〜1〜
それは、彼の眼前に冷然と聳え立っていた。
月の光を遮って、夜の闇よりもなお黒く。
美術に造詣が深い父が言っていた。黒とはあらゆる色を内包する、とても豊潤な色なのだと。
見つめていると、ぼうっとしてくる。完璧な黒が解れ、その内から無限の色彩が溢れ出してく
きらきら、くるくる。彼の周囲を色彩が舞う。いつの間にか、彼は多くの人々に囲まれていた。
人々は色鮮やかな衣装を纏い、松明を手に踊っている。それはまるで……。
(お祭……)
そうだ、今日は村のお祭だ。
彼を迎え入れるように、人々の踊りが左右に割れる。その間から、一際鮮やかな色彩が目に
赤だ。網膜に焼きつくような、真紅。
(母さん?)
それは、母が纏っているドレスの色だった。派手な服装が苦手な母にしては珍しい。でも、真
っ赤な装いの母も、とても綺麗だと思った。
人々の踊りは、母を中心に渦巻いている。彼女が祭の要であることは、幼心にも理解でき
母さんは、地面に横になっているのだろう。せっかくのドレスが汚れてしまうじゃないか。
――御主人様、奥様、いらっしゃいますか!?
背後から、聞き慣れた声が近付いてくる。ちょうど良かった。彼に聞いてみよう……。
(なあ、金谷。母さんは、何で……)
チヨは、現実を受け容れられずにいた。
現実とは、因果の連なりだ。原因があって、結果が付いてくる。だからこそ、夢の中のような
支離滅裂な状況変化――例えば、自分の部屋が突如、別の場所に変わったりするようなこ |
とは有り得ない。
十六年住み慣れた我が家が、木屑と瓦礫の山に変わることだって、同様に有り得ないはずで
昼食の材料の買出しから帰って、家の玄関を潜ろうとした時だった。突如、突き上げるような
衝撃が、足元から襲って来て……気が付くと、この有様だった。
(何が、何が、どうなってるの……)
この時、せめて周囲を窺う程度の余裕があれば、何が起きたのかチヨにも分かったかもし
あいにく、彼女は動揺のあまり、極度の精神的視野狭窄に陥っており、自宅以外は意識に
(とにかく、お父さんに……)
慌てて、自宅に隣接する店に向かう。
父は書店を経営していた。昔気質の彼は、探偵小説などは低俗だと嫌って、硬い学術書しか
置いていなかった。おかげで収入はささやかなものだったが、それでも親子の暮らしを支える
|
それが自宅と同様の状態になっているのを見て、チヨは暗澹たる思いだった。
(困ったわ、これからどうやって暮らしていこう)
だが、そんな些細な問題は、すぐに頭の中から消えた。
店の残骸の下から、にょっきりと一本の手が突き出しているのに気付いて。
「お父さん!?」
間違いない。あの袖は、父の和服のものだ。それは人形の手のように、ぴくりとも動かない。
「お父さん、大丈夫!?」
チヨは無我夢中で父の手を引っ張り……。
思わず、尻餅を着く。予想に反して、父の手があっさり抜けてしまって。
あっさり抜けたはずだ――
――父は、手だけになっていた。
『チヨ、この馬鹿者が!』
時に叩かれ。
『チヨ、偉いぞ!』
時に撫でられ。
恐ろしくもあり、暖かくもあった父の手が、今はもう、ただの物体。
家があり、父がいる。彼女の世界観はその瞬間、根底から崩れ去ったのだった。
1923年(大正12年)、9月1日、午前11時58分32秒。
帝都を含む関東一円を、地震が襲った。
後に言う、関東大震災である。
相模湾北西沖80kmを震源とする、マグニチュード7.9、海溝型のこの地震は、日本災害史上
最大級の被害をもたらした。
死者・行方不明者14万2800人。負傷者10万3733人。住家全壊 12万8266戸。 半壊12万6233
さらに、発生時刻が昼食時であり、多くの家庭で火を使っていたことが災いし、火事も多発、
44万7128戸が消失した。
大日本帝国を名乗って以来三十年、西欧列強に追い着け追い越せと日本が築き上げてきた
ものは、僅か数十秒であっけなく崩壊したのである。
華の帝都、天皇陛下のお膝元、輝けるモダニズムの象徴。
帝国ホテル、鹿鳴館、浅草十二階、壮麗な西洋建築の合間を、鉄道や自動車が行き交う。カェ
ーやダンスホールでは、洋装のモダンボーイ・モダンガールが恋を語らい、活動写真館では怪
奇
|
映画が人々を驚かせる。
そんな煌びやかな光景は、もう人々の記憶の中にしかない。
現実にあるのは、果てしなく広がる瓦礫の荒野と、亡者のような身なりの被災者の群れだ。
(あたし……どうして悲しめないんだろう)
地獄さながらの光景を見つめながら、チヨは自問を繰り返していた。
父が、唯一の肉親が死んだというのに、涙一滴出てこない。一体、どうしたことだろう。
実は、自分も、父のように家の下敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。それに気付
かず、幽霊になって彷徨っているのではないか。そうだ、それに違いない。自分が死んでしまった
|
のだから、その上誰が死のうと関係ないという心境になるのも道理だ。
あんまり多くの死人が出たものだから、三途の川も混雑してしまって、順番待ちさせられている
のかもしれない。死装束の亡者達が、賽の河原で押すな押すなと揉み合いしているところを思い
それから数日間、チヨは何をするでもなく、自宅跡に佇み続けた。飢え死にしなかったところ
を見ると、おそらく買物籠に入っていた漬物を齧り、井戸水を飲んで凌いだようだが、よく覚
なぜ、避難所に行かないのか。多分、動物が縄張りから出まいとする、本能のようなものだっ
たのだろう。自宅とその周囲だけが、彼女の世界の全てだったから。
〜2〜
その日も、自宅跡でぼうっとしていたチヨは、ふいに我に返った。
周囲の光景から、あまりに浮いた人影を目にして。
(何かしら、あの人?)
埃まみれの被災者達とは対照的な、仕立ての良い洋装の紳士だった。燕尾服という正式名称
を、チヨは知らなかったが。
服装だけではない。何気ない立ち振る舞い一つ一つが洗練されていて、気品が漂っている。き
|
っと、偉い人に違いない。
(あんな人が現実にいるんだなぁ)
こんな所に何の用があるのだろう。被災者の慰問にでも来たのだろうか。しかし紳士は、被災
者達には目もくれずに、ツカツカと優雅な歩みを続け……。
チヨの前で立ち止まった。
「失礼します、田通書店はこちらでよろしいでしょうか」
低いが、よく通る声だった。
話し掛けられるとは、夢にも思っていなかったチヨは、へどもどしてしまって、咄嗟に返事が
「御店主は、どちらにおいででしょうか」
「……父は、亡くなりましたけど」
「お嬢様でいらっしゃいましたか。この度は、お悔やみ申し上げます」
丁重に頭を下げられ、チヨは困惑する。なぜ、この人が父の死を悼むのだろう。
「申し遅れました。わたくしは金谷と申します」
さる地方の名家に、執事として仕えているのだという。
年齢は……父より少し下か。しかし、よく見ると、丁寧に撫で付けた髪には、ちらほら白いもの
が混じっている。すらりとした長身と、ぴんと真っ直ぐな背筋のせいで、実際より若く見えるの
切れ長の双眸、真っ直ぐな鼻筋、丸みの少ない頬の線は、あたかも、ナイフで顔から無駄なも
のを削ぎ落としたかのようだ。
主人の一部である自分に、個性など必要ないからと。
「お父上には、主が大変お世話になりまして……」
金谷の主人は、何やら難しい研究をしているらしく、父はその手伝いをしていたらしい。手紙
と小包のやり取りのみで、来店はしていなかったので、チヨは知らなかったのだ。
(お父さんが、そんな偉い人とお付き合いがあったなんて……それにしても)
この金谷だって、チヨの目には十分偉い人に見えるのに、さらに上がいるのか。世の中は広
いと思った、特に上下に。
「この度の震災でお困りであろうと主が申しまして、お迎えに上がった次第でございます」
金谷の声があまりに淡々としているので、チヨは咄嗟に意味が飲み込めなかったが。
「車を用意してあります。半日程で着くでしょう」
ぽかんと、チヨの口が半開きになる。
「あの、行くんですか? その、金谷さんの、ご主人様のお宅へ……あたしが?」
「はい。帝都が復興するまで、どうぞ当家にご滞在下さい」
生まれて初めて乗る自動車の乗り心地は、快適だった。いや、快適すぎて、かえって居心地
が悪いくらいだ。
「す、すみません、汚してしまって」
ぴかぴかの革張りのシートに、自分から落ちた埃が付着しているのに気付いて、慌てて払う。
「いえ、どうぞお気になさらず」
金谷の態度も、寛げない要因の一つだった。自分などには、勿体無いぐらい丁寧な言葉遣い
ではあるのだが、仮面のような無表情で、何を考えているのか窺い知れない。
|
内心は、主人の命令だから仕方なく乗せてやっているのだぞなどと思っているのではない
か。そう考えると、チヨはますます身を縮めるのだった。
気を紛らわそうと、びゅんびゅんと過ぎ去る車窓の景色を見る。すでに帝都は遠く離れ、道路
の周囲には森が広がっている。標高も上がっているらしく、夏用の着物では、少し肌寒いぐら
チヨはつくづく、運命の気まぐれさに呆れていた。
つい数時間前まで、乞食のように生き長らえていた自分が、今は華族のお姫様のように運転
状況が好転したのは間違いないが、嬉しいというより、狐に乗まれたような気分の方が強い。
大体、いくら恩があるからといって、所詮父は小さな書店の主に過ぎない。執事を雇うような偉い
人が、そんなに気に掛けてくれるだろうか。
今にもドロンと煙を上げ、車が木の葉に変わるのではないか。半ば本気でそう思い始めた時
森の合間から、その村が見え始めたのは。
思わず素頓狂な声を上げてしまう。だが、無理もない。その姿は、山間の小さな村だと聞いて想
|
「はい、佐羽戸村でございます」
佐羽戸村。金谷の主人が暮らす村。
夕陽に金色に輝くのは、おそらく麦畑だろう。煉瓦造りの家々は尖った屋根を被り、巨大な風車
|
が山風を受けて優雅に回っている。
柵で囲まれた牧草地では、日本ではまだ珍しい乳牛や羊が草を食み、牧羊犬がその周囲を
走り回っている。
村の中心に立つ建物は、どうやらキリスト教の教会らしい。鐘楼から、涼やかな鐘の音を響か
「まるで、外国みたい……」
チヨの感想は、図らずも正鵠を射ていた。金谷の説明によれば、迫害から逃れてきた隠れ
|
切支丹が作った村であり、彼らを率いていた宣教師によって、外国の技術と文化が伝えられた
日本が開国するずっと以前から、外国の文化を綿々と伝えてきた村。歴史のうねりが生み出し
た、日本中でも類のない村であろう。
村人達――ミレーの絵画に描かれるような、ヨーロッパの農民の服装だ――は、車が近づく
と、必ず仕事の手を止めて会釈する。
金谷の主人の家は、村人たちを率いていた宣教師の血筋と言われており、代々教会の司祭
を務めてきたらしい。のみならず、村のほとんどの土地を所有する大地主でもあるそうだ。
まさに、信仰面と経済面の両方から、村を支配しているのだ。村人達の恭しい態度も、納
車は、大名行列のように村人達を平伏させながら村を走り、ついに目的地に辿り着いた。
「チヨ様、お疲れ様でした。あちらが、石守家本邸でございます」
石守家。
かの家こそ、金谷の主家、佐羽戸の要、そしてチヨの招き主だった。
(あ、あれ、お家……なの?)
高い鉄柵の向こうに見える建物は、なるほど、チヨの常識では、とても個人の住居とは信じら
れぬ代物だった。一度だけ遠目に見た鹿鳴館に、規模ではさすがに及ばねど、壮麗さでは肩を
並べるのではないか。
それぐらい、立派な洋館だった。
全体としては、英国後期ゴシック様式の流れを汲むチューダー様式だ。銅版葺きのマンサー
ド屋根の重厚さと、スクラッチタイル貼りの外壁の繊細さを、アクセントに用いられた大華石が巧
みに融合させている。
などと言う専門的な評価はできるはずもないが、いかに金が掛かっているかはチヨにも想像
できた。しかも、ここが山間の村であることを思い出せば、驚きは倍加しよう。全ては、石守家
の莫大な富が可能にした奇跡なのだ。
「改めまして。石守家へようこそ、チヨ様。歓迎いたします」
淡々とした金谷の声は、遥か遠くから聞こえてくるかのようだった。
(嘘よ、あたしなんかが、こんな所にご縁があるはずない)
狐に化かされているのでないとしたら……そうだ、そうに違いない。金谷、あるいは石守家の
ご主人が、何か誤解しているのだ。そうでなければ、どうして自分などを呼ぶはずがあるだろ
〜3〜
金谷の案内で――チヨには、連行されているように感じられたが――、噴水が飛沫を上げる広
|
大な庭を抜け、壁に並ぶ猛獣のオブジェに威圧されながら進む。城門のような玄関ポーチを潜り
抜け……やっと目にした内観が、駄目押しのようにチヨを圧倒する。
入ってすぐのエントランスホールは、二階まで吹き抜けになっており、ここだけでも、父の店が
すっぽり納まってしまう広さだ。白い壁紙とワインレッドの絨毯が対照を成し、木彫り細工のような
|
階段が、優美な曲線を描いて階上に向かっている。くらくらするのは、シャンデリアが眩しいせ
お疲れですかと金谷が椅子を勧めてくれたが、背もたれの透かし模様の見事さに、座るどころ
か手を触れることさえできなかった。隅から隅まで、美術品のように手が込んでいる。自分の
汚い手が触れていい場所など、どこにもない。
ステンドグラスの採光窓が、ベルベットのカーテンが、大理石のマントルピースが、自分を嘲笑
っているかのようで堪らない。
『まあ、何でしょ、あの汚い小娘は』
『髪も服も、埃塗れ!』
『ここは、お前のような下賎の者が来る所ではなくってよ!』
(お、仰るとおりです、全部誤解なんです)
早く言わなければ。しかし、誤解だとばれたらどうなるのかと考えると、恐ろしくて何も言えな
い。怒られる……ぐらいなら、まだいい。最悪、不届き者としょっ引かれてしまうかも。
こちらに非はないという発想はできない。だって相手は、こんなお屋敷に住む“偉い人”なの
だ。黒い物だって白いことにできてしまう、神のような存在なのだ……。
「まあまあ、可愛らしいお客様ですこと」
春風のような声が、チヨの耳をくすぐった。
廊下の角からその姿が現れた時、飾られていた彫刻が動き出したのかと、思わず錯覚した。
「チヨ様、こちらは女中の絹です。御用がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
(む、無理です……)
この人に、物を命じるなんて。だって、女中だと説明されなかったら、てっきり奥様かお嬢様
だと思っていただろう。そんな人なのだ。
二十代前半か。しかし、纏う雰囲気は、実年齢の倍ぐらいの落ち着きを湛えている。
長い睫毛に飾られたアーモンド型の瞳、富士の稜線のような鼻梁、唇はやや肉が薄いが、そ
|
れがかえって、俗っぽい色気とは違う、神秘的な魅力を醸し出していた。
|
この時代の女性としては、かなりの長身だ。おかげで、おそらく外国の女中のお仕着せであ
ろう、独特の衣装――黒いドレスと白いエプロンを組み合わせたようなもの――も違和感なく
着こなしている。
(金谷さんといい、この人といい……)
使用人達も、この館に相応しい人達ばかりだ。その中で、自分の姿だけが、なんとみすぼらし
く、周囲から浮いていることか。
などと思っていたら。
「それでは、ご主人様にお知らせしてきます。絹、その間に、お客様のお支度を」
「お任せ下さい。さあ、お客様。お風呂が沸いていますから、どうぞ」
あれよあれよと言う間に、真っ白な陶器の浴槽に入れられ。
「洋服は初めてかしら? ウフフ、これなんてどう?」
絹が見立ててくれた、藤色のワンピースを着せられ。
「ほら、ご覧になって。まるでお姫様みたい」
桜色の口紅を引かれ、カメオのブローチまで付けさせられてしまう。
(あああ、こんなことまでしてもらって……)一
|
もう駄目だ、逮捕だ、懲役だ、いや死刑だ。
「金谷さん、お客様の準備が整いましたよ。ほうら、こんなにお綺麗になられて」
「お手数おかけしました、ご主人様のお部屋はこちらです」
表面に彫刻が施された、一際厚そうなドアが、チヨの目には刑務所への入口に見えた。
金谷の白い手袋が、軽やかなノックを響かせる。
「ご主人様、お客様をご案内しました」
チヨは緊張のあまり、気絶寸前。
そして、ドアの向こうからの返事に。
「おー、開いてるぜー」
……チヨの緊張は、一瞬で霧散した。
金谷の顔を見る。気のせいか、ついさっきまで完璧だった無表情が、微妙に歪んでいる。困
ったお方だ、と言いたげに。その横では、絹がくくくと肩を震わせていた。
〜4〜
部屋に入ってまず目に付いたのは、どっしりした造りの執務机だった。その他の調度品も重
厚さを強調したデザインで、部屋の主の威厳に、箔を付ける狙いがあるのだろうが。
部屋の至る所に、塔のように本を積み上げていては、あまり効果がないのではなかろうか。
「もう、ご主人様ったら。お申し付け下されば、片付けましたのに」
「あ、あはは、つい夢中になっちまってさ」
照れ笑いしているのは、声から想像した通りの――そして、声を聞くまでは全く想像しなかっ
た――人物だった。
(まさか、こんなお若い人だったなんて……)
どう見ても、まだ二十歳前だろう。ようやく、少年から青年に変わりつつある段階だ。
きりりと吊り上った弓形の眉は中々凛々しいが、大きな澄み切った瞳や、頬骨の目立たない丸
い頬は、まだまだあどけなさが抜けていない。
若者らしい、均整の取れた体に纏う開襟シャツとズボンは、最高級の素材を使った一流の品で
は確かにあるのだが、着方があまりに適当で……。
「ご紹介致します。こちらは、石守家十七代目当主……」
……には、到底見えない彼は、金谷を遮って自ら名乗った。教室に始めて入った転校生のよ
うに、元気良く。
「石守栄太郎だ、よろしくな!」
今度こそ、金谷が誰の目にも明らかな溜息を吐く。
「……恐れながらご主人様、当主には威厳というものも必要かと」
「へっ、そんなもん背負ってても、肩が凝るだけだぜ。現に親父なんか、しょっちゅう肩が痛い
肩が痛いって……」
上方落語のような主従のやり取りに呆然としているチヨに、ひそひそと絹が囁く。
「そんなに緊張しなくていいのよ。偉い人と言ったって、実態はあ〜んなものなんだから、ね?」
石のように固まっていたチヨの全身に、再び血が巡り始める。
改めて、三人を見る。金谷のお説教を、馬耳東風と聞き流す栄太郎。それを、くすくす笑いなが
|
(本当だ。あたしと同じ……)
笑い、そしておそらく泣きもする。
(人間だわ)
「ほらほら、ご主人様。お客様の自己紹介がまだですよ。金谷さんも、お説教はまたの機会に」
絹の遠慮のない物言いに、二人は慌てて居住まいを正す。立場的には一番下のはずの彼女だ
|
が、精神的には主人や上司よりも上らしい。
「た、田通チヨです。始めまして」
まだ若干、声は震えてはいたが、挨拶はできる程度になっていた。
「ほ、本日はお招き、ありがとうございます」
「ああ、石守家へようこそ!」
石守家の若き当主――栄太郎は、にっと白い歯を見せて笑った。何の飾り気もない、自然な
笑顔。本当に、ごく普通の若者だ。だが、考えてみれば、それはすごいことだ。
こんなお屋敷の御曹司、小さい頃から甘やかされ放題で、我儘な子供のまま大人になってしま
|
っても無理はないだろうに。余程親御さんの教育が良かったのか、それとも本人の素質か。
「あの、父がお世話になったとか……」
「はは、逆さ。世話になったのは、こっちの方だよ。ほら」
さっきまで読んでいた本を、掲げてみせる。それは古めかしい和綴じ本で、文字も印刷ではな
く、毛筆による手書きのようだった。
「あら、この本……」
「ああ、見覚えあるか? 田通書店さんに譲ってもらったのさ」
父が倉庫の奥から見つけ出して、これであの方もお喜びになるだろうと言っていたのを覚え
「いや、助かったぜ。どうしても欲しかったんだけど、なかなか見つからなくてさ。おかげで、随分
研究も捗ったよ」
懐かしい品を目にして、チヨはようやく信じられた。
自分が確かに、目の前の彼に“招待”されたのだということを。
「だからさ、ほんの恩返しだよ。大した持て成しはできないけど、帝都が落ち着くまで、ゆっくりし
「腹減ってるだろ? すぐに飯にしようぜ」
「ご期待下さい。今日は腕を振るいましたよ」
〜5〜
金谷と絹は、普段は使用人控え室で食事しているらしいが、今日はチヨの歓迎会ということ
で、全員が真っ白なテーブルクロスが引かれた食卓に並んだ。あまり使用人を甘やかしては、
などと金谷は呟いていたが。
並べられた料理は、どれもこれも、見たことも聞いたこともない御馳走ばかりだった。
「仔羊のお肉に、ワインで作ったソオスをかけてあるの」
「うまいぜ〜、絹さんの得意料理なんだ」
慣れないフォークとナイフを使って、恐る恐る口に入れると……。
美味さのあまり気絶しそうになる、という貴重な体験をしたのだった。そんなチヨを見て、一同
|
――金谷以外――が楽しげな笑いを響かせる。
海亀のスープ、鰻のパイ、デザートのプティング、どれも天上の美味だった。はしたないと思
いつつ、猛然とがっついてしまう。ただでさえ、この数日間、ろくに食べていなかったのだ。
ああ、美味しい。あまりに美味しくて……。
自分が涙を流していることに気付いて、チヨはぎょっとする。
「いやだ、ごめんなさい、あたし、何だか……何だか……」
ぽろぽろ、ぽろぽろ、拭っても拭っても、止まらない。
そんなチヨを前に、石守家の人々は……誰も驚かなかった。
絹は、微笑みを浮かべて。
金谷は、相変わらず無表情に。
栄太郎は、ちょっとだけ格好付けて。
けれど、三人とも同じ、優しい目でチヨを見つめている。
「いいんだ、チヨ……分かってる」
一同を代表して、栄太郎が口を開く。
「親父さんのこと、本当に残念だった」
(お父さん……)
ああ、そうか。チヨはようやく気付いた。
自分が、父の死という現実を、受け止められずにいたことを。
――実は、自分も、父のように家の下敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。
そんな風に、生きる意志を放棄し、感情を麻痺させることで、その痛みを誤魔化していたの
けれど、今、数日ぶりに生きる喜びを思い出して。
自分がまだ生きていることを実感して、そして父はもうこの世にいないことを痛感して。
相反する想いが、涙になって溢れ出したのだ。
「あのさ、気持ち、分かるよ」
え? と顔を上げる。栄太郎の声には、決して薄っぺらな同情ではない、同じ痛みを知ってい
る者の、本物の共感があった。
「変だと思わなかったか? なんだって、俺みたいな若造が当主なのか」
絹と金谷が、そっと目を伏せる。
「……死んじまったんだよ。親父もお袋も、五年前にな」
思いも寄らなかった。こんなお屋敷に、あらゆる災いから守られていそうな場所に暮らす彼
が、自分と同じ体験をしているなんて。
栄太郎は、寂しげとも苦笑とも取れる、微妙な表情を浮かべている。
「全く、死者は勝手だよな……生者の事情なんか、お構いなしで逝っちまう。てめえは神様だか
閻魔様だかが、面倒見てくれるからいいかもしれねーけど」
随分と不遜な、死者への冒涜にもなり兼ねない言い草だったが。
「残された方はどうすりゃいいんだよ、なあ?」
一転、途方に暮れたような口調が、チヨの心を激しく共振させる。
どうすりゃいいんだよ……そう、それだ、今の、この気持ち。
お父さん、あたしどうしたらいいの――。
――この、痛みを。
「本当ですね……どうしたら、いいんでしょう……?」
栄太郎は乗り越えたのか。その方法を知っているのか。ならば、ぜひ教えて欲しい。
「……分からない」
そう言われても、チヨは落胆しなかった。気休めを言わないからこそ、信じられる。この人は確
かに、この痛みを知っていると。
(この人は、あたしを分かってくれている)
「未だに、確信は持てないんだ。自分がちゃんと、両親の死を乗り越えたのかどうか……でも、
まあ、こうしてそれなりにやれてるのは、金谷と絹さんがいてくれるおかげだな」
勿体無いお言葉にございます、等と恐縮するでもなく、金谷と絹は涼しい顔だった。それを見
て、チヨにも分かった。彼らと栄太郎は、単なる主従ではなく、家族にも等しい関係なのだと。
「だからさ、今度は俺が、誰かの力にならなきゃいけないと思うんだ。昔の俺と、同じ痛みを背
負った誰かの」
チヨとも、同じ関係を築きたいと、彼は言ってくれているのだ。
たとえ短い時間でも、家族でいようと。
「チヨ、君を迎えるのは、半分は親父さんの恩に報いるためだけど、もう半分は……」
君のため、とはあえて言わずに。
「……俺の勝手だよ。だから、遠慮はいらない。今日から、ここを自宅だと思ってくれよ、な?
金谷も絹さんも、そのつもりで頼むぜ」
「……畏まりました」
「もちろんですよ。楽しくやっていきましょうね」
ここに来て良かった、心からそう思った。
まだ、胸は痛んでいる。しかし、きっと乗り越えられる。ここでなら。
シャンデリアのきらめきが、涙で滲む。もう、豪華な内装を見ても、嘲笑われているようには感
全てが光り輝いて、自分を励ましてくれているかのようだった。
こうして石守邸は、新たな住人を迎えたのだった。
そんな様子を、それは村外れの丘から、無言で見下ろしている。
今はまだ、その黒い面に何も映すこと無く。
〜6〜
「おはようございます、栄太郎さん」
「ふわああ、おう、チヨは早起きだな……うわっ、どうしたんだよ、その格好?」
チヨを一目見るなり、栄太郎は目を丸くする。無理もない。絹と同じ、女中のお仕着せ姿だっ
「に、似合いませんか?」
「ウフフ、お世話になりっ放しじゃ悪いから、私の仕事を手伝いたいんですって」
朝食の支度をしながら、絹が悪戯っぽく笑う。チヨが着ているのは、彼女のお下がりだろう。
「お客様にそんなことをさせる訳には……」
新聞にアイロンを掛けていた――こうして乾かさないと、インクで手が汚れるのだ――金谷の
重々しい声に、やっぱり出すぎた真似だったろうかと一瞬挫けかけるが、ぎゅっと拳を握り締め
て、自分を奮い立たせる。
「栄太郎さん、仰たでしょう? ここを、自分の家だと思ってくれって。自分の家なんだから、家
事をするのは当たり前ですよ」
栄太郎は苦笑いを浮かべ、使用人たちと目配せを交わす。それだけで、意思の疎通には十分
『その方がいいですよ。何もしなくていいでは、かえって気疲れします』
『止むを得ません。動いている方が、チヨ様もお気持ちが紛れるでしょうし』
「じゃあ、頼もうかな」
「あ、絹さんに苛められたら、言いつけてくれていいからな〜」
「まあ、失敬な、そんなことしませんよ。私達、もう実の姉妹も同然ですもの。ねえ?」
こうしてチヨは、客人でありながら、女中の仕事もするという、傍から見れば奇妙な立場に身
を置くことになった。
朝食を済ませた後、早速、絹と共に屋敷の掃除にかかる。ガラス窓や絨毯など、 家事には慣
れているチヨでも、扱いが分からない物も多い。しかし、絹が丁寧に教えてくれたので、すぐに
飲み込めた。
(ひ、広い)
とても、一日では終わらない。案の定、一日ごとに掃除する場所を決めて、一週間で屋敷を
一回りするようにしているらしい。客室など、普段は使わない部屋も多いので、それで十分ら
いや、それにしたって、洗濯や食事の支度など、他の仕事もあるだろうに、よく彼女一人でや
掃除の合間に、他の二人の日常も目にした。
金谷は、栄太郎の身支度を手伝い終えると――靴紐くらい自分で結べると彼は嫌がっていた
が――各種請求書や銀行手帳をまとめ、てきぱきと家計簿を付け始める。電話が鳴ると、真
っ先に受話器を取り、丁寧に対応する。まさに縦横無尽だ。
執事の仕事がどんなものか、チヨは具体的には良く知らなかったのだが、見ての通り、その
内容は多岐に渡り、とても一言では言えない。あえて纏めるなら、主人が本業に集中できるよう、
|
身の回りの世話をし、代理として事務や接客を行うこと、なのだが。
「ご主人様、次回の日曜のミサについてですが……」
「い、今、ちょっと忙しくてさ〜。金谷が代わってくれよ」
そそくさと書斎に逃げ込んでしまう栄太郎に、やれやれと肩を落とす金谷。優秀な彼は、主人
の本職である教会の仕事まで肩代わりしているらしい。
「目下のところ、ご主人様は研究に夢中ね。おかげで、教会のことは金谷さんに任せっ放し」
くすくす笑っていた絹が、ふと笑みを曇らせる。
「……本当に、お父様にそっくり」
彼女の視線の先にある物に気付いて、チヨははっとする。
百号程もある、大きな油絵だった。二人の人物が描かれている。椅子に腰掛けた司祭の正
装姿の紳士と、その傍らに立つイブニングドレス姿の婦人。二人とも、穏やかな眼差しで屋敷を
見守っている。
「あの絵……」
「ええ……ご主人様のご両親、先代当主の栄三様と、雪子奥様よ」
絹に確認するまでもなく、チヨは確信していた。婦人の面差しには、栄太郎と重なる部分があっ
「お父様も、何か学問を?」
「ええ、古い宗教とか呪術とかいったものを研究なさって……本も沢山書かれていて、その道で
は有名だったらしいわよ」
「もしかして、栄太郎さんの研究も……?」
書斎で塔を成していた書物の題名を思い出す。古い宗教や呪術……確かに、そういった関
係のものが多かった気がする。
「そうね……お父様のお背中を、追っていらっしゃるのかもしれないわね」
それが分かっているからだろうか。金谷も強くは言わないらしい。
「お二人は、どうしてお亡くなりに……?」
「森で、熊に襲われたらしくてね……」
栄三の方は、未だに遺体が見つからないのだという。こんなお屋敷に住む人が、そんな死に
方をするとは、誰が予想しただろう。しかし、それを言うなら、震災で死んだ父も同様か。死は
本当に気まぐれで、そして無慈悲だ。
(五年前ということは……)
当時、栄太郎は十代前半だろう。今のチヨよりも幼かったのだ。そんな年頃の子が、死の不
条理さに受けた衝撃は、察して余りある。
(どうすれば、乗り越えられるのかしら……そんな悲しみを)
それは、彼女自身への問いかけでもある。
父の死を乗り越えるために、自分はどうすればいいのだろう?
〜7〜
午後からは、栄太郎に連れられて外に出た。村を案内すると共に、チヨを村人たちに紹介し
たいとのことだった。チヨを屋敷の中に保護するのではなく、この村で“生活”させてやりたい
と、栄太郎は考えているのだろう。彼の心遣いが有難かった。
栄太郎の案内で、村人たちの暮らしを見せてもらう。佐羽戸村は外見だけでなく、その営みも
西洋式だった。
風車で小麦を引き、パンを焼く。家畜の乳からバターやチーズを作り、毛を紡いで糸を作る。
果樹園の葡萄は樽に詰められ、ワインになる。
以前は自分達用に作っているだけだったが、明治の中頃ぐらいから西洋文化を尊ぶ富裕層
に飛ぶように売れるようになり、これが石守家の富の礎になったのだ。
(本当に不思議な村……)
改めて、そう思わずにはいられない。まるで日本の中でここだけが、存在する時空間を異
村人たちは、栄太郎の姿を見かけると、皆笑みを浮かべ『坊ちゃん、こんにちは』『いい天気
ですねえ』と、口々に挨拶する。
昨日、車に頭を下げる村人たちを見て、大名行列に平伏す農民のようだと思った。しかし、こう
して彼らを間近に見て、そのイメージは違うことが分かった。確かに恭しい態度ではあるが、殿
様に対するような、恐れ混じりのそれではない。もっと親しく、明け透けな感じだ。
栄太郎も屈託のない笑顔で『腰の調子はどうだ?』『今度曾孫が生まれるんだって?』と応じて
|
いる――村人たちの顔はおろか、その付加情報も全部暗記しているらしい。
それを見て、チヨは理解した。金谷や絹とそうであるように。
「栄太郎さんと村の人たち、まるで家族みたいですね」
「まあな。元が、隠れ切支丹の村だからかもな。村の結束は、とても固いんだ」
団結しなければ、生き残れない。そんな、過酷な歴史の賜物なのだろう。もっとも、強い結束
は、強い排他性と、しばしば表裏一体であったりもするが……。
「ところで坊ちゃん、そちらのお嬢さんは?」
「ああ、恩人の娘さんで……」
栄太郎が紹介すると、すぐにチヨにも同じ笑みを向けてくれる。佐羽戸へようこそ、変わった
村で驚かれたでしょうと歓迎し、女性達など、彼女の身の上を聞いて、涙を流して同情してくれ
「ほっとしました。隠れ切支丹の村だから、余所者は警戒されるかと思っていましたけど……」
「まさか。聖書にも書いてあるぜ。“汝の隣人を愛せよ”って。この村で暮らす以上、チヨだって
隣人さ」
佐羽戸村。風変わりな、しかし暖かな村。
栄太郎の気性は、この村によって育まれたに違いない。村を包む、穏やかで大らかな空気
は、彼の印象とぴったり重なるから。
村を一通り回り、最後にやって来たのは教会だった。村の中では、石守邸に次いで大きな建
物だろう。
ステンドグラスから差し込む光、頭上に十字架を掲げる祭壇、重厚な音色を響かせるパイプオ
ルガン。ほぼ無宗教のチヨでさえ、思わず跪きたくなるような、荘厳な雰囲気だ。
出迎えてくれた助祭――司祭の手伝いのような人――の老人が、栄太郎に笑いかける。
「坊ちゃん、金谷さんがぼやいとりましたよ。そろそろ、教会の仕事に本腰を入れて欲しいなぁ
「あ、あはは、まあ、その内な」
誤魔化し笑いを浮かべていた栄太郎だったが、ふと声を低くして囁く。隣のチヨにしか聞こえな
「金谷には悪いけど、正直あんまり興味ないんだよなぁ。司祭の仕事って」
「ああ、どうも信仰って奴がピンと来なくてさ。おかげでこの通り、司祭の家に生まれたから司祭
をしてるだけの、お飾り司祭になっちまってる訳だよ」
そういうものかもしれない。実家が寺だからという理由だけで、僧侶になる人も多いらしいし
……その程度に考えてしまった。栄太郎の言い方が冗談めいていたせいで。もう少し深く考え
れば、十分推測できたはずなのに。
なぜ、彼が“信仰って奴がピンと来ない”のか。
「そう言えば、坊ちゃん。そろそろ祭の準備を始めるんじゃが、例年通りでいいかのう」
「ど、どうかなぁ、金谷に聞いておくよ」
全くしょうがない司祭だよなぁと、照れ笑いを浮かべていた栄太郎は、ふと遠い目になる。
「そうか、もう祭りの時期か」
「お祭があるんですか?」
「ああ、神様に秋の実りを感謝する、いわゆる収穫祭の一種だな」
キリスト教の祭と、土着の自然信仰が融合して生まれた、この村独自の祭らしい。村人全員が
参加する、大規模なものだそうだ。
そこで、栄太郎はぱっと顔を輝かせる。
「そうだ、チヨも出てみないか? 村に溶け込むいい機会だぜ」
「あ、あたしもですか? 大丈夫かしら……」
宗教色の強い厳粛な祭のようだし、不慣れな自分などが加わったら、場を乱してしまうのでない
|
か。チヨは躊躇したが、栄太郎はどんと胸を叩き。
「平気平気、何も難しいことはねえよ。俺が付いていてやるしさ」
俺が付いていてやる、その言葉に、チヨはどきりと胸を弾ませた。
(栄太郎さんと一緒に、お祭に……)
去年の、隅田川の夏祭りを思い出す。友人が、気になっていた男性に、一緒に行こうと誘わ
れたと喜んでいた。祭、それは多くの人目に晒される晴れの日であり、そこへ男女が一緒に行
くというのは、言わば……宣言を意味したのだ。
(馬鹿ね、あたしったら。考えすぎよ)
栄太郎に、そんなつもりがある訳ない。彼はあんな豪邸を構える名家の当主、対して自分は
何だ? 大して儲けもない小さな書店の娘……ですら、すでにない。ただの孤児ではないか。
彼はただ、親切で言ってくれているだけだ。そうに決まってる……。
〜8〜
屋敷に帰る前に、寄りたい所があると栄太郎に言われ、連れられて来たのは、村外れの森
だった。この付近には人家もなく、ひっそりとしている。
彼は、きょろきょろと周囲の様子を窺っている。どうしたんですかと訊くと、シッと口元に人差し
指を立てて、ひそひそと囁く。
「ここから先は、聖域だからな。司祭しか入っちゃいけないんだ」
「聖域……」
聖域、神のおわす領域。チヨも神社の裏山などが、注連縄で閉ざされているのを見たことがあ
「いいっていいって、チヨも来いよ」
幼心にも、みだりに立ち入ってはいけないと感じた、あの感覚を思い出す。それは日本人の
遺伝子に刻まれた、根源的なものだろう。
だが、栄太郎は『ちょっとぐらいなら、神様も大目に見てくれるさ』とあっけらかんとしたものだ
った。キリスト教の神様は、随分と寛容であられるらしい。
彼に続いて、おっかなびっくり聖域の森に入る。針葉樹の太く真っ直ぐな幹が整然と並ぶ様
は、どこか神殿の柱に似ていて、人智を超えた作用が、この森を作り上げたのではないか、そ
んな幻想を抱かせる。
道はかなりの急勾配だった。どうやらこの森は、斜面に沿って広がっているらしい。生粋の帝都
|
っ子で、山歩きに慣れていないチヨが青色吐息でいると、当然の義務のように栄太郎が手を引
男性の硬い手の感触に、鼓動が早まる。掌の血管を通して伝わってしまうのではないかと思
|
うと、気が気ではない。
「と、ところで、何をしに行くんですか?」
せめて、彼の注意を逸らさなくてはと話しかける。
「ああ、どうしても、確かめたいことがあってさ。チヨにも、ぜひ見てもらいたいし。ちょっとしたモ
栄太郎は、何やら得意気だ。友達に“秘密の場所”を教える子供のように。
徐々に木々が疎らになり、やがて開けた場所に出る。そこは、村を見下ろす小高い丘だっ
た。うねる様な山と谷の稜線が描きだす展望は絶景だったが、しかしチヨは全く目に入らなか
広場の中心に聳えるそれが、他の一切を無視せしめる程の存在感を放っていたからだ。
高さ二丈弱(約五メートル)、差し渡しはその約半分の、完全な八角柱。
に、空間が黒く抜け落ちている。
神という画家が、そこだけ創造の筆を入れ忘れてしまったかのように。
チヨは目を瞬いて、錯覚を振り払う。
あれは、黒い、実体ある物体だ。
にも関わらず、あのように錯覚してしまったのだ。その黒さの、あまりの深みに。
「石碑……?」
ようやく、その正体に思い至る。
「へへ、驚いたか?」
緑の息吹満ちる森の中に、突如として現れたその姿は、この上なく異様だった。
材質は石炭……それとも、黒溶岩か。いや、間近で見ると、つるりとしていて、僅かに透明感
がある。非常に色の濃い黒水晶、と言うのが一番近いかもしれない。
その表面には、うねうねとした線が、不規則に刻まれている。そうかと思えば、太陽や角のあ
る動物を思わせる形が、不意に現れたり……文字、そして文章、なのだろうか、これは?
「言い伝えによれば、村のご先祖が、この土地に移り住んだ時に建立したらしい。確か、禁教令
の直後だから……ざっと、三百年かそこらは経っているはずだな」
それ以来、この石碑は村の信仰の要として、大切に守られてきた。石守家の家名はそもそ
も、この“石”碑を“守”る役目を担うことに由来するらしい。
「何のために、建てられたんでしょう……?」
「それが、間抜けなことに……よく分からないんだよな」
長い年月を経る間に、答えを知る者はいなくなってしまったらしい。
そもそも、この文字が何語なのかも分からない。少なくとも、漢字ではない。宣教師の母国語
という可能性も考えられたが、ヨーロッパのどこにも、こんな文字を使う言語はなかった。
「ひょっとしたら、実在の言語じゃなく、暗号のようなものかもしれない。刻まれているのは、キリ
スト教の教えか何かで、万が一、幕府に見られても言い逃れできるようにしてあるんだ……と
いうのが、親父の説なんだけど」
そこで言葉を切り、栄太郎が浮かべた表情は、悪戯を企んでいる子供のようだった。
「俺の考えは、ちょっと違うんだよな〜」
「ああ、それを証明するのが、今やってる研究なのさ。へへ、見てろよ、もうすぐ、親父の鼻を
明かしてやるぜ」
表情とは裏腹に、彼の瞳は直向だった。それを見て、チヨはさっと光が差すのを感じた。眼には
|
見えない、希望の光だ。
(そうだったんだ。栄太郎さんは……)
彼が学問を通して、父の背を追っていることは知っていた。だが、それは、父の背に寄り添う
乗り越えるためだ。父の背を、悲しみ諸共。
(もう見つけて、歩き始めていたんだ 自分の道を)
石守家が代々守り続けてきた、石碑に関する考察……なるほど、ちょうどいい研究テーマか
(上手くいくといいですね)
あの和綴じ本を開き、何やら石碑と熱心に見比べている彼に、心の中で声援を送る。彼が父
を越え、悲しみを越える姿を見られれば、きっと、自分も励みになるだろうから。
その時。
ぬっと、影がチヨを覆った。
はっと顔を上げると、自分がいつの間にか、石碑が落とす影の中にいることに気付く。まる
で、石碑が自分に圧し掛かろうとしているように思え、チヨは慌てて影から抜け出した。
こうして、改めて見てみると。
(……変な物だなぁ)
村の人たちには悪いが、そう思わずにはいられない。キリスト教の教えはよく知らないが、少
なくとも、佐羽戸村の長閑な空気と、この真っ黒な石碑は、まるでイメージが繋がらない。じっと見
|
つめていると、違和感のあまり頭がぐらぐらしてくる……。
「おう、お待たせ。そろそろ帰……」
振り返った栄太郎が、はっと表情を強張らせる。
「チヨ、どうしたんだ、その手!?」
指摘されて、初めて気が付く。
自分の右手の甲から、血が滴っていることに。
見ると、ごく浅くだが、切り傷が走っている。
「葉っぱか何かで切ったのかしら? た、大したことないですよ」
「いや、黴菌でも入ったら大変だ。とりあえず、ハンケチで……ああ、くそ、持ってこなかった。
栄太郎は、躊躇うことなくシャツの裾を引き千切る。包帯代わりにするつもりだろう。
「あ、あわわ、すいません、そんな上等な生地を……」
「いいって、気にすんなよ」
そして、彼はシャツの切れ端を、チヨの手の甲に……。
いつまで経っても、巻いてくれない。
(栄太郎さん……?)
彼は、チヨの切り傷を、食い入るように見つめている。
いや、そこから滴る、真っ赤な血を。
まるで、時が止まってしまったかのようだった。そんな風に錯覚するぐらい、栄太郎は動かな
い。チヨも動けない。ただ、じわじわと溢れ出す血のみが、時を刻んで――。
夜の闇よりもなお黒とはあらゆる色を内包するとても豊潤な完璧な黒が解れ無限の色彩が
溢れきらきらくるくる人々は手に手に松明色鮮やかな衣装母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な
母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な……!
沈黙は、不意に破られた。
チヨはどきりとする。だって、栄太郎の声は、夜闇に紛れて、秘密を打ち明けるようなそれだ
(え、栄太郎さん、何を……)
だが、彼女が何を予想しようと、それは尽く外れたに違いない。
君なら、きっと似合うぜ……真っ赤なドレス
何を言われたのか、チヨは即座には理解できなかった。
あまりにも、脈絡が無さ過ぎて。
栄太郎の顔は、逆光になってよく見えないが、口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
その背後から、あの黒い石碑が、無言でチヨを見下ろして……。
はっと我に返り、手当てを再開する。研究で夜更かしし過ぎたかな、と笑いながら。その様子
は、すでにいつもの彼だった。
……では、さっきまでの彼は?
「あの、栄太郎さん、赤いドレスって?」
「……、ああ、祭の衣装なんだ」
一拍の間があったことに、チヨは気付かなかった。
「そう言えば、母さんが着てた奴があったな。貸してやるから、祭では、ぜひ着てみてくれよ」
再び――。
――栄太郎の口元に、あの笑みが浮かぶ。
「……母さんも、きっと喜ぶよ」
〜9〜
柔らかい布で、ガラス窓を丁寧に磨く。埃が落ちると、差し込む日差しを反射してきらきらと輝
きだし、チヨは充実した気分になる。あたかも、綺麗にしてくれてありがとうと、屋敷に感謝され
最初に見た時は、まるで舞台の大道具のように、現実味がなかったこの屋敷。毎日、丹精込め
|
て掃除してきたおかげか、ようやく実感できるようになってきた。自分は確かに、ここで暮らして
いる。生きているのだと。
生きているという実感。
今なら分かる。普段は無意識にしか感じていないから、何かの拍子に見失ってしまうと、取り戻
すのが難しい。
取り戻せたのは。
(石守家のみなさんのおかげだわ……本当に)
彼女が石守家に迎えられてから、すでに一週間が過ぎていた。ここでの暮らしにも、大分慣
れてきた。仕事のことだけではない。栄太郎はもちろん、使用人の二人とも、もうすっかり打ち
解けていた。
「チヨちゃん、一休みしてお茶にしましょうか」
もう実の姉妹も同然、などとお道化ていた絹。実際、同性の話し相手ができたのが嬉しかった
のだろう。仕事の合間によく、化粧や服飾など女同士の会話で盛り上がり、今や栄太郎が嫉妬す
|
るぐらいの仲良しだ。
「金谷さんもどうですか」
「いえ、使用人ごときが、お客様と相席など。絹も、あまり馴れ馴れしくしては……」
彼のことも、もう分かっている。相変わらず口数は少ないし、いざ口を開けば固いことばかり
だが、あくまで執事として一応言っているだけで、本当は人情がよく分かっている人だと。
「あら、お一人じゃ退屈でしょうから、お付き合いして差し上げるんですよ。これも使用人の務め
すかさず、絹が言い包める。金谷は二、三度口をぱくぱくさせるも、すぐに折れて席に着く。こ
ういうのが、いつものパターンらしい。面倒臭い人でしょ? と絹に目で訴えられ、チヨは苦笑
柔らかい日差しが差し込むサンルームで、紅茶のカップを傾け合う。しばらく、栄太郎の昔の
話で盛り上がった。よく私のスカアトを捲ろうとしては、奥様に叱られてねえ等と絹が笑い、金
谷が慌てて止める。
「絹さんは、栄太郎さんが小さい頃からこちらに?」
「ええ、先のご主人様と、奥様が亡くなる一年ぐらい前からだから……ざっと六年前からお世話
になってる計算ね」
日本の女中は、若い女性の花嫁修業代わりという面が多分にあり、雇用期間はせいぜい
一、二年であることが多かった。六年というのは、かなり長い部類であろう。
(どうして、お嫁に行かないのかしら……?)
この人なら、さぞ引く手数多だろうに。
「金谷さんはいつから?」
「ご主人様がお生まれになる前からです」
平然と言われ、チヨは絶句する。
「元々は、奥様のご実家にお仕えしていたんですよね?」
「はい、奥様のお供で石守家に入って、十数年……奥様のご実家にいた頃も含めれば、もうか
れこれ、二十年になりますか」
まさに、生涯を栄太郎の一族に捧げていると言えよう。おかげで婚期を逃しちゃって、未だに
独身よと絹は笑う。しかし、後悔は微塵もないのだろうと、チヨは思う。
今なら分かる。血縁ばかりが、家族ではない。絹が嫁に行かないのも、似た理由かもしれな
「ご主人様に、お祭に誘われたんですって?」
「あ、はい、村に溶け込む、ちょうどいい機会だからって……」
サンルームの大きな窓からは、広大な庭が望める。自然を再現する日本式庭園とは対照的
な、左右対称の西洋式庭園だ。花壇には、糸屑のような繊細な葉に、淡い桃色の花弁を持つ花
が、風に揺れている。
「ああ、コスモスが……あれが咲き始めると、今年もお祭の季節だなって実感するわ」
「きれいなお花ですね」
「ええ、奥様がお好きだった花でね。五年前のあの日も、きれいに咲いて……」
金谷がカップを置く音のせいで、後半はよく聞き取れなかった。
「う、ううん、何でもないの。ところで、お祭に出るなら、衣装を用意しなくちゃね」
「そうでした。村の仕立屋に注文しましょう」
そう言われて、チヨは思い出した。
「栄太郎さんが、お母様が使っていた物を貸して下さるそうで……」
『君なら、きっと似合うぜ……』
「真っ赤なドレスなんですよね?」
そう言った瞬間。
ぴしっっっっ。
空気が凍りつく音を、チヨは確かに聞いた。
絹の動きが、止まっている。
金谷の動きも、止まっている。
ティーカップを手にしたまま、ぴくりとも動かない。
二人の様子には、覚えがあった。そう、チヨの手から流れる血を、時が止まったかのように凝
視し続ける栄太郎。
あの時の彼に、そっくりだ。
さっきまでの賑わいが嘘のように、サンルームは静まり返っている。
口を開きかけたチヨは、しかし喉が引き攣って何も言えなくなった。
「赤い……?」
と、眼球の動きだけで、二人に視線を合わせられて。
「ご主人様が……?」
「そう、仰ったのですか……?」
二人の視線は、ぴたりとチヨに照準を合わせている。あたかも、暗殺者の銃口のように。そ
れが呪縛となって、チヨに視線を逸らすことを許さない。答えをはぐらかすことを許さない。
その一言が、しかしなぜか出てこない。
だって、今の二人は、まるで別人のようで、反応が全く予想できなくて。
(こ、この人達は……誰?)
何を馬鹿なことを、という理性の抗議は、あまりに弱々しかった。
知らない、こんな人達は知らない。どこへ行ってしまったのだ。自分のよく知る絹と金谷は。
「奥様の……?」
「赤いドレスを……?」
お互いの視線を絡めたまま、ぴくりとも動かない三人。それはまるで、一昔前、英国で流行った
|
という、交霊術の実験のようだった。
得体の知れないものが、絹と金谷に取り憑いて……。
(チヨ様)
二人が、視線だけで問いかける。
(チヨ様)
繰り返し、繰り返し。
(チヨ様)
答えるまで、何回でも――。
(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ
様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)
(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃ
ん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨ
ちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)
(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)
( ( 仰 っ た の か 、あ の 方 が ? ) )
「あ〜、喉渇いた〜。お、ちょうどいいや、俺にもくれよ」
階段の上から投げかけられた、栄太郎の暢気な声が、場の空気を塗り替える。
異常から、日常へ。
「それはいいわね! チヨちゃんなら、きっと似合うわよ」
「畏まりました。後ほど探しておきましょう」
一瞬、二人が何を言っているのか、チヨは分からなかった。
何のことはない。会話の続きをしているのだ。
そう、空気が凍りつく前の会話を――何事もなかったかのように。
「あ、俺、ジャムで飲みたいな」
「ウフフ、ご主人様ったら甘党なんだから」
サンルームに、賑わいが戻ってくる。
絹も、金谷も、戻もかも、すっかり元通りだ。
あの、白昼夢のような空白の時間を、チヨの記憶にだけ残して。
「ところで、何の話してたんだ?」
「駄目駄目、女同士の話ですから、殿方はご遠慮願いますよ」
「ちぇー、俺だけ除け者にしやがってよぅ。なあ、チヨ、教えてくれよ〜」
(何だったのかしら、あれは……)
いくら考えても、しかし分かるはずもなく。
結局、何かの気のせいだったのだという、一番安直な解釈に落ち着くことにした。
その夜。
「ええ、きっと似合うわよ。チヨちゃんなら……」
絹は使用人用浴室――そんなものまで、この屋敷にはある――で、陶器の浴槽に浸かりな
がら、呟いていた。
ざばあと浴槽から立ち上がり、鏡の前に立つ。
豊かな胸、引き締まった腰、すらりとした手足、ギリシャの女神像のような肢体が、湯で桜色に
染まる様は、この世のものとも思えぬ風情だった。
しかし、絹はそんな己の肉体を誇るでもなく、無表情に鏡を見つめ……。
下腹部の、茂みに隠された割れ目に、細長い指を潜り込ませる。
「汚れてさえいなければ……」
ずぶりっ、ずぶりっ、ずぶりっ、絶え間なく指を出し入れする。自慰と言うには、しかし、その動き
|
は、あまりに乱暴だった。あたかも、その奥から、何かを引きずり出そうとしているかのように。
「汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ……」
やがて、割れ目が湿りだしても、絹の顔に、快楽など欠片も浮かばなかった
その代わりと言ってもいいものか。眉間に、ぎりぎりと皴が刻まれていく。ペルセウスに討ち取ら
|
れた、メデューサの首さながらの、忌々しげな……。
「汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなけれ
ば、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなけ
れば、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいな
ければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえい
なければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえ
いなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさ
えいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、…………私だって…………」
|