最初にネタばらししておくが、この先どんなとんでもないことが起ころうとも、どうせ最終的に待っているのは夢オチである。
なぜなら俺が、今のこの状況が夢だということをはっきり認識しているからな。
夢オチ、まったく便利な言葉だよ。
小説やドラマでよく使われる、夢を見る、あるいは夢から目覚めるシーンから始まるという手法は、時にありきたりで陳腐だと笑われるが、多く使われるということはそれだけ需要もあるってことなんじゃないのかね。
なんだかんだ言ってベタは強い。
よって俺も、数多の先人に倣って夢を見だした瞬間から説明を始めることにしよう。
そうだな、まず、上下の感覚がなかった。
俺は今どこに立っているのか、それとも座っているのか寝ているのか、それさえよくわからずに辺りを見回した。
すると舞台上にスポットライトを当てたように、ぱっと景色が広がり、壁が四方を囲み、俺の足元には床ができた。
うっかり後ろによろけた俺は、慌ててバランスを立て直しつつ、ここがSOS団の部室であることに気づいていた。
いや違う。
ここは、ただの文芸部室だ。
机上の三角錐、コスプレ服、そしてボードゲーム。何もない。
俺はここを知っている。
せっかく立て直したバランスが脆くも崩れ、数歩たたらを踏み、もつれる足が壁にぶつかった。
「……っ!」
正に悪夢だな。
二度と見たくない類の悪夢だ。
そう、俺は、ここを知っている。
震える手で口元を押さえ、ゆっくりと部屋を見回す。
ここの主だった長門はいない。
西日が射しこみ、床も机も燃えるような赤みがかったオレンジに染め上げられている。
直感的に、ああ、命の色だと思った。
連想した誰かの名を口に出しこそしなかったが、その瞬間胸をよぎった感情は、認めよう、紛れもない恐怖だったことを。
ギィ、とドアが唸った。
そっちに顔を向け、ドアが開くのを見ている俺の心境は、なんていうかあれだな、ホラーゲームで次に何が出てくるかわからない新しい部屋に入るときに似ていたな。
今の俺は入ってこられる側で、誰が入ってくるかなんてのもわかっちゃいるが。
「こんにちは」
律儀に挨拶をした古泉は、黒い詰め襟を着ていた。
情けないね、夢だとわかっているのにこんなにも胸が苦しいなんてさ。
だってこいつは、俺のことをなんて冷たい目で見るんだろう。
逃げようにも後ろは壁、唯一の出口には古泉がでかい図体でもって立ちふさがっているし、それでも諦め悪くじりじりと壁伝いに移動して距離を取ろうと図ったがすぐに角に追い詰められた。
制服の黒い色が視界いっぱいに広がり、それと共に俺は絶望する。
黒。実に絶望の色らしいじゃないか。
「……どうして逃げるんです?」
「いっ!」
手首を掴む手のひらに容赦はなく、強い力でぎりぎりと締め上げる。
痛いのは手首だけじゃなく壁に押し付けられた背中もだ。
なんで俺の両腕は古泉のたった一本の腕に敵わないんだろうな。
片手でバスケットボールを掴めそうな手のひら、いつもどんな風に俺に触れるか、俺は覚えているはずなのに、こうも違うものなのか。
怖がっているのを悟られまいと、必死に精一杯の虚勢を張る。
「放、せっ」
「あなたの懇願をきく筋合いはありませんね」
古泉は喉の奥で笑い、目を細めた。猛禽類の笑みだった。
今まで古泉の笑顔なんて両手両足の指でも足りないくらいの種類を見てきたが、こんな笑い方は見たことがなかった。
新たにデータに加えるとしても下位に位置づけされることは間違いない。
「大人しくしていれば優しくしてあげますよ。あなただって痛いのは嫌でしょう? ああ……それとも、痛いほうが感じるタイプだったり」
あまりの言い草に絶句する俺を揶揄するように、指がシャツの上から乳首を探り当て、爪を立てた。
「んッ」
一度痛みを与えてから、なだめるように触れる。
その指先の、短く整えられた爪の形まで一緒なのに。
だがこいつは別に、俺を極力傷つけたくないからなんて理由で爪を切り揃えているわけではないだろう。
く、とネクタイを引っ張って緩め、シャツのボタンを引きちぎる乱暴さを咎めようと思い、どうせ夢なのだからと思い直す。
そうだただの夢だ。泡沫の幻でしかないのに、俺は何を焦っているんだ。
だからこんなのたいしたことじゃない。全然、たいしたことじゃない。
自分に言い聞かせようとして、耳元で囁かれた古泉の言葉のせいで失敗した。
「教えてください。あなたの知っている古泉一樹は、いつもどうやってあなたを愛するんですか」
頭にかっと血が上った。
「……!? な、っ」
何を言ってるんだ。
長門の呪文や朝比奈さんの禁則事項ではない、日本語のはずなのに、理解が出来ない。
「どうせなら犯され方くらいご自分で選ばせてあげましょう、と言っているんです。お好きなように犯して差し上げますよ」
俺の知る古泉と同じ顔、同じ声でそんなことを言う。だがあまりにも温度差がありすぎる。
「いつもと同じようにされたいですか。あなたの古泉一樹だと錯覚してしまうほどに」
羽が降るような柔らかなタッチで触れてから、
「それとも、僕にそうされるのは嫌だ? どうせならレイプらしく乱暴にしましょうか」
古泉はくすくす笑いをこぼした。
それから二の句も告げない俺の胸元に手を差し込んで、指の腹で乳首を転がす。
「うぁ」
性格わりい。夢の中だとわかっちゃいるが腹は立つ。
お前のそのねじくれてひん曲がった根性を叩きなおして真っ直ぐにしてやりたいよ。
「ここを弄るときはどうしています? 捏ねたり、押しつぶしたり? 力は強めですか。もっと弱く……?」
言いながら、反応を見極めるように、言葉のそのままを俺の身体に実行していく。
俺のほうはというと、あらかじめ宣言された通りに訪れる刺激にたまらない羞恥と後ろ暗い快感を感じていた。
「爪を立てたり」
かり、と引っ掛けるようにして、勃ちあがった突起を弾く。身体が勝手に跳ねた。
「ああ……あるいは舐めたりもしたでしょうか」
制止の間もなく顔が胸の前に移動し、ぞろりとそこを舐めあげる。
軽く歯を立てた後、上目遣いで俺の表情を観察してから吸い付いた。
「や……め、つっ!」
甘噛みではなく、もっとはっきりと噛まれる。
身体が痛みで竦んだことなんてこいつにはバレバレなんだろうな。
もしかしたら、怯えていることもとっくにお見通しかね。
「ふふ。ねえ、どうなんです? ちゃんと答えてください。もうすっかり硬くなってますけど」
見せ付けるようにピンク色の舌を出して、膨れた芯に絡める。
唾液に濡れて光る自分の乳首を見せられる俺の心中を察してくれ。
ぬる、と舌が這うたびに、電流が腰の辺りに流れ込む。
押し殺しても息が漏れる。我ながらうるっせえ雑音だ。
リアルな夢というのは今までにも見たことはあるが、よりによってこんな夢のときにリアリティを追求するんじゃねえよ、何考えてんだ俺の脳。
欲求不満か?
自分で導き出した仮説に紐なしバンジーしたくなった。
くっそ忌々しい。なにが悲しゅうて夢ん中で男に襲われてあんあん喘がなきゃならんのだ。
生々しく身に迫ってくる感覚のせいでふと現実との境界線を忘れそうになる。
俺も焼きが回ったな。
早く朝が来ればいい。そうすりゃ目も醒めるさ。体内時計がサボらないことを祈るばかりだ。
現実への帰還を果たした暁にはこんな脳のメモリの無駄遣いな記憶は廃棄処分にしてやる。
「ぃっ!」
尖りをひねられて、たまらず声が上がってしまう。
「あ、あ」
指先に力をこめていた古泉は満足げに笑うと、俺のベルトに手をかけた。
「やめろ、こ……っ」
思わず上げかけた制止の声を途中で飲み込んだ。その不自然さに気づかないこいつではない。
案の定古泉は唇の端を吊り上げ、俺の耳朶を舐めた。
「別に呼んだっていいじゃないですか、……古泉、と。何を躊躇う必要が?」
俺は唇を噛み締めた。心の中に土足で踏み込まれた気分だった。
突かれたくない部分を突かれ、隠していたものを暴かれたような。
言葉を失った俺の顔色は蒼白になっているに違いない。
「言ってくだされば、僕の心も動くかもしれませんよ?」
かもとかきっととかたぶんとか、そんな曖昧なものには縋らないことにしてるんだ。
「もしかして、操でも立てているおつもりですか」
そのような事実は一切ございません。
だというのに、古泉は得心がいったという顔で俺の耳朶を嬲る作業に戻る。
俺の心情的にはバンジーどころかパラシュートなしで高度3000メートルからスカイダイビングだ。
身体のほうはなんとか古泉から逃れようと懸命にもがいている真っ最中である。
思うように身体が動かないのは、これが夢だからだろうか。
「お前、こそ、ハルヒが好きなんじゃないのかよ……! 俺のことなんか、なんとも……っ」
「気持ちなどなくたって、こういったことはできるんですよ。むしろ、相手を好ましく思っていないほうが都合がいいと思いますね。ひどくするときには特に。……でも、」
嘲笑うような口調から一転して声が低くなる。
「なんとも思っていないわけではありませんよ。僕はあなたを知ってしまったのですから。それはそれは複雑な感情を抱いています。あまり良くないもので構成された、ね」
古泉の表情は、酷薄、凄惨、残忍、どんな言葉を当てはめればしっくりくるだろう。
「あなたにとって僕は間違った世界の住人でしかないのかもしれませんが、では否定された僕はどうすればいいんですか。ここが作られた箱庭だと教えられたところで、出るすべもなく、なのに僕にそれを教え、かき回すだけかき回した張本人のあなたはのうのうと帰るんだ。元の正しい場所へ」
血を吐くような、激情のこもった言葉だった。同時に突き刺さる視線の強さに俺は息を呑む。
「憤りをあなたにぶつけたくなるのも当然でしょう? せいぜい捌け口になってください」
いつの間に脱がされたのか、ズボンがずり落ちる。夢に整合性を求めるだけ無駄ってもんか。
中途半端に脱げかけたズボンが足に引っかかってますます動きづらくなる。
だけど動けないのはそのせいだけじゃなかった。さっきの古泉の言葉が、胸の奥の罪悪感を抉っていたからだ。
手のひらが、そこを下着ごしに何度か撫で上げる。
「っ……ぅ、やめろっ! やめろって!」
「そんなに嫌ですか。そんなに、僕ではない古泉一樹が」
唇が近づく。
「――――好き?」
俺は情けないくらい動揺した。
弱い部分を無理やり引きずり出され、その全てをどうすることも出来ないままただ無防備に、こいつの前に曝け出させられている。
そして隙を見せた俺に、こいつが容赦をするわけがない。
確信めいた笑みを浮かべ、なおも畳み掛けるように切り込んでくる。
「自分は彼のものであるから、例え同じ顔をしていても……同じ身体でも、僕に抱かれるのは嫌だ……と、そういうことですか?」
答えを待たず、言い終わると同時に後頭部の髪の毛を乱暴に掴まれ、唇を塞がれた。
「んぐっ」
どうすればいいか知っているかのように舌が動く。まさか、そんなはずがない。
浮かんだ考えを即座に打ち消した。
逃げ惑えどたいした広さもない口の中だ。すぐに絡め取られる。
それは今の、この部屋で追い詰められ捕まっているという状況に酷似していた。
嫌な符合だな。
力が徐々に抜けていくのがわかる。思考回路も溶かされる。
壁に押し付けられているからかろうじて立っていられるようなものだ。
ぴちゃりと水音と息苦しさを置き土産に唇が離れる。
「はぁ、っ」
呼吸を整える暇も与えてもらえず、古泉の膝頭が俺の股間をぐり、と刺激してきた。
「ぅく!」
「反応、してますね」
「……っちが、あぁあっ!」
下着を降ろされて直接握りこまれ、指先が敏感な部分をくちくちと弄る。
快感に起因する震えが走る。
「ぃ、やだ、よせ」
逃げようとするのに、足が重くて思うように動かない。根っこでも生えてんのかよ。
「何が違うんです? あなたにも聞こえるでしょう、この音」
「いやだっ……ああ、あ!」
意思とは関係なく身体が反応する。粘った音に呼応するようにがくがくと震える。
違う、勘違いするな、こいつは俺のよく知ってる古泉じゃない。
見た目だけそっくりに作られた別人だ。
あのとき長門が構成し、今また俺の夢が生んだ幻でしかない。
こんなものに惑わされたりしない。自分で生み出した幻影に振り回されるなんて滑稽だ。
「っお前なん、か」
「僕なんか?」
手首を縛める力が強くなる。
泣くな。こいつに涙なんか絶対に見せたくない。
「お前なんか……古泉じゃない……っ!」
学ランの古泉は薄く研ぎ澄まされたナイフのように目を細めて、手にこもる力の強さと正反対の冷淡な声音で告げた。
「いいえ、僕は古泉一樹ですよ。紛れもなくね」
「ひっぁあああ!」
先走りでぬるつく亀頭に強めの刺激が送りこまれる。
ぶっ壊れたおもちゃみたいにびくびく動く俺の身体に満足げな一瞥をくれてから、古泉は会陰部へと指を進めた。
ひゅ、と短く喉が鳴る。心が絶望に支配される。いやだ。嫌だ。
指はそのまま滑るように後ろの穴に到達し、ぐるりと撫でる。
「だ、やめ、っ――――!」
うるさい、とばかりに慣らしもしないで強引に押し入ってきた。
「っぐ」
悲鳴なんかあげるものか。奥歯を力いっぱい噛み締めた。
突き刺さる痛みと不快感に脂汗が滲んでくる。
別のことを考えて意識を逸らそうと思ったがうまく集中できない。
痛みだけがずきずきと強く、はっきりと、リアルだ。
でもそれでいいんだろう。
こんな心の伴わないセックスなんかで感じるよりも、痛いほうがよっぽどマシだ。いっそ殴られたほうが気が楽になる。
「頑張りますね。ふふ、その強がりがいつまで続くか、見ものですよ」
そこからは、終わりのない螺旋階段のような時間だった。
夢の中と現実世界は、きっと時間の流れる速さが異なるに違いない。
まぶたの裏が真っ赤に染まる。夢の中で目を閉じられるというのも不思議だな。
まあ、不思議なことなんて数え上げたらきりがないが。
例えばなんでこんなに痛みも快楽も苦しさも、本物みたいに感じるのかとかさ。
俺は自ら口の中にネクタイを突っ込んで声を殺そうとしたが、古泉のほうが上手だった。
ネクタイを取り上げると、首に巻きつけて軽く絞める。気道が塞がれ、俺は目を見開いた。
「……っ! あ、」
「もったいないことしないでください。……僕はあなたの声、気に入っているんですから」
お前の好みなんか知ったことか。
絞め付けが緩み、一気に空気が流れ込む。
ぜぇぜぇという呼吸音に嬌声が混ざるのが本気で嫌だ。
「あ、ああっ」
身体の内側を探る指がいいところを暴き、ぐりぐりと押してくる。
そんなことしなくていいから、もっとひどく、乱暴にすればいいのに。
嫌で嫌でたまらなくて、勝手に悦ぶ身体を脱ぎ捨てたくなる。
意思に反してとめどなく声が溢れ、白色の快楽が体内を駆け巡り、脳に達し、まともな思考を押しつぶす。
拒絶する気持ちと流されそうになる気持ちがせめぎあい、拮抗している。
気を抜いたらすぐにでも屈服してしまいそうだ。
どろどろ溶けて、溶解液の中に浸かっているような気がする。
「や……いやだっ、ぁ、いや」
駄々捏ねるガキみたいにいやいやと首を振る。
自分が許せなくて、ひどく申し訳ない気持ちになった。誰に? 古泉に。
今俺を嬲っているこいつじゃない、本当の古泉のことを思う。
「く」
膝の裏に回った手に左足を持ち上げられた。
代わりに俺の腕は自由になったというのに、何故か鉛のようにぴくりとも動いてくれなかった。
足の間に古泉の身体が割り入ってくる。古泉は自分のものに片手を添え、入り口に押し当てた。
動けよ俺の身体、動け、動け! なんでもいいから動いてくれ、こいつを突き飛ばして逃げるんだ。
床に着いた右足と、壁に押し付けられた背中、それから古泉の力で俺の体重は支えられていた。
「――――――っ!!」
ず、と身体が落ちる。突き立てられた一点に全ての感覚が集中した。
左足のつま先がぎゅっと緊張して、俺はさっきまであんなに動かなかったはずの両手で自分の口を覆った。
「ああ……残念、悲鳴が聞きたかったのに」
古泉が呟き、俺の手を口から外して、立ったまま数度揺する。
「んっ! んっく、あ……!」
ぞくぞくぞく、と背筋が震えた。
例えば今ここで舌を噛み切ったら、俺は目覚めることが出来るだろうか。
現実逃避のような思考でかろうじて心を保とうとするが、そもそも現実じゃない夢の中で現実逃避するってのも変だな。
「……っ! っ! や……ぁぁ、ぁ……」
自分の体重のせいもあって、より深く穿たれる。
何度も揺さぶられ、宙に浮いている足が我ながら恥ずかしくなるくらい頼りなげに揺れた。
心の中で必死に古泉の名前を呼ぶ。古泉の笑顔を思い浮かべる。
声や、体温や、纏う空気。俺に触れるときにときどき見せた、びっくりするほど熱っぽい瞳の色。
「……何を考えてるんです?」
質問の形を取ってはいたが、こいつはわかっていて訊いているのだと知れた。
その証拠に、古泉は次にこう言ったのだ。
「健気なことですね。それほど想われている古泉一樹も幸せでしょう」
ぐっと顎の窪みを掴まれて、顔を上向かせられる。
至近距離にあるのは、優しく柔らかな言葉とは裏腹の、ぞっとする氷の目だった。
「では、彼の前であなたを抱いたら、どうなるでしょうね」
愕然。俺の状態を一言で表すならそれだ。俺は愕然と古泉の目を見返した。
「……な」
声が掠れるのを誤魔化しきれなかった。
「なに……何、言って」
脳の位置に心臓があるみたいだ。鼓動が直接頭の中に響く。
最悪の予感と共に、嫌な汗がじっとりと滲んで不快感が増す。
ここは夢の中。何が起こってもおかしくない、何一つ不思議ではない。
どんな荒唐無稽で支離滅裂な出来事も可能にするのが夢である。
そういう意味では、ハルヒの神的パワーにも似ているのかもしれない。
実際に現実世界に作用するハルヒと比べると、ずっとスケールがしょぼいがな。
古泉が横を向く。俺はゆっくりとその視線の先を追う。
窓のそばに立つシルエット――――やや逆光だが、それは見慣れた、ブレザーの。
これはなんの冗談だ。
いくら悪い夢に迷い込んだのだとしたって、……悪夢の度合いにだって限度ってもんがある。
こんな、こんなことがあってたまるか。
必死に否定しても、目の前の光景は一向に消えてはくれない。
佇む古泉は、いつも浮かべているような微笑ではなく見たこともないほど悲しげな、いっそ悲愴といってもいいツラをしていたが、間違いなく俺の知る古泉だとわかった。
理屈抜きでわかってしまう、というのはこういう感覚なのか。
色素の薄い双眸が俺をまっすぐ射抜く。
俺は声を失い、誤魔化しようもないくらいカタカタと震え、ついには涙が頬を伝った。
信じられない。何がどうなってるんだ。
頭の中が混乱し、ぐちゃぐちゃで、整理が出来ない。
だって古泉が、なんで、なんで、なんで。
「嫌だ……古泉、こいずみっ」
考えるより先に名前を呼んでいた。
古泉は動かず、ただ悲しそうな顔をするだけだ。
さほど鮮やかではないはずのブレザーの紺色が目に突き刺さるようで、視界が滲む。
「僕のことは呼んでくださらなかったのに」
懸命に伸ばした手は同じ顔をした別の男に掴まれて、呼んだ名前は強引に重ねられた唇の中に消え、そうするともう俺に出来ることは何もない。
「んっ……」
こんなときだというのに快感を得てしまう自分の身体を呪う。
どうしたらここから抜け出せるだろう。いつになったら目が覚めるんだ。
わからない。状況を認めたくない。受け入れるには何もかもがひどすぎた。
罪悪感が膨れ上がり、意識の大半を押し潰して乗っ取る。
古泉の長い指が、勃ちあがった性器を握った。
「!! っ、あ」
「はぁっ……再開、と、いきましょうか」
前への刺激と同時に揺すりあげられる。ぽたぽたと涙が零れ落ちた。
「や、あ、あ」
古泉の視線を感じる。
こんなみっともない姿を晒していると思うと、恥ずかしさで死ねそうだ。
堪えていた全てが音を立てて崩壊していく。
張り詰めていた糸が一本切れれば、あとはあっという間だった。
古泉の前では、俺は、こんなにも弱い。
「うっ……ああ……あ」
立ったまま腰を突き上げられ、粘膜を擦られると、びくんと肩が跳ねた。
動くたびに耳が汚れそうなほど卑猥な音がする。
俺はしゃくりあげながら、ろくに回らない舌でただひたすら嫌だとそればかりを言った。
「やっ、い、やだ……もうやぁ……」
敏感な部分を引っ掛け、何度も突いてくる、いっそ暴力的なまでの快楽から逃れる術を知らない。
濡れた頬に熱い舌が触れた。
「ねえ、どんな気分ですか?」
ゆるゆると扱きあげられ、よく知る感覚に身体があっさりとそれを受け入れて反応する。
答えられない俺を更に追い詰めるべく、動きがより速く乱暴なものへと変わっていく。
身体の奥から熱いものがせり上がってくる。
耳の穴に舌を突っ込まれ、先走りを吹きこぼす先端に、ぐり、と指先が食い込むような力を加えられた。
「――――いやらしい」
「ひっ! ん、うううう……っ!!」
それが決定打となり、俺は白濁を吐き出しながら絶頂に達した。
どうしてまだ目が覚めないんだろう。これは本当に夢なんだろうか?
いや夢だ、だってこんなこと現実にはありえないじゃないか。
でも、もしかしたら、違う、わからない。……わからない。
「っう……、ふ」
引き抜かれていく感覚に小さく声を漏らした。
中からとろりと溢れ出したものが太ももの後ろを伝う。同時に雫も頬を濡らす。
頭が働かず、回路が途中でぶっつりと切断されているようで、うまくまとまらない。
きちんとした形を作る前に霧散して消えてしまう。
「……あ」
古泉の腕が離れる。
支えを失って、俺は壁に背中をつけたままずるずるとへたり込んだ。
古泉は詰襟をまったく乱していないのに、俺ばかりがこんなに余裕を奪われている。
「俯くのはまだ早いですよ」
肩で息をする俺の横に回り片膝をつくと、顎をとらえる。
ああそうか、まだ終わりじゃないんだな、と俺は頭の片隅でぼんやり思った。
いつまで続くんだ。
そのままキスをされながらゆっくりと身体の位置を入れ替えられ、後ろから腰を抱き寄せられた。
「うあ」
両手両足を床に着き、四つ足の獣みたいな姿勢になる。
背中に圧し掛かられると、力の入らない上半身は容易く崩れ落ちた。
間近に木目がある。冷たい床に顎が触れた。
「……っ!」
その冷たさに息を吐いた瞬間、再び中に押し込まれる。
俺は床に頬を擦りつけながら呻き声を上げ、後ろではくすくすと笑う気配があった。
「っは、あ、う」
少しでも衝撃をやり過ごすため、呼吸をすることで身体をなだめようとする俺の努力をあっさり砕くように、古泉は俺の腕を引っ張った。
体重など失くしたように、ただそれだけで簡単に身体が浮き上がり、背面座位のような姿勢に変わる。
軽々と持ち上げられたはずの身体は重さを取り戻し、古泉を飲み込みながら腰が落ちた。
「ふぁぁっ!?」
肌と肌が密着する。勿論繋がっている部分も、ぐっと深い。
かなり奥まで古泉で占められているのを感じた。
もしもこれが現実だったら、確実に意識が飛んでいたと思う。
それぐらい苦しくてつらくて、俺にとっては過ぎた快感だった。
「っ、くぅ……っ! ……!? っい」
息を吸うでもなく吐くでもなく、ただむなしく開け閉めする。
一瞬、ふっと焦点が合う。
すごく近くに古泉の顔があって、そんなはずはない、だって古泉は後ろにいるのに、古泉の首元にはきっちりとネクタイが締められている。
俺の理性は消し飛んだ。
「や……やだ、古泉、こいずみぃ」
ブレザーの古泉は、揺さぶられるままになっている俺の目の前にかがみこみ、綺麗な指先で涙をそっと拭う。
そのまま優しく唇を重ね合わせ、触れるだけのキスをする。
愛しげに髪の毛を撫でる手のひらは、俺の涙腺を刺激した。
……ごめん、ごめん古泉、ごめん。
顔中にキスを降らせる古泉に、俺は小さな子どものように泣きながら、胸のうちで幾度となく謝った。
そんなつらそうな顔をさせたいんじゃない。そんな悲しそうな顔をして欲しいんじゃないんだ。
この夢はきっと、俺が胸に抱いていた引け目を具現化したものなのだろう。
十二月に起きたあの世界改変。あれを経験してからずっと、どこかで考えていた。
長門がひと時でも改変を望んだように、古泉もまた自分が超能力者ではない世界を望んでいたとしたら。
超能力者の苦悩なんて俺にはわからない。
こいつが三年前からどんな思いで戦ってきたのか想像もつかないが、自殺を考えたこともあると言うほどなのだから相当だったのだろう。
あのとき全てを元に戻すことを選んだ俺の判断は間違っていなかったと思う。
けれど理性とは別のところで罪悪感が囁くのだ、「俺は可能性をひとつ奪った」と。
だから――――ごめん。
俺の心を見透かしたように、後ろの古泉が体内を抉りながら言った。
「神に選ばれた鍵たるあなたに、見捨てられたものの気持ちなど」
「ひっ……ぁ、あ」
「わかる、はずがない……っ」
膨張する熱量が神経を焼く。喉を反らせて喘ぐ俺の口を、古泉が塞いだ。
そっと控えめに差し入れられた舌がさらなる熱を生む。
意識が混濁し、どっちがどっちだとか、もう判断する余裕も無くなってきている。
古泉。
俺にはわかってやれない。
俺は凡人でなんの悩みもなくて、せいぜい妹が間抜けなあだ名で俺を呼ぶことがちょっと嫌だとかそんくらいで、神人とか機関だとか閉鎖空間も知らずに能天気に生きてきて、ある程度の事情を知った今でもやっぱり俺の踏み込めない領域があるんだなって痛感する。
それでも、
「……それでも、俺は」
お前を。
深く潜った海の底から水面に顔を出したような、そんな感じの目覚めだった。
呼吸がなかなか整わない。全身にじっとりと汗をかいている。俺の皮膚の表面限定で梅雨前線が活発化したみたいな。
夢精してるんじゃないかと危惧していたが、幸い下着は無事のようだ。
「……う」
鈍く重い頭を抑え、俺は空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
古泉の匂いがする。
そこにあるのは、こういう形容を朝比奈さん以外に用いるのはひどく癪だが、天使のようなという言葉にふさわしい寝顔だ。
中身はこれっぽっちも天使じゃないがな! こんなふしだらな天使がいてたまるもんかよ。人間に快楽を教え堕落させるという悪魔のほうが似合いだ。
俺は身体に巻きついた古泉の腕をはずして、ベッドを抜け出す。
フローリングが足の裏に冷たい。
ハンガーにきちんとかけられた制服が、ブレザーであるのを確認してほっとした。
「ん……」
ぼんやりした声が聞こえ、振り返る。古泉が薄目を瞬きながらこちらを見ていた。
寝起きの顔も崩れないのはさすがと言うべきか。
「悪い、起こしたか」
古泉は微笑んだ。
ゆっくりと裸の上半身を起こし、俺に手を差し伸べる。
「こちらへ」
「え?」
よくわからないながらも言われるままにベッドのそばに戻ると、すぐさま引きずり込まれた。
二人分の体重を受け止めたベッドが不満げな声を小さく上げる。
俺はぎゅう、と強く抱きしめられて再び水の中の気分を味わう。息が出来ない。
窒息するだろうが貴様、加減しろ。
「すみません」
僅かに腕の力は緩んだが、外してはもらえない。
ただ抱きしめられるだけの時間が過ぎる。
俺はたぶん寝汗でべたべたしてるうえに汗臭いだろうし、そんな身体を抱きしめられていることがいたたまれず出来ればシャワーを浴びに行きたいんだが、放して欲しいとは言い出せずにいた。
「お前、抱きしめんの好きな」
「好きですよ。あなたを確認できる」
古泉が心底幸せそうな顔をするから、俺もつられてまあいいかななんて気分になっちまうんだ。
どうか石を投げるのは勘弁してくれ。
「安心します」
万感の思いで呟かれた言葉なのだと、はっきりとわかった。
涙腺が緩みそうになったのを感じ、慌てて顔を伏せた。
俺は神人狩りを代わってやれないし、長門のような万能の力でお前を助けてやることもできない、機関のしがらみや一方的に与えられた能力から解放してやることも。
でも、もしほんの少しでも、お前の安らぎになれているのならいい。
俺は古泉の背に腕を回して抱き返した。
この身体に色々なものを背負っているこの世界のお前が、その荷物全部放り出したいと望んだとしても、俺はきっとまたそれを切り捨てる。
こんな風に思うのはエゴでしかないのかもしれないけどさ。
それでも俺は、お前を選び、お前をわかりたいと思うよ。
「俺も好きだ」
「えっ」
「……抱きしめんのが」
俺は笑い、詰襟でもブレザーでもない素裸の肩口に顔を押し当てた。
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