〜1〜
永遠の氷河に埋もれし、失われた大陸
百の魔道士が術を振るい、千の奇跡が顕現せし、魔法の王国
彼の地が紡ぎしは、栄光と破滅、賢者と愚者の物語
神官は驕り、魔道士は邪神に見え、コモリオムの都は栄え、そして滅びた
|
劫初の記憶を伝える、禁断の書のみがその名を記す |
「ゾグトゥク……イフフクシ……ンバアスムル……」一
|
エイボンの口が紡ぐ呪文に呼応して、水晶球は妖しく輝き始める。
そこらの店で売っているような、安物のガラス球ではない。古の魔物の眼球が鉱物化したも
ので、伝説の魔道士ゾン・メザマレックその人が使っていた品だ。
「おお、真実の目よ、ありうべからざるものの名において命ず、這い寄る混沌の名において命
ず、暗きハンの名において命ず……時を越え、空を越え、真実を映せ……」
呪文が進むにつれ、輝きはますます強く、そして禍々しくなっていく。凶兆を告げる極光のよう
な輝きが、薄暗い天幕の内部を地獄さながらに彩る。
|
起動の呪文と共に、水晶球の内部に、ぼんやりと真実が浮かび上がる。すなわち……。
「……赤だな」
次の賭け競争で、その色の走竜が一着でゴールしている様子を。
「ひゃっほう! これでまた大儲けだぜ! ありがとうよ、魔道士さん!」
客のチンピラは、エイボンに5パズール金子を放り投げると、小躍りして天幕を飛び出して行っ
それを見送りながら、エイボンは重い溜息をついた。客に対してではない。己に対してだ。
「魔道士など恐れ多い……私はただの見習いくずれだよ」
魔術のマの字も知らないチンピラに分からなかったのも無理はないが、四回目の大祓いを迎
えて三年(二十三歳)の若造が、一人前の称号である魔道士を名乗れる訳がない。本来ならま
だ、師の下で修行に励んでいるべき身だ。
事実、つい一ヵ月前まではそうしていたのだ。
(師匠が今の私をご覧になったら、どう思われることやら)
“荒野の大魔道士”ザイラック。
王国一と噂される腕前と、いかなる権力にも媚びず、ムー・トゥーランの荒野にて孤高を貫く
生き様から、その二つ名で呼ばれるかの人物が、エイボンの師匠だった。
ザイラックが噂に違わぬ魔道士であることは、半人前のエイボンから見ても明らかだった。
異形の魔物を自在に使役し、棺で眠る木乃伊から上古の秘密を聞き出し、肉体から魂を解き
放って星の世界を訪れるぐらい、ザイラックにとっては日常茶飯事だった。
|
師匠のようになりたくて、エイボンは日々、ザイラックの黒片麻岩の館で修行に励んだ。
しかし、忘れもしないあの日……。
エイボンは回想を中断した。あまり思い巡らすと、また夢に見てしまう。
ともあれ、師の館を飛び出したエイボンは、そこから少しでも遠ざかろうと、ウズルダロウム
の路地裏に潜り込んだのだ。
それから一ヵ月、師の館から持ち出した水晶球で、詐欺の真似事をして糊口をしのぐ毎日を
送っている……こんな使われ方をして、水晶球もさぞ不本意であろう。
|
それからも、しばらく待ってみたが、客は来なかった。今日はこれぐらいにして、宿に引き上
げようかと考えたその時。
どやどやと騒々しい足音が近づいてきたかと思うと、天幕が乱暴に開けられた。
「てめえか、こいつにインチキやらせてやがったのは!」一
|
「ひいぃ、教えたんだから、許してくれぇ〜」
怒りの形相で詰め寄る男たちの後ろでは、ついさっき来た客が、荒縄で縛られて転がされて
「おかしいと思ったぜ。いつもこいつばかり、バカスカ勝ちやがって……」
(しょうがない客だな。派手に賭けすぎるからだ)
エイボンは毛程の動揺も見せなかった。口の中だけで、こっそり呪文を唱え始める。
「さあ、儲けを吐き出してもらおうか……やっ!?」
エイボンを捕らえようと手を伸ばした男たちが、あんぐりと口を開けて立ち尽くす。
自分が掴んでいるのが、魔道士のローブを着た藁人形であることに気付いて。
「や、野郎、いつの間に!?」
全くの同時刻。
ねぐらにしている安宿のベッドで、エイボンはむっくりと身を起こした。ついさっきまで、ここに
寝かされていた藁人形の藁屑が、ぱらぱらと散る。
「身代わりの術を用意しておいて、正解だった」
見習いくずれとは言え、エイボンも魔道士の端くれ。この程度の術、基本中の基本だ。
(やれやれ、この街はもう潮時か)
すぐにでも、別の街へ移らねば……そう考えると、改めてみじめな気分になる。
(また逃げるのか、私は……)
迫害から逃れ、魔術の道からも逃れて、ここまで来たというのに。
ただ、逃げ続けるだけの人生だ。
〜2〜
新王都ウズルダロウム。
旧王都コモリオムから遷都されたのは、二十三年前――奇しくも、エイボンがこの世に生を受
けた年――。それ以前は交易の中継地であり、商業の町だった。
郊外に建造中の新王宮――あくまで旧王宮を再現しようとするファルナヴートラ王に『税金の
無駄使い』と非難が集中している――に群がるように、派手な看板を掲げた商店が立ち並び、
その隙間を網の目の如く路地が張り巡らされ、人々が窮屈そうに行き来している。
ごちゃごちゃして治安が悪い、と王侯貴族は漏らしているらしいが、だからこそ、ここには
人々の生きた息吹がある。
「安いよ、安いよー!」
「新鮮なショングア豆は如何かね〜」
「オッゴン=ザイ産の織物だよ。どうだい、この手触り!」
1パズールでも多く儲けようと、声を張り上げ、人々は終わらぬ祭りを繰り広げる。
|
ザイラックに弟子入りして以来、縁を断っていた俗界に、こんな形で舞い戻ることになると一
|
は……いや、戻れてはいない。ただ潜り込んだだけだ。いくら儲けようとも、それで守るべき家
も家族も、彼にはないのだから。
次の目的地も決まらぬまま、とりあえず、走竜が引く車の停留広場を目指していた時だった。
(何だ……?)
広場に、何やら人だかりができている。吟遊詩人が語る英雄譚に惹かれて……ではないのは
「ああ、神官様、どうぞお見逃し下さいませ」
情けを請っているはずなのに、全く卑屈に聞こえない、音楽的なまでの響きを備えた声の主を
見た瞬間。
エイボンはもう、他の何も目に入らなくなっていた。
それ程の美女だった。
すっきりとした鼻梁、絶妙の曲線美を描く頬。それらを霞のように取り巻く、黄金の髪。
簡素な服装だったが、その上からでも分かる、華奢な肩、すらりとした手足、そして豊かな胸。
個々の部位の美しさだけではない。全てが、幾何学的な調和を成している。例えるなら、それ
は氷の花。完璧な、故に、僅かに崩れるだけでも台無しになりそうな。
|
危うい程の、完璧な美。
(何という……この世のものとは思えん)
魔術の神秘以外のものに陶然としたのは、生まれて初めてだった。しかし、そんな気分を
「左様、これも聖なる務めゆえ……」
美女とはあまりに対照的な、醜い男たちが彼女を取り囲んでいる。金糸銀糸で飾り立てた豪
華なローブは、醜さを払拭するどころか、食用ナマケモノのような腹をさらに強調している。
彼らが誇らしげに被っている、鹿の角を模した額冠に、エイボンは嫌という程、見覚えがあっ
(イホウンデーの神官どもか……)
ヘラジカの女神イホウンデーに仕える聖職者……とは、名ばかりの生臭神官どもは、遷都騒ぎ
で衰えるどころか、人々の不安に付け込んで、ますます勢力を拡大している。
苦い記憶が、エイボンの眉間に皴を刻む。あたかも傷痕のように。
(父上……)
エイボンの父ミラーブは、イックァの大公家に仕える文書管理官だった。公子ザクトゥラの教
育係でもあり、彼の良き相談役だった。
そんな父を、勢力拡大の障害とみなした神官たちは、異端の嫌疑をかけ、イックァから追放さ
慣れない野の暮らしで体調を崩した父は、幼いエイボンを残して他界。父の友人であったザ
イラックが迎えに来てくれなければ、エイボンも父の後を追っていただろう。
神官ども……エイボンにとっては、父の仇と言うべき連中。
争いを好まない父に、復讐などしてくれるなと言われたこともあり、あえて考えないようにしてい
たのだが、いざ目の前にしてみると……握り拳に力が篭もる。
「そ、それはただの装身具でございます……」
「ふん、随分と悪趣味なことだな」
「よもや、邪教の祭具か何かではあるまいな?」
神官の手には、黄金製と見える首飾りが握られている。さては、難癖を付けて、美女から取
「これは、念入りに審問する必要がありそうだ! どうれ、神殿まで来てもらおうか!」
……違った。神官たちの狙いは、美女本人だった。それも、異端審問のためなどではないの
は、その厭らしい笑みを見れば明らかだ。
周囲の野次馬たちは、同情の表情を浮かべてはいるが、誰も助けに入ろうとはしない。神官
たちの不興を買うのを、恐れているのだ。
(仕方ないか……)
この程度の仕返しなら、父も大目に見てくれるだろう。エイボンは懐から水晶球を取り出し、
小声で呪文を唱え始める。
「くっくっく、大人しく……」
ごてごてと指輪をはめた神官の手が、美女の肩を掴もうとした、その時。
ばさあっという羽音と共に、周囲を影が覆った。
「む? 何が……ひっ!?」
思わず見上げた神官たちが、凍りつく。
羽音と影の主は、翼長十メートルにも達する、巨大な怪鳥だった。
羽ばたく度に、毒々しい色彩の羽が撒き散らされる。剣のような鉤爪は、人間どころか走竜
すら餌食にできるだろう。馬を醜悪化したような顔は、憎々しげに眼下を睨みつけている。
シャンタク鳥。一説には、異世界から時空の壁を越えてやって来るとされる魔鳥……等とい
う薀蓄は知らなくとも、それが脅威であることは、神官たちにも理解できた。
悲鳴を上げて逃げ出す。当然、野次馬たちも後に続き、たちまち周囲は、混乱の坩堝と化
ほくそ笑むエイボン。彼らの誰も気付いていない。シャンタク鳥の撒き散らす羽が、一枚も地
面に積もっていないことに。
(まあ、詐欺よりは、有意義な使い方か)
そう、あのシャンタク鳥は、水晶球で空中に映し出した幻なのだ。そうとも気付かず、神官ど
もが慌てふためく様は、痛快だった。
(さて、あの御令嬢は……)
いた。群衆とは対照的に、妙に落ち着いた様子で、何やら周囲を見回して……何かを拾い上
げた。あの首飾りだ。慌てた神官が落としていったのだろう。こんな状況で、随分と冷静なこと
ともあれ、あの様子なら、自主的に逃げてくれるだろう。英雄譚の主人公ではあるまいし、わ
ざわざ名乗り出ることもあるまい。そう思って踵を返そうとした、その時。
美女と目が合った。
吸い付けられているかのように、ただひたすらエイボンを凝視している。
(まさか、偶然だ……)
そうではないことは、すぐ明らかになった。
美女はゆっくりと、しかし迷いのない歩みで近づいてくる。右往左往する群衆を、実体のない
幻のように潜り抜けながら。
気が付くと、すぐ目の前に立っていた。
間近で見る彼女は、また一段と美しかった。長い睫毛に縁取られた青い瞳は、水面のように自
分の姿を映している。輝きを放つような白い肌に、目が眩みそうだった。
|
何を言えばいいものやら、へどもどしていると、美女の方が先に口を開いた。
「もしや、あなたが助けて下さったのですか?」
口調こそ質問だが、声は確信に満ちていた。
違うと突っぱねることもできたはずなのだが、なぜかエイボンはうなずいてしまった。たちまち、
花開くような笑顔になる美女。そして、悪戯の相談でもするかのように、くすくす笑いながら囁く。
|
「とりあえず、この場を離れましょう。神官様方にばれる前に」
(何と……妙に落ち着いているとは思ったが)
気付いていたらしい。あのシャンタク鳥が、幻であることに。
(この女性は一体……)
いつか、師と交わした会話を思い出す。
『師匠でも、ご存知ないことがあるのですか?』
『そんなもの、いくらでもあるわい。例えば、女よ』
『女性……ですか』
『ああ、女こそ、男にとって、最大の謎よ』
〜3〜
「ありがとうございます、魔道士様。おかげで助かりました。あ、どうぞ、ご遠慮なさらず。お代
は持たせて頂きますから」
「……恐れ入ります」
二人がいるのは、入り組んだ路地の奥にある、茶を供する店だ。ここなら神官たちに見つか
る恐れはないという、美女の提案に従ったのだが。
店主が、甘い香りを放つアボルミス茶を運んでくる。「どうぞ、ごゆっくり」と言う口元が緩んで
いるのを、エイボンは見逃さなかった。彼の目に、自分たちはどう映っていることやら。
(慣れないことをするものではないな)
なにせ、師匠の館で修行に明け暮れること十数年。その間、女性どころか、師匠以外の人と
さえ、ろくに会話したことがない。人付き合いは、好きでも得意でもなかった。
(適当に世間話でもして、さっさと切り上げよう)
勿体無いことを考えているエイボンであった。彼女と茶が飲めるなら、命を投げ出しても惜しく
「本当に助かりました。いくら神官様でも、これだけは献上致し兼ねますわ」
美女は、首飾りを大切そうに撫でている。それを見て、思わずエイボンは眉をしかめた。
百足を思わせる鎖に、太った蛙とも羽のない蝙蝠ともつかない生き物を形象にした飾りが
ぶら下がっている。黄金と思っていた材質も、よく見れば、何やらぬらぬらとした光沢を帯びてい
て……。一
|
(悪趣味というのも、あながち外れていないような)
その時、ふとエイボンの脳裏を過ぎる記憶があった。
(あの形……)
気のせいだろうか。どこかで見たことが……。
が、首飾りが収まっているのが、美女の胸の谷間であることに気付いて、慌てて視線を逸ら
す。女性にそういうものがあることすら、忘れていたエイボンであった。
「申し遅れました、わたくしはテオと申します」
ウズルダロウムの住人ではなく、旅の途中で寄ったのだという。
「テオさんお一人ですか?」
美女、テオは事も無げに言うが、女性の一人旅がいかに危険かは 言うまでもない。事実、
ついさっきも、あのような目に遭っていたことであるし。それでも、行かなければならない理由
考え込みかけて、テオが何かを期待するような目をしているのに気付き、慌てて自己紹介す
る。逃亡生活で、すっかり素性を隠す癖が付いてしまったようだ。
「エイボン、魔道士見習いです」
尤も……。
「……各地を旅して、修行中の身です」
師の下から逃げ出したとは、さすがに言えなかったが。
(本当のことを知ったら、この女性は幻滅するのだろうな)
そう思うと、ますます居心地が悪く……なると思いきや。
「エイボン様は、どんな場所を巡って来られたんですか?」「魔術の修行って、どんなことをなさ
るんですか?」「魔道士の方々は結婚なさらないって、本当ですか?」
テオは好奇心の赴くままに、次々と質問を浴びせてくる。大人しそうな外見に反して、物怖じ
苦笑しながらも、一つ一つ答えている内に、エイボンは気分が晴れてくるのを感じていた。
(そうか、私は……)
先の見えない逃亡の途。自分で思っている以上に、孤独に苛まれていたらしい。ひさしぶりに
他者と交わした会話、それも、何の打算も要らない、他愛の無いない会話は、朝日のように暖
魔道士と言え、所詮は人間。一人で生きていけるようには、できていないのだ。
「確かに、結婚しない魔道士は多いですが、それは単に、甲斐性が無いだけですよ。魔術に入
テオは、少女のように無邪気に微笑んでいる……ように見えるが、その微笑には、どこか気遣
っているような雰囲気もあった。無論、エイボンを。
|
(もしや、私が塞ぎ込んでいることを察して……?)
エイボンに話をさせることで、気晴らしをさせてくれたのだろうか。ありえない話ではない。水
晶球の幻を、あっさり見破った彼女なら。
(不思議な女性だ……)
エイボンには分かった。テオの瞳が、その深奥に、底知れない神秘を孕んでいることが。
(知りたい……)
そう欲している自分に気付き、少なからず驚くエイボン。ついさっきまで、さっさと帰りたい等と
思っていたくせに、一体どういう心境の変化なのか。
女性など、修行の妨げとしか思っていなかった。恋愛など、自分には関わりのないことだと思
っていた。いや、この感情がそうなのかは、分からない。しかし、認めざるを得なかった。
もう少し長く、テオと居たいと願っていることだけは。
(……何を期待しているのだ、私は)
自嘲するエイボン。テオが「今日はありがとうございました」と言って席を立ったら、自分に引き
止める術はない。そうしたら、自分はまた一人……。
「あの、エイボン様……」
「な、何でしょう?」
ふいにテオの口調が変り、はっと居住まいを正すエイボン。顔に出ていなかっただろうか。
「先程助けて頂いたばかりで、図々しいことは、重々承知しているのですが……」
ぴくりとエイボンの指が動く。
「エイボン様の腕前を見込んで、ぜひ、お願いしたいことがございます」
エイボンの願いを、何処かの神が聞き届けてくれたのだろうか。続くテオのおずおずとした声
は、福音のように聞こえた。
「旅の護衛をお願いできないでしょうか」
ついさっきまでのエイボンなら、あっさり断っていただろう。しかし、今のエイボンにとっては、
まさに渡りに水竜だった。
(彼女と一緒にいられる……それも、当分の間)
「やはり、女の一人旅は何かと物騒で……」
「分かりました」
思わず即答してしまい、慌てるエイボン。いくら何でも、多少は逡巡する振りをしないと、不自
幸いテオは、怪訝そうな顔一つ見せなかったが。
「よろしいのですか? 大したお礼はできませんが……」
彼女と一緒にいられること。それが何よりの報酬だ……等とは、口が裂けても言えないので。
「構いませんよ。どうせ、当てもない旅の身です」
「ありがとうございます、エイボン様!」
エイボンの素っ気無い口調にも関らず、テオはもういいと言うまで、何度も頭を下げ続けた。
礼なら、こちらこそ言いたいぐらいだというのに。
……彼は気付いていない。テオが口の中だけで、呟いていることに。
「………ァよ、巡り合わせに、感謝いたします」
〜4〜
偉大なる地図書記グナイモンの手なる大陸地図――これも、師匠の館から持ち出した物だ
――の、ほぼ中央。大陸を南北に分断するエイグロフ山脈の麓を、テオの細い指は指し示す。
「はい、行かなければなりません」
(この辺りは、確か……)
現在地ウズルダロウムから北上、旧王都コモリオムを通過し、さらに北。
山脈に遮られた雨雲が育んだ、広大なゼシュの密林が広がっている辺りだ。危険な生き物
の巣窟であり、街村どころか、近付く人間とていない。
(こんな所に、何の用があるのだろう)
当然の疑問が湧き上がる。しかし、テオに聞く気にはなれなかった。
「どうしても……行かなければならないんです」
彼女の青い瞳に宿る、強い決意の光を見ていると。
(無理に聞かない方が、いいかもしれない)
第一、自分の目的には、関係のないことだ。そう、自分はただ、少しでも長く、テオと共にい
詮索を躊躇ったのは、そんな、邪な想いを隠している、引け目もあったのかもしれない。
「厳しい旅になるでしょう。本当によろしいのですか」
「構いませんよ。密林で珍しい薬草でも採取できれば、儲けものです」
「ありがとうございます、よろしくお願い致します!」
……と、見栄を切ってはみたものの、想像以上に険しい旅路が、二人を待ち受けていた。
途中までは、かつてウズルダロウムとコモリオムを結んでいた通商路――今はもう、彼ら以
外に通る者もない――を利用することができた。
しかし、ゼシュの密林が近づくにつれ、次第に石畳は木々の根に引き裂かれ、ついには完全
に密林に飲み込まれてしまう。そこから先は羊歯の海を掻き分け、椰子の天蓋を見上げながら
|
しかも、密林の剣呑な住人たちが、次から次へと二人を歓迎しに現れる。木々に紛れて襲い
掛かる密林虎。長大な牙を剥き出す剣牙竜。邪眼で獲物を呪縛する単眼獣……その度に、水晶球の幻影で
追い払わなければならなかった。
|
(確かに、女性が一人で旅するような所ではないな)
しかし、予想に反して楽だった点もあった。それは、テオが全く足手まといにならなかったこと
密林の蒸し暑さにも根を上げず、うねる木の根をひらりひらりと乗り越え、崖に行く手を塞が
れた時は、あっという間に登って、エイボンを手助けさえしてくれた。
(逞しい女性だ)
美しく、賢く、しかも強い。また一つ、テオの新しい魅力に気付けたことに、喜びを感じるのだ
テオと励まし合い、支え合い、緑の魔境を進み続けること、三日間。全く変らない周囲の光景
に、方向が合っているのかどうか、自信が無くなりかけていた時だった。
密林の木々の合間に、それが姿を現したのは。
「エイボン様、あれは?」
「コモリオムの廃墟……方向は正しかったようですね」
密林に抱かれて、かつての王都の屍は、静かに眠り続けていた。
さすがに、雑草や蔦は蔓延り放題だが、“大理石と御影石の王冠”とまで呼ばれた壮麗な姿
数千の兵士が行進できる大通りに沿って、イホウンデーの神殿、王立劇場、行政長官公邸
などの、白亜の建造物が立ち並ぶ。その様は、あたかも贅を尽くした王侯貴族の……墓標の
いかにかつての美しさを保っていても、廃墟は廃墟。がらんとした街並みに人影はなく、響き
渡るのは、獣や鳥の物悲しい鳴き声ばかり。
二十三年前、何ゆえ人々がこの都を放棄したのか、正確なことは知られていない。恐ろしい伝
染病のせいだとも、ポラリオンの巫女の不吉な予言のせいだともいう。果ては、処刑された盗賊
クニガティン・ザウムの亡霊が、祟りをなした等という噂もある。
(そろそろ日が暮れるな)
正直、気味が悪いが、それでも野宿よりは安全だろう。エイボンたちは、適当な民家を今晩
の宿に定めた。
テオは、釜戸がまだ使えることを確認すると、嬉しそうに夕食の支度を始める。彼女は毎食、
携帯食と旅先で手に入れた食材だけで、よくもこれ程と言うぐらい多彩な料理を用意し、旅の
疲れを癒してくれた。
|
「大変結構でした、テオさん」
「いえいえ、お粗末様でした」
今夜のメニュー、密林茸と干し肉のスープも絶品だった。
「……テオさんを娶る男性は、幸せ者ですね」
「え? 何か仰いました?」
「い、いえ、何でもありません」
(旅程も、もう半ばか……)
これまで心の隅に押し込めていた想いが、頭をもたげ始める。
(奇跡に恵まれ、こうしてテオさんと旅をしているが……それも、あと二、三日だ)
テオを目的地に送り届けたら、今度こそ今生の別れだ。それを思うと、内臓を捻られるような
痛みを覚える。父や師匠と別れる時にも、同じ痛みを感じた。何度経験しても慣れない、別離
の痛みだ。
|
(しかし、万が一……)
それまでに再び、奇跡が起きたら……。
――エイボン様、もう一つお願いをいいでしょうか……わたくしと……。
(……拒否する理由は、何も無い)
自分はもう、魔道士ではないのだから。
水晶球も、魔道書も全部処分して、魔術とは今度こそきっぱり縁を切って。テオと平凡な幸せ
を築くのも、悪くは……。
溜息を吐いて、妄想を断ち切る。自分がテオの何だと言うのか。ただの護衛に過ぎないくせ
に……ただの逃亡者に過ぎないくせに。
(すみません、テオさん……あなたを汚して)
「エイボン様、お疲れでしょう。どうぞ、先にお休みになって下さい」
今は正直、テオの姿を見ているのは辛かった。言葉に甘えさせてもらって、隣の部屋で横に
〜5〜
それは、エイボンがザイラックの館を飛び出す、少し前のこと。
夜の読書に備えて、屍獣脂のランプに火を灯していた時だった。雑用係の使い魔に、ザイラ
ックが旅から戻ったことを告げられ、慌てて出迎えたエイボンは、大いに驚かされたのだった。
『ついに見つけたぞ!』
岩より冷静と称される師匠が、子供のようにはしゃいでいた。その手に、奇妙な品を携えて。
書物……と呼んでもいいものかどうか。紙のように薄い金属板を綴じ、書物のように仕立てて
あるのだ。表紙は、絶滅した首長竜の皮で装丁されていた。
ザイラックの見立てでは、世界から姿を消してひさしい蛇人間の魔道士ズロイグムの手になる
魔道書に違いないという。
太古の世界に、天まで届く塔が林立する都市を築き、異質ながらも壮麗な文明を誇った蛇人
間。その謎が、この書によって解き明かせるかもしれないと、ザイラックは期待していたのだ。
しかし、なぜだろう。エイボンはどうしても、師匠のように喜ぶことができなかった。金属製の
ページにのたくる、まさしく蛇のような文字を見ていると、悪寒が走るのを止められなかった。
それからザイラックは、連日連夜ズロイグムの書の解読を続けた。エイボンも手伝ったが、
解読は遅々として進まなかった。無理もなかった。人間とは根本的に精神構造が異なる、蛇人
間の手になる書なのだ。ザイラックが悔しげに漏らした言葉を覚えている。
『字面を追うだけでは駄目だ。蛇人間の感覚で考えなければ……』
ザイラックは、私室に一人で篭もるようになった。何のためか、一晩中不気味な呪文を詠唱
し、紫色に沸き立つ妖しげな薬を調合し……そのあまりの執着ぶりは、エイボンの目からして、
不気味な程だった。
|
エイボンの不吉な予感は、ますます高まっていった。しかし、まさか師匠に、解読を止めてく
れと頼む訳にもいかない。そもそも自分にも、一体何がそんなに不安なのか、説明が付かない
結局、エイボンにできたのは、自習や巻物の整理などで、不安を紛らわしながら待つことだけ
そして、数日後。
未だに、ザイラックは私室から出てこない。食事を取っている様子もなく、さすがに心配になっ
たエイボンは、扉をノックした。
返事はなかった。その代わり……と言ってもいいものか。
返ってきたのは、しゅうしゅうという奇妙な声と、ずるずるという何かを引きずるような音だっ
只事ではないと感じたエイボンは、やむなく開錠の術で扉を開け、中に入った。
『お師匠様、どうなさったのですか……』
師匠の私室は暗かった。しかし、何かが潜んでいるのを、エイボンは確信した。
徐々に目が暗闇に慣れてくる……いる……部屋の隅に……光を避けるように蹲って……し
ゅうしゅうと奇妙な声を発して……何かを身に纏っている……エイボンも見慣れた……。
師匠の長衣だ。
安堵の溜息を吐くエイボン。何を狼狽していたことやら。この部屋に、師匠以外の何がいると
『お師匠様、少しはお休みになりませんと……』
お体に触りますよ、と言いかけて。
エイボンは絶句した。
にゅるりとでも擬音を付すべき動きで、それに振り返られて。
それは、体長五エル(五メートル)を越える大蛇だった。胴の太さも、エイボンと同じぐらいあ
それが、ザイラックの長衣を身に付けている。我が物顔で、この部屋に居座っている。
この状況が何を意味するのか、分かりたくないのに分かってしまった。ザイラックの言葉が脳
裏を過ぎる。
――字面を追うだけでは駄目だ。蛇人間の感覚で考えなければ……。
『まさか、お師匠様……!?』
そう、ザイラックはズロイグムの書を、そして、その基礎となっている、人間とは異なる哲学を
理解するために、自らを蛇人間に近付けようとしたのだ。あの呪文や薬は、そのためのものだ
ったに違いない。
鎌首をもたげ、牙から毒液を滴らせるその様子に、もはやザイラックの自我が、欠片も残って
いないのは明らかだった。エイボンは無我夢中で、近くに置かれていた、万物溶解液入りのビ
ンを投げつけた。
しゃああああ……歯擦音の断末魔を聞きながら、エイボンは恐れ戦いていた。師匠の変わり
エイボンとて知ってはいた。魔術とは、便利な召使いではなく、とんでもない高利貸しであるこ
とぐらい。身に余る領域に手を出せば、即座に破滅という名の証文を突き付けられると……そう
教えてくれた師匠に、予想できなかった訳がない。こうなる可能性があったことぐらい。
承知の上で、己の体と魂を賭けたのだ。全ては、魔術を極めるために。
自分に、同じことができるか?
自問するまでもない、無理だ。
魔道……そんな、中途半端な覚悟で踏み込むべき道ではなかった。
完膚無く打ちのめされたエイボンに選べた選択肢は、ただ一つ。師匠の館から、魔術の道か
ら、全てに背を向けて、逃げ出すことだけだった。
〜6〜
「……イボン様、エイボン様!」
無明の闇を彷徨っていたエイボンの意識は、己が名を呼ぶテオの声で目を覚ました。
とっさに状況が掴めない。ついさっき、師匠の館を飛び出したはずなのに……ここはどこだろ
う、この女性は誰だろう……。
「起こしてしまって、ごめんなさい。ひどく、うなされていらっしゃったもので、つい……」
テオの声を聞いている内に、混乱が収まってくる。そうだ、あれはもう一ヵ月前のこと、とうに
過ぎ去ったこと……の、はずなのに。
(また、あの夢か……)
これで何度目だろう。あの日を夢に見るのは。
逃げても逃げても、過去は影のようにぴったりと尾行してくる。無理もない。脇目も振らずに前
進しているならともかく、今の自分は、ただうろうろと逃げ回っているだけ。それでは、過去を振
り切れる訳がない。
……無様の極みだ。
「私は……臆病者だ」
思わず、そんな独り言を漏らしてしまう。目は覚めても、心は悪夢に、過去に置き去りにされ
「迫害から逃げ、魔術から逃げ……何からも、逃げてばかりだ」
独り言のつもりだった。当然だ。突然こんなことを言われても、困惑して目を白黒させるのが
関の山だろう。
しかし、テオは今回も、あっさりエイボンの想像を超えて見せた。
「……逃げることは、悪いことではありません」
エイボンの肩に、テオのしなやかな手が添えられる。はっと顔を上げると、テオはただただ、
優しく微笑んでいた。月光を背にしたその姿は、無限の愛をもって、全てを許す女神のようだ。
「逃げた先で見つかる道もありましょう……ただ一つ、生きることからさえ、逃げなければ」
(逃げることは、悪ではない……)
思ってもみなかった、そんなこと。しかし、他ならぬテオの言葉だからこそ、すんなり受け入れ
(そうかもしれない……そのおかげで、テオさんに会えたのだから)
師匠の館で魔術漬けの日々を送っていたら、こんな体験は一生できなかっただろう。そう思
えば、逃げたのも無駄ではなかったかもしれない。
「ごめんなさい、お説教じみたことを……」
「いや、ありがとう……おかげで、気が楽になりました」
自分はずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。自分の弱さを、許してもらい
ずっと付き纏っていた過去の影が、すうっと消えていくのを感じる。今、ようやく、本当の意味
で、自分は過去から逃げ果せたのかもしれない。自分が一ヵ月掛かってできなかったことを、
テオは物の数秒でやって退けた。
(本当に、不思議な女性だ……)
出会った日にも思ったが、改めてそう思う。どうして、こんなに自分のことを分かってくれるの
だろう。まるで……母親のように。
堪えきれず、尋ねようとした、その時。
テオが、はっと目を見開いた。
テオの表情は、緊張に強張っている。ついさっきまで、この場を包んでいた安らかな空気は、
「外に、何かが……」
テオの鋭さは、今さら疑うまでもない。旅の間も、幾度も猛獣の接近を感知してくれたのだ。
窓から、そっと外の様子を窺い……エイボンは息を飲んだ。
暗闇に紛れて、何十対もの黄色く輝く目が、周囲を取り囲んでいる。月明かりを頼りに、何と
か正体を判別する。
「ヴーアミ族……!」
エイグロフ山脈一帯に生息する、毛むくじゃらの人間もどきだ。性質は凶暴で、しばしば集団
で人を襲う。コモリオムはすでに、奴らの巣窟になっていたらしい。
「エイボン様、如何いたしましょう」
テオは落ち着いていた。自分を信頼してくれているのだろう。それに応えるべく、エイボンは
焦りを押し殺した。
「ご心配には及びません。念のため、全ての扉に封印の術を施してあります」
鍵を開かなくするだけでなく、扉を鉄のように硬くしてしまう。この術を施された扉を開けるに
は、開錠の術で相殺するしかない。この家は、まさに難攻不落の砦……。
かちゃり。正面玄関の鍵が開く音を、エイボンは確かに聞いた。
(馬鹿な……!?)
それが幻聴でないことを証明するように、どかんとぶち破るような勢いで扉が開く。
けたたましい雄叫びを上げながら、ヴーアミ族どもが乱入してくる。その手には、獣の骨を削っ
た槍が握られていた。粗雑な造りだが、エイボンたちを血祭りに上げるには十分だろう。
(なぜ……いや、考えるのは後だ)
慌てて水晶球を取り出し、起動の呪文を唱える。たちまち、天井一杯にシャンタク鳥の幻が
翼を広げ、不吉な鳴き声を響かせる。
その恐ろしさは、ヴーアミ族の単純な頭脳にも理解できたらしい。醜い顔を、ぎくりと強張ら
せ、じりじりと後退し……。
後退がぴたりと停まる。奴らの背後から発せられた、意味不明の怒鳴り声によって。
嫌な予感は的中した。ヴーアミ族の一匹が、シャンタク鳥の幻に骨槍を投げつける。
無論、あっさりすり抜けて、突き刺さったのは天井にだ。
見ると、ヴーアミ族の群れの中に、異彩を放つ一匹がいる。獣の頭蓋骨を被り、鳥の羽で飾り
(しまった、呪い師がいたのか)
普通のヴーアミ族は、猿よりは賢い程度だが、ごく稀に高い知能を備えた個体が現れること
がある。そういった“天才”は、群れの頭となり、時には魔術すら操るという。
当然、幻と実体の見分けなど、朝飯前だろう。さっきの怒鳴り声の意味は、おそらくこうだ。
騙されるな、それは幻だ!
(封印の術を破ったのも、こいつか)
扉が開いた時点で、予想すべきだった。己の迂闊さを呪っても、もう遅い。ヴーアミ族どもは一
転して調子付き、嘲るような叫びを合唱しながら、二人を取り囲む。
慌てて青銅の剣を抜くが、こんな物でどこまで持ち堪えられるか。
「エイボン様!」
「テオさん、私が時間を稼ぎますから……!」
あなただけでも逃げてくれと叫ぶ暇もなく、数十本の骨槍がエイボンに殺到する。思わず、ぎゅ
っと目を閉じてしまう。
時が引き伸ばされ、一瞬が永遠と化す。まるで、死ぬ前に、たっぷりと後悔させようとしてい
(ああ、やはりちゃんと修行を続けていれば、こんな事には……いや、私の事はいい。気の毒
なのは、テオさんだ。私のような半端者を、護衛にしてしまったばっかりに……)
幻の未来が、脳裏を過ぎる。もうすぐ、槍が自分を貫く。血飛沫と共に、穴だらけにされる自
彼女は、いつだって、エイボンの予想を、覆し続けてきたのではなかったか……。
「見られたくなかった……あなたにだけは」
ひゅんっ! 何かが、疾風を伴って、エイボンの横を通過する。そして……。
ヴーアミ族どもの叫びが、時の呪縛を打ち砕く。
(……何だ?)
困惑するエイボン。人間の耳でも、十分聞き分けられた。その叫びは、勝利の雄叫びなどで
はなく……悲鳴だった。
恐る恐る開いたエイボンの瞼が。
驚愕で見開かれる。
今まさに、自分を穴だらけにしようとしていたヴーアミ族どもの全身に、何かが巻きついて動
きを封じている。黄金に輝く、細長い何かが無数に……どこから伸びているのか、思わず追っ
たエイボンの視線が辿り着いたのは。
自分の、すぐ横だった。
エイボンは我が目を疑った。
テオの黄金の髪が、無限長に伸びて、ヴーアミ族どもをがんがら締めにしていたのだ。
ヴーアミ族どもは必死で身を捩るが、テオの髪はびくともしない。それどころか、大蛇の如く蠢
きながら、さらに強く、みしみしと締め上げ……。
潰した。熟れたスヴァナ果の如く、いとも易々と。
さああと降り注ぐのは、文字通りの血の雨。
「お退きなさい。さもなくば、このようになりますよ」
原型を留めていない死体を、残りのヴーアミ族の前に放り出して、脅しつける。仮面のような
無表情で、あくまで淡々とした口調で。
その姿は、あたかも美しくも無慈悲な、殺戮の女神。
ぐにゃあと視界が歪む。目は確かに眼前の光景を映しているのに、心がそれを受け止め切
結果、認識のずれが生じ、そんな感覚を引き起こしているのだ。
彼女でなければ、誰だと言うのだ。
という、理性の諭しはあまりにか細かった。無理もない。誰に想像できよう。 普段の彼女か
ら、今の彼女が。
(あなたは、一体……)
ヴーアミ族どもの醜い顔が、ああまで見事に恐怖を表現できるものか。ばらばらと骨槍を投
げ出し、後ずさり始める。
いや、一匹だけ踏み止まっているのがいる。あの呪い師だ。
逃げるな、命令だぞ、とでも言っているのだろうか。本音は自分も逃げたいのかもしれない
が、ヴーアミ族にも面子というものがあるらしい。
その手に握る杖に、ばちばちと青白い電光が宿る。元素の矢の術だ。直撃すれば、竜すら
倒す。しかし、それを放つことは叶わなかった。
百条に分かれてのたうつテオの髪の一条が、ざびゅっ! 死神の大鎌と化して、呪い師ヴー
アミの首を薙ぐ。
一瞬後、そこに立っていたのは、ぴゅいいと笛のような音を立てて血を噴出す、首無しの骸
指導者の無残な最期に、ヴーアミ族の士気は、今度こそ崩壊した。悲鳴を上げ、我先にと密
林に逃げ散っていく。
それを見届けて、テオの髪はしゅるしゅると元の長さに戻っていく。獲物を平らげて満腹した
蛇が、巣穴に引っ込むように。
何とおぞましい。
(違う……こんなものが、テオさんであるはずがない……)
どこへ行ってしまったのだ。自分の過去を受け止め、癒してくれた、あのテオは。
〜7〜
知らない間に、外見だけはそっくりな、別の何かと入れ替わったのだ。
その解釈の方が、まだ受け容れ易かった。しかし……。
「……黙っていて、ごめんなさい」
振り返ったテオは、間違いなく、エイボンの知っているテオと同一人物だった。
テオは、胸に刃でも突き立てられているかのような表情だった。月光を背にしたその姿は、散
り逝く花のように儚げで……これこそが、彼女の本当の姿なのだと信じたかった。
しかし、その黄金の髪には、べったりとヴーアミ族の血がこびり付いている。あの光景もま
た、間違いなく現実だったのだ。
エイボンは沈黙を破れない。自分の口からどんな言葉が飛び出すか、自分でも分からなく
そんなエイボンとは対照的に、テオは淡々と告白を続ける。まるで、観念した罪人のように。
「御覧になった通りです。わたくしは、人ではありません。この姿は、擬態に過ぎません」
テオは、そっとその細い腕を上げ……めきめきと変形させる。白い肌が硬質化し、指が一体
化し……一瞬後、それは全長1エルにも及ぶ鋏になっていた。
思わず息を飲むエイボン。髪だけではなかった。細胞の一つ一つからして、人とは違ってい
「なぜ、私を同行させたのですか……」
半ば麻痺した喉を、無理矢理動かして、何とかそれだけは訊くことができた。護衛のためでは
ないのは、もう分かっている。そんなもの、テオには必要ないだろう。
|
「……父から、逃げたかったのです」
ぴくり、エイボンの肩が震える。
逃げる。あまりに馴染み深い言葉を、テオの口から聞いて。
あえてそうしているのであろう、感情を込めない淡々とした声で、テオは語った。
テオの父親は、あまりにも心が狭かった。
子供を自分の一部としか見ず、一切の自由を認めない。そんな父の元での生活に嫌気が差
し、逃げ出してきたのだという。
「あの……あなたの“父上”というのは……」
薄々分かってはいたが、口を挟まずにはいられなかった。
「ええ……便宜上、そう呼んでいるだけです。あの方は……ごめんなさい。人の言葉では、上手く
表現できませんわ。ただ、このわたくしの生みの親、としか……」
ぎゅっと我が身を抱えるテオ。その顔が青ざめて見えるのは、決して月光のせいばかりでは
思わず唾を飲み込むエイボン。凶暴なヴーアミ族を、虫けらのように潰してみせたテオが…
…一体、彼女の“父親”とは、何者なのか。
「父は執念深い方です。逃げ続けても、いずれは見つかる……そう考えたわたくしは、ツァトゥ
グァ神を頼ったのです」
そんな名前の神、聞いたこともない。
「はい。またの名をゾタクア。聖なる蟇蛙、暗黒の深淵を統べるもの、惰眠を貪りながら全てを
知るもの……古い古い、忘れられた神です……」
|
ツァトゥグァ、何と奇怪な名だろう。まるで、人間の声帯で発することを、前提にしていないか
「ツァトゥグァは、わたくしにこの首飾りをお授けになり、エイグロフ山脈の麓、自らの聖地に向
かうよう指示されました」
テオの胸元で、あの、太った蛙とも、羽のない蝙蝠ともつかない生き物を形象にした飾りが、
ぬめりと輝く。あるいは、ツァトゥグァ御大を形取っているのかもしれない。
(この形、やはりどこかで……)
初めて見た時、そう感じたのは……。
(そうだ、思い出した……!)
やはり、思い過ごしではなかった。
記憶はエイボンが幼い頃、父ミラーブがまだ、イックァの街で文書管理官をしていた頃まで
ミラーブの趣味は、古代の伝承の研究だった。そのために集めていた古書の中に、ちらりと
だが確かに見たのだ。
原料不明のインクと、おどろおどろしい筆使いでもって、その奇怪な姿が描かれているのを。
イホウンデー神官たちは、それを異端の証拠とでっち上げ、ミラーブを追放させたのだ。
そのツァトゥグァと、こんな形で再び巡り合うとは……これも運命なのか。
「聖地にこの首飾りを捧げ、儀式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥ
グァは仰いました。しかし、儀式にはどうしても、魔道士の方の補助が必要なのです」
「……それで、私を?」
「はい……打ち明けるべきだとは、何度も思いました。しかし、その場合、自分のことや、父の
ことも話さなければならず……どうしても言えなかった」
テオは、悲しげな微笑みを浮かべる。祭壇に向かう、生贄の乙女のように。
――恐ろしいでしょう? 騙していたのかと、お憤りでしょう? それでいい。それが人として、
当然の反応……だから。
『どうぞ、お逃げ下さい』
テオの声無き声を、エイボンは確かに聞いた。
変わり果てた師匠を目にした時にも感じた、動物的な逃走本能が沸き起こる。足が勝手に動
き出す。テオに背中を向けたくなる。そのまま闇雲に……。
……逃げ出そうとしたエイボンの脳裏を、テオの言葉が過ぎる。
『……父から、逃げたかったのです』
彼女もまた、逃亡者だったのだ。横暴な父から、呪われた出自から、必死で逃げ続けていたの
『逃げることは、悪いことではありません』
彼女も知っているのだ。寄る辺も無く、先の見えない逃亡の日々の心細さを。それでも、逃げ
ざるを得なかった者の悲哀を。
自分と同じだ。
ふわふわと、足が浮かぶような感覚が徐々に消え……しっかりと、両足で大地を踏みしめ
「逃げたくない……」
気が付くと、エイボンはそう言っていた。テオが、はっと顔を上げる。
「逃げたくありません」
今度は、意識して言葉にする。そうしてみて、確信した。それが偽らざる本音であることを。
「逃げてもいい、そう言ってくれた、あなたからは……」
……逃げたくない。
矛盾? いや、少なくとも、エイボンにとっては、矛盾などしていない。
そうだ。テオはあの言葉で、自分を過去から解き放ってくれた、恩人ではないか。その彼女か
ら逃げるということは、彼女が与えてくれた救いからも、逃げ出すということだ。
「手伝わせて下さい。あなたの逃亡を」
「エイボン様……」
テオの瞳は、期待と自制の狭間で、激しく揺れている。自分のためではない。エイボンのため
に、迷っている。
「信じて頂けるのですか……ずっと黙っていたのに」
「私が訊こうとしなかったからです」
「わたくしは、怪物なのですよ……」
「でも、私を救ってくれました」
テオは何度も促した。無理しなくていい、逃げてもいいと。
だが、やがて彼女にも分かったようだ。逃げないという誓いに報いる、最善の方法、それは。
「……分かりました。わたくしも、あなたを信じます」
自分も、逃げないことだと。
「ありがとうございます、エイボン様……本当に」
「何、逃亡者同士、困った時はお互い様ですよ」
「はい! 改めて、よろしくお願いいたします!」
(テオさん、あなたはこうも言いましたね)
さすがに照れ臭くて言えなかった事を、心の中だけで反芻する。
『逃げた先で見つかる道もありましょう……ただ一つ、生きることからさえ、逃げなければ』
(だから、逃げません。あなたからだけは)
どうしても、逃げられないものと出会う時。
人は、それを運命と呼ぶのかもしれない。
〜8〜
かくて、それからも、二人の旅は続いた。
しかし、これまでに比べれば、遥かに楽な旅路だった。他でもない。テオが最早、正体を隠す
必要がなくなったせいだ。何が襲って来ようが、どうにでもなった。
「エイボン様、危ない!」
どしゅうっ! 刃物状に変形させた腕を一閃、巨大タランチュラを真っ二つにするテオ。
「ご安心下さい。あなたは、わたくしがお守りします」
「た、助かります」
にっこり微笑むテオを、頼もしいと思う反面、少し……いや、本当にほんの少しだが、怖いと
思ってしまったのは、まあ不可抗力と言うべきか。
そして、コモリオムの廃墟を出て、三日後の夕刻。
二人は、ついに目的地に辿り着いた。
「はい、今は失われた民が、ツァトゥグァに祈りを捧げた聖地……ついに辿り着きましたわ」
そこは、密林を見下ろす、小高い丘だった。頂上には、明らかに人工物……少なくとも、知性
ある何者かの手になる石柱が、円を描いて並べられている。その表面には、奇怪だが精緻な紋
様が、隙間なく刻まれていた。
地平線に目を向ければ、黒々としたエイグロフ山脈が、まるで壁のように密林を遮っている
のが見える。その中でも、一際天高くそびえるのは。
(ヴーアミタドレス山……)
大陸の最高峰、その名は、山中の洞窟に群れるヴーアミ族にちなむ。他にも、知られざる脅
威が多数潜むと言われ、有名な探険家ラリバール・ヴーズ卿も、かの山に挑んで消息を絶って
「それで、儀式とは、何をすればいいのですか」
問いかけるエイボン。
しかし、返事はない。
「……あ、はい、ご説明いたします」
はっと我に返るテオ。直前まで彼女は、夕焼けに燃え上がる空を、ぼんやりと見つめていた。
エイボンの脳裏に、昨晩の出来事が過ぎる。
焚き火の前で、地図を見ていた時だった。この調子なら、明日の夕方には目的地に着けるこ
とを確認し、テオにもそう告げたのだ。
てっきり、輝くような笑顔を返してくれるものとばかり、思っていたのに。
『……はい、エイボン様のおかげですわ』
テオの笑顔は……強張っていた。
その時は、揺らめく焚き火のせいで、そんな風に見えたのだと思っていたが……見間違いで
はなかった。目的地が近付くにつれ、テオの顔の陰りは、どんどん濃くなっていった。
そして、今。テオは、最早、作り笑顔さえ浮かべられない様子だった。
(一体、どうしたのだろう。全てを打ち明けて、迷いは消えたはずでは……)
今さら彼女を疑う気など、毛頭無いが……訊こうとしたエイボンの機先を制するように、テオが
歩み出る。
円を描く石柱群の中心には、石の台座が鎮座している。何やら、黒い染みで汚れているその
上に、ツァトゥグァから授かったという、あの首飾りを供える。
|
「難しくはありません。意識をこの首飾りに絞り、わたくしに続いて、ツァトゥグァへの祈祷文を
唱えて下さい。さすれば、首飾りと聖地の魔力が共鳴し、遥かなるサイクラノーシュへの道が開
|
平然とテオが口にしたその言葉に、エイボンは愕然とする。
サイクラノーシュ……師匠の蔵書、それもとりわけ古く貴重なものの中に、その名はひっそり
と記されていた。異形の神々と、その眷属が住まうという、伝説の星だ。
エイボンにとっては、実在すら定かでない存在。しかし、テオがそんな法螺を吹くはずがない。
「さすがの父も、サイクラノーシュまでは、追って来られないでしょう。わたくしも、一安心ですわ」
どくん。エイボンの心臓が跳ね上がる。
『聖地にこの首飾りを捧げ、儀式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥ
グァは仰いました』
そうだ、テオは確かにそう言った。
(永遠に父から逃げられる……こういう意味だったのか)
どくん、どくん。心臓が早鐘のように鳴る。
無論、不吉な予感に。
(永遠に……)
「それでは、お願いします。イア! イア! イア! グルフ=ヤ、ツァトゥグァ!」
テオは早くも、祈祷文を唱え始める。まるで、考える隙を与えまいとしているかのように。
他にどうしようもなく、エイボンも後に続く。テオは背を向けていて、その表情を窺うことはできな
「イア! イア! イア! グノス=イカッガ=ハ! ツァトゥグァ!」一
|
何語なのだろう。ツァトゥグァの名以外は、全く意味が分からない単語の羅列。間違えまい
と、必死で唱え続け……どれぐらい、続けた時だったか。
突如、凄まじい風が巻き起こった。
いや、本当に風なのか。木の枝がへし折れ、小石が舞う程の強さなのに、なぜか、自分の長
衣やテオの髪は、そよとも揺れない。それもそのはず。石柱群の周囲だけは、凪のように静か
不思議な暴風は、上空の雲すら渦巻かせ……。
(いや、違う、あれは……)
それに気付けたのは、魔道士の直感だろうか。雲が渦巻いているのではない。空間そのも
のが、渦巻状に捩れているのだ。風のように見えるのは、空間の捩れに伴う、重力の変化だ。
必死で唱え続ける内にも……そう、奇跡と呼ぶべき事態は、進行していく。捩れの中心が、
ぼこりとへこみ、巨大な穴になり……。
空に開いた穴の向こうに、エイボンは確かに見た。巨大な輪を抱いた、奇怪にして神々しい
その姿を。
(サイクラノーシュ……神々の住まう星)
テオの足が、ふわりと浮かび上がる。そのまま、サイクラノーシュへ向かって……。
「イア! イ……ま、待ってくれ!」
エイボンは、思わず叫んでいた。
祈祷を中断した途端、世界はあっという間に、元の姿に戻った。空間の捩れは正され、穴は
塞がり、テオはすとんと地に降り立つ。
テオは……なぜか、怒りも驚きもしなかった。
「す、すみません! ですが、一つだけ教えて下さい。サイクラノーシュへ渡った後、再びこちら
へ戻ることは可能ですか?」
テオは、なぜそんなことを訊くのかという顔を……しなかった。
「おそらく……無理です」
それを聞いた瞬間、エイボンは全てをかなぐり捨てていた。恥も外聞も、建前も理性も。
残ったのは、ありのままの心のみ。
(嫌だ……テオさんと、二度と会えなくなるなんて!)
「テオさん、無理を承知でお願いします! この星に残ってくれませんか!? その代わり、私
が必ず、父上からお守りします!」
「エイボン様……」
そう……あのテオが、気付いていない訳がない、エイボンの思いに。
そして、彼女自身も迷っているからこそ。
「わたくしも……あなたと共にいたい」
こんなににも、苦しそうなのではないか。
「ごめんなさい、エイボン様……信じると言っておきながら、わたくしは、まだ隠し事をしていまし
「……テオさんは、何も隠してなどいませんよ」
そう、確かに彼女は言った。ここに来れば、永遠に父から逃げられると。ただ、彼女は気付い
逃亡の代償に、失うものがあることに。
そう、代償のない逃亡など、有り得ないのだ。
「父から逃げ、自由になる……それだけが、わたくしの生きる目的でした。しかし、わたくしは、
自分が思っているより、遥かに欲深かったようです」
テオは、夢見る少女のような瞳で語る。自分には、未来には、無限の可能性があるのだと、
心から信じているかのような。
「もっと、色々な場所を旅したい。色々な経験をしてみたい……あなたと共に」
「ええ、私もです。ですから……」
「でも、無理なんです!」
一転、悲痛な叫びが、全てを遮る。エイボンの言葉も、思いも。
「そんなことをすれば、あなたを絶対の危機に巻き込んでしまう……なぜなら、わたくしの父は
テオが言いかけた、その時――。
――ずんっ、と突き上げるような衝撃が、二人を襲った。密林の鳥たちが、一斉に羽ばたく。
「な、何だ……?」
大地が震えている。あたかも、これから起こる事に、恐怖しているかのように。
高い場所から俯瞰していたため、木々の揺れ方で分かった。震動の中心は……。
(ヴーアミタドレス山か!?)
ばりばりばりっ! 雷鳴のような轟音と共に、ヴーアミタドレスの山肌に、幾本もの亀裂が走
(噴火? いや、あの山は、火山ではないはず……)
エイボンの記憶は正しい。その証拠に、亀裂から、天を衝く勢いで噴出し始めたのは、溶岩
得体の知れない、灰色の粘液だった。
慌てて支えるエイボン。テオの顔は、蒼白だった。彼女の顔色の意味が、人と同じなのかは定
かでないが、それだけは見間違えようがない。
その瞳を塗り潰す、絶望の色だけは。
灰色の粘液は、雪崩と化して山肌を下り、その麓に灰色の湖を形成していく。そして……ざわ
湖が動き出した。
津波のように、密林を削り取りながら、最高級の走竜の、さらに十倍近い速度で……間違い
ない、真っ直ぐにここを目指している。
有り得ない、自然の動きなどでは。
――意思がある、生きているのだ。
跪け、平伏せよ。執拗にそう命じる本能に、エイボンは必死で抗う。恐怖……ではない。こ
れは畏怖。人が、上位の存在に対して抱く感情。
|
例えば、神に対して。
押し潰されそうなエイボンに、テオの呟きが止めを刺す。
「見つかってしまった……お父様に……」
「父親……あれが!?」
「はい、全ての不浄なるものの父にして母、アブホース……わたくしの、生みの親です……」
呆然と、生ける灰色の湖を見下ろすエイボン。テオの“父親”……人であろうはずがないとは
思っていたが、まさかあんなものだったとは。一
|
(守るだと……あんなものから、どうやって……?)
笑うしかないエイボン。知らなかったとは言え、何と滑稽だったことだろう……テオもよく、真面
目に聞いてくれたものだ。
ぼこぼこぼこ……湖面、いや、アブホースの表面の、至る所が盛り上がり、形を変えていく。
それらは、獣に似て。あるいは、昆虫に似て、魚介類に似て、植物に似て。しかし、同じ形の
ものは、一つとて無い。
(子供、なのか……アブホースの……ま、まさか)
他に考えようがない。テオも、ああして生まれたのだ。
爆発するように込み上げてきた吐き気を、死に物狂いで堪えるエイボン。当然だ。そんな事
……ただ、微笑みを浮かべるだけだろう。そして、全てを許してくれるのだろう。傷付いてな
ど、いない振りをして。
アブホースの子供たち――つまり、テオの弟妹なのか――は、親から這い出ようと、未発達
な手足でもがくが。
ぎぇぇぇ……ぐぇぇぇ……ぎょわぁぁぁ……。一
|
それは叶わず、アブホースが伸ばした触手に捕まり、あるいはぱっくりと開いた口に飲み込
まれ、あまりに短い生涯を終える。
テオが言った通りだった。子供に一切の自由を認めない、不寛容極まる親神アブホース。
(も、もう、あんな所まで……)
アブホースはすでに、ヴーアミタドレス山とここの中間点に到達しようとしている。彼が通った
後には、草一本残っていない。
(とても逃げられない……ならば、せめて)
もう一度儀式を行い、テオだけでも……そう覚悟を決めて、振り返ったエイボンが見たのは。
輝くような、テオの笑顔だった。これまでの中でも、最高の。
「エイボン様……今まで、ありがとうございました」
なぜ、そんな顔ができるのか、エイボンには分からなかった。なぜなら……。
「わたくしは、父の御許へ戻ります」
……彼女が、そう言おうとしているのが、分かったから。
「まだ遅くはない! もう一度儀式を……!」
「その後、エイボン様はどうなりますか?」
ぐっと言葉に詰まるエイボン。彼の覚悟など、テオにはお見通しだった。
「それに、犠牲がエイボン様だけで済むかどうか。もし、わたくしを逃した父が、怒りに任せて暴
テオの言うとおりだ。あんなものが、ウズルダロウムに辿り着いたら……今度こそ、王国の歴
史は終わる。
「いいのです。短い間でしたが、人として過ごせて、テオは幸せでした」
どうしようもない、これ以上は、何を言っても子供の駄々だ。分かってはいるが、言わずには
「生きることからだけは、逃げてはいけない! そう言ってくれたのは、テオさんじゃないですか
「ええ、逃げませんよ」
え? 思わずきょとんとしたエイボンの前で。
テオは背中から、白い翼を広げ。
「最後の最後まで生きます。あなたとの思い出を胸に」
流星のように、夕焼けに燃える空に飛び立つ。その姿は、なるほど、神の娘に相応しい美し
――がばりと開いたアブホースの口に、その姿が消える瞬間も、エイボンは一言も発するこ
〜9〜
エイボンは呆然と、ヴーアミタドレス山に引き返していくアブホースを見つめていた。
目的さえ果たせば、他のものに興味はないらしい。増してや、エイボンのことなど、気付いて
さえいないだろう。人が、環境中の微生物に気付かないのと同様に。
無価値、ゆえに無視。
人が神に滅ぼされずにいるのは、たったそれだけの理由でしかない。
「人は……私は……何と無力なのだろう」
がくりと膝を突くエイボン。突いているのは、大地にではない。神の掌の上にだ。もし、何かの
気まぐれで、握り締められでもしたら、いともあっさり潰されるだろう。
逃げることすら、叶わずに。
(テオさんも逃げられなかった……逃がしてやれなかった……)
ツァトゥグァの首飾りが、祭壇に残されている。それだけが、テオがこの世にいた証……。
本当に……?
だとしたら、この痛みは何だ。この、内臓を捻られるような、別離の痛みは。
(私は、彼女を覚えている)
そして、おそらく、この世で唯一、彼女の真実を知っている。
温もりも痛みも、全て彼女が残してくれたものだ。
(これだけは、奪わせはしない……たとえ、神にも)
立ち上がるエイボン。たったそれだけのことに、凄まじい気力が必要だった。それでも、彼は
やり遂げた。
(逃げ切ってみせる!)
テオの思い出と共に。
テオが、最後の最後まで、そうしてくれたように。
彼は気付いているのだろうか。逃亡者と呼ぶには、あまりに強い光が、己の双眸に宿ってい
(そのためになら、何でも利用してやる……一度は逃げ出した魔術の道でも、同じ神の力で
ツァトゥグァの首飾りを握り締める。耳まで裂けたその口が、不敵に笑っている。エイボンの
覚悟を、面白がるように。
エイボンは思った。師匠の館になら、この神について記した書物が、残されているかもしれな
それから、百数十年後――。
サイクラノーシュの、金属の大地にて。
ツァトゥグァの首飾りを手に、空に輝く大いなる輪を見上げながら、エイボンは呟いた。
「見ているか、テオ……ここには、頑迷な神官どもも、忌まわしきアブホースもいない。我らは
――自由だ」
〜Fin〜
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