引きずり降ろすと、形のいい尻があらわになる。彼の声に明確な焦りが混じった。
「え、ちょっ、まさかここで、」
 振り向く目が「本気か」と問うている。勿論本気だとも、正気ではないが。
 正直なところ一刻も早く彼の中に突き入れて思うまま揺さぶってしまいたかったが、慣らしもしないで挿入するのは無理があるだろう。
 だが、彼の身体を気遣っていられる冷静な思考部分も、火のついた固形燃料のようにあっという間に溶けていき、もうあとどのくらいもつか。
「お願い、抵抗しないで……僕は今、理性が飛んでいるけど、なるべく乱暴にしたくない」
 最後の理性を振り絞ってそう言った。
 実質、懇願の形をとった、とても身勝手な命令だ。
 彼の眉が訝しげに顰められ、動きが止まる。
「……いい子」
 囁いて、僕は彼の口の中に強引に指を捩じ込んだ。
「んぐっ!」
「……手袋、外してください」