ああ僕は今夢を見ている、と夢の中でわかるときがある。
閉鎖空間に侵入するようにするりと、意識がそのままの形で夢の中に入り込んではっきりと形を取る。
現実と夢の境目なんて本当に曖昧なものだ。
夢がこのようなリアリティを持ち得るのなら、僕たちが現実世界と認識している世界も、物凄くリアルな夢、ではないと言い切れるだろうか。
そんなことを思わず考えてしまうくらい、あまりにも、この夢はリアルだった。
背中に当たる日差しの熱まで、恐ろしいほど本物のように感じる。
日差し――――赤さからして夕焼けだろうか。
僕のちょうど真後ろにある窓から差し込んでいて、視線を下に向ければ木の床には僕の影が落ち、上履きの爪先が見える。
上履きを履いているということは、……ここは学校か。
その中でも、もはや僕の日常の一部分になった、最も見慣れた場所。
初めて足を踏み入れたときは警戒と緊張を強いられていたものだが、今では安らぎや心地のよさを感じるようになった、とても好きな空間だ。
「……部室?」
呟き、僕は顔を上げた。
そして、その先にあった光景に、息を呑んだ。
部屋の中は床も壁も夕日に染め上げられ、赤い光と黒い影のコントラストをなしている。
耳元で大音量となって響く僕の心音に混じって、楽しげな、だけども暗い忍び笑い、粘り気のある水の音、衣擦れ、古い木の板がぎっ、ぎっ、と軋む音が聞こえる。
これは夢だ。真実そのとおりだ。だがそれがなんの慰めになるだろう。
こんなひどい光景、たとえ夢だとしても許せるものではない、たとえ夢でも見たくはなかった。
僕が、いや、正確には僕と同じ顔をした何者かが、嫌がって逃れようとする彼を壁に押しつけ、無理矢理に抱いている。
目が見え耳が聞こえ、口の中が乾いているのがわかり、鼻は性の匂いを嗅ぎ取り、握った手が汗ばんでいるのを感じていることから僕の五感は正常に機能しているようだ。なのに身体の動きだけが自由にならない。僕は木偶のように立ち尽くした。
小さくしゃくりあげる泣き声と喘ぎ声の入り混じったもの、これは彼の声だ。
「いやだ……古泉っ、」
嫌だいやだと泣きながら僕の名前を呼び、こちらに手を伸ばしてくる、けれども僕は助けることもせずにただ見ているだけだった。
身体の動かし方を忘れてしまったように、どうしたら一歩を踏み出せるのか、強張った指を持ち上げることができるのかわからない。
そうして視線を逸らせずにいると、彼を強姦している男と――――目が、合った。
その目を見た瞬間、僕は自分の醜い欲を突きつけられた気がした。
お前だってずっとこうしたかったのではないか、と、問いかけられる。
そう、僕だって無理矢理に彼を、ほとんど力ずくで、本来彼を手に入れるはずだった人から奪った。
彼のあるべき場所は、僕の隣なんかじゃない。
それがわかっているから、だから執拗に彼を抱くのだろう、そして肌を何度重ねても不安が消えないのだろう。
いっそ壊してしまえたらと、そう思っているのだろう?
必死に押し込めていた感情がどろりと溢れ出す。
違う、と否定の声は弱弱しかった。
彼は子どものように泣きじゃくり、そんな彼を、詰襟を着た僕が、嬲るような言葉を投げかけながら手ひどく犯す。
心臓がぎゅうっと締め付けられるようだった。
僕はいつも、彼を抱くときあんな顔をしているのだろう。
余裕ぶったふりをしてその実余裕などまるでなくて、受け入れて許してくれる彼に甘えている。
彼を可哀想だと思った。僕なんかに執着されてしまったばかりに、彼は自身を捧げることを余儀なくされたのだ。
あなたは優しいから、あなたを好きすぎておかしくなりそうだった僕を、放っておけなかったんでしょう?
それでも、逃がしてあげられない。ごめんなさい、僕はあなたをずっと僕のものにしていたいんです。
「やっ、い、やだ……もうやぁ……」
彼がゆるゆると首を振る。
彼の泣く顔はいけない。僕の中の昏い興奮を目覚めさせてしまう。
思うとおりにすればいい、自分の欲望のままに彼を汚してしまえと、黒を身に纏った悪魔が囁きかけてくるようだった。
黒服の男、あれも僕だ。
汚い、醜い、卑しい、浅ましい、歪んだ願いが心の中にあることを思い知らされる。
もっと泣かせたくなる。
でも、と胸のうちに声が響いた。
でも優しくしたいと思う気持ちも本当なんだ。
僕は求めるばかりで、あなたには与えてもらってばかりだけれど、だから大事に大切にしたい。
好きだから、愛しいから、笑っていて欲しい。
彼の頬は涙に濡れている。どうしたらいい、どうしたら。
僕の足は何かに引き寄せられるように動いていた。
男の腕の中で震えた彼が、噛み殺しきれなかった嬌声をあげる。どうやら絶頂を迎えたようだった。
その場にくずおれた彼に、ゆっくりと近づいていく。
黒い腕が彼の腰に絡みつき、体勢が入れ替わって彼は床に座り込んだ男の上に乗せられた。
見開かれた双眸からぼろぼろと涙がこぼれる。
ごめんなさい。僕があなたを苦しめているのはわかっているけれど、どうか泣かないで。
僕は彼の涙を拭うために手を伸ばした。
泣き止まない彼の頬を手のひらで包んで、唇を重ねる。
彼が僕にくれるものは大きすぎて、自分が同等のものを返せているとは全く思えない、だけど少しでも返せたらと思った。
できるだけ優しくそっと、彼の顔のあちこちにキスを落とす。
愛しさが募って涙が出そうになった。たまらない。好きだという気持ちに果てがない。
お願いです、そんな顔をしないでください。短い髪に指を差し込んで何度も撫でた。
僕はいつだって信じられずにいる。彼が僕の手を取ってくれた奇跡のように幸福な世界を、どこかで疑っていて、そういった僕の弱い心のせいで生まれる負担を、彼に押し付けてしまっている。
たとえば今見ている光景、これは夢だ。なぜそう言い切れる? わかってしまうから仕方がない?
夢だと気づかない夢もある、ならば、彼が僕を選んでくれた現実が夢ではないとなぜ言い切れる。
そして夢でなかったとしても、喪失への恐怖は消えるわけではなく、絶えず付き纏う。
十二月に起きた一つの事件。彼を失うかもしれなかったあの長い長い三日間、またあんなことが起きたら。
階段から落ちる彼の身体が僕の手をすり抜けていったように、手を伸ばしても届かないところへ行ってしまう、彼がいなくなる。
嫌だ、彼のいない世界なんて考えられない。彼のいない朝、彼のいない日常、彼のいない未来、耐えられない。
そんな風に不安はずっと消えなくて、だから何度も何度も確かめてしまう。
抱き潰して殺してしまうのではないかと怖くなるくらい強く抱きしめるのは、彼が僕の腕の中にいることを実感したいからだ。
触れて、口付けて、繋がって確認していないと怖いのだ。
「ん……」
開いた口から舌を差し込んで絡めた。深く、もっと、もっと深く。
激しく貪りたい衝動を抑えて、粘膜を撫でるように静かに探った。
彼の唇が何かを呟くように動く。
伝わってきた震えに一度顔を離すと、さっきまでとはまるで違う強い光が僕を射抜いた。
どくん、と心臓が一際大きく打った。彼が口を開く。何を言おうとしているのだろう。
「それでも、俺は……」
その先を聞くことは叶わず、始まったときと同じく唐突に世界は終わった。
目覚めたときに彼がそばにいてくれるその幸福。
僕は彼の裸の肩のラインや肩甲骨に見とれ、この稀有な人が自分のものであるのだと胸を震わせた。
こちらに背中を向けていた彼がゆっくりと振り返り、僕を見た。
「悪い、起こしたか」
ああ、彼がいる。今すぐに抱きしめてその体温を知りたい。
手を伸ばして彼を呼び、引きずり込むようにベッドへと連れ戻した。
ぐっと互いの身体を密着させるように抱き寄せる。
温かい身体だ。呼吸をし、心臓が動き、生きている。
苦しげに彼が身を捩り、窒息するだろうが貴様加減しろ、と抗議を受けた。
「すみません」
離せではなく、加減しろと言う彼の許容が嬉しい。
「お前、抱きしめんの好きな」
好きだ、と思う。
好きで好きで自分でもどうしようもない。
「好きですよ。あなたを確認できる」
自分でもどうしようもないものを受け入れようとしてくれるあなたの存在に、僕がどれほど救われているか、あなたはきっと気づいていないのでしょうね。
「安心します」
息を吸い込むと、彼のにおいが肺を満たす。
身体の隙間をなくすように背中に回し返された彼の腕に泣きそうなくらいの幸福を覚え、僕は彼を窒息させない程度に、抱きしめる力を強くした。
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