Your Little Wish



「駄目だったら駄目だ!何度言ったらわかるんだ?」

僕の後を金魚の何とかみたいにくっついてくる茜に振り返り、うんざりといった顔であきれたようにため息をつく。

「お願い晃。私の一生のお願いよ」

すがるように僕の袖をつかみ、夜空を思わせる瞳で僕を見上てくる。

そんな目で見たって駄目だよ。どんなに君が望んでもその願いだけは聞けないね。

君がそれを望んでいるのは知ってるけれど、まさか、現実になるなんて思っても見なかった。

本来なら喜ばしいはずのことだけど……でも、リスクが大きすぎる。

僕は君を危険にさらしてまで欲しい物は何も無いんだ。


「茜、お願いだから…僕はそんな危険を冒してまで子供が欲しいわけじゃない。
むしろ、君と過ごす時間が少しでも穏やかで長くあって欲しいんだよ」

そう、それが僕の切なる願い…。

現代の医療では原因さえわからない心臓の不具合を抱えた茜の残された時間はそんなには長くない。

医者の卵である僕には、明らかにその日は近付いているのが分かる。

僕が医者になるより先に茜が僕の元から去ってしまう。

それは僕にとって何よりも辛い事だ。

せめて、僕が一人前になるまで生きていて欲しいんだ。


子どもの頃、一人の少女と約束を果たす為、僕は医者になる道を選んだ。

約束を守るため、少しでも早く父を越える医者になりたくて、周囲の反対を押し切り、中学の卒業を待たずにアメリカのハイスクールに転入した僕は、猛勉強の末、飛び級でハイスクールを卒業した。
それでもまだ時間が足りなくて、更に大学の単位も飛び級で進み、6月に20才になったばかりの僕は、既に大学の卒業資格を取得している。

日本に呼び戻されなかったら、今頃はアメリカで医大に進み尊敬するドクターホフマンの下で学んでいただろう。

でも帰国していなかったら、今の僕たちは無かった。

あの頃、自分を駆り立てるものが何だったのかは分からずに、早く医者になりたくて、時間に終われるように急いでいた。

何故そんなにも駆り立てられたのか、今なら分かる。


必ず助けると幼い日に約束した少女が茜で、彼女と再会し助けるためだったんだって。

それでも…。

こんなに急いでもまだ、茜の病状には追いつけない。

君の時間に追いつきたくて必死にがんばっても、その時は確実に近くなってきている。

茜…どうしたら、君をここに繋ぎ止められる?

何を犠牲にしても、君だけは失いたくないのに。


「晃は私が遠くに行ってしまうと思っているの?」

ふいに茜の言った言葉に我に返った。


「茜…?」


茜は僕の胸に顔を埋めてごめんねといった。


「晃を一人で残して逝く事を許してね。私はずっと晃といたかった…」


「茜、やめてくれ。君の口からそんな言葉を聞きたくなんか無い」


僕は茜の言葉をさえぎるように叫んだ。

叫ぶつもりなんて無かったけれど自分でも止められなかった。

苦しくて苦しくて、心の中に渦巻く不安と怒りと悲しみを顔に出しているだろう自分を見られないようにするために、茜を胸に閉じ込め、決して逃げないようにと抱きしめる。

茜は驚いたように一瞬身を捩ったが、すぐに僕の胸の中に体を預けてきた。

ずっとそばにいるから。


そう言ってふわりと優しく僕を抱きしめる。

甘い香りが立ち上り、これが夢ではない事を教えてくれる。

茜は今、確かに腕の中で生きている。


甘く、優しく、温かい、何よりも大切な命がここにある。


「たとえ体が無くなっても、私はあなたのそばにいる。あなたが一人にならないように…。
お願い、晃。子どもが欲しいの。産みたいの。決して叶う事の無いと思っていた私の夢なの。
あなたの赤ちゃんが欲しいの。どうしても…産みたいの」


―――― このぬくもりを失うかもしれないリスクを負ってまで、子どもなんて要らない!


茜の頬を一筋の涙が伝う。


―――― だめだ!君を失うくらいなら、僕は何も要らない…。

「私の命を受け継ぐものを、私の意志を受け継ぐものを…」

茜の言葉に、びくっと体に電流が走った。


―――― 茜の命を受け継ぐもの ――――


「お願い、晃。私の愛を受け継ぐものを私は産みたい。私が生きた証しに…」


―――― 茜が生きた証しに…?


「私たちが愛し合った証に…」


―――― 僕たちの愛の証しに…?

茜はもう、泣いていなかった。強い決意を秘めた瞳で僕を見つめてくる。
痛いほどに、苦しいほどに真っ直ぐな瞳で僕に訴えてくる。


この子は茜自身なのだと…。


「女性は命の受け皿なんだよ。晃…。この身に宿った命を、大切に育んで、新しい命を世に送り出す。
それが、私の肉体としての命の終わりでも、魂の終わりではないの。命は確かに受け継がれるのだから…」

―――― 僕たちの愛を、受け継ぐ命

それを育む茜は、とても神々しく大地の女神のように温かく優しい表情をしていた。

「茜、僕は君に何かあったら、この子を恨んでしまうかもしれないよ」

僕はきっと、情けない顔をしていたと思う。

もう僕には何もいえないよ。どんなに反対しても君はこの子を産むんだろう?

「大丈夫よ。私には優秀なお医者様の卵が24時間つきっきりで体調管理してくれているんですもの」

茜は僕の腕の中でニッコリと微笑んだ。優しく、温かく、全てを包み込むような深い愛情を秘めた瞳で…。

「それに晃はきっとこの子を愛してくれる。どんな形で生まれてきてもね。
この子があなたの生きる希望になってくれる。そして、いつかあなたを未来に導いてくれるはず」


「僕の…希望? 導く子?」


茜は何を言いたいのだろう?僕の希望の全ては茜なのに…。

「そうよ、この子はあなたを幸せに導いてくれる天使なのよ。
私はこの子を産んで死ぬつもりは無いわ。生きて3人で暮らしたいのよ」

切望ともいえる心の叫びだった。

「晃、私は簡単に死なない。最初から出産に耐えられないなんて決め付けないで。私は生きるの。3人で生きていきたいのよ」

茜は力強く、真っ直ぐな瞳で未来を見つめている。

あの日ホタルの小道を照らした儚い光よりも、それは儚い望みなのかもしれない。

でも、確かにある希望だ。

僕たちはそれに賭けてみよう。

「わかったよ茜、僕の負けだ。賭けてみよう。僕たちの3人の未来に…。
未来を受け継ぐ子を、産んでくれるかい?…僕たちのために」

ゆっくりと抱きしめ、やわらかいキスを交わす。


『この子はあなたを幸せに導いてくれる天使なのよ』

茜を抱きしめ、その言葉に願いをかける。


春になったら新しい命と3人で暮らす、ささやかな幸せな夢を見てみよう。

君がその腕に天使を抱いて、微笑む姿を見てみたい。

君の幸せな笑顔を…いつまでも見つめていたい。

茜…。

君は幸せなんだね。この子を産む事が君のささやかなの願いなんだね。

僕に出来るのは、君を支え、生まれてくる子を精一杯の愛情で受け入れる事だけなのだろう。

まだ、心のどこかで納得できない自分がいるけれど、それが君の最後の願いならば、僕はこの決断に後悔はしないよ。

この子が僕たちを未来の幸せに連れて行ってくれることを信じたい…。


何度も何度もやわらかく啄むようにキスを交わす。

今を確かめるように…。

未来を求めるように…。



君がそれを望んでいるのは知っていた。

それが現実になるなんて思っても見なかった。

リスクが大きすぎる、そう思っていた。

君を危険にさらしてまで欲しい物は何も無かった。

だけど、僕は決めたよ。

君とこの子を護り未来を見つめていくよ。

例えそれが儚い夢でも…。

茜が望んだささやかな夢なら…。

「晃…ありがとう。3人で幸せになろうね」

腕の中のぬくもりを確かめながら、返事の変わりにキスを深くする。




幸せにするよ。僕の全てをかけて…。






『晃…この子は強く優しい子になるわ。そして、いつかあなたを未来に導いてくれるはず』

小さく呟いた茜の言葉は言霊となり晃の心に刻み込まれた。


晃が茜のこの言葉の意味を知るのは、まだずっと先。


これより17年後…。


再び茜の魂と巡り逢うときの事…。



+++ Fin +++




サイト引越し記念小説『Your Little Wish』でした。
晃の戸惑い、茜の切なる願い、どちらの気持ちも分かるし書いていても 正直苦しくなりました。
でも、やっぱり母は強いんです。 この決断の日があったからこそ物語は次の世代に続いていきます。 それは、また別の機会に・・・。

朝美音柊花
2005/08/23