「求めよ、さらば与えられん」
少年の口から、吐息とともにこぼれ出た声。
それは使い古され――今なお、唱えられ続ける言葉のひとつだった。
その言葉が正しいから使われ続けているのか、
それとも正しいと信じ込むことで生きながらえた人々がいるのか。
どちらとも言い切れないが、どちらかと問われれば、少年は後者だと思った。
なぜなら今彼を追っている人間たちほど、「求めている」ものはいないだろうからだ。
追っ手から細い路地を隔てただけの場所に、少年はいた。
時刻はとっくに丑三つ時を過ぎ、闇に身をまぎらわせていた。
ゴミ缶とパイプの隙間に体を押し込み、荒い息をついている。
――あからさまなまでに、追われている様相。
サイズのあわないパーカーのフードを目深におろしているのは、
せめて顔だけでも隠そうという魂胆なのか。
そんなことをしても、追っ手にはすぐにばれてしまうだろう。
目的はそれではなかった。
少年の頬には大きなあざが浮き、唇は紫に腫れている。おそらく、口の中も切れているだろう。
それを覆い隠すための行動だったらしい。
ごく、はかない抵抗のひとつ――そして、逃げること。これでふたつ。
少年は目線だけで通りを振り返った。
あまりよく見えないが、見ないよりは安心でき、
顔を向けて見るよりは隠れていられる確立が高かったのでそうした。
――得られた情報は、まだ何人もの男たちに追われているということだけだった。
しかも、あきらめるどころかヒートアップしている。
彼には、ひどく耳障りで不安を掻き立てる追っ手の声が聞こえている。
追っ手のボキャブラリーが少なすぎて、聞く意味もないことが救いといえばそうだが。
『追え』『いたか』『いない』『探せ』――こればかりだ。
「あったま悪ぅ――……」
その、いかにも回転の鈍そうなやりとりに。あるいは、それすら振り切れない自分に。
精一杯の悪口をたれながら、その口に小粒のガムを放り込んだ。
かり、と砂糖のコーティングをかみ砕くと、人工的なレモンの味が広がる。
ほとんどすっぱさのない甘味の塊は、一噛みごとに唾液の分泌を促進し、味覚を刺激した。
コーティングの残りをかみ砕くこもった音と、鼻の奥を這い登る甘い香りと舌触り。
五感がガムに――自分が投げ入れた刺激に反応し、
外界の刺激を適度に絶つ。極度の緊張からわずかに解放される。
それでも、ガムの包みを伸ばす指先が震えているのはとめられなかった。
急に激しい運動をしたために、指先の繊細な感覚が鈍くなっているのかもしれない。
そんな苦しい言い訳も、刻々と迫る追っ手のことを考えれば勝手に消えていった。
――そもそも、なんで追われてたんだっけ。
向かいの汚れた壁を見上げながら、ぼんやりと少年は考えた。
なぜ自分は追われているのか。
「あー」
そうだ。今日の代理戦争で勝ったから。
金をやるから派手に負けろといわれてムカついたので(負ける訳にもちろんいかなかったし)、
相手を半殺しにしたらなんとも熱烈な出待ちを受けてしまったというわけだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
毎日毎日、言いがかりで追われたり狙われていると、今日の理由がなんだったかすぐ忘れてしまう。
(最近はほとんど実害ないしねぇ……本当、ウザいったらないや)
癖のように顔の右半分をなでながら、少年はため息をついた。
姿勢をくつろげながら、それでもちらちらと表をうかがうと、
やはりまだ何人もの男がうろついているようだった。
まだまだ、ねぐらに安心して帰れそうにない。
それでもまだ相手があまり重厚な武装をしていないのが幸いといえば幸いだろう。
(でもまぁ……)
少年は、口元をくちゃくちゃ言わせながら右手で顔をなでた。
つるんと下から上へ滑ったその手には何かが握られている。
黒っぽくて、長い、布の切れ端のようなもの。――眼帯。
(関係ないか)
味のなくなったガムを吐き出し、顔を上げる。そのときには、少年の顔つきは変貌していた。
闇の中で、わずかばかり与えられた光――月明かりや、細い街灯の光をはっきりと反射する、鋭い瞳。
目を合わせたものを魅了するそれを中心として、凶暴な雰囲気が少年から発せられる。
(……やるたぁ変わらねぇしな)
武装もしていない、ただの少年が凶器となる瞬間。少年の口元がきゅっと釣りあがった。
口腔内には、血の香りが満ちている。スイッチを入れるには十分な濃厚さで。
少年は表通りに向かって歩き出した。
だらんと下げた指先を慣らすようにこきこきと動かす。
(誰だろうと、蹴散らすだけさ)
――準備は、できている。
あまりに無防備な登場の仕方に、一瞬男たちが呆然としたように見えた。
ふらりと、何気ない足取りで姿を現した少年に指を向け、わざわざ大声をあげる男たち。
あたりに散らばった仲間をよびよせるためらしい。
事実、何十秒も数えるまもなく、男たちが一堂に会する。
その馬鹿さ加減はなかなか面白かった。
(わざわざ……)
男たちに次第に囲まれながら、少年はフードの奥で薄く笑った。
・・
(追う手間を省いてくれるなんてなぁ……)
少年の意識を常に囲む、一筋の『円』。少年が平静でいられるための、
少年自ら引いた境界線だ。
それを超えないうちは許してやる。どんな横暴でも、
それまではこの年頃の人間らしい抵抗だけで済ませてやろう。
だが、それを越えた瞬間――
少年自身が後悔するほどの制裁を加えてやろう。
あやまってもはいつくばっても無駄だ。この『異』は敏感すぎる。
相手の心が読める自分と『同じだけ』の苦痛を、そのままたたき返してやる。
相手の肉体が耐えかねようが、狂おうが、知ったことではない。
せいぜい、最低に自己中心的なただのガキに、人生をぶち壊されてしまえばいい。
それだけのことをお前たちはしようとしているのだ――これは罪だ!罰だ!
ああ、足音がする。男たちが駆け寄る足音だ。
きっと少年の確保のためだ。だが、もう遅すぎる。少年は少年であって少年ではない。
(もうなんも関係ねぇ)
男たちが誰であろうと。少年に何をしようと。何を考えようと。何を感じようと。何を――……
(オレはオレのために戦うんだよ)
オレ≠オレ、に限りなく近くても。
(正義も道徳も神も知ったことか。オレはオレのやり方で立派に生き延びてやる)
ざわりと心臓が動いた。激しく頷くように鼓動を高める。
踏み出しながら、少年は吼えた。
ありきたりな一言――ぶっ殺す、と。
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