その日の夕方、俺は会社に常備してある添乗用のカバンを引っ掛け電車に飛び乗った。
急な予定変更などで、突然代理で添乗に出るときの為に会社に常備しておいたのが役に立ってくれた。2〜3日の旅行くらいなら何とかなるだけのものは入っている。
もしも1日で亜里沙を説得して連れ帰ることができなかった時の事を考えて、2〜3日の余裕は持っておきたかった俺は、無理を承知で無理矢理3日間の有休を強奪してきた。
有休が欲しいと言った時の部長の顔を思い出し苦笑が洩れた。
「拓巳、おまえアホかっ!? この時期に3日も有給だと? この業界入って何年目だお前。冗談もたいがいにしろ!!」
この時期に3日の有休なんて正気の沙汰じゃない事も、誰かがそのしわ寄せを受ける事も解っている。
でも今はそんなこと言っている場合じゃないんだ。
「俺にとっては人生の一大事なんです。今行かなかったら俺は一生後悔する。俺の人生がどうなってもいいって言うんですかっ!」
フロア―全体に響き渡るほどの大声で叫んだ俺に、部長を始め、その場にいた全員が息を呑んだ。
社内で俺が意外と短気だと知っているのは同期入社のヤツくらいだ。
その中でも人前でこんなに頭に血が上った俺を見た奴なんて、亜里沙と陽歌くらいだろう。
普段は巨大な猫を被っている俺は、上司や同僚には仕事ができて人当たりが良く穏やかな好青年のイメージで受け止められている。
だが今日に限っては巨大猫を蹴り飛ばし、好青年の仮面も吹き飛ばす勢いで、感情のままに部長に食って掛かっていた。
俺の様子が余りにも普段とかけ離れていた事に、部長も何かよほどの事情があると感じたのだろう。
特大の溜息と苦い笑顔のおまけつきで有給申請書をくれた。
「…ったく、しょうがねぇなぁ。どこへでも行って来い。その代わり帰ってきたときの仕事量を覚悟しておけよ」
「解っています。我が儘言ってすみません。本当にありがとうございます」
…悪いな部長。きっとこの埋め合わせはするから、今回だけ我が儘を聞いてくれよな。
感謝の言葉と共に頭を下げると、部長はクスクスと笑いながら訊いた。
「お前がそんなに熱くなるなんて、人生の一大事ってなんだ? 逃げた女を追いかけてプロポーズでもするつもりなのか?」
「まあ、そんなところですね。結果さえ良ければ俺は無敵になれますから、休んだ分の仕事なんてあとで倍にして返しますよ。って事で、俺の勝利を祈っててください」
俺の答えに部長が目を丸くしたのも当然だ。
なにしろ長年陽歌に告白しては振られていた事を社内で知らない者はいない。たかがひと月余りで結婚を考えるような相手が出来るなど、誰も考えてもみなかったのだろう。
相手は誰だ?と大騒ぎする部長と、耳ざとくそれを聞きつけた同僚達を振り切って逃げてきたのだから、休み明けには根掘り葉掘り訊かれる事は覚悟しなくてはならないだろう。
相手が亜里沙だって知ったら…一体どんな顔をするだろうなぁ。
こんな時は時間がいやにゆっくりと流れる。
早く早くと心で願うのに実際には時計の針は僅かしか進まない。
ペンションにいる亜里沙を思い浮かべ一刻も早く着きたいとイライラしながら、窓の外をいつもよりゆっくり流れていくように感じる景色を見つめた。
心に願う事はただ一つだけだった。
亜里沙…おまえを愛している。
二度と俺から離れないでくれ。
俺と共に生きて欲しいんだ。
例え亜里沙が嫌だと言っても絶対に逃がさない。
もう彼女のいない人生を考える事なんて出来なかった。
夏の夜の風が何処か肌寒く感じるのは避暑地と言う土地柄の為だろうか。
【Friend】は数年前俺達が訪れた白銀の世界にひっそりと抱かれていた時とは少し様子が違い、周囲の新緑が建物を包み込み護っているように見えた。
この場所に立っているだけで、自然に抱かれて世間の雑踏や戒めから解き放たれた気分になるのは俺だけでは無いだろう。
亜里沙がここへ来たのは、俺達と来た思い出の場所だったからだけでは無く、きっと心を癒し俺や色々なものから隠れて自分を見つめ直したかったからなのだろうと思った。
【Friend】は落ち着いた雰囲気のログハウスでどちらかと言うと大人向けのペンションだ。
ひっそりと静かに過ごすのが相応しい、隠れ家的な場所だと言って良いだろう。
俺より少し年上の気さくなオーナー夫婦が二人で経営している。あの頃は20代後半か30位だったから今は30代半ばと言った所だろう。
俺達が同期8人でスキーに来た時に泊まってから5〜6年経つ。
あの時は男3人と女5人の同期のうちカップルが一組いたから、ツインを4室予約した記憶がある。
こんな素敵なペンションでカップルで泊まれる二人が羨ましいと亜里沙と陽歌を含む同期の女性が口をそろえて言ったのを思い出す。
あの時、僅か5室しか客室がないこのペンションは俺達の貸し切りだった。
ここに…亜里沙がいる。
逸る気持ちを押さえドアの備えつけられた、洒落た装飾のノッカーを叩く。
ドアを開けたのは俺より少し年上の、見覚えのある男性だった。
「こんばんは。梶 拓巳です。ご連絡頂きありがとうございました」
「いらっしゃいませ。遠い所をようこそ。このペンションのオーナーの山崎一臣(やまざきかずおみ)です。お待ちしていましたよ」
オーナーはそう言って俺を招き入れると、広い吹き抜けのあるコミュニケーションルームと名付けられたリビングのような部屋へ通してくれた。
この部屋は良く覚えている。以前泊まった時と室内の洒落た雰囲気はまったく変わっていなかった。
落ち着きがあり自分の場所を見つけたような気分にさせられる、心地良い空間がそこにあった。
無意識であの時座っていた場所に座っている自分に気付き、夕食後ここで酒を飲みながらみんなで盛り上がった事を思い出す。
あの日は俺の隣りに亜里沙が座っていた。同期で俺に一方的に惚れている女がいた為、その女を遠ざける為俺の両隣には常に亜里沙と陽歌を座らせていた。
陽歌は気乗りではなかったようだったが亜里沙は「しょうがないなぁ拓巳は」と笑い、まるで姉が弟に説教するような口ぶりで「思わせぶりな事言わないでちゃんと断ってあげるのよ? 中途半端な優しさや言葉は彼女を余計に苦しめるだけなんだから」と言っていたっけ。
あれは友達としてのアドバイスだと思っていた。
だけど違う…
本当は亜里沙の気持ちだったんだ。
彼女の気持ちに気付かず、無意識に傷つけてばかりいた俺に向けられた苦しい胸の内だったんだ。
ゴメン亜里沙…
気付くのが遅くて本当にごめん
山崎さんは俺に色々と気づかってくれて、夕食は済ませてきたのかとか、先に風呂を浴びて少し休んではどうかとか、少しでも緊張を解くように勧めてくれる。
ペンションに着いたらすぐに再会できると思っていたのに、亜里沙の姿が無かったため、もしかして避けられているのだろうかと緊張しているのは確かだが、傍から見てもそんなにガチガチなんだろうか。
山崎さんの気遣いはありがたかったが、一刻も早く亜里沙を腕に抱きしめたかった俺は、なかなか本題に入らない山崎さんに痺れを切らして、ついに自分から話を切り出すことにした。
「俺の事は結構です。それより亜里沙に会わせて下さい。彼女はここにいるんでしょう?」
俺の質問に山崎さんは一瞬瞳を曇らせた。嫌な予感が胸を過ぎる。
「亜里沙さんは今、ここにはいないんだ」
すぐにでも亜里沙に会えると思っていた俺は、その言葉に目の前が暗転したような気分になった。
同時に胸を押しつぶされそうな不安が俺を襲う。
「…いないって何処へ行ったんです?」
俺は明らかに動揺していたと思う。
今までの俺なら相手が誰であろうと絶対に人前でこんなに動揺した姿を見せることなど無かったし、自分の弱みを曝すなんて死んでもするもんかと思っただろう。
相手が初対面の山崎さんなら尚更の事だ。
だけど、それを恥ずかしいとかイヤだとかそんなこと考える余裕さえなかった。
山崎さんはそんな俺に落ち着くようにと手で制すると、タバコを取り出して一本くわえ火をつけた。
それを見て俺もポケットからタバコを取り出す。
タバコを持つ手が僅かに震えているのがわかる。
緊張の為か、動揺しての事か…どちらにしても本当に俺らしくない。
こんな姿、亜里沙が見たらどう思うだろう。
ここ一ヶ月、タバコの本数が増えている。
亜里沙、おまえが早く見つからないと俺は肺ガンになって死んじまうぞ。
心の中で恨み言を言いつつ山崎さんの言葉を待つ。
溜息を吐く様に紫煙を吐き出してから山崎さんは重い口を開いた。
「彼女は昨日から入院している」
その言葉が耳に入ってから意味を理解して飲み込むまで、どのくらいに時間がかかったんだろう。
少なくともすぐには反応できないほど、大きな衝撃を受けた。
「…入院? 亜里沙は何処か悪いんですか?」
身体が震えて声も上擦っている。今度は緊張の為なんかじゃない。明らかに動揺の為だ。
亜里沙が入院? 一体何があったんだ?
「昨日の朝、倒れたんだ。ここへきて一ヶ月彼女は良く働いてくれた。でも僕たちはとても心配だったんだよ。彼女は食が細くて殆ど食べない。見ていても痛々しいくらいに痩せていくのがわかった。何かを深く悩んでいるようだったよ。
僕達夫婦も心配で何度も理由を訊いたんだ。そして先日ようやく妻が、彼女は辛い恋をしていてその恋を忘れる為にその人から逃げてきたらしいと聞き出したんだ。随分思いつめている様子だったし、一度戻ってきちんと話すように説得しようと思った矢先、彼女は倒れたんだ」
山崎さんが煙を吐き出すのとほぼ同時に、俺も溜息と共に紫煙を吐き出す。
二人分の煙が複雑に絡み合って部屋の中に満ちていくのをぼんやりと眺めながら、亜里沙の細い体が更に細くなった原因が自分にある事を痛切に感じていた。
食欲も無く倒れるほどに思いつめていたのか。
「梶さん。あなたは亜里沙さんに会う覚悟がありますか?」
覚悟があるからこそここまで来たのに、何故改めてそんな事を訊くのかと、突然の質問に戸惑った。
「あたりまえですよ。そのためにここまで彼女を迎えに来たんですから」
「彼女があなたと一緒に帰ることを拒否したら?」
グサッ!と突き刺さる鋭い言葉。それは俺が一番恐れている事だ。
だが、どんなに嫌がっても絶対に手放したりするもんか。
タバコを消し、真っ直ぐに山崎さんを見つめて心に決めてきた想いを素直に告げた。
「無理にでも連れて帰りますよ。俺には彼女しかいない。彼女を失ったら俺は駄目になってしまう。…失って初めてわかった。彼女を愛しているんです」
山崎さんは俺をじっと見たまま動かなかった。
紫煙がゆっくりと部屋の中を流れていくのが、この部屋を静かに過ぎる時の流れのようにみえた。
山崎さんが口を開くまでの、気の遠くなるような時間…
重くゆっくりと流れていく時間がとても長く…
永遠のように感じた。
「それなりの覚悟があるんですね。安心しました。あなたの気持ちが本物なら彼女が入院した理由と病院をお教えしますよ。明日の朝一番に会いに行ってあげて下さい」
その言葉に思わず安堵の溜息が出た。
同時に会社を休めといわれた理由が、このときようやく理解できた。
「ありがとうございます」
「亜里沙さんはここから車で10分ほどの【ヤマモトレディーズクリニック】に入院しているんですよ。先ずはおめでとうと言っておくべきなのかな」
レディースクリニックと言われもすぐにはピンと来なかった。
意味が分からず『おめでとう?』とオウム返しに聞き返した俺に、山崎さんがクスッと笑って「解らないかな?」と言った。
それでもポカンとしている俺に、山崎さんは笑いながらその事実を教えてくれた。
俺は驚きの余り言葉を失った。
「亜里沙さんは妊娠しているんですよ」
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