それは紫陽花が見せた夢

遠い遠い記憶に眠る、優しい優しい思い出のかけら

美しく咲く紫陽花が銀の糸降る午後に見せた夢


銀糸の午後 紫陽花の夢




「きみ、泣いているの?」

晃は病院の中庭の紫陽花の前で大きな紫色の傘に隠れるようにして、座り込んでいる少女に声をかけた。
まるで大きな紫陽花みたいだと晃は思った
ピンク色のパジャマを着た少女、入院患者らしい。年は6歳くらいだろうか
少女は驚いたように降り返り、涙を拭うと泣いてないと赤い目をして笑ってみせた。
「だれも遊んでくれないから、つまらなくて…」と言い訳するように少女は笑った。
晃は少女の手を取って、僕も退屈していたんだと告げた。


「いっしょに遊ぼうか?」

晃の問いかけに嬉しそうに笑う少女。
一瞬、紫陽花の花に弾ける雨の粒が、彼女の微笑みに反射して輝いたように見えた。


学校から帰ってから退屈だった晃は父の仕事について大学病院へ来ていた。
だが、父の仕事は思った以上に時間がかかり、かなり退屈していたのだ。
しょっちゅう父と病院へ来ている晃は、看護師や長期入院している患者とも顔見知りだ。
今日も退屈していた小児病棟の少年に捕まり、暫く相手をしていたのだが、七夕という事もあり病棟でイベントが始まった為、健康な自分がその場にいてはいけないような気がして誘いを断ってきたのだ。
重い病を抱え小さな体で必死に戦っている、自分と同じ位の年や、もっと小さな子どもたちの姿を見ると、晃はいつも胸が痛くなる。
自分もいつか、祖父や父のように医者になるのだろうか…。
彼らに元気になって欲しいとは思う。
だが、どうしても医者になり彼らを治す自分をイメージすることが出来なかった。
もしかしたら自分は医者には向いていないのかもしれないと思う反面、幼い頃から神童と呼ばれるほどに優秀だっただけに、周囲は当たり前のように期待をする。
それが晃には重荷でもあった。

自分に向けられる賞賛とも好奇とも取られる視線から逃れたくて、できるだけ病棟から離れようと、紫陽花に誘われるように雨の中にフラリと散歩に出た。
普段だったら考えられない行動だったが、この日はまるで何かに惹かれるように紫陽花に触れたくなったのだ。

そして見つけた紫陽花の花のような少女。
何となく離れたくなくて、彼女に傘を差し出した。

病院の中庭は午後からの雨で夕刻の気配をいつもより早く連れてきている。
心細さを隠すように、紫陽花の陰に身を寄せると二人で一つの傘に入った。
色とりどりの紫陽花が銀の粒をはじき色を鮮やかに染める中、大きな傘は二人をすっぽりとつつみ、紫陽花の陰に押し隠してしまった。

「かくれんぼしているみたいだね?」と晃が言うと
「かくれてるんだもん」と少女は答えた。
「なぜ?」と訊いてみても、少女は悲しそうに微笑むだけだった。
「ここは雨がかかるよ。濡れると風邪をひくから中に入ろう。ほら、小児病棟で七夕のイベントをやっていたよ。君、入院してるんだろ?」

せめて院内に入らないと…そう言い掛けて晃は息を飲んだ。


「七夕だって、私の願いを叶えてなんかくれないもの。お願いを書くだけ無駄よ。」

少女は大きな瞳を潤ませ、こぼれんばかりの涙を浮かべていた。

「私ね、何度も入院しているの。先生は元気になれるって言ったけど、本当は知ってるの。…私ね、10才まで生きられないんだって」

潤んだ黒目は真っ直ぐに自分を見つめていた。
痛々しいほどに思いつめた瞳に、晃は言葉を失った。


「だから、先生から逃げてきちゃった。きっと今ごろ探していると思う」

ちろっと小さな赤い舌を出していたずらっ子のように笑ってみせる。
その笑顔には、先ほどの思いつめた表情は無くかったが、明らかに無理をしていた。

「だ、だめじゃないか。すぐに戻らなくちゃ!」

晃は慌てて少女の手を取り、病室へ戻ろうと言ったが、少女はゆっくりと顔を横に振った。

「いまさら先生に診てもらっても命の長さは変わらないよ」

「そんな事・・・だって先生が治るって言ったんだろう?10才まで生きられないなんて誰がそんな事・・・」

「先生がパパとママに話しているところを、こっそり聞いちゃったの。このままだと、10才までもたないって」
何もかも受け入れたような諦めの表情で、必死に微笑もうと口元に笑みを浮かべる彼女を見ていると、言いようの無い感情が込み上げてきた。

自分はまだ、たった9才の子供で、彼女の病気を治してやることは出来ない。

これまでは当たり前だと思ってきたこと。
だけど、今日ほど自分の手の小ささが悔しかった事はなかった。
ぎゅっと拳を握り締め、唇を噛んだ。


「やってみないと分からないじゃないか」


気が付くと晃は口走っていた。
キッと顔を上げると少女を真っ直ぐに見据える。

「僕が治してあげるよ。きっとお医者さんになって君の病気を治してあげる。だから諦めないで。生きる努力をして」

少女は大きく目を見開いた。

「生きる努力をしなくちゃ、病気に負けちゃうよ。治したいと自分が思わないと病気には勝てないって、僕のお父さんがいつも言っているよ」

見開かれた瞳から硝子の様に透き通った涙がぽろぽろと零れ落ちた。
脆く繊細で、純粋に透明な…それは少女の心のようだと思った。

「大丈夫。君は生きられる。先生はこのままだったらって言ったんだろう? じゃあ、このままで無ければいいんだよ。君が生きたいと願って、生きる努力をするんだ。いいね?」

肩を震わせ、声を殺して、晃にすがりついて、静かに涙を流した。

小さな細い体だった。
この子は小さな体と心でどれだけの運命を背負っているのだろう。

「諦めちゃダメだ。絶対に約束して。希望を失わないで」

声を出すこともせず、静かに泣く少女を晃はそっと抱きしめた。
胸の中で小さく頷くのを感じる。


「きっと、治してあげるよ…。僕は医者になる」


晃は強く心に誓った。
僕は君の為に医者になる。

いつかきっと、君を救ってみせる。

そう強く願ったとき、小児病棟の子どもたちを思い出した。
それまで重荷に感じていた事が、まるで嘘のように消えて行った。
代わりに心の奥底からものすごいエネルギーが沸きあがってくるのを感じる。

彼女のように苦しんでいる沢山の人を救いたい。
一日も早く医者になって、一人でも多くの苦しむ人を救いたい。


七夕の願いが叶うなら、僕の願いはただ、ひとつだ。

――いつかきっと…僕が君を助ける。

雨は銀色の糸をひき、静かに紫陽花を濡らし続ける。
大きな傘に隠れた二人は静かに雨音に身を委ねていた。
やがて少女の涙が枯れるまで…。



***

「お父さん、僕、医者になるよ」


突然の晃の発言に、父は驚きながらも、やさしく微笑み、「そうか」と言うと晃の頭に手を置き、クシャッと髪をかき回した。
心臓外科の権威と言われる晃の父が、症例のない病を抱える少女を診察をする為に病院を訪れたのは2時間ほど前だった。
だが、肝心の患者がいない。
病院中探していたところ、少女は雨に濡れ、晃に抱えられているのを看護師が発見し大騒ぎになった。
幸いにも少女は熱を出すでもなく、落ち着いて眠っている。
誰もが安堵した時、晃は突然「医者になる」と宣言したのだ。


「お父さん、僕、医者になるよ。あの娘と約束したんだ。僕が治してあげるって。あの娘ね、絶対に諦めないよ。生きるって約束したんだ」

真っ直ぐな瞳で父に告げる晃。

晃と少女の間にどんな会話があったか分からなかったが、その場にいた医療スタッフは皆、少女が確かに生きる力を取り戻したことを確信した。

少女に足りなかったものは『死に立ち向かう力』だった。
生きたいと強く願う気持ち。
未来に羽ばたく為の輝く銀の糸で紡いだ羽。
少女は晃と出逢い、確かにそれを得たのだ。

少女の頬に宿った生気に、医師たちは安堵の溜息を漏らした。



帰りの車の中でぼんやりと車窓から雨雲が消え始めているのが見つめる。
あの娘の名前聞かなかったな…と、ぼんやりと思い出した。
でも、僕には分かる。いつかまた、もう一度出逢えるって、確信がある。
名前なんか知らなくても、僕らはいつかまた必ず巡りあうはずだ。
車窓から空を仰ぐと、雲の切れ間から赤くなり始めた夕日が光の筋を書いているのが見えた。


――――いつかきっと会おう

七夕の今夜、天の川に誓うよ。

僕は医者になって必ずもう一度君に会う。

名前も知らない紫陽花の精

その日まで、決して枯れないで…

僕が大人になるまで、信じて待っていて…





病室でゆっくりと身を起こすした少女に、母親が話し掛けた。

「あの男の子、今日診て下さった先生の息子さんだったんですって」

ああそうか・・・。
だから「お父さんがいつも言ってる」って言ったんだ…。と、まだ寝起きでぼんやりとしながらも思い出した。

彼は私の病気を治してくれると約束した。
私のために医者になると言ってくれた。
だったら私は生きなくちゃいけない。
彼が大人になって、私を治してくれる日まで、生きていなくちゃいけない。

彼は約束してくれたのだから…。
きっとこの病から私を救ってくれると…。


「お母さん、私、絶対に死なない。彼が私を治してくれるって約束したの。私はそれまで生き続けて約束を守らなくちゃいけないわよね」

母は大きく目を見開いて、それから目に涙を浮かべながら、ゆっくりと崩れるように笑顔を作っていった。

「そうね・・・約束はちゃんと守らなくちゃね。いつかあの子に治してもらおうね。茜」

ニッコリと笑う茜の笑顔は、雨の上がった空の雲の切れ間から差し込む夕陽に彩られた。


うん、いつかまた、きっと出会えるよ―――――


七夕の今夜、天の川に私の願いはきっと届くから…





銀の雨が優しく降る日は、遠い記憶が目を覚ます

それは紫陽花が見せた夢

遠い遠い記憶に眠る、優しい優しい思い出のかけら

美しく咲く紫陽花が銀の糸降る午後に見せた夢


+++ Fin +++

2005/7/7 七夕によせて


後日談へ続く…
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