〜1〜

 それは、彼の眼前に冷然とそびえ立っていた。
 月の光をさえぎって、夜の闇よりもなお黒く。
 美術に造詣ぞうけいが深い父が言っていた。黒とはあらゆる色を内包ないほうする、とても豊潤ほうじゅんな色なのだと。
 見つめていると、ぼうっとしてくる。完璧な黒がほぐれ、その内から無限の色彩があふれ出してく
る――。 
 きらきら、くるくる。彼の周囲を 彩が舞う。いつの間にか、彼は多くの人々に囲まれていた。
人々は色鮮やかな衣装をまとい、松明を手に踊っている。それはまるで……。
(お ……)
 そうだ、今日は村のお だ。
 彼を迎え入れるように、人々の踊りが左右に割れる。その間から、一際ひときわ鮮やかな色彩が目に
飛び込んでくる。 
 赤だ。網膜もうまくに焼きつくような、真紅。
 さん?)
 それは、母がまとっているドレスの色だった。派手な服装が苦手な母にしては珍しい。でも、真
っ赤なよそおいの母も、とても綺麗だと思った。
 人々の踊りは、母を中心に渦巻いている。彼女が祭のかなめであることは、幼心にも理解でき
た。 
(でも、何で……) 
 母さんは、地面に横になっているのだろう。せっかくのドレスが れてしまうじゃないか。
 ――御主人様、 様、いらっしゃいますか!?
 背後から、 き慣れた声が近付いてくる。ちょうど良かった。彼に聞いてみよう……。
(なあ、金谷。 さんは、何で……)
 
(これは…… なの?)
 チヨは、現実を受けれられずにいた。
 現実とは、因果いんがつらなりだ。原因があって、結果が付いてくる。だからこそ、夢の中のような
支離滅裂しりめつれつな状況変化――例えば、自分の部屋が突如とつじょ、別の場所に変わったりするようなこ
とは有り ない。 
 ならば。 
 十六年住み慣れた我が家が、木屑きくず瓦礫がれきの山に変わることだって、同様に有り得ないはずで
はないのか。 
 昼食の材料の買出しから帰って、家の玄関をくぐろうとした時だった。突如、突き上げるような
衝撃が、足元から襲って来て……気が付くと、この有様 だった。
 が、何が、どうなってるの……)
 この時、せめて周囲をうかがう程度の余裕があれば、何が起きたのかチヨにも分かったかもし
れないが。 
 あいにく、彼女は動揺のあまり、極度の精神的視野狭窄きょうさくおちいっており、自宅以外は意識に
なかったのである。 
(とにかく、お さんに……)
 慌てて、自宅に隣接 する店に向かう。
 父は書店を経営していた。昔気質かたぎの彼は、探偵小説などは低俗だと嫌って、硬い学術書しか
置いていなかった。おかげで収入はささやかなものだったが、それでも 子の暮らしを支える
基盤だったのだ。 
 それが自宅と同様の状態になっているのを見て、チヨは暗澹あんたんたる思いだった。
(困ったわ、これからどうやって らしていこう)
 だが、そんな些細ささいな問題は、すぐに頭の中から消えた。
 店の残骸ざんがいの下から、にょっきりと一本の手が突き出しているのに気付いて。
「お さん!?」
 間違いない。あのそでは、父の和服のものだ。それは人形の手のように、ぴくりとも動かない。
「お さん、大丈夫!?」
 チヨは 我夢中で父の手を引っ張り……。
「きゃっ」 
 思わず、尻餅しりもちを着く。予想に反して、父の手があっさり抜けてしまって。
「え……!?」 
 あっさり けたはずだ――
 ――父は、 だけになっていた。
『チヨ、この 鹿者が!』
 時に かれ。
『チヨ、 いぞ!』
 時にでられ。
 恐ろしくもあり、 かくもあった父の手が、今はもう、ただの物体。
 家があり、 がいる。彼女の世界観はその瞬間、根底から崩れ去ったのだった。
 
 1923年(大正12年)、9月1日、 前11時58分32秒。
 帝都を含む関東一 を、地震が襲った。
 後に言う、関東大 災である。
 相模さがみ湾北西沖80kmを震源とする、マグニチュード7.9、海溝型のこの地震は、日本災害史上
最大級の被害 をもたらした。
 死者・行方不明者14万2800人。 傷者10万3733人。住家全壊 12万8266戸。 半壊12万6233
戸。 
 さらに、発生時刻が 食時であり、多くの家庭で火を使っていたことが災いし、火事も多発、
44万7128戸が 失した。
 大日本帝国を名 って以来三十年、西欧列強に追い着け追い越せと日本が築き上げてきた
ものは、わずか数十秒であっけなく崩壊したのである。
 
 華の帝都、 皇陛下のお膝元、輝けるモダニズムの象徴。 
 帝国ホテル、鹿鳴ろくめい館、浅草十二階、壮麗な西洋建築の合間を、鉄道や自動車が行き交う。カェ ーやダンスホールでは、 装のモダンボーイ・モダンガールが恋を語らい、活動写真館では怪
映画が人々を かせる。
 そんなきらびやかな光景は、もう人々の記憶の中にしかない。
 現実にあるのは、 てしなく広がる瓦礫の荒野と、亡者のような身なりの被災者の群れだ。
(あたし……どうして しめないんだろう)
 地獄さながらの 景を見つめながら、チヨは自問を繰り返していた。
 父が、唯一の 親が死んだというのに、涙一滴出てこない。一体、どうしたことだろう。
(ひょっとして……) 
 実は、自分も、 のように家の下敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。それに気付 かず、幽霊になって彷徨さまよっているのではないか。そうだ、それに違いない。自分が死んでしまった
のだから、その上誰が死のうと関係ないという心 になるのも道理だ。
 あんまり多くの死人が出たものだから、三途さんずの川も混雑してしまって、順番待ちさせられている
のかもしれない。死装束しにしょうぞくの亡者達が、さいの河原で押すな押すなと揉み合いしているところを思い
描き、チヨはうつろな笑みを浮かべた。
 それから数日間、チヨは何をするでもなく、自宅跡にたたずみ続けた。飢え死にしなかったところ
を見ると、おそらく買物かごに入っていた漬物をかじり、井戸水を飲んでしのいだようだが、よく覚
えていない。 
 なぜ、避難所に行かないのか。多分、動物が縄張りから出まいとする、本能のようなものだっ
たのだろう。自宅とその周囲だけが、彼女の世界の全てだったから。

〜2〜

 その日も、 宅跡でぼうっとしていたチヨは、ふいに我に返った。
 周囲の光 から、あまりに浮いた人影を目にして。
(何かしら、あの ?)
 ほこりまみれの被災者達とは対照的な、仕立ての良い洋装の紳士だった。燕尾えんび服という正式名称
を、チヨは らなかったが。
 服装だけではない。何気なにげない立ち振る舞い一つ一つが洗練されていて、気品がただよっている。き
っと、偉い人に いない。
(あんな人が 実にいるんだなぁ)
 こんな所に何の用があるのだろう。被災者の慰問いもんにでも来たのだろうか。しかし紳士は、被災
者達には目もくれずに、ツカツカと 雅な歩みを続け……。
 チヨの で立ち止まった。
「失礼します、田通たどおり書店はこちらでよろしいでしょうか」
 低いが、よく る声だった。
「は? え、あの……」 
 話し掛けられるとは、夢にも思っていなかったチヨは、へどもどしてしまって、咄嗟とっさに返事が
出なかった。 
「は、はい、そうです」 
「御 主は、どちらにおいででしょうか」
「……父は、 くなりましたけど」
「お嬢様でいらっしゃいましたか。この度は、おやみ申し上げます」
 丁重に頭を下げられ、チヨは困惑する。なぜ、この人が父の死をいたむのだろう。
「申し遅れました。わたくしは金谷かなやと申します」
 さる地方の名家に、執事しつじとして仕えているのだという。
 年齢は……父より少し下か。しかし、よく見ると、丁寧ていねいで付けた髪には、ちらほら白いもの
が混じっている。すらりとした長身と、ぴんと真っ直ぐな 筋のせいで、実際より若く見えるの
かもしれない。 
 切れ長の双眸そうぼう、真っ直ぐな鼻筋、丸みの少ないほおの線は、あたかも、ナイフで顔から無駄なも
のをぎ落としたかのようだ。
 主人の 部である自分に、個性など必要ないからと。
「お父上には、 が大変お世話になりまして……」
 金谷の主人は、何やら しい研究をしているらしく、父はその手伝いをしていたらしい。手紙
と小包のやり りのみで、来店はしていなかったので、チヨは知らなかったのだ。
(お父さんが、そんな い人とお付き合いがあったなんて……それにしても)
 この金谷だって、チヨの目には十分 い人に見えるのに、さらに上がいるのか。世の中は広
いと思った、 に上下に。
「この度の震災でお困りであろうと主が申しまして、お迎えに上がった次第しだいでございます」
「それは、わざわざどうも……」 
 金谷の声があまりに淡々たんたんとしているので、チヨは咄嗟に意味が飲み込めなかったが。
「車を 意してあります。半日程で着くでしょう」
「え?」 
 ぽかんと、チヨの口が 開きになる。
「あの、行くんですか? その、 谷さんの、ご主人様のお宅へ……あたしが?」
「はい。帝都が 興するまで、どうぞ当家にご滞在たいざい下さい」
 
 生まれて初めて乗る 動車の乗り心地は、快適だった。いや、快適すぎて、かえって居心地
 いくらいだ。
「す、すみません、 してしまって」
 ぴかぴかの革張りのシートに、自分から落ちた が付着しているのに気付いて、慌てて払う。
「いえ、どうぞお になさらず」
 金谷の態度も、くつろげない要因の一つだった。自分などには、勿体無もったいないぐらい丁寧な言葉
ではあるのだが、仮面のような無表情で、何を考えているのかうかがい知れない。
 内心は、主人の命令だから仕方なく せてやっているのだぞなどと思っているのではない
か。そう考えると、チヨはますます身を めるのだった。
 気をまぎらわそうと、びゅんびゅんと過ぎ去る車窓の景色を見る。すでに帝都は遠く離れ、道路
の周囲には森が広がっている。 高も上がっているらしく、夏用の着物では、少し肌寒いぐら
いだ。 
(こんなことってあるのかしら……) 
 チヨはつくづく、 命の気まぐれさに呆れていた。
 つい数時間前まで、乞食こじきのように生き長らえていた自分が、今は華族のお姫様のように運転
手付の自動車に せられているなんて。
 状況が好転したのは間違いないが、嬉しいというより、狐に まれたような気分の方が強い。
大体、いくら恩があるからといって、所詮しょせん父は小さな書店の主に過ぎない。執事を雇うような偉い
人が、そんなに気に けてくれるだろうか。
 今にもドロンと を上げ、車が木の葉に変わるのではないか。半ば本気でそう思い始めた時
だった。 
 森の合間から、その が見え始めたのは。
「うわあ……!」 
 思わず素頓狂すとんきょうな声を上げてしまう。だが、無理もない。その姿は、山間の小さな村だと聞いて想
像していたものとは、あまりに っていた。
「あそこが……?」 
「はい、佐羽戸さはと村でございます」
 佐羽戸村。 谷の主人が暮らす村。
 夕陽に金色に輝くのは、おそらく麦畑だろう。煉瓦れんが造りの家々はとがった屋根を被り、巨大な風車
が山風を受けて優雅ゆうがに回っている。
 さくで囲まれた牧草地では、日本ではまだ珍しい乳牛や羊が草を食み、牧羊犬がその周囲を
走り っている。
 村の中心に立つ建物は、どうやらキリスト教の教会らしい。鐘楼しょうろうから、涼やかな鐘の音を響か
せている。 
「まるで、外 みたい……」
 チヨの感想は、はからずも正鵠せいこくを射ていた。金谷の説明によれば、迫害から逃れてきた隠れ
切支丹キリシタンが作った村であり、彼らをひきいていた宣教師によって、外国の技術と文化が伝えられた
そうだ。 
 日本が開国するずっと以前から、外国の文化を綿々めんめんと伝えてきた村。歴史のうねりが生み出し
た、日本中でも類のない であろう。
 村人達――ミレーの 画に描かれるような、ヨーロッパの農民の服装だ――は、車が近づく
と、必ず仕事の手を止めて会釈えしゃくする。
 金谷の主人の家は、 人たちを率いていた宣教師の血筋と言われており、代々教会の司祭
を務めてきたらしい。のみならず、村のほとんどの土 を所有する大地主でもあるそうだ。
 まさに、信仰面と経済面の両方から、村を支配しているのだ。村人達のうやうやしい態度も、納
得できよう。 
 車は、大名行列のように村人達を平伏へいふくさせながら村を走り、ついに目的地に辿たどり着いた。
「チヨ様、お疲れ様でした。あちらが、石守いしもり家本邸でございます」
 石守 家。
 かの家こそ、金谷の主家、佐羽戸の 、そしてチヨの招き主だった。
(あ、あれ、お ……なの?)
 高い鉄柵の向こうに える建物は、なるほど、チヨの常識では、とても個人の住居とは信じら
れぬ代物しろものだった。一度だけ遠目に見た鹿鳴館に、規模ではさすがに及ばねど、壮麗さでは肩を
 べるのではないか。
 それぐらい、 派な洋館だった。
 全体としては、英国後期ゴシック 式の流れを汲むチューダー様式だ。銅版きのマンサー
ド屋根の重厚さと、スクラッチタイル貼りの外壁の繊細せんさいさを、アクセントに用いられた大華石が巧
みに融合 させている。
 などと言う専門的な 価はできるはずもないが、いかに金が掛かっているかはチヨにも想像
できた。しかも、ここが山間の であることを思い出せば、驚きは倍加しよう。全ては、石守家
莫大ばくだいな富が可能にした奇跡なのだ。
「改めまして。石守家へようこそ、チヨ様。 迎いたします」
 淡々とした金谷の声は、 か遠くから聞こえてくるかのようだった。
(嘘よ、あたしなんかが、こんな所にご があるはずない)
 狐に化かされているのでないとしたら……そうだ、そうに違いない。 谷、あるいは石守家の
ご主人が、何か 解しているのだ。そうでなければ、どうして自分などを呼ぶはずがあるだろ
う。 

〜3〜

 金谷の案内で――チヨには、連行されているように感じられたが――、噴水が飛沫しぶきを上げる広
大な庭を抜け、壁に並ぶ猛獣のオブジェに威圧いあつされながら進む。城門のような玄関ポーチを潜り
抜け……やっと目にした 観が、駄目押しのようにチヨを圧倒する。
 入ってすぐのエントランスホールは、 階まで吹き抜けになっており、ここだけでも、父の店が すっぽり納まってしまう広さだ。白い壁紙とワインレッドの絨毯じゅうたんが対照を成し、木彫り細工のような
階段が、 美な曲線を描いて階上に向かっている。くらくらするのは、シャンデリアが眩しいせ
いではない。 
 お疲れですかと金谷が椅子いすを勧めてくれたが、背もたれのかし模様の見事さに、座るどころ
か手を触れることさえできなかった。 から隅まで、美術品のように手が込んでいる。自分の
汚い手が触れていい 所など、どこにもない。
 ステンドグラスの採光窓が、ベルベットのカーテンが、大理石のマントルピースが、自分を嘲笑あざわら
っているかのようでたまらない。
『まあ、何でしょ、あの汚い 娘は』
『髪も服も、埃まみれ!』
『ここは、お前のような下賎げせんの者が来る所ではなくってよ!』
『ほほほ』 
『くすくす』 
(お、おっしゃるとおりです、全部誤解なんです)
 早く言わなければ。しかし、 解だとばれたらどうなるのかと考えると、恐ろしくて何も言えな
い。怒られる……ぐらいなら、まだいい。 悪、不届き者としょっ引かれてしまうかも。
 こちらに非はないという 想はできない。だって相手は、こんなお屋敷に住む“偉い人”なの
だ。黒い物だって白いことにできてしまう、 のような存在なのだ……。
「まあまあ、可愛らしいお 様ですこと」
  風のような声が、チヨの耳をくすぐった。
 廊下の角からその姿が現れた時、 られていた彫刻が動き出したのかと、思わず錯覚さっかくした。
「チヨ様、こちらは女中のきぬです。御用がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
(む、無 です……)
 この人に、 を命じるなんて。だって、女中だと説明されなかったら、てっきり奥様かお嬢様
だと っていただろう。そんな人なのだ。
 二十代前半か。しかし、纏う雰囲気は、実年齢の倍ぐらいの落ち着きをたたえている。
 長い睫毛まつげに飾られたアーモンド型の瞳、富士の稜線りょうせんのような鼻梁びりょうくちびるはやや肉が薄いが、そ
れがかえって、俗っぽい色気とは違う、神秘的な魅力をかもし出していた。
 この時代の女性としては、かなりの 身だ。おかげで、おそらく外国の女中のお仕着せであ
ろう、独特の 装――黒いドレスと白いエプロンを組み合わせたようなもの――も違和感なく
 こなしている。
(金谷さんといい、この といい……)
 使用人達も、この館に相応ふさわしい人達ばかりだ。その中で、自分の姿だけが、なんとみすぼらし
く、周囲から いていることか。
 などと っていたら。
「それでは、ご主人様にお知らせしてきます。絹、その間に、お客様のお支度したくを」
「お任せ下さい。さあ、お客様。お風呂がいていますから、どうぞ」
(え?) 
 あれよあれよと言う間に、真っ白な陶器の浴槽よくそうに入れられ。
 服は初めてかしら? ウフフ、これなんてどう?」
(え? え?) 
 絹が見立ててくれた、 色のワンピースを着せられ。
「ほら、ご になって。まるでお姫様みたい」
(えええええ!?) 
 桜色の口紅を かれ、カメオのブローチまで付けさせられてしまう。
(あああ、こんなことまでしてもらって……) 
 もう駄目だ、 捕だ、懲役だ、いや死刑だ。
「金谷さん、お客様の準備が いましたよ。ほうら、こんなにお綺麗になられて」
「お手 おかけしました、ご主人様のお部屋はこちらです」
 表面に彫刻がほどこされた、一際厚そうなドアが、チヨの目には刑務所への入口に見えた。
 金谷の白い手袋が、 やかなノックを響かせる。
「ご主人様、お 様をご案内しました」
(ひええ……) 
 チヨは緊張のあまり、 絶寸前。
 そして、ドアの向こうからの 事に。
「おー、 いてるぜー」
 ……チヨの緊張は、一瞬で霧散むさんした。
「…………」 
 金谷の顔を見る。気のせいか、ついさっきまで完璧だった無表情が、微妙にゆがんでいる。困
ったお方だ、と言いたげに。その では、絹がくくくと肩を震わせていた。
「……どうぞ」 
「は、はい」 

〜4〜

 部屋に入ってまず目に付いたのは、どっしりした造りの 務机だった。その他の調度品も重
厚さを強調したデザインで、部屋の主の威厳いげんに、はくを付ける狙いがあるのだろうが。
 部屋の至る所に、塔のように本を み上げていては、あまり効果がないのではなかろうか。
「もう、ご主人様ったら。お し付け下されば、片付けましたのに」
「あ、あはは、つい 中になっちまってさ」
 照れ笑いしているのは、声から 像した通りの――そして、声を聞くまでは全く想像しなかっ
た――人 だった。
(まさか、こんなお い人だったなんて……)
 どう見ても、まだ 十歳前だろう。ようやく、少年から青年に変わりつつある段階だ。
 きりりと吊り上った弓形の眉は中々凛々りりしいが、大きな澄み切った瞳や、頬骨の目立たない丸
い頬は、まだまだあどけなさが けていない。
 若者らしい、均整の取れた体に纏う開襟かいきんシャツとズボンは、最高級の素材を使った一流の品で
は確かにあるのだが、着方があまりに 当で……。
「ご紹介致します。こちらは、 守家十七代目当主……」
 ……には、到底見えない彼は、金谷をさえぎって自ら名乗った。教室に始めて入った転校生のよ
うに、元気 く。
「石守栄太郎えいたろうだ、よろしくな!」
 今度こそ、金谷が誰の目にも明らかな溜息ためいきを吐く。
「……恐れながらご主人様、当主には威厳 というものも必要かと」
「へっ、そんなもん背負ってても、肩がるだけだぜ。現に親父なんか、しょっちゅう肩が痛い
肩が いって……」
 上方かみかた落語のような主従のやり取りに呆然としているチヨに、ひそひそと絹がささやく。
「そんなに 張しなくていいのよ。偉い人と言ったって、実態はあ〜んなものなんだから、ね?」
 石のように固まっていたチヨの全身に、再び血がめぐり始める。
 改めて、三人を見る。金谷のお説教を、馬耳東風ばじとうふうと聞き流す栄太郎。それを、くすくす笑いなが
ら見物している 
(本当だ。あたしと じ……)
 笑い、そしておそらく きもする。
(人 だわ)
「ほらほら、ご主人様。お 様の自己紹介がまだですよ。金谷さんも、お説教はまたの機会に」
 絹の遠慮のない物言いに、二人は慌てて居住いずまいを正す。立場的には一番下のはずの彼女だ
が、精神 には主人や上司よりも上らしい。
「た、田通チヨです。 めまして」
 まだ若干、声は震えてはいたが、挨拶あいさつはできる程度になっていた。
「ほ、本日はお き、ありがとうございます」
「ああ、 守家へようこそ!」
  守家の若き当主――栄太郎は、にっと白い歯を見せて笑った。何の飾り気もない、自然な
笑顔。本当に、ごく普通の 者だ。だが、考えてみれば、それはすごいことだ。
 こんなお屋敷の御曹司おんぞうし、小さい頃から甘やかされ放題で、我儘わがままな子供のまま大人になってしま
っても無理はないだろうに。 程親御さんの教育が良かったのか、それとも本人の素質か。
「あの、 がお世話になったとか……」
「はは、 さ。世話になったのは、こっちの方だよ。ほら」
 さっきまで読んでいた本を、かかげてみせる。それは古めかしい和綴わとじ本で、文字も印刷ではな
く、毛筆による 書きのようだった。
「あら、この ……」
「ああ、見覚えあるか? 田通書店さんにゆずってもらったのさ」
 父が 庫の奥から見つけ出して、これであの方もお喜びになるだろうと言っていたのを覚え
ている。 
「いや、助かったぜ。どうしても欲しかったんだけど、なかなか見つからなくてさ。おかげで、随分ずいぶん
研究もはかどったよ」
「そうだったんですか……」 
 なつかしい品を目にして、チヨはようやく信じられた。
 自分が確かに、目の前の に“招待”されたのだということを。
「だからさ、ほんの恩返しだよ。大したしはできないけど、帝都が落ち着くまで、ゆっくりし
ていってくれよ」 
「あ、ありがとうございます」 
「腹減ってるだろ? すぐに にしようぜ」
「ご期待下さい。今日は腕を るいましたよ」

〜5〜

 金谷と絹は、普段は使用人ひかえ室で食事しているらしいが、今日はチヨの歓迎会ということ
で、全員が真っ白なテーブルクロスが引かれた 卓に並んだ。あまり使用人を甘やかしては、
などと金谷は いていたが。
 並べられた料理は、どれもこれも、見たことも聞いたこともない御馳走ごちそうばかりだった。
「こ、これは?」 
「仔羊のお に、ワインで作ったソオスをかけてあるの」
「うまいぜ〜、 さんの得意料理なんだ」
  れないフォークとナイフを使って、恐る恐る口に入れると……。
「!」 
 美味うまさのあまり気絶しそうになる、という貴重な体験をしたのだった。そんなチヨを見て、一同
――金谷以外――が楽しげな笑いを かせる。
 海亀のスープ、うなぎのパイ、デザートのプティング、どれも天上の美味だった。はしたないと思
いつつ、 然とがっついてしまう。ただでさえ、この数日間、ろくに食べていなかったのだ。
 ああ、美味おいしい。あまりに美味しくて……。
「え……!?」 
 自分が涙を していることに気付いて、チヨはぎょっとする。
「いやだ、ごめんなさい、あたし、 だか……何だか……」
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、ぬぐっても拭っても、止まらない。
 そんなチヨを前に、石守家の人々は…… も驚かなかった。
 絹は、微笑ほほえみを浮かべて。
 金谷は、 変わらず無表情に。
 栄太郎は、ちょっとだけ格好かっこう付けて。
 けれど、三人とも同じ、 しい目でチヨを見つめている。
「いいんだ、チヨ…… かってる」
 一同を 表して、栄太郎が口を開く。
「親 さんのこと、本当に残念だった」
(お さん……)
 ああ、そうか。チヨはようやく 付いた。
 自分が、父の死という 実を、受け止められずにいたことを。
 ――実は、自分も、父のように家の 敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。
 そんな風に、生きる意志を放棄ほうきし、感情を麻痺まひさせることで、その痛みを誤魔化していたの
だ。 
 けれど、今、数日ぶりに きる喜びを思い出して。
 自分がまだ生きていることを 感して、そして父はもうこの世にいないことを痛感して。
 相反する想いが、涙になって れ出したのだ。
「あのさ、 持ち、分かるよ」
 え? と顔を上げる。栄太郎の声には、 して薄っぺらな同情ではない、同じ痛みを知ってい
る者の、本物の 感があった。
「変だと わなかったか? なんだって、俺みたいな若造が当主なのか」
 絹と金谷が、そっと目をせる。
「……死んじまったんだよ。 父もお袋も、五年前にな」
 思いも寄らなかった。こんなお 敷に、あらゆる災いから守られていそうな場所に暮らす彼
が、自分と同じ 験をしているなんて。
 栄太郎は、 しげとも苦笑とも取れる、微妙な表情を浮かべている。
「全く、死者は勝手だよな……生者の事情なんか、お構いなしでっちまう。てめえは神様だか
閻魔えんま様だかが、面倒見てくれるからいいかもしれねーけど」
 随分と不遜ふそんな、死者への冒涜ぼうとくにもなり兼ねない言い草だったが。
「残された はどうすりゃいいんだよ、なあ?」
 一転、途方とほうに暮れたような口調が、チヨの心を激しく共振きょうしんさせる。
 どうすりゃいいんだよ……そう、それだ、 の、この気持ち。
 お さん、あたしどうしたらいいの――。
 ――この、 みを。
「本 ですね……どうしたら、いいんでしょう……?」
 栄太郎は り越えたのか。その方法を知っているのか。ならば、ぜひ教えて欲しい。
「…… からない」
 そう言われても、チヨは落胆らくたんしなかった。気休めを言わないからこそ、信じられる。この人は確
かに、この みを知っていると。
(この人は、あたしを かってくれている)
「未だに、確 は持てないんだ。自分がちゃんと、両親の死を乗り越えたのかどうか……でも、
まあ、こうしてそれなりにやれてるのは、 谷と絹さんがいてくれるおかげだな」
 勿体無いお言葉にございます、等と恐縮きょうしゅくするでもなく、金谷と絹は涼しい顔だった。それを見
て、チヨにも分かった。 らと栄太郎は、単なる主従ではなく、家族にも等しい関係なのだと。 
 そして。 
「だからさ、今度は俺が、 かの力にならなきゃいけないと思うんだ。昔の俺と、同じ痛みを背
負った かの」
 チヨとも、同じ関係を築きたいと、 は言ってくれているのだ。
 たとえ短い 間でも、家族でいようと。
「チヨ、君を迎えるのは、半分は親父さんの恩にむくいるためだけど、もう半分は……」
 君のため、とはあえて わずに。
「……俺の勝手だよ。だから、 慮はいらない。今日から、ここを自宅だと思ってくれよ、な? 
金谷も絹さんも、そのつもりで むぜ」
「……かしこまりました」
「もちろんですよ。 しくやっていきましょうね」
「はい……はい……!」 
 ここに来て良かった、 からそう思った。
 まだ、胸は痛んでいる。しかし、きっと り越えられる。ここでなら。
シャンデリアのきらめきが、涙でにじむ。もう、豪華な内装を見ても、嘲笑われているようには感
じない。 
 全てが光り輝いて、自分をはげましてくれているかのようだった。
 
 こうして 守邸は、新たな住人を迎えたのだった。
 そんな様子を、それは 外れの丘から、無言で見下ろしている。
 今はまだ、その黒いおもてに何も映すこと無く。

〜6〜

「おはようございます、 太郎さん」
「ふわああ、おう、チヨは 起きだな……うわっ、どうしたんだよ、その格好?」
 チヨを一目見るなり、 太郎は目を丸くする。無理もない。絹と同じ、女中のお仕着せ姿だっ
たのだ。 
「に、 合いませんか?」
「い、いや、そんなことねーけど……」 
「ウフフ、お世話になりっ放しじゃ いから、私の仕事を手伝いたいんですって」
 朝食の支度をしながら、絹が悪戯いたずらっぽく笑う。チヨが着ているのは、彼女のお下がりだろう。
「お客様にそんなことをさせる には……」
 新聞にアイロンを掛けていた――こうして かさないと、インクで手が汚れるのだ――金谷の
重々しい声に、やっぱり出すぎた真似だったろうかと一瞬くじけかけるが、ぎゅっと拳を握り締め
て、自分をふるい立たせる。
「栄太郎さん、 たでしょう? ここを、自分の家だと思ってくれって。自分の家なんだから、家
事をするのは当たり ですよ」
「なるほど、それもそうか」 
 栄太郎は苦笑いを浮かべ、使用人たちと目配めくばせをわす。それだけで、意思の疎通そつうには十分
なのだった。 
『その方がいいですよ。何もしなくていいでは、かえって気疲 れします』
『止むを得ません。動いている方が、チヨ様もお気持ちがまぎれるでしょうし』
『そうだな……』 
「じゃあ、 もうかな」
「はい!」 
「あ、絹さんにいじめられたら、言いつけてくれていいからな〜」
「は、はあ」 
「まあ、失敬な、そんなことしませんよ。私達、もう の姉妹も同然ですもの。ねえ?」
「そ、そうですね」 
 こうしてチヨは、客人でありながら、女中の仕事もするという、はたから見れば奇妙な立場に身
 くことになった。
 朝食を済ませた後、早速さっそく、絹と共に屋敷の掃除にかかる。ガラス窓や絨毯など、 家事には慣
れているチヨでも、扱いが分からない も多い。しかし、絹が丁寧に教えてくれたので、すぐに
飲み めた。 
 それにしても。 
(ひ、 い)
 とても、一日では終わらない。あんじょう、一日ごとに掃除する場所を決めて、一週間で屋敷を
一回りするようにしているらしい。 室など、普段は使わない部屋も多いので、それで十分ら
しいが。 
 いや、それにしたって、 濯や食事の支度など、他の仕事もあるだろうに、よく彼女一人でや
れているものだ。 
 掃除の合間に、 の二人の日常も目にした。
 金谷は、栄太郎の身支度を手伝い終えると――靴紐くつひもくらい自分で結べると彼は嫌がっていた
が――各種請求書や銀行手帳をまとめ、てきぱきと 計簿を付け始める。電話が鳴ると、真
っ先に受話器を取り、丁寧に対応する。まさに縦横無尽じゅうおうむじんだ。
 執事の仕事がどんなものか、チヨは 体的には良く知らなかったのだが、見ての通り、その 内容は多岐 に渡り、とても一言では言えない。あえてまとめるなら、主人が本業に集中できるよう、
身の回りの世話をし、代理として事務や 客を行うこと、なのだが。
「ご主人様、次回の 曜のミサについてですが……」
「い、今、ちょっと しくてさ〜。金谷が代わってくれよ」
 そそくさと 斎に逃げ込んでしまう栄太郎に、やれやれと肩を落とす金谷。優秀な彼は、主人
 職である教会の仕事まで肩代わりしているらしい。
目下もっかのところ、ご主人様は研究に夢中ね。おかげで、教会のことは金谷さんに任せっ放し」
 くすくす笑っていた絹が、ふと笑みをくもらせる。
「……本当に、お 様にそっくり」
 彼女の視線の先にある に気付いて、チヨははっとする。
 百号程もある、大きな油 だった。二人の人物が描かれている。椅子に腰掛けた司祭の正
装姿の紳士と、そのかたわらに立つイブニングドレス姿の婦人。二人とも、穏やかな眼差まなざしで屋敷を
 っている。
「あの ……」
「ええ……ご主人様のご両親、先代当主の栄三えいぞう様と、雪子ゆきこ奥様よ」
 絹に確認するまでもなく、チヨは確信していた。婦人の面差おもざしには、栄太郎と重なる部分があっ
たから。 
「お父様も、何か 問を?」
「ええ、古い宗教とか呪術とかいったものを研究なさって……本も沢山たくさん書かれていて、その道で
 名だったらしいわよ」
「もしかして、 太郎さんの研究も……?」
 書斎で塔を成していた 物の題名を思い出す。古い宗教や呪術……確かに、そういった関
係のものが かった気がする。
「そうね……お 様のお背中を、追っていらっしゃるのかもしれないわね」
 それが かっているからだろうか。金谷も強くは言わないらしい。
「お二人は、どうしてお くなりに……?」
「森で、熊に われたらしくてね……」
 栄三の方は、未だに 体が見つからないのだという。こんなお屋敷に住む人が、そんな死に
方をするとは、誰が 想しただろう。しかし、それを言うなら、震災で死んだ父も同様か。死は
本当に気まぐれで、そして 慈悲だ。
(五 前ということは……)
 当時、 太郎は十代前半だろう。今のチヨよりも幼かったのだ。そんな年頃の子が、死の不
条理さに受けた衝撃は、 して余りある。
(どうすれば、乗り えられるのかしら……そんな悲しみを)
 それは、 女自身への問いかけでもある。
 父の死を り越えるために、自分はどうすればいいのだろう?

〜7〜

 午後からは、 太郎に連れられて外に出た。村を案内すると共に、チヨを村人たちに紹介し
たいとのことだった。チヨを屋敷の中に 護するのではなく、この村で“生活”させてやりたい
と、 太郎は考えているのだろう。彼の心遣いが有難かった。
  太郎の案内で、村人たちの暮らしを見せてもらう。佐羽戸村は外見だけでなく、そのいとなみも
西洋 だった。
 風車で小麦を引き、パンを焼く。家畜の乳からバターやチーズを作り、毛をつむいで糸を作る。
果樹園の葡萄ぶどうたるに詰められ、ワインになる。
 以前は自分達用に作っているだけだったが、明治の中頃ぐらいから西洋文化をとうとぶ富裕層
に飛ぶように売れるようになり、これが石守家の富のいしずえになったのだ。
(本当に 思議な村……)
 改めて、そう思わずにはいられない。まるで 本の中でここだけが、存在する時空間をこと
にしているかのようだ。 
 村人たちは、栄太郎の姿を見かけると、 笑みを浮かべ『坊ちゃん、こんにちは』『いい天気
ですねえ』と、口々に 拶する。
 昨日、車に頭を下げる村人たちを見て、大名行列に平伏ひれふす農民のようだと思った。しかし、こう
して彼らを間近に見て、そのイメージは うことが分かった。確かに恭しい態度ではあるが、殿
様に対するような、恐れ混じりのそれではない。もっと しく、明け透けな感じだ。
 栄太郎も屈託くったくのない笑顔で『腰の調子はどうだ?』『今度曾孫ひまごが生まれるんだって?』と応じて
いる――村人たちの顔はおろか、その 加情報も全部暗記しているらしい。
 それを見て、チヨは 解した。金谷や絹とそうであるように。
「栄太郎さんと の人たち、まるで家族みたいですね」
「まあな。元が、隠れ切支丹 の村だからかもな。村の結束は、とても固いんだ」
 団結しなければ、生き残れない。そんな、過酷な歴史の賜物たまものなのだろう。もっとも、強い結束
は、強い排他性と、しばしば表裏ひょうり一体であったりもするが……。
「ところで ちゃん、そちらのお嬢さんは?」
「ああ、恩人の さんで……」
 栄太郎が 介すると、すぐにチヨにも同じ笑みを向けてくれる。佐羽戸へようこそ、変わった
村で驚かれたでしょうと 迎し、女性達など、彼女の身の上を聞いて、涙を流して同情してくれ
た。 
「ほっとしました。隠れ切支丹の村だから、余所者よそものは警戒されるかと思っていましたけど……」
「まさか。聖書にも書いてあるぜ。“なんじの隣人を愛せよ”って。この村で暮らす以上、チヨだって
 さ」
 佐羽戸村。風変わりな、しかし かな村。
(ああ、きっと) 
 栄太郎の気性は、この村によってはぐくまれたに違いない。村を包む、穏やかで大らかな空気
は、彼の印象とぴったり なるから。
 村を一通り回り、最後にやって来たのは 会だった。村の中では、石守邸に次いで大きな建
 だろう。
 ステンドグラスから差し込む光、頭上に十字架を掲げる祭壇さいだん、重厚な音色を響かせるパイプオ
ルガン。ほぼ無宗教のチヨでさえ、思わずひざまずきたくなるような、荘厳そうごんな雰囲気だ。
 出迎えてくれた 祭――司祭の手伝いのような人――の老人が、栄太郎に笑いかける。
「坊ちゃん、金 さんがぼやいとりましたよ。そろそろ、教会の仕事に本腰を入れて欲しいなぁ
って」 
「あ、あはは、まあ、その な」
 誤魔化ごまかし笑いを浮かべていた栄太郎だったが、ふと声を低くして囁く。隣のチヨにしか聞こえな
いように。 
「金谷には悪いけど、正直あんまり 味ないんだよなぁ。司祭の仕事って」
「そ、そうなんですか?」 
「ああ、どうも信仰って がピンと来なくてさ。おかげでこの通り、司祭の家に生まれたから司祭
をしてるだけの、お飾り 祭になっちまってる訳だよ」
 そういうものかもしれない。 家が寺だからという理由だけで、僧侶になる人も多いらしいし
……その程度に えてしまった。栄太郎の言い方が冗談めいていたせいで。もう少し深く考え
れば、十分推 できたはずなのに。
 なぜ、彼が“信 って奴がピンと来ない”のか。
「そう言えば、 ちゃん。そろそろ祭の準備を始めるんじゃが、例年通りでいいかのう」
「ど、どうかなぁ、 谷に聞いておくよ」
 全くしょうがない 祭だよなぁと、照れ笑いを浮かべていた栄太郎は、ふと遠い目になる。
「そうか、もう りの時期か」
「お があるんですか?」
「ああ、神様に秋の実りを感謝する、いわゆる収穫しゅうかく祭の一種だな」
 キリスト教の祭と、土着の自然信仰が融合ゆうごうして生まれた、この村独自の祭らしい。村人全員が
参加する、大 模なものだそうだ。
 そこで、栄太郎はぱっと を輝かせる。
「そうだ、チヨも出てみないか? 村に け込むいい機会だぜ」
「あ、あたしもですか?  丈夫かしら……」
 宗教色の強い厳粛げんしゅくな祭のようだし、不慣れな自分などが加わったら、場を乱してしまうのでない
か。チヨは躊躇ちゅうちょしたが、栄太郎はどんと胸を叩き。
「平気平気、何も しいことはねえよ。俺が付いていてやるしさ」
 俺が付いていてやる、その言葉に、チヨはどきりと胸をはずませた。
(栄太 さんと一緒に、お祭に……)
 去年の、隅田川の夏祭りを い出す。友人が、気になっていた男性に、一緒に行こうと誘わ
れたと喜んでいた。祭、それは多くの人目にさらさされる晴れの日であり、そこへ男女が一緒に行
くというのは、言わば…… 言を意味したのだ。
(馬鹿 ね、あたしったら。考えすぎよ)
 栄太 に、そんなつもりがある訳ない。彼はあんな豪邸を構える名家の当主、対して自分は
何だ? 大してもうけもない小さな書店の娘……ですら、すでにない。ただの孤児ではないか。
彼はただ、 切で言ってくれているだけだ。そうに決まってる……。

〜8〜

 屋敷に帰る に、寄りたい所があると栄太郎に言われ、連れられて来たのは、村外れの森
だった。この 近には人家もなく、ひっそりとしている。
 彼は、きょろきょろと周囲の様子をうかがっている。どうしたんですかと訊くと、シッと口元に人差し
指を立てて、ひそひそと く。
「ここから先は、聖域せいいきだからな。司祭しか入っちゃいけないんだ」
聖域 ……」
 聖域、神のおわす領域。チヨも神社の裏山などが、注連縄しめなわで閉ざされているのを見たことがあ
る。 
「じゃあ、あたしはここで……」 
「いいっていいって、チヨも いよ」
「ええっ、い、いいんですか?」 
 幼心にも、みだりに ち入ってはいけないと感じた、あの感覚を思い出す。それは日本人の
遺伝子に刻まれた、 源的なものだろう。
 だが、栄 郎は『ちょっとぐらいなら、神様も大目に見てくれるさ』とあっけらかんとしたものだ
った。キリスト教の神様は、随分と寛容かんようであられるらしい。
 彼に続いて、おっかなびっくり聖域の森に入る。針葉樹の太く真っ直ぐな が整然と並ぶ様
は、どこか神殿の柱に似ていて、 智を超えた作用が、この森を作り上げたのではないか、そ
んな幻想をいだかせる。
 道はかなりの急勾配こうばいだった。どうやらこの森は、斜面に沿って広がっているらしい。生粋きっすいの帝都
っ子で、山歩きに慣れていないチヨが 色吐息でいると、当然の義務のように栄太郎が手を引
いてくれた。 
(あ、あわわ) 
 男性の硬い手の感触に、鼓動こどうが早まる。てのひらの血管を通して伝わってしまうのではないかと思
うと、気が ではない。
「と、ところで、 をしに行くんですか?」
 せめて、彼の注意をらさなくてはと話しかける。
「ああ、どうしても、 かめたいことがあってさ。チヨにも、ぜひ見てもらいたいし。ちょっとしたモ
ンだぜ、あれは」 
 栄太郎は、何やら 意気だ。友達に“秘密の場所”を教える子供のように。
 徐々に木々がまばららになり、やがて開けた場所に出る。そこは、村を見下ろす小高い丘だっ
た。うねる様な山と谷の 線が描きだす展望は絶景だったが、しかしチヨは全く目に入らなか
った。 
 広場の中心にそびえるそれが、他の一切を無視せしめる程の存在感を放っていたからだ。
「こ、これは……」 
 高さ二 弱(約五メートル)、差し渡しはその約半分の、完全な八角柱。
 に、 間が黒く抜け落ちている。
 神という 家が、そこだけ創造の筆を入れ忘れてしまったかのように。
(いいえ、そうじゃない……) 
 チヨは目をまたたいて、錯覚を振り払う。
 あれは、 い、実体ある物体だ。
 にも関わらず、あのように錯覚してしまったのだ。その さの、あまりの深みに。
石碑せきひ……?」
 ようやく、その 体に思い至る。
「へへ、 いたか?」
「え、ええ……」 
 緑の息吹いぶき満ちる森の中に、突如として現れたその姿は、この上なく異様だった。
 材質は石炭……それとも、黒溶岩か。いや、間近で見ると、つるりとしていて、わずかに透明感
がある。非常に色のい黒水晶、と言うのが一番近いかもしれない。
 その表面には、うねうねとした が、不規則に刻まれている。そうかと思えば、太陽や角のあ
る動物を思わせる が、不意に現れたり……文字、そして文章、なのだろうか、これは?
「言い伝えによれば、村のご先祖が、この土地に移り住んだ時に建立こんりゅうしたらしい。確か、禁教令
の直後だから……ざっと、三百年かそこらはっているはずだな」
 それ以来、この 碑は村の信仰の要として、大切に守られてきた。石守家の家名はそもそ
も、この“石”碑を“守”る役目をになうことに由来するらしい。
「何のために、 てられたんでしょう……?」
「それが、 抜けなことに……よく分からないんだよな」
 長い年月をる間に、答えを知る者はいなくなってしまったらしい。
 そもそも、この 字が何語なのかも分からない。少なくとも、漢字ではない。宣教師の母国語
という可能性も えられたが、ヨーロッパのどこにも、こんな文字を使う言語はなかった。
「ひょっとしたら、 在の言語じゃなく、暗号のようなものかもしれない。刻まれているのは、キリ
スト教の教えか かで、万が一、幕府に見られても言い逃れできるようにしてあるんだ……と
いうのが、親父の なんだけど」
 そこで言葉を切り、栄太郎が浮かべた表情は、悪戯 を企んでいる子供のようだった。
「俺の えは、ちょっと違うんだよな〜」
「そうなんですか?」 
「ああ、それを証明するのが、今やってる 究なのさ。へへ、見てろよ、もうすぐ、親父の鼻を
 かしてやるぜ」
 表情とは裏腹に、彼の瞳は直向ひたむきだった。それを見て、チヨはさっと光が差すのを感じた。眼には
見えない、 望の光だ。
(そうだったんだ。 太郎さんは……)
 彼が学問を通して、父の背を追っていることは知っていた。だが、それは、父の背に寄り
ためなどではなかったのだ。 
 乗り越えるためだ。父の背を、悲しみ諸共もろとも
(もう見つけて、歩き めていたんだ 自分の道を)
 石守家が代々守り続けてきた、 碑に関する考察……なるほど、ちょうどいい研究テーマか
もしれない。 
(上 くいくといいですね)
 あの和綴じ本を開き、 やら石碑と熱心に見比べている彼に、心の中で声援を送る。彼が父
を越え、悲しみを越える姿を見られれば、きっと、自分も みになるだろうから。
(あたしも、がんばらなくちゃ) 
 その 
 ぬっと、影がチヨをおおった。
 はっと顔を上げると、自分がいつの にか、石碑が落とす影の中にいることに気付く。まる
で、石碑が自分にかろうとしているように思え、チヨは慌てて影から抜け出した。
 こうして、改めて てみると。
(……変な だなぁ)
 村の人たちには いが、そう思わずにはいられない。キリスト教の教えはよく知らないが、少 なくとも、佐羽戸村の長閑のどかな空気と、この真っ黒な石碑は、まるでイメージがつながらない。じっと見
つめていると、違和感いわかんのあまり頭がぐらぐらしてくる……。
「おう、お たせ。そろそろ帰……」
 振り返った栄太郎が、はっと表情を強張こわばらせる。
「チヨ、どうしたんだ、その !?」
「え?」 
 指摘されて、初めて気が く。
 自分の右手の甲から、血がしたたっていることに。
 見ると、ごく くだが、切り傷が走っている。
「葉っぱか かで切ったのかしら? た、大したことないですよ」
「いや、黴菌ばいきんでも入ったら大変だ。とりあえず、ハンケチで……ああ、くそ、持ってこなかった。
じゃあ、これで」 
 栄太郎は、躊躇うことなくシャツのすそを引き千切る。包帯代わりにするつもりだろう。
「あ、あわわ、すいません、そんな上等な生地きじを……」
「いいって、 にすんなよ」
 そして、彼はシャツの切れはしを、チヨの手の甲に……。
 …………。 
 ………………? 
(……あれ?) 
 いつまで経っても、 いてくれない。
(栄太 さん……?)
 彼は、チヨの り傷を、食い入るように見つめている。
 いや、そこから る、真っ赤な血を。
 まるで、時が まってしまったかのようだった。そんな風に錯覚するぐらい、栄太郎は動かな
い。チヨも動けない。ただ、じわじわと れ出す血のみが、時を刻んで――。
 
 夜の闇よりもなお黒とはあらゆる色を 包するとても豊潤な完璧な黒が解れ無限の色彩が
溢れきらきらくるくる人々は手に手に 明色鮮やかな衣装母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な
母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な さんは真っ赤な母さんは真っ赤な……!
 
 沈黙は、 意に破られた。
「なあ、チヨ……」 
「は、はい?」 
 チヨはどきりとする。だって、栄太郎の声は、 闇に紛れて、秘密を打ち明けるようなそれだ
ったから。 
(え、栄 郎さん、何を……)
 だが、彼女が何を予想しようと、それはことごくく外れたに違いない。
 
君なら、きっと 合うぜ……真っ赤なドレス
 
「……………………え?」 
 何を言われたのか、チヨは 座には理解できなかった。
 あまりにも、脈絡みゃくらくが無さ過ぎて。
 栄太郎の顔は、 光になってよく見えないが、口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
 その背後から、あの い石碑が、無言でチヨを見下ろして……。
「あ、ああ、ごめん、ぼーっとしちまって」 
 はっと我に返り、手当てを再開する。研究で夜更よふかしし過ぎたかな、と笑いながら。その様子
は、すでにいつもの だった。
 ……では、さっきまでの は?
「あの、栄太郎さん、 いドレスって?」
「……、ああ、 の衣装なんだ」
 一拍いっぱくの間があったことに、チヨは気付かなかった。
「そう言えば、母さんが てた奴があったな。貸してやるから、祭では、ぜひ着てみてくれよ」
「い、いいんですか?」 
「ああ、もちろん……」 
  び――。
 ―― 太郎の口元に、あの笑みが浮かぶ。
「…… さんも、きっと喜ぶよ」

〜9〜

(よし、きれいになったわ) 
 柔らかい布で、ガラス窓を丁寧にみがく。埃が落ちると、差し込む日差しを反射してきらきらと輝
きだし、チヨは充実した 分になる。あたかも、綺麗にしてくれてありがとうと、屋敷に感謝され
ているかのようで。 
 最初に見た時は、まるで舞台の大道具のように、現実味がなかったこの屋敷。毎日、丹精たんせい込め
て掃除してきたおかげか、ようやく 感できるようになってきた。自分は確かに、ここで暮らして
いる。 きているのだと。
  きているという実感。
 今なら分かる。普段は無意識にしか感じていないから、何かの拍子ひょうしに見失ってしまうと、取り戻
すのが しい。
 取り せたのは。
(石守 のみなさんのおかげだわ……本当に)
 彼女が石守 に迎えられてから、すでに一週間が過ぎていた。ここでの暮らしにも、大分慣
れてきた。仕 のことだけではない。栄太郎はもちろん、使用人の二人とも、もうすっかり打ち
 けていた。
「チヨちゃん、一休みしてお にしましょうか」
「あ、はい」 
 もう実の姉妹も同然、などとお道化どけていた絹。実際、同性の話し相手ができたのが嬉しかった のだろう。仕事の合間によく、化粧けしょうや服飾など女同士の会話で盛り上がり、今や栄太郎が嫉妬しっと
るぐらいの仲 しだ。
「金 さんもどうですか」
「いえ、使用人ごときが、お客様と相席など。絹も、あまりれ馴れしくしては……」
 彼のことも、もう分かっている。 変わらず口数は少ないし、いざ口を開けば固いことばかり
だが、あくまで執事として 応言っているだけで、本当は人情がよく分かっている人だと。
「あら、お 人じゃ退屈でしょうから、お付き合いして差し上げるんですよ。これも使用人の務め
ですよ」 
 すかさず、絹が言いくるめる。金谷は二、三度口をぱくぱくさせるも、すぐに折れて席に着く。こ
ういうのが、いつものパターンらしい。 倒臭い人でしょ? と絹に目で訴えられ、チヨは苦笑
で応える。 
 柔らかい 差しが差し込むサンルームで、紅茶のカップを傾け合う。しばらく、栄太郎の昔の
話で盛り上がった。よく私のスカアトをまくろうとしては、奥様に叱られてねえ等と絹が笑い、金
谷が慌てて める。
「絹さんは、栄太 さんが小さい頃からこちらに?」
「ええ、先のご主人 と、奥様が亡くなる一年ぐらい前からだから……ざっと六年前からお世話
になってる計 ね」
 日本の女中は、若い女性の 嫁修業代わりという面が多分にあり、雇用期間はせいぜい
一、二年であることが多かった。 年というのは、かなり長い部類であろう。
(どうして、お に行かないのかしら……?)
 この人なら、さぞ引く手数多あまただろうに。
「金 さんはいつから?」
「ご主人 がお生まれになる前からです」
 平然と われ、チヨは絶句する。
「元々は、 様のご実家にお仕えしていたんですよね?」
「はい、 様のお供で石守家に入って、十数年……奥様のご実家にいた頃も含めれば、もうか
れこれ、 十年になりますか」
 まさに、生涯を栄太郎の一族にささげていると言えよう。おかげで婚期を逃しちゃって、未だに
独身よと絹は笑う。しかし、後悔は微塵みじんもないのだろうと、チヨは思う。
 今なら分かる。血縁ばかりが、 族ではない。絹が嫁に行かないのも、似た理由かもしれな
い。 
「ご主人様に、お祭に われたんですって?」
「あ、はい、村に け込む、ちょうどいい機会だからって……」
 サンルームの大きな からは、広大な庭が望める。自然を再現する日本式庭園とは対照的
な、左右対称の西洋式庭園だ。花壇には、糸屑のような繊細 な葉に、淡い桃色の花弁を持つ花
が、風に れている。
「ああ、コスモスが……あれが き始めると、今年もお祭の季節だなって実感するわ」
「きれいなお ですね」
「ええ、奥様がお好きだった でね。五年前のあの日も、きれいに咲いて……」
 かちゃん。 
 金谷がカップを く音のせいで、後半はよく聞き取れなかった。
「え?」 
「う、ううん、 でもないの。ところで、お祭に出るなら、衣装を用意しなくちゃね」
「そうでした。 の仕立屋に注文しましょう」
「あ、それなら……」 
 そう われて、チヨは思い出した。
「栄太 さんが、お母様が使っていた物を貸して下さるそうで……」
『君なら、きっと 合うぜ……』
「真っ なドレスなんですよね?」
 そう言った 間。
 
ぴしっっっっ。
 
 ――と。 
 空気が凍りつく を、チヨは確かに聞いた。
(え?) 
 絹の きが、止まっている。
 金谷の きも、止まっている。
 ティーカップを手にしたまま、ぴくりとも かない。
 二人の 子には、覚えがあった。そう、チヨの手から流れる血を、時が止まったかのように凝
視し続ける栄太 
 あの時の に、そっくりだ。
 さっきまでのにぎわいが嘘のように、サンルームは静まり返っている。
「あ、あの……?」 
 口を開きかけたチヨは、しかしのどが引きって何も言えなくなった。
 い……?」
 ぐりっ。 
「ドレス……?」 
 ぐりりっ。 
 と、眼球の きだけで、二人に視線を合わせられて。
「ご主人 が……?」
「そう、 ったのですか……?」
 二人の視線は、ぴたりとチヨに 準を合わせている。あたかも、暗殺者の銃口のように。そ
れが呪縛となって、チヨに視線をらすことを許さない。答えをはぐらかすことを許さない。
 ――ええ、そうですよ。 
 その一 が、しかしなぜか出てこない。
 だって、今の二人は、まるで 人のようで、反応が全く予想できなくて。
(こ、この人 は……誰?)
 何を馬鹿なことを、という 性の抗議は、あまりに弱々しかった。
 知らない、こんな人 は知らない。どこへ行ってしまったのだ。自分のよく知る絹と金谷は。
「奥 の……?」
 いドレスを……?」
 お互いの視線をからめたまま、ぴくりとも動かない三人。それはまるで、一昔前、英国イギリス流行はやった
という、交霊術の 験のようだった。
 得体えたいの知れないものが、絹と金谷に取りいて……。
(チヨちゃん?) 
(チヨ 
 二人が、視線だけで いかける。
(チヨちゃん?) 
(チヨ 
 り返し、繰り返し。
(チヨちゃん?) 
(チヨ 
  えるまで、何回でも――。
(チヨちゃん?)(チヨ )(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ
様)(チヨちゃん?)(チヨ )(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)
(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ )(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃ
ん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ )(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨ
ちゃん?)(チヨ )(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)
(チヨちゃん?)(チヨ )(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)
 
( (   っ た の か 、あ の 方 が ? ) )
 
「あ〜、喉かわいた〜。お、ちょうどいいや、俺にもくれよ」
 階段の上から投げかけられた、栄太郎の暢気のんきな声が、場の空気を塗り替える。
 異常から、 常へ。
「それはいいわね! チヨちゃんなら、きっと 合うわよ」
 まりました。後ほど探しておきましょう」
「え?」 
 一瞬、二 が何を言っているのか、チヨは分からなかった。
 何のことはない。 話の続きをしているのだ。
 そう、空気が りつく前の会話を――何事もなかったかのように。
「あ、俺、ジャムで みたいな」
「ウフフ、ご主人様ったら 党なんだから」
 サンルームに、賑わいが ってくる。
 絹も、金谷も、 もかも、すっかり元通りだ。
 あの、白昼夢のような 白の時間を、チヨの記憶にだけ残して。
「ところで、何の してたんだ?」
「駄目駄目、女 士の話ですから、殿方はご遠慮願いますよ」
「ちぇー、俺だけけ者にしやがってよぅ。なあ、チヨ、教えてくれよ〜」
「た、たいしたことじゃないですよ」 
 だったのかしら、あれは……)
 いくら考えても、しかし かるはずもなく。
 結局、何かの気のせいだったのだという、一番安直な解釈かいしゃくに落ち着くことにした。
 
その 
「ええ、きっと 合うわよ。チヨちゃんなら……」
 絹は使用人用浴室――そんなものまで、この屋敷にはある――で、陶器の浴槽につかかりな
がら、 いていた。
 ざばあと浴槽から立ち上がり、 の前に立つ。
 豊かな胸、引き締まった腰、すらりとした手足、ギリシャの女神像のような肢体したいが、湯で桜色に
染まる様は、この世のものとも思えぬ風情ふぜいだった。
 しかし、絹はそんな己の肉体を るでもなく、無表情に鏡を見つめ……。
 ずぶり。 
 下腹部の、茂みに隠された割れ目に、細長い指をもぐり込ませる。
 れてさえいなければ……」
 ずぶりっ、ずぶりっ、ずぶりっ、絶え間なく指を出し入れする。自慰じいと言うには、しかし、その動き
は、あまりに 暴だった。あたかも、その奥から、何かを引きずり出そうとしているかのように。
 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ……」
 やがて、割れ目が湿しめりだしても、絹の顔に、快楽など欠片も浮かばなかった
 その代わりと言ってもいいものか。眉間みけんに、ぎりぎりとしわが刻まれていく。ペルセウスに討ち取ら
れた、メデューサの首さながらの、忌々いまいましげな……。
 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなけれ
ば、 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなけ
れば、 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいな
ければ、 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえい
なければ、 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえ
いなければ、 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさ
えいなければ、 れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、…………私だって…………」
 
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