目の前に花畑が広がっていた。
 なんだここは、妖精の国か。などと俺に似合わぬいささかメルヘンチックなことまで考えてしまうくらい、色鮮やかで美しく壮大な光景だった。
 テレビや写真なんかで見る、いちめんのなのはな、や、コスモスの絨毯や、どこまでも続くひまわり、そういった景色とよく似た果てしのなさを感じる、水平線の向こうまで埋め尽くす花、花、花、花の洪水。
 しかしおかしなことに、俺はそれがなんの花なのかまるで認識できなかった。知らないのではない。「認識」できないのだ。
 品種というか、そもそも、どういう花なのかわからない。
 思考に霞がかかったように、花弁がどんな形をしているのかも、何枚重なっているのかもわからず、ただ、鮮烈な色彩をもつそれが花なんだということだけがわかるのだ。奇妙な感覚ではあったが、不快ではなかった。
 そっと呼吸をすれば甘い香りが鼻腔を通って肺を満たし、なんだか安心して、心地よくて、穏やかで、いつまでも目を閉じていたいような気分になる。
「ん……」
 胸いっぱい空気を吸い込むと全身の血管隅々にまでその芳香がいきわたるようで気持ちよく、うっとりと身体の力を抜いた。
 吸った息を深く吐き出し、重いまぶたをゆっくり持ち上げる。
 そこにはもう花はなく、まず目に入ってきたのは淡い光、続いて茶色い、
「――――……」
 うわあ、とまず脱力感と自分に対する呆れに襲われたのも無理はないと思うね。うわあ……。
 朝の光の中、きらきらと天使のわっかを作る茶色い髪。
 俺は古泉の頭を腕の中に抱きこんで、その髪の毛に顎を押し当てるようにして寝ていたのである。
 頭の載った右腕力こぶの辺りから先が麻痺しており、小さく身じろぐだけでもじんわりと痛みが生まれる。
 こいつがいつも俺を腕枕したがる理由がますますもって理解できん。
「確かに重いですが、幸せの重さなんですよ!」つったって、起きたときこんな苦しみに見舞われるだけだというのに、そりゃあ、まあ、夢の中にいるときは気持ちよかったけれども、っていま問題にすべきは腕の血行ではなくてだな。
 いったいいつの間にこいつの頭なんか抱きしめたんだろう、覚えがない。
 少なくとも寝入るときまでは、俺は手ぶらで天井を向いていたはずなのだが、ということは寝ている間に無意識に古泉を引き寄せたということか。おい俺。
 無意識とはいえ、いや無意識だからこそ余計に、己の行動が恥ずかしかった。しかもあんな夢まで見ちまった日にはもうね。
 くん、と鼻先をうごめかせば、夢で嗅いだのとよく似た匂いがする。
 昨夜二人して汗みずくになって、汗だけじゃない、ほかの色んな液体にもまみれて、シーツは取り替えたとはいえシャワーを浴びたりはしていないから普通はもっと饐えたにおいなんかがしていてもおかしくはないんだが、なんでこんな、夢に見るほどいい匂いがするんだろう。不思議でたまらない。こいつ、なんか俺とは違う物質で構成されてるんじゃないか。
 超能力者だしな、普通の人間とは異なるのかもしれん。
 目の前にある、まだ眠っているらしい古泉の髪の毛が光を弾いているのを見つめる。これ、シャンプーの匂いだろうか。
 しかしそれだったら俺も昨夜同じのを使ったわけで、それとも自分の匂いは自分ではわかりづらいというやつなのかね。
 左手を持ち上げて前髪を撫で付ける。
 古泉は可愛いなんて感想をうっかり抱きそうになるほどあどけない顔で眠っていて、普段は睡眠の浅いらしいこいつが俺の前だからこそこんな風に無防備になるのだと思うと嬉し――――まあ、悪い気はしない。
「ん」
 ふ、とその眉が寄り、目を覚ました古泉が、一度開いた目を細めてから
「……はようございます」
 語頭の「お」の発音が不明瞭に溶けた挨拶をして、あっためたマシュマロみたいなほわんとした顔で笑う。
 おはようさんとこたえると唇に唇が軽く触れ、匂いが濃くなった。ああ、やっぱりいい匂いだな。
 夢の中の花、あれはなんの花だったんだろう。