プラスチックが割れる耳障りな音とともに、理科室は光を失った。
身近にいるはずの幼なじみ、門脇秀吾の姿も、同時に闇に溶けてしまう。
手を滑らせてしまったのだろうか。門脇が持っていた懐中電灯を落としてしまったらしかった。
しんと冷え切った教室は一筋の光もなく、ただ吐息の音だけが響く。
折悪しく今日は新月。窓の外には、教室の中と同じような暗闇が途切れる事なく続いていた。
「……落としただけで壊れるんか、全く。だから百均で懐中電灯買うのは止めとけていうたが」
もう一度つかないかと振っているらしい。懐中電灯の中で揺さぶられた電池が悲鳴を上げる。
瑞垣俊二は目前に広がる闇を分かつようにして、音のする方へ……門脇へと腕を伸ばした。
*
合宿3日目。今年の野球部の冬合宿は明日の朝を以て終了となる。
瑞垣達2年生にとっては2度目で、そして最後の合宿。
部活の仲間達とも少しずつ、進路の話をするようになっていた。
先に野球部を引退した先輩達からも、受験勉強や高校入試に関しての話を聞かされるようになった。
来年の今頃は、きっと野球の事など微塵も考えていない。
目指す高校合格に向けて、必死に塾通いをしている頃だろう。
野球部のない、なんの変哲もない進学校に向けて。門脇から、野球部のメンバーから離れて。
それぞれが目指す未来へ向けて進み始める。それぞれの、夢に向かって。
……ああ、アホらしい。
飛んでくるボールを捕まえて、瑞垣は一つ溜息をついた。
合宿の疲れはそろそろピークだし、毎晩みんなでこっそりと遊んでいるからいい加減に寝不足だ。
やる気なさげに返球する瑞垣に、監督からの檄が飛ばされる。
小さく舌打ちをしてから、声量だけは大きな返答をした。
「よし、集合!」
仕上げの練習試合は門脇チームの勝利に終わった。
敗者の瑞垣チームが片付けを引き受け、練習は終了。
瑞垣はてきぱきと指示を出し、早々にグラウンドを綺麗にしてしまうと、エアコンやストーブもない冷え切った部室へ向かった。
「おつかれさん」
早々にシャワーを浴びて着替えを済ませた門脇が、からかうような口調で出迎えた。
「門脇大選手にはこういう時に、自分で片付けを引き受けて下さるような度量を持ってもらわんとな」
「俺だって疲れとるんじゃ。勝ちは勝ち、負けは負けなんじゃから」
瑞垣は無言で、バックに突っ込みかけていたドロドロのユニフォームを掴み、門脇へ投げつける。
「うへっ」
不意をつかれた門脇が妙な叫び声をあげる。周囲から笑いが起こった。
「そうじゃな。不意をつかれたお前の負けじゃな、秀吾」
瑞垣はユニフォームをかぶった門脇の肩をはたくようにして横をすり抜け、シャワー室へ向かった。
*
錆の浮いたシャワーはうまく温度調節をする事が出来ず、コックをひねると逃げ出したくなるような熱い湯が噴き出す。
何とか浴びられる程度に調整出来る頃には身体はすっかり冷え切っていた。
湯を身体に受けながら、瑞垣は自分の腕を見つめる。
去年に比べて、纏う筋肉は確かに増えている。けれども、門脇のように強靱なそれではない。
身長にしても、1年生の春に自分が夢想していたようには伸びてくれなかった。
いつまでたっても肩のラインが並ばないように、門脇との差は広がるばかり。
瑞垣にはすでに、門脇に追いつこうなどという気持ちは微塵もなかった。
オレの目の前にいるのは、幼馴染みという名の美しい夢だ。
遠く離れて初めて、その輝かしさが愛しく思い出される類の。
しかし身近で見せつけられる理想のなんと残酷なことか。
距離を置いて初めて、オレは秀吾から解放されるんだ……。
*
残り物で作った謎の鍋を何とか食べ上げて、風呂の後に出来た僅かな自由時間に、「肝試しをしよう」と言い出したのは誰だったか。
「寒いからさっさと寝ようや」という真っ当な意見も出たのだが、合宿終了の開放感に押されて立ち消えてしまう。
頭を突き合わせて全員でルートを決めた。
2人1組になって、職員室前の黒板、理科室の教卓の上、美術室のヴィーナスのトルソー前にそれぞれ10円を置いていく。
ゆっくり歩いて1周10分足らずの所要時間。
懐中電灯の明かりだけで移動する。誰かに見つかったらそのチームが負け。
みんなにジュースをおごる。
シンプルなルールだった。
参加希望者は20人ほどだった。
瑞垣が即席のあみだくじを作り、他の参加者達がおのおの横棒を書き込んで、自分の好きなところを選んだ。
「あ。俺、俊とじゃ」
……こういうのをまさに「腐れ縁」というのだろう。
瑞垣とコンビになった門脇は、
「やっぱり、俺と俊の仲なんじゃな」
と訳のわからない事をほざいている。
「……秀吾、お前、一度死ぬか?」
門脇はにやっと笑って、瑞垣がますますキレそうになるようなセリフを口にした。
「そんなに恥ずかしがらんでもええのに」
*
「何が悲しくて、こんなクソ寒い中を秀吾と二人で歩かなならんのじゃ。
年末年始くらい、かわいい女の子と遊びに行きたいわ」
「今年だって俺と初詣に行ったやないか。今更なんでそんなこと言うんかようわからんわ」
並んで歩く気になれなくて、瑞垣は門脇の半歩前を早足で歩く。門脇の方が歩幅が広いので、急がないと追いつかれてしまうのだ。
こういう事実にいちいち腹が立つ。……昔は、並んで歩いていたのに。同じ歩調で。
お互いに何となく黙り込んで、長い廊下を歩き続ける。
リノリウムの床に叩きつけられて、上履きの靴底がきゅうきゅうと悲鳴を上げた。
「……俊」
もうすぐ職員室に着くという所で、話し始めたのはは門脇の方だった。
ただ名前を呼んだだけだったのに、何故か瑞垣は答える事が出来なかった。
かすれた声は、何故か酷く緊張した響きを持っていたのだ。
「ああ、これじゃ。終わったら回収しとかなあかん。……しっかし、つまらんな、この肝試し」
話を逸らすように、黒板に駆け寄りチョーク置きを確認する。
職員室前の行事予定表。1月1日の所に、小さく餅のイラストが描かれていた。
その下にいくつか10円玉が置いてある。
瑞垣はポケットから小銭を取り出して、10円玉を放った。
「さあ、次に行くか」
いやに真面目な顔をした門脇の横をすり抜けて、次の目的地・隣の校舎にある理科室へと繋がる
渡り廊下の方向へ進もうとする、その時。
「俊、俺な」
背後から、門脇の低く抑えた声が追いかけてきた。
「……なんじゃ、しつこいな。聞いとるわ」
歩みを止めて門脇の言葉を待つ。何故か、喉が渇いた。
「野球留学が決まりそうなんじゃ」
嬉しさよりも戸惑いの方が勝つ様子で、門脇が続ける。
「県外の高校にな、行くことになりそうじゃ」
瑞垣は知らず、唇を噛んでいた。