大学生&同棲の派生話です


 テーブルの上に、紙切れが鎮座ましましている。ろくでもない紙切れだ。悪魔の契約書と言っても過言ではない。
 俺はもし自分の目からかつての朝比奈さんのように怪光線が出せたとしたらきっとこの紙切れは燃えて灰になるだろうと思うほどの眼光でもってそれを見下ろし、頭蓋骨の中で脳みそを茹らせながら、どうしようもないアホ同居人の帰りを待っている。
 同居人は同い年の大学生の男で、おまけに元空間限定超能力者で、名を古泉一樹という。

 高校で妙な団に引きずり込まれ巻き込まれ日々神経をすり減らしているうちに男同士であるにもかかわらず友情ではなく愛情なんぞをうっかり育んでしまった俺たちは、揃って関東の大学進学を志望し、揃ってめでたく合格したのをよいことに、それまで住んでいた家から離れて一人暮らしならぬ二人暮らしを始める運びになった。
 交通の便のいい駅近くの物件を見つけてきたのは古泉だ。
 ほぼ新築と言っても差支えがない綺麗な外観のアパートは、駅が近いうえに広さもなかなかとあって、家賃に当てるのが可能な俺の予算をだいぶオーバーしていたが、差額は自分が出しますからと古泉に熱心に説き伏せられてそこに決まった。ちなみに敷金だの礼金だのも古泉の懐から出た。
 渋る俺ににこにこと幸せそうに笑って、
「僕、結構お金持ちなんですよ」
 どうも甲斐性をアピールしたかったらしいのと、「どうせあなたと暮らすなら少しでもいい部屋を選びたいじゃないですか」とのことだ。
 こいつときたら、夢見がちだし過保護なのだ。
 互いの大学からの距離が真ん中辺りになるような駅にしようと言ったはずなのに、俺の大学のほうが近くなるような駅を選んだところからして、俺を甘やかしすぎだろう。
 とはいえ、俺だってただ黙って甘やかされていたわけではない。
 二人で住むのだから、なにもかも古泉に任せきりでいいはずがない。
 早々にこちらでバイトを見つけて家賃を出来る限り入れるようにしたし、なにより家事のほとんどを俺が負担し、古泉のリクエストどおりの手料理を振舞ったりと甘やかし返してやった。
 恋人同士、しかもやりたい盛りの若い男二人が一つ屋根の下四六時中一緒にいたらどうなるかなんてのは、蟻地獄に蟻を放り込んだらどうなるかよりも想像が容易い。どうでもいいがさっきからやたら漢数字が多いな。
 若者の性の乱れ。
 俺たちはテレビの偉ぶったコメンテーターが嬉々として槍玉に挙げそうな、セックス三昧の日々を送るようになった。
 回数が増えたのと時間に幅が出たくらいで、高校のころとそう変わらないんじゃないかという気もするが。
 まあそんなこんなで、俺と古泉はそれぞれの大学に通い、講義を受けたりバイトに明け暮れたりしながら、ときにすれ違い、ときにぶつかり反発し、ときにくっつき絡み合い、いちゃいちゃぐちゃぐちゃと、その、まあ、ええと、同棲生活、をそれなりに満喫していたわけだ。
 そりゃ、いきなり赤の他人が家族として暮らすわけだから、何もかも順風満帆とはいかなかった。
 喧嘩したり、雨が降ったり、大喧嘩したり、雨降って地が固まったり、二年の間にいろいろあったさ。
 それでもそれらを乗り越えて、俺としては絆を確かなものにしてきたつもりだ。
 つもり、だった。
 まさかこんな形で危機を迎えることになろうとは思いもよらなかった。

 古泉が、交通事故にあった。


 俺は蝉丸の姉のように髪の毛が逆立ち天を突く勢いで怒り狂っていた。
 これが怒らずにいられようか。
 俺の前に置かれた封筒になんて書いてあるのかを明かせば、俺が怒るのも無理はないと納得いただけるだろう。
 見間違いようもない、一度美子ちゃんに教えを請うたほうがいいんじゃないかと思う相変わらずの乱暴な筆致で『遺言書』ときたもんだ。
 引き出しからこんなものを見つけてしまったときの俺の怒りを、古泉はきちんと受け止めるべきだ。


 前述のように俺と古泉は別々の大学に通っている。同じところに行きたくなかったと言えば針を十本は飲まされるだろうが、まあ、この辺りは歴然たる学力の差のせいであってしようがない。悪いのは言葉通り俺の頭なわけだしな。
 それに古泉がもし俺のために自分の進路を無理に捻じ曲げるような人間であったなら、俺はやつと付き合っていなかったと思う。
 しかし幸いにして古泉は俺がそんなことをされてもちっとも嬉しくないということを察せるくらいには俺のことを理解してくれていたため己の学力と将来性に見合った大学をきちんと選び、俺たちは順調に交際を続け……いや、少々脱線した。話を戻そう。
 学校や職場というのはそれだけですでにひとつの小さな世界だ。
 高校のころのSOS団の強固な結びつきほどではないが、二人とも、しだいに相手の知らない自分だけの世界が増えていくのは当然で、それを寂しいと感じなかったと言えば飲む針を数本追加されるだろうが、世界が広がるのはいいことだと思う気持ちのほうが強かった。
 だいたい、今までの古泉の世界はハルヒと機関とSOS団と俺くらいで、狭いにも程があったしな。
 ……あー、また話が逸れた。今度こそ閑話休題、さてここからが本題である。
 新たな交友関係、それはゼミ仲間だったり、同じ講義を取るうちに親しくなった男友達だったり、会うたび合コンに誘ってくる女の子だったり、バイト先の気さくな先輩だったりした。
 その中で俺と古泉共通の友人にまで発展したやつも何人かいる。もちろん、だからといって俺らの関係まではばらしちゃいないがな。
 世間的にはただの同居人、ルームメイト、貧乏学生の知恵、単に部屋が一緒なだけ。
 しかしてその実態は、と変身物のヒロインのように言うならば、同棲中の恋人というピンクのフラッシュがかけられそうな間柄であるが、真実を知る人間は俺らの周りにはいないのだ。
 大学が異なるので、俺は古泉が学校でどのように過ごしているのか知るのが難しい。
 もちろん今日は講義が何限から何限まであるかとか、朝は何時に出て夜は何時に帰るとかいつからテスト期間だとかレポート課題が一度に二つも出ただとか今日はバイトだとか飲み会だとか、忙しいとか暇だとかの情報は互いに看護師の朝の引継ぎのごとく伝えるようにはしているし、向こうからは講義の隙間なんかにメールやら電話が充電が心配になるくらいにはしょっちゅう来る。
 だが、高校のときのように、気軽にふらっと教室に見に行くなんてのが物理的に不可能になっちまった。
 だから基本、古泉から連絡がない限り俺はやつの動向を知る術がなく、やつの学友の中で古泉に何かあったときには真っ先に俺に教えなければならないという不文律を心得ている人間もいない。
 そんなわけで、俺が古泉が事故にあったことを知ったのは、事故発生から実に一時間後、やつが車と接触し救急車で運ばれ医学的処置を受けベッドの上で眠りについた後だった。つまりほとんど終わった後だったってことさ。
 古泉の携帯は、事故の衝撃かなんかでぶっ壊れちまったらしい。
 警察が免許証に書いてあった住所から電話番号を調べまず家にかけたらしいが、あいにく何も知らない俺は講義の最中でおらず、次に学生証から判明した大学に問い合わせ、そこから緊急連絡先として俺の携帯に繋がった。
 もはや講義どころじゃない。
 今日はあと二コマ残っていたし、今受けているのは出席に厳しいことで有名な教授の授業だったが、俺は教室から飛び出すことをためらわなかった。


 散々前ふりをしておいて今更こんなことを伝えなくてはならないのは非常に心苦しいのだが、これ以上引っ張るのもどうかと思うんで結論から言おう。
 古泉の怪我は左足の骨折と軽い打撲だけで、命に全く別状はなかった。
 なんだそりゃ、血相変えて駆けつけた俺がアホみたいじゃないか。
 なんのために次から教授に睨まれるリスクを負ってまで大事な授業を抜けてきたと思ってるんだよ。
 慌てて病室に飛び込めば(病院では静かに!)本人はピンシャンしてるっつうかベッドの上でぐーすかお休み中で看護士の美人なおねーさんにずれた掛け布団を直してもらってる最中だったなんて、気分は死にネタのシリアスドラマかと思っていたのに実はコントでしたといきなり明かされた視聴者だ。
 どう責任とってくれるんだよ、お詫びして訂正しろ。
 それから人の心臓に衝撃を与え寿命を縮めたことについても謝罪してもらいたいね。
 六人用の大部屋の隅っこに置かれたベッドに横たわる古泉は、俺の到着に目を覚まして、へにゃりと情けなく眉を下げた。
 布団から出た足には白いギプスが巻かれ、多少は痛そうに見えんでもない。
 全身に素早く目をやり、どうやら目立つ外傷はそれだけであるらしいことに安堵した。
「すみません、ご心配をおかけしてしまって」
「……骨折で入院だって?」
「ギプスが固まるまで今日一日はベッドの上でじっとしていなくてはいけないそうなんです。ただ、骨折と言ってもひびが入っただけなんですが」
 なんだそりゃ。さっき胸中で呟いた言葉を今度は実際に声に出してしまった。
 古泉はますます困ったように首をかたむけ、
「今の時間、あなたは学校だったと記憶しているのですが、こうしていらしてくださったということは、僕のせいで欠席させてしまったんですね」
「お前が事故にあったってきいたから……つうか、警察から電話がきたら何事かと思うだろ、フツー。大怪我でもしたんじゃないかってすげえ心配で、ここにくるまで気が気じゃなかったってのに、ったく……人騒がせな」
 古泉は「はぁそれは」と笑みの種類を変えた。
「あなたのご要望にお答えできず、申し訳ありませんでした」
 あ、拗ねたなこいつ。
「そんなこと言ってないだろ。ただ、情報の伝達に齟齬を生じさせるなってことだ」
 機嫌を損ねたいのはこっちのほうだ。
 いつの間にか増えた看護士のおねーさん方の熱い眼差しが古泉に注がれているのがわかる。素敵な好青年が来たとでも思われてるんだろう。
 言っちゃ悪いが今この大部屋にいる他の入院患者はお年を少々召されていたりメタボリックシンドロームだろうと思われたりどう見ても小学生の子どもだったりと、まあバラエティに富んではいるが麗しくはないからな、そこへ若くて顔のいい男がやってくれば白衣の天使も中身は人間だからビタミンを摂取したくもなるさ。
 だが申し訳ない、俺もまた人間なもので、この状況で他の女のアプローチを許容できるほど心が広くないのだ。
 俺は側にあったカーテンを引っぱり、ベッドの周りに展開させ、視線を全て遮った。
 目を見開いた古泉とおそらく仏頂面をしているだろう俺と、カーテンに囲まれた白い世界に二人きりになる。
 これでさっきより話しやすい。ベッドの脇の椅子に座り込んで、ようやく人心地ついた気分で息を吐く。
 病室の場所を尋ねたときに受付の人が教えてくれたので、古泉の怪我がどの程度のものなのかは知っていた。
 だが、実際に古泉の姿を見るまでは、ずっと緊張しどおしで、心臓の休まる暇もなくて、本当に心配したのだ。
 手を伸ばして、事故のときに擦りむいたのかほんの少し赤くなった頬に触れる。
「まあ、……無事でよかったよ」
「……はい」
 重ねられた手のひらの温度に泣きそうになったのは秘密だ。


「信号待ちをしていたところに、突然軽自動車が突っ込んできまして」
 古泉を轢いた車の運転手は、全くもって腹立たしいことに運転中に携帯電話で話し込み、そのせいでハンドル操作がおろそかになったそうだ。
 そんな許しがたいアホは車に乗る資格がないので即刻免許を剥奪されるべきだと思う。書類送検? 罰金? 生ぬるい。
 一歩間違えればどうなっていたかなんて、――――ああ、考えたくもないね。
 俺は長門のために情報統合思念体を脅したこともある男だ、古泉に怪我を負わせた犯人に殴り込みをかけることに躊躇いが生じようはずもない。大事な人間を傷つけられそうになって黙っていられるか。
「お気持ちは嬉しいのですが、僕も大事な人が警察に捕まるのは嫌ですよ」
 そう言って古泉は、俺の怒りを吸い込んでしまうような笑みを浮かべた。
 ところでさっきからずっと手を握られたままなのだが、まあカーテンはしっかり周囲の視線を遮断してくれているし、こんなときくらいこいつを甘やかしてもいいだろうということで特に振り払うこともせずにいる。
 古泉は俺の手の甲を親指で撫でながら
「運悪く、僕のほうもあなたにメールを打とうと携帯を弄っていたところだったので、避けるのが遅れてしまったんです」
 そして転んだ衝撃で携帯はお釈迦になり、ついでに頭も打って脳震盪、気を失ったまま救急車で運ばれ、俺への連絡に手間取ったというわけだ。
「頭は平気なのか?」
「軽いこぶになったくらいで、たいしたことはありませんよ」
「どれ」
 手を伸ばして柔らかな髪の毛に触れる。古泉は痛かったのかくすぐったかったのか判断に迷う顔で目を細めて、俺を引っ張った。
「おわ、」
 予想外の力にバランスを崩し、そのまま古泉の胸に倒れこむ形になってしまう。抱きしめる腕は思いのほか強く、俺は小声で抗議した。
「ちょ、ここ病院……!」
 いくらカーテンで見えないとはいえ、周りに他の入院患者や看護士さんがいるんだぞ。気づかれたら、
「ええ、ですから騒がないで」
「……」
 脅迫に等しいセリフとともにぎゅう、と抱きしめられ、俺ときたら抜け出すのを諦めるどころか背中に腕を回し返す始末だ。
 心臓の音が聞こえる。お互いにしか届かないくらいの小さな声が耳元に落ちた。
「怪我をしたのが足で良かったのかもしれません。腕だったら、こうしてあなたを抱きしめられなかった」
 吐息がふんだんに織り込まれた囁き声、恥ずかしいセリフ、直接耳に吹き込まれる、のコンボ。威力が半端じゃない。
「全治どんくらいだ?」
「三週間といったところだそうです」
「じゃあそれまでおあずけだな」
「えっ」
 なんだその晴れ渡った空に突如起こった雷を見たときのような顔は。当たり前だろうが、んなギブスの足でまともにできるわけがないだろ。
「あなたが乗っかってくださればでき……いたっ」
 脳が送った「殴れ」という指令に従った手がべちんと古泉の頭をはたいた。
 それほど強く叩いたつもりはなかったのだが、どうもこぶにジャストミートしたらしい。すまん許せ、わざと狙ったわけではないんだ。
 腕の中から抜け出して立ち上がると、古泉が焦ったように俺を見た。
「帰ってしまわれるんですか?」
「一旦な。一日入院とはいえ、着替えとか、必要なものはあるだろ。ギブスに落書きする油性ペンも取ってきちゃる」
 だからそんな心細そうな声を出すな、すぐ戻ってくるから。
「はい」
 俺はカーテンがきっちり閉められていることを確かめ、ベッドに手をついた。ぎし、と音がする。
 そのまま、背をかがめて顔を近づけ――――唇を重ねるだけで離れた。ここは病院で、周りに他の入院患者や看護士さんがいるのだ。
「個室でなくて残念です」
 ……それについては俺も同じ意見だよ。


 ナースステーションを離れ、人気のない、照明の落ちた廊下。磨かれたリノリウムの床。
 神経質なほどの清潔な匂い。ひたひたというスリッパの音。
 そんな夜の病院に泣き声などこだました日には、ちょっとしたホラーだ。一夜にして看護師さん方の噂になれるだろう。
 ここが死人に縁遠い整形外科病棟なのが救いである。それに、俺は幽霊の正体が枯れ尾花であると知っている。
「お前なあ……いい加減泣き止めよ」
 他の患者さんにもご迷惑だろうが、廊下にまで聞こえてきたぞ。
 トイレから戻りスライドドアを閉めながら言うと、こっちを責めるような、涙に濡れて光る目とぶつかった。
 廊下と違って室内にはこうこうと明かりがともっている。
 時刻は現在深夜1時、本来なら消灯時間であり、だから電気も消していなければいけないのだが、その……だな、暗くては作業に支障があったのだ。
 俺は持っていたじょうろのようなプラスティックの容器をベッド脇の棚にしまった。
「……ですが、あんなことを……」
 そう言って古泉は枕を濡らす作業に戻る。シーツを濡らすよりましだろうぜ。
「何言ってやがる」
 ふん、と腕組みしてベッドを見下ろした。正確には、ベッドに横たわってあてつけのようにいつまでも恨みがましく泣く古泉を見下ろした。
 ギプスが固まるまでは安静、すなわちトイレにも行けない古泉は、自分のプライドを守るためにずっと我慢していたらしいのだが、真夜中を回ってその我慢にも限界が来たのだった。
 いい年をした男が他人に排泄行為を手伝ってもらう、その恥ずかしさはわからんでもない。真の意味で同情してやろう。なにせ、
「お前だってこないだ、嫌がる俺を無理矢理辱めたくせに」
 そう、俺は他ならぬ古泉の手によって、すでに似たような目に遭わされていた。
 毛を剃られたあの日以降、二度と深酒はすまいと飲み会の類を自重していたのだが、どうしたって断れない席というのはあるもので、でもって連れて行かれた店で、それまで控えていた反動か、つい――――そう、つい。ついだ。
 許容量を見誤って飲みすぎ酔っ払う、古泉からの度々の着信に気づかない、予告していた時間より帰宅が遅くなる、といううっかりな三連コンボをやらかした俺を待ち受けていたのは、百年の恋ならぬ酔いも冷めるような展開でございましたとさ。
 風呂場に連れ込まれたときはまた剃られるのかと恐怖に震えたが、違った。
 酒を飲むとトイレが近くなるだろう? 人が嫌だやめろトイレに行かせろと言ったのに、まるっと無視してあまつさえ快感と同時に尿意を促すような刺激を、詳細は省くが俺はあのときほど舌を噛み切りたくなったことはない。
「あれはプレイだからいいんですっ」
 そんな理屈で納得いくと思うか? 怪我の不可抗力より、プレイのほうがよっぽど恥ずかしいだろうが。
「あなたの恥ずかしいところを見るのは好きですが、自分がやったってなにも楽しくありません……!」
 つまるところこいつは自分がされたことに対する屈辱に泣いているのではなく、なぜされるのが俺ではないのかと、俺と逆の立場になりたかったという悔しさに涙しているわけである。
 殴ってもいいだろうか。いやいや仮にも相手は怪我人だ。俺は拳をおさめて部屋の電気を消した。
 窓から差し込む仄かな月明かりだけが光源となり、視界が青白く沈んだ。
 ところで先ほどから随分赤裸々な会話をしているが、室内には俺たち二人だけなので、心配はご無用。
 なぜかといえば、個室でなくて残念です、と言った古泉が、俺が着替えや諸々の必要なものを取って戻ってくる間にちゃっかり個室に移動していやがったからだ。
 ここは以前俺が入院したような機関の息のかかった病院だったりはしないと思うのだが、いったいどういう手を使ったんだか。
 まあいい。一晩泊り込んで付き添うには個室のほうが気が楽で助かるのは確かだ。
「そんくらいでぐちぐち抜かすんじゃねえ。一回の下の世話がなんだ。これからだって、」
 古泉が涙で濡れた睫をあげる。俺はソファに腰を落ち着け、病院から貸し出された毛布を広げた。
「……これから?」
「ああ、お前がこれから先じいさんになって、ボケたり寝たきりになっても、俺が介護してやるよ。そんくらいの覚悟はあるんだ」
 古泉が何かを言う前に、毛布を引っかぶってごろんと横になる。これ以上の会話には応じないという意思表示のために目をつぶった。
「おやすみ」
 空調はきいているのにやたら頬が熱い。
 青白い月はどこか病的であまり好きじゃないんだが、今日だけはその光の色に感謝してもいい。


 翌日、松葉杖の古泉は看護師さんの中にファンを大量に増やして無事退院となった。
 タクシーに乗り込む間際まで熱烈なお見送りをされたばかりか、俺の知らないうちにそれとなく携帯の番号やアドレスを聞かれたりもしたらしいが、今壊れてしまっているからの一言で追い払ったので安心してくださいね、って安心も何も俺は別にそんな心配なんかしとらん。
「ふん、どうせなら番号交換くらいしときゃよかったんじゃないか。看護師さんと保育士さんは人気どころだろ。合コンでもすりゃ、いつも誰か紹介しろしろうるさい学友どもに喜ばれるぜ。あいつら飢えてるからな」
 アパートの前にタクシーを停め、松葉杖以外の荷物を全部俺が持って降りた。
 着替えなどは比較的コンパクトにまとめてあるのでたいした量ではないのだが、花束がかさばって仕方がない。
 なんで一日しかいなかった患者がこんな立派な花束を貰っているんだろうか、普通ありえないだろう。
 花に罪はないのはわかっているが、正直これを家で活けるのはあまりというかかなりというか気が進まないんだがどうしたものか。
 かつ、かつ、と杖がアスファルトを叩く音がする。
 眠気を誘われるリズムだなと思ったのは歩調が若干ゆっくりとしたものであるせいで、昨夜なかなか眠れなかったとかそういうわけではない。
「そんなこと言って、僕が合コンに行ったりしたら拗ねるくせに」
「拗ねたりなんかするか」
「嘘。今だって拗ねてるじゃないですか」
「拗ねてねえ!」
 ついむきになって言い返してしまい、語尾が思いのほか強くなって舌打ちしたくなる。これじゃ肯定してるのとほとんど変わらない。
 こういう、自分のガキっぽさを自覚させられるのが嫌なんだ。
 誤魔化すようにポケットを探り、鍵を取り出した。ドアを開け、閉まらないように固定してから、いったん荷物を玄関に置く。
「古泉、それこっちよこせ」
「あ、すみません」
 松葉杖を古泉から受け取って玄関の壁に立てかけた。
 俺たちの住んでいるのは洋風建築だったりホテルだったりはしないごくごく一般的な日本のアパートであり、したがって部屋にあがるには玄関で靴を脱がなくてはならず、古泉は左足はギプスだが、右足には靴を履いている。
「大丈夫か? バランスは崩すなよ」
「ええ」
 古泉の肩と腰を支え、そっと玄関に腰を下ろさせる。古泉は靴を脱ぎ、しみじみと呟いた。
「ううん……片足を少し怪我しただけでも、不便なものですねえ……。あなたの手を煩わせてばかりだ」
「怪我してんだからしょうがねえだろ。こういうときは頼ってもいいんだよ。ほれ」
 座ったときと同様にそっと立ち上がらせようと腰に腕を回すと、古泉も俺を抱き返してきた。
 だが腕の中の身体はずしりと重いままで、一向に軽くなる気配がない。
「……ん? おい、古泉、た……」
「先ほどの話の続きですが」
 さっきの話っていったら――――……まさかこのタイミングで蒸し返されるとは思わなかった。
 しかもしっかり抱きしめられているわ古泉の唇は俺の耳のすぐ横五センチのところにあるわで、今度は逃げようにも逃げられず、聞こえないふりもできず、どうにも誤魔化しようがない。
 古泉は自分の声がどういう効果をもたらすか明らかに熟知していて、耳元に落とすことで俺の足から力を奪った。
「僕は拗ねますよ。拗ねたり、悲しくなったり、傷ついたり、怒ったりすると思います。あなたが他の女性から言い寄られている姿なんて見たくないし、想像するのも嫌ですからね」
 ……独占欲を素直にさらっと口に出す古泉と、いつまでもつまらない意地を張って認めることの出来ない俺と、本当にガキなのはどっちだ、っていう話だよな。
「……俺も、その……、お前があんまり病院でコナかけられてるもんだから、ちょっと、気分はよくなかった」
 ああくそ耳が熱い。熱い、から、口を近づけるな、熱っぽい息がかかって余計に熱くなるんだよ。
「っ」
 ちゅ、と軽い音を立てて耳に口付けられた。
「おい、」
「すみません、あまりに可愛かったものですから、つい」
 ついって!
 よく見りゃ古泉の表情はすっかり「したいですしたいです今したいです」と訴えるものになっていた。
 する、とシャツの隙間から侵入した手が背中を撫でて、肌が粟立った。
「ダメ、ですか……?」
 いやダメとかダメじゃないとか、だってお前足怪我してるし、回された片腕に力がこもる、ここはまだ玄関で、指が背中をまさぐる、俺昨日風呂入ってないし、唇が首筋を下りていく、今日は平日で、舌が鎖骨に押し付けられる、今は朝で、そう、朝、
「が、学校! 授業!」
 俺はべりっと古泉の顔を引き剥がした。
 やべえ、今日一限から、しかも小テストのある日じゃねえか。
 時計はすでに八時半ばを回っていて、講義開始は九時十分、遅刻は二十分後までならセーフ。
 急げばいけそうだ。
「あ、そうですね、今日は休みではありませんでした。残念です……」
 古泉もしょぼんと目に見えてしょげはしたものの、単位取得という事実を前にしては流石におとなしく諦めて、拘束していた腕を解いた。
 俺は立ち上がり、古泉を引っ張り上げて立たせると、その手に松葉杖を押し付けた。
「お前は? 学校どうするんだ」
「講義を聴く分には問題ないのでいくつもりですが、二・三限ですからまだ時間はあります」
 にこ、と笑い、片手で軽く頬に触れてくる。
「片足以外はいつもと変わらないんですから、そう心配なさらずとも大丈夫ですよ。僕も子どもじゃありませんし、一人でもある程度のことはできるつもりですしね」
「そうか、俺は今日午前だけだから、終わったらすぐ帰ってくるようにするけど。なんならお前の大学まで迎えにいってもいいぜ?」
「え、でも、悪いですよ……いたっ」
 でこピン。だーかーら、そういう遠慮はいらねえんだって。
「なんかあったら公衆電話からでも携帯に連絡しろよ」
 リビングのソファに腰を落ち着けた古泉による時報とエールとを背に、ばたばたと用意を整える。
 要るものは鞄に詰めた、顔は病院で洗った、昨日の服のままだが着替えてる時間はない、朝飯は大学のコンビニで買えばいいか。玄関で靴をつっかける。
「んじゃ、行ってくる!」
「はい、いってらっしゃい」
 アパートを飛び出ると同時にダッシュだ。待ってろ電車め。いや待っててくださいお願いします。


「聞、い、た、ぞ〜、キョーン」
 テストの終わった人間から出て行ってよし、とされた一限で、なんとか解答欄を埋め終え教室を出たところを、先に終わって廊下で待ち伏せしていたらしい同級生に捕まった。
 どこか谷口を思わせる、つまりお調子者で女好きでアホ、というこの友人は、ニヤニヤと俺の肩に腕を回して、
「お前、昨日ドイツ語の授業ぶっちしたの、女から呼び出されたせいなんだってな」
 ……なんだそりゃ。どこからそんな話がでてきたんだ。
「にくいねっこのこのッ。しかも昨日と同じ服とは、もしやそのままお泊まりかよ! いやっ不潔っ!」
 つんつんと頬を指先でつつかれ、俺は首を振って避けた。
「……あのな、言っておくがまったく事実無根のデマだぜ」
「あ? そうなの?」
「そうなの。女じゃなくて警察から、同居人が事故にあって救急車で担ぎこまれたっつう連絡を貰ったってのが真相だ」
「え、マジかよそれ、大変じゃねえか! 同居人てあの、顔は綺麗なのにおっかねえやつだろ。古泉くんだっけ」
 どういう評価だと思わなくもないがなんとなくわかる気もする。
 こいつは俺が大学で比較的親しくしている男で、だから古泉とも多少の面識の機会があったのだが、おおかたそれで古泉曰くの『俺に近づく狼候補』に気の毒にも認定され、あの殺気のこもった視線を浴びたのだろう。南無。
 心中で手を合わせられているとも知らず、友人は俺の肩を抱いたまま言った。
「で、大丈夫なのか、同居人」
「ああ、ちょっと怪我しただけで、今日は普通にあっちも学校行くってさ。まあ、一人じゃ大変かも知んないんで、授業終わったら様子見に行くつもりではいるが……」
「お前、確か二限も俺と一緒だったよな? 世界史。代返しといてやろうか」
「へ?」
「ぶっちゃけほとんど単位かせぎのためだけに取ってる捨て授業だろ? あのセンセー出欠チェック甘いし、期末もテストじゃなくてレポート式だから、別に授業聞いてなくても単位もらえるしな」
「ああ……いいのか?」
「いーっていーって。同居人が心配なんだろ? 行ってやれよ」
 古泉、やはりこいつはお前が警戒する必要のない相手だぞ。今度会うときはもうちょっとマイルドに接してやれ。
「……サンキュ、助かる」


 古泉の大学は結構な有名どころで、あちこちにキャンパスを有しているが、古泉の学部のキャンパスは、家からも俺の大学からもそう遠くないところにあった。
 一応携帯をチェックしたが、大学の友人(さっきのやつとは別のやつだ)からのメールが一件あったのみで、古泉かららしき着信はなかった。
 向こうの携帯が壊れてさえいなければ、こちらから安否を尋ねることもできたのだが。
 そうか、携帯がないということは、待ち合わせるにも難しいということでもあるよな。失念していた。
 あいつがどこで授業を受けているかわかれば教室に行けるのに。
 いや、今から直接向かうと二限の途中という中途半端な時間になってしまいそうだし、家に帰れば互いのスケジュール把握のために履修表のコピーが置いてあるので、一度戻ったほうがいいと思いなおし、電車に乗る。
 あいつ朝飯ちゃんと食ったかな、食ってなさそうだな、昼食はどっかその辺で一緒に食うか。
 アパートに着き、教科書やプリント教材などの重い荷物を置いて、小さな鞄に財布、携帯、鍵、必要最低限のものだけを入れる。
 さて、履修表によると今あいつが受けているのは病理学、次にパソコン演習。教室は第三棟一A、……ってどう行きゃいいんだったか。
 確か部屋のどっかに大学の構内案内の載った便覧みたいなのあったよな、どこだっけ、と棚や引き出しを漁って、
「……なんだこれ」
 そして俺は、とある引き出しから、『それ』を見つけてしまったのだった。


 案内図を見つけずとも、第三棟の場所は大学の窓口に訊けばすぐにわかった。
 石畳の道を歩く足取りが乱暴なものになる。
 ときおりすれ違う学生が俺を怪訝な顔で見たりするのは、俺が荒んだ気持ちを隠せていないからに違いない。
 今の俺の心ときたら、古代ローマの都市を一日にして壊滅させた火山のような荒れ狂いぶりだった。
 許せない。今すぐ問い詰めてやりたい。
 俺の足を動かしているのはそういった怒りの感情だった。激情といってもいい。相手が怪我人だろうと関係あるか、場合によっては俺は暴力も辞さないだろう。
 授業終了の鐘が鳴り響き、俺は第三棟の一階で足を止めた。
 聴講を終えた学生たちがぞろぞろと出てくる。
 その中に、二人の女の子に囲まれた史上最高の馬鹿、今世紀最大の馬鹿、大馬鹿野郎を見つけた瞬間、俺の怒りは火を噴き上げた。
 可愛い子と一緒にいようが嫉妬も考えられないほどに、俺の心はただ怒り一色に染まっていた。目の前が赤い気さえする。
「――――古泉」
「えっ」
 こちらに気づいた古泉が目を見開く。俺はゆっくりと近寄った。女の子たちが「誰?」などと説明を求めて古泉を見上げるが、古泉の目には俺しか映っておらず、しかし俺からはそのことに優越感を覚える余裕も失われている。
「どうしたんです? あなたもさっきまで授業だったはずでしょう」
「代返頼んで抜けてきた」
 俺のただならぬ雰囲気を察したのだろう、古泉は眉を顰めて、女の子たちに当たり障りのない別れの挨拶を告げ、俺の横に並んだ。
 俺は古泉の肩にぶらさがっている荷物を持ってやり、しかし無言で踵を返して歩き出す。
 慌ててついてくる松葉杖の音。
 苛立ちのまま早足になってしまいそうなのを必死に堪えた。
「……どっか、二人きりで話せそうなところ、あるか」
「第五棟の研究室なら、この時間は誰もいないと思います。鍵もかかります、あの、」
 俺が口を開くのを待ち望んでいたように、すぐさま返事がきた。だがその声には困惑が滲んでいる。
「あの……なにか怒っていらっしゃいますか? 彼女たちなら僕がこのように松葉杖なもので、荷物を持とうかと仰ってくださっただけで、それに断りましたし」
「そんなことで怒ってんじゃねえよ。とりあえず研究室とやらに案内しろ」
 俺の声はといえば、自分でもはっきりと聞き取れるほどに怒気を孕んでいた。俺の感情の変化に聡い古泉にわからないはずがない。
 どこかレトロな趣の、赤レンガの建物の中に入る。空気が冷たくて、俺はそれを肺の深くまで吸い込んだ。
 廊下の途中で古泉が立ち止まる。
 俺はドアを開けて誰もいないことを確認し、古泉を先に中に入れると自分も続き、鍵を閉めた。
 室内にはキャスターのついた移動式ホワイトボード、長机、パイプ椅子、パソコンの載った机、分厚い本や映像教材の並べられたガラス張りの棚、資料だろうか、端のデスクには大量のプリントが乱雑に積み上げられている。
「座れよ」
 古泉は何か問いたげだったが、おとなしく椅子に座った。
 俺は座らずに(卑怯かもしれないが、俺は頭に血が上っていたので、構わないと思った)、古泉の目の前の、長机の上、に紙を叩きつけた。
 怒号のような音がして、手のひらがじんと痺れた。
「これは、どういうことだ」
「……あ、」
 古泉は息を呑んで俺を見上げ、即座に目を逸らした。
 俺たちの間にある紙には、古泉の字でこう書かれている。
 ――――『遺言書』。
 中は見ていないが(よっぽど見てやろうと思ったが思いとどまった)、表に書かれた文字だけで俺の堪忍袋を尾ではなく袋ごとブチ切れさせるだけの十分な威力があった。
「なあおい、どういうつもりでこんなもの書いてやがった? 説明しろよ。納得のいく説明をな」
「すみま……」
「謝れと言ってるんじゃない。説明しろと言ってるんだ」
「……っ」
 古泉が顔を上げ視線が交錯し、がちゃん、と机に立てかけていた松葉杖が床に倒れる。
 どちらもそれを直そうとはせず、ただ見つめ合っていた。
 だんだんと、俺は自分がものすごく緊張していたことに気づき始めて、汗をかいた手のひらをぎゅっと握り締める。
 激しい怒りが覆い隠していたが、何を言われるか本当は怖かったのだ。
 もし決定的なものを突きつけられたらと恐れていた。
 息が詰まりそうな沈黙は、やがて古泉が諦めたように息を吐いたことにより終わった。
 どくん、と心臓が鳴る。
「轢かれたとき、一瞬、死ぬかもしれないと思ったんです」
 古泉は笑った。それは弱弱しい笑みだった。
「あなたを残して死にたくない、と思った。幸い今回は軽い怪我ですんだわけですが、人間、いつ何が起こるかわからない。僕はそれをよく知っていたはずなのに、普通の人間だった僕がいきなり超能力に目覚めて、突如降りかかる運命はそれこそ事故のようなもので、個々の事情やパーソナリティなど一切斟酌してはくれないと、そういうものなのだと、知っていたはずなのに。あなたと一緒にいるうちに、いつの間にか忘れていたんです。あなたは僕に幸せを与えてくれて、その幸せがずっと続くものであるかのように思わせてくれたから」
 俺は、古泉の事故のことを聞いた瞬間を思い出していた。
 あのとき、比喩じゃなく目の前が暗くなって、古泉のこと以外何も考えられなかった。
 逆に言うなら、そのときまでついぞ考えたことがなかったのだ、そんな風に古泉を奪われる可能性について。
 例えばある日、同性に傾倒していた古泉の目が覚めて、古泉の意思で俺の元を去る日がくるのかもしれない。
 そう漠然と思ったことはあれど、唐突に、理不尽な方法で、命がなくなるなんて想像もしていなかった。
 ずっと隣にいるはずだった古泉が、突然、俺を置いていってしまうかもしれない。
 生きている以上、今じゃなくても、それは確実にいつか訪れる、逃れられない運命だった。
 怖い。でもだからこそ。
「与えてくれるあなたに、僕は何を残せるだろう。僕はあなたに僕を捧げることくらいしかできなかったのに、その唯一の僕自身でさえ、あなたから奪う破目になるとしたら。そう考えたとき――――僕は愕然としました。僕とあなたの間に、僕たち以外に認められているものはなにもない。ないのだと。今のままでは、僕はあなたに何一つ、形のあるものを残していけない。だから、あなたが学校に行ってすぐ、これを書いたんです」
 古泉は紙を手に取り、ゆっくりと開いた。
「前に言いましたよね、僕には機関から支給されていたバイト代なんかがあるから、結構お金持ちなんですよ、って。そういった僕の財産や保険金を、もし僕が死んだらあなたに行くように、と、そう書いてあります」
 俺は文面に視線を落とす。やはり乱雑な字だ。
「親兄弟でもない、結婚しているわけでもない、ただの友人。それが世界にとっての僕たちだ。なんら法的効力のない関係、だけど、遺言書があればと。そう思ったんです」
 古泉はすべての告白を終え、あとは俺の答えを待つばかりだと言うように、遺言書を閉じて鞄にしまってしまった。
 俺は、……正直、何を言えばいいのか、よくわからない。
 ただひとつ確かなのは、俺は、古泉が遺言など書くのは嫌だ。古泉に遺言を書かせてしまった自分自身もすごく嫌だ。
「僕は絶対に死にません、くらい言ってみろよ……」
 一昔前のトレンディードラマみたいなセリフだったが、冗談で言ったわけではなかった。
 古泉はなにもかも分かった上で諦めてしまった人のような目でくすりと笑った。
「嘘になるでしょう?」
「嘘でもいいから!」
 なんでそう、いっつもお前はそうなんだ。いい加減にしろ。俺のために死ぬことを考えるよりも、何故、俺のために生きると言ってくれないんだ。
 俺はお前と生きたいんだよ、生きていきたいんだよ、古泉、言っただろう? これから先、お前がオヤジになって、年老いて、じいさんになっても、一緒にいてやるって。
 なのにこの石頭!
 何べん言っても信じやがらねえ古泉に対してなのか、何べん言っても信じきってもらうことのできない俺に対してなのか、怒りで額の辺りが熱くなる。力のない自分が悔しい。
「そんな風に泣かないでください。あなたに泣かれると、どうしたらいいか、わからなくなります」
 手が伸びてきて、擦らないようにそっと涙を拭う。
「お前が死んだら、比べ物にならないくらい、今よりもっと泣くぞ、俺は」
 古泉は「困ったな……」と言って椅子を引いた。
 かがんで、床に倒れたままだった松葉杖を拾い上げる。
「僕だって、死ぬつもりでいるわけではありませんよ。ただ、現状で一番有効な手段が遺言書であったというだけです。僕の気持ちもわかってくださいませんか」
 古泉の言うとおり、世間的には、俺たちの結びつきなんてとても弱いものでしかない。
 遺言書は古泉が、なにか一つでも他人に認められるわかりやすい形を、と考えて選んだ結果なのだろう。だが。
 古泉が立ち上がり、机を回ってこちらにやってくる。かつん、かつんと松葉杖の音がする。
 俺は、
「……帰る」
「え、」
 腕の中に捕まえられそうになった身体を翻し、廊下を走って、――――逃げた。
 もう無茶苦茶に駆ける。
 不甲斐なくて、むかついて、もどかしくて、身体を突き動かすそれは、破壊衝動にも似ていた。
 あるはずだ、もっと、なにか、もっと別の形が。遺言書などではなく。あいつのどこまでも後ろ向きな姿勢をぶち壊してやれるような、爽快な、一発逆転起死回生満塁ホームランみたいな、渾身の手が。
 そうして俺は臆病でわからずやで頑固で猜疑心の強いあいつに、今の幸せがずっと続くのだと信じ込ませてやる。
 いつか訪れる悲しみについてぐだぐだと後ろ向きに思い悩む暇なんか与えてやらない。あいつと一緒に、誰もが羨むような幸福な人生を全うしてやる。
 絶対、絶対だ。見てやがれ古泉。勝つのは俺だ。




 テーブルの上に、紙切れが鎮座ましましている。ろくでもない紙切れだ。悪魔の契約書と言っても過言ではない。
 俺はもし自分の目からかつての朝比奈さんのように怪光線が出せたとしたらきっとこの紙切れは燃えて灰になるだろうと思うほどの眼光でもってそれを見下ろし、頭蓋骨の中で脳みそを茹らせながら、どうしようもないアホ同居人の帰りを待っている。
 同居人は同い年の大学生の男で、おまけに元空間限定超能力者で、名を古泉一樹という。
 このアホ同居人の古泉がどのくらいアホかというと、こともあろうに二十歳そこそこの若い身空にして、自分が死んだ場合、同性の恋人に何が出来るかと思い悩み、せめて財産を遺したいという結論に達し、遺言書なんかをこそこそしたためるほどのアホだ。
 テーブルに置かれた悪魔の契約書、すなわち婚姻届を、役所に出せるはずもないのに貰ってきてしまった俺とどっちがアホだろうね。
 なにやってんだ俺。恥ずかしすぎるぞ俺。
 そもそも最初は、遺言書ではない、もっと穏やかに、互いに対して法的効力を発揮させる手段はないかと区役所に相談に行こうとしていたはずなのだ。養子縁組とかさ。あいつの言った保険の受取人なんてのは、遺言書がなくても書き換えは可能だったはずだし。
 それが、俺たちが男同士である以上、書いたところで法的には全く意味のないであろう、受理されることのない紙切れをこうして見下ろしているのだから、いや、人生、本当に何が起こるかわからん。
「……」
 婚姻届、にはすでに俺の名前を書いて印鑑を押してある。
 ちなみに夫のほうの記入欄を取らせてもらった。早い者勝ちだ。
 悲しいことにベッドの役割的には逆だが。普段の生活でも俺のほうが主婦っぽいが。なんという自虐。
 細かいところは空白になっているが、後からでも埋めればいいだろう。
 同居人で恋人で妻のほうであるところの古泉が帰ってきたら、空白の半分はなくなるだろうしな。
 だがとりあえず、俺がなによりも真っ先にすることは、やっぱり、やつの鞄の中に入っているだろう遺言書を、目の前で破いてやることだと決めている。