「あ、ご覧になれますでしょうか? たった今、パトカーから降りて来ました! これから、現場
検証に入る模様です!」
日本の主要テレビ局ほとんどのカメラが、その男の挙動に注目していた。
K島容疑者。つい数日前、赤無市少女連続殺人事件の犯人として、逮捕された男だ。
一ヵ月足らずの期間に、三人もの少女を殺害。動機は“派手なことをして、世間の注目を浴
びたかった”。その残忍さ、異常さから、マスコミはこぞって、彼を現代の切り裂きジャックと囃
し立てた。
K島は警察官に尋問されるまま、少女を殺害した時の様子を、嬉々として語り、時折テレビカメ
ラに向かって、歪んだ笑みさえ浮かべてみせる。世間の注目を浴びることが目的だった彼にして
みれば、まさに願いが叶った瞬間だったろう。
その、得意満面のK島の顔が――
――どろりと溶けた。
「……? な、何だ……」
K島が混乱する内にも、目が、鼻が、耳が崩れ落ち、その顔が平板な面にすぎなくなる。
警察官やマスコミのスタッフは、水を打ったように静まり返っている。何が起きているのか分
からないのは、彼らとて同じだった。
「た、助け……」
ようやく、我が身に起きていることを理解したK島が、警察官にすがり……付こうとした手も溶
け、べしゃりと崩れ落ちる。
数秒後、K島の体は、汚らしい緑の腐液と化して、地面に広がっていた。
「な、何が……」
誰もが、唖然としていた。驚いたり、怯えたりする以前に、受け容れることすらできずにいる。テ
レビカメラを通して見ていた、日本中の誰もが、似たような状態だった。
連続殺人事件は、一転してその容疑者の怪死事件と化した。マスコミはこの新しい餌に猛然
と食い付き、憶測合戦を繰り広げた。誰かが強力な酸を浴びせたのだ。いや、未知の奇病だ…
…無論、警察も徹底的な捜査を行ったが、何一つ成果は上がらなかった。
そして数日後、早くも第二の事件が起きた。
「くっくっく、これでまた大儲けや。ちょろいもんやで」
詐欺紛いの手口で悪名高いT金融の社長、F岡が、新しい悪巧みの算段を整え、自社ビルか
ばかん! 足元のマンホールの蓋が、天高く吹き飛んだ。
F岡と周囲の人々は、呆然と見上げるしかない。露になった下水道の入り口から、ぬうっと躍
り上がったそれを。
巨大な黒い塊だった。泥や汚物などではない。そのぬらぬらとした表面は不気味に脈動し、至
る所に貪欲な口が開いている。
テケリ・リ、テケリ・リ! 鳥とも蛙ともつかない、それは鳴き声なのか。
F岡には、悲鳴を上げる暇もなかった。気が付くと、ぱくりと怪物の口に咥えられ、つるりと飲
み込まれていた。続く、ごきゅごきゅという音が……。
……咀嚼音であることに思い至り、ようやく周囲の人々が悲鳴を上げて逃げ出す。そんな様子
を尻目に、怪物は悠然と下水道に姿を消した。
テレビカメラこそなかったものの、多くの目撃者がおり、この事件もすぐに世間の知る所にな
何の根拠もないにも関わらず、誰もが本能的に察していた。これは間違いなく、同じ事件だ
と。そして、これで終わるはずがないとも。
そんな、人々の不安――それとも、期待?――に応えるかのように、ほどなく第三の事件が
「ようよう、金貸してくれよー、ちょっとでいいからさぁ」
札付きの不良少年、O西が、いつものように校舎裏でカツアゲに勤しんでいた時だった。
くすくすくす。どこからともなく、奇怪な笑い声が響いた。ぎょっとして振り返るO西。しかし、い
くら見渡しても、周囲には誰もいない。
くすくすくす。笑い声は、相変わらず続いている。あたかも、彼を嘲笑うかのように。O西は苛
立って――いる振りをして、怯えを誤魔化して――怒鳴った。
「誰だ、出て来い、コラ!」
それに応えるかの如く……どすどすどすっ!
O西の体の至る所に、穴が開いた。
そして、まるでポンプで吸い出しているかのような勢いで、穴から血が抜き取られていく。
それだけでも十分、常人の理解を超えているが、さらに不可解なことに。
吸い出された血が、重力に逆らって天に登っていくのだ。
カツアゲされていた少年が、腰を抜かして失禁する。彼は見てしまったのだ。O西から吸われ
ている血が空中に描き出した、不可視の吸血鬼の姿を。
それは、くすくすと笑う……かのような声で鳴く、無数の触手を生やしたゼリー状の塊だった。
数分後、駆けつけた警官たちが目撃したのは、干物のようになったO西の死体だった。
立て続けに起きた、不可解な事件……いや、事件なのか? 事件とは人が起こすものだ。
人にできるのか? 人体をアイスクリームのように溶かすことが。あれは人か? テケリリと
鳴く人食いアメーバや、くすくす笑う不可視の吸血鬼は。
分からない、一体何が起きている……誰もが頭を抱える中、ある犯罪研究家が指摘した。一
連の事件には、一つだけ共通点があると。
すなわち、程度の差はあれ、被害者全員が、何らかの罪を犯しているという点だ。
それが正しかったことは、間もなく明らかになった。第三の事件から数日後、各テレビ局に
“アル”と名乗る人物からの手紙が届けられたのだ。その内容は、驚くべきものだった。
曰く、自分は神の代理人である。
曰く、K島の怪死に始まる一連の事件は、自分の仕業である。神より授かった力で、罪人ども
ここまでだったら、騒ぎに便乗した悪戯としか思われなかっただろう。しかし、手紙にはまだ続
〈信じて頂けないのも、無理はありません。そこで、一つ予言をしたいと思います。次は明後日
の十五時に、この罪人に裁きを下します〉
その下に書かれていたのは、何とM党の重鎮、S沢国会議員。折しも、不正献金疑惑で渦中
かくて、アルが指定した時間、国会議事堂前に日本中が注目した。
「S沢さん! 安全対策は万全ですか!?」
「アルに狙われたのは、やはり不正献金が原因でしょうか!?」
レポーターたちの突き出すマイクをかき分けて、S沢は必死で黒塗りの公用車に乗り込む。
その周囲は、万が一に備えて、SPの車両が取り囲んでいる。
「全く、アルだかアルコールだか知らんが、迷惑な話だ! 不正献金なぞ、議員の嗜みだろ
SPたちに聞かれたら、職務を放棄されそうなことを口走る。あいにく、聞いているのは、運転
「ああ、議員会館まで頼む」
横柄な口調で命じる。
しかし、返事はない。
「おい、聴いているのか……え?」
S沢は、ようやく気付いた。秘書が奇妙な出で立ちをしていることに。
ぼろぼろの黄色い外套に、オペラ俳優が被るような仮面。ゆっくりと振り返り、呆然としているS
沢に語りかける……地獄の底から響くようなその声は、断じて聞き慣れた秘書のものではな
い。
「黄ノ印ヲ見ツケタカ……?」
骨と皮だけのような手が、仮面にかかる。
駄目だ、その下の素顔を見たら……本能的にそう分かるのに、なぜか目を逸らせない……
聞こえる……仮面の下に広がる闇から、歌のようなものが……イア、イア、ハスタア……ウグ
そんな車内の様子に、周囲のSPたちは全く気付いていない。不注意と責めるのは酷だろう。
彼らは、それ以上の光景に目を奪われていたのだから。
「おい、あれは何だ!?」
議事堂周辺の空が揺らいでいる。まるで水面のように……いや、あれは確かに水面だ。冷た
く輝く星々を映した水面が、空に取って代わって現れた!
凄まじい水柱と共に、何かが水面を割って現れる。東京タワーに匹敵する大きさのそれが、
触手であると理解できた者はいなかった。
そのサイズからは信じられないような器用さで、S沢の乗った公用車を巻き取り、電光のよう
な速度で、空の水面に引きずり込む。
人々が我に返った時、空は何事もなかったかのように、元通りになっていた。
〈どうでしょう? これで私の力は、信じて頂けたでしょうか〉
翌日、再び各テレビ局に届いたアルからの手紙を、哂う者は最早居なかった。
あれは奇跡。そして、その奇跡を操るアルは、神の代理人。他にどう説明できよう? あの光
景を。
〈あのような目に遭いたくなければ、どうか思いやりの心を持って下さい。隣人と痛みを分かち
合い、地球の反対側に住む人々のために祈って下さい。その果てにある平和な世界こそが、
神と私の願いです〉
「おお、神よ、アルよ……!」
誰かが、感極まって法悦の涙を流した。
「救世主だ! アル様こそ、救世主だ!」
そして、多くの人々が、それに賛同した。
それからも、アルの“天罰”は下され続けた。強盗殺人犯に、子供を虐待死させた親に、同級
生を自殺に追いやったいじめっ子に。半魚人に川に引き摺り込ませ、全身を針金のように捻じ
曲げられ、あるいは空を歩く巨大な人影に攫わせて。回を重ねるごとに、アルを救世主と讃え
る人々は増えていった。
さすがに警察は“殺人は殺人”として、あくまでアルを逮捕する構えだったが、当然何の手掛
かりもなく、捜査は一向に進まなかった。
『こちら、現場です! 目撃者の証言によれば、被害者は人々の目の前で、見えない怪物に食
い殺されたと……』
『アルを讃えよ、アルは救世主なり!』
今日もテレビは、天罰の現場と、その周囲でアルを賛美する信者たちを映している。
「フフフ、いいぞ、計算通り……!」
その様子を、Y神少年は満足げに見つめている。
彼がいるのは、ごく一般的な、一戸建て住宅の一室。勉強机と、そこに並ぶ参考書から、一
見して学生だと分かる。
誰に想像できよう。彼こそが、“救世主”アルその人だと。
「得意満面ねぇ、救世主さん?」
皮肉の主は、ベッドに腰掛けた黒い人影。ティファニーのティーカップで、優雅に紅茶を楽し
少女のように、見えた。
仏蘭西人形のように整った顔立ち、ゆるやかに波打つ白金の髪、華奢な体に纏う衣装は……
所謂、ゴシック・ロリータだろうか。黒を基調にした、古めかしいデザインのドレスだ。 |
何より印象的なのは、その瞳だ。鮮やかな、真紅なのだ。
異貌ではあるが、美しい。美しくはあるが、心安らがせてはくれない。それはルビーの赤ではな
く、地獄で燃え盛る業火の赤だ。
「勘違いしないでくれよ、アリス? 僕はただ、世界に貢献できるのが、嬉しいだけだよ」
テレビから「救世主」という叫びが聞こえる度に、歪んだ笑みを浮かべておいて、Y神はしゃあ
しゃあと嘯く。
「僕は心底、この世界を愛しているんだよ」
「自分の思い通りにできる玩具として、じゃないの?」
「……それは、君のことだろう。這い寄る混沌よ」
「あら、気付いてたの」
勉強机の上には、一冊の本が置かれている。紙が黄変し、所々ぼろぼろになっている。相当
古い物のようだ。
重厚な革張りの表紙には、Necronomikonと書かれていた……。
ネクロノミコン、またの名を死霊秘法。オカルトマニアの間で密かに語り継がれる、伝説の魔
道書だ。
宇宙を支配する異形の神々を崇拝し、その加護を得る方法が記されているとされ、読めば世
界を手にすることさえ出来るという――引き換えに、その常軌を逸した内容に人倫を見失い、狂
気に導かれるとも。
|
そう、この本こそが、アルが行使する奇跡の源。そして、それを彼に授けたのが、この黒衣の
少女アリスなのだ。しかも、何の見返りも求めずに。
|
「何のために、これを僕に?」
Y神の当然の疑問に、アリスはおどけた口調で答えた。
「ウフフ、決まってるじゃない。ひ・ま・つ・ぶ・し・★」
普通なら、とても信じられないだろう。しかし、Y神は納得した。ネクロノミコンを精読した彼は、
知っている。彼女は、そういう存在だと。
暇潰しのために、世界を傾ける……こいつなら、やりかねない。
「じゃあね、せいぜいショーを盛り上げて頂戴」
ウインクを残し、部屋を後にする。なぜだろう、Y神は彼女がどんな顔をしていたのか、もう思
い出せなくなっていた。この特性ゆえに、歴史に幾度介入しようとも、彼女の存在は表に出ない
残されたY神は、彼女が消えたドアに向かって、挑発的な笑みを浮かべてみせる。あんな存在
に向かって、大した度胸だ。さすが、彼女に気に入られるだけのことはある。
「ああ、退屈はさせないよ。とくと見るがいい、救世主アルの新世界創世ショーをね! あーっ
ちょうど、その頃。
御簾門大学の考古学研究室で、L崎教授と助手は、真剣な面持ちで話し合っていた。
「それでは、S沢議員を攫ったのが、その“名状し難きもの”だと仰るんですか!?」
「ああ、間違いないよ。SPの人達が聞いたという歌のようなものは、かの神の召喚に用いられる
呪文に酷似している」
……訂正。助手は真剣そのものだが、L崎教授には楽しんでいる気配もある。古代の宗教や
魔術の第一人者である彼にとっては、“アル事件”は心躍る研究テーマのようだ。少々不謹慎
「K島容疑者を溶かしたのは“緑の崩壊”の術、F岡氏を一飲みにした怪物は“ショゴス”、O西
少年を襲った吸血鬼は“星から訪れたもの”に間違いない。全て、この本に書かれている通り
だ……おそらく、アルもこれか、あるいはよく似た内容の物を持っているに違いない」
L崎は、一冊の古びた書物を手にしている。Y神の持つネクロノミコンとよく似ていた。革張り
の表紙、黄変したページ、何より、迂闊に開けることを躊躇わせる、禁断の書物の風格が。
「エイボンの書……さすがの私も半信半疑だったが、これは俄然真実味が増してきたなぁ」
ネクロノミコンと双璧を成す、こちらも伝説の魔道書だ。著者の魔道士エイボンは、超古代の
魔法文明ハイパーボリアの出身だという。
内容にはネクロノミコンと重複する箇所が多く見られ、こちらの方がオリジナルだとする説もあ
「と言うことは、アルは世間で思われているような、超能力者なんかじゃなくて……?」
「ああ、私と同じ、ただのオカルトマニア……少なくとも、人間だよ」
その時、研究室の電話が鳴った。受話器を取って返事をした助手は、困惑した様子でL崎に
振り返る。
「教授、お電話です。そ、その、警視総監から……」
彼とは対照的に、L崎は落ち着いていた。
「ああ、彼は古い友人なんだ。そろそろ掛かってくる頃だと思っていたよ。もしもし、お電話代わ
りました……やあ、久しぶりだね」
〈君も、元気そうで何よりだ。早速で悪いが、頼みがある。アル逮捕のため、力を貸して欲しい
その様子を、窓から覗き見ているアリス。彼女はついさっきまで、他県のY神宅にいたはずな
のだが……否、空間を飛び越えるなど、彼女にとっては、水溜りを跨ぐのと何ら変わらない。
「ウフフ……ようやく面白くなってきたわね。ネクロノミコンVSエイボンの書! まさに、夢の二
大魔道書対決じゃない?」
アリスの愛らしい顔立ちが、ぎぎぎと軋みを立てるように歪む。地獄の悪魔さえ、尻尾を巻い
て退散しそうなその表情が――。
――笑顔だと理解できる者が、果たしてこの世にいるのやら。
「これだから、人間で遊ぶのは、飽きないのよね〜。ウフフフフフ……!」
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邪神が仕組んだ救世主のゲームは、まだ始まったばかりだ。
〜Fin〜
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