〜1〜
ハイパーボリア……一《 》
永遠の氷河に埋《 》もれし、失われた大陸
百の魔道士が術を振るい、千の奇跡が顕現《けんげん》せし、魔法の王国
彼の地が紡《つむ》ぎしは、栄光と破滅、賢者と愚者の物語
神官は驕《おご》り、魔道士は邪神に見《まみ》え、コモリオムの都は栄え、そして滅びた
劫初《ごうしょ》の記憶を伝える、禁《 》断の書のみがその名を記す
ハイパーボリア……北《 》風の向こう側

「ゾグトゥク……イフフクシ……ンバアスムル……」一《 》
 エイボンの口が紡《つむ》ぐ呪文に呼応して、水晶球は妖しく輝き始める。
 そこらの店で売っているような、安《 》物のガラス球ではない。古の魔物の眼球が鉱物化したも
ので、伝説の魔《 》道士ゾン・メザマレックその人が使っていた品だ。
「おお、真実の目よ、ありうべからざるものの名において命ず、這《は》い寄る混沌の名において命
ず、暗きハンの名において命ず……時《 》を越え、空を越え、真実を映せ……」
 呪文が進むにつれ、輝きはますます強く、そして禍々《まがまが》しくなっていく。凶兆を告げる極光《オーロラ》のよう
な輝きが、薄暗い天幕《テント》の内部を地獄さながらに彩《いろど》る。 
 そして……。一《 》
「アハト!」一《 》
 起動の呪文と共に、水晶球《 》の内部に、ぼんやりと真実が浮かび上がる。すなわち……。
「……赤《 》だな」
 次の賭《か》け競争で、その色の走竜が一着でゴールしている様子を。
「ひゃっほう! これでまた大儲《もう》けだぜ! ありがとうよ、魔道士さん!」
 客のチンピラは、エイボンに5パズール金子《きんす》を放り投げると、小躍りして天幕を飛び出して行っ
た。一《 》
 それを見送りながら、エイボンは重い溜息《ためいき》をついた。客に対してではない。己《おのれ》に対してだ。
「魔道士など恐れ多い……私はただの見《 》習いくずれだよ」
 魔術のマの字も知らないチンピラに分からなかったのも無理はないが、四回目の大祓《はら》いを迎
えて三年(二十三歳)の若造が、一人前の称号《 》である魔道士を名乗れる訳がない。本来ならま
だ、師の下で修行に励《はげ》んでいるべき身だ。
 事実、つい一ヵ月前《 》まではそうしていたのだ。
(師匠が今の私をご覧《らん》になったら、どう思われることやら)
 “荒野の大魔《 》道士”ザイラック。
 王国一と噂される腕前と、いかなる権力にも媚《こ》びず、ムー・トゥーランの荒野にて孤高を貫く
生き様から、その二つ名で呼ばれるかの人《 》物が、エイボンの師匠だった。
 ザイラックが噂に違《たが》わぬ魔道士であることは、半人前のエイボンから見ても明らかだった。
 異形の魔物を自在に使役し、棺《ひつぎ》で眠る木乃伊《ミイラ》から上古の秘密を聞き出し、肉体から魂を解き
放って星の世界を訪れるぐらい、ザイラックにとっては日常茶飯事《にちじょうさはんじ》だった。
 師匠のようになりたくて、エイボンは日々、ザイラックの黒片麻岩《くろへんまがん》の館で修行に励んだ。
 しかし、忘《 》れもしないあの日……。
 エイボンは回想を中断した。あまり思い巡《めぐ》らすと、また夢に見てしまう。
 ともあれ、師の館《 》を飛び出したエイボンは、そこから少しでも遠ざかろうと、ウズルダロウム
の路地裏に潜《もぐ》り込んだのだ。
 それから一ヵ月、師の館から持ち出した水晶球で、詐欺《さぎ》の真似事をして糊口《ここう》をしのぐ毎日を
送っている……こんな使われ方をして、水晶球もさぞ不本意《ふほんい》であろう。
 それからも、しばらく待ってみたが、客は来なかった。今日はこれぐらいにして、宿《 》に引き上
げようかと考えたその時《 》。
 どやどやと騒々しい足《 》音が近づいてきたかと思うと、天幕が乱暴に開けられた。
「てめえか、こいつにインチキやらせてやがったのは!」一《 》
「ひいぃ、教えたんだから、許《 》してくれぇ〜」
 怒りの形相で詰《つ》め寄る男たちの後ろでは、ついさっき来た客が、荒縄で縛られて転がされて
ている。どうやら、ばれてしまったようだ。一《 》
「おかしいと思《 》ったぜ。いつもこいつばかり、バカスカ勝ちやがって……」
(しょうがない客だな。派手に賭《 》けすぎるからだ)
 エイボンは毛程の動揺《どうよう》も見せなかった。口の中だけで、こっそり呪文を唱え始める。
「さあ、儲《もう》けを吐き出してもらおうか……やっ!?」
 エイボンを捕らえようと手《 》を伸ばした男たちが、あんぐりと口を開けて立ち尽くす。
 自分が掴《つか》んでいるのが、魔道士のローブを着た藁《わら》人形であることに気付いて。
「や、野《 》郎、いつの間に!?」
 全くの同《 》時刻。
 ねぐらにしている安《 》宿のベッドで、エイボンはむっくりと身を起こした。ついさっきまで、ここに
寝かされていた藁人形の藁屑《わらくず》が、ぱらぱらと散る。
「身代わりの術を用《 》意しておいて、正解だった」
 見習いくずれとは言え、エイボンも魔道士の端《はし》くれ。この程度の術、基本中の基本だ。
(やれやれ、この街はもう潮時《しおどき》か)
 すぐにでも、別の街へ移らねば……そう考えると、改《あらた》めてみじめな気分になる。
(また逃げるのか、私《 》は……)
 迫害《はくがい》から逃れ、魔術の道からも逃れて、ここまで来たというのに。
 ただ、逃《 》げ続けるだけの人生だ。

〜2〜
 新王《 》都ウズルダロウム。
 旧王都コモリオムから遷都《せんと》されたのは、二十三年前――奇《く》しくも、エイボンがこの世に生を受
けた年――。それ以前は交《 》易の中継地であり、商業の町だった。
 郊外に建《 》造中の新王宮――あくまで旧王宮を再現しようとするファルナヴートラ王に『税金の
無駄使《 》い』と非難が集中している――に群《むら》がるように、派手な看板を掲《かか》げた商店が立ち並び、
その隙間を網《あみ》の目の如《ごと》く路地が張り巡らされ、人々が窮屈《きゅうくつ》そうに行き来している。
 ごちゃごちゃして治安が悪い、と王侯貴族は漏《も》らしているらしいが、だからこそ、ここには
人々の生きた息吹《いぶき》がある。
「安いよ、安《 》いよー!」
「新鮮なショングア豆は如何《いかが》かね〜」
「オッゴン=ザイ産の織物《おりもの》だよ。どうだい、この手触り!」
 1パズールでも多く儲《 》けようと、声を張り上げ、人々は終わらぬ祭りを繰《 》り広げる。
 ザイラックに弟子入りして以来、縁を断っていた俗界に、こんな形で舞い戻ることになると一《 》
は……いや、戻れてはいない。ただ潜《 》り込んだだけだ。いくら儲けようとも、それで守るべき家
も家族も、彼《 》にはないのだから。
 次の目的地も決まらぬまま、とりあえず、走竜が引く車の停留《ていりゅう》広場を目指していた時だった。
(何《 》だ……?)
 広場に、何やら人だかりができている。吟遊詩人が語る英雄譚《えいゆうたん》に惹《ひ》かれて……ではないのは
、すぐに分《 》かった。
「ああ、神官様、どうぞお見《 》逃し下さいませ」
 情けを請《こ》っているはずなのに、全く卑屈《ひくつ》に聞こえない、音楽的なまでの響きを備えた声の主を
見た瞬間《 》。
(……!)一《 》
 エイボンはもう、他《 》の何も目に入らなくなっていた。
 それ程《 》の美女だった。
 すっきりとした鼻梁《びりょう》、絶妙の曲線美を描く頬《ほお》。それらを霞《かすみ》のように取り巻く、黄金の髪。
 簡素な服装だったが、その上からでも分かる、華奢《きゃしゃ》な肩、すらりとした手足、そして豊かな胸。
 個々の部位の美しさだけではない。全てが、幾何学《きかがく》的な調和を成している。例えるなら、それ
は氷の花。完璧な、故《ゆえ》に、僅《わず》かに崩れるだけでも台無しになりそうな。
 危うい程《 》の、完璧な美。
(何という……この世《 》のものとは思えん)
 魔術の神秘以外のものに陶然《とうぜん》としたのは、生まれて初めてだった。しかし、そんな気分を
、下卑《げび》た声がぶち壊した。
「そうはいかんなぁ」一《 》
「左様《さよう》、これも聖なる務めゆえ……」
 美女とはあまりに対照的な、醜《みにく》い男たちが彼女を取り囲んでいる。金糸銀糸で飾り立てた豪
華なローブは、醜さを払拭《ふっしょく》するどころか、食用ナマケモノのような腹をさらに強調している。
 彼らが誇らしげに被っている、鹿の角を模した額冠《サークレット》に、エイボンは嫌という程、見覚えがあっ
た。一《 》
(イホウンデーの神《 》官どもか……)
 ヘラジカの女神イホウンデーに仕える聖職者……とは、名ばかりの生臭《なまぐさ》神官どもは、遷都騒ぎ
で衰《おとろ》えるどころか、人々の不安に付け込んで、ますます勢力を拡大している。
 苦い記憶が、エイボンの眉間《みけん》に皴《しわ》を刻む。あたかも傷痕《きずあと》のように。
(父上《 》……)
 エイボンの父ミラーブは、イックァの大公家に仕える文《 》書管理官だった。公子ザクトゥラの教
育係でもあり、彼の良き相《 》談役だった。
 そんな父を、勢力拡大の障害とみなした神官たちは、異端《いたん》の嫌疑をかけ、イックァから追放さ
せたのだ。一《 》
 慣れない野の暮らしで体調を崩《 》した父は、幼いエイボンを残して他界。父の友人であったザ
イラックが迎えに来てくれなければ、エイボンも父《 》の後を追っていただろう。
 神官ども……エイボンにとっては、父の仇《かたき》と言うべき連中。
 争いを好まない父に、復讐《 》などしてくれるなと言われたこともあり、あえて考えないようにしてい
たのだが、いざ目の前にしてみると……握り拳に力が篭《こ》もる。
「そ、それはただの装《 》身具でございます……」
「ふん、随分《ずいぶん》と悪趣味なことだな」
「よもや、邪教の祭具《 》か何かではあるまいな?」
 神官の手には、黄金製と見える首飾りが握られている。さては、難癖《なんくせ》を付けて、美女から取
り上《 》げようとしているのか。
「これは、念入りに審問《しんもん》する必要がありそうだ! どうれ、神殿まで来てもらおうか!」
 ……違った。神官たちの狙《 》いは、美女本人だった。それも、異端審問のためなどではないの
は、その厭《いや》らしい笑みを見れば明らかだ。
 周囲の野次馬たちは、同《 》情の表情を浮かべてはいるが、誰も助けに入ろうとはしない。神官
たちの不興《ふきょう》を買うのを、恐れているのだ。
(仕《 》方ないか……)
 この程度の仕返しなら、父も大目に見てくれるだろう。エイボンは懐《ふところ》から水晶球を取り出し、
小声で呪文を唱《 》え始める。
「くっくっく、大《 》人しく……」
 ごてごてと指輪をはめた神官の手が、美女の肩を掴《 》もうとした、その時。
 ばさあっという羽音と共に、周囲を影が覆《おお》った。
「む? 何《 》が……ひっ!?」
 思わず見上げた神官たちが、凍《 》りつく。
 羽音と影の主は、翼《 》長十メートルにも達する、巨大な怪鳥だった。
 羽ばたく度に、毒々しい色彩の羽が撒《ま》き散らされる。剣のような鉤爪は、人間どころか走竜
すら餌食《えじき》にできるだろう。馬を醜悪《しゅうあく》化したような顔は、憎々しげに眼下を睨みつけている。
 シャンタク鳥。一説には、異世界から時空の壁《かべ》を越えてやって来るとされる魔鳥……等とい
う薀蓄《うんちく》は知らなくとも、それが脅威《きょうい》であることは、神官たちにも理解できた。
「うわあああ!」一《 》
 悲鳴を上げて逃げ出す。当然、野次馬たちも後に続き、たちまち周囲は、混乱の坩堝《るつぼ》と化
した。一《 》
 ほくそ笑むエイボン。彼らの誰も気《 》付いていない。シャンタク鳥の撒き散らす羽が、一枚も地
面に積《 》もっていないことに。
(まあ、詐欺よりは、有《 》意義な使い方か)
 そう、あのシャンタク鳥は、水晶球で空中に映《 》し出した幻なのだ。そうとも気付かず、神官ど
もが慌てふためく様は、痛《 》快だった。
(さて、あの御《 》令嬢は……)
 いた。群衆とは対照的に、妙《 》に落ち着いた様子で、何やら周囲を見回して……何かを拾い上
げた。あの首飾りだ。慌てた神《 》官が落としていったのだろう。こんな状況で、随分と冷静なこと
だ。一《 》
 ともあれ、あの様子なら、自主《 》的に逃げてくれるだろう。英雄譚の主人公ではあるまいし、わ
ざわざ名乗り出ることもあるまい。そう思って踵《きびす》を返そうとした、その時。
 美女と目《 》が合った。
 吸い付けられているかのように、ただひたすらエイボンを凝《 》視している。
(まさか、偶《 》然だ……)
 そうではないことは、すぐ明《 》らかになった。
 美女はゆっくりと、しかし迷《 》いのない歩みで近づいてくる。右往左往する群衆を、実体のない
幻のように潜《くぐ》り抜けながら。
 気が付くと、すぐ目《 》の前に立っていた。
 間近で見る彼女は、また一段《 》と美しかった。長い睫毛《まつげ》に縁取《ふちど》られた青い瞳は、水面のように自
分の姿を映している。輝きを放つような白い肌に、目が眩《くら》みそうだった。
 何を言えばいいものやら、へどもどしていると、美《 》女の方が先に口を開いた。
「もしや、あなたが助《 》けて下さったのですか?」
 口調《くちょう》こそ質問だが、声は確信に満ちていた。
「いや、その……」一《 》
 違うと突っぱねることもできたはずなのだが、なぜかエイボンはうなず《 》いてしまった。たちまち、
花開くような笑顔になる美女。そして、悪戯《いたずら》の相談でもするかのように、くすくす笑いながら囁《ささや》く。
「とりあえず、この場を離《 》れましょう。神官様方にばれる前に」
(何と……妙に落《 》ち着いているとは思ったが)
 気《 》付いていたらしい。あのシャンタク鳥が、幻であることに。
(この女性《 》は一体……)
 いつか、師《 》と交わした会話を思い出す。
『師匠でも、ご存《 》知ないことがあるのですか?』
『そんなもの、いくらでもあるわい。例《 》えば、女よ』
『女性《 》……ですか』
『ああ、女《 》こそ、男にとって、最大の謎よ』

〜3〜
「ありがとうございます、魔《 》道士様。おかげで助かりました。あ、どうぞ、ご遠慮なさらず。お代
は持たせて頂《 》きますから」
「……恐《 》れ入ります」
 二人がいるのは、入り組んだ路《 》地の奥にある、茶を供する店だ。ここなら神官たちに見つか
る恐れはないという、美女の提《 》案に従ったのだが。
 店主が、甘い香りを放つアボルミス茶を運んでくる。「どうぞ、ごゆっくり」と言う口元が緩《ゆる》んで
いるのを、エイボンは見《 》逃さなかった。彼の目に、自分たちはどう映っていることやら。
(慣《 》れないことをするものではないな)
 なにせ、師匠の館《 》で修行に明け暮れること十数年。その間、女性どころか、師匠以外の人と
さえ、ろくに会話《 》したことがない。人付き合いは、好きでも得意でもなかった。
(適当に世間話《 》でもして、さっさと切り上げよう)
 勿体無《もったいな》いことを考えているエイボンであった。彼女と茶が飲めるなら、命を投げ出しても惜しく
ない男だって多《 》かろうに。
「本当に助かりました。いくら神官様でも、これだけは献上致《けんじょういた》し兼《か》ねますわ」
 美女は、首飾りを大切そうに撫《な》でている。それを見て、思わずエイボンは眉をしかめた。
 百足《むかで》を思わせる鎖に、太った蛙《かえる》とも羽のない蝙蝠《こうもり》ともつかない生き物を形象《モチーフ》にした飾りが
ぶら下がっている。黄金と思っていた材質も、よく見れば、何やらぬらぬらとした光沢《こうたく》を帯びてい て……。一《 》
(悪趣味というのも、あながち外《 》れていないような)
 その時、ふとエイボンの脳裏《のうり》を過《よ》ぎる記憶があった。
(あの形《 》……)
 気のせいだろうか。どこかで見《 》たことが……。
 が、首飾りが収まっているのが、美女の胸の谷間であることに気付いて、慌てて視線を逸《そ》ら
す。女性にそういうものがあることすら、忘《 》れていたエイボンであった。
「申し遅《 》れました、わたくしはテオと申します」
 ウズルダロウムの住人《 》ではなく、旅の途中で寄ったのだという。
「テオさんお一人《 》ですか?」
「はい」一《 》
 美女、テオは事も無《 》げに言うが、女性の一人旅がいかに危険かは 言うまでもない。事実、
ついさっきも、あのような目に遭《あ》っていたことであるし。それでも、行かなければならない理由
があるのだろうか。一《 》
 考え込みかけて、テオが何かを期《 》待するような目をしているのに気付き、慌てて自己紹介す
る。逃亡生活で、すっかり素性《すじょう》を隠す癖が付いてしまったようだ。
「エイボン、魔《 》道士見習いです」
 尤《もっと》も……。
「……各地を旅して、修《 》行中の身です」
 師の下から逃《 》げ出したとは、さすがに言えなかったが。
(本当のことを知《 》ったら、この女性は幻滅するのだろうな)
 そう思うと、ますます居《 》心地が悪く……なると思いきや。
「エイボン様は、どんな場《 》所を巡って来られたんですか?」「魔術の修行って、どんなことをなさ
るんですか?」「魔《 》道士の方々は結婚なさらないって、本当ですか?」
 テオは好奇心の赴《おもむ》くままに、次々と質問を浴びせてくる。大人しそうな外見に反して、物怖《ものお》じ
しない性格《 》のようだ。
 苦笑しながらも、一つ一つ答《 》えている内に、エイボンは気分が晴れてくるのを感じていた。
(そうか、私《 》は……)
 先の見えない逃亡の途。自分で思っている以上に、孤独に苛《さいな》まれていたらしい。ひさしぶりに
他者と交わした会話、それも、何の打算も要《 》らない、他愛の無いない会話は、朝日のように暖
かかった。一《 》
 魔道士と言え、所詮《しょせん》は人間。一人で生きていけるようには、できていないのだ。
「確かに、結婚しない魔道士は多いですが、それは単に、甲斐性《かいしょう》が無いだけですよ。魔術に入
れ込みすぎてね」一《 》
「まあ、ウフフ……」一《 》
 テオは、少女のように無邪気に微笑《ほほえ》んでいる……ように見えるが、その微笑には、どこか気遣《きづか》
っているような雰囲気もあった。無《 》論、エイボンを。
(もしや、私が塞《ふさぎ》ぎ込んでいることを察して……?)
 エイボンに話をさせることで、気《 》晴らしをさせてくれたのだろうか。ありえない話ではない。水
晶球の幻を、あっさり見《 》破った彼女なら。
(不思議な女《 》性だ……)
 エイボンには分かった。テオの瞳が、その深奥《しんおう》に、底知れない神秘を孕《はら》んでいることが。 
 それを。一《 》
(知《 》りたい……)
 そう欲《 》している自分に気付き、少なからず驚くエイボン。ついさっきまで、さっさと帰りたい等と
思っていたくせに、一体どういう心《 》境の変化なのか。
(まさか……)一《 》
 女性など、修行の妨《さまた》げとしか思っていなかった。恋愛など、自分には関わりのないことだと思
っていた。いや、この感《 》情がそうなのかは、分からない。しかし、認めざるを得なかった。
 もう少し長く、テオと居《い》たいと願っていることだけは。 
 しかし……。一《 》
(……何を期《 》待しているのだ、私は)
 自嘲《じちょう》するエイボン。テオが「今日はありがとうございました」と言って席を立ったら、自分に引き
止める術はない。そうしたら、自《 》分はまた一人……。
「あの、エイボン様《 》……」
「な、何《 》でしょう?」
 ふいにテオの口調が変り、はっと居住《いず》まいを正すエイボン。顔に出ていなかっただろうか。
「先程助けて頂いたばかりで、図《 》々しいことは、重々承知しているのですが……」
 ぴくりとエイボンの指が動《 》く。
「エイボン様の腕前を見《 》込んで、ぜひ、お願いしたいことがございます」
(まさか……)一《 》
 エイボンの願いを、何処《いずこ》かの神が聞き届けてくれたのだろうか。続くテオのおずおずとした声
は、福音《ふくいん》のように聞こえた。
「旅の護衛をお願《 》いできないでしょうか」
 ついさっきまでのエイボンなら、あっさり断《 》っていただろう。しかし、今のエイボンにとっては、
まさに渡《 》りに水竜だった。
(彼女と一緒にいられる……それも、当《 》分の間)
「やはり、女の一人旅は何かと物《 》騒で……」
「分《 》かりました」
 思わず即答してしまい、慌てるエイボン。いくら何でも、多少は逡巡《しゅんじゅん》する振りをしないと、不自
然だっただろうか。一《 》
 幸いテオは、怪訝《けげん》そうな顔一つ見せなかったが。
「よろしいのですか? 大したお礼《 》はできませんが……」
(そんなことはない)一《 》
 彼女と一緒にいられること。それが何よりの報酬《ほうしゅう》だ……等とは、口が裂けても言えないので。
「構《かま》いませんよ。どうせ、当てもない旅の身です」
「ありがとうございます、エイボン様《 》!」
 エイボンの素《 》っ気無い口調にも関らず、テオはもういいと言うまで、何度も頭を下げ続けた。
礼なら、こちらこそ言《 》いたいぐらいだというのに。
 ……彼は気付いていない。テオが口の中だけで、呟《 》いていることに。
「………ァよ、巡り合わせに、感《 》謝いたします」

〜4〜
 偉大なる地図書記《 》グナイモンの手なる大陸地図――これも、師匠の館から持ち出した物だ
――の、ほぼ中央。大陸を南北に分断するエイグロフ山脈の麓《ふもと》を、テオの細い指は指し示す。
「……ここに?」一《 》
「はい、行《 》かなければなりません」
(この辺りは、確《 》か……)
 現在地ウズルダロウムから北上、旧王都コモリオムを通《 》過し、さらに北。
 山脈に遮《さえぎ》られた雨雲が育《はぐく》んだ、広大なゼシュの密林が広がっている辺りだ。危険な生き物
の巣窟《そうくつ》であり、街村どころか、近付く人間とていない。
(こんな所に、何《 》の用があるのだろう)
 当然の疑問《 》が湧き上がる。しかし、テオに聞く気にはなれなかった。
「どうしても……行《 》かなければならないんです」
 彼女の青い瞳に宿る、強《 》い決意の光を見ていると。
(無理に聞《 》かない方が、いいかもしれない)
 第一、自分の目的には、関《 》係のないことだ。そう、自分はただ、少しでも長く、テオと共にい
たいだけなのだから。一《 》
 詮索《せんさく》を躊躇《ためら》ったのは、そんな、邪《よこしま》な想いを隠している、引け目もあったのかもしれない。
「厳《 》しい旅になるでしょう。本当によろしいのですか」
「構いませんよ。密林で珍しい薬《 》草でも採取できれば、儲けものです」
「ありがとうございます、よろしくお願《 》い致します!」
 ……と、見栄《みえ》を切ってはみたものの、想像以上に険しい旅路が、二人を待ち受けていた。
 途中までは、かつてウズルダロウムとコモリオムを結んでいた通《 》商路――今はもう、彼ら以
外に通る者もない――を利用《 》することができた。
 しかし、ゼシュの密林が近づくにつれ、次第に石畳《いしだたみ》は木々の根に引き裂かれ、ついには完全
に密林に飲み込まれてしまう。そこから先は羊歯《しだ》の海を掻《か》き分け、椰子《やし》の天蓋《てんがい》を見上げながら
進まなければならなかった。一《 》
 しかも、密林の剣呑《けんのん》な住人たちが、次から次へと二人を歓迎しに現れる。木々に紛れて襲い
掛かる密林虎《サーベルタイガー》。長大な牙を剥《む》き出す剣牙竜《ティラノサウルス》。邪眼で獲物を呪縛する単眼獣《カトプレバス》……その度に、水晶球の幻影で 追い払《 》わなければならなかった。
(確かに、女性が一人で旅するような所《 》ではないな)
 しかし、予想《 》に反して楽だった点もあった。それは、テオが全く足手まといにならなかったこと
だ。一《 》
 密林の蒸し暑さにも根を上げず、うねる木の根をひらりひらりと乗り越え、崖に行く手を塞《ふさ》が
れた時は、あっという間に登《 》って、エイボンを手助けさえしてくれた。
(逞《たくま》しい女性だ)
 美しく、賢く、しかも強《つよ》い。また一つ、テオの新しい魅力に気付けたことに、喜びを感じるのだ
った。一《 》
 テオと励《はげ》まし合い、支え合い、緑の魔境を進み続けること、三日間。全く変らない周囲の光景
に、方向が合っているのかどうか、自信が無《 》くなりかけていた時だった。
 密林の木々の合間に、それが姿《 》を現したのは。
「エイボン様《 》、あれは?」
「コモリオムの廃墟……方向は正《 》しかったようですね」
 密林に抱かれて、かつての王都の屍《しかばね》は、静かに眠り続けていた。
 さすがに、雑草や蔦《つた》は蔓延《はびこ》り放題だが、“大理石と御影石《みかげいし》の王冠”とまで呼ばれた壮麗な姿
は、ほぼ完璧に保《 》存されている。
 数千の兵士が行進できる大通りに沿《そ》って、イホウンデーの神殿、王立劇場、行政長官公邸
などの、白亜の建造物が立ち並ぶ。その様は、あたかも贅《ぜい》を尽くした王侯貴族の……墓標の
ようだ。一《 》
 いかにかつての美しさを保っていても、廃《 》墟は廃墟。がらんとした街並みに人影はなく、響き
渡るのは、獣や鳥の物《 》悲しい鳴き声ばかり。
 二十三年前、何ゆえ人々がこの都を放棄《ほうき》したのか、正確なことは知られていない。恐ろしい伝
染病のせいだとも、ポラリオンの巫女《みこ》の不吉な予言のせいだともいう。果ては、処刑された盗賊
クニガティン・ザウムの亡霊が、祟《たた》りをなした等という噂もある。
(そろそろ日が暮《 》れるな)
 正直、気味が悪いが、それでも野《 》宿よりは安全だろう。エイボンたちは、適当な民家を今晩
の宿に定《 》めた。
 テオは、釜戸《かまど》がまだ使えることを確認すると、嬉しそうに夕食の支度を始める。彼女は毎食、
携帯食と旅先で手に入れた食《 》材だけで、よくもこれ程と言うぐらい多彩な料理を用意し、旅の 疲れを癒《 》してくれた。
「大変結《 》構でした、テオさん」
「いえいえ、お粗末様《 》でした」
 今夜のメニュー、密林茸《きのこ》と干し肉のスープも絶品だった。
「……テオさんを娶《めと》る男性は、幸せ者ですね」
「え? 何か仰《おっしゃ》いました?」
「い、いえ、何《 》でもありません」
(旅程も、もう半《 》ばか……)
 これまで心の隅《 》に押し込めていた想いが、頭をもたげ始める。
(奇跡に恵《 》まれ、こうしてテオさんと旅をしているが……それも、あと二、三日だ)
 テオを目的地に送り届けたら、今度こそ今生《こんじょう》の別れだ。それを思うと、内臓を捻《ねじ》られるような
痛みを覚える。父や師匠と別れる時にも、同《 》じ痛みを感じた。何度経験しても慣れない、別離 の痛《 》みだ。
(しかし、万《 》が一……)
 それまでに再び、奇《 》跡が起きたら……。
 ――エイボン様《 》、もう一つお願いをいいでしょうか……わたくしと……。
(……拒否する理《 》由は、何も無い)
 自《 》分はもう、魔道士ではないのだから。
 水晶球も、魔《 》道書も全部処分して、魔術とは今度こそきっぱり縁を切って。テオと平凡な幸せ
を築くのも、悪《 》くは……。
 溜息を吐いて、妄《 》想を断ち切る。自分がテオの何だと言うのか。ただの護衛に過ぎないくせ
に……ただの逃亡者に過《 》ぎないくせに。
(すみません、テオさん……あなたを汚《 》して)
「エイボン様、お疲れでしょう。どうぞ、先《 》にお休みになって下さい」
 今は正直、テオの姿を見ているのは辛《 》かった。言葉に甘えさせてもらって、隣の部屋で横に
なった。一《 》

〜5〜
 それは、エイボンがザイラックの館を飛び出す、少《 》し前のこと。
 夜の読書に備えて、屍《 》獣脂のランプに火を灯していた時だった。雑用係の使い魔に、ザイラ
ックが旅から戻ったことを告げられ、慌《 》てて出迎えたエイボンは、大いに驚かされたのだった。
『ついに見《 》つけたぞ!』
 岩より冷静と称される師匠が、子供のようにはしゃいでいた。その手に、奇妙な品を携《たずさ》えて。
 書物……と呼んでもいいものかどうか。紙のように薄い金属板を綴《と》じ、書物のように仕立てて
あるのだ。表紙は、絶滅した首長竜《ディプロドクス》の皮で装丁《そうてい》されていた。
 ザイラックの見立てでは、世界から姿を消してひさ《 》しい蛇人間の魔道士ズロイグムの手になる
魔道書に違《 》いないという。
 太古の世界に、天まで届く塔が林立する都《 》市を築き、異質ながらも壮麗な文明を誇った蛇人
間。その謎が、この書によって解《 》き明かせるかもしれないと、ザイラックは期待していたのだ。
 しかし、なぜだろう。エイボンはどうしても、師《 》匠のように喜ぶことができなかった。金属製の
ページにのたくる、まさしく蛇《 》のような文字を見ていると、悪寒が走るのを止められなかった。
 それからザイラックは、連日連夜ズロイグムの書の解《 》読を続けた。エイボンも手伝ったが、
解読は遅々として進まなかった。無《 》理もなかった。人間とは根本的に精神構造が異なる、蛇人
間の手になる書なのだ。ザイラックが悔しげに漏《も》らした言葉を覚えている。
『字面《じづら》を追うだけでは駄目だ。蛇人間の感覚で考えなければ……』
 ザイラックは、私室に一人で篭《こ》もるようになった。何のためか、一晩中不気味な呪文を詠唱《えいしょう》
し、紫色に沸《わ》き立つ妖しげな薬を調合し……そのあまりの執着ぶりは、エイボンの目からして、 不気味な程《 》だった。
 エイボンの不吉な予感は、ますます高《 》まっていった。しかし、まさか師匠に、解読を止めてく
れと頼む訳《 》にもいかない。そもそも自分にも、一体何がそんなに不安なのか、説明が付かない
のだ。一《 》
 結局、エイボンにできたのは、自習や巻物の整理などで、不安を紛らわしながら待つことだけ
だった。一《 》
 そして、数日後《 》。
 未《いま》だに、ザイラックは私室から出てこない。食事を取っている様子もなく、さすがに心配になっ
たエイボンは、扉《 》をノックした。
 返事はなかった。その代《 》わり……と言ってもいいものか。
 返ってきたのは、しゅうしゅうという奇《 》妙な声と、ずるずるという何かを引きずるような音だっ
た。一《 》
 只事《ただごと》ではないと感じたエイボンは、やむなく開錠の術で扉を開け、中に入った。
『お師《 》匠様、どうなさったのですか……』
 師匠の私室は暗かった。しかし、何かが潜《ひそ》んでいるのを、エイボンは確信した。
 徐々に目が暗闇に慣れてくる……いる……部屋の隅に……光を避けるように蹲《うずく》って……し
ゅうしゅうと奇妙な声を発して……何かを身に纏《まと》っている……エイボンも見慣れた……。
 師匠の長衣《ローブ》だ。
 安堵《あんど》の溜息を吐くエイボン。何を狼狽《ろうばい》していたことやら。この部屋に、師匠以外の何がいると
いうのか。一《 》
『お師匠様、少しはお休《 》みになりませんと……』
 お体に触《 》りますよ、と言いかけて。
 エイボンは絶《 》句した。
 にゅるりとでも擬音を付すべき動きで、それに振《 》り返られて。
 それは、体長五エル(五メートル)を越《 》える大蛇だった。胴の太さも、エイボンと同じぐらいあ
る。一《 》
 それが、ザイラックの長衣を身に付けている。我が物顔で、この部屋に居座《いすわ》っている。
 この状況が何を意《 》味するのか、分かりたくないのに分かってしまった。ザイラックの言葉が脳
裏を過《 》ぎる。
 ――字面を追うだけでは駄目《 》だ。蛇人間の感覚で考えなければ……。
『まさか、お師《 》匠様……!?』
 そう、ザイラックはズロイグムの書を、そして、その基《 》礎となっている、人間とは異なる哲学を
理解するために、自らを蛇《 》人間に近付けようとしたのだ。あの呪文や薬は、そのためのものだ
ったに違《 》いない。 
 しかし……。一《 》
『しゃああ!』一《 》
 鎌首をもたげ、牙から毒液を滴《したた》らせるその様子に、もはやザイラックの自我が、欠片《かけら》も残って
いないのは明らかだった。エイボンは無我夢中で、近くに置かれていた、万《 》物溶解液入りのビ
ンを投《 》げつけた。
 しゃああああ……歯擦音《しかつおん》の断末魔を聞きながら、エイボンは恐れ戦いていた。師匠の変わり
果てた姿に? いや、魔術の業《 》の深さに。
 エイボンとて知ってはいた。魔術とは、便《 》利な召使いではなく、とんでもない高利貸しであるこ
とぐらい。身に余る領域に手を出せば、即座《 》に破滅という名の証文を突き付けられると……そう
教えてくれた師匠に、予想《 》できなかった訳がない。こうなる可能性があったことぐらい。
 承知の上で、己の体と魂を賭《 》けたのだ。全ては、魔術を極めるために。
『そ、そこまでして……』一《 》
 自分に、同《 》じことができるか?
 自問するまでもない、無《 》理だ。
 魔道……そんな、中途半端な覚悟で踏《 》み込むべき道ではなかった。
 完膚《かんぷ》無く打ちのめされたエイボンに選べた選択肢は、ただ一つ。師匠の館から、魔術の道か
ら、全てに背を向けて、逃《 》げ出すことだけだった。

〜6〜
「……イボン様《 》、エイボン様!」
 無明の闇を彷徨《さまよ》っていたエイボンの意識は、己《おの》が名を呼ぶテオの声で目を覚ました。
 とっさに状況が掴めない。ついさっき、師《 》匠の館を飛び出したはずなのに……ここはどこだろ
う、この女性は誰《 》だろう……。
「起《 》こしてしまって、ごめんなさい。ひどく、うなされていらっしゃったもので、つい……」
「あ、いえ……」一《 》
 テオの声を聞いている内に、混《 》乱が収まってくる。そうだ、あれはもう一ヵ月前のこと、とうに
過ぎ去《 》ったこと……の、はずなのに。
(また、あの夢《 》か……)
 これで何度目だろう。あの日《 》を夢に見るのは。
 逃げても逃げても、過去は影のようにぴったりと尾行してくる。無理もない。脇目《 》も振らずに前
進しているならともかく、今の自分は、ただうろうろと逃《 》げ回っているだけ。それでは、過去を振
り切れる訳《 》がない。
 ……無様《ぶざま》の極みだ。
「私は……臆《 》病者だ」
 思わず、そんな独り言を漏《 》らしてしまう。目は覚めても、心は悪夢に、過去に置き去りにされ
たまま。一《 》
「迫害から逃げ、魔術から逃《 》げ……何からも、逃げてばかりだ」
 独り言のつもりだった。当《 》然だ。突然こんなことを言われても、困惑して目を白黒させるのが
関の山《 》だろう。
 しかし、テオは今回も、あっさりエイボンの想《 》像を超えて見せた。
「……逃げることは、悪《 》いことではありません」
 エイボンの肩に、テオのしなやかな手が添《そ》えられる。はっと顔を上げると、テオはただただ、
優しく微笑んでいた。月光を背《 》にしたその姿は、無限の愛をもって、全てを許す女神のようだ。
「逃げた先で見つかる道もありましょう……ただ一つ、生《 》きることからさえ、逃げなければ」
(逃げることは、悪《 》ではない……)
 思ってもみなかった、そんなこと。しかし、他《 》ならぬテオの言葉だからこそ、すんなり受け入れ
られた。一《 》
(そうかもしれない……そのおかげで、テオさんに会《 》えたのだから)
 師匠の館で魔術漬《づ》けの日々を送っていたら、こんな体験は一生できなかっただろう。そう思
えば、逃げたのも無《 》駄ではなかったかもしれない。
「ごめんなさい、お説《 》教じみたことを……」
「いや、ありがとう……おかげで、気《 》が楽になりました」
 自分はずっと、誰《 》かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。自分の弱さを、許してもらい
たかったのかもしれない。一《 》
 ずっと付き纏《まと》っていた過去の影が、すうっと消えていくのを感じる。今、ようやく、本当の意味
で、自分は過去から逃げ果《おお》せたのかもしれない。自分が一ヵ月掛かってできなかったことを、
テオは物の数《 》秒でやって退けた。
(本当に、不思《 》議な女性だ……)
 出会った日にも思ったが、改《 》めてそう思う。どうして、こんなに自分のことを分かってくれるの
だろう。まるで……母親《 》のように。
「テオさん、あなたはなぜ……」一《 》
 堪《こら》えきれず、尋ねようとした、その時。
 テオが、はっと目を見《 》開いた。
「……どうしました?」一《 》
 テオの表情は、緊張に強張《こわば》っている。ついさっきまで、この場を包んでいた安らかな空気は、
一瞬で霧散《 》してしまった。
「外に、何《 》かが……」
 テオの鋭さは、今さら疑うまでもない。旅の間も、幾度《いくど》も猛獣の接近を感知してくれたのだ。
 窓から、そっと外の様子を窺《うかが》い……エイボンは息を飲んだ。
 暗闇に紛れて、何十対もの黄《 》色く輝く目が、周囲を取り囲んでいる。月明かりを頼りに、何と
か正体を判《 》別する。
「ヴーアミ族《 》……!」
 エイグロフ山脈一帯に生《 》息する、毛むくじゃらの人間もどきだ。性質は凶暴で、しばしば集団
で人を襲う。コモリオムはすでに、奴らの巣窟《 》になっていたらしい。
「エイボン様、如《 》何いたしましょう」
 テオは落ち着いていた。自分を信《 》頼してくれているのだろう。それに応えるべく、エイボンは
焦《あせ》りを押し殺した。
「ご心配には及びません。念のため、全ての扉に封印の術を施《ほどこ》してあります」
 鍵を開かなくするだけでなく、扉《 》を鉄のように硬くしてしまう。この術を施された扉を開けるに
は、開錠の術で相殺《そうさい》するしかない。この家は、まさに難攻不落の砦……。 
 そのはずだったのだが。一《 》
 かちゃり。正面玄関の鍵《 》が開く音を、エイボンは確かに聞いた。
(馬《 》鹿な……!?)
 それが幻聴でないことを証《 》明するように、どかんとぶち破るような勢いで扉が開く。
「グギャギャギャギャッ!」一《 》
「ヒャーホホホホホッ!」一《 》
 けたたましい雄叫《おたけ》びを上げながら、ヴーアミ族どもが乱入してくる。その手には、獣の骨を削っ
た槍が握られていた。粗雑《そざつ》な造りだが、エイボンたちを血祭りに上げるには十分だろう。
(なぜ……いや、考えるのは後《 》だ)
 慌てて水晶《 》球を取り出し、起動の呪文を唱える。たちまち、天井一杯にシャンタク鳥の幻が
翼を広げ、不吉な鳴《 》き声を響かせる。
 その恐ろしさは、ヴーアミ族の単純な頭《 》脳にも理解できたらしい。醜い顔を、ぎくりと強張ら
せ、じりじりと後《 》退し……。
「ウジャタ、バオバブピタ!」一《 》
 後退がぴたりと停まる。奴らの背後から発せられた、意《 》味不明の怒鳴り声によって。
(……まさか)一《 》
 嫌な予感は的中した。ヴーアミ族の一匹が、シャンタク鳥《 》の幻に骨槍を投げつける。
 無論、あっさりすり抜けて、突《 》き刺さったのは天井にだ。
(ばれた!?)一《 》
 見ると、ヴーアミ族の群れの中に、異彩を放つ一匹がいる。獣の頭蓋骨《ずがいこつ》を被り、鳥の羽で飾り
立て、捩《ねじ》くれた木の杖を振りかざしている。
(しまった、呪《まじな》い師がいたのか)
 普通のヴーアミ族は、猿よりは賢い程度だが、ごく稀《まれ》に高い知能を備えた個体が現れること
がある。そういった“天才”は、群《 》れの頭となり、時には魔術すら操るという。
 当然、幻と実体の見分けなど、朝《 》飯前だろう。さっきの怒鳴り声の意味は、おそらくこうだ。
 騙《だま》されるな、それは幻だ!
(封印の術を破《 》ったのも、こいつか)
 扉が開いた時点で、予想すべきだった。己の迂闊《うかつ》さを呪っても、もう遅い。ヴーアミ族どもは一
転して調子付き、嘲《あざけ》るような叫びを合唱しながら、二人を取り囲む。
 慌てて青銅の剣を抜くが、こんな物でどこまで持ち堪《こた》えられるか。
「エイボン様《 》!」
「テオさん、私が時間を稼《かせ》ぎますから……!」
 あなただけでも逃げてくれと叫ぶ暇もなく、数十本の骨槍がエイボンに殺到《さっとう》する。思わず、ぎゅ
っと目を閉《 》じてしまう。
 時が引き伸ばされ、一瞬が永《 》遠と化す。まるで、死ぬ前に、たっぷりと後悔させようとしてい
るかのように。一《 》
(ああ、やはりちゃんと修《 》行を続けていれば、こんな事には……いや、私の事はいい。気の毒
なのは、テオさんだ。私のような半《 》端者を、護衛にしてしまったばっかりに……)
 幻の未来が、脳裏を過ぎる。もうすぐ、槍が自分を貫く。血飛沫《ちしぶき》と共に、穴だらけにされる自
分。そして、数秒後には、テオも同《 》様に……。
 ――しかし。一《 》
 彼女は、いつだって、エイボンの予想を、覆《くつがえ》し続けてきたのではなかったか……。

「見《 》られたくなかった……あなたにだけは」

(……え?)一《 》
 ひゅんっ! 何かが、疾風を伴《ともな》って、エイボンの横を通過する。そして……。
「ギャ―――ッ!?」一《 》
 ヴーアミ族どもの叫びが、時の呪《 》縛を打ち砕く。
(……何《 》だ?)
 困惑するエイボン。人間《 》の耳でも、十分聞き分けられた。その叫びは、勝利の雄叫びなどで
はなく……悲《 》鳴だった。
 恐る恐る開いたエイボンの瞼《まぶた》が。
「!?」一《 》
 驚愕《きょうがく》で見開かれる。
 今まさに、自分を穴《 》だらけにしようとしていたヴーアミ族どもの全身に、何かが巻きついて動
きを封じている。黄《 》金に輝く、細長い何かが無数に……どこから伸びているのか、思わず追っ
たエイボンの視線が辿《たど》り着いたのは。
 自分の、すぐ横《 》だった。
(テオ……さん?)一《 》
 エイボンは我が目を疑《 》った。
 テオの黄金の髪が、無限長に伸《 》びて、ヴーアミ族どもをがんがら締めにしていたのだ。
 ヴーアミ族どもは必死で身を捩《よじ》るが、テオの髪はびくともしない。それどころか、大蛇の如く蠢《うご》
きながら、さらに強く、みしみしと締《 》め上げ……。
 ぐしゃり!一《 》
 潰《つぶ》した。熟れたスヴァナ果の如く、いとも易々と。
 さああと降り注ぐのは、文字通りの血《 》の雨。
「お退《ひ》きなさい。さもなくば、このようになりますよ」
 原型を留めていない死体を、残りのヴーアミ族の前に放り出して、脅《 》しつける。仮面のような
無表情で、あくまで淡《 》々とした口調で。
 その姿は、あたかも美しくも無慈悲な、殺戮《さつりく》の女神。
 ぐにゃあと視界が歪む。目は確かに眼前の光景を映《 》しているのに、心がそれを受け止め切
れていない。一《 》
 結果、認識のずれが生じ、そんな感覚《 》を引き起こしているのだ。
(テオさん……なのか、あれが?)一《 》
 彼女でなければ、誰《 》だと言うのだ。
 という、理性の諭《さと》しはあまりにか細かった。無理もない。誰に想像できよう。 普段の彼女か
ら、今の彼《 》女が。
(あなたは、一体《 》……)
「ヒ、ヒ―――ッ!?」一《 》
 ヴーアミ族どもの醜い顔が、ああまで見《 》事に恐怖を表現できるものか。ばらばらと骨槍を投
げ出し、後ずさり始《 》める。
 いや、一匹だけ踏《 》み止まっているのがいる。あの呪い師だ。
「グギャー! ウルダ、ヤシムダ!」一《 》
 逃げるな、命令だぞ、とでも言っているのだろうか。本《 》音は自分も逃げたいのかもしれない
が、ヴーアミ族にも面子《めんつ》というものがあるらしい。
 その手に握る杖に、ばちばちと青白い電《 》光が宿る。元素の矢の術だ。直撃すれば、竜すら
倒す。しかし、それを放つことは叶《 》わなかった。
 百条に分かれてのたうつテオの髪《 》の一条が、ざびゅっ! 死神の大鎌と化して、呪い師ヴー
アミの首を薙《な》ぐ。
 一瞬後、そこに立っていたのは、ぴゅいいと笛《 》のような音を立てて血を噴出す、首無しの骸《むくろ》
だった。一《 》
 指導者の無残な最《 》期に、ヴーアミ族の士気は、今度こそ崩壊した。悲鳴を上げ、我先にと密
林に逃げ散《 》っていく。
 それを見届けて、テオの髪《 》はしゅるしゅると元の長さに戻っていく。獲物を平らげて満腹した
蛇が、巣穴に引《 》っ込むように。
 何《 》とおぞましい。
(違《 》う……こんなものが、テオさんであるはずがない……)
 どこへ行ってしまったのだ。自分の過《 》去を受け止め、癒してくれた、あのテオは。

〜7〜
 これは、テオではない。一《 》
 知らない間に、外見だけはそっくりな、別《 》の何かと入れ替わったのだ。
 その解釈《かいしゃく》の方が、まだ受け容《い》れ易《やす》かった。しかし……。
「……黙《 》っていて、ごめんなさい」
 振り返ったテオは、間《 》違いなく、エイボンの知っているテオと同一人物だった。
 テオは、胸《 》に刃でも突き立てられているかのような表情だった。月光を背にしたその姿は、散
り逝《ゆ》く花のように儚《はかな》げで……これこそが、彼女の本当の姿なのだと信じたかった。
 しかし、その黄金の髪《 》には、べったりとヴーアミ族の血がこびり付いている。あの光景もま
た、間違いなく現実《 》だったのだ。
「…………」一《 》
 エイボンは沈黙を破れない。自分の口からどんな言《 》葉が飛び出すか、自分でも分からなく
て。一《 》
 そんなエイボンとは対照的に、テオは淡《 》々と告白を続ける。まるで、観念した罪人のように。
「御覧になった通りです。わたくしは、人ではありません。この姿は、擬態《ぎたい》に過ぎません」
 テオは、そっとその細い腕を上げ……めきめきと変形させる。白《 》い肌が硬質化し、指が一体
化し……一瞬後、それは全長1エルにも及ぶ鋏《はさみ》になっていた。
 思わず息を飲むエイボン。髪《 》だけではなかった。細胞の一つ一つからして、人とは違ってい
るのだ。一《 》
「なぜ、私を同《 》行させたのですか……」
 半ば麻痺《まひ》した喉《のど》を、無理矢理動かして、何とかそれだけは訊くことができた。護衛のためでは
ないのは、もう分《 》かっている。そんなもの、テオには必要ないだろう。
「……父から、逃《 》げたかったのです」
 ぴくり、エイボンの肩《 》が震える。
 逃げる。あまりに馴染《なじ》み深い言葉を、テオの口から聞いて。
 あえてそうしているのであろう、感《 》情を込めない淡々とした声で、テオは語った。
 テオの父親は、あまりにも心が狭《 》かった。
 子供を自分の一部《 》としか見ず、一切の自由を認めない。そんな父の元での生活に嫌気が差
し、逃げ出《 》してきたのだという。
「あの……あなたの“父《 》上”というのは……」
 薄々分かってはいたが、口を挟《はさ》まずにはいられなかった。
「ええ……便宜《べんぎ》上、そう呼んでいるだけです。あの方は……ごめんなさい。人の言葉では、上手く
表現できませんわ。ただ、この《・・》わたくしの生みの親、としか……」
 ぎゅっと我《 》が身を抱えるテオ。その顔が青ざめて見えるのは、決して月光のせいばかりでは
ない。一《 》
 思わず唾《 》を飲み込むエイボン。凶暴なヴーアミ族を、虫けらのように潰してみせたテオが…
…一体、彼女の“父親”とは、何《 》者なのか。
「父は執《 》念深い方です。逃げ続けても、いずれは見つかる……そう考えたわたくしは、ツァトゥ
グァ神を頼《 》ったのです」
「ツァ……トゥグァ?」一《 》
 そんな名前の神《 》、聞いたこともない。
「はい。またの名をゾタクア。聖なる蟇蛙《ひきがえる》、暗黒の深淵を統《す》べるもの、惰眠《だみん》を貪《むさぼ》りながら全てを
知るもの……古い古い、忘《 》れられた神です……」
 ツァトゥグァ、何と奇《 》怪な名だろう。まるで、人間の声帯で発することを、前提にしていないか
のような……。一《 》
「ツァトゥグァは、わたくしにこの首《 》飾りをお授けになり、エイグロフ山脈の麓、自らの聖地に向
かうよう指示《 》されました」
 テオの胸元で、あの、太った蛙《 》とも、羽のない蝙蝠ともつかない生き物を形象にした飾りが、
ぬめりと輝く。あるいは、ツァトゥグァ御《 》大を形取っているのかもしれない。
(この形《 》、やはりどこかで……)
 初めて見た時、そう感《 》じたのは……。
(そうだ、思い出《 》した……!)
 やはり、思《 》い過ごしではなかった。
 記憶はエイボンが幼《 》い頃、父ミラーブがまだ、イックァの街で文書管理官をしていた頃まで
遡《さかのぼ》る。
 ミラーブの趣味は、古代の伝《 》承の研究だった。そのために集めていた古書の中に、ちらりと
だが確かに見《 》たのだ。
 原料不明のインクと、おどろおどろしい筆《 》使いでもって、その奇怪な姿が描かれているのを。
(あれがツァトゥグァだったのか)一《 》
 イホウンデー神官たちは、それを異端の証《 》拠とでっち上げ、ミラーブを追放させたのだ。
 そのツァトゥグァと、こんな形で再《 》び巡り合うとは……これも運命なのか。
「聖地にこの首飾りを捧《ささ》げ、儀式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥ
グァは仰いました。しかし、儀《 》式にはどうしても、魔道士の方の補助が必要なのです」
「……それで、私《 》を?」
「はい……打ち明《 》けるべきだとは、何度も思いました。しかし、その場合、自分のことや、父の
ことも話さなければならず……どうしても言《 》えなかった」
 テオは、悲しげな微笑みを浮かべる。祭壇《さいだん》に向かう、生贄《いけにえ》の乙女のように。
 ――恐ろしいでしょう? 騙していたのかと、お憤《いきどお》りでしょう? それでいい。それが人として、
当然の反《 》応……だから。
『どうぞ、お逃《 》げ下さい』
 テオの声無き声《 》を、エイボンは確かに聞いた。
 変わり果てた師匠を目にした時にも感じた、動《 》物的な逃走本能が沸き起こる。足が勝手に動
き出す。テオに背中を向けたくなる。そのまま闇雲《やみくも》に……。
 ……逃げ出そうとしたエイボンの脳《 》裏を、テオの言葉が過ぎる。
『……父から、逃《 》げたかったのです』
(そうだったのか……)一《 》
 彼女もまた、逃亡者だったのだ。横暴な父から、呪われた出自《しゅつじ》から、必死で逃げ続けていたの
だ。一《 》
『逃げることは、悪《 》いことではありません』
(だからだったのか……)一《 》
 彼女も知っているのだ。寄《よ》る辺《べ》も無く、先の見えない逃亡の日々の心細さを。それでも、逃げ
ざるを得なかった者の悲《 》哀を。
(この人は……)一《 》
 自分と同《 》じだ。
 ふわふわと、足が浮かぶような感《 》覚が徐々に消え……しっかりと、両足で大地を踏みしめ
る。一《 》
「逃《 》げたくない……」
 気が付くと、エイボンはそう言っていた。テオが、はっと顔《 》を上げる。
「逃《 》げたくありません」
 今度は、意識して言葉にする。そうしてみて、確信した。それが偽《いつわ》らざる本音であることを。
「逃《 》げてもいい、そう言ってくれた、あなたからは……」
 ……逃《 》げたくない。
 矛盾? いや、少なくとも、エイボンにとっては、矛《 》盾などしていない。
 そうだ。テオはあの言葉で、自《 》分を過去から解き放ってくれた、恩人ではないか。その彼女か
ら逃げるということは、彼《 》女が与えてくれた救いからも、逃げ出すということだ。
 それだけは、できない。一《 》
「手伝わせて下さい。あなたの逃《 》亡を」
「エイボン様《 》……」
 テオの瞳は、期待と自制の狭間《はざま》で、激しく揺れている。自分のためではない。エイボンのため
に、迷《 》っている。
「信じて頂けるのですか……ずっと黙《 》っていたのに」
「私が訊《き》こうとしなかったからです」
「わたくしは、怪《 》物なのですよ……」
「でも、私を救《 》ってくれました」
 テオは何度も促《うなが》した。無理しなくていい、逃げてもいいと。
 だが、やがて彼女にも分かったようだ。逃げないという誓いに報《むく》いる、最善の方法、それは。
「……分かりました。わたくしも、あなたを信《 》じます」
 自分も、逃《 》げないことだと。
「ありがとうございます、エイボン様《 》……本当に」
「何、逃亡者同士、困った時はお互い様《 》ですよ」
「はい! 改《 》めて、よろしくお願いいたします!」
(テオさん、あなたはこうも言《 》いましたね)
 さすがに照れ臭くて言えなかった事を、心の中だけで反芻《はんすう》する。
『逃げた先で見つかる道もありましょう……ただ一つ、生《 》きることからさえ、逃げなければ』
(だから、逃《 》げません。あなたからだけは)
 どうしても、逃《 》げられないものと出会う時。
 人は、それを運《 》命と呼ぶのかもしれない。

〜8〜
 かくて、それからも、二人の旅《 》は続いた。
 しかし、これまでに比べれば、遥《 》かに楽な旅路だった。他でもない。テオが最早、正体を隠す
必要がなくなったせいだ。何が襲《 》って来ようが、どうにでもなった。
「エイボン様《 》、危ない!」
 どしゅうっ! 刃物状に変形させた腕を一《 》閃、巨大タランチュラを真っ二つにするテオ。
「ご安心下さい。あなたは、わたくしがお守《 》りします」
「た、助《 》かります」
 にっこり微笑むテオを、頼もしいと思う反面《 》、少し……いや、本当にほんの少しだが、怖いと
思ってしまったのは、まあ不可抗《 》力と言うべきか。
 そして、コモリオムの廃《 》墟を出て、三日後の夕刻。
 二人は、ついに目的地に辿《 》り着いた。
「ここが……?」一《 》
「はい、今は失われた民が、ツァトゥグァに祈りを捧《 》げた聖地……ついに辿り着きましたわ」
 そこは、密林を見下ろす、小高い丘だった。頂《 》上には、明らかに人工物……少なくとも、知性
ある何者かの手になる石柱が、円を描いて並べられている。その表面には、奇怪だが精緻《せいち》な紋
様が、隙間なく刻《 》まれていた。
 地平線に目を向ければ、黒《 》々としたエイグロフ山脈が、まるで壁のように密林を遮っている
のが見える。その中でも、一際《ひときわ》天高くそびえるのは。
(ヴーアミタドレス山《 》……)
 大陸の最高峰、その名は、山中の洞《 》窟に群れるヴーアミ族にちなむ。他にも、知られざる脅
威が多数潜むと言われ、有名な探険家ラリバール・ヴーズ卿《きょう》も、かの山に挑んで消息を絶って
いる。一《 》
「それで、儀《 》式とは、何をすればいいのですか」
 問《 》いかけるエイボン。
 しかし、返《 》事はない。
「……テオさん?」一《 》
「……あ、はい、ご説《 》明いたします」
 はっと我に返るテオ。直《 》前まで彼女は、夕焼けに燃え上がる空を、ぼんやりと見つめていた。
(テオさん……)一《 》
 エイボンの脳裏に、昨《 》晩の出来事が過ぎる。
 焚《た》き火の前で、地図を見ていた時だった。この調子なら、明日の夕方には目的地に着けるこ
とを確認し、テオにもそう告《 》げたのだ。
 てっきり、輝くような笑《 》顔を返してくれるものとばかり、思っていたのに。
『……はい、エイボン様《 》のおかげですわ』
 テオの笑顔は……強《 》張っていた。
 その時は、揺らめく焚《 》き火のせいで、そんな風に見えたのだと思っていたが……見間違いで
はなかった。目的地が近付くにつれ、テオの顔の陰《かげ》りは、どんどん濃くなっていった。
 そして、今。テオは、最早《もはや》、作り笑顔さえ浮かべられない様子だった。
(一体、どうしたのだろう。全てを打ち明けて、迷《 》いは消えたはずでは……)
 今さら彼女を疑う気など、毛頭《もうとう》無いが……訊こうとしたエイボンの機先を制するように、テオが
歩み出《 》る。
 円を描く石柱群の中心には、石の台座が鎮座《ちんざ》している。何やら、黒い染みで汚れているその
上に、ツァトゥグァから授かったという、あの首飾りを供《そな》える。
「難しくはありません。意識をこの首飾りに絞り、わたくしに続いて、ツァトゥグァへの祈祷《きとう》文を
唱えて下さい。さすれば、首飾りと聖地の魔力が共《 》鳴し、遥かなるサイクラノーシュへの道が開
かれます」一《 》
(サイクラノーシュ……!?)一《 》
 平然とテオが口にしたその言葉に、エイボンは愕然《がくぜん》とする。
 サイクラノーシュ……師匠の蔵《 》書、それもとりわけ古く貴重なものの中に、その名はひっそり
と記されていた。異形の神々と、その眷属《けんぞく》が住まうという、伝説の星だ。
 エイボンにとっては、実在すら定かでない存在。しかし、テオがそんな法螺《ほら》を吹くはずがない。
「さすがの父も、サイクラノーシュまでは、追《 》って来られないでしょう。わたくしも、一安心ですわ」
(……え?)一《 》
 どくん。エイボンの心臓が跳《 》ね上がる。
『聖地にこの首飾りを捧げ、儀《 》式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥ
グァは仰《 》いました』
 そうだ、テオは確《 》かにそう言った。
(永遠に父から逃《 》げられる……こういう意味だったのか)
 どくん、どくん。心臓が早《 》鐘のように鳴る。
 無論、不吉な予感《 》に。
(永遠《 》に……)
「それでは、お願《 》いします。イア! イア! イア! グルフ=ヤ、ツァトゥグァ!」
 テオは早くも、祈祷文を唱え始める。まるで、考える隙《 》を与えまいとしているかのように。
他にどうしようもなく、エイボンも後に続く。テオは背を向けていて、その表《 》情を窺うことはできな
かった。一《 》
「イア! イア! イア! グノス=イカッガ=ハ! ツァトゥグァ!」一《 》
 何語なのだろう。ツァトゥグァの名以外は、全く意味が分からない単語の羅《 》列。間違えまい
と、必死で唱え続け……どれぐらい、続《 》けた時だったか。
 突如、凄まじい風が巻き起《 》こった。
 いや、本当に風なのか。木の枝がへし折れ、小石が舞う程の強《 》さなのに、なぜか、自分の長
衣やテオの髪は、そよとも揺れない。それもそのはず。石柱群の周囲だけは、凪《なぎ》のように静か
なのだ。一《 》
 不思議な暴風は、上空の雲すら渦《 》巻かせ……。
(いや、違《 》う、あれは……)
 それに気付けたのは、魔道士の直感だろうか。雲《 》が渦巻いているのではない。空間そのも
のが、渦巻状に捩《ねじ》れているのだ。風のように見えるのは、空間の捩れに伴う、重力の変化だ。
「イ、イア! イア!」一《 》
 必死で唱え続ける内にも……そう、奇跡と呼ぶべき事《 》態は、進行していく。捩れの中心が、
ぼこりとへこみ、巨大な穴《 》になり……。
(あれは……まさか……!?)一《 》
 空に開いた穴の向こうに、エイボンは確かに見《 》た。巨大な輪を抱いた、奇怪にして神々しい
その姿《 》を。
(サイクラノーシュ……神《 》々の住まう星) 
 そして。一《 》
 テオの足が、ふわりと浮《 》かび上がる。そのまま、サイクラノーシュへ向かって……。
「イア! イ……ま、待《 》ってくれ!」
 エイボンは、思わず叫《 》んでいた。
 祈祷を中断した途端、世《 》界はあっという間に、元の姿に戻った。空間の捩れは正され、穴は
塞がり、テオはすとんと地《 》に降り立つ。
 テオは……なぜか、怒《 》りも驚きもしなかった。
「す、すみません! ですが、一つだけ教《 》えて下さい。サイクラノーシュへ渡った後、再びこちら
へ戻ることは可《 》能ですか?」
 テオは、なぜそんなことを訊くのかという顔《 》を……しなかった。
「おそらく……無《 》理です」
 それを聞いた瞬間、エイボンは全てをかなぐり捨《 》てていた。恥も外聞も、建前も理性も。
 残ったのは、ありのままの心《 》のみ。
(嫌だ……テオさんと、二《 》度と会えなくなるなんて!)
「テオさん、無理を承知でお願いします! この星《 》に残ってくれませんか!? その代わり、私
が必ず、父上からお守《 》りします!」
「エイボン様《 》……」
 そう……あのテオが、気付いていない訳《 》がない、エイボンの思いに。
 そして、彼女自身も迷《 》っているからこそ。
「わたくしも……あなたと共《 》にいたい」
 こんなににも、苦《 》しそうなのではないか。
「ごめんなさい、エイボン様……信《 》じると言っておきながら、わたくしは、まだ隠し事をしていまし
た」一《 》
「……テオさんは、何も隠《 》してなどいませんよ」
 そう、確かに彼女は言った。ここに来れば、永《 》遠に父から逃げられると。ただ、彼女は気付い
ていなかっただけなのだ。一《 》
 逃亡の代償《だいしょう》に、失うものがあることに。
 そう、代償《 》のない逃亡など、有り得ないのだ。
「父から逃げ、自《 》由になる……それだけが、わたくしの生きる目的でした。しかし、わたくしは、
自分が思っているより、遥《 》かに欲深かったようです」
 テオは、夢見る少女のような瞳で語《 》る。自分には、未来には、無限の可能性があるのだと、
心から信《 》じているかのような。
「もっと、色々な場所を旅したい。色《 》々な経験をしてみたい……あなたと共に」
「ええ、私《 》もです。ですから……」
「でも、無《 》理なんです!」
 一転、悲《 》痛な叫びが、全てを遮る。エイボンの言葉も、思いも。
「そんなことをすれば、あなたを絶《 》対の危機に巻き込んでしまう……なぜなら、わたくしの父は
……」一《 》
 テオが言いかけた、その時《 》――。
 ――ずんっ、と突き上げるような衝《 》撃が、二人を襲った。密林の鳥たちが、一斉に羽ばたく。
「な、何《 》だ……?」
 大地が震《 》えている。あたかも、これから起こる事に、恐怖しているかのように。
 高い場所から俯瞰《ふかん》していたため、木々の揺れ方で分かった。震動の中心は……。
(ヴーアミタドレス山《 》か!?)
 ばりばりばりっ! 雷鳴のような轟音と共に、ヴーアミタドレスの山肌に、幾本もの亀裂《きれつ》が走
る。一《 》
(噴火? いや、あの山《 》は、火山ではないはず……)
 エイボンの記憶は正しい。その証拠に、亀裂から、天を衝《つ》く勢いで噴出し始めたのは、溶岩
ではなかった。一《 》
 得体の知れない、灰色の粘《 》液だった。
「あ……あ……」一《 》
 テオがよろめく。一《 》
「テオさん!?」一《 》
 慌てて支えるエイボン。テオの顔は、蒼白《そうはく》だった。彼女の顔色の意味が、人と同じなのかは定
かでないが、それだけは見《 》間違えようがない。
 その瞳を塗り潰す、絶《 》望の色だけは。
 灰色の粘液は、雪崩《なだれ》と化して山肌を下り、その麓に灰色の湖を形成していく。そして……ざわ
ざわざわ……。一《 》
「!!」一《 》
 湖が動《 》き出した。
 津波のように、密《 》林を削り取りながら、最高級の走竜の、さらに十倍近い速度で……間違い
ない、真っ直ぐにここを目《 》指している。
 有り得ない、自然の動《 》きなどでは。
 ――意思がある、生《 》きているのだ。
 跪《ひざまず》け、平伏《へいふく》せよ。執拗《しつよう》にそう命じる本能に、エイボンは必死で抗う。恐怖……ではない。こ
れは畏怖《いふ》。人が、上位の存在に対して抱《 》く感情。
 例えば、神《 》に対して。
 押し潰されそうなエイボンに、テオの呟きが止《とど》めを刺す。
「見つかってしまった……お父様《 》に……」
「父親《 》……あれが!?」
「はい、全ての不《 》浄なるものの父にして母、アブホース……わたくしの、生みの親です……」
 呆然と、生ける灰色《 》の湖を見下ろすエイボン。テオの“父親”……人であろうはずがないとは
思っていたが、まさかあんなものだったとは。一《 》
(守《 》るだと……あんなものから、どうやって……?)
 笑うしかないエイボン。知らなかったとは言え、何と滑稽《こっけい》だったことだろう……テオもよく、真面
目に聞《 》いてくれたものだ。
 ぼこぼこぼこ……湖《 》面、いや、アブホースの表面の、至る所が盛り上がり、形を変えていく。
 それらは、獣《 》に似て。あるいは、昆虫に似て、魚介類に似て、植物に似て。しかし、同じ形の
ものは、一《 》つとて無い。
(子供《 》、なのか……アブホースの……ま、まさか)
 他に考えようがない。テオも、ああして生《 》まれたのだ。
 爆発するように込み上げてきた吐き気《 》を、死に物狂いで堪えるエイボン。当然だ。そんな事
をしたら、テオは……。一《 》
 ……ただ、微笑みを浮かべるだけだろう。そして、全てを許《 》してくれるのだろう。傷付いてな
ど、いない振《 》りをして。
 アブホースの子供たち――つまり、テオの弟《 》妹なのか――は、親から這い出ようと、未発達
な手足《 》でもがくが。
 ぎぇぇぇ……ぐぇぇぇ……ぎょわぁぁぁ……。一《 》
 それは叶わず、アブホースが伸ばした触手に捕《 》まり、あるいはぱっくりと開いた口に飲み込
まれ、あまりに短い生《 》涯を終える。
 テオが言った通りだった。子供に一切の自由を認めない、不寛容《ふかんよう》極まる親神アブホース。
(も、もう、あんな所《 》まで……)
 アブホースはすでに、ヴーアミタドレス山とここの中《 》間点に到達しようとしている。彼が通った
後には、草一本残《 》っていない。
(とても逃《 》げられない……ならば、せめて)
 もう一度儀式を行い、テオだけでも……そう覚《 》悟を決めて、振り返ったエイボンが見たのは。
 輝くような、テオの笑顔だった。これまでの中でも、最《 》高の。
「エイボン様……今《 》まで、ありがとうございました」
 なぜ、そんな顔《 》ができるのか、エイボンには分からなかった。なぜなら……。
「わたくしは、父の御許《みもと》へ戻ります」
 ……彼《 》女が、そう言おうとしているのが、分かったから。
「まだ遅くはない! もう一度《 》儀式を……!」
「その後、エイボン様《 》はどうなりますか?」
 ぐっと言葉に詰まるエイボン。彼《 》の覚悟など、テオにはお見通しだった。
「それに、犠牲《ぎせい》がエイボン様だけで済むかどうか。もし、わたくしを逃した父が、怒りに任せて暴
れたら、大《 》変なことになります」
 テオの言うとおりだ。あんなものが、ウズルダロウムに辿《 》り着いたら……今度こそ、王国の歴
史は終《 》わる。
「いいのです。短《 》い間でしたが、人として過ごせて、テオは幸せでした」
 どうしようもない、これ以上は、何《 》を言っても子供の駄々だ。分かってはいるが、言わずには
いられない。一《 》
「生きることからだけは、逃《 》げてはいけない! そう言ってくれたのは、テオさんじゃないですか
……」一《 》
「ええ、逃《 》げませんよ」
 え? 思《 》わずきょとんとしたエイボンの前で。
 テオは背《 》中から、白い翼を広げ。
「最《 》後の最後まで生きます。あなたとの思い出を胸に」
 流星のように、夕焼けに燃える空に飛び立つ。その姿は、なるほど、神の娘に相応《ふさわ》しい美し
さで――。一《 》
 ――がばりと開いたアブホースの口に、その姿《 》が消える瞬間も、エイボンは一言も発するこ
とができなかった。一《 》

〜9〜
 どれぐらい、そうしていたのだろう。一《 》
 エイボンは呆然と、ヴーアミタドレス山に引き返《 》していくアブホースを見つめていた。
 目的さえ果たせば、他のものに興《 》味はないらしい。増してや、エイボンのことなど、気付いて
さえいないだろう。人が、環《 》境中の微生物に気付かないのと同様に。
 無価値、ゆえに無視《 》。
 人が神に滅ぼされずにいるのは、たったそれだけの理《 》由でしかない。
「人は……私は……何と無《 》力なのだろう」
 がくりと膝を突くエイボン。突いているのは、大地にではない。神の掌《てのひら》の上にだ。もし、何かの
気まぐれで、握り締められでもしたら、いともあっさり潰《 》されるだろう。
 逃げることすら、叶《 》わずに。
(テオさんも逃げられなかった……逃《 》がしてやれなかった……)
 ツァトゥグァの首飾りが、祭壇に残《 》されている。それだけが、テオがこの世にいた証……。
(それだけ……?)一《 》
 本《 》当に……?
(いや、そうではない)一《 》
 だとしたら、この痛みは何だ。この、内《 》臓を捻られるような、別離の痛みは。
(私は、彼女を覚《 》えている)
 そして、おそらく、この世で唯一、彼《 》女の真実を知っている。
 温《ぬく》もりも痛みも、全て彼女が残してくれたものだ。
(これだけは、奪《 》わせはしない……たとえ、神にも)
 立ち上がるエイボン。たったそれだけのことに、凄《 》まじい気力が必要だった。それでも、彼は
やり遂《 》げた。
(逃げ切《 》ってみせる!)
 テオの思い出《 》と共に。
 テオが、最後の最《 》後まで、そうしてくれたように。
 彼は気付いているのだろうか。逃亡者と呼ぶには、あまりに強い光が、己の双眸《そうぼう》に宿ってい
ることに。一《 》
(そのためになら、何でも利用してやる……一度は逃《 》げ出した魔術の道でも、同じ神の力で
も!)一《 》
 ツァトゥグァの首飾りを握り締める。耳まで裂《 》けたその口が、不敵に笑っている。エイボンの
覚悟を、面《 》白がるように。
 エイボンは思った。師匠の館《 》になら、この神について記した書物が、残されているかもしれな
いと。一《 》

 ・一《 》
 ・一《 》
 ・一《 》
 ・一《 》
 ・一《 》
 ・一《 》









 それから、百数十年後《 》――。
 サイクラノーシュの、金《 》属の大地にて。
 ツァトゥグァの首飾りを手に、空に輝《 》く大いなる輪を見上げながら、エイボンは呟いた。
「見ているか、テオ……ここには、頑迷な神官どもも、忌《い》まわしきアブホースもいない。我らは
――自由《 》だ」

〜Fin〜