〜1〜
ハイパーボリア…… 
永遠の氷河に もれし、失われた大陸
百の魔道士が術を振るい、千の奇跡が顕現けんげんせし、魔法の王国
彼の地がつむぎしは、栄光と破滅、賢者と愚者の物語
神官はおごり、魔道士は邪神にまみえ、コモリオムの都は栄え、そして滅びた
劫初ごうしょの記憶を伝える、 断の書のみがその名を記す
ハイパーボリア…… 風の向こう側

「ゾグトゥク……イフフクシ……ンバアスムル……」 
 エイボンの口がつむぐ呪文に呼応して、水晶球は妖しく輝き始める。
 そこらの店で売っているような、 物のガラス球ではない。古の魔物の眼球が鉱物化したも
ので、伝説の 道士ゾン・メザマレックその人が使っていた品だ。
「おお、真実の目よ、ありうべからざるものの名において命ず、い寄る混沌の名において命
ず、暗きハンの名において命ず…… を越え、空を越え、真実を映せ……」
 呪文が進むにつれ、輝きはますます強く、そして禍々まがまがしくなっていく。凶兆を告げる極光オーロラのよう
な輝きが、薄暗い天幕テントの内部を地獄さながらにいろどる。 
 そして……。 
「アハト!」 
 起動の呪文と共に、水晶 の内部に、ぼんやりと真実が浮かび上がる。すなわち……。
「…… だな」
 次のけ競争で、その色の走竜が一着でゴールしている様子を。
「ひゃっほう! これでまた大もうけだぜ! ありがとうよ、魔道士さん!」
 客のチンピラは、エイボンに5パズール金子きんすを放り投げると、小躍りして天幕を飛び出して行っ
た。 
 それを見送りながら、エイボンは重い溜息ためいきをついた。客に対してではない。おのれに対してだ。
「魔道士など恐れ多い……私はただの 習いくずれだよ」
 魔術のマの字も知らないチンピラに分からなかったのも無理はないが、四回目の大はらいを迎
えて三年(二十三歳)の若造が、一人前の称号 である魔道士を名乗れる訳がない。本来ならま
だ、師の下で修行にはげんでいるべき身だ。
 事実、つい一ヵ月 まではそうしていたのだ。
(師匠が今の私をごらんになったら、どう思われることやら)
 “荒野の大 道士”ザイラック。
 王国一と噂される腕前と、いかなる権力にもびず、ムー・トゥーランの荒野にて孤高を貫く
生き様から、その二つ名で呼ばれるかの 物が、エイボンの師匠だった。
 ザイラックが噂にたがわぬ魔道士であることは、半人前のエイボンから見ても明らかだった。
 異形の魔物を自在に使役し、ひつぎで眠る木乃伊ミイラから上古の秘密を聞き出し、肉体から魂を解き
放って星の世界を訪れるぐらい、ザイラックにとっては日常茶飯事にちじょうさはんじだった。
 師匠のようになりたくて、エイボンは日々、ザイラックの黒片麻岩くろへんまがんの館で修行に励んだ。
 しかし、 れもしないあの日……。
 エイボンは回想を中断した。あまり思いめぐらすと、また夢に見てしまう。
 ともあれ、師の を飛び出したエイボンは、そこから少しでも遠ざかろうと、ウズルダロウム
の路地裏にもぐり込んだのだ。
 それから一ヵ月、師の館から持ち出した水晶球で、詐欺さぎの真似事をして糊口ここうをしのぐ毎日を
送っている……こんな使われ方をして、水晶球もさぞ不本意ふほんいであろう。
 それからも、しばらく待ってみたが、客は来なかった。今日はこれぐらいにして、宿 に引き上
げようかと考えたその 
 どやどやと騒々しい 音が近づいてきたかと思うと、天幕が乱暴に開けられた。
「てめえか、こいつにインチキやらせてやがったのは!」 
「ひいぃ、教えたんだから、 してくれぇ〜」
 怒りの形相でめ寄る男たちの後ろでは、ついさっき来た客が、荒縄で縛られて転がされて
ている。どうやら、ばれてしまったようだ。 
「おかしいと ったぜ。いつもこいつばかり、バカスカ勝ちやがって……」
(しょうがない客だな。派手に けすぎるからだ)
 エイボンは毛程の動揺どうようも見せなかった。口の中だけで、こっそり呪文を唱え始める。
「さあ、もうけを吐き出してもらおうか……やっ!?」
 エイボンを捕らえようと を伸ばした男たちが、あんぐりと口を開けて立ち尽くす。
 自分がつかんでいるのが、魔道士のローブを着たわら人形であることに気付いて。
「や、 郎、いつの間に!?」
 全くの 時刻。
 ねぐらにしている 宿のベッドで、エイボンはむっくりと身を起こした。ついさっきまで、ここに
寝かされていた藁人形の藁屑わらくずが、ぱらぱらと散る。
「身代わりの術を 意しておいて、正解だった」
 見習いくずれとは言え、エイボンも魔道士のはしくれ。この程度の術、基本中の基本だ。
(やれやれ、この街はもう潮時しおどきか)
 すぐにでも、別の街へ移らねば……そう考えると、あらためてみじめな気分になる。
(また逃げるのか、 は……)
 迫害はくがいから逃れ、魔術の道からも逃れて、ここまで来たというのに。
 ただ、 げ続けるだけの人生だ。

〜2〜
 新 都ウズルダロウム。
 旧王都コモリオムから遷都せんとされたのは、二十三年前――しくも、エイボンがこの世に生を受
けた年――。それ以前は 易の中継地であり、商業の町だった。
 郊外に 造中の新王宮――あくまで旧王宮を再現しようとするファルナヴートラ王に『税金の
無駄使 い』と非難が集中している――にむらがるように、派手な看板をかかげた商店が立ち並び、
その隙間をあみの目のごとく路地が張り巡らされ、人々が窮屈きゅうくつそうに行き来している。
 ごちゃごちゃして治安が悪い、と王侯貴族はらしているらしいが、だからこそ、ここには
人々の生きた息吹いぶきがある。
「安いよ、 いよー!」
「新鮮なショングア豆は如何いかがかね〜」
「オッゴン=ザイ産の織物おりものだよ。どうだい、この手触り!」
 1パズールでも多く けようと、声を張り上げ、人々は終わらぬ祭りを り広げる。
 ザイラックに弟子入りして以来、縁を断っていた俗界に、こんな形で舞い戻ることになると 
は……いや、戻れてはいない。ただ り込んだだけだ。いくら儲けようとも、それで守るべき家
も家族も、 にはないのだから。
 次の目的地も決まらぬまま、とりあえず、走竜が引く車の停留ていりゅう広場を目指していた時だった。
 だ……?)
 広場に、何やら人だかりができている。吟遊詩人が語る英雄譚えいゆうたんかれて……ではないのは
、すぐに かった。
「ああ、神官様、どうぞお 逃し下さいませ」
 情けをっているはずなのに、全く卑屈ひくつに聞こえない、音楽的なまでの響きを備えた声の主を
見た瞬 
(……!) 
 エイボンはもう、 の何も目に入らなくなっていた。
 それ の美女だった。
 すっきりとした鼻梁びりょう、絶妙の曲線美を描くほお。それらをかすみのように取り巻く、黄金の髪。
 簡素な服装だったが、その上からでも分かる、華奢きゃしゃな肩、すらりとした手足、そして豊かな胸。
 個々の部位の美しさだけではない。全てが、幾何学きかがく的な調和を成している。例えるなら、それ
は氷の花。完璧な、ゆえに、わずかに崩れるだけでも台無しになりそうな。
 危うい の、完璧な美。
(何という……この のものとは思えん)
 魔術の神秘以外のものに陶然とうぜんとしたのは、生まれて初めてだった。しかし、そんな気分を
下卑げびた声がぶち壊した。
「そうはいかんなぁ」 
左様さよう、これも聖なる務めゆえ……」
 美女とはあまりに対照的な、みにくい男たちが彼女を取り囲んでいる。金糸銀糸で飾り立てた豪
華なローブは、醜さを払拭ふっしょくするどころか、食用ナマケモノのような腹をさらに強調している。
 彼らが誇らしげに被っている、鹿の角を模した額冠サークレットに、エイボンは嫌という程、見覚えがあっ
た。 
(イホウンデーの 官どもか……)
 ヘラジカの女神イホウンデーに仕える聖職者……とは、名ばかりの生臭なまぐさ神官どもは、遷都騒ぎ
おとろえるどころか、人々の不安に付け込んで、ますます勢力を拡大している。
 苦い記憶が、エイボンの眉間みけんしわを刻む。あたかも傷痕きずあとのように。
(父 ……)
 エイボンの父ミラーブは、イックァの大公家に仕える 書管理官だった。公子ザクトゥラの教
育係でもあり、彼の良き 談役だった。
 そんな父を、勢力拡大の障害とみなした神官たちは、異端いたんの嫌疑をかけ、イックァから追放さ
せたのだ。 
 慣れない野の暮らしで体調を した父は、幼いエイボンを残して他界。父の友人であったザ
イラックが迎えに来てくれなければ、エイボンも の後を追っていただろう。
 神官ども……エイボンにとっては、父のかたきと言うべき連中。
 争いを好まない父に、復讐 などしてくれるなと言われたこともあり、あえて考えないようにしてい
たのだが、いざ目の前にしてみると……握り拳に力がもる。
「そ、それはただの 身具でございます……」
「ふん、随分ずいぶんと悪趣味なことだな」
「よもや、邪教の祭具 か何かではあるまいな?」
 神官の手には、黄金製と見える首飾りが握られている。さては、難癖なんくせを付けて、美女から取
 げようとしているのか。
「これは、念入りに審問しんもんする必要がありそうだ! どうれ、神殿まで来てもらおうか!」
 ……違った。神官たちの いは、美女本人だった。それも、異端審問のためなどではないの
は、そのいやらしい笑みを見れば明らかだ。
 周囲の野次馬たちは、 情の表情を浮かべてはいるが、誰も助けに入ろうとはしない。神官
たちの不興ふきょうを買うのを、恐れているのだ。
 方ないか……)
 この程度の仕返しなら、父も大目に見てくれるだろう。エイボンはふところから水晶球を取り出し、
小声で呪文を え始める。
「くっくっく、 人しく……」
 ごてごてと指輪をはめた神官の手が、美女の肩を もうとした、その時。
 ばさあっという羽音と共に、周囲を影がおおった。
「む?  が……ひっ!?」
 思わず見上げた神官たちが、 りつく。
 羽音と影の主は、 長十メートルにも達する、巨大な怪鳥だった。
 羽ばたく度に、毒々しい色彩の羽がき散らされる。剣のような鉤爪は、人間どころか走竜
すら餌食えじきにできるだろう。馬を醜悪しゅうあく化したような顔は、憎々しげに眼下を睨みつけている。
 シャンタク鳥。一説には、異世界から時空のかべを越えてやって来るとされる魔鳥……等とい
薀蓄うんちくは知らなくとも、それが脅威きょういであることは、神官たちにも理解できた。
「うわあああ!」 
 悲鳴を上げて逃げ出す。当然、野次馬たちも後に続き、たちまち周囲は、混乱の坩堝るつぼと化
した。 
 ほくそ笑むエイボン。彼らの誰も 付いていない。シャンタク鳥の撒き散らす羽が、一枚も地
面に もっていないことに。
(まあ、詐欺よりは、 意義な使い方か)
 そう、あのシャンタク鳥は、水晶球で空中に し出した幻なのだ。そうとも気付かず、神官ど
もが慌てふためく様は、 快だった。
(さて、あの 令嬢は……)
 いた。群衆とは対照的に、 に落ち着いた様子で、何やら周囲を見回して……何かを拾い上
げた。あの首飾りだ。慌てた 官が落としていったのだろう。こんな状況で、随分と冷静なこと
だ。 
 ともあれ、あの様子なら、自 的に逃げてくれるだろう。英雄譚の主人公ではあるまいし、わ
ざわざ名乗り出ることもあるまい。そう思ってきびすを返そうとした、その時。
 美女と が合った。
 吸い付けられているかのように、ただひたすらエイボンを 視している。
(まさか、 然だ……)
 そうではないことは、すぐ らかになった。
 美女はゆっくりと、しかし いのない歩みで近づいてくる。右往左往する群衆を、実体のない
幻のようにくぐり抜けながら。
 気が付くと、すぐ の前に立っていた。
 間近で見る彼女は、また一 と美しかった。長い睫毛まつげ縁取ふちどられた青い瞳は、水面のように自
分の姿を映している。輝きを放つような白い肌に、目がくらみそうだった。
 何を言えばいいものやら、へどもどしていると、 女の方が先に口を開いた。
「もしや、あなたが けて下さったのですか?」
 口調くちょうこそ質問だが、声は確信に満ちていた。
「いや、その……」 
 違うと突っぱねることもできたはずなのだが、なぜかエイボンはうなず いてしまった。たちまち、
花開くような笑顔になる美女。そして、悪戯いたずらの相談でもするかのように、くすくす笑いながらささやく。
「とりあえず、この場を れましょう。神官様方にばれる前に」
(何と……妙に ち着いているとは思ったが)
  付いていたらしい。あのシャンタク鳥が、幻であることに。
(この女 は一体……)
 いつか、 と交わした会話を思い出す。
『師匠でも、ご 知ないことがあるのですか?』
『そんなもの、いくらでもあるわい。 えば、女よ』
『女 ……ですか』
『ああ、 こそ、男にとって、最大の謎よ』

〜3〜
「ありがとうございます、 道士様。おかげで助かりました。あ、どうぞ、ご遠慮なさらず。お代
は持たせて きますから」
「…… れ入ります」
 二人がいるのは、入り組んだ 地の奥にある、茶を供する店だ。ここなら神官たちに見つか
る恐れはないという、美女の 案に従ったのだが。
 店主が、甘い香りを放つアボルミス茶を運んでくる。「どうぞ、ごゆっくり」と言う口元がゆるんで
いるのを、エイボンは 逃さなかった。彼の目に、自分たちはどう映っていることやら。
 れないことをするものではないな)
 なにせ、師匠の で修行に明け暮れること十数年。その間、女性どころか、師匠以外の人と
さえ、ろくに会 したことがない。人付き合いは、好きでも得意でもなかった。
(適当に世間 でもして、さっさと切り上げよう)
 勿体無もったいないことを考えているエイボンであった。彼女と茶が飲めるなら、命を投げ出しても惜しく
ない男だって かろうに。
「本当に助かりました。いくら神官様でも、これだけは献上致けんじょういたねますわ」
 美女は、首飾りを大切そうにでている。それを見て、思わずエイボンは眉をしかめた。
 百足むかでを思わせる鎖に、太ったかえるとも羽のない蝙蝠こうもりともつかない生き物を形象モチーフにした飾りが
ぶら下がっている。黄金と思っていた材質も、よく見れば、何やらぬらぬらとした光沢こうたくを帯びてい て……。 
(悪趣味というのも、あながち れていないような)
 その時、ふとエイボンの脳裏のうりぎる記憶があった。
(あの ……)
 気のせいだろうか。どこかで たことが……。
 が、首飾りが収まっているのが、美女の胸の谷間であることに気付いて、慌てて視線を
す。女性にそういうものがあることすら、 れていたエイボンであった。
「申し れました、わたくしはテオと申します」
 ウズルダロウムの住 ではなく、旅の途中で寄ったのだという。
「テオさんお一 ですか?」
「はい」 
 美女、テオは事も げに言うが、女性の一人旅がいかに危険かは 言うまでもない。事実、
ついさっきも、あのような目にっていたことであるし。それでも、行かなければならない理由
があるのだろうか。 
 考え込みかけて、テオが何かを 待するような目をしているのに気付き、慌てて自己紹介す
る。逃亡生活で、すっかり素性すじょうを隠す癖が付いてしまったようだ。
「エイボン、 道士見習いです」
 もっとも……。
「……各地を旅して、 行中の身です」
 師の下から げ出したとは、さすがに言えなかったが。
(本当のことを ったら、この女性は幻滅するのだろうな)
 そう思うと、ますます 心地が悪く……なると思いきや。
「エイボン様は、どんな 所を巡って来られたんですか?」「魔術の修行って、どんなことをなさ
るんですか?」「 道士の方々は結婚なさらないって、本当ですか?」
 テオは好奇心のおもむくままに、次々と質問を浴びせてくる。大人しそうな外見に反して、物怖ものお
しない性 のようだ。
 苦笑しながらも、一つ一つ えている内に、エイボンは気分が晴れてくるのを感じていた。
(そうか、 は……)
 先の見えない逃亡の途。自分で思っている以上に、孤独にさいなまれていたらしい。ひさしぶりに
他者と交わした会話、それも、何の打算も らない、他愛の無いない会話は、朝日のように暖
かかった。 
 魔道士と言え、所詮しょせんは人間。一人で生きていけるようには、できていないのだ。
「確かに、結婚しない魔道士は多いですが、それは単に、甲斐性かいしょうが無いだけですよ。魔術に入
れ込みすぎてね」 
「まあ、ウフフ……」 
 テオは、少女のように無邪気に微笑ほほえんでいる……ように見えるが、その微笑には、どこか気遣きづか
っているような雰囲気もあった。 論、エイボンを。
(もしや、私がふさぎぎ込んでいることを察して……?)
 エイボンに話をさせることで、 晴らしをさせてくれたのだろうか。ありえない話ではない。水
晶球の幻を、あっさり 破った彼女なら。
(不思議な 性だ……)
 エイボンには分かった。テオの瞳が、その深奥しんおうに、底知れない神秘をはらんでいることが。 
 それを。 
 りたい……)
 そう している自分に気付き、少なからず驚くエイボン。ついさっきまで、さっさと帰りたい等と
思っていたくせに、一体どういう 境の変化なのか。
(まさか……) 
 女性など、修行のさまたげとしか思っていなかった。恋愛など、自分には関わりのないことだと思
っていた。いや、この 情がそうなのかは、分からない。しかし、認めざるを得なかった。
 もう少し長く、テオとたいと願っていることだけは。 
 しかし……。 
(……何を 待しているのだ、私は)
 自嘲じちょうするエイボン。テオが「今日はありがとうございました」と言って席を立ったら、自分に引き
止める術はない。そうしたら、 分はまた一人……。
「あの、エイボン ……」
「な、 でしょう?」
 ふいにテオの口調が変り、はっと居住いずまいを正すエイボン。顔に出ていなかっただろうか。
「先程助けて頂いたばかりで、 々しいことは、重々承知しているのですが……」
 ぴくりとエイボンの指が く。
「エイボン様の腕前を 込んで、ぜひ、お願いしたいことがございます」
(まさか……) 
 エイボンの願いを、何処いずこかの神が聞き届けてくれたのだろうか。続くテオのおずおずとした声
は、福音ふくいんのように聞こえた。
「旅の護衛をお いできないでしょうか」
 ついさっきまでのエイボンなら、あっさり っていただろう。しかし、今のエイボンにとっては、
まさに りに水竜だった。
(彼女と一緒にいられる……それも、 分の間)
「やはり、女の一人旅は何かと 騒で……」
 かりました」
 思わず即答してしまい、慌てるエイボン。いくら何でも、多少は逡巡しゅんじゅんする振りをしないと、不自
然だっただろうか。 
 幸いテオは、怪訝けげんそうな顔一つ見せなかったが。
「よろしいのですか? 大したお はできませんが……」
(そんなことはない) 
 彼女と一緒にいられること。それが何よりの報酬ほうしゅうだ……等とは、口が裂けても言えないので。
かまいませんよ。どうせ、当てもない旅の身です」
「ありがとうございます、エイボン !」
 エイボンの っ気無い口調にも関らず、テオはもういいと言うまで、何度も頭を下げ続けた。
礼なら、こちらこそ いたいぐらいだというのに。
 ……彼は気付いていない。テオが口の中だけで、 いていることに。
「………ァよ、巡り合わせに、 謝いたします」

〜4〜
 偉大なる地図書 グナイモンの手なる大陸地図――これも、師匠の館から持ち出した物だ
――の、ほぼ中央。大陸を南北に分断するエイグロフ山脈のふもとを、テオの細い指は指し示す。
「……ここに?」 
「はい、 かなければなりません」
(この辺りは、 か……)
 現在地ウズルダロウムから北上、旧王都コモリオムを 過し、さらに北。
 山脈にさえぎられた雨雲がはぐくんだ、広大なゼシュの密林が広がっている辺りだ。危険な生き物
巣窟そうくつであり、街村どころか、近付く人間とていない。
(こんな所に、 の用があるのだろう)
 当然の疑 が湧き上がる。しかし、テオに聞く気にはなれなかった。
「どうしても…… かなければならないんです」
 彼女の青い瞳に宿る、 い決意の光を見ていると。
(無理に かない方が、いいかもしれない)
 第一、自分の目的には、 係のないことだ。そう、自分はただ、少しでも長く、テオと共にい
たいだけなのだから。 
 詮索せんさく躊躇ためらったのは、そんな、よこしまな想いを隠している、引け目もあったのかもしれない。
 しい旅になるでしょう。本当によろしいのですか」
「構いませんよ。密林で珍しい 草でも採取できれば、儲けものです」
「ありがとうございます、よろしくお い致します!」
 ……と、見栄みえを切ってはみたものの、想像以上に険しい旅路が、二人を待ち受けていた。
 途中までは、かつてウズルダロウムとコモリオムを結んでいた 商路――今はもう、彼ら以
外に通る者もない――を利 することができた。
 しかし、ゼシュの密林が近づくにつれ、次第に石畳いしだたみは木々の根に引き裂かれ、ついには完全
に密林に飲み込まれてしまう。そこから先は羊歯しだの海をき分け、椰子やし天蓋てんがいを見上げながら
進まなければならなかった。 
 しかも、密林の剣呑けんのんな住人たちが、次から次へと二人を歓迎しに現れる。木々に紛れて襲い
掛かる密林虎サーベルタイガー。長大な牙をき出す剣牙竜ティラノサウルス。邪眼で獲物を呪縛する単眼獣カトプレバス……その度に、水晶球の幻影で 追い わなければならなかった。
(確かに、女性が一人で旅するような ではないな)
 しかし、予 に反して楽だった点もあった。それは、テオが全く足手まといにならなかったこと
だ。 
 密林の蒸し暑さにも根を上げず、うねる木の根をひらりひらりと乗り越え、崖に行く手をふさ
れた時は、あっという間に って、エイボンを手助けさえしてくれた。
たくましい女性だ)
 美しく、賢く、しかもつよい。また一つ、テオの新しい魅力に気付けたことに、喜びを感じるのだ
った。 
 テオとはげまし合い、支え合い、緑の魔境を進み続けること、三日間。全く変らない周囲の光景
に、方向が合っているのかどうか、自信が くなりかけていた時だった。
 密林の木々の合間に、それが姿 を現したのは。
「エイボン 、あれは?」
「コモリオムの廃墟……方向は しかったようですね」
 密林に抱かれて、かつての王都のしかばねは、静かに眠り続けていた。
 さすがに、雑草やつた蔓延はびこり放題だが、“大理石と御影石みかげいしの王冠”とまで呼ばれた壮麗な姿
は、ほぼ完璧に 存されている。
 数千の兵士が行進できる大通りに沿って、イホウンデーの神殿、王立劇場、行政長官公邸
などの、白亜の建造物が立ち並ぶ。その様は、あたかもぜいを尽くした王侯貴族の……墓標の
ようだ。 
 いかにかつての美しさを保っていても、 墟は廃墟。がらんとした街並みに人影はなく、響き
渡るのは、獣や鳥の 悲しい鳴き声ばかり。
 二十三年前、何ゆえ人々がこの都を放棄ほうきしたのか、正確なことは知られていない。恐ろしい伝
染病のせいだとも、ポラリオンの巫女みこの不吉な予言のせいだともいう。果ては、処刑された盗賊
クニガティン・ザウムの亡霊が、たたりをなした等という噂もある。
(そろそろ日が れるな)
 正直、気味が悪いが、それでも 宿よりは安全だろう。エイボンたちは、適当な民家を今晩
の宿に めた。
 テオは、釜戸かまどがまだ使えることを確認すると、嬉しそうに夕食の支度を始める。彼女は毎食、
携帯食と旅先で手に入れた 材だけで、よくもこれ程と言うぐらい多彩な料理を用意し、旅の 疲れを してくれた。
「大変 構でした、テオさん」
「いえいえ、お粗末 でした」
 今夜のメニュー、密林きのこと干し肉のスープも絶品だった。
「……テオさんをめとる男性は、幸せ者ですね」
「え? 何かおっしゃいました?」
「い、いえ、 でもありません」
(旅程も、もう ばか……)
 これまで心の に押し込めていた想いが、頭をもたげ始める。
(奇跡に まれ、こうしてテオさんと旅をしているが……それも、あと二、三日だ)
 テオを目的地に送り届けたら、今度こそ今生こんじょうの別れだ。それを思うと、内臓をねじられるような
痛みを覚える。父や師匠と別れる時にも、 じ痛みを感じた。何度経験しても慣れない、別離  みだ。
(しかし、 が一……)
 それまでに再び、 跡が起きたら……。
 ――エイボン 、もう一つお願いをいいでしょうか……わたくしと……。
(……拒否する 由は、何も無い)
  分はもう、魔道士ではないのだから。
 水晶球も、 道書も全部処分して、魔術とは今度こそきっぱり縁を切って。テオと平凡な幸せ
を築くのも、 くは……。
 溜息を吐いて、 想を断ち切る。自分がテオの何だと言うのか。ただの護衛に過ぎないくせ
に……ただの逃亡者に ぎないくせに。
(すみません、テオさん……あなたを して)
「エイボン様、お疲れでしょう。どうぞ、 にお休みになって下さい」
 今は正直、テオの姿を見ているのは かった。言葉に甘えさせてもらって、隣の部屋で横に
なった。 

〜5〜
 それは、エイボンがザイラックの館を飛び出す、 し前のこと。
 夜の読書に備えて、 獣脂のランプに火を灯していた時だった。雑用係の使い魔に、ザイラ
ックが旅から戻ったことを告げられ、 てて出迎えたエイボンは、大いに驚かされたのだった。
『ついに つけたぞ!』
 岩より冷静と称される師匠が、子供のようにはしゃいでいた。その手に、奇妙な品をたずさえて。
 書物……と呼んでもいいものかどうか。紙のように薄い金属板をじ、書物のように仕立てて
あるのだ。表紙は、絶滅した首長竜ディプロドクスの皮で装丁そうていされていた。
 ザイラックの見立てでは、世界から姿を消してひさ しい蛇人間の魔道士ズロイグムの手になる
魔道書に いないという。
 太古の世界に、天まで届く塔が林立する 市を築き、異質ながらも壮麗な文明を誇った蛇人
間。その謎が、この書によって き明かせるかもしれないと、ザイラックは期待していたのだ。
 しかし、なぜだろう。エイボンはどうしても、 匠のように喜ぶことができなかった。金属製の
ページにのたくる、まさしく のような文字を見ていると、悪寒が走るのを止められなかった。
 それからザイラックは、連日連夜ズロイグムの書の 読を続けた。エイボンも手伝ったが、
解読は遅々として進まなかった。 理もなかった。人間とは根本的に精神構造が異なる、蛇人
間の手になる書なのだ。ザイラックが悔しげにらした言葉を覚えている。
字面じづらを追うだけでは駄目だ。蛇人間の感覚で考えなければ……』
 ザイラックは、私室に一人でもるようになった。何のためか、一晩中不気味な呪文を詠唱えいしょう
し、紫色にき立つ妖しげな薬を調合し……そのあまりの執着ぶりは、エイボンの目からして、 不気味な だった。
 エイボンの不吉な予感は、ますます まっていった。しかし、まさか師匠に、解読を止めてく
れと頼む にもいかない。そもそも自分にも、一体何がそんなに不安なのか、説明が付かない
のだ。 
 結局、エイボンにできたのは、自習や巻物の整理などで、不安を紛らわしながら待つことだけ
だった。 
 そして、数日 
 いまだに、ザイラックは私室から出てこない。食事を取っている様子もなく、さすがに心配になっ
たエイボンは、 をノックした。
 返事はなかった。その わり……と言ってもいいものか。
 返ってきたのは、しゅうしゅうという 妙な声と、ずるずるという何かを引きずるような音だっ
た。 
 只事ただごとではないと感じたエイボンは、やむなく開錠の術で扉を開け、中に入った。
『お 匠様、どうなさったのですか……』
 師匠の私室は暗かった。しかし、何かがひそんでいるのを、エイボンは確信した。
 徐々に目が暗闇に慣れてくる……いる……部屋の隅に……光を避けるようにうずくって……し
ゅうしゅうと奇妙な声を発して……何かを身にまとっている……エイボンも見慣れた……。
 師匠の長衣ローブだ。
 安堵あんどの溜息を吐くエイボン。何を狼狽ろうばいしていたことやら。この部屋に、師匠以外の何がいると
いうのか。 
『お師匠様、少しはお みになりませんと……』
 お体に りますよ、と言いかけて。
 エイボンは 句した。
 にゅるりとでも擬音を付すべき動きで、それに り返られて。
 それは、体長五エル(五メートル)を える大蛇だった。胴の太さも、エイボンと同じぐらいあ
る。 
 それが、ザイラックの長衣を身に付けている。我が物顔で、この部屋に居座いすわっている。
 この状況が何を 味するのか、分かりたくないのに分かってしまった。ザイラックの言葉が脳
裏を ぎる。
 ――字面を追うだけでは駄 だ。蛇人間の感覚で考えなければ……。
『まさか、お 匠様……!?』
 そう、ザイラックはズロイグムの書を、そして、その 礎となっている、人間とは異なる哲学を
理解するために、自らを 人間に近付けようとしたのだ。あの呪文や薬は、そのためのものだ
ったに いない。 
 しかし……。 
『しゃああ!』 
 鎌首をもたげ、牙から毒液をしたたらせるその様子に、もはやザイラックの自我が、欠片かけらも残って
いないのは明らかだった。エイボンは無我夢中で、近くに置かれていた、 物溶解液入りのビ
ンを げつけた。
 しゃああああ……歯擦音しかつおんの断末魔を聞きながら、エイボンは恐れ戦いていた。師匠の変わり
果てた姿に? いや、魔術の の深さに。
 エイボンとて知ってはいた。魔術とは、便 利な召使いではなく、とんでもない高利貸しであるこ
とぐらい。身に余る領域に手を出せば、即座 に破滅という名の証文を突き付けられると……そう
教えてくれた師匠に、予 できなかった訳がない。こうなる可能性があったことぐらい。
 承知の上で、己の体と魂を けたのだ。全ては、魔術を極めるために。
『そ、そこまでして……』 
 自分に、 じことができるか?
 自問するまでもない、 理だ。
 魔道……そんな、中途半端な覚悟で み込むべき道ではなかった。
 完膚かんぷ無く打ちのめされたエイボンに選べた選択肢は、ただ一つ。師匠の館から、魔術の道か
ら、全てに背を向けて、 げ出すことだけだった。

〜6〜
「……イボン 、エイボン様!」
 無明の闇を彷徨さまよっていたエイボンの意識は、おのが名を呼ぶテオの声で目を覚ました。
 とっさに状況が掴めない。ついさっき、 匠の館を飛び出したはずなのに……ここはどこだろ
う、この女性は だろう……。
 こしてしまって、ごめんなさい。ひどく、うなされていらっしゃったもので、つい……」
「あ、いえ……」 
 テオの声を聞いている内に、 乱が収まってくる。そうだ、あれはもう一ヵ月前のこと、とうに
過ぎ ったこと……の、はずなのに。
(また、あの か……)
 これで何度目だろう。あの を夢に見るのは。
 逃げても逃げても、過去は影のようにぴったりと尾行してくる。無理もない。脇目 も振らずに前
進しているならともかく、今の自分は、ただうろうろと げ回っているだけ。それでは、過去を振
り切れる がない。
 ……無様ぶざまの極みだ。
「私は…… 病者だ」
 思わず、そんな独り言を らしてしまう。目は覚めても、心は悪夢に、過去に置き去りにされ
たまま。 
「迫害から逃げ、魔術から げ……何からも、逃げてばかりだ」
 独り言のつもりだった。 然だ。突然こんなことを言われても、困惑して目を白黒させるのが
関の だろう。
 しかし、テオは今回も、あっさりエイボンの 像を超えて見せた。
「……逃げることは、 いことではありません」
 エイボンの肩に、テオのしなやかな手がえられる。はっと顔を上げると、テオはただただ、
優しく微笑んでいた。月光を にしたその姿は、無限の愛をもって、全てを許す女神のようだ。
「逃げた先で見つかる道もありましょう……ただ一つ、 きることからさえ、逃げなければ」
(逃げることは、 ではない……)
 思ってもみなかった、そんなこと。しかし、 ならぬテオの言葉だからこそ、すんなり受け入れ
られた。 
(そうかもしれない……そのおかげで、テオさんに えたのだから)
 師匠の館で魔術けの日々を送っていたら、こんな体験は一生できなかっただろう。そう思
えば、逃げたのも 駄ではなかったかもしれない。
「ごめんなさい、お 教じみたことを……」
「いや、ありがとう……おかげで、 が楽になりました」
 自分はずっと、 かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。自分の弱さを、許してもらい
たかったのかもしれない。 
 ずっと付きまとっていた過去の影が、すうっと消えていくのを感じる。今、ようやく、本当の意味
で、自分は過去から逃げおおせたのかもしれない。自分が一ヵ月掛かってできなかったことを、
テオは物の 秒でやって退けた。
(本当に、不 議な女性だ……)
 出会った日にも思ったが、 めてそう思う。どうして、こんなに自分のことを分かってくれるの
だろう。まるで……母 のように。
「テオさん、あなたはなぜ……」 
 こらえきれず、尋ねようとした、その時。
 テオが、はっと目を 開いた。
「……どうしました?」 
 テオの表情は、緊張に強張こわばっている。ついさっきまで、この場を包んでいた安らかな空気は、
一瞬で霧散 してしまった。
「外に、 かが……」
 テオの鋭さは、今さら疑うまでもない。旅の間も、幾度いくども猛獣の接近を感知してくれたのだ。
 窓から、そっと外の様子をうかがい……エイボンは息を飲んだ。
 暗闇に紛れて、何十対もの 色く輝く目が、周囲を取り囲んでいる。月明かりを頼りに、何と
か正体を 別する。
「ヴーアミ ……!」
 エイグロフ山脈一帯に 息する、毛むくじゃらの人間もどきだ。性質は凶暴で、しばしば集団
で人を襲う。コモリオムはすでに、奴らの巣窟 になっていたらしい。
「エイボン様、 何いたしましょう」
 テオは落ち着いていた。自分を 頼してくれているのだろう。それに応えるべく、エイボンは
あせりを押し殺した。
「ご心配には及びません。念のため、全ての扉に封印の術をほどこしてあります」
 鍵を開かなくするだけでなく、 を鉄のように硬くしてしまう。この術を施された扉を開けるに
は、開錠の術で相殺そうさいするしかない。この家は、まさに難攻不落の砦……。 
 そのはずだったのだが。 
 かちゃり。正面玄関の が開く音を、エイボンは確かに聞いた。
 鹿な……!?)
 それが幻聴でないことを 明するように、どかんとぶち破るような勢いで扉が開く。
「グギャギャギャギャッ!」 
「ヒャーホホホホホッ!」 
 けたたましい雄叫おたけびを上げながら、ヴーアミ族どもが乱入してくる。その手には、獣の骨を削っ
た槍が握られていた。粗雑そざつな造りだが、エイボンたちを血祭りに上げるには十分だろう。
(なぜ……いや、考えるのは だ)
 慌てて水 球を取り出し、起動の呪文を唱える。たちまち、天井一杯にシャンタク鳥の幻が
翼を広げ、不吉な き声を響かせる。
 その恐ろしさは、ヴーアミ族の単純な 脳にも理解できたらしい。醜い顔を、ぎくりと強張ら
せ、じりじりと 退し……。
「ウジャタ、バオバブピタ!」 
 後退がぴたりと停まる。奴らの背後から発せられた、 味不明の怒鳴り声によって。
(……まさか) 
 嫌な予感は的中した。ヴーアミ族の一匹が、シャンタク の幻に骨槍を投げつける。
 無論、あっさりすり抜けて、 き刺さったのは天井にだ。
(ばれた!?) 
 見ると、ヴーアミ族の群れの中に、異彩を放つ一匹がいる。獣の頭蓋骨ずがいこつを被り、鳥の羽で飾り
立て、ねじくれた木の杖を振りかざしている。
(しまった、まじない師がいたのか)
 普通のヴーアミ族は、猿よりは賢い程度だが、ごくまれに高い知能を備えた個体が現れること
がある。そういった“天才”は、 れの頭となり、時には魔術すら操るという。
 当然、幻と実体の見分けなど、 飯前だろう。さっきの怒鳴り声の意味は、おそらくこうだ。
 だまされるな、それは幻だ!
(封印の術を ったのも、こいつか)
 扉が開いた時点で、予想すべきだった。己の迂闊うかつさを呪っても、もう遅い。ヴーアミ族どもは一
転して調子付き、あざけるような叫びを合唱しながら、二人を取り囲む。
 慌てて青銅の剣を抜くが、こんな物でどこまで持ちこたえられるか。
「エイボン !」
「テオさん、私が時間をかせぎますから……!」
 あなただけでも逃げてくれと叫ぶ暇もなく、数十本の骨槍がエイボンに殺到さっとうする。思わず、ぎゅ
っと目を じてしまう。
 時が引き伸ばされ、一瞬が 遠と化す。まるで、死ぬ前に、たっぷりと後悔させようとしてい
るかのように。 
(ああ、やはりちゃんと 行を続けていれば、こんな事には……いや、私の事はいい。気の毒
なのは、テオさんだ。私のような 端者を、護衛にしてしまったばっかりに……)
 幻の未来が、脳裏を過ぎる。もうすぐ、槍が自分を貫く。血飛沫ちしぶきと共に、穴だらけにされる自
分。そして、数秒後には、テオも 様に……。
 ――しかし。 
 彼女は、いつだって、エイボンの予想を、くつがえし続けてきたのではなかったか……。

 られたくなかった……あなたにだけは」

(……え?) 
 ひゅんっ! 何かが、疾風をともなって、エイボンの横を通過する。そして……。
「ギャ―――ッ!?」 
 ヴーアミ族どもの叫びが、時の 縛を打ち砕く。
(…… だ?)
 困惑するエイボン。人 の耳でも、十分聞き分けられた。その叫びは、勝利の雄叫びなどで
はなく…… 鳴だった。
 恐る恐る開いたエイボンのまぶたが。
「!?」 
 驚愕きょうがくで見開かれる。
 今まさに、自分を だらけにしようとしていたヴーアミ族どもの全身に、何かが巻きついて動
きを封じている。 金に輝く、細長い何かが無数に……どこから伸びているのか、思わず追っ
たエイボンの視線が辿たどり着いたのは。
 自分の、すぐ だった。
(テオ……さん?) 
 エイボンは我が目を った。
 テオの黄金の髪が、無限長に びて、ヴーアミ族どもをがんがら締めにしていたのだ。
 ヴーアミ族どもは必死で身をよじるが、テオの髪はびくともしない。それどころか、大蛇の如くうご
きながら、さらに強く、みしみしと め上げ……。
 ぐしゃり! 
 つぶした。熟れたスヴァナ果の如く、いとも易々と。
 さああと降り注ぐのは、文字通りの の雨。
「お退きなさい。さもなくば、このようになりますよ」
 原型を留めていない死体を、残りのヴーアミ族の前に放り出して、 しつける。仮面のような
無表情で、あくまで 々とした口調で。
 その姿は、あたかも美しくも無慈悲な、殺戮さつりくの女神。
 ぐにゃあと視界が歪む。目は確かに眼前の光景を しているのに、心がそれを受け止め切
れていない。 
 結果、認識のずれが生じ、そんな感 を引き起こしているのだ。
(テオさん……なのか、あれが?) 
 彼女でなければ、 だと言うのだ。
 という、理性のさとしはあまりにか細かった。無理もない。誰に想像できよう。 普段の彼女か
ら、今の 女が。
(あなたは、一 ……)
「ヒ、ヒ―――ッ!?」 
 ヴーアミ族どもの醜い顔が、ああまで 事に恐怖を表現できるものか。ばらばらと骨槍を投
げ出し、後ずさり める。
 いや、一匹だけ み止まっているのがいる。あの呪い師だ。
「グギャー! ウルダ、ヤシムダ!」 
 逃げるな、命令だぞ、とでも言っているのだろうか。 音は自分も逃げたいのかもしれない
が、ヴーアミ族にも面子めんつというものがあるらしい。
 その手に握る杖に、ばちばちと青白い 光が宿る。元素の矢の術だ。直撃すれば、竜すら
倒す。しかし、それを放つことは わなかった。
 百条に分かれてのたうつテオの の一条が、ざびゅっ! 死神の大鎌と化して、呪い師ヴー
アミの首をぐ。
 一瞬後、そこに立っていたのは、ぴゅいいと のような音を立てて血を噴出す、首無しのむくろ
だった。 
 指導者の無残な 期に、ヴーアミ族の士気は、今度こそ崩壊した。悲鳴を上げ、我先にと密
林に逃げ っていく。
 それを見届けて、テオの はしゅるしゅると元の長さに戻っていく。獲物を平らげて満腹した
蛇が、巣穴に っ込むように。
  とおぞましい。
 う……こんなものが、テオさんであるはずがない……)
 どこへ行ってしまったのだ。自分の 去を受け止め、癒してくれた、あのテオは。

〜7〜
 これは、テオではない。 
 知らない間に、外見だけはそっくりな、 の何かと入れ替わったのだ。
 その解釈かいしゃくの方が、まだ受けやすかった。しかし……。
「…… っていて、ごめんなさい」
 振り返ったテオは、 違いなく、エイボンの知っているテオと同一人物だった。
 テオは、 に刃でも突き立てられているかのような表情だった。月光を背にしたその姿は、散
く花のようにはかなげで……これこそが、彼女の本当の姿なのだと信じたかった。
 しかし、その黄金の には、べったりとヴーアミ族の血がこびり付いている。あの光景もま
た、間違いなく現 だったのだ。
「…………」 
 エイボンは沈黙を破れない。自分の口からどんな 葉が飛び出すか、自分でも分からなく
て。 
 そんなエイボンとは対照的に、テオは 々と告白を続ける。まるで、観念した罪人のように。
「御覧になった通りです。わたくしは、人ではありません。この姿は、擬態ぎたいに過ぎません」
 テオは、そっとその細い腕を上げ……めきめきと変形させる。 い肌が硬質化し、指が一体
化し……一瞬後、それは全長1エルにも及ぶはさみになっていた。
 思わず息を飲むエイボン。 だけではなかった。細胞の一つ一つからして、人とは違ってい
るのだ。 
「なぜ、私を 行させたのですか……」
 半ば麻痺まひしたのどを、無理矢理動かして、何とかそれだけは訊くことができた。護衛のためでは
ないのは、もう かっている。そんなもの、テオには必要ないだろう。
「……父から、 げたかったのです」
 ぴくり、エイボンの が震える。
 逃げる。あまりに馴染なじみ深い言葉を、テオの口から聞いて。
 あえてそうしているのであろう、 情を込めない淡々とした声で、テオは語った。
 テオの父親は、あまりにも心が かった。
 子供を自分の一 としか見ず、一切の自由を認めない。そんな父の元での生活に嫌気が差
し、逃げ してきたのだという。
「あの……あなたの“ 上”というのは……」
 薄々分かってはいたが、口をはさまずにはいられなかった。
「ええ……便宜べんぎ上、そう呼んでいるだけです。あの方は……ごめんなさい。人の言葉では、上手く
表現できませんわ。ただ、この・・わたくしの生みの親、としか……」
 ぎゅっと が身を抱えるテオ。その顔が青ざめて見えるのは、決して月光のせいばかりでは
ない。 
 思わず を飲み込むエイボン。凶暴なヴーアミ族を、虫けらのように潰してみせたテオが…
…一体、彼女の“父親”とは、 者なのか。
「父は 念深い方です。逃げ続けても、いずれは見つかる……そう考えたわたくしは、ツァトゥ
グァ神を ったのです」
「ツァ……トゥグァ?」 
 そんな名前の 、聞いたこともない。
「はい。またの名をゾタクア。聖なる蟇蛙ひきがえる、暗黒の深淵をべるもの、惰眠だみんむさぼりながら全てを
知るもの……古い古い、 れられた神です……」
 ツァトゥグァ、何と 怪な名だろう。まるで、人間の声帯で発することを、前提にしていないか
のような……。 
「ツァトゥグァは、わたくしにこの 飾りをお授けになり、エイグロフ山脈の麓、自らの聖地に向
かうよう指 されました」
 テオの胸元で、あの、太った とも、羽のない蝙蝠ともつかない生き物を形象にした飾りが、
ぬめりと輝く。あるいは、ツァトゥグァ 大を形取っているのかもしれない。
(この 、やはりどこかで……)
 初めて見た時、そう じたのは……。
(そうだ、思い した……!)
 やはり、 い過ごしではなかった。
 記憶はエイボンが い頃、父ミラーブがまだ、イックァの街で文書管理官をしていた頃まで
さかのぼる。
 ミラーブの趣味は、古代の 承の研究だった。そのために集めていた古書の中に、ちらりと
だが確かに たのだ。
 原料不明のインクと、おどろおどろしい 使いでもって、その奇怪な姿が描かれているのを。
(あれがツァトゥグァだったのか) 
 イホウンデー神官たちは、それを異端の 拠とでっち上げ、ミラーブを追放させたのだ。
 そのツァトゥグァと、こんな形で び巡り合うとは……これも運命なのか。
「聖地にこの首飾りをささげ、儀式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥ
グァは仰いました。しかし、 式にはどうしても、魔道士の方の補助が必要なのです」
「……それで、 を?」
「はい……打ち けるべきだとは、何度も思いました。しかし、その場合、自分のことや、父の
ことも話さなければならず……どうしても えなかった」
 テオは、悲しげな微笑みを浮かべる。祭壇さいだんに向かう、生贄いけにえの乙女のように。
 ――恐ろしいでしょう? 騙していたのかと、おいきどおりでしょう? それでいい。それが人として、
当然の 応……だから。
『どうぞ、お げ下さい』
 テオの声無き を、エイボンは確かに聞いた。
 変わり果てた師匠を目にした時にも感じた、 物的な逃走本能が沸き起こる。足が勝手に動
き出す。テオに背中を向けたくなる。そのまま闇雲やみくもに……。
 ……逃げ出そうとしたエイボンの 裏を、テオの言葉が過ぎる。
『……父から、 げたかったのです』
(そうだったのか……) 
 彼女もまた、逃亡者だったのだ。横暴な父から、呪われた出自しゅつじから、必死で逃げ続けていたの
だ。 
『逃げることは、 いことではありません』
(だからだったのか……) 
 彼女も知っているのだ。も無く、先の見えない逃亡の日々の心細さを。それでも、逃げ
ざるを得なかった者の 哀を。
(この人は……) 
 自分と じだ。
 ふわふわと、足が浮かぶような 覚が徐々に消え……しっかりと、両足で大地を踏みしめ
る。 
 げたくない……」
 気が付くと、エイボンはそう言っていた。テオが、はっと を上げる。
 げたくありません」
 今度は、意識して言葉にする。そうしてみて、確信した。それがいつわらざる本音であることを。
 げてもいい、そう言ってくれた、あなたからは……」
 …… げたくない。
 矛盾? いや、少なくとも、エイボンにとっては、 盾などしていない。
 そうだ。テオはあの言葉で、 分を過去から解き放ってくれた、恩人ではないか。その彼女か
ら逃げるということは、 女が与えてくれた救いからも、逃げ出すということだ。
 それだけは、できない。 
「手伝わせて下さい。あなたの 亡を」
「エイボン ……」
 テオの瞳は、期待と自制の狭間はざまで、激しく揺れている。自分のためではない。エイボンのため
に、 っている。
「信じて頂けるのですか……ずっと っていたのに」
「私がこうとしなかったからです」
「わたくしは、 物なのですよ……」
「でも、私を ってくれました」
 テオは何度もうながした。無理しなくていい、逃げてもいいと。
 だが、やがて彼女にも分かったようだ。逃げないという誓いにむくいる、最善の方法、それは。
「……分かりました。わたくしも、あなたを じます」
 自分も、 げないことだと。
「ありがとうございます、エイボン ……本当に」
「何、逃亡者同士、困った時はお互い ですよ」
「はい!  めて、よろしくお願いいたします!」
(テオさん、あなたはこうも いましたね)
 さすがに照れ臭くて言えなかった事を、心の中だけで反芻はんすうする。
『逃げた先で見つかる道もありましょう……ただ一つ、 きることからさえ、逃げなければ』
(だから、 げません。あなたからだけは)
 どうしても、 げられないものと出会う時。
 人は、それを 命と呼ぶのかもしれない。

〜8〜
 かくて、それからも、二人の は続いた。
 しかし、これまでに比べれば、 かに楽な旅路だった。他でもない。テオが最早、正体を隠す
必要がなくなったせいだ。何が って来ようが、どうにでもなった。
「エイボン 、危ない!」
 どしゅうっ! 刃物状に変形させた腕を 閃、巨大タランチュラを真っ二つにするテオ。
「ご安心下さい。あなたは、わたくしがお りします」
「た、 かります」
 にっこり微笑むテオを、頼もしいと思う反 、少し……いや、本当にほんの少しだが、怖いと
思ってしまったのは、まあ不可 力と言うべきか。
 そして、コモリオムの 墟を出て、三日後の夕刻。
 二人は、ついに目的地に辿 り着いた。
「ここが……?」 
「はい、今は失われた民が、ツァトゥグァに祈りを げた聖地……ついに辿り着きましたわ」
 そこは、密林を見下ろす、小高い丘だった。 上には、明らかに人工物……少なくとも、知性
ある何者かの手になる石柱が、円を描いて並べられている。その表面には、奇怪だが精緻せいちな紋
様が、隙間なく まれていた。
 地平線に目を向ければ、 々としたエイグロフ山脈が、まるで壁のように密林を遮っている
のが見える。その中でも、一際ひときわ天高くそびえるのは。
(ヴーアミタドレス ……)
 大陸の最高峰、その名は、山中の 窟に群れるヴーアミ族にちなむ。他にも、知られざる脅
威が多数潜むと言われ、有名な探険家ラリバール・ヴーズきょうも、かの山に挑んで消息を絶って
いる。 
「それで、 式とは、何をすればいいのですか」
  いかけるエイボン。
 しかし、 事はない。
「……テオさん?」 
「……あ、はい、ご 明いたします」
 はっと我に返るテオ。 前まで彼女は、夕焼けに燃え上がる空を、ぼんやりと見つめていた。
(テオさん……) 
 エイボンの脳裏に、 晩の出来事が過ぎる。
 き火の前で、地図を見ていた時だった。この調子なら、明日の夕方には目的地に着けるこ
とを確認し、テオにもそう げたのだ。
 てっきり、輝くような 顔を返してくれるものとばかり、思っていたのに。
『……はい、エイボン のおかげですわ』
 テオの笑顔は…… 張っていた。
 その時は、揺らめく き火のせいで、そんな風に見えたのだと思っていたが……見間違いで
はなかった。目的地が近付くにつれ、テオの顔のかげりは、どんどん濃くなっていった。
 そして、今。テオは、最早もはや、作り笑顔さえ浮かべられない様子だった。
(一体、どうしたのだろう。全てを打ち明けて、 いは消えたはずでは……)
 今さら彼女を疑う気など、毛頭もうとう無いが……訊こうとしたエイボンの機先を制するように、テオが
歩み る。
 円を描く石柱群の中心には、石の台座が鎮座ちんざしている。何やら、黒い染みで汚れているその
上に、ツァトゥグァから授かったという、あの首飾りをそなえる。
「難しくはありません。意識をこの首飾りに絞り、わたくしに続いて、ツァトゥグァへの祈祷きとう文を
唱えて下さい。さすれば、首飾りと聖地の魔力が 鳴し、遥かなるサイクラノーシュへの道が開
かれます」 
(サイクラノーシュ……!?) 
 平然とテオが口にしたその言葉に、エイボンは愕然がくぜんとする。
 サイクラノーシュ……師匠の 書、それもとりわけ古く貴重なものの中に、その名はひっそり
と記されていた。異形の神々と、その眷属けんぞくが住まうという、伝説の星だ。
 エイボンにとっては、実在すら定かでない存在。しかし、テオがそんな法螺ほらを吹くはずがない。
「さすがの父も、サイクラノーシュまでは、 って来られないでしょう。わたくしも、一安心ですわ」
(……え?) 
 どくん。エイボンの心臓が ね上がる。
『聖地にこの首飾りを捧げ、 式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥ
グァは いました』
 そうだ、テオは かにそう言った。
(永遠に父から げられる……こういう意味だったのか)
 どくん、どくん。心臓が 鐘のように鳴る。
 無論、不吉な予 に。
(永 に……)
「それでは、お いします。イア! イア! イア! グルフ=ヤ、ツァトゥグァ!」
 テオは早くも、祈祷文を唱え始める。まるで、考える を与えまいとしているかのように。
他にどうしようもなく、エイボンも後に続く。テオは背を向けていて、その 情を窺うことはできな
かった。 
「イア! イア! イア! グノス=イカッガ=ハ! ツァトゥグァ!」 
 何語なのだろう。ツァトゥグァの名以外は、全く意味が分からない単語の 列。間違えまい
と、必死で唱え続け……どれぐらい、 けた時だったか。
 突如、凄まじい風が巻き こった。
 いや、本当に風なのか。木の枝がへし折れ、小石が舞う程の さなのに、なぜか、自分の長
衣やテオの髪は、そよとも揺れない。それもそのはず。石柱群の周囲だけは、なぎのように静か
なのだ。 
 不思議な暴風は、上空の雲すら 巻かせ……。
(いや、 う、あれは……)
 それに気付けたのは、魔道士の直感だろうか。 が渦巻いているのではない。空間そのも
のが、渦巻状にねじれているのだ。風のように見えるのは、空間の捩れに伴う、重力の変化だ。
「イ、イア! イア!」 
 必死で唱え続ける内にも……そう、奇跡と呼ぶべき 態は、進行していく。捩れの中心が、
ぼこりとへこみ、巨大な になり……。
(あれは……まさか……!?) 
 空に開いた穴の向こうに、エイボンは確かに た。巨大な輪を抱いた、奇怪にして神々しい
その姿 を。
(サイクラノーシュ…… 々の住まう星) 
 そして。 
 テオの足が、ふわりと かび上がる。そのまま、サイクラノーシュへ向かって……。
「イア! イ……ま、 ってくれ!」
 エイボンは、思わず んでいた。
 祈祷を中断した途端、 界はあっという間に、元の姿に戻った。空間の捩れは正され、穴は
塞がり、テオはすとんと に降り立つ。
 テオは……なぜか、 りも驚きもしなかった。
「す、すみません! ですが、一つだけ えて下さい。サイクラノーシュへ渡った後、再びこちら
へ戻ることは 能ですか?」
 テオは、なぜそんなことを訊くのかという を……しなかった。
「おそらく…… 理です」
 それを聞いた瞬間、エイボンは全てをかなぐり てていた。恥も外聞も、建前も理性も。
 残ったのは、ありのままの のみ。
(嫌だ……テオさんと、 度と会えなくなるなんて!)
「テオさん、無理を承知でお願いします! この に残ってくれませんか!? その代わり、私
が必ず、父上からお りします!」
「エイボン ……」
 そう……あのテオが、気付いていない がない、エイボンの思いに。
 そして、彼女自身も っているからこそ。
「わたくしも……あなたと にいたい」
 こんなににも、 しそうなのではないか。
「ごめんなさい、エイボン様…… じると言っておきながら、わたくしは、まだ隠し事をしていまし
た」 
「……テオさんは、何も してなどいませんよ」
 そう、確かに彼女は言った。ここに来れば、 遠に父から逃げられると。ただ、彼女は気付い
ていなかっただけなのだ。 
 逃亡の代償だいしょうに、失うものがあることに。
 そう、代償 のない逃亡など、有り得ないのだ。
「父から逃げ、 由になる……それだけが、わたくしの生きる目的でした。しかし、わたくしは、
自分が思っているより、 かに欲深かったようです」
 テオは、夢見る少女のような瞳で る。自分には、未来には、無限の可能性があるのだと、
心から じているかのような。
「もっと、色々な場所を旅したい。 々な経験をしてみたい……あなたと共に」
「ええ、 もです。ですから……」
「でも、 理なんです!」
 一転、 痛な叫びが、全てを遮る。エイボンの言葉も、思いも。
「そんなことをすれば、あなたを 対の危機に巻き込んでしまう……なぜなら、わたくしの父は
……」 
 テオが言いかけた、その ――。
 ――ずんっ、と突き上げるような 撃が、二人を襲った。密林の鳥たちが、一斉に羽ばたく。
「な、 だ……?」
 大地が えている。あたかも、これから起こる事に、恐怖しているかのように。
 高い場所から俯瞰ふかんしていたため、木々の揺れ方で分かった。震動の中心は……。
(ヴーアミタドレス か!?)
 ばりばりばりっ! 雷鳴のような轟音と共に、ヴーアミタドレスの山肌に、幾本もの亀裂きれつが走
る。 
(噴火? いや、あの は、火山ではないはず……)
 エイボンの記憶は正しい。その証拠に、亀裂から、天をく勢いで噴出し始めたのは、溶岩
ではなかった。 
 得体の知れない、灰色の 液だった。
「あ……あ……」 
 テオがよろめく。 
「テオさん!?」 
 慌てて支えるエイボン。テオの顔は、蒼白そうはくだった。彼女の顔色の意味が、人と同じなのかは定
かでないが、それだけは 間違えようがない。
 その瞳を塗り潰す、 望の色だけは。
 灰色の粘液は、雪崩なだれと化して山肌を下り、その麓に灰色の湖を形成していく。そして……ざわ
ざわざわ……。 
「!!」 
 湖が き出した。
 津波のように、 林を削り取りながら、最高級の走竜の、さらに十倍近い速度で……間違い
ない、真っ直ぐにここを 指している。
 有り得ない、自然の きなどでは。
 ――意思がある、 きているのだ。
 ひざまずけ、平伏へいふくせよ。執拗しつようにそう命じる本能に、エイボンは必死で抗う。恐怖……ではない。こ
れは畏怖いふ。人が、上位の存在に対して く感情。
 例えば、 に対して。
 押し潰されそうなエイボンに、テオの呟きがとどめを刺す。
「見つかってしまった……お父 に……」
「父 ……あれが!?」
「はい、全ての 浄なるものの父にして母、アブホース……わたくしの、生みの親です……」
 呆然と、生ける灰 の湖を見下ろすエイボン。テオの“父親”……人であろうはずがないとは
思っていたが、まさかあんなものだったとは。 
 るだと……あんなものから、どうやって……?)
 笑うしかないエイボン。知らなかったとは言え、何と滑稽こっけいだったことだろう……テオもよく、真面
目に いてくれたものだ。
 ぼこぼこぼこ…… 面、いや、アブホースの表面の、至る所が盛り上がり、形を変えていく。
 それらは、 に似て。あるいは、昆虫に似て、魚介類に似て、植物に似て。しかし、同じ形の
ものは、 つとて無い。
(子 、なのか……アブホースの……ま、まさか)
 他に考えようがない。テオも、ああして まれたのだ。
 爆発するように込み上げてきた吐き を、死に物狂いで堪えるエイボン。当然だ。そんな事
をしたら、テオは……。 
 ……ただ、微笑みを浮かべるだけだろう。そして、全てを してくれるのだろう。傷付いてな
ど、いない りをして。
 アブホースの子供たち――つまり、テオの 妹なのか――は、親から這い出ようと、未発達
な手 でもがくが。
 ぎぇぇぇ……ぐぇぇぇ……ぎょわぁぁぁ……。 
 それは叶わず、アブホースが伸ばした触手に まり、あるいはぱっくりと開いた口に飲み込
まれ、あまりに短い 涯を終える。
 テオが言った通りだった。子供に一切の自由を認めない、不寛容ふかんよう極まる親神アブホース。
(も、もう、あんな まで……)
 アブホースはすでに、ヴーアミタドレス山とここの 間点に到達しようとしている。彼が通った
後には、草一本 っていない。
(とても げられない……ならば、せめて)
 もう一度儀式を行い、テオだけでも……そう 悟を決めて、振り返ったエイボンが見たのは。
 輝くような、テオの笑顔だった。これまでの中でも、 高の。
「エイボン様…… まで、ありがとうございました」
 なぜ、そんな ができるのか、エイボンには分からなかった。なぜなら……。
「わたくしは、父の御許みもとへ戻ります」
 …… 女が、そう言おうとしているのが、分かったから。
「まだ遅くはない! もう一 儀式を……!」
「その後、エイボン はどうなりますか?」
 ぐっと言葉に詰まるエイボン。 の覚悟など、テオにはお見通しだった。
「それに、犠牲ぎせいがエイボン様だけで済むかどうか。もし、わたくしを逃した父が、怒りに任せて暴
れたら、 変なことになります」
 テオの言うとおりだ。あんなものが、ウズルダロウムに辿 り着いたら……今度こそ、王国の歴
史は わる。
「いいのです。 い間でしたが、人として過ごせて、テオは幸せでした」
 どうしようもない、これ以上は、 を言っても子供の駄々だ。分かってはいるが、言わずには
いられない。 
「生きることからだけは、 げてはいけない! そう言ってくれたのは、テオさんじゃないですか
……」 
「ええ、 げませんよ」
 え?  わずきょとんとしたエイボンの前で。
 テオは 中から、白い翼を広げ。
 後の最後まで生きます。あなたとの思い出を胸に」
 流星のように、夕焼けに燃える空に飛び立つ。その姿は、なるほど、神の娘に相応ふさわしい美し
さで――。 
 ――がばりと開いたアブホースの口に、その姿 が消える瞬間も、エイボンは一言も発するこ
とができなかった。 

〜9〜
 どれぐらい、そうしていたのだろう。 
 エイボンは呆然と、ヴーアミタドレス山に引き していくアブホースを見つめていた。
 目的さえ果たせば、他のものに 味はないらしい。増してや、エイボンのことなど、気付いて
さえいないだろう。人が、 境中の微生物に気付かないのと同様に。
 無価値、ゆえに無 
 人が神に滅ぼされずにいるのは、たったそれだけの 由でしかない。
「人は……私は……何と 力なのだろう」
 がくりと膝を突くエイボン。突いているのは、大地にではない。神のてのひらの上にだ。もし、何かの
気まぐれで、握り締められでもしたら、いともあっさり されるだろう。
 逃げることすら、 わずに。
(テオさんも逃げられなかった…… がしてやれなかった……)
 ツァトゥグァの首飾りが、祭壇に されている。それだけが、テオがこの世にいた証……。
(それだけ……?) 
  当に……?
(いや、そうではない) 
 だとしたら、この痛みは何だ。この、 臓を捻られるような、別離の痛みは。
(私は、彼女を えている)
 そして、おそらく、この世で唯一、 女の真実を知っている。
 ぬくもりも痛みも、全て彼女が残してくれたものだ。
(これだけは、 わせはしない……たとえ、神にも)
 立ち上がるエイボン。たったそれだけのことに、 まじい気力が必要だった。それでも、彼は
やり げた。
(逃げ ってみせる!)
 テオの思い と共に。
 テオが、最後の 後まで、そうしてくれたように。
 彼は気付いているのだろうか。逃亡者と呼ぶには、あまりに強い光が、己の双眸そうぼうに宿ってい
ることに。 
(そのためになら、何でも利用してやる……一度は げ出した魔術の道でも、同じ神の力で
も!) 
 ツァトゥグァの首飾りを握り締める。耳まで けたその口が、不敵に笑っている。エイボンの
覚悟を、 白がるように。
 エイボンは思った。師匠の になら、この神について記した書物が、残されているかもしれな
いと。 

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 それから、百数十年 ――。
 サイクラノーシュの、 属の大地にて。
 ツァトゥグァの首飾りを手に、空に く大いなる輪を見上げながら、エイボンは呟いた。
「見ているか、テオ……ここには、頑迷な神官どもも、まわしきアブホースもいない。我らは
――自 だ」

〜Fin〜