楽園(1)
明月在雲間    めいげつ  くもまに あり
迢迢不可得    てうてうとして  うべからず




*




補習だらけで休暇とはとても思えなかった夏休みから2週間。
それでも飛び飛びの休日でだらけた気持ちをさらに萎えさせる3連休は明日からだ。
蝉は変わらずにじわじわと鳴き続けるけれども、ヒグラシのそれからツクツクホウシの音色へと序々に移り変わり、季節は確実に秋へと向かっている事を感じさせる。
 塾の帰り、高校一年の夏休みを終えた瑞垣俊二は、夜の蝉がけたたましく喚いている電柱にすれ違いざま、小石を拾い上げてそれに投げつけた。
「ジジッ」
と断末魔の悲鳴を上げて蝉は路上にひっくり返りもがいていたが、瑞垣が見ている前でやがて動きを小さくする。
「……俺に会ったのが運のツキじゃったな。短い命なのにご苦労さん。成仏しろよ」
完全に動きを止めるのを何の感慨もない表情で見届けてから、瑞垣はそれに背を向けた。
何もかもがイラつく。その苛立ちを止める術がわからない。
ポケットに手をのばし、タバコが空になっていた事を思い出す。紙のケースを握りつぶすと、ぐしゃり、と思ったよりも大きな音がした。

刹那。
「俊。……相変わらずすさんだ事しとるんじゃな」
背後から降ってきた、呆れるような、からかうような口調。出来れば二度と聞きたくなかった、そして忘れるはずもなかったその声。
 門脇秀吾。この春まで常に傍にいた、そして春からは野球エリート校に進学し、自分とは全く違う華やいだ道を歩き始めた幼馴染。
 高校球児ならば誰でも憧れるであろう、あのグラウンドに立つ事が叶った男。
 もう二度と、会う事はないだろうと思っていたのに。
「……秀吾」
 かすれて音にならない声で彼の名を呼ぶ。ひどく喉が渇く。今日も熱帯夜のはずなのに、吹き付けてくる風を何故か冷たく感じる。
 動揺する自分が嫌だった。そして、それを気取られるのはもっと嫌だったが、今の自分の心には取り繕う余裕もない。
「俊?」
 気遣うように自らの名を呼ぶ門脇秀吾に気づかれぬように深く呼吸をして、瑞垣は道化の仮面を被る。以前彼に見せていたような柔らかな笑みを浮かべながら振り返った。
 思い出せ。たった半年前、オレはこうやって、秀吾の前で微笑んでいただろう。
「久しぶりじゃな、秀吾……」
 しかし、そこから言葉が続かない。瑞垣の目の前に立っていたのは、たった半年でさらに力強く変貌し、少年の面影を振り払いつつある幼馴染の姿だった。
 たった半年。もう、門脇はあの頃の彼ではない。
 荷物は実家に置いて来たのだろうか。小さなデイパックだけを背負った身軽な姿で、門脇は、これだけは変わらない笑顔を向けてきた。
 中学を卒業する頃に見上げていた所からさらに5センチ程上に、門脇の強い瞳がある。
 何の飾り気もないTシャツとジーパン姿が、天才と言われた中学時代を軽々と飛び越え、大人へと向かいつつある体の成熟をありありと伝えている。鍛え上げられた肉体。高校野球界ではすでにプロのスカウトからチェックが入っているという噂があるそうだ。おしゃべりな海音寺が教えてくれた。
 一瞬、瑞垣は何もかも忘れて彼に見とれた。だが、すぐにそんな自分に猛烈な嫌悪感を抱く。門脇にはそれを感じさせないように、早口でまくしたてた。
「……誰かと思った! 甲子園で話題の有名人がこんな所で突っ立っとるとは思わんじゃったから。話題の名バッター・門脇秀吾選手ですか! きゃ〜、ステキ!」
 冗談を言う。余裕の口調に聞こえるように必死に繕っていることを、悟られないよう腐心しながら。
 門脇には相変わらずの調子に聞こえたのだろう、安堵したような笑顔で近寄ってきた。
「新田の吉貞に毒されとるんじゃないのか? 実は最近仲良くしとるんじゃろ」
 年の割に幼く見えるその笑顔が、ずっと瑞垣を苛立たせてきた。持ち主はそんな事も露知らず……いや、知っていてもなお、その笑みを投げかける事を忘れない。
「ああ、クリノスケとはラブラブよ? もう毎晩長電話。超恋愛中って感じ」
 実際、月に一度程何かと用事を作っては吉貞や海音寺から電話をしてくる。新田の連中は電話好きな奴が多いらしい。
呆れつつも、塾のない日など時間を持て余し気味の瑞垣はつい相手をしてしまう。
「……ええな。高校に入ってから人間関係とかこの先の事とか色々でどうも息苦しくてな。……横手でやってた頃って純粋に好きで野球が出来とった気がする」
 瑞垣の冗談を軽く流しつつ、そう言って門脇は軽く溜息をつく。中学の頃には見たことのない、ほろ苦い笑みが浮かんだ。
確かに顔が少しやつれている気がする。こんな風な門脇も、瑞垣は見たことがない。
 向こうに言ってからどうしていたか、色々と訊いてみたい衝動が湧き上がる。
この半年間の空白を言葉で埋めて欲しいという欲求が突き上げてきて、そんな自分に瑞垣はまた、どうしようもない嫌悪感を覚える。
 知ってどうするのだろう。自分はまだ、二心のない真っ直ぐな幼馴染を自らの手の内に収められるとでも思っているのだろうか?
 ……うんざりだ。自分にも、何にもわかってないこいつにも。
「俺も一緒に俊の家に付いて行ってええか? さっきお前の家に行っておばさんに挨拶したら、うまいもん食わせてくれるっていうから」
 門脇は半年前と何ら変わらない態度だった。「久しぶり」の一言もない。何事もなかったかのように、以前と変わらない態度で振る舞う。
「秀吾ちゃん。あなた、こっちに帰ってくるの半年ぶりでしょう? お母様が心配するわよ?」
 早く家に帰れ、と暗に伝えているのに、門脇は知ってか知らずか、にこやかに答える。
「さっき荷物置いてきたし、お前の家に行くって言ったら『ごゆっくり』やて。俺はもう忘れられとるかも」
 ……これだから、図々しい奴は嫌いなんだ。
「オフクロたち明日から四国に旅行に出るから、あんまり相手してくれんと思うぞ」
「お前は行かないのか?」
「高校生にもなって家族旅行なんか行けるかよ。オレは家でゆっくりするんじゃ」
 瑞垣のその言葉に、門脇は心から嬉しそうな表情を浮かべた。
「俺は月曜日に向こうに帰る予定なんじゃ。それまで相手してくれ」
 瑞垣は、余りの事に無言で門脇に背を向け、家に向かって早足で歩き始める。
 冗談じゃない。こいつは俺の中じゃもう過去の苦い思い出なんだ。早く向こうに帰れ。とっとと球界のアイドルに戻っちまえ。
 門脇はそんな事お構いなしに、瑞垣の左側へ並ぶ。
「お前、髪伸びたんじゃな。……ホンマに、野球しとらんのじゃな」
 その口調はほんの少し寂しげだった。その様子に、瑞垣はまた一つ苛立ちを積み上げた。