『大人の為のお題』より【愛しい者の腕の中】

*** 魔月の内緒話 ***


彼のアパートの前で、私は一度立ち止まって空を仰いだ。

闇夜に浮かぶのは三日前と同じ、まるで血に染まったような紅い月。


ねぇ、お月様
あの夜もあなたは紅く染まっていたね。
別れ話をした帰り道、公園で独りで泣いた私を、あなたはずっと見ていてくれた。
あの日から全く時間が進んでいない気がするわ。

私達お互いに嫌いになって別れた訳じゃないの。
彼とはね、大学時代から5年間付き合っていたの。
そろそろ結婚も考えていたのよ。私達お互いしか考えられなかったし、それが自然だと思っていたの。

でも、ひと月前に彼に海外赴任が決まった時、一緒に行こうと言う彼に、私はすぐに頷けなかった。
何故って、 設計事務所に勤めて3年、初めて自分の設計した建物が採用されることになって、夢を掴むチャンスを目の前にしていたから。

仕事と恋のどちらかを選ぶことができず苦しむ私に、彼は自分から別れを切り出した。

彼は優しい男性(ひと)だから、私の我が儘を許してくれたの。
彼は寂しがりやだから、これ以上待つことはできないと言ったの。
彼が悪かったんじゃないの。
私が我が儘だったの。

だけど、別れてすぐに後悔したわ。
彼という存在を失って、世界は闇に包まれた。
失うまで気付かなかったって、本当にバカよね?

仕事も夢も、彼という光がなければ、こんなにも色あせてしまのだと、初めて知ったわ。
花は太陽の下でこそ、色鮮やかに咲くのだと…
木々は月の光の下では、こんなにも寂しげなのだと…
今更ながらに思い知ったの。

彼が許してくれるなら、もう一度やり直したいの。
私達、お互いに嫌いで別れた訳じゃないもの。
きっと、今ならまだ間に合うわよね?
彼はまだ、私の事想っていてくれるよね?
彼はまだ、私の事愛しているよね?

今度は迷わず一緒に行くって答えるわ。
今度はきっと幸せになるわ。

ねぇ、お月様
私達の事、見守っていてね。
あの日のように…









アパートのドアの前で立ち止まって三日前の事を思い出す。

あなたはどんな顔をするかしら?
驚く?
迷惑そうな顔をする?
ううん、きっと何事も無かったように笑ってくれるよね?

逸る心を抑えて、返しそびれた合鍵を握り締めた。
あの日、返すのを忘れて本当に良かったと、思わず頬が緩む。

ああ、「どうしたの?」って訊かれたら何て答えよう。

もう一度話したかったの。

もう一度会いたかったの。

どうしても伝えたかったの。

あなたを心から愛しているって…

あなたと一緒に行きたいって…



静かに鍵を鎖し、ゆっくりとドアノブを捻る。
何度もこうしてドアを開けた1Kのアパート。
ドアを開けるとフワリと彼の部屋の香りが鼻腔を擽り、いつも胸がときめく。
いつも最初に目に飛び込んでくるのは、食器が山積みになったキッチンだけど、今日は綺麗に片付いていた。
珍しいと思いながら、視線を足元に向けてギクリと身体が凍てついた。

彼の靴の隣に、女物の赤い靴。

私の忘れ物ではない。だけど、その靴には見覚えがあった。



どういうこと…?



嫌いになった訳じゃないって…言ったよね?

私の事はずっと好きだって…

あれは嘘だったの?

リビングのドアのガラス越しに見えたのは、私の親友。

そして彼女の肩を抱き、優しくキスをする彼。




世界から音が消える。




私は呆然として、恋人だった男と親友だった女が抱き合っているのを見つめていた。

紅い月の光が二人を妖しく照らす。

ねぇ、なぜ今ここに彼女がいるの?

ねぇ、別れの本当の理由は彼女だったの?

酷いよ…親友だと思っていたのに。

友達の顔をして「何でも相談してね」って言っていたのに、あれは何だったの?

彼の事を相談するフリをして、悩む私をあざ笑っていたの?

ずっとずっと友達だと信じていたのに…

全部全部ウソだったの?

彼と二人で私の事を笑っていたの?



いつからー…?



いつから二人で私を騙していたの?


どうして?


どうして?


頭に浮かぶのは私だけを愛していたと信じていた彼の姿。

彼の傍にいるのは、これまでもこれからも私だけだったはずなのに…




どうしてー…




許せない




愛していたのに




信じていたのに




二人とも大好きだったのに




大切な恋人も




大切な親友も




全部幻だったなんて





全身から力が抜けていく。
目の前が歪み、今にも倒れそうだった。
倒れて、意識を失って、永遠に目覚めたくない。
彼のいない世界で、こんな現実の中で、一人で生きていくなんて…

進むべき道を照らす唯一つの光を、私は永遠に失ってしまったの?
やっと気付いたのに…。
夢も仕事も、全てを捨ててきたのに…。
そんなの…嫌…!


私はキッチンを振り返ると、冷たく銀色に光る刃を手に取った。

窓から射し込む今夜の月明かりが不気味に反射して、血を求めるように刃を赤く染めている。

刃が求めるままに、私はリビングのドアに手を掛けた。

「愛していたのに…」

私の声に振り返る二人。
親友だった女の顔は引き攣り、脈絡の無い言い訳を並べ立てる。
興奮した、いつもより甲高い声が耳障りで、苛立ちを煽られる。
私は女に向かって刃を向け、大きく横に薙いだ。
切っ先が頬を霞め、髪が一房宙を舞った。

ヒステリックな悲鳴と共に、彼から離れて数歩飛びのく。

彼女は自らが逃げることだけに必死で彼を庇おうとはしなかった。
そして彼も…彼女を庇おうとはせず、ただ驚いた顔で私を見つめていた。

そう、それでいい。あなたは彼女を庇っちゃダメよ。
だってあなたは私のものだもの。
私だけのもの…

彼は呆然として「どうして…?」と呟いた。
ああ、やっぱりそう訊いたわね…。
私はクスリと笑って彼に向き直った。

もう一度話したかったの。

もう一度会いたかったの。

どうしても伝えたかったの。

あなたを心から愛しているって…

あなたと一緒に逝きたいって…


私は彼の胸の中に迷わず飛び込んだ。
鈍く光る刃は鞘を求めるように、彼の胸に沈んでいった。

崩れ落ちる彼の瞳は閉じられることなく私を見つめていた。

彼の時間が止まる最期の瞬間(とき)まで。


ねぇ、あなたの瞳が最期に捉えたのは、悲鳴を上げて泣き叫ぶ裏切り者ではなく、私の幸せな笑顔だったんでしょう?

あなたもこの結末を本当は望んでいたのよね?

だって私、解ったんだもの。

私があなたの胸に飛び込むとき、一瞬両手を広げて私を迎え入れてくれたでしょう?


一緒に逝こうって…


あれはそういう意味だったんでしょう?






ねえ、お月様
ここにいるのはあなたと私達だけ。
だからお願い、見届けてね。
私達の結婚式を。

あまり時間は無いの。
かつて親友だった女が邪魔者を連れてくる前に、彼とふたりで遠くへ逝くわ。

彼は 寂しがりやだから、きっと待っているわよね。
私の顔を見たら、よく来たねって、抱きしめてくれるかしら?
愛してるって言ってくれるかしら?
彼の血で染まった真っ赤なドレスを着た私に、綺麗だよって言ってくれるかしら?

月の光に浮かび上がる彼の瞳は、無表情に私に見つめている。
愛を語ることの無い、色を失った唇に、そっと唇を重ね永遠の愛を誓う。
彼の頭を膝に抱き、深々と胸に沈んだ刃(やいば)を引き抜くと、ヌルリと毒々しい赤が伝った。

その血の一滴までが愛おしい。

「闇夜に浮かぶ魔を呼ぶ月よ。私達はあなたの前で永遠の愛を誓います」

私は彼の手に握らせると、自分の胸に彼の血を含んだ切っ先をあてがい、一気にを沈めていった。

深く、鋭く、身体を貫く熱。

痛みは感じなかった。

血だまりに横たわる愛しい者の腕の中に崩れ落ちる。

二人の血が一つに混ざり合い、永遠の鎖となる。

狂気を孕む愛が紅い月を輝かせる。

血だまりに映った魔月は、悲しみに染まり一層赤みを増していった。




ねえ、お月様 見ていてくれた?



――私は…とても幸せよ




+++ Fin +++


2005年に月夜のホタルで公開していた作品に手を加えました。
シュールな作品なのでサイトを統合した時に下げたのですが、意外にもこの作品が好きだったとの感想も頂いておりましたので、それならば…と、今回LOVERSシリーズ仕様にお題利用作品として編集してみました。
原作を覚えている方は少ないと思いますが…随分変わりました(^^;)  彼女が彼を手に掛けるに至った経緯なども、少し組み込んでみました。
たまにはこんな作品もありって事で、いかがでしょうか?
アンハッピィ〜が苦手な方はスルーしてください。

朝美音柊花
2009/11/20

Copyright(C)Shooka Asamine All Right Reserved.

『大人の為のお題』より【愛しい者の腕の中】 お提配布元 : 「女流管理人鏈接集」