もう一本、と立ち上がって冷蔵庫に向かおうとした彼に、え、まだ飲む気なんですかと返した僕の声は綺麗に流された。
　酔っ払いというものは得てして人の話を聞かない。僕はテーブルの上のビールの空き缶を数え、
「もう三本も飲んだじゃないですか……いくら明日が休みとはいえ、ほどほどにしておかないと」
　しかも３５０mlではなく５００ml缶だ。アルコールに弱い彼が自分を失うのも当然の量だった。
「あー、うん、休みだしとまってくんだからいいだろ」
　訂正、自分に都合のいい部分だけしか聞かない。
　僕だって彼に付き合う形で同じ数を空けたので、彼ほどではないが酔っている。
　そのせいで動きが少し鈍くなり、結果、キッチンに向かう彼の袖を掴み損ねてしまった。
　彼は冷蔵庫を開け、眉間にしわを寄せてそこに親の仇でもいるように中を睨みつけたかと思うと、おもむろに卵のパックをとりだした。
「どっしりしたものが食いたい」
「はぁ」
「やっぱ日本人はコメだ」
　野菜室を覗き込んだ次にはもう炊飯器の残りを確かめている。酔っ払いのわりにこの辺りの行動は素早い。
　彼はその素早さのままにんじんとたまねぎを見つけ出し、まな板の上に置いた。
「お前さあ、たまご、明日までだったぞ。しょうみきげん気をつけろよな」
「すみません……ですが、あの、なにをなさってるんです」
「ひよこをかえそうとしてるようにでも見えるか？」
　卵を温めるあなたやひよこと戯れるあなたはとてもかわいらしいでしょうけど無精卵だから無理ですね。
　深皿に卵を割ってかき回し、今度は野菜の皮を剥いて刻み始める。
　たとえばこれが、抱き合ったあとの朝の風景であれば、僕は朝食を用意してくれている彼の後姿を幸せな気分で眺めることが出来ただろう。
　しかし今日はキスすらさせてもらえていないし、そろそろ日付も変わろうかという夜、そして彼はかなり酔っ払っている。
　だから僕の胸に込み上げる思いは幸福ではなく心配でしかなかった。
　酔った状態で包丁を握った彼の手付きは後ろからでも見て取れるほどおぼつかず、案の定みじん切りの途中で刃が滑ったらしい。
「いてっ」
「大丈夫ですか！」
　慌てて駆け寄り手を取ると、うっすらと血の滲んだ彼の指に、酩酊感が激しくなった。
　弁解させていただけるなら、アルコールのせいだ。酒には魔物が潜む。その魔物が僕の心を巧みに操作して、大胆にしてしまったのだ。
「え」
　僕は迷いなく彼の傷ついた指を自分の口に持っていった。持っていって、咥えた。
　味はよくわからなかったが、確かな興奮を覚えたので、間違いなく彼の血は僕の体内に摂取されたのだと思う。
　彼の目が赤く潤んでいるのはたまねぎとアルコールによるものだと理性が言い聞かせる。
　できるだけいやらしく映るように舐めしゃぶり、舌を這わせ、ちゅ、と音を立てて離した。
「……！」
　彼は頬を紅潮させて僕を睨み、理性の声はすでに遠い。彼が右手に包丁を持っていなかったら抱きしめてしまっていたかもしれない。
　刃先がぎらりと光を反射して、彼の瞳に映りこんだ。
「……じゃますんな、だまって座ってろよ、この酔っぱらいが」
　あなたには言われたくありません。
　だが酔っ払いとの議論ほど不毛なものはなく、僕が彼に勝てる(あらゆる意味において)とも思えないのでおとなしく引き下がった。
「わかりました。でも、気をつけてくださいね？」
「おー」
　と返事こそよかったものの、相変わらず手つきは危なっかしくてハラハラする。
　やがて彼は細かく刻んだ野菜と米とをフライパンで炒めはじめ、なんとか無事にみじん切りの工程を終えたことにほっとしたが、まだ火傷の危険も残っているので安心するのは早い。
　てっきりチャーハンでも作るのかと思ったのだが、彼が加えたのは卵ではなくケチャップだった。
　フライパンに油を伸ばすと卵を流し込んで薄くクレープ状に焼き、うまくひっくり返せなかったようで悔しそうに舌打ちをする。
「くそ、やぶけた。ぶかっこうでも許せよ」
「えっ、僕の分も作ってくださるんですか？」
　彼は照れ隠しのようにも見える悔しそうな横顔のままぼそぼそと、「たまご、できるだけ使い切っちまったほうがいいだろ」と言った。
　かわいい。でも今抱きしめたらどうなるかは想像するまでもなかったのでぐっと堪える。
　たとえ炭のような卵にくるまれたオムライスでも彼の作ったものなら完食する自信はあるが、そういう問題ではない。
　感動と葛藤に打ち震えているうちに彼は料理を皿の上に載せ、ふたつのうち片方を僕に手渡した。運べということなのだろう。
　卵はくしゃりとしわが寄り、ところどころ破けた箇所からオレンジ色のライスが覗く。
　確かに見た目はそれほどよくない、けれど彼が作ってくれたというだけで僕にとってはどんな美しい高級料理にも勝る。
　空き缶を端っこに退けて、皿をテーブルに置いた。
　そういえばスプーン、と思って振り返ると、彼がスプーンをひとつ咥え、ふたつ目のスプーンと皿とケチャップのチューブを絶妙なバランスで両手に持ち、ゆっくりとこちらに歩んでくる。咥えたスプーンの柄が上下して、
「ふえ」
　ええ、もちろんいただきます。
　彼は腰を下ろすと、さっそく卵にケチャップをかけている。赤が黄に映えて、とても健全な、幸せな光景だった。
「あににやにやしてんだよ。ほれ、使え」
「あ、ありがとうございます」
　ケチャップを受け取った僕は浮かれていたので、ふっくらとした丘の上にハートマークなんかを描いてみた。
　それがいけなかったのだろうか。
　彼の視線はじっと僕の皿に注がれ、……なんだか目が据わっているように見えるのは気のせいではない。
「す、すみません、あの、調子に乗りました」
　やはりハートなど描くのではなかった。
　慌ててスプーンの背でケチャップを伸ばしてただのまだら模様に変えたが、彼の視線は僕のほうを向いたまま。
　皿ではなく僕の指を見ていたのだと気づいたのは、彼が僕の手を掴んだからだった。
「え、な、」
　なんですか、と言う前に、指は彼の口の中へ吸い込まれた。ぺろり、と柔らかな舌の感触。
　えええええ、な、な、なななななな。
　さっきとは逆の立場に立たされて、アルコール混じりの血液が一斉に頭に上ってくらくらする。
　ただ、逆の立場とはいっても、あのときの僕は思いきり意図していやらしく振舞ったのにたいして、彼のほうはまったくの無心であるようで、猫がミルクを舐めるように舌を動かしている。
　しかしだ。
　彼にその気があろうとなかろうと、僕にとっては彼の行動は欲情を誘うものでしかないわけで、ああもう、頭に集まった血液が下に向かってゲルマン民族のように大移動を始めそうだ。やばい。まずい。あつい。
「あ、の……」
「ん？」
　やめてくださいそんな指をはむはむしたりちゅうちゅう吸いながら潤んだ瞳で上目遣いをするのは！！
　なんなんですかあなた、涼宮さんの力かなにかで(今はもう彼女の願望実現能力は失われている、というのが機関、未来、思念体の共通見解なのでその可能性は限りなく低いが)水を欲しがる赤ちゃんハムスターにでもなったんですか。
　自分で想像して、そのあまりの可愛さに一瞬意識が飛びかけた。
　もちろん想像上ではない目の前にいる現実の彼の可愛さもそれになんら劣るものではなく、凶悪なまでの可愛さである。
　存在自体が凶器とは今の彼のことを言うのだろう。僕はもうだめだ。泣く子と地頭の後ろに彼の名前を加えるべきだ。
　無邪気に指を嘗め尽くしようやく満足したのか口から離した彼が、さて何を言うかと思えば、
「ケチャップついてた」
　……なるほどケチャップが。じゃあ仕方ないな。
　って、僕ならまだしもあなた、いくら指にケチャップがついていたからっていきなりあんなことをするようなキャラではないでしょう！？
　アルコールによるキャラ崩壊だというなら、僕は今後あなたが誰かと酒の席を一緒にするたびに嫉妬に身を焦がすのは間違いありません。
　彼は平然と舌で自らの唇を舐め、平然と僕を見て、平然と言った。
「あ？　だって、ケチャップがもったいねえだろ」
「え……あ、はい、……まあ」
「食いもんはそまつにしちゃだめだ。特にケチャップはぜったいに」
「はあ……」
　僕にはよくわからない理屈でも、彼の中には確固とした思いがあるようで、彼は腕を組んでうんうんと頷いた。
　そして僕にだって向けてくれたことがないような愛情と感謝に満ちた瞳でケチャップのチューブを見下ろした。
「ケチャップはいだいなんだぞ。俺はケチャップにすくわれたんだ」
　こんなトマトを主原料とした調味料がどうやって彼を救えるというのだろう。
　僕のほうがよっぽど彼のために色々と尽くしてあげられるに決まっているのに。
　味噌や醤油ほどメジャーでもないくせに、マヨネーズほど熱烈なファンもいないくせに、彼にあんな顔をさせるなんて憎らしい。
　彼はそっと赤いチューブの丸みを撫で、まるで初恋の思い出でも語るように話し始めた。
「俺がまだ小学校ていがくねんのころだ」
　微妙に舌足らずなのが可愛い。なんだか一生懸命に喋っているのがわかるところも可愛い。彼は何でも可愛い。
　自分と同い年の男に対して抱く感想ではないだろうが、本当に可愛いと思うのだから仕方がない。
　僕は彼の潤んだ目や、開いた口の中の鮮やかな赤さなんかを楽しむことに決め、彼を見つめる。
「かてい科のじゅぎょうでちょうりじっしゅうがあってな、五人ずつのはんに分かれて、おのおの家から材料を持ちよることになった。そんときのメニューはオムライスで、俺はケチャップと米とを持っていくたんとうだったんだ。学校に使いかけのケチャップなんか持っていけないだろ？　小学生らしい、こどもの見栄というか、だな、俺はかあさんにたのんで、新ぴんの、ぴかぴかのケチャップをスーパーで買ってきてもらった。それでそのケチャップと、ビニール袋に入れた米とをランドセルじゃなく手さげにしまって、ちょうりじっしゅうを楽しみにしながらベッドに入ったわけだ。つぎの日、俺は黄色い通学ぼうをかぶって、いきようようと家を出た。とちゅう近所の友だちと会って、いっしょに学校に向かったんだが、そいつがちょうりじっしゅうでいっぱい食うために朝ごはんをちょっとしか食べてこなかったんだって自まんげに俺に言うもんだから、そんなのたいしたことない、俺なんか朝ごはんをまるまる抜いた、って言ってやった。まあ単にねぼうしちまって食う時間がなかっただけなんだけどさ。それに、ちょうりじっしゅうの飯なんてしょせん小学生のがきが作るもんだし、失敗するリスクが高いから、親がよういしてくれるまともな朝ごはんをきちんと食べてくるほうが、ふつうに考えりゃかしこいよなあ。小学校までの道は北高ほどじゃないがあちこち坂があって、ほら、魔女のたっきゅうびんのさ、自転車ふたり乗りして気球見に行くシーン、あるだろ。あんな感じの切り立った坂で、下に木なんか生えててちょっとした山みたいで、もちろん危ないからってガードレールがあって、そういう道を通っていくんだ。でも、そのガードレールがところどころこわれて切れてたりしてな、じちたいは別にいじらなくてもいい道路はむだに掘り返すくせに、ほんとうに直してほしいところはなおさねえんだから困ったもんだよ。おれは通学ぼうを頭からとって、指にひっかけてくるくる回しながら坂をのぼっていった。友だちは吹けもしねえ口笛を吹くまねをしてたんだが、とつぜん声をあげた。日直だったのを忘れてたんだと。先に行くって急いで走ってった背中を見送って、ああうん、おれはいっしょに走っていく気力はなかったな。腹もへってたし。そだちざかりに一食抜くのはきついよな。それであいかわらずぼうしをくるくるさせて歩いてたんだが、そこで運悪く強い風が吹いて、ぼうしが飛ばされちまったんだ。さらに運の悪いことに、ガードレールの向こう側に落ちたんで、おれはあわてて追いかけようと、ガードレールを乗りこえた。よく考えりゃ無理に乗りこえなくても、切れ目のところから行けばよかったのに、子どもだったからな、頭が回らなかったんだろう。そしたらバランスを崩して、足すべらせて坂の下にまっさかさまさ。ほら、魔女のたっきゅうびんの……ん？　ああいや違う、今度は自転車のシーンじゃなくてほうきが折れるシーンのほう。ん、大丈夫だった。ランドセルがクッション代わりになったんだな、幸いたいしたけがはせずにすんだよ。
　――――んな顔すんなって、十年以上前の話だぞ。ほんと、たいしたことなかったっつってるだろうが。俺のからだに変な傷とかないの、お前だって知ってるだろ。
あー、でもやっぱ落ちたショックでちょっときぃ失ってたみたいで、ほっぺたを水滴が叩いたんで目を覚ました。このタイミングで雨が降るなんざ、悪いことってのはとことん重なるようにできてんのかね。かさなんて持ってなかったおれは、子どものあさぢえで木の下にひなんして、誰か助けてくれないもんかと叫んではみたが雨の音にかき消されちまうし、あいにくとうこう時間を過ぎてたようで、聞こえてくるのはときどき通る車の音だけで、人の声がないんだな。おれはこのまま見つけてもらえずにゆくえ不明あつかいになって死んでいくのかと本気で思ったね。今見るとそんなたいしたこうばいじゃないんだよ、生きるとか死ぬとか大げさなんだが、ま、子どもの思考かいろだし。てい学年のときってこう学年がまるでおとなみたいに見えたりしなかったか？　そういう風にさ、子どもの目からするとすげえ高い坂に見えたんだ。怖かったぜ、マジで。しばらくひざを抱えてうずくまってたら腹が減ってきて、いいなあクラスのやつら今ごろちょうりじっしゅうやってんのかなあ、なんて考えて、だんだん腹が減りすぎて気持ち悪くなってきて、おれはきっとがしするんだ、って泣きかけた。じつにたんらくてきだ。
　そのときだ。おれはきゅうせいしゅの存在を思い出した。そうだよおれにはケチャップがあるじゃないか、ちょうりじっしゅうで使うはずだったケチャップが。おれは手さげの中からケチャップを取り出した。ま新しいケチャップは、赤くて、つやつや光って、どっしりとして、おれの目にはまるでヒーローみたいにかっこよく映った。ふたの下の銀紙をはがして、もう一回ふたをしめて、しぼり口のとこからチューペットでもないのにちゅうちゅう吸ったよ。うまかった。ケチャップってこんなにうまかったのかと感動すら覚えた。やがて雨もやんで、おれはぶじつうこう人に見つけてもらって助かったわけだが、あれ以来、おれはケチャップに対するそんけいの念を忘れたことはない」
　ふう、と彼は達成感を滲ませた息をついて、僕に水を要求した。
「コップにいっぱいな」
「あ、はい」
　この場合の「いっぱい」は「一杯」ではなく「なみなみと」という意味だろう。
　冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出す間、僕の頭の中ではどうケチャップを使えば彼を怒らせず最大限いやらしい行為に及べるのかという不埒な計算が行われていた。
　とりあえず、彼の唇のすぐ横についている赤い汚れを舐め取るところから試してみようと思う。



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