「茜?どうしたの、ボウッっとして。」
晃が心配そうに覗き込む。
ぼんやりと考え事をしていた私は、ハッとして顔を上げた。
「あっ…ごめん。なんだっけ?」
「午前中のうちに出かけないか?午後からは買い物に行きたいって言っていただろう?」
「うん、そうね。二人で暮らすにはまだ足りないものもあるし…。」
「何が足りないかなあ?食器は一通りあるし、家電だって、家具だって、今まで僕が使っていたものをそのまま使えば良いだろう?
クローゼットだってたくさん空いているんだから。」
もともと晃のおじいさんが暮らしていたこの家は、晃が独りで住むには広すぎるほどで、使っていない部屋がほとんどだ。
かつておじいさんが療養所をしていたこともあり、部屋数もあるし、食器や家具も普通の家と比べると、随分多いと思う。
だから、私が一緒に暮らすからといって、すぐに何かを用意する必要も無いのだけど…。
「んーとね。枕が欲しいの。ここにある枕はそば殻で少し硬いでしょう?……病院を思い出すから…。」
「ああ…そっか。ごめんね、気付かなくて。入院してる気分になるんだね?」
「うん…。」
「でも枕は必要ないと思うんだけどなあ?僕の腕枕があるし?」
「やっ…何言ってるのよ。腕が痺れちゃうでしょう?毎日朝までずっとなんて、寝返りだって出来なくて、晃が疲れちゃうわよ。」
「クスクス…茜は軽いから、全然大丈夫だよ。」
「それって、私の頭が軽いって言われているみたい…。」
ツンと拗ねて見せると、晃は慌てたように謝って、私を抱きしめる。
「そういう意味じゃないって、分かっているくせに。茜は意地悪だなあ。僕を困らせて楽しんでるだろう?」
「……わかる?」
「わかる。酷いなあ。意地悪なお姫様にはお仕置きしちゃおうかな?」
意味ありげな視線を投げかけ、耳元へ唇を寄せると、腰が砕けるような甘い声で「出かけるのは午後からにする?」と囁いた。
まるで催眠術にでも掛けられたように身体から力が抜けていく。
だけど、ここで誘惑に負ける訳にはいかない。
だって……
「もう!そんなこと言ってたら日が暮れちゃうよ?今日を記念日にしたかったのは晃でしょう?」
「うーん。痛いところを衝くなあ。確かにそうなんだけど、受付は24時間しているって知ってる?」
「せっかくこんなに綺麗な青空に恵まれた、貴重な梅雨の中休みの日に、わざわざ夜まで待ってこれを提出しに出かけるの?」
私はテーブルの上に広げられた婚姻届を指差して呆れたように言った。
「…たしかに、もったいないね。せっかく僕らの結婚を祝福する為に晴れたんだから、やっぱり午前中に出かけようか。」
「私たちの結婚を祝福する為にお天気になったの?ふふふっ、素敵。まるで神様が祝福してくれるみたいね。」
「もちろん、神様だって祝福してるさ。僕らは愛し合うようにと、神様に定められて巡り逢った互いの半身なんだから。」
神様がこの青空をプレゼントしてくれたと、晃が言うのなら、そう信じよう。
だけど私には青空よりも、もっと欲しいものがある。
神様…
どうか…彼と共に生きる時間を下さい。
晃を残して逝かなければならない私に…もっと時間を下さい。
私に残された時間は…余りにも短すぎるから…。
どうか…彼を独りにさせないでください。
私の心を読んだように、晃がギュッと抱きしめる。
柔らかな綿のシャツ越しに体温が伝わって、自分が今、確かに生きていることを実感できた。
晃の腕の中、彼の愛を全身で感じ、安堵する。
不安も、苛立ちも、晃が吸収してくれたように、何処かへ消え去っていった。
「茜。婚姻届…書こうか。早く君に高端 茜になって欲しい。一秒でも早く…。」
一秒でも早く…
それは一秒でも長く、彼の妻でいて欲しいということだろう。
カウントダウンはもう始まっている。
砂時計の残り砂は、確実に重力に導かれるように、その速度を加速しながら落ちている。
一秒でも早く…
一秒でも長く…
それが私たちのささやかな願い
「茜…僕はね、君が僕の妻になるまでの一瞬一瞬を大切に覚えておきたい。一つ一つの空欄を埋めていく、その仕草一つも、僕の記憶の中に永遠に留めておきたいんだ。
今日、君は正式に僕の妻になる。……僕がどれほどこの日を待ち焦がれたか、わかるかい?」
「私だって…。晃のお嫁さんになれる日が本当に来るなんて夢みたいだわ。」
「茜にプロポーズして、OKしてもらって、この数日、僕は夢の中にいるようだったよ。」
「晃…私も、とても幸せだったわ」
「過去形はやめてくれよ。これから正式に僕のものになって、ずっと一緒に暮らすんだ。そうだろう?」
「うん…そうね。」
晃の体温を感じながら、私は一文字一文字、空欄を埋めていく。
光林 茜として生きてきた17年を振り返りながら、これまでの自分を書き込んだ。
初婚、再婚を選んで記入する欄で、私の手がふと、止まったことに、晃は怪訝な顔をした。
「………?茜は初婚だろ?何を迷ってるの?」
「晃はいつか…もう一度この届けにサインするのかな。」
「茜、何をバカなこと!」
私は再婚と書かれた欄を指差した。
「…晃が再婚するときは、この欄に私は死別として記録されて、死んだ日が書き込まれるんだよね。…ごめんね。長くは一緒にいられないのに…。」
「茜、僕は再婚なんてしない。一生君だけを愛して生きていく。」
「晃…ありがとう。でも人の心は変わっていくわ。もしも愛する人が出来たときは、私に悪いとか思わないで、必ず幸せになって欲しいの。」
「僕には一生君だけだよ。僕らが結婚する日に、どうしてそんな事を…。」
「結婚する日だからよ。あなたと私が一つになる約束の日。だから…私がいなくなったときの事も約束しておきたいの。」
「茜…。」
「お願い…好きな人が出来たら…私を忘れて幸せになって。」
「僕は一生君の魂だけを愛し続ける。僕がもう一度結婚するときは…君が僕の元へ還ってきた時だ。」
「……晃…。」
「僕を独りにしたくないと思うなら、生きろ。」
「だって…。」
「僕が必ず君を治す。だから、生きるんだ。僕の為に。」
「……うん。頑張る…。」
晃は私を苦しいほどに抱きしめた。
頑張るよ、晃…
あなたを独りにはしたくない
生きるから…
あなたの為に生きるから…
「…私の居場所は…晃の腕の中でいいのね?」
「ああ…ずっと一緒だ。茜の場所は僕の腕の中、君はもう一生僕から離れることなんて出来ないよ。魂の欠片一つだって、一瞬たりとも僕から離れることは許さない。」
「うん…ずっとずっと、傍にいる。心だけになってもずっとあなたを愛してる。ずっとずっと…晃のそばを離れない。――…愛しているわ。」
「愛しているよ…僕の…奥さん」
ゆっくりと晃の長い睫毛が伏せられ、優しいキスが降りてくる。
音が消え、時間が止まった――…。
私はずっと夢見ていた
いつか普通の女の子のように誰かに恋すること
いつか、大好きな人のお嫁さんになること
どちらも決して叶わない夢だと思っていたのに
あなたは全てを叶えてくれた
ありがとう、晃…
私はあなたに何も返せないけれど
私の命が消える最後の瞬間まで、あなたを精一杯愛して生きる
たとえこの身体が朽ちても、心はずっとあなたの傍で生き続ける
決して、あなたを独りにはしない
だからあなたが生まれ、私たちが夫婦になった今日の日に誓うわ
私にとって今日が永遠の約束の日
いつか、必ずあなたの元へ還ってくる
もう一度共に生きる為に――
再び、あなたと結ばれる為に――
その日の午後、私たちは、婚姻届をだして、新しい枕を買った。
誕生日のケーキと結婚記念の花束を買って、二人で料理を作り、ささやかなお祝いをした。
これから共に生きていく新しい人生を、晃の腕の中で夜通し語って過ごした。
その名の通り、日の光のように惜しみない愛を私に注いでくれる晃。
その陽だまりに抱かれて、私は幸せな未来の夢を見る
真っ白な花嫁衣裳に身を包んで、彼の隣で永遠の愛を誓う私…
晃が小さな命を抱いて微笑む、未来の幸せな家族の姿…
ねぇ、晃
私はとても幸せよ…
静かに流れる甘い時間(とき)に、何度も抱き合い想いを交わし
決して消えないように、愛を深く刻みましょう
夢が夢で終わらないように
この幸せの瞬間が
永遠に色あせないように…
+++Fin+++
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『大人の為のお題』より【空欄】 お提配布元 : 「女流管理人鏈接集」
本日6月28日は晃と茜が籍を入れた日であり、晃の誕生日でもあります。
二人が短いながらも夫婦として歩き出した、最初の日です。
複雑な気持ちで、素直に喜んでよいものか迷う茜を、晃は大きな愛で包み、一歩を踏み出しました。
切ない中にも、深い愛と幸せを感じていただけたら嬉しいです。
晃、お誕生日おめでとう。そして、ふたりへ…結婚おめでとう。
2007/06/28
朝美音柊花