Sweet  Dentist 10月11日(火曜日)



高校のときの誠先輩の恋人との見合いの話が来た時は驚いた。


誠先輩と俺の見合い相手の岩本さんはもう随分長い付き合いのはずだった。
それなのに煮え切らない誠先輩はズルズルとプロポーズを先延ばししているのは知っていた。

でも、まさか本当に彼女が見合いをするんて思わなかった。
俺は誠先輩にすぐに連絡を入れて見合いの日と場所を教えた。それまでにプロポーズするか、もしくは本当に別れてしまうのか。
そこまで踏み込めない俺は、とりあえずお膳立てだけはしてやったんだ。

先輩は結局当日の朝まで俺に連絡をくれなかった。
聞くところによると10月7日はふたりの付き合いだした記念日とかで、その日の朝プロポーズして見合いを止めるつもりだったらしい。

ところが彼女のほうが置手紙をして早朝に出て行ってしまった。
俺との見合いの為に、誠先輩と別れる決意をしたらしい。


…何やってんだよ。誠先輩。

そういえば高校時代、生徒会長だった誠先輩は、どっか抜けていたり呑気だったりで、結局副会長の龍也がほとんど取り仕切っていた事を思い出す。

ここぞと言う時は思い切りよく動くくせに、計画性が無いというか、のんびりしているというか…。

そんな経緯もあって、見合いの日誠先輩は彼女の岩本さんを奪還しに来た。

…ったくおせぇんだよ。


まあ、その後先輩と岩本さんはハッピーエンドで俺はキューピットになったわけだけど♪

先輩たちをくっ付けるというミッションをこなした俺は、『ヤボ用があるから行くわ。』と言って、見合いの場を後にした。


そう、『ヤボ用』はたぶんまだ、カフェにいるだろうと確信して…。



俺の予想通り、あいつはまだカフェにいた。しかも大量のケーキを目の前に幸せそうに微笑んでいる。
あんな甘そうなのを目の前にして、何であんなに幸せそうに笑えるのかがわからねぇよ。

ちょっと声をかけてから帰るつもりだった。

『あのくらいで営業妨害になるなんて、Yasuhara Dental Clinicも大した事無いみたいですね。』

あいつが言った あのセリフはちょっとカチンと来ていたんだ。
見合い相手が来たからあの時は突っ込んで言う事を止めたが、どうしても何か言ってやりたくて、ちょっといじめてやろうと思ったんだよな。

こんな事あいつにバレたらまた小学生じゃないんだからとか言われそうだ。

まあ、大人気無いってわかってるんだけどさ…。



ちょっと驚かせるだけのつもりだった。

千茉莉が真っ赤になって驚いたらすぐに止めるつもりだったんだ。

彼氏もいなくて経験も無いみたいだったから、抱き寄せて至近距離で脅したらすぐにビビって『ごめんなさい』位言うかもしれないと思った

絶対に無いとは思ったが、もしそこいらの女たちみたいに自分から擦り寄ってくるようなら
『バーカ何を期待してるんだよ』って言ってやるつもりだったんだ。

まあ、案の定それは絶対に無かったみたいだけど…。



だけど…



あいつが泣くなんて思わなかったんだよなぁ。

かなり怒っていたからな。でも、まさかキスも初めてだとは思わなかったんだよな。

しかもほっぺにだぜ?あんなに怒って泣くなんて思いもしなかった。

はぁ…

あの見合いの日からずっと千茉莉の涙を溜めたあの顔が頭から離れない。




あいつ、今日ちゃんと来るかな?

あの日の涙を溜めた千茉莉を思い出してふと、時計を見る。

千茉莉の予約の時間は4時半。 もう15分も過ぎている。


ちらり…


無意識に時計に目が行ってしまう。
本当に来ないつもりなんだろうか…。



何でこんなに千茉莉を気にするんだろう。

ヤッパリあの事が原因なんだろうか。




蜂蜜色の夕日の中振り返った少女…一瞬見えた天使の羽…



俺もバカだよな。

あんな昔の一瞬だけ見えた幻が気になるなんて。

でも…あの時は本当に救われたんだ。





暁から杏ちゃんの知り合いを治療してやって欲しいといわれた時
通常なら女と言う事理由で断ったはずの治療を引き受けたのは、彼女の名前を聞いたからだった。

俺は基本的に女の治療はしない。

俺の顔目当てや交際目当てで治療に来る女は後を断たない。
それに嫌気がさした俺は、女性の治療を受け付けるのをやめ、院長である父親や他の先生に女性患者をすべて頼む事にした。
そして自分の周囲から極力女性を遠ざける事を決めた。まあ、医院のスタッフはほとんどが女性だからこれは仕方が無いが…。

医院の中でさえ、俺に好意を持っている者がいるらしいが、一言でも俺に好意ある態度をみせたものは、今まで全部退職を願ってきた。

だから、今では誰も俺に交際を申し込んできたりはしなくなったんだが。

それでも、しつこく治療を頼みに来る患者は後を断たない。

本当にいいかげんうんざりする。なんで俺なんだよ。




考えてみれば昔からそうなんだ。俺は昔からモテた。俺が望んだ事は一度も無いのに…だ。羨ましいと友達からは言われるが、俺はむしろ迷惑なんだ。
モテるゆえに俺が好きになる女は必ず口をそろえたように同じ事を言う。

『あなたと付き合っていると不安になる。』

俺と付き合いたいという女が後を断たない事にプレッシャーを感じたり、嫌がらせを受けたりと言う事に耐えられなくなるらしい。

俺は自分が惚れた女以外はどうだっていいのに、何でいつも好きな奴には振られて、嫌いなタイプの女ばっかり寄って来るんだろう。

もう、心から誰かを好きになるなんて感覚は忘れてしまった。
誰かを愛しく想ったり、切なく胸を締め付けられたり…そんな感情はずっと遠い記憶の奥底に落としてきてしまったような気がする。



もう、俺は本気で誰かを愛する事が出来ないのかもしれない。


そんな風に思っていたときに、暁から杏ちゃんの知り合いの女の子の治療をしてやってほしいとの内容にメールが入った。

気乗りはしなかったが親友の暁の頼みだし、他ならぬ杏ちゃんの知り合いだという。

「とりあえず話は聞くよ。治療するかどうかはその娘の話を聞いてからだ」

俺は暁にそう釘を刺した。
治療が終わったら付き合って下さいなんて言われたら、たまったもんじゃないからな。


そう思っていたんだ…。


そう、杏ちゃんから千茉莉の話を聞くまでは…


「響さん。千茉莉ちゃんは歯医者さんが大嫌いなの。もし、受けてもらえるなら優しく治療してあげてね」

杏ちゃんのセリフを思い出す。

「杏ちゃんとその娘とは長い付き合いなのか?」

「うん、大学時代に家庭教師をしていたの。知り合った頃はまだ中学生だったけど、すごく優しい娘でね、あたしが疲れた顔をしているといつもキャンディとか甘いものを出してきて言うのよ。
『疲れたときや悲しいときには甘いものが一番ですよ』…って。口癖みたいにね」

「……へぇ…」

なんだろう心を揺さぶられるようなこの感じは…

「ほら、駅前にある洋菓子屋さん【SWEET】ってあるでしょう?あそこの一人娘なの」

【Sweet】と聞いて、亜希の最後の日の懐かしい思い出が蘇ってくる。あの店の娘なのか。

「だからお菓子作りが得意でね。よく作ってくれるのよ。彼女…人の心の傷にすごく敏感って言うか…。不思議な娘なの」

「不思議な娘?」

「そう、例えばあたしが元気なかったり、暁が仕事の事で悩んでいたり、どこか気分がブルーな時に必ずそれを知っていたように『元気が出ますように』ってお菓子を作って来てくれるのよ。
それがまた、すごく美味しくてね、一口食べると元気になれるって言うか…。
とにかくすごいパワーがこもったお菓子なの。千茉莉ちゃんの心が込められているなあって、すごく心が温かくなるのよ」

「ちまり…千茉莉っていうのか?その娘」

「そう、神崎千茉莉ちゃん、あれ?あたし、名前教えなかったっけ?」



『かんざき ちまり』



その名前が俺の中で眠っていた何かを揺り動かして目覚めさせた。

心の奥を揺さぶられるような激しい思いが溢れ出してくる。

蜂蜜色の夕日。小さなキャンディ。綿飴みたいな髪。振り返った少女


背中に一瞬見えた天使の羽…



胸の奥底に眠っていた忘れていた思い出が鮮やかに目の前に広がった。



ずっと忘れていた誰かを想う気持ち…

胸を締め付けられるような切ない気持ち…



心が忘れていた何かを取り戻したような気分だった



「わかった、受けるよ。彼女の治療」

俺は無意識にそう呟いていた。



彼女は今も天使の羽をその背に持っているんだろうか…。




目を瞑れば鮮やかに蘇る。

あの蜂蜜色の夕日に照らされた純白の羽。

何で忘れていたんだろう。

こんなにも優しく綺麗な情景を…





千茉莉の事が気になるのは…あの日の情景が余りにも鮮やかに蘇ってくるからだ。

実らなかった切ない初恋の思い出。その傷を偶然にも癒す言葉をくれた千茉莉。



俺の中の大切な思い出の中にあいつは何かを残していった。



純粋で、とても綺麗なものを…。



ああ、そうだ。だから…やたらと気になるんだ。

でないとこんなにも千茉莉が気になるなんておかしすぎる。



どうする?

もし今日こなかったら電話でもして無理にでも来るように言うべきだろうか。

でも、アレを根に持ってたら何を言っても来ないだろうな。


はあっ…


また一つ小さな溜息


クスクスとスタッフの笑い声が聞こえて来る。
俺が溜息をつくのがそんなにおかしいのか?

「先生、溜息ばかりついて…まるで恋煩いみたいですよ?」




―――恋?




「何を馬鹿な事を言ってるんだよ。ありえないってあんなガキに」

「あら?あたしは誰に恋煩いしているなんて一言だって言っていませんよ?先生は誰か心に想っている人がいるんですか?」

からかうような視線を試すように送ってくる女性スタッフたち…。



―――やられた。



「ねぇ、先生。私たちこの間千茉莉ちゃんが来た時、初めて先生のあんな楽しそうな顔見ましたよ」

「楽しそう…俺が?」

「そうですよ。口調はけんか腰で、どちらかと言うと優しくは聞こえなかったけれど、あんなに素直に自分の思っている事を誰かにぶつけるなんて、私たちが知っている限りでは初めてのことですよ」



あ…



「自分では気付いていないんですね?ふたりの会話聞いてるとこちらまで微笑ましくなりましたよ。意地っ張り同士がじゃれあっているみたいでね」

確かに…千茉莉の前では女に対する警戒って言うのは無いけれど…そんな風に見えていたのか?

俺が千茉莉に恋煩い?

冗談だろう?ちゃんと来るかちょっと心配だっただけで…。

それに年だって12才も違うんだぜ?話も合う訳無いだろう。



そんな風に言われると何だか意識してしまうじゃないか。



時計をちらりと見る…


ああ、もう20分も遅れているぞ


やっぱり…電話してみたほうがいいのかもしれない。


この間の事も…すまないと一言謝っておいたほうがいいのかも…





謝るのかぁ…何だか納得がいかないような気もするんだがなあ。



とりあえず後5分待って来なかったら電話をかけてみよう。
そう決めて、カルテの電話番号を確認する。

一応…携帯に登録だけしておいたほうがいいよな?まあ、かける事は無いだろうケドさ。


動揺する自分の心を静めるように携帯を開く…。



あと…3分…


やっぱり来ないのか


あと…2分…


携帯を開き番号を表示する


あと…1分…


発信ボタンに指をかける…
心臓がバクバクと騒ぎ出した。

胸が締め付けられるように痛くなる。

―――?何で千茉莉に電話するだけでこんなに胸が騒ぐんだ…?



早鐘を打つ心臓…。迫ってくる切ない気持ち…

何年も忘れていたような感覚が久しぶりに俺を包む…。


何で――?




そう思ったとき…









ガチャッ…




開け放たれたドアから、無数の真っ白の羽が風に舞い流れ込んでくるイメージが俺を包んだ。


驚きに目を見開き、瞬きをする間にそのイメージは消えてしまったけれど…確かにその光景は俺の眼に焼きついた。


風に舞い踊る純白の天使の羽




ドアの前には綿飴みたいな髪をした千茉莉が呼吸を乱して立っていた。


「ハアッ…ハァ…すみま…せん。遅くなって。学校でちょっと先生に呼び出されて…」



一気に俺を包む安堵感。


一瞬確かに見えた白い羽の幻が千茉莉に重なる。


「呼び出し?赤点でも取ったのか?」

「なっ…違います!!今度の大会の事で呼ばれたんですよっ。ああもう。会うなりいきなり…
もうっ、むかつく!!」

千茉莉がぷうっと頬をふくらませて怒り出す。

そんな仕草に安堵して、また次の言葉で追い討ちをかける。

「まあ、そう言う事にしておいてやるよ。遅れたんだからそれなりの覚悟は出来ているんだろうな?さあ、バツに何をしてもらおうか・・・」

「何でよっ?理由がちゃんとあるのに…この横暴ヘンタイ医者!!」

千茉莉の言葉に苦笑しながらも、この時間が俺を癒している事に初めて気付く。



随分と捻くれた天使だがこんな時間もいいのかもしれないと思っている自分がいる



もう、信じられない!!とか何とか怒りながら診療台に乗る千茉莉。

そんな千茉莉をもう少しかまってしまいたくなる自分はやはり今までとは少し違うのかもしれない。

「ヘンタイって…それは止めろって言ってんだろ?先生って呼べよ」

「この間呼びましたよ。アレでもう1年分は言いましたから当分呼びません」

…ったく誰が恋煩いだって?

こんなクソ生意気な天使、誰が何て言ったってそれは絶対無いだろうな。

俺はそんなことを憮然と思いながら治療を始めた。





白い羽が舞う





そのイメージが俺の心をとらえて離さなくなっていく。





そのことに俺はまだこの時気付いていなかった。




+++ 10月11日 Fin +++


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