〜1〜

  、白、白……。
 どちらを向いても、 一色。
 まるで、自分の周囲だけを残して、世界が消失してしまったかのような、 い霧の中を。
 赤無あかむ海上技術学校の練習船〈曙光丸しょこうまる〉は、頼り無さ気に漂っていた。
 同 が教官一名と生徒三名を乗せて、赤無港から実習航海に出航したのは三時間前のこと
だ。本来の予定なら雅忠節まさちゅうせつ湾を一周して、とっくに帰港している時刻だ。
 天気は 晴、波も穏やか、基本的には生徒たちだけで操船させるとは言え、熟練の教官が 監督にいている。事故など起きるはずもなかった。
 しかし、 は気まぐれだ。
 沖に たところで、突然霧が出始め、あっという間に視界は数メートルにまで低下してしまっ
た。この 節に、この海域で、こんな濃い霧が発生するなど、前例がないことだ。
 しかも……。 
「応答 います、応答願います!」
 必死で通信機に呼びかけているのは、金髪碧眼の少年だ。作業服の胸にした名札には 〈三年B組・ウィリアム香坂こうさか〉と書かれている。ハーフだろうか。
 華奢きゃしゃで小柄な体格、柔らかい曲線で構成された優しげな顔立ちは、うっかりすると少女と間違 われそうだ。 っては何だが、これで船乗りが務まるのだろうか。
「こちら、曙光丸!  答願います……だめだ、通じない」
 もう一 間も呼びかけ続けているのに、通信機からはノイズしか返ってこない。
「くそっ、レーダーもGPSもいかれてやがる!」 
 何も表示されないモニターに毒づいているのは、ウィリアムとは対照的な、長身の少年だ。名
札には〈端島満はしまみつる〉と書かれている。
 身長を最大限に活かすかのごとく、切れ長の双眸そうぼうは、常に周囲を見下している。肩まで伸びた髪 は、毛先の ね具合までばっちり計算されており、それがまた、憎らしい程似合っている。
「香坂! お がちゃんと整備しないからだぞ!」
 満の 鳴り声にはしかし、どこか計算めいた響きがある。こいつになら、何を押し付けても大
 だ、と。
 彼に 髪入れずに続けて。
「全くだよ。我々の 績に響いたら、どうしてくれるんだ?」 
 冷たい口調で言ったのは、ひょろりとした体格の、眼鏡の少年だ。名札には〈北条秀一ほうじょうしゅういち〉と かれて いる。
 洗練された物腰は育ちの良さをうかがわせるが、反面、口元には常にびへつらうような笑みを 浮かべている。すすすと音もなく満の背中に回る様子は、まさに虎の を借る狐。
「あ、あの、その……」 
 そんな と秀一に対して、ウィリアムはおどおどするばかりだ。
 確かに、 器の整備を担当したのは、彼なのだが……。
「ご、ごめんなさい……」 
「ごめんで むなら、海審(海難審査会の略)はいらねーよ!」
 満がさらにいきり立って……いるふりをしつつ、このままウィリアムに 責任を押し付けてしま おうと目論もくろんだ、その時。
「おいおい、喧嘩けんかはよせって」
 さばさばしたその声に、ウィリアムははっと表情を輝かせ、逆に満と秀一は、ぎくりと顔を強張こわば
せる。
 どっと流れ込む霧と共に艦橋かんきょうに入ってきたのは、二十代半ばの青年だった。満よりさらに長身 で、加えて制服の袖からのぞく腕は、しなやかな鋼のような筋肉に覆われている。
 ぴんと跳ね上がった太い眉と、 を思わせる鋭い目つきは男らしいが、意外に細いあごや、す っきりした鼻梁びりょうなど、女性的なパーツもあり、男臭くなり過ぎるのを防いでいる。
 名札には〈三年B組担任教官・山本亮やまもとりょう〉と書かれている。まだ若いが、学校や生徒の信望厚い、 腕利きの教官だ。彼が 光丸の乗組員中、唯一の大人だ。
「実習中の事故は、 官の責任だよ。お前らの成績が下がったりはしないから、心配すんなっ
て、な?」 
 まるで友達と話しているかのような、 さくな口調。それでいて、大人の威厳も兼ね備えてい
る。そんな師を、ウィリアムは もしげに見つめ、一方、満と秀一は叱られた犬のように縮こま
っている。 
「こんな霧の中を、 眼で進むのは危ねえし……しょうがねえ、霧が晴れるまで待機だな。あ あ、端島と北条、他の船が通りかからないか、甲板かんぱんで見ててくれるか? 霧の中悪いが」
「りょ、 解しましたっ!」
 これ幸いと甲板に飛び出す二人を、亮は溜息交 じりに見送った。それを自分に対するものと誤解 したのか、ウィリアムが てて頭を下げる。
「す、すみません、 官。僕がちゃんと整備しなかったから……」
「いいって、いいって。そりゃ一人でやらされたんじゃ、 落としの一つや二つあって当然だよ」
「え?」 
 もちろん、彼には 部お見通しだった。
「あの二人に、 備を押し付けられたんだろ、香坂?」
「あ、いや、その……」 
 本当なら、 全員でやるべきことなのだ。責任と言うなら、あの二人こそ追及されてしかるべ
きだろう。 
「あの二人にも ったもんだな。船乗りに何より必要なのは、チームワークだってのに。お前も
嫌なことは だって、はっきり言わなきゃ駄目だぞ?」
「は、はい……」 
 うつむくウィリアムに、 笑する亮。こんな性格だからだろうか、生徒たちの中でも、彼には特
別目をかけてきた。今では、二人は 弟と言うより、歳の離れた友人か、兄弟のような間柄だ
った。 
(しかし、 だな……)
 沈黙してしまった機器を見て、亮は内心首をかしげる。曙光丸は普段から念入りに整備されて
おり、事実、 航前は何の異常もなかった。
 にも関わらず、艦橋の 器類の全てが、同時に壊れるとは。
(ま、万全を尽くしても、 れる時は壊れるか) 
 亮の顔には、微塵みじんの動揺もない。嵐の海を三日間漂流したこともある彼にとっては、こんなも の、トラブルの にも入らない……のだが。
 ちらりと 目で見ると、案の定、ウィリアムの青い瞳は、視界を閉ざす霧を不安げに見つめて
いる。今にも を割って、何かが出てくるのではないかと、恐れているかのように。
「あ、あはは、やっぱり を甘く見ちゃいけないですね。いい勉強になりました」
「……そうだな」 
 亮が ていることに気付いた途端、慌てて笑みを浮かべてみせたが、無理をしているのは明
らかだった。何とか彼の不安を紛らわせられないかと思案した亮の脳裏のうりに閃いたのは、故郷の
湘南しょうなんの海だった。
 江ノ島えのしまを背景に、波頭きらめく湘南の海は、亮の原風景だ。
「なあ、 坂。俺の実家の話は覚えてるか?」
「あ、はい、 か代々船乗りの御家系でいらしたとか」
 いきなりそんな話題を振られて戸惑いながらも、ウィリアムは律儀りちぎに答える。
「ああ、それで 応、船を持ってるんだ。オンボロだけどな。で、今度の連休に、里帰りがてら、
ひさびさに乗りに行ってみようと うんだけど……良かったら、お前も来ないか?」
「え? いいんですか?」 
 ウィリアムの 女のような顔に、霧も吹き飛ばしそうな笑顔が浮かぶ。
「ああ、お前に 船させてやるからさ。いい練習になると思うぜ。そうそう、海の近くだから、刺
身も いぞ〜」
「よ、喜んで! うわあ、 しみだなぁ」
 そんな に、亮がせっかく明るくした雰囲気を。
 突如襲いかった、突き上げるような衝撃が、跡形もなくぶち壊した。

〜2〜

「どうした!?」 
 甲板に飛び出した亮とウィリアムを出迎えたのは、狼狽ろうばいしきった満と秀一だった。
「わ、 かりませ……うわあっ!?」
 ぐらりと甲板が傾き、危うく満が海に転げ落ちそうになる。とっさに亮が腕をつかんで助けたが、
傾きは一 に戻らない。
「何かに まれ!」
 生徒たちにそう指示し、自らは海に落ちないよう、慎重に船側せんそくを覗き込む。
(……!?) 
 亮は目を 張った。
 鋼鉄製の船体に、直径一メートルにも ぶ穴が開いている。
(何でこんな が……!?)
 まるで、魚雷でも打ち込まれたかのようだ。海水が轟々ごうごうと穴に流れ込んで……沈没は避けられ ない。 
 亮は即決した。危機におちいれば陥るほど、冷静になれるのが彼という男だ。
「脱出するぞ、 命ボートの準備だ!」
 亮の 喝が、パニックに陥りかけていた生徒たちを、我に返らせる。
 見 いとは言え、生徒たちも船乗りの端くれ、救命ボートの使い方は学んでいる。
「よし、 すぞ!」
 四人を せた救命ボートが離れて間もなく、曙光丸は海底に没していった。
「みんな、怪我 はないか?」
「は、はい!」 
「しかし、一 、何があったんだ……?」
 亮の経験をってしても、判然としない。生徒に操船させることを前提にしている曙光丸は、 小型ながら頑丈 に造られている。その船体に、あんな大穴が開くなど……。
「漂 物でもぶつかったんでしょうか?」
 ウィリアムの きに、すかさず満と秀一が反応する。
「ば、 鹿言え! 俺らはちゃんと見張ってたぞ!」
「でも、 も見えなかったんだ!」
「べ、別に、 島君たちを責めてる訳じゃ……」
「分かってるって。 流物がぶつかったぐらいじゃ、あんな大穴は開かねえよ。多分、暗礁あんしょうに乗り 上げたか、エンジンが 発でもしたんだろう」
 そう いながら、亮は自分の推測を、内心疑問に思っていた。この海域には暗礁などないし
――そうでなければ、 習船の航路にはできない――、エンジンの爆発にしては、火も煙も出
なかった。 
「そ、それで、 々、大丈夫なんでしょうか?」
 秀一がおずおずと ねる。
(おっと、いけねえ。 としたことが)
 一番 先すべきことを、後回しにしていたとは。さすがに、少し動揺していたらしい。
 優先すべきこと…… うまでもない。生徒たちを安心させてやることだ。事故原因の究明な
ど、 でもできる。
「なぁに、 配いらねえよ。学校がすぐに救助を手配してくれるさ。位置も大体分かってるんだ
し、長くても一日の辛抱 だよ」
 亮の 証に、ようやく生徒たちもわずかに緊張を解く。
「よし、 応、備品類の確認をしておこう。まあ、必要ないだろうけどな」
「はい!」 
 乾パンや 料水を数え始めた生徒たちを尻目に、亮は曙光丸が沈んだ辺りを悲しげに見つ
めた。 
 まあ、船舶せんぱく保険には入っているから、経済的損失は然程さほどではなかろうが……船乗りにとって、船 はただの 具ではないのだ。
 徒たちとの思い出が詰まった、大切な船だったのにな……)
 心の でだけ、そっと涙を流した、その時。
(……!?) 
「教官、備品は全部そろってます!」
 満が 表して報告する。
 しかし、 事はない。
「あの、 官?」
「そ、そうか、 かった」
 亮は息がまりそうになるのを、必死でこらえていた。
(何だ、 のは……)
 ほんの 瞬だった。しかし、確かに見た。
 曙 丸が沈んだ辺り、その波間の下で、巨大な影がうごめくのを。
 見えた 分だけでも、曙光丸と同じぐらいの大きさだった。
くじら……いや、の塊か?)
 理性は無難ぶなんな可能性を列挙れっきょするが、本能は猛然と反論する。あれは、そんな見慣れた海の住
人ではない。だって、あれは――。 
 ――こちらの様子を、じっとうかがっていた。暗い海中から、悪意に満ちた眼差まなざしで。
 もしや、あれが曙光丸を……突拍子とっぴょうしもない所に走りそうになる思考を、慌てて引き戻す。
 だが、 いにもと言うべきか、次の瞬間、それどころではなくなった。
「きょ、 官、あれは……!?」
 今度は、 徒たちから動揺の叫びが上がる。
「どうした?」 
「前方に…… かが……」
 この霧の中でも、輪郭りんかくだけは分かった。
 ……!?」
 曙光丸とは 較にならない大きさだ。全長は100メートル近いだろう。圧倒的な威圧感を放っ
ている。 
 かった!」
 すかさず、 品の中にあった信号銃を発射する。弾は霧の中でも明るく輝き、船の姿を照ら
 した。
 ほぼ灰色一色の無骨ぶこつな外観。あちこちから突き出している……。
(砲身? ということは、 艦か?)
 動きは られない。どうやら、停船しているようだ。
「運が かったですね、教官!」
 ウィリアムははしゃいでいる。そう、それが 然の反応のはずなのに。
「あ、ああ、そうだな……」 
 亮は素直に喜べない。その軍艦が わせる、異様な雰囲気のせいだ。 
 霧の海に静かにたたずむ様子は、死者を迎えにやって来るという、三途さんずの川の渡し舟のようだ。
 しばらく待ってみたが、 艦に反応はない。
「ま、まさか、 付いていないんじゃ……」
「ちくしょう、さっさと 付きやがれ!」
 苛 った満が信号銃を連発するが、状況に変化はなかった。
「しょうがない、もう し近付いてみよう」 
 万が一、急に相手が動き出した 合を想定して――あんなものに接触されたら、それこそひ とたまりもない――慎重にオールをいだが、杞憂きゆうに終わった。
 軍艦は くどころか、物音一つ立てない。海に建てられた壁の如く、ただ静かに亮たちを見
下ろしている。 
 近付くにつれ、 側に書かれた船名が見えてきた。英語のようだ。
(アメリカの 艦か? 変だな、この近くを通過するなんて話は聞いてないが)
 船 は……。

USS Eldridge DE173
 
「エルドリッジ!? フィラデルフィア実験エクスペリメントの……!?」

〜3〜

 フィラデルフィア実験エクスペリメント
 超常現象に興味のある 間なら、一度は聞いたことがあるだろう。亮たちも、合宿の怪談大
会で いたことがあった。
 第二次世界大戦の真っ只中ただなかの、1943年10月28日。アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィ アで、駆逐艦くちくかんエルドリッジを使って、大規模な実験が秘密裏に行われた。
 それは、 場発生装置テスラコイルを使って、エルドリッジを強力な磁場で覆い、レーダーに
映らなくするというものであった。 功すれば、アメリカは海戦において、圧倒的に優位に立て
るだろう。 軍上層部の期待は高かった。
 そして、 験当日。
 エルドリッジの船内に搭載とうさいされた実験機器のスイッチが入れられると、強力な磁場が発生、同 艦はレーダーに く映らなくなった。
 実験成功。しかし、実験関係者たちの喜びは、次の瞬間、驚愕きょうがくに変わった。
 海面から 如、発生源不明の緑色の光が湧き出し、エルドリッジを覆い始めたのだ。その姿
は、見る るぼやけて……何と、レーダー上どころか、現実の空間からも、完全に消えてしま
ったのだ! 
 実験関係者たちは 信機でエルドリッジに呼びかけたが、応答はなく……どうすることもでき
ないまま、 分間後。彼らは再び、驚愕の光景を目の当たりにする。
 再び発生した 色の光と共に、エルドリッジが戻ってきたのだ。あたかも、消えた時の様子
を、逆再生するかの く。
 慌てて 内に入った実験関係者たちが見たのは……惨状だった。 
 体が燃え上がって火達磨ひだるまになっている船員。冷凍のまぐろの如く凍りついてしまった船員。体が甲板 や壁と融合ゆうごうしてしまった船員。肉体的には無事だった船員も、多くが精神に異常をきたし、エルド リッジの 部はまさに地獄絵図の如くであった。
 行方不明・ 亡16人、発狂者6人。それが、実験の結果だった。
 海軍上層部は 明に困り――あるいは、純然たる恐怖ゆえか――実験を隠蔽いんぺいした。
 これが世に言う、フィラデルフィア実験の顛末てんまつである。

「でも、 かあの話は……」
「ああ、 り話だよ、もちろん」
 エルドリッジは実在する だが、後にギリシャ海軍に払い下げられ、1991年に役目を終えて
解体された。その間、 常現象に見舞われたなどという記録は、無論ない。
 そもそも、 常現象・フィラデルフィア実験が世に広まったのは、1956年に作家モーリス・ジェ
ソップの に、カルロス・マイケル・アレンデという人物から手紙が送られてきたことに端を発す
る。 
 手紙には実験の詳細しょうさいが記されていたというが、おそらくアレンデは、海軍工廠こうしょうで様々な実験が行 われていたという事実を元に、これらの逸話いつわを創作したのだろう。むろん、ちょっとしたジョークの つもりで。
 世間一般の 々と同じく、そうだとばかり思っていた、亮たちの前に。
 エルドリッジの 体は、冷然とそびえ立っている。
「ど、どういうことでしょう……?」 
「ふふん、 まってるじゃないか」
 秀一がしたり で語る。
「きっと、ギリシャ 軍に払い下げられたエルドリッジは、偽物だったのさ。同じ型の艦は他にも あるだろうし、 名を書き換えるぐらい、アメリカ海軍の権限があれば何でもない。そして、本 物のエルドリッジは、 際には二度とフィラデルフィアに戻ることはなかった……こうして、五十 年もの間、海を彷徨さまよっていたんだ」
「そ、そうだったんだ!」 
 と、まだ くて、脳が柔軟な生徒たちは、あっさり納得しているが。
(おいおい) 
 さすがに亮は大人。そこまで一足飛びに、常識の垣根かきねは超えられない。
(しかし、なあ……) 
 目の前にEldridgeと名を まれた船が浮かんでいるのは、紛れもない現実なのだ。
「I'm sorry! Is there someone?」 
 ウィリアムが 語で呼びかけてみたが、返事はない。
「誰も っていないんでしょうか?」
「みたいだな……」 
 こんな大きな に、見張りがいないなど、通常なら有り得ない。少なくとも、この船が完全に放
棄されているのは、 違いない。
「す、すげえ!  たち、有名人になれるぞ! 伝説の船エルドリッジの発見者として!」
 満が 奮した様子で叫ぶ。さっきから黙っていると思ったら、そんなことを考えていたらしい。
「教官、 り込んで調べてみましょうよ!」 
 亮もエルドリッジに乗り移ることは考えていた。もちろん、満のような功名心こうみょうしんからではなく、生徒た ちの 全のためだ。
 救助が来るまで、長くて一 程度とは言え、その間に天候が悪化しないとは限らない。こんな
小さなボートに揺られているより、 丈で安定した軍艦の方が安全だろう。
 にも関わらず、 はなぜか即答できない。
(何か…… っかかる)
 原因不明の 故で曙光丸が沈み、そこへちょうどエルドリッジが現れた……まるで悪しき運 命が、自分たちをあの船へと、おびき寄せようとしているかのようではないか。
(馬鹿言うな、 えすぎだ)
「そうだな。 断で乗船するのは気が引けるが、緊急事態だ」
 自分では、使 命を優先したつもりだったが。
 さすがの も、気付いていなかった。 
 波 の下に見た、異様な影。もし、あれが姿を現したら……そんな不安が、己の判断に、わず かながら じっていたことにまでは。

〜4〜

 幸い、非常用の梯子はしごが下がったままになっていた。それを足がかりに、甲板に上がる。
 甲板に並ぶ 身や機雷の発射機構は、どう見ても本物だ。映画のセットという可能性は消え
た。 
 それに加え、その表面はさびで覆われて、ぼろぼろだった。少なくとも、相当古い船であること は間 いない。
(本当に五十年間、 を彷徨っていたんだろうか?)
 だとしたら、こんな巨大な 艦が、なぜ今まで発見されなかったのだろう。
(まあ、 は広いからな……いずれにせよ)
「この船の 信機が使えないかと思ったんだが、こりゃ無理っぽいな……しょうがない、ここで
 か」
 正直、こんな で寝るのはぞっとしないが。
「手分けして、休めそうな場所を探そう。1時間後にここに集合だ。ああ、それと兵器のたぐいには
 るなよ」
「はい!」 
 亮とウィリアムは、 体前部を担当することになった。二人きりになってみると、改めて周囲
の静けさを実感する。 に入るのは、波が船側に当たるちゃぷちゃぷという音だけ。50年前か
ら、時が まっているかのようだ。
(まるで 霊船だな……)
 という 想は、胸の内にしまっておく。ウィリアムを怯えさせては悪いので。
 錆付きかけたドアをこじ け、船内に入る。
 壁や床に、体が融合してしまった 員――あの一節が脳裏をよぎる。そのままの姿で骸骨に なった彼らが、恨めしげにこちらを睨んでいる……そんな幻影を垣間かいま見て、さしもの亮も冷や汗 にじんだ。
 もちろん、 際には何もなかったのだが。
(やれやれ、昔の 乗りは迷信深かったそうだが……俺にも、その血は流れているってことか
な) 
「……やっぱり、ちょっと 味が悪いですね」
「はは、まあ、ただでお化け 敷に入れたと思えば、得した気分だろ?」
 潮風の 響を受けない分、船内は錆付いておらず、当時の面影を残している。食堂には食
器が並んでいるし、ロッカールームには、 員の制服がハンガーに掛けられたままになってい
た。この船に、 勢の船員が乗り込んでいたことは確かだが……。
(船員は 難したんだろうか。でも、なぜ……)
「きょ、 官!」
 反対側の 屋を見ていたウィリアムから、動揺の声が上がる。どう聞いても、さっきの軽口を
真に受けて、 談で言っている風ではない。
「どうした?」 
 続いて き込んだ亮も、呆気に取られる。
 だ、こりゃあ……」
 ドアにはRest room(休 所)と書かれているが、中にはテーブルも椅子もなかった。がらんと
床が がるばかりだ。
 その床 体に、奇妙な絵が描かれている。
 円と四 を組み合わせた図形の中に、古代の象形文字をいくつも散りばめたような。
 魔方陣。西 魔術などで、魔力を秘めると信じられた図形……だということは、かろうじて亮
にも かったが。
 それが 艦の床に描かれている理由は、見当も付かなかった。

〜5〜

 実 当日、エルドリッジの船内にはテスラコイルを始め、多くの実験機材が運び込まれたと
言うが、それらしい はいくら探しても見つからなかった。
 その代わり……と っても、いいものかどうか。
「こ、ここにも……」 
 休 室だけではなかった。船内の至る所に、あの奇妙な図形……魔方陣が描かれている。
 それは、 艦の無骨な内観と相まって、奇怪極まる光景になっていた。
「何のために いたんでしょう……?」
「……さっぱり からないな」 
 やがて二人は、乗組員の寝室らしき部屋を見つけた。ボロボロの寝台が、ひつぎのように並んで
いる。 
(ん? これは……) 
 寝台の のサイドボードに、小さな手帳が置いてある。船員の私物だろうか。手に取った亮
の目に、おそらく ち主の名だろう、表紙に書かれた文字が飛び込んでくる。

Carlos Michael Allende 


「カルロス・マイケル……アレンデ!?」 
 フィラデルフィア 験の詳細を、手紙で密告したという人物だ。
「そうか、エルドリッジの 員だったんだな……」 
 ぱらぱらとめくってみる。頻繁ひんぱんに日付が書かれているので、日記に違いない。この船で何が起こ ったのか、 かるかもしれない。
「香坂、 めるか?」
「や、やってみます」 
 ウィリアムの細い指が、文章を慎重に辿たどる。
 最初の 付は1943年10月24日……フィラデルフィア実験が行われたとされる日の4日前だ。

 ――1943 10月24日。
 実験の 備が始まる。しかし、上層部は本気なのか? これでは、我がアメリカも、オカルト 傾倒けいとうしているというヒトラーを笑えないではないか……。

 流麗な筆跡だ。亮にも、筆者アレンデの教養の高さはうかがい知れた。個人的な日記とは言え、 いい加減なことを く人物ではなさそうだが……。

 ――1943 10月25日。
 船内のあちこちに、 方陣が描かれた。何でも、ミスカトニック大学が所蔵する、ネクロノミコ ンとかいう 道書を参考にしているらしいが。魔道書……そんなものが実在するなんて、始め  った。 

「あの 方陣は、実験で描かれたのか……」
 エルドリッジ で実験が行われたのは、事実だったらしい。
 だが、用いられたのは、テスラコイルではなく……あの 方陣だったというのか。

 ――1943 10月26日。
 実験で詠唱えいしょうする呪文を練習させられた。ざいうぇそ? うぇかと・けおそ? 私は辟易へきえきしていたが、 我が愛しのエミリア・ハーバー 軍看護士は、結構面白がっている。成功したら、最高のハ
ネムーンになるわね、と。 

 この には、アレンデの婚約者も乗っていたらしい。
(ちぇ〜、うらやましいこって……いやいや、そんなことはどうでもいい)

 ――1943 10月27日。
 明日はいよいよ 験本番だ。何でも天体が、儀式を行うのに最も適した配置(太陽が第五の 宮に入り、 星が三分の一対座になる、だったか?)になるらしい。まあ、何も起きるはずもな
いが……。 

「時期は、 全に一致してますよ。やっぱり、フィラデルフィア実験は本当に行われていたん
だ!」 
「けど、なあ……あんな 書きで、何ができるって言うんだ?」
 わくわくしているウィリアムには いが、亮はアレンデと同意見だった。
 だが、ページをめくった 端。
(……!?) 
 二人は、 く同じ表情になった。すなわち、当惑の表情に。
 英語が めない亮の目から見てさえ、前のページとの落差は明らかだった。
 ミミズがのたくったような が、ちぐはぐに並んで、かろうじて文章を形成している。まるで、必
死で震えを えながら書いたような……。
 が……あったんだ)

 ――1943 10月28日。
 何が起こったんだ…… 方陣を囲んで、例の呪文を唱えていたことまでは覚えているが……
みんな、いなくなってしまった。 
 ここはどこだ……フィラデルフィアにいたはずなのに……一 の霧……レーダーは作動しな い…… 信機に呼びかけてみたが、応答はない……。

 ……どう 釈すればいいのだろう。
 官……」
 亮が 惑しているのを見て、ウィリアムも不安そうにしている。
「ああ、すまん。とりあえず、 後まで読んでみよう」
「は、はい」 

  中の幸い、エミリアは無事だった。少し具合が悪そうだが、外傷はない。あいにく彼女 も、何が起こったのかは らなかった。
 救助艇はあるが、ここがどこかも からないのに、漕ぎ出すのは危険だ。相談の結果、船内 に留まって救助を待つことにした。 い、食料は十分ある。神よ、我らを守りたまえ……。


〜6〜

 ちょうど、その 
 満は秀一を従え、意気揚々いきようようと船内を闊歩かっぽしていた。
「へへ、やべーよ、やべーよ、テレビの 材とか来ちゃったりして……」
 すでに の頭の中には、エルドリッジの発見者として、マスコミのインタビューに応じている様
子が かんでいるらしい。
 そんな調 子だから、気付けるはずもなかった。
 薄闇がよどむ通路の奥を横切った、かすかな影に。
(う?) 
 下半身に 張を感じる満。昨夜、こっそり飲んだビールのせいだろうか。
「おい 条、便所ねーか?」
 自分で す気など、毛頭ないらしい。
「は、はい、えーと……あ、あそこにありますね。でも、 分水は出ないですよ」
「構いやしねーよ、ちょっと ってろ」
 慌てて駆け込み、 の前を通り過ぎようとした、その時。
(……え?) 
 凍りついたように、 が止まる。
 本能が激しく えている。鏡を見ろ、鏡を見ろ……。ぎぎぎと、錆付いたロボットのような動き
で首を捻り、 を見ると……。
 自分の顔のすぐ に、半透明の青白い顔が映っていた。
「ひっ!?」 
 しゃっくりのような悲鳴を上げ、はじかれるように振り返ると……。
  もない。
「な、何だ、おどかしやがって……」
 ガラスの りが、人の顔に見えたのだろう。
(周りに もいなくて良かったぜ)
 乱れた 吸を整えながら、鏡に向き直り……。
「!」 
 息が まった。
 鏡から、 透明の上半身が生えていた!
 そう、あの は、満の背後を写した鏡像ではなく、目の前にいた実物・・だったのだ。 
 Help……Help me……地獄の底から響くようなうめきを上げながら、半透明の両腕で満にすが  こうと……。
 …………。 
「あ、あのー、まだですか〜」 
 数分 、待ちかねた秀一がトイレを覗き込んだが。
「……あれ?  島さん、どこですか?」
 返 はなかった。

〜7〜

 アレンデの日記は、日付が進むにつれて、ますます常軌じょうきいっした内容になっていく……。

 ――1943 10月28日。
 船内に された記録から、実験の詳細を知った。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、大 いなる 在を召喚するものだったらしい。何でもその存在とは、あらゆる時と空間を自在につな ぐことができるらしく……その を借りて、艦を一瞬にして離れた場所に移動させる。それが実 験の目 だったというのだ。
 以前の私なら、一笑いっしょうに付していただろう。しかし、他ならぬ、我が身で体験してしまった……こ こはどこなのだ? 霧は一向に れない……。みんなはどこへ行ってしまったのか……。

 ――1943 10月29日。
 エミリアが なことを言い出した。ロバートの亡霊を見たと怯えている。こんな状況で、精神的 に不安 になっているのだろうか。

 ――1943 10月30日。
 確かに た……ロバートの亡霊だ……ここはどこだ、助けてくれ、と言っていた……。

 ――1943 10月31日。
 ロバートだけじゃない…… 長もアンドリューも、天国にも地獄にも行けずに、船内を彷徨っ ている……いずれ、 分もああなるのでは……。
 一刻も く逃げ出したかったが、エミリアの体調が思わしくない。自分は置いていけと彼女は 言うが、 論、そんなことはできない。

 ――1943 11月1日。
 エミリアは夜 うなされている。寝言を言っている。『忌まわしいものが私に宿って』『私の中で うごめいて』。気のせいだろうか。彼 の腹が……。

 ――1943 11月2日。
 やはり のせいではない。彼女は妊娠している。エミリアはうろたえているが、どんな状況で も、生命の 生は喜ぶべきことだ。無事に戻れたら、正式に結婚しようと言うと、ようやく少し微
笑んでくれた。 

 ――1943 11月3日。
 今日も 助は来ない。だが、最後まで諦めない。必ず生きて戻って、彼女と……。

 ――1943 11月4日。
  まれた……。
(以下、ほとんど文章のたいしていない、でたらめな単語の羅列)
 生まれたエミリアの を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない 父親は私じゃないあれは人間じゃない まわしい取替え子有り得ない逃げるしかないおお神
よ! 
(少しだけ、 ち着きを取り戻して)
 これを んでいる人よ。どうかこの呪われた船を沈めてくれ。そして、二度とネクロノミコンに 記されている 在を呼び出すなかれ。神よ、エミリアの魂に安らぎを。

 …… 記はここで終わっている。
「…………」 
 ウィリアムは真っ青になって、あの支離滅裂しりめつれつな殴り書きのページを見つめている。今にも卒倒しそう だ。亮は慌てて、彼を安心させる言葉をひねり出した。
「おいおい、こんな話、 に受けるなよ。要するに、アレンデはちょっとおかしくなってたんだっ
て。長い 流のせいでな」
「そ、そうなんですか……?」 
「ああ、一 すると、怪奇現象のオンパレードだが、どれも常識で説明が付くよ」
 そう口に出してみると、 思議とすらすらと説明できた。
「おそらく、エルドリッジが に出たところで、何らかの事故が起きて、航行不能に陥ったんだ。
他の 員たちは避難したが、うっかりアレンデとエミリアの二人だけが取り残されちまった。そ
れに 付かずに『みんながいなくなった、船が瞬間移動した』と勘違いしたんだろう。おかしな
 のギシキをやらされたことも、思い込みを助長したんだろうな」
「で、でも、ここはフィラデルフィアとは、 球の反対側ですよ? いくら何でも、途中で気付きそ
うなものですけど……」 
「元は、フィラデルフィアの くに浮かんでいたんだろう。でも、それから50年も経ってるんだ。
海流に流されて、 球を半周しても不思議はないさ」
「な、なるほど」 
「船員の亡 は、言うまでもなく、漂流のストレスによる幻覚だな」
「エミリアさんは、出 時の出血か何かで亡くなったんでしょうか?」
「いや、 記の日付からすると、アレンデが妊娠に気付いてから、二日しか経っていない。そん
なに早く赤ん が産まれる訳がないから、多分、エミリアの死因は何らかの病気だろうな……」
 そして、 約者の死というショックが、アレンデのぐらつきかけていた正気を、完全に崩してし
まったのだ。 
 ……という、 の推理が終わる頃には、ウィリアムの顔に血の気が戻っていた。
「なぁんだ、つまり、フィラデルフィア 験の真相って……アレンデの思い込みだったんですね」
「それプラス、アメリカ 軍のトンデモ実験だな」
 そして、エルドリッジを 出したアレンデは十数年後、ジェソップに手紙を送ったのだ。自らの
妄想を書き殴った 紙を。 
 それを元にして、ジェソップが 常現象・フィラデルフィア実験を創作したのだろう。まあ、さす がにそのままでは信憑性しんぴょうせいがないと思ったのか、魔方陣が当時最先端の機械だったテスラコイルに なったように、あちこち 正されてはいるが。
「分かってみれば、あっけないですねぇ。アレンデとエミリアさんには 情しますけど……」
「そうだな……まあ、こうして真相に気付いてやれただけでも、少しは供養くようになるだろう」
 ……亮は 付いていない。
 この 測で納得しておく方が身の為だと、自分に言い聞かせていることに。
「おっと、そろそろ 合時間だな。いったん戻るか。端島たちにも教えてやろうぜ。フィラデルフ
ィア実験の 相を」
「がっかりしちゃいませんかね」 
「いやあ、ある 味衝撃だろ。昔のこととは言え、天下のアメリカ海軍が、こんなことをしてたな
んて」 
 そうして、 とか自分を納得させたつもりだったのだが。
 立ち上がったはずみに、ふと、 い出してしまった。
 “気付かない方が の為”なことに。
「そういえば、アレンデは、エミリアのことは 紙で伝えなかったんだろうか」
「みたいですね。 女は、ジェソップの話には全く出てきませんし」
 たとえ妄想にせよ、なぜ 女のことだけ隠したのだろう。思案する亮の目に、隣の部屋のドア
が飛び んできた。
 ドアにはDispensary(医 室)と書かれている――亮にも、これぐらいは読める――。
(もし、船内で女性が産 付いたら、どうする?)
 気が くと……。
 亮の は、そのドアに向かっていた。
「教 ……?」
 ウィリアムが 惑っているのにも、気付かない。まるで、不可視の力に操られているように、ド
アノブに がかかる。
(そうだ、当 、ここへ運び込むはずだ)
 ……亮の 乗りの本能は、もうとっくに気付いていたのかもしれない。このドアの向こうから
漂ってくる、 体の知れない空気に。
(もしも、あの 記が……)
 ドアノブを し……。
(アレンデの 想でなかったら)
 一気に き開けた。

〜8〜

 その部屋は、元は 務室らしく、白い内装でまとめられていたのだろう。
 その清楚せいそな白を。
 赤茶けた が、跡形もなく汚している。
 ベッドの上で 発するように弾け、薬品棚にびちゃびちゃと飛び散り、床一面を染める、その
 が……。
 ……何の なのか分かったらしく、ウィリアムがよろめいた。
「血……? これが、全 ……?」
 まるで、人体を 破でもしたかのようだ。
(違う、エミリアの 因は病気なんかじゃない)
 かと言って、出産時の出血などでもない……そう、通常の’’’出産では。

 生まれたエミリアの を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない 父親は じゃないあれは人間じゃない忌まわしい取替え子有り得ない逃げるしかないおお神
よ! 

 なぜアレンデが、エミリアのことだけは、 紙にも書かなかったのか、今なら分かる。
 恐ろしかったからだ。思い出すことさえ、耐えがたい程に。
(違う、あの日記は、アレンデの 想なんかじゃない)
「きょ、 官……」
 ウィリアムが、 の腕にすがり付く。
「ああ、 かってる……」
 無論、これで全てが判明した訳ではない。エミリアがを産んだのかなど、分かるはずもな
い。
 しかし、 つだけはっきりしていることがある。
「この船を れよう……」
 ここは、 のいるべき場所ではない。

 そして、 人が医務室を走り去った直後。
 窓から差し込む光が、何かにさえぎられた。
 それはずるずると船側をい上がり、窓越しに二人を見つめて……。

〜9〜

 甲板に出ても、 変わらず視界は一面の霧に閉ざされていた。
 あるいは、 十年前から一度も晴れたことがないのかもしれない。そうだとしても、もう亮は
驚かない。 
 この船は、 われているのだから。
「きょ、 官?」
 集合場所で っていた秀一は、亮の剣幕に面食らっている。
「脱出するぞ、 助ボートに移れ!」
「え? どうして……」 
「訳は で話す!」
 有 を言わさず命じてから、亮は気付いた。
「……端 はどうした?」
「それが、トイレに ったきり、いなくなっちゃって……」
 顔を 合わせる、亮とウィリアム。
「い、 っときますけど、端島さんが勝手に……」
「そのトイレはどこだ?」 
「こ、こっちです」 
 さすがの 一も、言い訳している場合ではないと察したらしい。二人を案内して走り出す。
 問 のトイレにはすぐ着いたが、やはり満の姿はどこにもない。
「端 さ〜ん! 教官に怒られますよ〜!」
 秀一の びかけにも、応える者はない。
 ぉぉぉ……廊下の奥から、かすかな反響が返ってくるばかりだ。
「もう、しょうがないな〜。あ、 分はこっちを探してきますね」
「いや、ばらばらになると……」 
 危ない、と言おうとした亮が、戦慄せんりつに凍り付く。
 秀一は 付いていない――。
 ――背 の壁から生えた、半透明の両腕に! 
 それは、まるで存在しないかのように壁をすり抜け、たちまちおぼろな全身をあらわにする。変わり果 てた姿になっていたが、 違いない。
「端 ……!?」
 タスケテクレェェェ……タスケテクレェェェ…… 響などではなかった。そのおぞましくも哀れ
な呻きは、半透明の にぽっかり開いた、ブラックホールのような口から発せられている。
「え……?」 
 秀一が、ようやく 後の気配に気付いて、振り向いた……時には、もう遅かった。
 満の半透明の が、秀一の肩を掴む……いや、突き抜ける。そこを起点に、みるみる秀一
の体が き通っていく。
 ああああああアアアアアアAAAAAA…………。 
 それに比例して、秀一の 叫が変質していく。どんどん低くなり、この世のものでない響きを
び……。
 ココハドコダァァァ……ナニモミエナイィィィ……。 
 満の きと区別が付かなくなる頃には、秀一も全身が半透明になっていた。
 呆然としていたウィリアムが、ようやく 鳴を上げる。
 それに応えるかのごとく、 から床から、次々と半透明の手や首や上半身が現れる。その多
くが、船員らしき 装をしていた。
(こ、これが……!?) 
 アレンデが日記に記した“ 員の亡霊”なのか。
 Help me……Anything is not seen……Darkness……Darkness……。 
 壁から き出した首が、英語らしき呻きを上げている。アレンデはこの光景を手紙に書き、ジ
ェソップはそれを元に“床や と融合してしまった船員”を創作したのだろう。
(亡 ……)
 窮地きゅうちに陥った亮の頭脳が、限界速度を超えて回転しているのか。アレンデが用いたその表現 は、正確ではないことを 感する。
 彼らは死んだ ではない。おそらく、エルドリッジが瞬間移動――その可能性も、もう亮は疑 っていない――した際、移動に連いて行き損ねて・・・・・・・、時空の狭間はざまに取り残されてしまったのだ。
 それから五 年以上、彼らは死ぬこともできずに、船内――に隣接する時空の狭間――を 彷徨い けている。
 そして、 らに触れられた者もまた、時空の狭間に引きずりこまれ、その仲間入りをする羽
目になるのだ。 や秀一のように。
「端島、北条、 ち着くんだ!」
 必死で呼びかけるが、満や秀一の目に、最早欠片もはやかけらも理性が残っていないのは明らかだった。
他の船員たちは言うまでもない。 空の狭間に引きずり込まれる感覚、それは、僅か数秒で
人間の理性を 壊するに十分らしい。
 呻きの不協和音を響かせながら、じりじりと包囲網をせばめてくる。彼らの頭にあるのは、時空 の壁越しに、わずかに感じる人の気配にすがることのみ。それが、同類を増やす結果に終わる だけとも らずに。
(止むを ない……!)
 生徒を 捨てて逃げるなど、教官として最低の行為だが、このままでは全滅するだけだ。へ
たり込んでいるウィリアムの を掴んで、無理矢理立ち上がらせる。
「しっかりしろ! 一 に湘南に行くんだろ!?」
 そこで思う存分、操 させてもらうという約束を思い出したのか、ウィリアムの瞳に、僅かなが
ら光が ってくる。
(そうだ、約 を果たすためにも、生きて帰らなくては)
「よし、 るぞ!」
「は、はい!」 
 来た通路は“時空亡霊”たちにふさがれている。別の出口を探すしかない。経験から船の構造 を推測し、必死に走る。その二人を、亡霊の群れが壁をすり抜けながら追う。まさしく、黄泉よみの国 からの脱出 だ。
「あった!」 
 出口だ。そこへ く階段を死に物狂いで駆け上がると、不幸中の幸い、エルドリッジに乗り込 むのに使った、非常用梯子のすぐ側だった。救助ボートはこの下に係留けいりゅうしてある。
「香坂、 に行け!」
 しかし、 らをこの呪われた船に誘き寄せた悪意は、すでに包囲網を完成させていた。
「いや、 て! ……何だ、この音は?」
 ずるずる? それとも、ねちゃねちゃ? 何とも 容しがたい音が、船側を這い登ってくる。
足裏から伝わってくる 動で分かる……信じられないくらい、巨大だ。
 本能が危険を察知すると同時に、異様な影が霧の中におどり上がる。太さは人の胴回り程、 長さは メートル以上。
 手……!?)
 イカの触腕しょくわんにも、象の鼻にも、いや、亮が知っている、どんな生き物の部位にも似ていない。だ が、それだけはかろうじて かった。
 つまり、これでもまだ、 体の一部でしかないということ。
(こいつだ…… 光丸が沈んだ時に見たのは)
 あの触手を っ直ぐに突き刺せば、ちょうどあんな穴が開くだろう。
 霧を裂いて 手が迫る。あの巨大さからは、信じられないような敏捷さだ。
(くっ!) 
 ウィリアムを突き飛ばしてかばうのが、精一杯だった。
「きょ、 官!」
 触手が の胴に巻き付き、掴み上げる。必死でもがくが、船に穴を開けるパワーに敵う訳が
ない…… 運は尽きた。
(そうか、こいつが……) 
「エミリアが んだものなのか……!?」
 諦めゆえの 感力でそう悟ったが、今さら何の役にも立たない。
「香坂、俺に わず逃げろ!」
 亮にできるのは、そう ぶことだけだった。 
 しかし。 
 悪意は、彼の 像を遥かに超えていた。
「ぷっ……」 

「あはははははははははははははははははは!」 


〜10〜
 場違いもはなはだしい、その弾けるような笑い声が、どこから発せられているのか、亮は一瞬分
からなかった。 
 分かって、愕然がくぜんとする。
「香…… ?」
 笑い声は、ウィリアムの口から発せられている。体をくの字に曲げ、可笑おかしくて仕方なさそうに笑
っている。 
「あー、 笑しい。教官ったら、まだ気付いていないんですかぁ?」
 ようやく、ウィリアムが うのを止める。その顔に、ついさっきまで浮かんでいた恐怖の表情な
ど、微塵も っていない。
 ウィリアムは、悪戯いたずらの種でもばらすかのような口調で言った。
「逃げろも何も、みんなをこの船におびき寄せたのは、僕なんですよ?」 
 …………。 
「でも、さすがは教官。冷静でしたね。こんなに梃子摺てこずらされたのは、初めてですよ」
「何を…… ってるんだ?」
「よく て下さい。それを……そうすれば、全部分かりますよ」
  られているかのように、亮の視線が、ウィリアムが指差す方を向く。すなわち、足元を。
 自 の胴に巻き付いている触手を、何十本もでたらめに絡めたような異形の物体。船側に
へばり いていたのは、そんな存在だった。
「う……!?」 
 それだけだったら、まだ えられた。だが、亮は気付いてしまった。絡まり合う触手の中心
に、直 1メートルに及ぶ“顔”があることに。
 ――ウィリアムと 二つの。
「紹介します…… です」
 ウィリアムのくすくす いと亮の絶叫が、地獄めいた合唱を奏でる。
「双 なんです、そっくりでしょ?」
 ウィリアムと、 の“兄”の顔を、狂ったように、何度も何度も見比べる亮。気付かざるを得な
かった。気付かない が幸せだった、おぞましい真実に。
 ウィリアムを、 の弟のように可愛がっていた彼にとっては、なおさら。
「まさか、お も……!?」
「ええ、エミリア さんから生まれました。あの日、あの部屋で……だから、本当は教官より、ず
っと年 なんですよ?」
 そう言ってウィリアムが かべた表情を、何と表現すべきか、亮には分からなかった。猿が人
間の表情を読めないのと 様に。いくら顔の形が似ていても、それを動かす精神が違いすぎ
て。 
 何よりも、その 情が亮に悟らせた。
(そんな、 坂が……)
 外 がどうあれ、本質はあの“兄”と同じ。言わば、人間そっくりの怪物なのだということを。
「本当にお が、俺たちをここに誘き寄せたのか……?」
「フフ、 官たちだけじゃないですよ……ほら」
 そう って、ウィリアムが手で何かを払うような仕草をすると……視界を閉ざす霧が、見る見
 れていく。
 それに驚く暇もなく。あらわになった周辺の光景に、亮は呆然と目を見開く。
 エルドリッジの周囲は、まさに の墓場だった。あらゆる大きさ、あらゆる様式の船の残骸
が、水死者のごとく波間を漂っている。
 それだけなら、まだ り得ないことではない。航海術が未発達だった過去には、暗礁地帯な
どで似たような 景が見られたかもしれない。
 ……だが、その上に広がる、 んだ緑色の空は、地球上のどこにも有り得まい。そこには、
正体不明の赤い光の筋が、 細血管のように張り巡らされ、脈動するように明滅を繰り返して
いる。 
(馬鹿 な……ここは、どこなんだ)
 つい数 間前まで、雅忠節湾にいたはずなのに。
 「不完全な 識で行われた儀式は、エルドリッジを中途半端な場所に移動させてしまったんで す……ここ、異次元に広がる、無窮むきゅうの海に」
 とりあえず、 光丸の通信機やレーダーが故障した原因だけは分かった。
 こんな場所で、そんな が正常に働くはずがない。
「僕たち双子は、生まれて以来、同じことを繰り返してきました。僕が、時空をじ曲げて、船を
この海に迷い込ませる。その を、兄が沈没させ、船員がエルドリッジに乗り移るよう仕向ける
……」 
 そこで待っているのは、あの 霊の群れ。その結果が、この船の墓場……まさに、海魔の兄
 だ。
 この五 年間で、幾人の船乗りたちが、その魔の手にかかったのだろう。
(そんな……) 
 ウィリアムとの い出が、走馬灯の如く脳裏を駆け抜けていく。
 自分を兄のようにしたってくれたウィリアム。ついさっきも、湘南に連れて行ってやると約束した
ら、あんなに んでくれたのに。
(あれは全部、 技だったのか……!?)
 マグマのように き上がるのは、しかし、怒りではなく……悲しみだ。
 そんな亮に 付いているのかいないのか、ウィリアムは淡々と続ける。
「そして、これからも り返すでしょう。ミスカトニック大学で、ネクロノミコンを調べて突き止めま
した。あの儀式には、大量の生贄いけにえが必要だったんです。五十年前の実験では、その部分を見逃
していたんでしょう」 
 儀式を今度こそ成し げる。それが、彼ら兄弟の目的なのか。
「どうして、そんなことを!?」 
「……帰るためですよ、 らが本来いるべき世界に」
 亮の びに対して、ウィリアムは……そっと顔を伏せた。見られたくないかのように。
「そうするしかないじゃないですか……この 界では、僕らはおぞましい“怪物”なんですよ」
 その言葉に、亮はかすかな希望を見出した。その呪われた出自を、最も嫌悪しているのは、他
ならぬウィリアム 身だと。
 それは、人 の証明ではないか。
「そんなことない! お前は、間違いなく人 ……!」
「……兄にも じことを言えますか?」
 凍り付くようなウィリアムの 摘に、亮は思わず声を詰まらせる。
 改めて、自分の胴に き付く触手の主を見下ろす……。
(目をらすな……吐き気をもよおすなんて、もっての外……)
 駄目だ。どうしても、本 が拒絶してしまう。これを拒絶することは、ウィリアムを拒絶すること
と同 なのに。
 己の不甲斐無ふがいなさに肩を落とす亮に、ウィリアムが哀れむように呟く。
「いいんですよ、恥じなくても。人 なんて、そんなものだ……肌の色で差別し合っているような
連中が、僕らを受け れられる訳がない」
 それが、人に混じって、 十年以上の時を生きてきた彼の、答えなのだろうか。その間、多く
の出会いがあっただろうに、 一人として、彼に希望を与えることはできなかったのか。
(そして、 もまた……)
 ウィリアムの足元から、 数の半透明の手が湧き出す。彼ら兄弟によって時空の狭間に囚
われた、哀れな 贄たち。
「さあ、お仲間が んでますよ、教官?」
 亮が動けないのは、しかし、 に巻きつく触手のせいばかりではなかった。
 ウィリアムの顔には、相変わらずあの 解不能な表情が張り付いている。しかし、亮の目に
は、それは仮面と映った。その下には、 が良く知るウィリアムがいるのだと。
 見捨てないで……一 にいて……。
(香 ……)
 それが己の 望に過ぎないのか否か、しかし、亮が結論を出すより前に。
「うっ!?」 
 突然、触手の力がゆるみ、亮は甲板に投げ出される。
「どうしたの、 さん!?」
「イグナイイ……イグナイイ……トゥフルトゥクングァ……」 
 驚くウィリアムに返ってきたのは、廃液がき立つ音のような……声なのか、これが?
「エエ・ヤ・ヤ・ヤ・ヤハアアア――エヤヤヤヤアアア……ングアアアアア……フユウ……フユ 
ウ……My father……My father……!」 
 いや……。 
 やはり、声に違いない。わずかに聞き取れた単語は、紛れもなく英語だったから。
 だって……まさか」
 ウィリアムが、 てて頭上を見上げる。
 釣られて見上げた が目にしたのは。
(何だ…… が)
 赤い毛細 管が脈動する緑色の空――あれを空と呼べるのかは疑問だが――が、へこん
でいく。まるで、鉄球をせたゴム膜のように。
 空のへこみは見る る深まり、ついには直径数キロメートル、深さは推測もできない程の穴
になる。 
「父さん…… えに来てくれたのか」
 空に いた穴を、呆然と見上げるウィリアム。
「父 ……!?」
 亮は、ようやくそのことに い至った。
 ウィリアムたちの 親はエミリア。では、父親は誰なのか? 無論、アレンデであろうはずが
ない。 
 日記には かれていた。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、ある存在の力を借りるもの
だと。 
「そうです……アメリカ 軍によって召喚され、哀れなエミリア母さんの胎内に僕らを宿した、は た迷惑な父さん……でも、子煩悩こぼんのうな一面もあるみたいですね」
「うわっ!?」 
 突然、足が 板から浮き上がりそうになり、亮は慌てて柵に掴まった。 
 周囲で重力の 則が崩壊している。船の残骸が波間から浮き上がり、亡霊たちが甲板から 引き剥がされ、螺旋らせんを描きながら空の穴に吸い込まれていく。
 その 絶な光景を、ウィリアムは苦笑を浮かべて見つめていた。
「ああ、教官、やっぱり っていいですよ。生贄はもう十分みたいだから」
 あっさりそう言うウィリアムの背後で、彼の兄の巨体も空に落ちていく。響き渡る咆哮ほうこうは……歓 喜のそれに こえた。
 そして、ウィリアムの も、ふわりと甲板から浮かぶ。
(待て、 くな……!)
 必死で ばした手は……指一本分、届かない。
 無数の の残骸や亡霊を引き連れて、ウィリアムは空に落ちていく。その青い瞳からこぼれ
るきらめきが……。 
 何だったのかは、 久に分からなくなった。
 凄まじい輝きが、亮の目をいた。
 空の穴から、何かが りてくる……何だ、あれは……穴とほぼ同じ大きさ……とても、言葉で は表現できない……あえて言うなら、 色に輝く無数の球体……絶えず、分裂と融合を繰り返 して……まるで、素粒子そりゅうしの分解と結合けつごうのプロセスを、肉眼で見ているよう……いや、それとも、誕生
と消滅を り返す、多元宇宙の……。
「あ……あ……」 
 その人智を超えた姿に、亮の強靭きょうじんな精神力も、ついに限界を迎えた。遠のく意識の中で、ウィリ アムの最後の 葉を聞いていた。

――紹介します。僕らの父さん、門にして鍵、一にして全、全にして一なるもの、無窮の虚空こくうを支 配する 、ヨグ=ソトース……。

 それから、約 二時間後。
 亮は船の残 ――曙光丸のそれでないことが、後に判明するのだが――に掴まって漂流し
ているところを、救 された。
 重度の記憶障害に っており、事故に関する記憶は全て失われていた。ただ、夢の中では、 記憶の断片がよみがえるのか、寝言で悲しげに呟くのを、担当の医師らが聞いている。
『湘南に れて行ってやるって約束したのに……』
『一人で っちまいやがって……』
『遠い、 い海へ……』

〜Fin〜

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