亜里沙が俺を振り切るように駆け出していく。
冷や汗が流れた。
流産しかけているって言わなかったか?
走ったりしたらそれこそ大変な事になるんじゃないか?
「やめろ亜里沙。走るな」
俺の静止を振り切るように逃げていた亜里沙がその声に動きを緩めた。その瞬間を逃さず華奢な手首へと手を伸ばす。
ここまで来て逃がすわけ無いだろう。
おまえを二度と離さないって決めてきたんだ。
―― 行くな!
手首を掴んだ時、余りにも細く折れそうな事に一瞬ひるんだ。
…それでも離すわけにはいかない。離したら今度こそ永遠に亜里沙を失ってしまう。
そんな気がした。
驚いて振り返る亜里沙を強く引き寄せる。勢いで胸に飛び込んでくる彼女をそのまま強く抱きしめた。
フワリと立ちのぼるエゴイストの香り。
亜里沙がこの香水をつけている理由がようやく分かった。
この香りがおまえにとって俺の代わりだったんだな。
告げられない想いを胸に秘めたまま、俺の香りを身に纏って独りで生きるつもりだったのか?
そんな事は絶対に許さないから…。
「た…くみ…。どうして…?」
俺を見上げる亜里沙の瞳には戸惑いの色。
俺の心の変化など何も知らない彼女にとって、俺の行動は予想外の事だったんだろう。
ずっと聞きたかった亜里沙の声。
ずっと欲しかった温もり。
やっと手に入れた。
「亜里沙…やっと捕まえた」
信じられない表情で呆然とする亜里沙を無視して、柔らかな髪に唇を落とす。
何か言いたげに開いた唇から質問が飛び出す前に、唇を塞ぎ想いを寄せた。
柔らかい唇の感触があの夜を思い出させる。
あの日よりずっと細くなってしまった肩。
強く力を入れすぎると砕けてしまいそうな身体に改めて驚いた。
静かに唇を離して見つめ合う。
亜里沙の瞳から流れる涙は、青白い月の光が反射してあの夜よりもずっと綺麗だった。
「亜里沙、もう逃がさないぞ。嫌だって言っても絶対離さない覚悟で迎えに来たんだ。泣こうが喚こうがおまえに拒否権なんて与えてやらないからな。俺と一緒に帰るんだ」
「なによそれ、横暴なんだから。バカ拓巳! 私の事は放っておいて!」
「横暴で結構。少しぐらい強硬な手を使わないと、おまえはまたどこかに逃げ出しそうだからな。絶対に…もう逃がさないから」
「ヤダ、帰らない。拓巳のバカッ! 鈍感なくせに強引で、横暴で、我が侭で、プライドが高くて、女ったらしで、中途半端に優しくて、思わせぶりで、自意識過剰で…。放して!」
「ウルサイ。そんな男を好きになった奴が言う台詞かよ? いつまでも親友のままでいられると思うなよ?」
「……だったらもう構わないで。親友でない私なんて必要ないでしょ?」
「フン…まだそんな意地を張るわけだ。嘘つきの意地っ張りめ。素直でないヤツには制裁が必要だな。俺にも家族にも陽歌にも…みんなにもたくさん心配かけやがって。おまえは終身刑だ」
「…なによ、その終身刑って」
「細河亜里沙。おまえはこれから一生、梶という名の鎖に繋がれて、俺の腕の中っていう監獄から出られないんだよ」
「はぁ? 何を訳のわかんないことを言ってるのよ」
「亜里沙…おまえを失ってやっと解った。俺にはおまえが必要なんだ」
「拓巳…何を言って…」
亜里沙が腕の中で震えているのが伝わってくる。
この細く頼りない身体でどれだけの想いと苦しみを閉じ込めてきたんだろう。
幸せにしてやりたい…。
亜里沙はきっと俺が誰よりも幸せにしてみせる。
「結婚しよう。俺と一緒に生きて欲しい」
腕の中で亜里沙の身体がビクッと大きく反応した。
そのまま俺から目を逸らし身体を捻って腕の中から逃げ出そうともがき出す。
どんなに抵抗しようと、放してやるつもりは無いぞ。
Next