カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細める。
いつもとなんら変わりない自分の部屋。
だけど何かが違う気がした。
そこまで考えてハッとする。
押しつぶされそうな心を優しく抱きとめてくれた筈の腕がない。
抱きかかえるようにしてぬくもりを感じていた存在がいない。
―― 亜里沙
慌てて体を起こして部屋を見るが亜里沙の姿は何処にもない。
シャワーを浴びている気配があるわけでもなく、まるで昨夜の肌の温もりが夢だったと錯覚する程、いつもどおりの俺の部屋は当たり前過ぎるほど静かだった。
亜里沙の残り香がさっきまでそこに彼女がいた事を教えてくれた。
乱れたベッドのシーツに触れるとそこはまだ僅かに温かさを残していた。
無性に切なくなってシーツを引き寄せ剥がすと、抱きしめるように亜里沙の寝ていたであろうその部分を顔に寄せる。
ふわりと亜里沙の香水の香りがした。
「シャネルの『エゴイスト』か…俺も昔使っていたよな。陽歌に誕生日にプレゼントされた香水に変えてから使わなくなったけど」
不思議に思っていた。亜里沙が何故男物の香水をつけるのか。
別に女性がつけても不思議ではないが、亜里沙にエゴイストは少し違和感があった。
『彼の香水なの』
以前不思議に思って訊いた時、亜里沙はそう言っていた。
虫除けに嫉妬深い男がつけさせているんだろうくらいにしか思っていなかったが、実際には付き合っている男なんていなかった。
「…ウソなんかつきやがって」
亜里沙は自分の事を誰にも話さずに抱え込んでいる。
俺にも陽歌にさえも打ち明ける事なく心の奥に一人で苦しみを閉じ込めている。
何で俺に何も言わないんだよ。
何で俺にまでウソなんかつくんだよ。
俺達は親友だったんじゃないのか?
何で独りで泣くんだよ。
俺ばっかりおまえに甘えて、お前は俺に頼ろうとしないのは何故なんだ?
…どうして何も言わないで時々悲しそうな瞳をするんだ?
昨夜の事だってそうだ。
『亜里沙…今夜は…傍にいてくれないか』
そう言ったのは単なる泣き言だった。
あいつはいつものように笑い飛ばして「バカな事言ってんじゃないわよ。なに泣き言を言ってんのよ」と、一発引っ叩いて、ヘタレた俺を叱り飛ばしてくれると思っていた。
それなのに…
『うん…いいよ…』
あいつはそう言った。
耳を疑ったが亜里沙の目は真剣だった。
冗談だよ…
そう言って笑えばよかった筈なのに、俺はその言葉を飲み込んでしまった。
何故だろう。
亜里沙を抱きしめたいと思ったのは。
傷心を癒す為に亜里沙を抱きたかったわけじゃない。
亜里沙を本当に欲しいと思ったんだ。
俺の部屋まで来ても亜里沙の決心は揺るがなかった。
俺はむしろ『冗談よ。本気にしたの?』と、からかってくれる事を期待していたのかもしれない。
抱けば俺達の中の何かが変わってしまう。そんな事は解っていた。
だから抱くことで親友としての亜里沙を失うのが怖かった。
理性はそう思っていた。
でも俺の中の何かが彼女を求めて止まらなかった。
悲しげな光を宿し潤んだ瞳は、俺の知っているいつもの亜里沙ではなかった。
俺を抱きしめてくれる細い腕も、口付けるたびに漏れる甘い吐息も、何もかも狂おしいほどに愛しかった。
亜里沙が甘い吐息で切なげに『拓巳』と俺を呼ぶ。
その声がささくれた心の傷をそっと撫でてくれるようで、心の渇きを潤すように亜里沙を求めた。
聞きたかったのは亜里沙の声だった。
あれだけ長い間一途に思い続けた陽歌ではなく、亜里沙の声が聞きたくて、俺を呼んで欲しくて…。
奪うように口付けては、激しく抱きしめた。
亜里沙は抵抗する様子もなく、むしろ何もかも解っているように優しく抱きとめ、俺を心ごと温かく包んでくれた。
頬を流れた一筋の涙が、青白い月明かりに反射して、幻想的に煌く。
涙の理由を問い掛けるように唇で吸い取ると、亜里沙は静かに首を横にふり、何も訊くなと無言で語った。
見たことの無い亜里沙の表情に心を奪われた。
初めて見た亜里沙の涙。
それが、余りに綺麗で…。余りに切なげで…。
彼女を欲しいと思う気持ちを止める事はできなかった。
『親友』が『女』に変わるのを俺はずっと恐れていた。
『親友』であれば永遠であるものも『男と女』になると脆くも崩れ去るからだ。
どちらかが恋愛感情を持ってしまったら友情は成り立たない。
だから亜里沙を特別に女として意識しないようにしていた。
俺は自分の我が侭で亜里沙をずっと親友にしておきたかったんだ。
亜里沙を手放したくなかったから…
ずっと、変わらず傍にいて欲しかったから…
『親友』でなくなることが怖かった。
でも亜里沙を抱いて解った。
『親友』では決して手に入らないものがそこにあると。
――拓巳お願い。朝になったら忘れて…
優しい温もりに包まれ、満たされた気持ちで眠りに落ちる意識の中で聞いた亜里沙の声。
だが、忘れるつもりなどなかった。
薄明かりの中でも鮮やかに浮び上がる眩しいほどの白い肌。
それを見たら誰もが惹かれるだろう薄茶の潤んだ瞳。
そのすべらかな薔薇色の頬を伝う綺麗な涙。
温かく俺を包み込んでくれる細いしなやかな腕。
愛されていると錯覚するほど甘く優しく俺を呼ぶ声。
その全てを他の男に渡したくないと思い始めている自分を偽る事はできなかった。
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