〜1〜
白、白、白……。
どちらを向いても、白一色。
まるで、自分の周囲だけを残して、世界が消失してしまったかのような、濃い霧の中を。
赤無海上技術学校の練習船〈曙光丸〉は、頼り無さ気に漂っていた。
同船が教官一名と生徒三名を乗せて、赤無港から実習航海に出航したのは三時間前のこと
だ。本来の予定なら雅忠節湾を一周して、とっくに帰港している時刻だ。
天気は快晴、波も穏やか、基本的には生徒たちだけで操船させるとは言え、熟練の教官が
監督に就いている。事故など起きるはずもなかった。
|
しかし、海は気まぐれだ。
沖に出たところで、突然霧が出始め、あっという間に視界は数メートルにまで低下してしまっ
た。この季節に、この海域で、こんな濃い霧が発生するなど、前例がないことだ。
「応答願います、応答願います!」
必死で通信機に呼びかけているのは、金髪碧眼の少年だ。作業服の胸に挿した名札には
〈三年B組・ウィリアム香坂〉と書かれている。ハーフだろうか。
|
華奢で小柄な体格、柔らかい曲線で構成された優しげな顔立ちは、うっかりすると少女と間違
われそうだ。言っては何だが、これで船乗りが務まるのだろうか。
|
「こちら、曙光丸! 応答願います……だめだ、通じない」
もう一時間も呼びかけ続けているのに、通信機からはノイズしか返ってこない。
「くそっ、レーダーもGPSもいかれてやがる!」一
|
何も表示されないモニターに毒づいているのは、ウィリアムとは対照的な、長身の少年だ。名
身長を最大限に活かすかの如く、切れ長の双眸は、常に周囲を見下している。肩まで伸びた髪
は、毛先の跳ね具合までばっちり計算されており、それがまた、憎らしい程似合っている。
|
「香坂! お前がちゃんと整備しないからだぞ!」
満の怒鳴り声にはしかし、どこか計算めいた響きがある。こいつになら、何を押し付けても大
丈夫だ、と。
彼に間髪入れずに続けて。
「全くだよ。我々の成績に響いたら、どうしてくれるんだ?」
冷たい口調で言ったのは、ひょろりとした体格の、眼鏡の少年だ。名札には〈北条秀一〉と書かれて
いる。
|
洗練された物腰は育ちの良さを伺わせるが、反面、口元には常に媚びへつらうような笑みを
浮かべている。すすすと音もなく満の背中に回る様子は、まさに虎の威を借る狐。
|
そんな満と秀一に対して、ウィリアムはおどおどするばかりだ。
確かに、機器の整備を担当したのは、彼なのだが……。
「ごめんで済むなら、海審(海難審査会の略)はいらねーよ!」
満がさらにいきり立って……いるふりをしつつ、このままウィリアムに全責任を押し付けてしま
おうと目論んだ、その時。
|
「おいおい、喧嘩はよせって」
さばさばしたその声に、ウィリアムははっと表情を輝かせ、逆に満と秀一は、ぎくりと顔を強張ら
|
どっと流れ込む霧と共に艦橋に入ってきたのは、二十代半ばの青年だった。満よりさらに長身
で、加えて制服の袖から覗く腕は、しなやかな鋼のような筋肉に覆われている。
|
ぴんと跳ね上がった太い眉と、狼を思わせる鋭い目つきは男らしいが、意外に細い顎や、す
っきりした鼻梁など、女性的なパーツもあり、男臭くなり過ぎるのを防いでいる。
|
名札には〈三年B組担任教官・山本亮〉と書かれている。まだ若いが、学校や生徒の信望厚い、
腕利きの教官だ。彼が曙光丸の乗組員中、唯一の大人だ。
|
「実習中の事故は、教官の責任だよ。お前らの成績が下がったりはしないから、心配すんなっ
まるで友達と話しているかのような、気さくな口調。それでいて、大人の威厳も兼ね備えてい
る。そんな師を、ウィリアムは頼もしげに見つめ、一方、満と秀一は叱られた犬のように縮こま
っている。一
「こんな霧の中を、肉眼で進むのは危ねえし……しょうがねえ、霧が晴れるまで待機だな。あ
あ、端島と北条、他の船が通りかからないか、甲板で見ててくれるか? 霧の中悪いが」
「りょ、了解しましたっ!」
|
これ幸いと甲板に飛び出す二人を、亮は溜息交じりに見送った。それを自分に対するものと誤解
したのか、ウィリアムが慌てて頭を下げる。
|
「す、すみません、教官。僕がちゃんと整備しなかったから……」
「いいって、いいって。そりゃ一人でやらされたんじゃ、見落としの一つや二つあって当然だよ」
もちろん、彼には全部お見通しだった。
「あの二人に、整備を押し付けられたんだろ、香坂?」
本当なら、班全員でやるべきことなのだ。責任と言うなら、あの二人こそ追及されてしかるべ
「あの二人にも困ったもんだな。船乗りに何より必要なのは、チームワークだってのに。お前も
嫌なことは嫌だって、はっきり言わなきゃ駄目だぞ?」
うつむくウィリアムに、苦笑する亮。こんな性格だからだろうか、生徒たちの中でも、彼には特
別目をかけてきた。今では、二人は師弟と言うより、歳の離れた友人か、兄弟のような間柄だ
(しかし、変だな……)
沈黙してしまった機器を見て、亮は内心首を傾げる。曙光丸は普段から念入りに整備されて
おり、事実、出航前は何の異常もなかった。
にも関わらず、艦橋の機器類の全てが、同時に壊れるとは。
(ま、万全を尽くしても、壊れる時は壊れるか)
亮の顔には、微塵の動揺もない。嵐の海を三日間漂流したこともある彼にとっては、こんなも
の、トラブルの内にも入らない……のだが。
|
ちらりと横目で見ると、案の定、ウィリアムの青い瞳は、視界を閉ざす霧を不安げに見つめて
いる。今にも霧を割って、何かが出てくるのではないかと、恐れているかのように。
「あ、あはは、やっぱり海を甘く見ちゃいけないですね。いい勉強になりました」
亮が見ていることに気付いた途端、慌てて笑みを浮かべてみせたが、無理をしているのは明
らかだった。何とか彼の不安を紛らわせられないかと思案した亮の脳裏に閃いたのは、故郷の
湘南の海だった。
江ノ島を背景に、波頭きらめく湘南の海は、亮の原風景だ。
「なあ、香坂。俺の実家の話は覚えてるか?」
「あ、はい、確か代々船乗りの御家系でいらしたとか」
いきなりそんな話題を振られて戸惑いながらも、ウィリアムは律儀に答える。
「ああ、それで一応、船を持ってるんだ。オンボロだけどな。で、今度の連休に、里帰りがてら、
ひさびさに乗りに行ってみようと思うんだけど……良かったら、お前も来ないか?」
ウィリアムの少女のような顔に、霧も吹き飛ばしそうな笑顔が浮かぶ。
「ああ、お前に操船させてやるからさ。いい練習になると思うぜ。そうそう、海の近くだから、刺
身も旨いぞ〜」
「よ、喜んで! うわあ、楽しみだなぁ」
そんな風に、亮がせっかく明るくした雰囲気を。
突如襲い掛かった、突き上げるような衝撃が、跡形もなくぶち壊した。
〜2〜
甲板に飛び出した亮とウィリアムを出迎えたのは、狼狽しきった満と秀一だった。
「わ、分かりませ……うわあっ!?」
ぐらりと甲板が傾き、危うく満が海に転げ落ちそうになる。とっさに亮が腕を掴んで助けたが、
傾きは一向に戻らない。
「何かに掴まれ!」
生徒たちにそう指示し、自らは海に落ちないよう、慎重に船側を覗き込む。
亮は目を見張った。
鋼鉄製の船体に、直径一メートルにも及ぶ穴が開いている。
(何でこんな穴が……!?)
まるで、魚雷でも打ち込まれたかのようだ。海水が轟々と穴に流れ込んで……沈没は避けられ
ない。一
|
亮は即決した。危機に陥れば陥るほど、冷静になれるのが彼という男だ。
「脱出するぞ、救命ボートの準備だ!」
亮の一喝が、パニックに陥りかけていた生徒たちを、我に返らせる。
見習いとは言え、生徒たちも船乗りの端くれ、救命ボートの使い方は学んでいる。
「よし、出すぞ!」
四人を乗せた救命ボートが離れて間もなく、曙光丸は海底に没していった。
「みんな、怪我はないか?」
「しかし、一体、何があったんだ……?」
亮の経験を以ってしても、判然としない。生徒に操船させることを前提にしている曙光丸は、
小型ながら頑丈に造られている。その船体に、あんな大穴が開くなど……。
|
「漂流物でもぶつかったんでしょうか?」
ウィリアムの呟きに、すかさず満と秀一が反応する。
「ば、馬鹿言え! 俺らはちゃんと見張ってたぞ!」
「でも、何も見えなかったんだ!」
「べ、別に、端島君たちを責めてる訳じゃ……」
「分かってるって。漂流物がぶつかったぐらいじゃ、あんな大穴は開かねえよ。多分、暗礁に乗り
上げたか、エンジンが爆発でもしたんだろう」
|
そう言いながら、亮は自分の推測を、内心疑問に思っていた。この海域には暗礁などないし
――そうでなければ、練習船の航路にはできない――、エンジンの爆発にしては、火も煙も出
「そ、それで、我々、大丈夫なんでしょうか?」
秀一がおずおずと尋ねる。
(おっと、いけねえ。俺としたことが)
一番優先すべきことを、後回しにしていたとは。さすがに、少し動揺していたらしい。
優先すべきこと……言うまでもない。生徒たちを安心させてやることだ。事故原因の究明な
ど、後でもできる。
「なぁに、心配いらねえよ。学校がすぐに救助を手配してくれるさ。位置も大体分かってるんだ
し、長くても一日の辛抱だよ」
亮の保証に、ようやく生徒たちもわずかに緊張を解く。
「よし、一応、備品類の確認をしておこう。まあ、必要ないだろうけどな」
乾パンや飲料水を数え始めた生徒たちを尻目に、亮は曙光丸が沈んだ辺りを悲しげに見つ
まあ、船舶保険には入っているから、経済的損失は然程ではなかろうが……船乗りにとって、船
はただの道具ではないのだ。
|
(生徒たちとの思い出が詰まった、大切な船だったのにな……)
心の中でだけ、そっと涙を流した、その時。
「教官、備品は全部揃ってます!」
満が代表して報告する。
しかし、返事はない。
「あの、教官?」
「そ、そうか、分かった」
亮は息が詰まりそうになるのを、必死で堪えていた。
|
(何だ、今のは……)
ほんの一瞬だった。しかし、確かに見た。
曙光丸が沈んだ辺り、その波間の下で、巨大な影が蠢くのを。
見えた部分だけでも、曙光丸と同じぐらいの大きさだった。
(鯨……いや、藻の塊か?)
理性は無難な可能性を列挙するが、本能は猛然と反論する。あれは、そんな見慣れた海の住
|
――こちらの様子を、じっと窺っていた。暗い海中から、悪意に満ちた眼差しで。
もしや、あれが曙光丸を……突拍子もない所に走りそうになる思考を、慌てて引き戻す。
だが、幸いにもと言うべきか、次の瞬間、それどころではなくなった。
「きょ、教官、あれは……!?」
今度は、生徒たちから動揺の叫びが上がる。
「前方に……何かが……」
この霧の中でも、輪郭だけは分かった。
「船……!?」
曙光丸とは比較にならない大きさだ。全長は100メートル近いだろう。圧倒的な威圧感を放っ
「助かった!」
すかさず、備品の中にあった信号銃を発射する。弾は霧の中でも明るく輝き、船の姿を照ら
し出した。
ほぼ灰色一色の無骨な外観。あちこちから突き出している……。
(砲身? ということは、軍艦か?)
動きは見られない。どうやら、停船しているようだ。
「運が良かったですね、教官!」
ウィリアムははしゃいでいる。そう、それが当然の反応のはずなのに。
亮は素直に喜べない。その軍艦が漂わせる、異様な雰囲気のせいだ。
霧の海に静かに佇む様子は、死者を迎えにやって来るという、三途の川の渡し舟のようだ。
|
しばらく待ってみたが、軍艦に反応はない。
「ま、まさか、気付いていないんじゃ……」
「ちくしょう、さっさと気付きやがれ!」
苛立った満が信号銃を連発するが、状況に変化はなかった。
「しょうがない、もう少し近付いてみよう」
万が一、急に相手が動き出した場合を想定して――あんなものに接触されたら、それこそひ
とたまりもない――慎重にオールを漕いだが、杞憂に終わった。
|
軍艦は動くどころか、物音一つ立てない。海に建てられた壁の如く、ただ静かに亮たちを見
下ろしている。一
近付くにつれ、船側に書かれた船名が見えてきた。英語のようだ。
(アメリカの軍艦か? 変だな、この近くを通過するなんて話は聞いてないが)
船名は……。
「エルドリッジ!? フィラデルフィア実験の……!?」
〜3〜
フィラデルフィア実験。
超常現象に興味のある人間なら、一度は聞いたことがあるだろう。亮たちも、合宿の怪談大
会で聞いたことがあった。
第二次世界大戦の真っ只中の、1943年10月28日。アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィ
アで、駆逐艦エルドリッジを使って、大規模な実験が秘密裏に行われた。
|
それは、磁場発生装置テスラコイルを使って、エルドリッジを強力な磁場で覆い、レーダーに
映らなくするというものであった。成功すれば、アメリカは海戦において、圧倒的に優位に立て
るだろう。海軍上層部の期待は高かった。
そして、実験当日。
エルドリッジの船内に搭載された実験機器のスイッチが入れられると、強力な磁場が発生、同
艦はレーダーに全く映らなくなった。
|
実験成功。しかし、実験関係者たちの喜びは、次の瞬間、驚愕に変わった。
海面から突如、発生源不明の緑色の光が湧き出し、エルドリッジを覆い始めたのだ。その姿
は、見る見るぼやけて……何と、レーダー上どころか、現実の空間からも、完全に消えてしま
実験関係者たちは通信機でエルドリッジに呼びかけたが、応答はなく……どうすることもでき
ないまま、数分間後。彼らは再び、驚愕の光景を目の当たりにする。
再び発生した緑色の光と共に、エルドリッジが戻ってきたのだ。あたかも、消えた時の様子
を、逆再生するかの如く。
慌てて艦内に入った実験関係者たちが見たのは……惨状だった。
体が燃え上がって火達磨になっている船員。冷凍の鮪の如く凍りついてしまった船員。体が甲板
や壁と融合してしまった船員。肉体的には無事だった船員も、多くが精神に異常をきたし、エルド
リッジの内部はまさに地獄絵図の如くであった。
|
行方不明・死亡16人、発狂者6人。それが、実験の結果だった。
海軍上層部は説明に困り――あるいは、純然たる恐怖ゆえか――実験を隠蔽した。
これが世に言う、フィラデルフィア実験の顛末である。
「でも、確かあの話は……」
「ああ、作り話だよ、もちろん」
エルドリッジは実在する艦だが、後にギリシャ海軍に払い下げられ、1991年に役目を終えて
解体された。その間、超常現象に見舞われたなどという記録は、無論ない。
そもそも、超常現象・フィラデルフィア実験が世に広まったのは、1956年に作家モーリス・ジェ
ソップの元に、カルロス・マイケル・アレンデという人物から手紙が送られてきたことに端を発す
手紙には実験の詳細が記されていたというが、おそらくアレンデは、海軍工廠で様々な実験が行
われていたという事実を元に、これらの逸話を創作したのだろう。むろん、ちょっとしたジョークの
つもりで。
|
世間一般の人々と同じく、そうだとばかり思っていた、亮たちの前に。
エルドリッジの巨体は、冷然とそびえ立っている。
「ふふん、決まってるじゃないか」
秀一がしたり顔で語る。
「きっと、ギリシャ海軍に払い下げられたエルドリッジは、偽物だったのさ。同じ型の艦は他にも
あるだろうし、船名を書き換えるぐらい、アメリカ海軍の権限があれば何でもない。そして、本
物のエルドリッジは、実際には二度とフィラデルフィアに戻ることはなかった……こうして、五十
年もの間、海を彷徨っていたんだ」
|
と、まだ若くて、脳が柔軟な生徒たちは、あっさり納得しているが。
さすがに亮は大人。そこまで一足飛びに、常識の垣根は超えられない。
目の前にEldridgeと名を刻まれた船が浮かんでいるのは、紛れもない現実なのだ。
「I'm sorry! Is there someone?」一
|
ウィリアムが英語で呼びかけてみたが、返事はない。
「誰も乗っていないんでしょうか?」
こんな大きな船に、見張りがいないなど、通常なら有り得ない。少なくとも、この船が完全に放
棄されているのは、間違いない。
「す、すげえ! 俺たち、有名人になれるぞ! 伝説の船エルドリッジの発見者として!」
満が興奮した様子で叫ぶ。さっきから黙っていると思ったら、そんなことを考えていたらしい。
「教官、乗り込んで調べてみましょうよ!」
亮もエルドリッジに乗り移ることは考えていた。もちろん、満のような功名心からではなく、生徒た
ちの安全のためだ。
|
救助が来るまで、長くて一日程度とは言え、その間に天候が悪化しないとは限らない。こんな
小さなボートに揺られているより、頑丈で安定した軍艦の方が安全だろう。
にも関わらず、亮はなぜか即答できない。
(何か……引っかかる)
原因不明の事故で曙光丸が沈み、そこへちょうどエルドリッジが現れた……まるで悪しき運
命が、自分たちをあの船へと、誘き寄せようとしているかのようではないか。
|
(馬鹿言うな、考えすぎだ)
「そうだな。無断で乗船するのは気が引けるが、緊急事態だ」
自分では、使命を優先したつもりだったが。
さすがの亮も、気付いていなかった。
波間の下に見た、異様な影。もし、あれが姿を現したら……そんな不安が、己の判断に、僅
かながら間じっていたことにまでは。
|
〜4〜
幸い、非常用の梯子が下がったままになっていた。それを足がかりに、甲板に上がる。
甲板に並ぶ砲身や機雷の発射機構は、どう見ても本物だ。映画のセットという可能性は消え
それに加え、その表面は錆で覆われて、ぼろぼろだった。少なくとも、相当古い船であること
は間違いない。
|
(本当に五十年間、海を彷徨っていたんだろうか?)
だとしたら、こんな巨大な戦艦が、なぜ今まで発見されなかったのだろう。
(まあ、海は広いからな……いずれにせよ)
「この船の通信機が使えないかと思ったんだが、こりゃ無理っぽいな……しょうがない、ここで
一泊か」
正直、こんな所で寝るのはぞっとしないが。
「手分けして、休めそうな場所を探そう。1時間後にここに集合だ。ああ、それと兵器の類には
触るなよ」
亮とウィリアムは、船体前部を担当することになった。二人きりになってみると、改めて周囲
の静けさを実感する。耳に入るのは、波が船側に当たるちゃぷちゃぷという音だけ。50年前か
ら、時が止まっているかのようだ。
(まるで幽霊船だな……)
という感想は、胸の内にしまっておく。ウィリアムを怯えさせては悪いので。
錆付きかけたドアをこじ開け、船内に入る。
壁や床に、体が融合してしまった船員――あの一節が脳裏をよぎる。そのままの姿で骸骨に
なった彼らが、恨めしげにこちらを睨んでいる……そんな幻影を垣間見て、さしもの亮も冷や汗
が滲んだ。
|
もちろん、実際には何もなかったのだが。
(やれやれ、昔の船乗りは迷信深かったそうだが……俺にも、その血は流れているってことか
「……やっぱり、ちょっと気味が悪いですね」
「はは、まあ、ただでお化け屋敷に入れたと思えば、得した気分だろ?」
潮風の影響を受けない分、船内は錆付いておらず、当時の面影を残している。食堂には食
器が並んでいるし、ロッカールームには、船員の制服がハンガーに掛けられたままになってい
た。この船に、大勢の船員が乗り込んでいたことは確かだが……。
(船員は避難したんだろうか。でも、なぜ……)
「きょ、教官!」
反対側の部屋を見ていたウィリアムから、動揺の声が上がる。どう聞いても、さっきの軽口を
真に受けて、冗談で言っている風ではない。
続いて覗き込んだ亮も、呆気に取られる。
「何だ、こりゃあ……」
ドアにはRest room(休憩所)と書かれているが、中にはテーブルも椅子もなかった。がらんと
床が広がるばかりだ。
その床全体に、奇妙な絵が描かれている。
円と四角を組み合わせた図形の中に、古代の象形文字をいくつも散りばめたような。
魔方陣。西洋魔術などで、魔力を秘めると信じられた図形……だということは、かろうじて亮
にも分かったが。
それが戦艦の床に描かれている理由は、見当も付かなかった。
〜5〜
実験当日、エルドリッジの船内にはテスラコイルを始め、多くの実験機材が運び込まれたと
言うが、それらしい物はいくら探しても見つからなかった。
その代わり……と言っても、いいものかどうか。
休憩室だけではなかった。船内の至る所に、あの奇妙な図形……魔方陣が描かれている。
それは、戦艦の無骨な内観と相まって、奇怪極まる光景になっていた。
「何のために描いたんでしょう……?」
「……さっぱり分からないな」
やがて二人は、乗組員の寝室らしき部屋を見つけた。ボロボロの寝台が、棺のように並んで
|
寝台の横のサイドボードに、小さな手帳が置いてある。船員の私物だろうか。手に取った亮
の目に、おそらく持ち主の名だろう、表紙に書かれた文字が飛び込んでくる。
Carlos Michael Allende一
|
フィラデルフィア実験の詳細を、手紙で密告したという人物だ。
「そうか、エルドリッジの船員だったんだな……」
ぱらぱらとめくってみる。頻繁に日付が書かれているので、日記に違いない。この船で何が起こ
ったのか、分かるかもしれない。
|
「香坂、読めるか?」
ウィリアムの細い指が、文章を慎重に辿る。
最初の日付は1943年10月24日……フィラデルフィア実験が行われたとされる日の4日前だ。
――1943年10月24日。
実験の準備が始まる。しかし、上層部は本気なのか? これでは、我がアメリカも、オカルト
に傾倒しているというヒトラーを笑えないではないか……。
|
流麗な筆跡だ。亮にも、筆者アレンデの教養の高さは伺い知れた。個人的な日記とは言え、
いい加減なことを書く人物ではなさそうだが……。
|
――1943年10月25日。
船内のあちこちに、魔方陣が描かれた。何でも、ミスカトニック大学が所蔵する、ネクロノミコ
ンとかいう魔道書を参考にしているらしいが。魔道書……そんなものが実在するなんて、始め
て知った。一
|
「あの魔方陣は、実験で描かれたのか……」
エルドリッジ内で実験が行われたのは、事実だったらしい。
だが、用いられたのは、テスラコイルではなく……あの魔方陣だったというのか。
――1943年10月26日。
実験で詠唱する呪文を練習させられた。ざいうぇそ? うぇかと・けおそ? 私は辟易していたが、
我が愛しのエミリア・ハーバー従軍看護士は、結構面白がっている。成功したら、最高のハ
|
この船には、アレンデの婚約者も乗っていたらしい。
(ちぇ〜、羨ましいこって……いやいや、そんなことはどうでもいい)
――1943年10月27日。
明日はいよいよ実験本番だ。何でも天体が、儀式を行うのに最も適した配置(太陽が第五の
宮に入り、土星が三分の一対座になる、だったか?)になるらしい。まあ、何も起きるはずもな
|
「時期は、完全に一致してますよ。やっぱり、フィラデルフィア実験は本当に行われていたん
「けど、なあ……あんな落書きで、何ができるって言うんだ?」
わくわくしているウィリアムには悪いが、亮はアレンデと同意見だった。
だが、ページをめくった途端。
二人は、全く同じ表情になった。すなわち、当惑の表情に。
英語が読めない亮の目から見てさえ、前のページとの落差は明らかだった。
ミミズがのたくったような字が、ちぐはぐに並んで、かろうじて文章を形成している。まるで、必
死で震えを堪えながら書いたような……。
(何が……あったんだ)
――1943年10月28日。
何が起こったんだ……魔方陣を囲んで、例の呪文を唱えていたことまでは覚えているが……
ここはどこだ……フィラデルフィアにいたはずなのに……一面の霧……レーダーは作動しな
い……通信機に呼びかけてみたが、応答はない……。
|
……どう解釈すればいいのだろう。
「教官……」
亮が困惑しているのを見て、ウィリアムも不安そうにしている。
「ああ、すまん。とりあえず、最後まで読んでみよう」
不幸中の幸い、エミリアは無事だった。少し具合が悪そうだが、外傷はない。あいにく彼女
も、何が起こったのかは知らなかった。
救助艇はあるが、ここがどこかも分からないのに、漕ぎ出すのは危険だ。相談の結果、船内
に留まって救助を待つことにした。幸い、食料は十分ある。神よ、我らを守りたまえ……。
|
〜6〜
満は秀一を従え、意気揚々と船内を闊歩していた。
「へへ、やべーよ、やべーよ、テレビの取材とか来ちゃったりして……」
すでに彼の頭の中には、エルドリッジの発見者として、マスコミのインタビューに応じている様
子が浮かんでいるらしい。
そんな調子だから、気付けるはずもなかった。
薄闇が淀む通路の奥を横切った、幽かな影に。
下半身に緊張を感じる満。昨夜、こっそり飲んだビールのせいだろうか。
「おい北条、便所ねーか?」
自分で探す気など、毛頭ないらしい。
「は、はい、えーと……あ、あそこにありますね。でも、多分水は出ないですよ」
「構いやしねーよ、ちょっと待ってろ」
慌てて駆け込み、鏡の前を通り過ぎようとした、その時。
凍りついたように、足が止まる。
本能が激しく訴えている。鏡を見ろ、鏡を見ろ……。ぎぎぎと、錆付いたロボットのような動き
で首を捻り、鏡を見ると……。
自分の顔のすぐ横に、半透明の青白い顔が映っていた。
しゃっくりのような悲鳴を上げ、弾かれるように振り返ると……。
何もない。
「な、何だ、脅かしやがって……」
ガラスの曇りが、人の顔に見えたのだろう。
(周りに誰もいなくて良かったぜ)
乱れた呼吸を整えながら、鏡に向き直り……。
息が止まった。
鏡から、半透明の上半身が生えていた!
そう、あの顔は、満の背後を写した鏡像ではなく、目の前にいた実物だったのだ。
Help……Help me……地獄の底から響くような呻きを上げながら、半透明の両腕で満にすが
り付こうと……。
|
数分後、待ちかねた秀一がトイレを覗き込んだが。
「……あれ? 端島さん、どこですか?」
返事はなかった。
〜7〜
アレンデの日記は、日付が進むにつれて、ますます常軌を逸した内容になっていく……。
――1943年10月28日。
船内に残された記録から、実験の詳細を知った。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、大
いなる存在を召喚するものだったらしい。何でもその存在とは、あらゆる時と空間を自在に繋
ぐことができるらしく……その力を借りて、艦を一瞬にして離れた場所に移動させる。それが実
験の目的だったというのだ。
|
以前の私なら、一笑に付していただろう。しかし、他ならぬ、我が身で体験してしまった……こ
こはどこなのだ? 霧は一向に晴れない……。みんなはどこへ行ってしまったのか……。
|
――1943年10月29日。
エミリアが妙なことを言い出した。ロバートの亡霊を見たと怯えている。こんな状況で、精神的
に不安定になっているのだろうか。
|
――1943年10月30日。
確かに見た……ロバートの亡霊だ……ここはどこだ、助けてくれ、と言っていた……。
|
――1943年10月31日。
ロバートだけじゃない……艦長もアンドリューも、天国にも地獄にも行けずに、船内を彷徨っ
ている……いずれ、自分もああなるのでは……。
一刻も早く逃げ出したかったが、エミリアの体調が思わしくない。自分は置いていけと彼女は
言うが、無論、そんなことはできない。
|
――1943年11月1日。
エミリアは夜毎うなされている。寝言を言っている。『忌まわしいものが私に宿って』『私の中で
うごめいて』。気のせいだろうか。彼女の腹が……。
|
――1943年11月2日。
やはり気のせいではない。彼女は妊娠している。エミリアはうろたえているが、どんな状況で
も、生命の誕生は喜ぶべきことだ。無事に戻れたら、正式に結婚しようと言うと、ようやく少し微
|
――1943年11月3日。
今日も救助は来ない。だが、最後まで諦めない。必ず生きて戻って、彼女と……。
|
――1943年11月4日。
生まれた……。
(以下、ほとんど文章の体を為していない、でたらめな単語の羅列)
生まれたエミリアの腹を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない
父親は私じゃないあれは人間じゃない忌まわしい取替え子有り得ない逃げるしかないおお神
(少しだけ、落ち着きを取り戻して)
これを読んでいる人よ。どうかこの呪われた船を沈めてくれ。そして、二度とネクロノミコンに
記されている存在を呼び出すなかれ。神よ、エミリアの魂に安らぎを。
|
……日記はここで終わっている。
ウィリアムは真っ青になって、あの支離滅裂な殴り書きのページを見つめている。今にも卒倒しそう
だ。亮は慌てて、彼を安心させる言葉を捻り出した。
|
「おいおい、こんな話、真に受けるなよ。要するに、アレンデはちょっとおかしくなってたんだっ
て。長い漂流のせいでな」
「ああ、一見すると、怪奇現象のオンパレードだが、どれも常識で説明が付くよ」
そう口に出してみると、不思議とすらすらと説明できた。
「おそらく、エルドリッジが海に出たところで、何らかの事故が起きて、航行不能に陥ったんだ。
他の船員たちは避難したが、うっかりアレンデとエミリアの二人だけが取り残されちまった。そ
れに気付かずに『みんながいなくなった、船が瞬間移動した』と勘違いしたんだろう。おかしな
魔法のギシキをやらされたことも、思い込みを助長したんだろうな」
「で、でも、ここはフィラデルフィアとは、地球の反対側ですよ? いくら何でも、途中で気付きそ
「元は、フィラデルフィアの近くに浮かんでいたんだろう。でも、それから50年も経ってるんだ。
海流に流されて、地球を半周しても不思議はないさ」
「船員の亡霊は、言うまでもなく、漂流のストレスによる幻覚だな」
「エミリアさんは、出産時の出血か何かで亡くなったんでしょうか?」
「いや、日記の日付からすると、アレンデが妊娠に気付いてから、二日しか経っていない。そん
なに早く赤ん坊が産まれる訳がないから、多分、エミリアの死因は何らかの病気だろうな……」
そして、婚約者の死というショックが、アレンデのぐらつきかけていた正気を、完全に崩してし
……という、亮の推理が終わる頃には、ウィリアムの顔に血の気が戻っていた。
「なぁんだ、つまり、フィラデルフィア実験の真相って……アレンデの思い込みだったんですね」
「それプラス、アメリカ海軍のトンデモ実験だな」
そして、エルドリッジを脱出したアレンデは十数年後、ジェソップに手紙を送ったのだ。自らの
妄想を書き殴った手紙を。
それを元にして、ジェソップが超常現象・フィラデルフィア実験を創作したのだろう。まあ、さす
がにそのままでは信憑性がないと思ったのか、魔方陣が当時最先端の機械だったテスラコイルに
なったように、あちこち修正されてはいるが。
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「分かってみれば、あっけないですねぇ。アレンデとエミリアさんには同情しますけど……」
「そうだな……まあ、こうして真相に気付いてやれただけでも、少しは供養になるだろう」
……亮は気付いていない。
この推測で納得しておく方が身の為だと、自分に言い聞かせていることに。
「おっと、そろそろ集合時間だな。いったん戻るか。端島たちにも教えてやろうぜ。フィラデルフ
ィア実験の真相を」
「いやあ、ある意味衝撃だろ。昔のこととは言え、天下のアメリカ海軍が、こんなことをしてたな
そうして、何とか自分を納得させたつもりだったのだが。
立ち上がったはずみに、ふと、思い出してしまった。
“気付かない方が身の為”なことに。
「そういえば、アレンデは、エミリアのことは手紙で伝えなかったんだろうか」
「みたいですね。彼女は、ジェソップの話には全く出てきませんし」
たとえ妄想にせよ、なぜ彼女のことだけ隠したのだろう。思案する亮の目に、隣の部屋のドア
が飛び込んできた。
ドアにはDispensary(医務室)と書かれている――亮にも、これぐらいは読める――。
(もし、船内で女性が産気付いたら、どうする?)
気が付くと……。
亮の足は、そのドアに向かっていた。
「教官……?」
ウィリアムが戸惑っているのにも、気付かない。まるで、不可視の力に操られているように、ド
アノブに手がかかる。
(そうだ、当然、ここへ運び込むはずだ)
……亮の船乗りの本能は、もうとっくに気付いていたのかもしれない。このドアの向こうから
漂ってくる、得体の知れない空気に。
(もしも、あの日記が……)
ドアノブを回し……。
(アレンデの妄想でなかったら)
一気に引き開けた。
〜8〜
その部屋は、元は医務室らしく、白い内装でまとめられていたのだろう。
その清楚な白を。
赤茶けた跡が、跡形もなく汚している。
ベッドの上で爆発するように弾け、薬品棚にびちゃびちゃと飛び散り、床一面を染める、その
跡が……。
……何の跡なのか分かったらしく、ウィリアムがよろめいた。
「血……? これが、全部……?」
まるで、人体を爆破でもしたかのようだ。
(違う、エミリアの死因は病気なんかじゃない)
かと言って、出産時の出血などでもない……そう、通常の出産では。
生まれたエミリアの腹を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない
父親は私じゃないあれは人間じゃない忌まわしい取替え子有り得ない逃げるしかないおお神
|
なぜアレンデが、エミリアのことだけは、手紙にも書かなかったのか、今なら分かる。
恐ろしかったからだ。思い出すことさえ、耐え難い程に。
(違う、あの日記は、アレンデの妄想なんかじゃない)
「きょ、教官……」
ウィリアムが、亮の腕にすがり付く。
「ああ、分かってる……」
無論、これで全てが判明した訳ではない。エミリアが何を産んだのかなど、分かるはずもな
い。
しかし、一つだけはっきりしていることがある。
「この船を離れよう……」
ここは、人のいるべき場所ではない。
そして、二人が医務室を走り去った直後。
窓から差し込む光が、何かに遮られた。
それはずるずると船側を這い上がり、窓越しに二人を見つめて……。
〜9〜
甲板に出ても、相変わらず視界は一面の霧に閉ざされていた。
あるいは、五十年前から一度も晴れたことがないのかもしれない。そうだとしても、もう亮は
驚かない。一
この船は、呪われているのだから。
「きょ、教官?」
集合場所で待っていた秀一は、亮の剣幕に面食らっている。
「脱出するぞ、救助ボートに移れ!」
「訳は後で話す!」
有無を言わさず命じてから、亮は気付いた。
「……端島はどうした?」
「それが、トイレに行ったきり、いなくなっちゃって……」
顔を見合わせる、亮とウィリアム。
「い、言っときますけど、端島さんが勝手に……」
さすがの秀一も、言い訳している場合ではないと察したらしい。二人を案内して走り出す。
問題のトイレにはすぐ着いたが、やはり満の姿はどこにもない。
「端島さ〜ん! 教官に怒られますよ〜!」
秀一の呼びかけにも、応える者はない。
ぉぉぉ……廊下の奥から、微かな反響が返ってくるばかりだ。
「もう、しょうがないな〜。あ、自分はこっちを探してきますね」
危ない、と言おうとした亮が、戦慄に凍り付く。
秀一は気付いていない――。
――背後の壁から生えた、半透明の両腕に!
それは、まるで存在しないかのように壁をすり抜け、たちまち朧な全身を露にする。変わり果
てた姿になっていたが、間違いない。
|
「端島……!?」
タスケテクレェェェ……タスケテクレェェェ……反響などではなかった。そのおぞましくも哀れ
な呻きは、半透明の顔にぽっかり開いた、ブラックホールのような口から発せられている。
秀一が、ようやく背後の気配に気付いて、振り向いた……時には、もう遅かった。
満の半透明の腕が、秀一の肩を掴む……いや、突き抜ける。そこを起点に、みるみる秀一
の体が透き通っていく。
ああああああアアアアアアAAAAAA…………。一
|
それに比例して、秀一の絶叫が変質していく。どんどん低くなり、この世のものでない響きを
帯び……。
ココハドコダァァァ……ナニモミエナイィィィ……。一
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満の呻きと区別が付かなくなる頃には、秀一も全身が半透明になっていた。
呆然としていたウィリアムが、ようやく悲鳴を上げる。
それに応えるかのごとく、壁から床から、次々と半透明の手や首や上半身が現れる。その多
くが、船員らしき服装をしていた。
アレンデが日記に記した“船員の亡霊”なのか。
Help me……Anything is not seen……Darkness……Darkness……。一
|
壁から突き出した首が、英語らしき呻きを上げている。アレンデはこの光景を手紙に書き、ジ
ェソップはそれを元に“床や壁と融合してしまった船員”を創作したのだろう。
(亡霊……)
窮地に陥った亮の頭脳が、限界速度を超えて回転しているのか。アレンデが用いたその表現
は、正確ではないことを直感する。
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彼らは死んだ訳ではない。おそらく、エルドリッジが瞬間移動――その可能性も、もう亮は疑
っていない――した際、移動に連いて行き損ねて、時空の狭間に取り残されてしまったのだ。
|
それから五十年以上、彼らは死ぬこともできずに、船内――に隣接する時空の狭間――を
彷徨い続けている。
|
そして、彼らに触れられた者もまた、時空の狭間に引きずりこまれ、その仲間入りをする羽
目になるのだ。満や秀一のように。
「端島、北条、落ち着くんだ!」
必死で呼びかけるが、満や秀一の目に、最早欠片も理性が残っていないのは明らかだった。
|
他の船員たちは言うまでもない。時空の狭間に引きずり込まれる感覚、それは、僅か数秒で
人間の理性を破壊するに十分らしい。
呻きの不協和音を響かせながら、じりじりと包囲網を狭めてくる。彼らの頭にあるのは、時空
の壁越しに、僅かに感じる人の気配にすがることのみ。それが、同類を増やす結果に終わる
だけとも知らずに。
|
(止むを得ない……!)
生徒を見捨てて逃げるなど、教官として最低の行為だが、このままでは全滅するだけだ。へ
たり込んでいるウィリアムの腕を掴んで、無理矢理立ち上がらせる。
「しっかりしろ! 一緒に湘南に行くんだろ!?」
そこで思う存分、操船させてもらうという約束を思い出したのか、ウィリアムの瞳に、僅かなが
ら光が戻ってくる。
(そうだ、約束を果たすためにも、生きて帰らなくては)
「よし、走るぞ!」
来た通路は“時空亡霊”たちに塞がれている。別の出口を探すしかない。経験から船の構造
を推測し、必死に走る。その二人を、亡霊の群れが壁をすり抜けながら追う。まさしく、黄泉の国
からの脱出劇だ。
|
出口だ。そこへ続く階段を死に物狂いで駆け上がると、不幸中の幸い、エルドリッジに乗り込
むのに使った、非常用梯子のすぐ側だった。救助ボートはこの下に係留してある。
|
「香坂、先に行け!」
しかし、彼らをこの呪われた船に誘き寄せた悪意は、すでに包囲網を完成させていた。
「いや、待て! ……何だ、この音は?」
ずるずる? それとも、ねちゃねちゃ? 何とも形容しがたい音が、船側を這い登ってくる。
足裏から伝わってくる振動で分かる……信じられないくらい、巨大だ。
本能が危険を察知すると同時に、異様な影が霧の中に躍り上がる。太さは人の胴回り程、
長さは十メートル以上。
|
(触手……!?)
イカの触腕にも、象の鼻にも、いや、亮が知っている、どんな生き物の部位にも似ていない。だ
が、それだけはかろうじて分かった。
|
つまり、これでもまだ、全体の一部でしかないということ。
(こいつだ……曙光丸が沈んだ時に見たのは)
あの触手を真っ直ぐに突き刺せば、ちょうどあんな穴が開くだろう。
霧を裂いて触手が迫る。あの巨大さからは、信じられないような敏捷さだ。
ウィリアムを突き飛ばして庇うのが、精一杯だった。
「きょ、教官!」
触手が亮の胴に巻き付き、掴み上げる。必死でもがくが、船に穴を開けるパワーに敵う訳が
ない……命運は尽きた。
「エミリアが産んだものなのか……!?」
諦めゆえの直感力でそう悟ったが、今さら何の役にも立たない。
「香坂、俺に構わず逃げろ!」
亮にできるのは、そう叫ぶことだけだった。
悪意は、彼の想像を遥かに超えていた。
「あはははははははははははははははははは!」一
|
〜10〜
場違いも甚だしい、その弾けるような笑い声が、どこから発せられているのか、亮は一瞬分
|
分かって、愕然とする。
「香……坂?」
笑い声は、ウィリアムの口から発せられている。体をくの字に曲げ、可笑しくて仕方なさそうに笑
|
「あー、可笑しい。教官ったら、まだ気付いていないんですかぁ?」
ようやく、ウィリアムが笑うのを止める。その顔に、ついさっきまで浮かんでいた恐怖の表情な
ど、微塵も残っていない。
ウィリアムは、悪戯の種でもばらすかのような口調で言った。
「逃げろも何も、みんなをこの船に誘き寄せたのは、僕なんですよ?」
「でも、さすがは教官。冷静でしたね。こんなに梃子摺らされたのは、初めてですよ」
「何を……言ってるんだ?」
「よく見て下さい。それを……そうすれば、全部分かりますよ」
操られているかのように、亮の視線が、ウィリアムが指差す方を向く。すなわち、足元を。
自分の胴に巻き付いている触手を、何十本もでたらめに絡めたような異形の物体。船側に
へばり付いていたのは、そんな存在だった。
それだけだったら、まだ耐えられた。だが、亮は気付いてしまった。絡まり合う触手の中心
に、直径1メートルに及ぶ“顔”があることに。
――ウィリアムと瓜二つの。
「紹介します……兄です」
ウィリアムのくすくす笑いと亮の絶叫が、地獄めいた合唱を奏でる。
「双子なんです、そっくりでしょ?」
ウィリアムと、彼の“兄”の顔を、狂ったように、何度も何度も見比べる亮。気付かざるを得な
かった。気付かない方が幸せだった、おぞましい真実に。
ウィリアムを、実の弟のように可愛がっていた彼にとっては、なおさら。
「まさか、お前も……!?」
「ええ、エミリア母さんから生まれました。あの日、あの部屋で……だから、本当は教官より、ず
っと年上なんですよ?」
そう言ってウィリアムが浮かべた表情を、何と表現すべきか、亮には分からなかった。猿が人
間の表情を読めないのと同様に。いくら顔の形が似ていても、それを動かす精神が違いすぎ
何よりも、その表情が亮に悟らせた。
(そんな、香坂が……)
外見がどうあれ、本質はあの“兄”と同じ。言わば、人間そっくりの怪物なのだということを。
「本当にお前が、俺たちをここに誘き寄せたのか……?」
「フフ、教官たちだけじゃないですよ……ほら」
そう言って、ウィリアムが手で何かを払うような仕草をすると……視界を閉ざす霧が、見る見
る晴れていく。
それに驚く暇もなく。露になった周辺の光景に、亮は呆然と目を見開く。
エルドリッジの周囲は、まさに船の墓場だった。あらゆる大きさ、あらゆる様式の船の残骸
が、水死者の如く波間を漂っている。
それだけなら、まだ有り得ないことではない。航海術が未発達だった過去には、暗礁地帯な
どで似たような光景が見られたかもしれない。
……だが、その上に広がる、病んだ緑色の空は、地球上のどこにも有り得まい。そこには、
正体不明の赤い光の筋が、毛細血管のように張り巡らされ、脈動するように明滅を繰り返して
(馬鹿な……ここは、どこなんだ)
つい数時間前まで、雅忠節湾にいたはずなのに。
「不完全な知識で行われた儀式は、エルドリッジを中途半端な場所に移動させてしまったんで
す……ここ、異次元に広がる、無窮の海に」
|
とりあえず、曙光丸の通信機やレーダーが故障した原因だけは分かった。
こんな場所で、そんな物が正常に働くはずがない。
「僕たち双子は、生まれて以来、同じことを繰り返してきました。僕が、時空を捻じ曲げて、船を
この海に迷い込ませる。その船を、兄が沈没させ、船員がエルドリッジに乗り移るよう仕向ける
そこで待っているのは、あの亡霊の群れ。その結果が、この船の墓場……まさに、海魔の兄
弟だ。
この五十年間で、幾人の船乗りたちが、その魔の手にかかったのだろう。
ウィリアムとの思い出が、走馬灯の如く脳裏を駆け抜けていく。
自分を兄のように慕ってくれたウィリアム。ついさっきも、湘南に連れて行ってやると約束した
ら、あんなに喜んでくれたのに。
(あれは全部、演技だったのか……!?)
マグマのように湧き上がるのは、しかし、怒りではなく……悲しみだ。
そんな亮に気付いているのかいないのか、ウィリアムは淡々と続ける。
「そして、これからも繰り返すでしょう。ミスカトニック大学で、ネクロノミコンを調べて突き止めま
した。あの儀式には、大量の生贄が必要だったんです。五十年前の実験では、その部分を見逃
儀式を今度こそ成し遂げる。それが、彼ら兄弟の目的なのか。
「……帰るためですよ、僕らが本来いるべき世界に」
亮の叫びに対して、ウィリアムは……そっと顔を伏せた。見られたくないかのように。
「そうするしかないじゃないですか……この世界では、僕らはおぞましい“怪物”なんですよ」
その言葉に、亮は微かな希望を見出した。その呪われた出自を、最も嫌悪しているのは、他
ならぬウィリアム自身だと。
それは、人間の証明ではないか。
「そんなことない! お前は、間違いなく人間……!」
「……兄にも同じことを言えますか?」
凍り付くようなウィリアムの指摘に、亮は思わず声を詰まらせる。
改めて、自分の胴に巻き付く触手の主を見下ろす……。
(目を逸らすな……吐き気を催すなんて、もっての外……)
駄目だ。どうしても、本能が拒絶してしまう。これを拒絶することは、ウィリアムを拒絶すること
と同義なのに。
己の不甲斐無さに肩を落とす亮に、ウィリアムが哀れむように呟く。
「いいんですよ、恥じなくても。人間なんて、そんなものだ……肌の色で差別し合っているような
連中が、僕らを受け容れられる訳がない」
それが、人に混じって、五十年以上の時を生きてきた彼の、答えなのだろうか。その間、多く
の出会いがあっただろうに、誰一人として、彼に希望を与えることはできなかったのか。
(そして、俺もまた……)
ウィリアムの足元から、無数の半透明の手が湧き出す。彼ら兄弟によって時空の狭間に囚
われた、哀れな生贄たち。
「さあ、お仲間が呼んでますよ、教官?」
亮が動けないのは、しかし、胴に巻きつく触手のせいばかりではなかった。
ウィリアムの顔には、相変わらずあの理解不能な表情が張り付いている。しかし、亮の目に
は、それは仮面と映った。その下には、彼が良く知るウィリアムがいるのだと。
見捨てないで……一緒にいて……。
(香坂……)
それが己の願望に過ぎないのか否か、しかし、亮が結論を出すより前に。
突然、触手の力が緩み、亮は甲板に投げ出される。
「どうしたの、兄さん!?」
「イグナイイ……イグナイイ……トゥフルトゥクングァ……」一
|
驚くウィリアムに返ってきたのは、廃液が沸き立つ音のような……声なのか、これが?
「エエ・ヤ・ヤ・ヤ・ヤハアアア――エヤヤヤヤアアア……ングアアアアア……フユウ……フユ一
|
ウ……My father……My father……!」一
|
やはり、声に違いない。僅かに聞き取れた単語は、紛れもなく英語だったから。
「何だって……まさか」
ウィリアムが、慌てて頭上を見上げる。
釣られて見上げた亮が目にしたのは。
(何だ……空が)
赤い毛細血管が脈動する緑色の空――あれを空と呼べるのかは疑問だが――が、へこん
でいく。まるで、鉄球を載せたゴム膜のように。
空のへこみは見る見る深まり、ついには直径数キロメートル、深さは推測もできない程の穴
「父さん……迎えに来てくれたのか」
空に開いた穴を、呆然と見上げるウィリアム。
「父親……!?」
亮は、ようやくそのことに思い至った。
ウィリアムたちの母親はエミリア。では、父親は誰なのか? 無論、アレンデであろうはずが
日記には書かれていた。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、ある存在の力を借りるもの
「そうです……アメリカ海軍によって召喚され、哀れなエミリア母さんの胎内に僕らを宿した、は
た迷惑な父さん……でも、子煩悩な一面もあるみたいですね」
|
突然、足が甲板から浮き上がりそうになり、亮は慌てて柵に掴まった。
周囲で重力の法則が崩壊している。船の残骸が波間から浮き上がり、亡霊たちが甲板から
引き剥がされ、螺旋を描きながら空の穴に吸い込まれていく。
|
その壮絶な光景を、ウィリアムは苦笑を浮かべて見つめていた。
「ああ、教官、やっぱり帰っていいですよ。生贄はもう十分みたいだから」
あっさりそう言うウィリアムの背後で、彼の兄の巨体も空に落ちていく。響き渡る咆哮は……歓
喜のそれに聞こえた。
|
そして、ウィリアムの足も、ふわりと甲板から浮かぶ。
(待て、行くな……!)
必死で伸ばした手は……指一本分、届かない。
無数の船の残骸や亡霊を引き連れて、ウィリアムは空に落ちていく。その青い瞳からこぼれ
何だったのかは、永久に分からなくなった。
凄まじい輝きが、亮の目を灼いた。
空の穴から、何かが降りてくる……何だ、あれは……穴とほぼ同じ大きさ……とても、言葉で
は表現できない……あえて言うなら、虹色に輝く無数の球体……絶えず、分裂と融合を繰り返
して……まるで、素粒子の分解と結合のプロセスを、肉眼で見ているよう……いや、それとも、誕生
|
と消滅を繰り返す、多元宇宙の……。
その人智を超えた姿に、亮の強靭な精神力も、ついに限界を迎えた。遠のく意識の中で、ウィリ
アムの最後の言葉を聞いていた。
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――紹介します。僕らの父さん、門にして鍵、一にして全、全にして一なるもの、無窮の虚空を支
配する神、ヨグ=ソトース……。
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それから、約十二時間後。
亮は船の残骸――曙光丸のそれでないことが、後に判明するのだが――に掴まって漂流し
ているところを、救助された。
重度の記憶障害に陥っており、事故に関する記憶は全て失われていた。ただ、夢の中では、
記憶の断片が蘇るのか、寝言で悲しげに呟くのを、担当の医師らが聞いている。
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『湘南に連れて行ってやるって約束したのに……』
『一人で行っちまいやがって……』
『遠い、遠い海へ……』
〜Fin〜
この作品がお気に召して頂けましたら、ぜひご投票下さい→
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