衝動(6)
俺だけが、巧に疵を刻むんだ。酷くサディスティックな感情だった。  獣のように、自分の所有する証をつけたかったんだ。
 

女の子に対して好意を持つような、優しく生温い体験ではあり得ない。
ただ飢え、欲望を剥き出しにし、互いに刃を突きつけ合うようなギリギリの交わりを知ってしまったのだ。
何も知らなかった頃にはもう戻れない。欲望は形を成し、頭を擡げる。
あの一球の快楽をこの身に刻み込まれてしまったから。
「多分、すぐ治る」
内なる激流に飲み込まれそうな自分の言葉を、豪は必死で抑えつけ、とぎれとぎれに伝える。
「俺自身が、あの感覚を忘れてしまうのが、嫌じゃから」
豪の傍らに置かれた巧の腕を掴み、握りしめる。巧が飛んで行ってしまわないように。
「お前となら、もっと、上に行けるんじゃ」
巧が豪の方を振り返る。
そうじゃ、お前は俺だけ、見とればええんじゃ。
「……痛ぇ」
巧が僅かに眉根を寄せる。うっかり力を入れすぎてしまったらしい。
豪は慌てて手を離し、上半身を起こした。
巧の背中に視線が行く。
一つ気になることがあった。
「巧。……背中に、跡、残っとるか?」
巧の身体が一瞬強張ったような気がした。
事件が起こったのは初夏の頃だった。遠い昔のような気がする。
「自分じゃ背中見られないから」
巧は見ないようにしているのだろう。豪は直感的にそう思った。
「……確認してみて、ええか?」
しばらく間をおいて、巧は溜息をついた。
「主治医の先生には逆らえません」
巧は無言でジャージとアンダーシャツを脱いだ。
怪我をした当時よりも鍛えられた背中が顕わになる。
当時無数に背に刻まれていた傷は、大半が消えていた。
しかし、幾筋か、ひっかき傷のようになって残っている赤い跡がある。
薄くなるまでに、もう少し時間がかかるだろう。
「……残ってるか」
尋ねた巧に様子を説明する。膝の上で手を組んで、視線をドアの方に向けたまま、巧はじっと聞いていた。
「……一生、忘れない、だろうな」
ぽつりと呟く。
豪にとっても忘れられない記憶だった。震える巧の身体。血だらけの背中。
誰かを励ますために意識して抱き締めたのは初めてだった。
冷え切っていた巧の身体が、少しずつ温もっていくのに安堵した。
……そして、自分の身の内にも、誰かを傷つけたいという衝動がある事を知った。
考えるより先に豪の身体が動いていた。
熱を帯びた自分の指先で、巧の疵痕をなぞる。
「豪、指、熱い……?!」
豪は右の肩胛骨の下に残った疵に、唇を這わせていた。
猫が傷を舐めるように、舌を辿らせる。
「何を……! やめろ!」
立ち上がろうとする巧を押さえつけて、今度は脇腹にある跡を舐め上げる。
身をよじらせて逃げようとする巧を後ろから抱き締めた。
「……巧」
自分を抑えられない事を、豪は自覚する。呻きにも似た声で、巧の耳元に囁きかけた。
「この傷をつけたのは、俺じゃと……そんな風に、思って、欲しい」
巧の身体が硬直した。肩口の傷痕に口づけ、軽く歯をあてる。
「俺以外の奴が、お前を傷つけるなんて、ゆるさない」
不意に、巧の身体から力が抜けた。
「……豪は、俺の傷を治してくれた」
大きく息を吐き出す。俯いていた巧の頭は、いつの間にか正面に向けられていた。
「俺のみっともない姿を、一番お前が知ってる。お前は……あいつらとは違うから」
巧の手が、抱き締めていた豪の腕の上に置かれた。
「……さんきゅ」
ひやりとした巧の膚の感触と心臓の鼓動。誰かに直に触れるのは、こんなに心地よい事だったのだ。
豪を振り返る巧と目があった。
自分の唇を巧のそれに軽く触れさせる。巧は目を開けたままだったが、避けようとはしなかった。
もう一度。今度は少し長く触れる。
乾いた唇を舐めて潤して、巧の身体を豪の方に向けさせて、さらに深く。
息苦しくなったらしい巧が、眉根を寄せて顔を逸らそうとした。その頬を捉え、もう一度。
キスの仕方なんて知らない。ムード作りなんてわからない。
豪はただ、欲しいという気持ちを巧にぶつけていた。
「……ふ」
巧の頬が赤く染まっていく。豪は巧の事を気遣う余裕も無くて、ただ欲しいままに巧の唇を乞うた。
「巧」
唇を離し、豪はじっと巧の瞳を見つめた。
「お前を、全部、俺のものに……したい。お前が、全部欲しい。何もかも」
思いのたけを全て巧へとぶつけた。豪の正直な気持ちを全部、巧へとぶちまけたのだ。
巧は一瞬呆然としていたが、やがて困惑した表情で豪に問うた。
「豪……それって、愛の告白なのか?」
巧に聞かれて、豪はようやく自分の言葉の意味するものに気がついた。
「……常識的に考えて、キスして、欲しいって言ったら、そうだよな?」
「え」
確かに巧の言う通りなのだ。豪は思いの丈を、自分が巧に対して抱いている感情を、ありったけの言葉と態度で巧に伝えただけだった。
けれど、言われた側からすれば、確かにそう受け取れる内容だったし……自分の持っている感情は、確かにそういう風に受け取れるものだったのだ。
豪は今更、その事に気がついた。
「あ…う…」
「悪いけど俺、男同士でどうやってエッチすればいいのか、わかんない。ごめん」
妙に生真面目な表情で、巧が謝罪の言葉を述べる。
「……一人でする時みたいな事を、二人でするのかな、くらいしかわかんなくて」
豪も実際よくは知らなかった。どうやったら子供が出来るかという事は当然知っているし、一人でした事はあるけれど、確かに男同士でどうするか、というのは想像の範疇を超えている。
「……俺も、わからん。ごめん……」
でも、巧の唇の感触はとても愛おしくて、何度キスしても飽きる事がなかった。
今はその先の事は考えられない。
「……でも、そうか……俺、お前の事が、好きだったんじゃな」
巧によって気づかされた感情がある。
もしかしたら、その感情の指向する先に、そういう事が待っているのかもしれない。
「じゃあ、俺ももしかしたら、そうなのかも」
落ち着いて考えようとする豪に向けて、巧が服を着ながらぽつりと呟いた。
「じゃあ、お大事に、な」
ぐるぐるしている豪を尻目に巧は立ち上がり、不意に唇を押しつけてきた。
「……あ、ああ」
ひんやりとした感覚を唇にもう一度刻みつけて、巧は部屋を出ていった。
もう一度、巧の台詞を反芻する。
あんなに身体を触られるのを嫌がる巧が、キスを嫌がらなかった。
まずその事が意外だったし、その後の反応はもっと意外だった。
……熱で幻でも見たんじゃろうか?
つねってみた頬は痛くて、火照っていた。

結局豪の熱は3日ほど続いてしまったのだった。
しかしそれが途中から知恵熱に変わったという事実は、豪と巧しか知らない。