スペインにはシエスタという午睡の習慣があることを、イタリア・ロマーノはちゃんと知っていた。なぜならばロマーノにそれを教えたのは他ならぬスペインだったからだ。だからこそ彼が眠っているであろう昼下がりを避けて早めに訪ねたというのに、家の呼び鈴を鳴らしても一向に返事がない。
 スペインの作る料理が食べたくて、これで昼食を作らせようと思って持ってきたトマトの詰まった紙袋を抱え直し、暑いな、と額に滲んだ汗を手で拭う。
 太陽は高く、空は千切れた綿を貼り付けたような小さな雲が一つ二つ存在するだけで青く澄み渡り、強い日差しが遠慮なく照りつける。つまるところとてもいい天気だ。太陽と情熱の国、スペインを象徴するかのような晴天。
 ざ、と樹の枝が揺れ、空を見上げれば枝を揺らした犯人だろう一羽の鳥が影となって視界を横切ったが、光の眩しさに目は眇められてしまい、ロマーノは鳥を特に気には留めなかった。よく見れば、黄色い羽を持つその鳥が、誰が何の目的で飼っているものなのかわかっただろう。そしてそれに気付いていたなら、ロマーノは不用意にスペインの寝室へ踏み込んだりはしなかっただろう。
 いやそれとも、わかってしまったからこそ我慢できずに押し入っただろうか?
 だがどちらにせよこのときのロマーノは、中で何が起きているかなんてまるで知りもしなかった。
「スペインの野郎、もしかして、いねえ……?」
 いつまでも開かないドアに焦れて、ロマーノは呟いた。
 のんびりしているように見えて実は案外働き者なスペインのことだから、畑仕事に精を出しているのか、市場で野菜でも齧っているのかもしれない。
 確かに連絡なしで突然訪ねたのはこちらだが、この俺がせっかく来てやったんだからちゃんといろよなスペインコノヤロー、とロマーノは理不尽に近い怒りを抱き、むくれた。
 その気持ちのままなんとなくドアに手をかけてみれば、……――――開く。
「……なんだよ、いるんじゃねえか」
 ドアは抵抗なくあっさり開いてしまい、見慣れた玄関はロマーノを迎え入れた。
 単純にスペインが出かける際に鍵をかけ忘れたのだという可能性もあるが、それにしては室内の雰囲気は人の存在するときのそれだ。気配がある。
 やはり寝ているのだろうか、とリビングに足を踏み入れながら、ロマーノは部屋を見回した。しょうがねえ叩き起こすか、と決め、ひとまずテーブルの上に紙袋を置こうとしたそのときだった。
「やめ、っ!」
 寝室のほうから、スペインの切羽詰まったような声がした。
 まるで悲鳴のようなそれは、ともすれば気のせいと聞き流してしまいそうな小さなものではあったけれども、ロマーノの動きを止めるには十分だった。
「スペイン……?」
 片腕に紙袋を抱えたまま、ロマーノは寝室へと足を向けた。
 その足取りは自然慎重なものになり、そろそろとドアに近づいていく。
 寝言? いや、それにしては。
 かつてスペインのもとで暮らしていたロマーノは、幼少期に幾度もスペインと同じベッドで眠ったことがあり、スペインが上司に折檻されたらしき夜や、何があったかは言ってはくれなかったがボロボロになって帰ってきた日の夜など、時折彼が魘されていたこともあったのを覚えているから、今もまた嫌な夢に掴まっている可能性も否定はできないが、だがこれはきっとそんなものではない、と直感が告げている。
 誰かがいる、スペイン以外の誰かが。
「はっ、はなせ、て! ……あかんっ、はなしぃ……」
 漏れ聞こえてくる言葉からして、どうやらスペインはひどく嫌がり、抵抗しているようだった。
 もしもスペインを狙う暴漢が侵入しているのだとしたら、飛び込んで助けなくてはいけないだろう。
 この扉を開けてその向こうに、
「……嫌や、って、やめぇ……!」
 がさりと紙袋が思いのほか耳障りな音を立て、ロマーノの肩がびくりと跳ねる。扉がやけに重い。
「……スペイン」
 キィ、と微かに蝶番の軋む音と、スペイン以外の男の甘く湿った声とがロマーノの耳に届いたのは、ほぼ同時だった。
「――――……!」
 なんだこれは、とロマーノは眼前の光景に立ち尽くす。
 茫然と力を失った腕から紙袋が落ちてトマトが潰れ、あるいは床を転げたが、そんなことはもうどうでもよかった。
 こちらに気づいたらしいスペインと、目が合う。
「ろ、ロマーノ……?」
 信じられないとばかりに驚きに見開かれた緑の目。
 信じられないのはこっちのほうだ。
 信じられない。
 部屋の中、服をつけていないスペインの身体はベッドにしどけなく横たわり、その上に衣服を乱した金髪の男が覆いかぶさっていて、シーツは皺だらけのぐちゃぐちゃ、肌を汗で濡らし抱きあう二人が、何をしていたかなど一目瞭然だった。
 ロマーノがてっきり嫌がっているものとばかり思っていたスペインの声は、行為中の嬌声に過ぎなかったのだ。
 なんてことだろう。
 振り返った金髪のほう――――フランスが、ロマーノを見て「ああお前かあ」とさして気にした様子もなく言い、ロマーノの頭に頬に、かっと血が上る。
 スペインは焦ったようにフランスを退けて身を起こし、いまだ熱で潤む瞳をロマーノに向けてきた。