彼とのオセロに負けた次の日、夕方に、一人の女性が病室を訪ねてきた。階段から落ちたのを助けたあの女性だ。会うのはあの日以来になる。
「すみません、助けてもらったのになかなかお見舞いにもこられなくて」
彼女は僕と年はそう変わらないが、短大を出て幼稚園の先生をしているそうで、仕事があってなかなかこられなかったのだと言った。それが、ようやく幼稚園も夏休みに入ったので、ということらしい。大学の夏休みの入りは、幼稚園や小中高校に比べて早いものだからな。
「これ、お詫びです」
彼女の腕にはなかなか立派な花束があった。この病室に花瓶はひとつしかなく、その花瓶には花が三本活けてある。
彼女は当然のように、花束の包装を解いてそのまま花瓶に入れた。止める間もなかった。先に入れてあった花と花束とが混じり合う。
「食べ物のほうがいいかなと思ったんですけど、何がお好きかわからなかったので……あの、好き嫌いとかあれば、教えていただけませんか? 次、持ってきますから」
彼女は目にも声にも多分に媚を含み、……ああ、これは、秋波を送られている。自慢ではないがこういうことはよくあるので、そうだとわかってしまう。自意識過剰と眉をしかめないでいただきたい。わかるものは仕方がないのだ。
「いえ、結構ですよ。そこまでしていただく必要はありません」
「でも、わたしのせいですよね? 何かしたいんです」
しおらしいようで押しつけがましく言い募る彼女に、
「申し訳ありませんが、あなたのように綺麗な方と何度もお会いすることで、好きな人に誤解されたりしたくないので」
「あ、恋人……いらっしゃるんですか……」
「いえ、片想いなんですけどね。でも、その人以外は考えられないんです」
そう、彼以外は考えられない。
彼女のテンションは目に見えて下がり、大人しく引き下がってくれた。
彼女が帰ってからそう経たず、いつものように病室にやってきた彼は、いつもと違うたくさんの花が活けられた花瓶を見て、一瞬顔色を変えた。
「これ……」
「ああ、今日、階段から落ちたときに助けた彼女が来て、お見舞いにもらったんです。でも花瓶が一つしかなかったので……すみません、せっかくあなたに持ってきていただいていたのに」
「いや、別にいいよ。じゃあ、俺のこれも入れちまっていいよな?」
「はい。いつもありがとうございます」
今日の彼の花は、オレンジのガーベラだった。綺麗だなと思うのに、なぜか彼は、せっかくのそれを見えないように他の花や葉の陰に差し込んでしまった。彼の顔も、俯いていて見えづらい。なんだか、空気がおかしい……?
「……お前さ」
「はい?」
「寂しいんだったら、俺なんかより、彼女に来てもらえば」
心臓が束の間鼓動を止めた、ような気がした。
「……どうして、あなたにそんなこと言われなくちゃならないんです」
自然と声が硬くなった。彼がいきなりこんなことを言いだす理由がわからない。僕と彼女をお膳立てするような。
それに、それはもう自分は来たくないということ? 僕が何か気に障るようなまねをしてしまったのだろうか、やっぱり花を一緒にしたのがいけなかったのか?
「どうしてって……。……心配してんだよ、友人として」
――――友人。そう、僕たちは友人だから、
「僕がいつ恋人をつくろうが、僕の勝手でしょう」
内心の傷が、刺々しさとなって声に表れた。いつもの軽口のように流せない。まずいなと思ったがブレーキが利かなかった。心にもないようなセリフが口を突いて出る。
「あなたこそどうなんです? 案外、バイト先でいい出会いがあったりするんじゃないですか」
本気ではない、売り言葉に買い言葉のような、つまるところただの勢いで飛び出た挑発だった。
しかし彼は、血がのぼった僕の頭に思いもかけない氷水を浴びせた。
「……ああ、いたぜ、好きかもしれないやつ」
「えっ……」
「でも、もう知るか。いつまで経ってもうじうじうじうじ煮えきらねえで、もういい。やめだ。もうここには来ねえよ」
僕に背を向けて、さっさと行ってしまう。
スライド式ドアはゆっくりと滑らかに、無情に閉まり、僕は衝撃に打ちのめされていて彼を止めることもできなかった。
階段から落ちたときなんかとは比べ物にならないくらいの衝撃だった。頭を横から思い切り殴られたようで、思考が定まらない。
今のはどういう意味だ? もしかして、まさか、でもそんな。
見抜かれていた? 彼は魅力溢れる人だから、いつかその魅力に気づいた誰かが彼の隣に納まって、僕は失恋するだろう。嫌だ。想像するだに耐え難い。
諦められない癖に、土俵に立つ勇気もなかった。でも、それじゃなにも掴めないんだ。
僕は立ち上がり、花瓶からオレンジのガーベラを引き抜いた。
それから、森さんをはじめ機関の人間と、ついに入院がばれてしまった大学の友人が何人かは見舞いに来たが、彼は本当に一度も来ることはなかった。
だから花瓶はずっと空のままだ。
僕は病室のPCで機関の報告を受け取ったり、指示を出したり、萎えて固まった手足の筋肉のリハビリをしたり、本を読んだりして日々を過ごした。家にいるのとそう変わらなかったかもしれない。
そして、彼のことをずっと考えていた。
退院の日、機関が用意すると言ったタクシーを断って病院の建物から出た僕は、真っ先に携帯電話の電源を入れた。歩きながらボタンを操作して、番号を呼びだす。祈るような気持ちで耳にあてた。
『……もしもし』
出てくれた。
それにほっとしながら、同時に心が震えてしまうのを抑えられない。
だって、久しぶりの、好きな人の声だ。何度もシミュレートしたけれど、本物の威力には全然かなわない。
「あの、……この間は、すみませんでした」
『何について謝ってるのか、自分でわかってんのか』
「わかってます。僕が臆病でバカだったんです」
天気が良くて、暑かった。久しぶりの石畳の道を踏みしめて雑踏に混じる。病院そばの通りには落ちついた綺麗な店がぽつぽつ点在していた。
「でも、まだ僕に愛想をつかしていないのなら、チャンスをいただけませんか。あなたに、言いたいことが……」
『奇遇だな』
声は二重だった。
「俺もお前に言いたいことがあるよ」
道の真ん中、こちらを向いて彼が立っていた。足を止め、携帯電話を持った手をゆっくりと下ろす。
驚いた。僕らは路上でしばし見つめ合い、
「どうして、ここに……」
「お前こそ。今日退院だって森さんから聞いたから、まだ病院にいる間に押しかけようと思ってたんだが」
「あ、ええと、予定時間よりちょっと早めに出たんです」
「どうりで」
どうしよう、久しぶりに見る彼にときめいて仕方ない。かなうなら思い切り抱きしめたかったが、物事には順序というものがある。
「好きです」
順序なんてそんなもの知るか。どうしても今、言っておきたいんだ。
往来で、多少人目もあったが、そういったことは頭から吹っ飛んでいた。抱きしめようと一歩踏み出すと、彼に遮られて我に返る。道の真ん中で抱擁はさすがにまずい。
「これをさ、渡そうと思って」
ばさりと差し出されたのは、小さいが、一輪ではなく花束だった。
「これ……?」
「言ってなかったが、俺のバイト先ってすぐそこの花屋だったんだ。病院に行くって客がよく買ってくんだよ」
歩くか、と促される。
そうしてゆったり歩きながら、彼は種明かしをしてくれた。
店長が、バイト代の他に、売れ残った花を毎日一輪だけ持って帰っていいと言っていたことや、今持っている花束は、会わなかった日数と同じ数の花を使っていること。きっかけになったあの日、彼のバイト先にやってきた女性が買っていったのと同じ花が、そっくりそのまま僕の病室にあったのを見て、それで、
「誰かに取られるかもって思ったら怖くなったんだ。お前がずっと俺のこと好きでいてくれるなんて保証、どこにもないことに今更気づいて、ショックで八つ当たりした。すまん」
「そんな……僕のほうこそ、」
「お前のこと責めたけど、でも、考えたら俺だってずるかったんだよな。お前の気持ちなんとなく気づいてて、それで、お前から言ってくんねえかなって待ってたんだから。反省した。だからその花は、詫び・兼・告白のつもり」
僕は手の中の花を見て、それから、隣の彼の、照れくさそうな横顔を見た。赤くなったこういう頬を、薔薇色と言うのだろう。
「……ずるいなぁ」
「だからすまんって」
「僕だって、かっこよく告白しようと思ってたのに。あなたかっこよすぎですよ」
かなわないな。でも、そういうところも好きだ。
「さっきので、俺は、割と満足してるけど」
「僕はしてません。せっかくなら、もっとこう、サプライズ的な……」
気づけば、僕らは静かな並木道に差し掛かっていた。周囲に誰もいないことを確認した上で、彼の腕を引きよせる。
「っ」
掠めるように、一瞬だけのキスをした。
「お、おま、おまっ」
口を抑えて真っ赤になる彼に、人差し指を顔の前に立てる。
「ほら、花盗人は罪にならないと言いますし」
「現代の法律じゃ罪になるだろ。盗むんじゃなくて、堂々と許可を得て持っていけよ」
目を閉じる彼を見て、やっぱりかなわないみたいだ、と思った。
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