その日は寝坊したせいで朝飯を食いっぱぐれた。
ばたばたと家を飛び出し空腹のままチャリを漕ぎ延々と続く坂道をぜーはー言いながら気持ち小走りで登り廊下レースで岡部に競り勝って教室に滑り込むと起立礼のち――――脱力して机に突っ伏した。
育ち盛りの男子高校生にとって朝食は必要不可欠なエネルギー源であることを俺は実感したね。
しかもここでさらに残念なお知らせがあり、本日、弁当を忘れた。おそらく弁当箱はリビングのテーブルの上に置きっぱなしになっていることだろう。それほど今朝の俺は余裕がなく焦っていたのだ。母さん、すまん。
そんなわけで休み時間に早弁もできない俺の空腹は時間を経るごとに増していき、くそ、ひとっ走り購買にでも行ってくるかなあ、何食おうか、と焼きそばパンやらあんパンやらサンドイッチやらを頭の中に思い浮かべたのだが。
「……? うーん……」
おや、と俺は腕組みして頭をひねった。
おかしい。どれもこれもいまいち食べる気になれない。いつもなら総菜パンのソースの匂いを想像するだけで食欲と唾を泉のようにわかせることが可能だというのに、ちっともそそられない。夏バテで食欲が減退しているのに脂っこい物を食卓に並べられたときのような、あんな感じと言えばいいだろうか。
腹は確実に減っているのだ。別に胃の調子が悪いわけでも吐き気がするわけでもない、それなのに食べたくないなんてこれはどうしたことだろう。
実は自覚症状がないだけで体調を崩しているのだろうか。
だが腹が減って力が出ないことを除けばすこぶる健康体だ、と思う。
それに厳密に言えば、食欲が失せたわけではなく、何かをすごく食べたい気持ちはある。ただその何かがなんなのかわからない。学食のメニューを片っ端から思い出してみても駄目だ。琴線に触れるものが何一つない。
しかし今日は六時間目が体育で、食べたいものがないからといってエネルギーエンプティのまま臨むなんて自殺行為もいいところだ。困った。大いに困った。
昼休みと同時に学食ランチを目指してスタートダッシュを切りあっという間に教室を出ていったハルヒを羨みつつ(つうかこれハルヒのせいじゃねえだろうな)、とりあえず購買をのぞいてみるかと俺も緩慢に立ち上がった。うあ、まずい、腹減りすぎてめまいがする。
――――だというのに、購買に並んだ大量の食糧を前にしても、俺の食指はぴくりとも反応しちゃくれなかった。
あそこにあるものを食べたいわけじゃない。というか別に食いたくない。いらん。本当にどうしちまったっていうんだろうな。万能宇宙人でさえ山盛りカレーやあつあつおでんで燃料を補給しているのに、まして人間であって植物ではない俺がこのまま何も食べないわけにはいかないんだぞ。人はパンのみで生きるにあらずとは言うがパンすら食えなきゃ死ぬ。そうは思えど食う気がせんのだからどうしようもない。これが具合の悪い前兆なら、体育は休んじまうかな、と俺は諦めて部室で昼寝でもすることにした。眠ってしまえば少しはカロリー消費も抑えられるし空腹もまぎれるだろう。
部室のドアを開けると、そこには珍しく長門ではなく古泉がいた。
「んっ。お前か。長門は?」
「さあ。僕は昼休みになってすぐに来ましたけど、誰もいませんでしたよ」
「ふぅん……」
どっかで昼飯でも食ってんのかな。俺がなにがしか困っているとき、それをあらかじめ把握しているかのようにいつも部室にいてくれる長門の姿がないとは、やはり今回の食欲不振はハルヒの力など関係ないただの俺の体調不良によるものなのかね。
俺は机を挟んで古泉の正面に腰を下ろした。気のせいか、この部屋なんだか甘い匂いがするな。
「で、お前はなんでここに?」
「四時間目、隣のクラスが調理実習だったんですが、課題がお菓子だったらしくて。すでにいくつかお裾分けをいただいてしまったのですが、生物ですし、甘いものは苦手ではありませんがそう大好きというわけでもないですし、あまりいただいても一人では食べきれないんですよね。でも古泉一樹のイメージとしては、女性からいただくものを断るわけにもいかないでしょう? ですのでこれ以上いただいてしまう前に逃げてしまおうと」
自慢にしか聞こえない説明をして古泉は苦笑した。
そうだな、男から見りゃ嫌味なほどの笑顔で女の子をぽーっとさせつつにっこりと受け取るんだろう。忌々しい。誤解のないように断っておくが別にもてない男のひがみではない。
「そんなわけで、一時避難です」
「ああそーかい」
訊くんじゃなかった。
古泉は可愛くラッピングされた包みを五つほど取り出してテーブルの上に置いた。甘い匂いのもとはこれか。ていうかすでに五つももらってんのかよ。どんだけだよ。
「よろしかったら半分召し上がりませんか?」
「あー、すまんが食欲がないんでな」
カップケーキ、マフィン、マドレーヌ、クッキー、焼き菓子の数々。こげ茶をしているのはチョコかココアだろうか。チョコを舌に載せたときの甘さを思うと腹の底が少しむずりとしたが、それでもやはり、手を伸ばす気は起きなかった。甘いもの、甘いものか。そうだな、この甘い匂いだけなら悪くないんだが、生地を口に含む気にまではなれない。
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