寒いな、と毛布をかきあわせた。
 寒いと起きるのがおっくうになる。
 学生時代とは違って別に何をしなければならないわけでもないので、ついだらだらうとうととベッドの中でまどろんでしまいがちだ。
 昨夜眠りに落ちる前は隣にいたはずのでかい図体の持ち主は、すでに起きているらしく見当たらない。
 もしあいつに「寒い」とでも言えば、寒いのならどうして裸でいるんですかとからかわれるんだろう。想像して勝手に腹を立てる。
 裸に首輪に鎖だけを身につけたこの格好は、その実俺のプライドを守るためのものだった。
 海賊に与えられた服など着たくない。ただ意地のようなその思いだけを貫いている。
「う……ん、あ、あー」
 昨夜もさんざん泣かされたせいで声が掠れ気味だ。あいつは俺を泣かすことを毎晩の課題にでもしてんのかと思うほど人を執拗に追い詰めやがる。さすが海賊の船長なんかをしているだけあって、酷くするのはお手の物だ。ちなみに俺は普通の人間であるので泣かされるのは普通に嫌だ。
 くそ、と毒づいて寝がえりを打とうとした時だった。
 ギィー、と床板の沈み込む音がして部屋のドアが開いた。
「……?」
 そこに立っていたのは古泉だった。別に何も不思議なことはない、この部屋は船長である古泉の私室なのだから。
「……おかえり」
 俺は身体を起こすことなく毛布にくるまったまま、いつもどおりに声をかけた。そして、
「なんだその格好。新手のコスプレか?」
 普段もどっちかというと海賊というより貴族チックな服装だが、今日は軍服かよ。それも見覚えのある黒い上着の。海賊の船長が我が国の海軍の制服を着ているだなんてどんなブラックジョークだ、悪趣味だな。
 違うところは服装以外にもあって、いつもなら俺の「おかえり」で多少なりとも緩む古泉の空気が今は張りつめたままだ。
 こんな警戒のにじむきつく鋭いまなざしで見つめられるのは初めてだった。見つめると言うより睨むと言った方が正しいかもしれない。相当機嫌が悪いのなら、これから再び酷いことをされる可能性が高い。覚悟した方がいいだろうか。
「……古泉?」
 俺の呼びかけに、目の前の軍服の男はゆっくり口を開く。
「どちら様でしたでしょうか」
 ――――俺はまだ夢の中にいるんだろうか。
 笑えない冗談に起き上がった俺の身体を見て、古泉は眉を顰めた。
 肩に毛布を羽織っただけの自分の格好に思い至り、さっと身体をくるむように前を閉じる。
 首輪のほかには一糸まとわぬ全身には昨晩の情交の跡が色濃く残っているだろう。羞恥心なんてもう擦り切れてしまったと思っていた。
 古泉はこちらへ向かって歩を進め、すうと目を細めた。
「なぜあなたが僕の名前を知ってるんです?」
「な、ぜって……」
 だってお前は古泉じゃないか。どこからどう見ても古泉一樹そっくりで、と上から下まで眺め、普段はリボンでまとめていたはずの後ろの髪の毛が短いことに気づく。
 わけがわからない。なんだこれは。どういうことなんだ、これは。
「単刀直入に訊きます。あなたはなぜこの船に乗っているんですか」
 お前が俺をこの船に浚ってきたんじゃないか。とは、言えなかった。
 目の前のこの古泉一樹は、俺の知る古泉一樹ではないのかもしれないと、蝕むように心に疑念が広がっていく。
「浚われたからだ。……海賊に」
 俺は首輪から伸びる鎖をじゃらりと手に取って見せた。よく手が震えなかったものだ。
「捕虜である、と?」
「まあそういうことになるんだろうな。それで、お前はなんでここにいる?」
「海軍が海賊の船に乗り込む理由などひとつでしょう」
 それは俺がずっと待ち望んでいたはずの言葉。
「海賊たちを捕らえるためです」
 それがこんなに絶望的な響きを持つなんて知らなかった。
 海賊の船長と同じ顔をした海軍の兵士は唇を微笑の形に歪め、芝居のセリフを読むように言った。
「この船はすでに制圧しました。船内は我々の占領下にあり、船員もほぼ捕らえてあります。あなたの身柄は我々が保護しますのでご安心ください」
 別の世界の出来事を見ているようだった。観客でいられればよかったのに、世界は俺を道連れにする。見ているだけでいることを許してはくれない。
「よろしければこれを」
 古泉は軍服の黒く裾の長い上着を脱ぐと、俺へと手渡した。俺はそれを受け取って、緩慢に袖を通す。服を着るのは久しぶりだ。
 ベッドから降りて立ち上がれば、足もとに蛇のように鎖がまとわりついた。
 古泉は宝石のように光る剣を床に向かって垂直に構え、真っすぐ突き刺すように振り降ろした。
 ガキィィン、と鎖が断ち切られ、俺は自由を与えられる。
 相当な使い手なのだろう、船長室に単身踏み込んでくるくらいだ。腕に自信があるに違いない。
 船長は――――俺の知る古泉はどうなったのか。目の前のそっくりな顔をしたこいつと何か関係があるのか。兄弟とか、そうだ双子とか? 王子と乞食のように、そっくりだが全く違う境遇の、片方が海賊で片方が海軍だとかそういう。
「一人で歩けますか」
「……ああ」
 今までに何度も逃げようと算段を練り、機を伺っていたから、毎日きちんと部屋の中を歩くようにしていた。筋力が衰えないように、腕立てや腹筋なんかもした。中でもセックスが一番の運動になっていたなんて笑えないが。
「あなたにはこれから色々と訊くことになると思うので、ひとまず僕とともに来ていただきます」
 言葉こそ丁寧だが、命令的な口調には有無を言わせぬものがあった。
 何を訊かれるのだろう。俺だって訊きたいことが山ほどあるのに。
 この男の目は何か、ざわざわとした気持ちにさせられる。
 黒い上着の前を片手で掴む。
 おさまらない胸の潮騒のようなざわめきを抱いたまま、剣を下げた古泉そっくりの男とともに部屋を出た。
 いまだ首に嵌まったままの首輪の、中途半端に垂れ下がった鎖の切れ端が、なんだかやけに重い気がした。
 甲板に出ると雪が降っていた。
 それはあいつが俺のそばにいるならありえない現象。
 あいつと俺の契約によって、海は凪ぎ、雨の一滴も降ることなく、船は穏やかに航海を続けるはずだった。
 ――――そもそも、神の加護の力があるのなら、海軍がこの船に乗り込んでこれるはずもない。
 舞う雪が軍服の肩に落ちた。
 あいつは、いま、どこにいる?