非常識ってやつは、狼がおばあさんに成り済ましたり母ヤギのふりをするのと一緒で、最初常識の皮をかぶってやってくることがある。
 馬鹿な赤ずきんや仔ヤギは気づかずにまんまと騙されて食われちまうわけだが、食われる前に気づいた俺は、さて、どうなるだろうな。


 小さな指先が俺を突っつく。
「キョンくんキョンくん、ケータイなってるよ?」
 話しかけないでくれ妹よ、お兄ちゃんは今喋ることが出来ないのだよ。
 スケッチブックにひらがなでそう書くと、我が妹は小さな首をかしげた。
「えー、でもさっき、おはよーって起こしに行ったとき、にゃんってしゃべったじゃない」
 あれはだな、咳、そう咳だ。咳をしたらああいう音になったのさ。
 さあ、兄はひどい風邪で喉をやられているから、お前にまでうつすといけない。わかったらあっちに行ってなさい。
「はあい。あ、ケータイきれちゃったみたい」
 別にかまわんさ、相手が誰だか見当はついてる。どうせ古泉だ。
 朝比奈さんならともかくあいつの電話なら多少放置してても問題ない。
 ぱたぱたと元気いっぱいに駆けていく妹の背中を見送って、俺は盛大にため息をついた。
「にゃー……」
 言いたいことも言えないこんな世の中もとい声じゃ。


 なんかもう説明するのもアホらしいんだが一応説明しておこう。
 俺は今、猫の鳴き声みたいな言葉しか話せなくなっている。
 これが猫耳がついてるとか尻尾がはえてるとか、ちゃんとわかりやすい非常識であればもっと早く異常に気づけたのかもしれないが、幸か不幸か外見的な変化は全くなく、ゆえに俺は自分の身に降りかかった災厄など知らぬまま、起こしにきた妹に「おはよう」と答えた。
 するとどうだ、聞こえた声は「にゃん」だった。耳を疑ったね。
 妹を部屋から追い出し、一人になって深呼吸、のち、もう一度「おはよう」と言ってみた。
「にゃあ」
 くそっ、空耳じゃなかったッ!!
 一縷の望みを捨てきれず、「おはよう」以外の言葉も喋ってみる。
 こんにちは、こんばんは、朝比奈さんはいつ見ても素敵ですね、古泉はいつ見てもむかつくな、古泉の変態野郎、たらし、スケコマシ、エロテロリスト、等々。
 発音に細かな差異はあれど、概ね「にゃん」とか「にゃー」とか「にゃあ」にしか聞こえなかった。
 しかし声は普段の俺の、つまり男の声である。
 可愛い女の子ならまだしも、男の声が猫語を駆使するのは、我ながらかなり気色悪い、つうか痛い。
 午後から古泉の家に行く約束があるというのにこの状態で行けと?
 ああ昨日の俺よ、せっかくの休日をなぜ、外に出ないでごろごろしようと考えなかったのか、それこそ猫のように。


 それは昨日の放課後の会話に端を発する。
 すでに副団長と団員その1から3までが揃っていた部屋に、ドアを破壊せんばかりの勢いで団長殿がやってきた。
 ハルヒがこういう風に目を輝かせているときは、大抵何かろくでもないことを企んでいて、俺か朝比奈さんが迷惑を被ると相場が決まっている。嫌な相場だな。
 でもって今回の被害者は朝比奈さんだった。
 ハルヒは朝比奈さんの胸を揉みしだくというセクハラを早速働きつつ、
「みくるちゃんに新しい萌え属性をつけてみようと思うのよ!」
 とうらやまし、いやおかしなことを言い出した。
 朝比奈さんは今のままでじゅうーぶん愛らしく素晴らしい女性です。
 小柄童顔巨乳メイド美少女おまけに未来人、これ以上の属性など必要ないだろう。
「ハルヒ、蛇足って知ってるか」
「なによあんた、あたしのことバカにしてんの?」
 はん、と鼻で笑われた。バカにしてんのはそっちじゃねえか……。
「まあキョンのバカは置いといて、今はみくるちゃんよ。ほら見てこれ!!」
 ごそごそと取り出しましたるは猫耳。
 バニーガールのうさ耳だけでは飽き足らず猫耳までとは、ハルヒよ、そんなに耳を増やして何か聞きたいことでもあるのか。
「語尾キャラってどうかしら。語尾ににゃんをつけるの。メイドで猫耳で語尾ににゃん! これぞ萌えよね」
 そう言って半泣きの朝比奈さんの頭に猫耳を装着し、
「ちょっとご主人様ご奉仕しますにゃんって言ってみて」
 とエンジェルの心胆を寒からしめるような行為を強いるハルヒ。見ちゃおれん。俺は助け舟を出すことにした。
「語尾キャラは鶴屋さんとかぶるだろ」
 しかも向こうのほうが強烈だ。戦ったら勝ち目はないな。
「それもそうね」
 ハルヒはやけにあっさり引き下がった。熱くなるのも早いが冷めるのも早い鉄のようなやつである。
 しかし企てが頓挫したというのに、ハルヒの目は輝きを失っていなかった。
 もっと面白いことを思いついたとばかりにキラキラと輝きだす。
「ちょっと用事が出来たわ! あたしは帰るから、今日はこれで終わり!!」
 終了宣言をして、来たときと同じ台風のような勢いで去っていった。
 朝比奈さんが「助かりましたぁ〜、ありがとうキョンくん……」と上目遣いと涙目の複合攻撃を仕掛けてくださる。
 その頭には猫耳がついたまま。う、ちょっとこれは、確かに萌えかもしれん。
 ちなみに長門も古泉も、ここまで一言も言葉を発していない。
 結局長門は無言のまま本を閉じ、無言のまま部室を出て行った。
 一方の古泉はというと。
 朝比奈さんが猫耳をはずし、長門に続くように部室を出て行った後、ようやく言ったと思った言葉がこうだ。
「これをつけて、ご主人様、ご奉仕しますにゃんって言ってみてくれません?」
 そうかそうか、そんなに俺に殺されたいか。誰が誰の主人だって?
「冗談ですよ」
 古泉がかなり本気を滲ませた目で笑った。
 それから「明日、僕の家に来ませんか」とつけたす。脈絡ないぞ。

 こうして改めて思い出すと、古泉の最低さが浮き彫りになって際立つな。
 自分があんな男と別れることもなく付き合っているのが心底不思議である。
 あーあ、なんで俺はあのとき頷いちまったのかね。
「にゃー……」
 こんな情けないため息をつかなきゃならなくなった原因は、まず間違いなくハルヒだろう。
 ハルヒが何を思って朝比奈さん猫化計画をやめたのか、俺はもっとちゃんと疑ってかかるべきだった。


 こういうときは困ったときの神頼みならぬ長門頼みだ。
 古泉はハルヒを神だというが、俺にとっちゃ長門のほうがよっぽど神様々だな。
 電話では情報の伝達が無理なため、状況を説明したメールを送ると、すぐに返事が来た。
 長門のメールから読み取れる状況を簡潔にまとめるとこうだ。
 ハルヒは朝比奈さんを語尾キャラにしたときに鶴屋さんとかぶるのは両者が女であるせいだと考え、ならば男を語尾キャラにしたらどうだろうと思いついた、らしい。
 そこで白羽の矢を立てられたのが俺だった。
 長門曰く、俺はハルヒの頭の中で勝手に猫耳執事の役を割り振られていたという。勘弁してくれ。
 この思いつきは著しくハルヒの脳内麻薬の分泌を活性化させ、興奮に至らしめたそうだ。
 さすが古泉の神だな、信者と同じような思考パターン。
 そんな理由で俺はこんな妙な改変を受ける羽目になったのか。
 で、ちゃんと戻るんだろうな?
 確認すると、『月曜には戻る』と返ってきた。
 月曜って長門さん、今日は土曜ですよ? どう立ち向かったらいいですか、今そこにある危機に!
 しかし建前として古泉との関係は秘密になっているので、そんな相談できやしない。
 情報統合思念体の情報能力の前にはすでに色々とばれていそうで今更隠したところで無意味かもしれないが、その辺は気持ちの問題だ。
 俺は『そうか。ありがとうな』と無難な返信をし、さてこれからどうしたものかと考えた。
 要は喋らなきゃいいわけだろ。
 そして喋らなくても不自然ではない理由をでっちあげればいい。
 月曜まで、家族の前では風邪で声が出ないということにして通す。
 そして古泉対策のほうだが『すまん、風邪引いたんで今日は行けそうにない』とメールを打つ、これだ。
 君子危うきに近よらず。触らぬ古泉に祟りなし。
 即行で返事が来た。
 『大丈夫ですか? ではお見舞いに行きますね』
 空気読めよ!!
 思わず携帯に向かってしてしまった俺の突っ込みすら「にゃにゃあ!!」だ。嫌になる。
 来る気だ、あいつマジで来る気だ、どうするどうするどうする?
 そんなこんなでリビングにて悩んでいた間に妹が俺を突っつき古泉からは着信が何度か入り、そして今に至る。
 落ち着け俺、アウェーよりはホームのほうが有利だろう。古泉の家に行かずに済んだだけマシなはずだ。
 とにかくばれなきゃいいんだよ。古泉の前では絶対に一言も喋らないでいよう。
 そうと決意した俺は自転車をかっ飛ばし、ドラッグストアに向かった。
 気休めかもしれないが、マスクをすることで風邪というカモフラージュに説得力を持たせようと思ったのだ。
 しかしそれが裏目に出た。途中で古泉とばったり出会ってしまうとは。
 あまりの驚きで思わず「にゃっ」とか言ってしまったが聞かれてはいないことを祈ろう。
 なんなんだ。厄日か。俺は呪われてるのか。ドラッグストアよりも教会に行くべきだったか。
「あれ? 今そちらに伺おうとしていたところなんですよ。もしかして迎えに来てくださったんですか?」
 古泉は一瞬驚いたような顔をしたがすぐに笑顔になって、冷や汗だらだらな俺の方へ近寄ってきた。
 違うと否定したくとも出来ない。なぜなら一言でも喋った瞬間にばれるだろうからだ。だらだらだらだら。
「風邪は大丈夫なんですか? すごい汗ですけど……熱があるのでは」
 俺はふるふると首を横に振った。それから喉を指差し、なんとかジェスチャーで声を出せない旨を伝えようと試みた。
「もしかして、声が?」
 そう! そうなんだよ!
 わかってくれて嬉しいぞ古泉、そんな酷い風邪をお前にうつしたくないから帰ってくれ。つうか帰れ。


 古泉はファーストフード店の店員みたいな笑顔で言った。お前のスマイルなぞたとえ0円だとしてもいらん。
「では、一緒に行きましょうか」
 ご一緒にポテトはいかがですかってなもんだ。
 いえ結構です。そう断れたらどんなにかよかっただろうな。
 言葉の偉大さをこんなときに思い知るぜ。
 単純な身振り手振りバーサス達者な口、後者が勝つのは自明の理。
「遠慮しないで下さい」
 遠慮じゃねえよ本気で嫌がってんだよわかれよ!
 抵抗してはみたものの最終的にはやはり押し切られ、俺は自転車を引いて古泉と歩かなくてはならなくなった。
「……」
 歩きながら、そっと横顔を盗み見る。
 微笑みの浮かぶその顔が、どこか浮き足立って見えるのは気のせいか。
 俺は視線を前に戻す。
 落ち着け、大丈夫だ、不用意に喋らなければばれることはないんだから。
 それにまさか古泉も、風邪を引いている相手に何かするほど最低男ではないだろう。
 そのときは思い切り三行半を叩きつけてやるしな。うん。
「あの……着きましたよ?」
「!」
 古泉の声に我に返ると、すでに我が家の玄関先だ。しまった、危うく通り過ぎるところだった。
 内心の焦りを隠しつつ平静を装い、自転車を置く。
 頼むから風邪でぼーっとしてたとでも思って軽く流せ。間違っても不審を抱いてくれるなよ。
 ばくばくの心臓を悟られないように気をつけ、鍵を開ける。
 玄関を見ると妹の靴がなくなっていたので、おそらく遊びに行ったのだろう。
 見ようによってはしっしっと追い払っているようにも見えるおいでおいでをして、古泉を家の中へ招き入れた。
「お邪魔します」
 ほんと邪魔だからこなくていいよ。
 丁寧に靴をそろえて上がりこむ古泉は、いかにもお行儀のいい優等生という感じだ。
 しかし俺は、その本性がちっとも行儀よくなどないどころか荒っぽく時に乱暴ですらあることを知っている。油断は禁物なのだ。
 いっそ泣きたいが、きっと泣き声もにゃあにゃあとかいう『鳴き声』になるんだろうと思うと泣くに泣けない。
 そんなことを考えているうちに、ついに俺の部屋の前まで来てしまった。
 よし、こうなりゃ俺は寝る。寝倒す。古泉を無視して寝てやる。
 ノブに手をかけたとき、古泉が確認するように言った。
「今日、家にお一人なんですね。妹さんもいらっしゃらないみたいですし」
 そうだな、と返事のかわりにちょっと頷く。
「好都合です」
 は?
 伸びてきた手が俺の手のひらを包み込むようにしてガチャリとノブを回し、俺の身体はドアの向こうへと押されていた。
「ぅ」
 うにゃ、とうっかり声をあげかけ、慌てて口を噤む。
 バランスを崩して背中からすっころびそうになった俺を、古泉が片手で抱き寄せた。もう片方で後ろ手にドアを閉め、俺の逃げ道をしっかり奪う。
「風邪――――ねぇ。僕にはいつものあなたの体温に感じられるのですが」
 こういう風に抱きしめられて耳元で囁かれたとき、どういったリアクションを取るのが正解なのかね。
「僕にそんな誤魔化しが通用するとでも? まったく、甘く見られたものですね」
 俺が猫だったら全身の毛を逆立てていたところだ。


「……」
 どうせなら俺は貝になりたい。猫じゃなく。
「嘘までついて、いったい何を隠しているんです?」
 別に何も!
 首を振って否定の意を示す俺に、古泉の目がすっと細くなる。
 視線で暴こうとするかのように顔を覗き込んできた後、その唇が耳に近づく。
「さぁ、吐いてもらいましょうか」
 息を吹き込むように囁かれ、背筋がぞわぞわした。
 心の中ではひいいいい、と絶叫中だ。
 だが実際は口をぎゅっと引き結んで、一音も漏らすまいと頑張っている。偉いぞ俺。このまま耐えぬけ俺。
「強情ですね」
 古泉の指がシャツの裾から侵入し、肌を撫でた。
 馴染みのある動きに、身体が勝手に条件反射で快感を拾おうとする。
「――――っ」
 眉を寄せ、歯を食いしばった。
 慣れた手つきで皮膚を辿る古泉の、少し焦れたような声が聞こえた。
「ここまでしても口を割らないとは……あまり手荒なまねはしたくないんですけど」
 強引に手を引っ張られ、あれよあれよという間にベッドに押し倒された。
「!」
 やばい、身体に訊かれたら一発でばれる。やばい!
 頭の中では絶賛古泉警報発令中である。
 こいつが普段ベッドで見せるしつこさを思い出し、血の気が引いた。
 逃げようと足掻いたものの、体重をかけて押さえ込まれてしまえば、起き上がることすらそう簡単には出来ない。
 万策尽きた。ここで終わりか。
 それでも頑なに口を閉じて睨みつけると、古泉の整った顔が近づいてきた。
「っ」
 唇がふさがれ、古泉の舌が文字通り『口を割ろうと』してくる。
 固く閉じたままの唇を舐め侵入を試みる舌を、俺は必死に拒んだ。
 そのとき、古泉の指が腰骨をなぞった。
「に」
 思わず開いてしまった唇から、待っていたとばかりに舌が押し入ってきた。
 声が途中で飲み込まれたのはラッキーだったんだろうか。
 執拗に追求され、ぐちゃぐちゃにかき回される。
 何が手荒なまねはしたくないだよ、お前この状況楽しんでるだろ?
「っ……」
 唇が離れた隙を縫って息継ぎをしようと無防備になったところを、この目ざとい男は見逃さなかった。
 ズボンが下着と一緒に太ももあたりまでずり下ろされる。
 その瞬間、俺はうかつにも制止の声を上げてしまっていた。
 やめろ、と言ったはずの声は、当然猫語に変換されたわけだよ。
「にゃあ!」
 己の不覚に目の前が真っ暗になったさ。
 だから古泉が一瞬目を瞠り、それからものすごく嫌な種類の笑みを浮かべたところなんて見てない。見てないからな。


 絶体絶命、危険値大好調ってか最高潮。
 そういえばこいつは俺の弱いところを俺以上に知り尽くしている。
 自分が勝ち目のない戦いを挑んでいたことに気づき、冷や汗が滝のように流れた。
 一方の古泉は涼しい顔で、つつ、と指先を俺の首筋から鎖骨まで滑らせた。
「うにゃっ」
 人魚姫と契約を交わした魔女と俺も契約したい。今ならタダで俺の声を進呈するぞ。
「へぇ……なるほど」
 事態は把握しました、とニヤニヤ笑う古泉の視線が肌にねっとり絡み付いて居心地が悪いったらない。
「面白いことになってるみたいですね?」
 面白がってるのはお前だけだ。
 冷や汗をかきすぎてそろそろ脱水症状を起こす気がする。
 あ、眩暈までしてきた。
 このままだと本当に体調を崩しかねないので休ませてくれないか。
 俺は口パクで訴えたが、わかってたさ、そうは問屋が卸さないなんてことは。言ってみただけだ。
 古泉はそれはそれは美しく恐ろしい微笑を浮かべた。
「実に鳴かせ甲斐がありそうです」
 そんなもんはないと断固否定させてもらう。
 しかし必死にパクパクと口の動きで伝えようとしたところ、開いた口に舌を突っ込まれるというかえって悪い結果を招くことになった。
 舌がうごめくたび、濡れた音が顎の骨を通じて脳を揺さぶる。
「ん、……なぁ」
 吐息と一緒に子猫が鳴くような声が出る。間違っても高校生の男が出すような声じゃない。
 羞恥で首の辺りがかっかとする。血管が大忙しだ。心臓にもかなりの重労働を強いているな。破裂しませんように。
 恥ずかしくて死にそうな俺とは対照的に実に楽しそうだなあ古泉よ。
 首をもたげかけていた性器をぎゅっと握られた。
「にゃああっ!?」
 本気で嫌だ。普段喘がされてるのだってかなり嫌なのに、こんな間抜けな喘ぎ声をあげなきゃならないなんて、穴があったら埋まりたい。
 指が下から茎を伝い、先っぽをくりくりといじる。反射的に腰が動いた。
「みっ……にゃあ、ぁぁぁっ」
 滲み出した液体のぬめりで遊ぶように滑る指の刺激に、たまらず高い声をあげてしまった。
 俺の反応に気を良くしたのか、古泉がにこりと優しい顔を作って、その優しさと真逆の激しさで俺の性器を責め立てた。詐欺だ詐欺!
 くちゅくちゅと音がする。どんどん声が我慢できなくなる。
「んっ! にゃうっ、にゃ、あああっ!」
 口を閉じたい。じゃなかったら耳を塞ぎたい。
 どっちでもいい、聞こえてくるこの声をなんとかできるなら。
 古泉はティッシュの箱を引き寄せて、そこから何枚か薄い紙を抜き取り、俺にかぶせて更に扱いた。
 快感が背骨のラインを駆け上がる。肩に鳥肌が立つような、ぞくぞくする気持ちよさ。
「っに」
 息が喉を通り抜け、身体が震える。
「みゃぅ……っ」
 今すぐ壁にがんがん頭を打ち付けてこの記憶を飛ばしたくなる、そんな鳴き声をあげながら、俺はティッシュに吐精した。


 余韻でくたっと脱力中の俺にキスをして、古泉は血迷ったとしか思えないことを提案してきた。
「舐めてくれません?」
 それはあれか。
 猫ならミルクを舐めるだろうという下ネタ親父ギャグのつもりか。
 まったく笑えん。
「バター犬ならぬバター猫ですね」
 笑えんどころか眉間に深いしわが刻まれたぞ、ちょっとやそっとじゃ消えそうにないくらい深いしわが。
 今ここでこいつを殴っても許されると思うんだがどうだろう。それどころか賞賛されるような気さえするな。
 睨んでやると、古泉はしれっと流しやがった。
「実際は犬と違って猫の舌はざらつきすぎていて、そういった行為には不向きだそうですが。あなたは舌まで猫になってはいないでしょう?」
 揶揄うように人差し指を唇に押し当てられる。唇をなぞる指先が、迷う俺に決断を迫る。
 舐めたことが……ないわけじゃ、ない。舐められたこともある。
 口で処理するほうが、突っ込まれてにゃんにゃん喘がされるよりはマシかもしれない。
 天秤にかけた結果、口に軍配が上がった。
 男は黙って行動。自分の着衣の乱れをしっかり直してから、古泉のズボンに手を伸ばす。
 留め金を外してファスナーを下ろし、ゆったりとくつろげる。
 ええい、頭を撫でるなうっとうしい。顎の下をくすぐるのもやめろ。ごろごろ鳴ったりはしないから。
 それでもくすぐったくはあるので、肩を竦めてしまう。嫌になるね。
 舌を出し、ぺろっと舐めてみる。古泉が小さく息を詰めた。
「ん」
 滲み出てきた液体を舌先で舐めとっていく。
 しかし毎度思うが変な味だな。こんなものをミルクと称するのは牛に失礼じゃないだろうか。
 ぺろぺろと先端ばかりを集中的に攻める。
 耳を澄ますと、確かに古泉の息の音が聞こえる。
 よく考えたら、これは雪辱するチャンス到来なのでは。
 おもむろに奥までほおばってスライドさせてやった。
「っくっ」
 ふははははどうだ古泉! その余裕ぶった仮面を剥がしてやるぜ!
 こっからが逆襲の始まりだ、と思ったら古泉は俺の肩に手をかけて、
「もういい、です」
 え、なんで?
 訝って顔を上げると、古泉が微笑みながら俺を見下ろしていた。
 それを目にした瞬間、危険値メーターが振り切れて壊れた。
 全力で逃げろ、と脳が命令を下す。警報は鳴りっぱなしだ。
「ひにゃっ……」
 立ち上がる前に、肩を掴む古泉の手に力がこもり、くるりとひっくり返された。
 暴れる間も与えてもらえず、うつ伏せの姿勢でベッドに押さえつけられる。
 古泉はもがく俺に圧し掛かり、せっかく穿き直したズボンと下着を再び引き下ろした。
「にっ」
 尾てい骨の辺りに冷たい感触を覚え、それがとろとろと流れ落ちていく。
 なんとか首を捻って後ろを見れば、古泉が瓶を傾けていて、その口からローションが線になってこぼれていた。
 お前いつの間に、ていうかそれどっから出した!?
「こんなこともあろうかと、前回来たときに置いておいたんです」
 人の部屋に勝手に妙なもん隠してんじゃねえよ!


 古泉は手のひらでぬるりとローションを延ばし、ケツの上らへんを撫でる。
「ここ、尻尾の名残なんですよね」
 だからどうした。
 お生憎だがおかしくなってるのは声だけで、尻尾も猫耳も生える予定はない。
 精一杯の気持ちをこめて睨むと、俺の怒りが伝わったのか手が止まる。
「もし尻尾があったら、こういう場合のお約束として性感帯だったんだろうなあ、と思ったものですから」
 俺はそんなことになってなくて良かったと心の底から思うよ。
 止まっていた手が動きを再開した。
「んなっ」
 ローションのぬめりを借りて指が入ってくる。くちくち音がして、一本全部含まされた。
「っあ……にゃぁぁっ……にゃー……」
 この声! 聞いてて悶絶もんだ。こんな声を自分の声だと信じたくない。
 あまりの情けなさに涙が出そうだ。
 俺はシーツを握り締めてしわを量産し、それならばと目の前の布に噛みついた。
「ん……、ふぅ、ぅ」
 布越しにくぐもった息が漏れた。こうすれば声を抑えられる。
 少々苦しいが、あんなみっともない鳴き声をあげなくてすむと思えば安いものだ。
 唾液で湿り始めたシーツをぎゅっと噛む。
「そう来ますか」
 中で関節を曲げられた。
「んんっ! んっ、っふ、っ……!」
 布と歯がぎりぎり擦れる音とシーツをひっかく音とが非常に耳障りだ。
 だがこの最終防衛ライン、俺の誇りのためになんとしても突破されるわけにはいかない。
「ふ、っく」
 二本目。粘膜を馴染ませるように緩やかに指が動く。
 少しずつ熱が溜まっていって、じりじりと焦げるような、弱めの刺激を与えられる。
 いいところは避け、もしくはたまに掠らせる程度にしか触れず、中途半端に煽ってくる。
 その動きに、否が応でも理解させられた。
「……っ」
 このヤロウ、わざと焦らしてやがる。
 じれったくなるほど生ぬるい愛撫に、歯痒さばかりが募り、無意識のうちに腰が揺らめいていたんだろう。
 古泉の手が俺を押しとどめて、初めて自分が動いていたことに気づく。
「駄目ですよ」
 奥に入っていた指がごく浅い部分まで引き抜かれ、微弱な快楽を俺へと送り込むことに徹する。
 もどかしくて仕方ない。この状態で留め置かれるのは、正直かなりつらい。
 シーツを強く食い締めたが、燻ぶる熱はそんなことで発散できるわけもなく、……ならどうしたらいい?
「んっ……」
「ちゃんと聞かせてくれたら、ご褒美をあげますよ」
 どうあっても鳴かせたいらしいな。
 お前は俺にこれ以上の生き恥を晒せというのか。殴っていいか?
 それにそんな風に言われて口からシーツを外したら、入れて欲しいとねだるのと同義になってしまう。
 プライドが二重に傷つくとわかっていて実行するやつは馬鹿だ。
 だから俺は、きっと超のつく大馬鹿なんだろうよ。


 噛んでいたシーツをそろそろと外して顔を上げる。
 歯に力をこめるのをやめた代わりに握りしめる手の力を強くする。
 屈辱だ。ああ屈辱だとも。悪態の一万や二万つきたくもなる。
 体位がバックでさえなかったら、その背中に思い切り爪を立ててやれたのにと思うと残念でしょうがない。
「よく出来ました」
 撫でるなって。それともこれも焦らしの一環なのか? だとしたらかなり効いてるよ。
 古泉の身長に見合った大きめの手のひらが肌に触れるたびにぶるりと震えてしまう。
 押し当てられて、これから入ってくるのだという予感に思わず唾を飲み込んだら、間髪容れずに予感が本物になった。
「……っにゃあ!」
 よしマインドコントロールしよう。
 この声は俺じゃない。俺じゃない。俺の声じゃない。きっと幻聴だ。耳を傾けるな。
 古泉が衝き込んでくる。
「にゃううっ!」
「お望みどおり、たくさん鳴かせて差し上げますから」
 どうしてお前はそう、俺の努力を無に帰すようなことを。
 それと間違ってるんで訂正させてもらうが、望んでるのはお前のほうだ。俺は一ミリたりとも望んでない。
「にゃっ……にゃぁあっ! なぁ、っゃあっ!」
 今の気持ちを表すのにぴったりの言葉がある。最悪だ!
 こんな声を聞かされては悶え苦しむ以外に何が出来るというのか。
 ぐ、と引かれ、また突き入れられる。液体が太ももを伝う。
「にゃ、あう、あ、ん……っ! にゃう!」
 甘ったれた猫の声。これは俺じゃない俺じゃない俺じゃない。
 古泉が弱い部分を抉る。俺は身体をびくつかせて鳴く。
 ある箇所にぶつかったとき、はっきりそうと聴き取れるほど声が高くなった。
 古泉はくすっと笑みをこぼし、そこばかりを重点的に責めてきた。
「みゃ、ぁぁッ!?」
 シーツで爪とぎをしながら鳴き声をあげ続けていると、本当に猫になった気分だ。正気に返れ。
「っふ、いい声ですねぇ……っ?」
 どこがだよ。俺にとっちゃ工事現場のドリルのほうが百倍はマシだね。
「にっ! っあ、ア、な、ぁぅ」
 声も嫌だが、にちゃにちゃというこの、繋がってる部分から聞こえる粘着質の音もどうにかならないか。
 鼓膜よ、そんなに律儀に音を拾わなくていいんだぞ。
 ずるずる壁を擦る古泉の熱さが伝わってきて、腹の中に熱がわだかまっていく。
「ん、にゃ、ああ、んんっ」
「くっ……っは、ぁ、も、っと」
 柔らかく揉まれて、脊髄に快感が走る。
「にぃ……、っ」
 強く締め付けすぎたらしく、ちょっと焦ったような古泉の声が後ろから聞こえたが、やつの自業自得なので謝らん。
 それよりも、なんかもう気持ちよくて頭がぼーっとしてきた。
 やばい。気持ちいい。流されちまってもいいかと思うくらいには気持ちいい。
 まずい兆候だ。いっつも最後はこの調子でわけわかんなくされて終わるんだ。
 必死に抗っても、射精を促すようにしごき立ててくる古泉の手にかかれば容易く陥落する。
「……ふ……にゃ、にゃぁぁぁ……っ!」
 一際高く鳴いて、俺は果てた。
 中に入っていた古泉が素早く引き抜かれ、その刺激でまたふるりと軽く震え、ケツや太ももに液体がかかった。
 息を整えながら、今日のこの記憶を人生の忘れたい汚点ランキングのトップに決定した。
 二位以下を周回遅れで引き離すぶっちぎりの独走だ。
「にゃー……」
 大きく息を吐く。
 撫、で、る、な! 俺が手を嫌がって避けると、古泉は諦めずに追ってくる。
 すぐに捕まって抱きしめられた。
 あーもーしょうがねぇな、体温が気持ちいいから甘んじて抱きしめられててやるよ。
 猫って寒いのが苦手なんだっけ?
 しばらくして古泉が口を開いた。
「うち、来ませんか」
 何を言い出すかと思えば。
「ご家族にばれる危険性がなくなりますよ」
 別の危険を感じるがな。まあ、選択肢の一つとして考えてはおく。
 俺は古泉の手を取ると、手のひらに人差し指で「ローションはちゃんともってかえれ」と書いて、最後に爪を立てた。





私って本当に馬鹿だなあ…と思いました