ハダレとウスライ


「ちょ、ま、ま……ま゛―――!」
奇声。土をつかみ損ねた足音。咄嗟に伸ばした手が掴んだ草が千切れる音。――総じて、ハダレが転ぶ音。
ウスライは繁茂した枝葉を払う手を止めて振り返った。
「大丈夫か」
「……土食ったけど、平気」
土の苦味や舌触りに――あるいは昨日あたりから慣れない山道を歩き通しているが故の不機嫌さからか、
思いっきり顔をしかめて見せるハダレ。その頬には茶色い汚れが、傷のように掠れて付いている。
が、本人は気づいていないのか諦めたのか、起き上がってぐいっと一度拭ったきり、気にせず進もうとする。

本人が気にしないならと、ウスライはあえてそのことに触れずに先を急いだ。
……が、黙々と歩いているうちにむしろ自分のほうが気になりだした。振り返っても、ハダレの頬は汚れたままだ。
自分がさっと拭いてやれば一番早いのだろう。本人に告げても、放っておくことも十分ありうる。それでは解決しない。
だが、そうやって気軽に触れてもいいものなのか、とウスライは悩む。

ハダレは『異』だ。単なるヒトの五感に加え、特殊な刺激受容体を持っている。
彼と自分では生まれた国も、育った環境も違う。髪の色瞳の色、肌の色も微妙に違う。
それなのに、性別はそこだけチェックを付け忘れたかのように同じだ。それも違えば、また取るべき態度も変わるだろうに。

愛せないことは絶対にない。現に、同性愛という言葉がある。実りのない愛が存在しないとは誰にも断定できない。
ウスライ自身も、ハダレを思い遣りたいと思っている。ハダレも慕ってくれている。
だが、実りのない草は枯れていくしかない。雄花と雄花を擦り合わせても、絶対に種が実ることはない。
たとえ自身がそれをよしとしても、そう考えないものは幾らでもいる。
種が実らなければ、刈ってしまえと考えることができ、なおかつ実行できるだけの者が、たくさん。
自分は、たった一人の青年を護りたいだけ。月並みだが、そのために何者をも投げ打つ覚悟がある。しかし。

どんなに努力をしても、どうしようもない事が多すぎる。

「……ウスライ。なぁ」
ちょうど吐いた溜息を咎められるのかと、ウスライはぎくりとしながら振り返った。が、
「ここ?」
語尾を上げた口調に、違うことを問われていると気付く。ウスライは顔を上げて、周囲を確認してから頷いた。
「ここで合っている」
「…………?」
「少し時間が早い。もう暫く待ってくれ。……お前に、見せたい物がある」
訝しげなハダレの視線の先には、確かにきれいといえばきれいな景色が広がっている。
どこで途切れるのか皆目検討もつかないような深い森の一角が窓のように切れ、
その向こうにはかなりの落差のある崖になっている。その下には、海なのか湖なのか蒼く濁った水面が見える。
「……なぁ……」
「疲れたならここに座れ」
手近な岩にとっくに陣取っていたウスライに隣を指され、ハダレもとりあえず腰掛けた。
確かに疲れた足を揉みながら、じっと待つこと数十分。

あ、とハダレの唇が戦慄いた。スライドのように、突然景色が変わったのだ。
背の高い木々と崖で遮られていた夕日が、力を失って位置を変えることによってその隙間から鮮烈な光を放っている。
それに照らされ、全ての物体が同一の物質でできているような奇妙な統一感を放ち始める。
青く濁っていた湖面が、オレンジと金色に輝いた。森が枯れたような黄色に染まった。
そしてこげ茶色の崖は黒々とした影に塗りつぶされていたが、縁取りしたように端だけ黄金色に輝いている。
「すごい」
そうつぶやく瞳の先には、そういったパーツに取り囲まれた中で色を変じていく空があった。
抜けるような青色を食いつぶしながら、段々と赤みを増していく空。太陽を追うように忍び寄る紫の夜空。
――どれも、ハダレが見たことのない空。
「これを見せたかった」
食い入るように見つめるハダレの横で、ウスライがぽつりと漏らした。聞こえても聞こえなくても構わないといった小声で。
返事はなかった。ハダレは、眩しさのためか僅かに潤んだ隻眼でじっと景色を見ていた。ずっと、赤が消えるまで見ていた。

「すごくきれいだった」
紫色で覆われた空は、すなわち夜だ。光を与えない。ウスライが灯りをともした瞬間、ハダレが口を開いた。
「遠いのに、連れてきてくれてありがとな」
「…………ああ」
しんみりと感謝を伝えられ、ウスライも言葉少なに返した。数多い言葉で覆うべきではない気持ちが詰まっていた。
それと同じものが、いつの間にか寄せ合っていた肩からも伝わってきていたから、余計に。

自然に体を触れ合わせていると、ほのかな暖かさが、洛陽の残滓のように伝わってくるのがわかった。
そこには二つの命のみがあり、それ以上の何かもそれ以下の何かもない。
実りのない愛も、それを果たそうと躍起になる気持ちも、それを阻害しようとする思惑もない。

情けないと思いながらも、ウスライはその温もりを頼りにハダレに近づいた。
そうすることによって、男はやっと青年の土のついた頬に触れ、土の湿った味のする唇に口付けることができた。



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