〜1〜

 それは、彼の眼前に冷然と聳《そび》え立っていた。
 月の光を遮《さえぎ》って、夜の闇よりもなお黒く。
 美術に造詣《ぞうけい》が深い父が言っていた。黒とはあらゆる色を内包《ないほう》する、とても豊潤《ほうじゅん》な色なのだと。
 見つめていると、ぼうっとしてくる。完璧な黒が解《ほぐ》れ、その内から無限の色彩が溢《あふ》れ出してく
る――。一《 》
 きらきら、くるくる。彼の周囲を色《 》彩が舞う。いつの間にか、彼は多くの人々に囲まれていた。
人々は色鮮やかな衣装を纏《まと》い、松明を手に踊っている。それはまるで……。
(お祭《 》……)
 そうだ、今日は村のお祭《 》だ。
 彼を迎え入れるように、人々の踊りが左右に割れる。その間から、一際《ひときわ》鮮やかな色彩が目に
飛び込んでくる。一《 》
 赤だ。網膜《もうまく》に焼きつくような、真紅。
(母《 》さん?)
 それは、母が纏《まと》っているドレスの色だった。派手な服装が苦手な母にしては珍しい。でも、真
っ赤な装《よそお》いの母も、とても綺麗だと思った。
 人々の踊りは、母を中心に渦巻いている。彼女が祭の要《かなめ》であることは、幼心にも理解でき
た。一《 》
(でも、何で……)一《 》
 母さんは、地面に横になっているのだろう。せっかくのドレスが汚《 》れてしまうじゃないか。
 ――御主人様、奥《 》様、いらっしゃいますか!?
 背後から、聞《 》き慣れた声が近付いてくる。ちょうど良かった。彼に聞いてみよう……。
(なあ、金谷。母《 》さんは、何で……)
は一《 》
(これは……夢《 》なの?)
 チヨは、現実を受け容《い》れられずにいた。
 現実とは、因果《いんが》の連《つら》なりだ。原因があって、結果が付いてくる。だからこそ、夢の中のような
支離滅裂《しりめつれつ》な状況変化――例えば、自分の部屋が突如《とつじょ》、別の場所に変わったりするようなこ
とは有り得《 》ない。 
 ならば。一《 》
 十六年住み慣れた我が家が、木屑《きくず》と瓦礫《がれき》の山に変わることだって、同様に有り得ないはずで
はないのか。一《 》
 昼食の材料の買出しから帰って、家の玄関を潜《くぐ》ろうとした時だった。突如、突き上げるような
衝撃が、足元から襲って来て……気が付くと、この有様《 》だった。
(何《 》が、何が、どうなってるの……)
 この時、せめて周囲を窺《うかが》う程度の余裕があれば、何が起きたのかチヨにも分かったかもし
れないが。一《 》
 あいにく、彼女は動揺のあまり、極度の精神的視野狭窄《きょうさく》に陥《おちい》っており、自宅以外は意識に
なかったのである。一《 》
(とにかく、お父《 》さんに……)
 慌てて、自宅に隣接《 》する店に向かう。
 父は書店を経営していた。昔気質《かたぎ》の彼は、探偵小説などは低俗だと嫌って、硬い学術書しか
置いていなかった。おかげで収入はささやかなものだったが、それでも親《 》子の暮らしを支える
基盤だったのだ。一《 》
 それが自宅と同様の状態になっているのを見て、チヨは暗澹《あんたん》たる思いだった。
(困ったわ、これからどうやって暮《 》らしていこう)
 だが、そんな些細《ささい》な問題は、すぐに頭の中から消えた。
 店の残骸《ざんがい》の下から、にょっきりと一本の手が突き出しているのに気付いて。
「お父《 》さん!?」
 間違いない。あの袖《そで》は、父の和服のものだ。それは人形の手のように、ぴくりとも動かない。
「お父《 》さん、大丈夫!?」
 チヨは無《 》我夢中で父の手を引っ張り……。
「きゃっ」一《 》
 思わず、尻餅《しりもち》を着く。予想に反して、父の手があっさり抜けてしまって。
「え……!?」一《 》
 あっさり抜《 》けたはずだ――
 ――父は、手《 》だけになっていた。
『チヨ、この馬《 》鹿者が!』
 時に叩《 》かれ。
『チヨ、偉《 》いぞ!』
 時に撫《な》でられ。
 恐ろしくもあり、暖《 》かくもあった父の手が、今はもう、ただの物体。
 家があり、父《 》がいる。彼女の世界観はその瞬間、根底から崩れ去ったのだった。
は一《 》
 1923年(大正12年)、9月1日、午《 》前11時58分32秒。
 帝都を含む関東一円《 》を、地震が襲った。
 後に言う、関東大震《 》災である。
 相模《さがみ》湾北西沖80kmを震源とする、マグニチュード7.9、海溝型のこの地震は、日本災害史上
最大級の被害《 》をもたらした。
 死者・行方不明者14万2800人。負《 》傷者10万3733人。住家全壊 12万8266戸。 半壊12万6233
戸。一《 》
 さらに、発生時刻が昼《 》食時であり、多くの家庭で火を使っていたことが災いし、火事も多発、
44万7128戸が消《 》失した。
 大日本帝国を名乗《 》って以来三十年、西欧列強に追い着け追い越せと日本が築き上げてきた
ものは、僅《わず》か数十秒であっけなく崩壊したのである。
は一《 》
 華の帝都、天《 》皇陛下のお膝元、輝けるモダニズムの象徴。 
 帝国ホテル、鹿鳴《ろくめい》館、浅草十二階、壮麗な西洋建築の合間を、鉄道や自動車が行き交う。カェ ーやダンスホールでは、洋《 》装のモダンボーイ・モダンガールが恋を語らい、活動写真館では怪 奇
映画が人々を驚《 》かせる。
 そんな煌《きら》びやかな光景は、もう人々の記憶の中にしかない。
 現実にあるのは、果《 》てしなく広がる瓦礫の荒野と、亡者のような身なりの被災者の群れだ。
(あたし……どうして悲《 》しめないんだろう)
 地獄さながらの光《 》景を見つめながら、チヨは自問を繰り返していた。
 父が、唯一の肉《 》親が死んだというのに、涙一滴出てこない。一体、どうしたことだろう。
(ひょっとして……)一《 》
 実は、自分も、父《 》のように家の下敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。それに気付 かず、幽霊になって彷徨《さまよ》っているのではないか。そうだ、それに違いない。自分が死んでしまった
のだから、その上誰が死のうと関係ないという心境《 》になるのも道理だ。
 あんまり多くの死人が出たものだから、三途《さんず》の川も混雑してしまって、順番待ちさせられている
のかもしれない。死装束《しにしょうぞく》の亡者達が、賽《さい》の河原で押すな押すなと揉み合いしているところを思い
描き、チヨは空《うつ》ろな笑みを浮かべた。
 それから数日間、チヨは何をするでもなく、自宅跡に佇《たたず》み続けた。飢え死にしなかったところ
を見ると、おそらく買物籠《かご》に入っていた漬物を齧《かじ》り、井戸水を飲んで凌《しの》いだようだが、よく覚
えていない。一《 》
 なぜ、避難所に行かないのか。多分、動物が縄張りから出まいとする、本能のようなものだっ
たのだろう。自宅とその周囲だけが、彼女の世界の全てだったから。

〜2〜

 その日も、自《 》宅跡でぼうっとしていたチヨは、ふいに我に返った。
 周囲の光景《 》から、あまりに浮いた人影を目にして。
(何かしら、あの人《 》?)
 埃《ほこり》まみれの被災者達とは対照的な、仕立ての良い洋装の紳士だった。燕尾《えんび》服という正式名称
を、チヨは知《 》らなかったが。
 服装だけではない。何気《なにげ》ない立ち振る舞い一つ一つが洗練されていて、気品が漂《ただよ》っている。き
っと、偉い人に違《 》いない。
(あんな人が現《 》実にいるんだなぁ)
 こんな所に何の用があるのだろう。被災者の慰問《いもん》にでも来たのだろうか。しかし紳士は、被災
者達には目もくれずに、ツカツカと優《 》雅な歩みを続け……。
 チヨの前《 》で立ち止まった。
「失礼します、田通《たどおり》書店はこちらでよろしいでしょうか」
 低いが、よく通《 》る声だった。
「は? え、あの……」一《 》
 話し掛けられるとは、夢にも思っていなかったチヨは、へどもどしてしまって、咄嗟《とっさ》に返事が
出なかった。一《 》
「は、はい、そうです」一《 》
「御店《 》主は、どちらにおいででしょうか」
「……父は、亡《 》くなりましたけど」
「お嬢様でいらっしゃいましたか。この度は、お悔《く》やみ申し上げます」
 丁重に頭を下げられ、チヨは困惑する。なぜ、この人が父の死を悼《いた》むのだろう。
「申し遅れました。わたくしは金谷《かなや》と申します」
 さる地方の名家に、執事《しつじ》として仕えているのだという。
 年齢は……父より少し下か。しかし、よく見ると、丁寧《ていねい》に撫《な》で付けた髪には、ちらほら白いもの
が混じっている。すらりとした長身と、ぴんと真っ直ぐな背《 》筋のせいで、実際より若く見えるの
かもしれない。一《 》
 切れ長の双眸《そうぼう》、真っ直ぐな鼻筋、丸みの少ない頬《ほお》の線は、あたかも、ナイフで顔から無駄なも
のを削《そ》ぎ落としたかのようだ。
 主人の一《 》部である自分に、個性など必要ないからと。
「お父上には、主《 》が大変お世話になりまして……」
 金谷の主人は、何やら難《 》しい研究をしているらしく、父はその手伝いをしていたらしい。手紙
と小包のやり取《 》りのみで、来店はしていなかったので、チヨは知らなかったのだ。
(お父さんが、そんな偉《 》い人とお付き合いがあったなんて……それにしても)
 この金谷だって、チヨの目には十分偉《 》い人に見えるのに、さらに上がいるのか。世の中は広
いと思った、特《 》に上下に。
「この度の震災でお困りであろうと主が申しまして、お迎えに上がった次第《しだい》でございます」
「それは、わざわざどうも……」一《 》
 金谷の声があまりに淡々《たんたん》としているので、チヨは咄嗟に意味が飲み込めなかったが。
「車を用《 》意してあります。半日程で着くでしょう」
「え?」一《 》
 ぽかんと、チヨの口が半《 》開きになる。
「あの、行くんですか? その、金《 》谷さんの、ご主人様のお宅へ……あたしが?」
「はい。帝都が復《 》興するまで、どうぞ当家にご滞在《たいざい》下さい」
は一《 》
 生まれて初めて乗る自《 》動車の乗り心地は、快適だった。いや、快適すぎて、かえって居心地
が悪《 》いくらいだ。
「す、すみません、汚《 》してしまって」
 ぴかぴかの革張りのシートに、自分から落ちた埃《 》が付着しているのに気付いて、慌てて払う。
「いえ、どうぞお気《 》になさらず」
 金谷の態度も、寛《くつろ》げない要因の一つだった。自分などには、勿体無《もったいな》いぐらい丁寧な言葉遣《づ》い
ではあるのだが、仮面のような無表情で、何を考えているのか窺《うかが》い知れない。
 内心は、主人の命令だから仕方なく乗《 》せてやっているのだぞなどと思っているのではない
か。そう考えると、チヨはますます身を縮《 》めるのだった。
 気を紛《まぎ》らわそうと、びゅんびゅんと過ぎ去る車窓の景色を見る。すでに帝都は遠く離れ、道路
の周囲には森が広がっている。標《 》高も上がっているらしく、夏用の着物では、少し肌寒いぐら
いだ。一《 》
(こんなことってあるのかしら……)一《 》
 チヨはつくづく、運《 》命の気まぐれさに呆れていた。
 つい数時間前まで、乞食《こじき》のように生き長らえていた自分が、今は華族のお姫様のように運転
手付の自動車に乗《 》せられているなんて。
 状況が好転したのは間違いないが、嬉しいというより、狐に乗《 》まれたような気分の方が強い。
大体、いくら恩があるからといって、所詮《しょせん》父は小さな書店の主に過ぎない。執事を雇うような偉い
人が、そんなに気に掛《 》けてくれるだろうか。
 今にもドロンと煙《 》を上げ、車が木の葉に変わるのではないか。半ば本気でそう思い始めた時
だった。一《 》
 森の合間から、その村《 》が見え始めたのは。
「うわあ……!」一《 》
 思わず素頓狂《すとんきょう》な声を上げてしまう。だが、無理もない。その姿は、山間の小さな村だと聞いて想
像していたものとは、あまりに違《 》っていた。
「あそこが……?」一《 》
「はい、佐羽戸《さはと》村でございます」
 佐羽戸村。金《 》谷の主人が暮らす村。
 夕陽に金色に輝くのは、おそらく麦畑だろう。煉瓦《れんが》造りの家々は尖《とが》った屋根を被り、巨大な風車
が山風を受けて優雅《ゆうが》に回っている。
 柵《さく》で囲まれた牧草地では、日本ではまだ珍しい乳牛や羊が草を食み、牧羊犬がその周囲を
走り回《 》っている。
 村の中心に立つ建物は、どうやらキリスト教の教会らしい。鐘楼《しょうろう》から、涼やかな鐘の音を響か
せている。一《 》
「まるで、外国《 》みたい……」
 チヨの感想は、図《はか》らずも正鵠《せいこく》を射ていた。金谷の説明によれば、迫害から逃れてきた隠れ
切支丹《キリシタン》が作った村であり、彼らを率《ひき》いていた宣教師によって、外国の技術と文化が伝えられた
そうだ。一《 》
 日本が開国するずっと以前から、外国の文化を綿々《めんめん》と伝えてきた村。歴史のうねりが生み出し
た、日本中でも類のない村《 》であろう。
 村人達――ミレーの絵《 》画に描かれるような、ヨーロッパの農民の服装だ――は、車が近づく
と、必ず仕事の手を止めて会釈《えしゃく》する。
 金谷の主人の家は、村《 》人たちを率いていた宣教師の血筋と言われており、代々教会の司祭
を務めてきたらしい。のみならず、村のほとんどの土地《 》を所有する大地主でもあるそうだ。
 まさに、信仰面と経済面の両方から、村を支配しているのだ。村人達の恭《うやうや》しい態度も、納
得できよう。一《 》
 車は、大名行列のように村人達を平伏《へいふく》させながら村を走り、ついに目的地に辿《たど》り着いた。
「チヨ様、お疲れ様でした。あちらが、石守《いしもり》家本邸でございます」
 石守《 》家。
 かの家こそ、金谷の主家、佐羽戸の要《 》、そしてチヨの招き主だった。
(あ、あれ、お家《 》……なの?)
 高い鉄柵の向こうに見《 》える建物は、なるほど、チヨの常識では、とても個人の住居とは信じら
れぬ代物《しろもの》だった。一度だけ遠目に見た鹿鳴館に、規模ではさすがに及ばねど、壮麗さでは肩を
並《 》べるのではないか。
 それぐらい、立《 》派な洋館だった。
 全体としては、英国後期ゴシック様《 》式の流れを汲むチューダー様式だ。銅版葺《ぶ》きのマンサー
ド屋根の重厚さと、スクラッチタイル貼りの外壁の繊細《せんさい》さを、アクセントに用いられた大華石が巧
みに融合《 》させている。
 などと言う専門的な評《 》価はできるはずもないが、いかに金が掛かっているかはチヨにも想像
できた。しかも、ここが山間の村《 》であることを思い出せば、驚きは倍加しよう。全ては、石守家
の莫大《ばくだい》な富が可能にした奇跡なのだ。
「改めまして。石守家へようこそ、チヨ様。歓《 》迎いたします」
 淡々とした金谷の声は、遥《 》か遠くから聞こえてくるかのようだった。
(嘘よ、あたしなんかが、こんな所にご縁《 》があるはずない)
 狐に化かされているのでないとしたら……そうだ、そうに違いない。金《 》谷、あるいは石守家の
ご主人が、何か誤《 》解しているのだ。そうでなければ、どうして自分などを呼ぶはずがあるだろ
う。一《 》

〜3〜

 金谷の案内で――チヨには、連行されているように感じられたが――、噴水が飛沫《しぶき》を上げる広
大な庭を抜け、壁に並ぶ猛獣のオブジェに威圧《いあつ》されながら進む。城門のような玄関ポーチを潜り
抜け……やっと目にした内《 》観が、駄目押しのようにチヨを圧倒する。
 入ってすぐのエントランスホールは、二《 》階まで吹き抜けになっており、ここだけでも、父の店が すっぽり納まってしまう広さだ。白い壁紙とワインレッドの絨毯《じゅうたん》が対照を成し、木彫り細工のような
階段が、優《 》美な曲線を描いて階上に向かっている。くらくらするのは、シャンデリアが眩しいせ
いではない。一《 》
 お疲れですかと金谷が椅子《いす》を勧めてくれたが、背もたれの透《す》かし模様の見事さに、座るどころ
か手を触れることさえできなかった。隅《 》から隅まで、美術品のように手が込んでいる。自分の
汚い手が触れていい場《 》所など、どこにもない。
 ステンドグラスの採光窓が、ベルベットのカーテンが、大理石のマントルピースが、自分を嘲笑《あざわら》
っているかのようで堪《たま》らない。
『まあ、何でしょ、あの汚い小《 》娘は』
『髪も服も、埃塗《まみ》れ!』
『ここは、お前のような下賎《げせん》の者が来る所ではなくってよ!』
『ほほほ』一《 》
『くすくす』一《 》
(お、仰《おっしゃ》るとおりです、全部誤解なんです)
 早く言わなければ。しかし、誤《 》解だとばれたらどうなるのかと考えると、恐ろしくて何も言えな
い。怒られる……ぐらいなら、まだいい。最《 》悪、不届き者としょっ引かれてしまうかも。
 こちらに非はないという発《 》想はできない。だって相手は、こんなお屋敷に住む“偉い人”なの
だ。黒い物だって白いことにできてしまう、神《 》のような存在なのだ……。
「まあまあ、可愛らしいお客《 》様ですこと」
 春《 》風のような声が、チヨの耳をくすぐった。
 廊下の角からその姿が現れた時、飾《 》られていた彫刻が動き出したのかと、思わず錯覚《さっかく》した。
「チヨ様、こちらは女中の絹《きぬ》です。御用がございましたら、何なりとお申し付け下さい」
(む、無理《 》です……)
 この人に、物《 》を命じるなんて。だって、女中だと説明されなかったら、てっきり奥様かお嬢様
だと思《 》っていただろう。そんな人なのだ。
 二十代前半か。しかし、纏う雰囲気は、実年齢の倍ぐらいの落ち着きを湛《たた》えている。
 長い睫毛《まつげ》に飾られたアーモンド型の瞳、富士の稜線《りょうせん》のような鼻梁《びりょう》、唇《くちびる》はやや肉が薄いが、そ
れがかえって、俗っぽい色気とは違う、神秘的な魅力を醸《かも》し出していた。
 この時代の女性としては、かなりの長《 》身だ。おかげで、おそらく外国の女中のお仕着せであ
ろう、独特の衣《 》装――黒いドレスと白いエプロンを組み合わせたようなもの――も違和感なく
着《 》こなしている。
(金谷さんといい、この人《 》といい……)
 使用人達も、この館に相応《ふさわ》しい人達ばかりだ。その中で、自分の姿だけが、なんとみすぼらし
く、周囲から浮《 》いていることか。
 などと思《 》っていたら。
「それでは、ご主人様にお知らせしてきます。絹、その間に、お客様のお支度《したく》を」
「お任せ下さい。さあ、お客様。お風呂が沸《わ》いていますから、どうぞ」
(え?)一《 》
 あれよあれよと言う間に、真っ白な陶器の浴槽《よくそう》に入れられ。
「洋《 》服は初めてかしら? ウフフ、これなんてどう?」
(え? え?)一《 》
 絹が見立ててくれた、藤《 》色のワンピースを着せられ。
「ほら、ご覧《 》になって。まるでお姫様みたい」
(えええええ!?)一《 》
 桜色の口紅を引《 》かれ、カメオのブローチまで付けさせられてしまう。
(あああ、こんなことまでしてもらって……)一《 》
 もう駄目だ、逮《 》捕だ、懲役だ、いや死刑だ。
「金谷さん、お客様の準備が整《 》いましたよ。ほうら、こんなにお綺麗になられて」
「お手数《 》おかけしました、ご主人様のお部屋はこちらです」
 表面に彫刻が施《ほどこ》された、一際厚そうなドアが、チヨの目には刑務所への入口に見えた。
 金谷の白い手袋が、軽《 》やかなノックを響かせる。
「ご主人様、お客《 》様をご案内しました」
(ひええ……)一《 》
 チヨは緊張のあまり、気《 》絶寸前。
 そして、ドアの向こうからの返《 》事に。
「おー、開《 》いてるぜー」
 ……チヨの緊張は、一瞬で霧散《むさん》した。
「…………」一《 》
 金谷の顔を見る。気のせいか、ついさっきまで完璧だった無表情が、微妙に歪《ゆが》んでいる。困
ったお方だ、と言いたげに。その横《 》では、絹がくくくと肩を震わせていた。
「……どうぞ」一《 》
「は、はい」一《 》

〜4〜

 部屋に入ってまず目に付いたのは、どっしりした造りの執《 》務机だった。その他の調度品も重
厚さを強調したデザインで、部屋の主の威厳《いげん》に、箔《はく》を付ける狙いがあるのだろうが。
 部屋の至る所に、塔のように本を積《 》み上げていては、あまり効果がないのではなかろうか。
「もう、ご主人様ったら。お申《 》し付け下されば、片付けましたのに」
「あ、あはは、つい夢《 》中になっちまってさ」
 照れ笑いしているのは、声から想《 》像した通りの――そして、声を聞くまでは全く想像しなかっ
た――人物《 》だった。
(まさか、こんなお若《 》い人だったなんて……)
 どう見ても、まだ二《 》十歳前だろう。ようやく、少年から青年に変わりつつある段階だ。
 きりりと吊り上った弓形の眉は中々凛々《りり》しいが、大きな澄み切った瞳や、頬骨の目立たない丸
い頬は、まだまだあどけなさが抜《 》けていない。
 若者らしい、均整の取れた体に纏う開襟《かいきん》シャツとズボンは、最高級の素材を使った一流の品で
は確かにあるのだが、着方があまりに適《 》当で……。
「ご紹介致します。こちらは、石《 》守家十七代目当主……」
 ……には、到底見えない彼は、金谷を遮《さえぎ》って自ら名乗った。教室に始めて入った転校生のよ
うに、元気良《 》く。
「石守栄太郎《えいたろう》だ、よろしくな!」
 今度こそ、金谷が誰の目にも明らかな溜息《ためいき》を吐く。
「……恐れながらご主人様、当主には威厳《 》というものも必要かと」
「へっ、そんなもん背負ってても、肩が凝《こ》るだけだぜ。現に親父なんか、しょっちゅう肩が痛い
肩が痛《 》いって……」
 上方《かみかた》落語のような主従のやり取りに呆然としているチヨに、ひそひそと絹が囁《ささや》く。
「そんなに緊《 》張しなくていいのよ。偉い人と言ったって、実態はあ〜んなものなんだから、ね?」
 石のように固まっていたチヨの全身に、再び血が巡《めぐ》り始める。
 改めて、三人を見る。金谷のお説教を、馬耳東風《ばじとうふう》と聞き流す栄太郎。それを、くすくす笑いなが
ら見物している絹《 》。
(本当だ。あたしと同《 》じ……)
 笑い、そしておそらく泣《 》きもする。
(人間《 》だわ)
「ほらほら、ご主人様。お客《 》様の自己紹介がまだですよ。金谷さんも、お説教はまたの機会に」
 絹の遠慮のない物言いに、二人は慌てて居住《いず》まいを正す。立場的には一番下のはずの彼女だ
が、精神的《 》には主人や上司よりも上らしい。
「た、田通チヨです。始《 》めまして」
 まだ若干、声は震えてはいたが、挨拶《あいさつ》はできる程度になっていた。
「ほ、本日はお招《 》き、ありがとうございます」
「ああ、石《 》守家へようこそ!」
 石《 》守家の若き当主――栄太郎は、にっと白い歯を見せて笑った。何の飾り気もない、自然な
笑顔。本当に、ごく普通の若《 》者だ。だが、考えてみれば、それはすごいことだ。
 こんなお屋敷の御曹司《おんぞうし》、小さい頃から甘やかされ放題で、我儘《わがまま》な子供のまま大人になってしま
っても無理はないだろうに。余《 》程親御さんの教育が良かったのか、それとも本人の素質か。
「あの、父《 》がお世話になったとか……」
「はは、逆《 》さ。世話になったのは、こっちの方だよ。ほら」
 さっきまで読んでいた本を、掲《かか》げてみせる。それは古めかしい和綴《わと》じ本で、文字も印刷ではな
く、毛筆による手《 》書きのようだった。
「あら、この本《 》……」
「ああ、見覚えあるか? 田通書店さんに譲《ゆず》ってもらったのさ」
 父が倉《 》庫の奥から見つけ出して、これであの方もお喜びになるだろうと言っていたのを覚え
ている。一《 》
「いや、助かったぜ。どうしても欲しかったんだけど、なかなか見つからなくてさ。おかげで、随分《ずいぶん》
研究も捗《はかど》ったよ」
「そうだったんですか……」一《 》
 懐《なつ》かしい品を目にして、チヨはようやく信じられた。
 自分が確かに、目の前の彼《 》に“招待”されたのだということを。
「だからさ、ほんの恩返しだよ。大した持《も》て成《な》しはできないけど、帝都が落ち着くまで、ゆっくりし
ていってくれよ」一《 》
「あ、ありがとうございます」一《 》
「腹減ってるだろ? すぐに飯《 》にしようぜ」
「ご期待下さい。今日は腕を振《 》るいましたよ」

〜5〜

 金谷と絹は、普段は使用人控《ひか》え室で食事しているらしいが、今日はチヨの歓迎会ということ
で、全員が真っ白なテーブルクロスが引かれた食《 》卓に並んだ。あまり使用人を甘やかしては、
などと金谷は呟《 》いていたが。
 並べられた料理は、どれもこれも、見たことも聞いたこともない御馳走《ごちそう》ばかりだった。
「こ、これは?」一《 》
「仔羊のお肉《 》に、ワインで作ったソオスをかけてあるの」
「うまいぜ〜、絹《 》さんの得意料理なんだ」
 慣《 》れないフォークとナイフを使って、恐る恐る口に入れると……。
「!」一《 》
 美味《うま》さのあまり気絶しそうになる、という貴重な体験をしたのだった。そんなチヨを見て、一同
――金谷以外――が楽しげな笑いを響《 》かせる。
 海亀のスープ、鰻《うなぎ》のパイ、デザートのプティング、どれも天上の美味だった。はしたないと思
いつつ、猛《 》然とがっついてしまう。ただでさえ、この数日間、ろくに食べていなかったのだ。
 ああ、美味《おい》しい。あまりに美味しくて……。
「え……!?」一《 》
 自分が涙を流《 》していることに気付いて、チヨはぎょっとする。
「いやだ、ごめんなさい、あたし、何《 》だか……何だか……」
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、拭《ぬぐ》っても拭っても、止まらない。
 そんなチヨを前に、石守家の人々は……誰《 》も驚かなかった。
 絹は、微笑《ほほえ》みを浮かべて。
 金谷は、相《 》変わらず無表情に。
 栄太郎は、ちょっとだけ格好《かっこう》付けて。
 けれど、三人とも同じ、優《 》しい目でチヨを見つめている。
「いいんだ、チヨ……分《 》かってる」
 一同を代《 》表して、栄太郎が口を開く。
「親父《 》さんのこと、本当に残念だった」
(お父《 》さん……)
 ああ、そうか。チヨはようやく気《 》付いた。
 自分が、父の死という現《 》実を、受け止められずにいたことを。
 ――実は、自分も、父のように家の下《 》敷きになり、とっくに死んでいるのではないか。
 そんな風に、生きる意志を放棄《ほうき》し、感情を麻痺《まひ》させることで、その痛みを誤魔化していたの
だ。一《 》
 けれど、今、数日ぶりに生《 》きる喜びを思い出して。
 自分がまだ生きていることを実《 》感して、そして父はもうこの世にいないことを痛感して。
 相反する想いが、涙になって溢《 》れ出したのだ。
「あのさ、気《 》持ち、分かるよ」
 え? と顔を上げる。栄太郎の声には、決《 》して薄っぺらな同情ではない、同じ痛みを知ってい
る者の、本物の共《 》感があった。
「変だと思《 》わなかったか? なんだって、俺みたいな若造が当主なのか」
 絹と金谷が、そっと目を伏《ふ》せる。
「……死んじまったんだよ。親《 》父もお袋も、五年前にな」
 思いも寄らなかった。こんなお屋《 》敷に、あらゆる災いから守られていそうな場所に暮らす彼
が、自分と同じ体《 》験をしているなんて。
 栄太郎は、寂《 》しげとも苦笑とも取れる、微妙な表情を浮かべている。
「全く、死者は勝手だよな……生者の事情なんか、お構いなしで逝《い》っちまう。てめえは神様だか
閻魔《えんま》様だかが、面倒見てくれるからいいかもしれねーけど」
 随分と不遜《ふそん》な、死者への冒涜《ぼうとく》にもなり兼ねない言い草だったが。
「残された方《 》はどうすりゃいいんだよ、なあ?」
 一転、途方《とほう》に暮れたような口調が、チヨの心を激しく共振《きょうしん》させる。
 どうすりゃいいんだよ……そう、それだ、今《 》の、この気持ち。
 お父《 》さん、あたしどうしたらいいの――。
 ――この、痛《 》みを。
「本当《 》ですね……どうしたら、いいんでしょう……?」
 栄太郎は乗《 》り越えたのか。その方法を知っているのか。ならば、ぜひ教えて欲しい。
「……分《 》からない」
 そう言われても、チヨは落胆《らくたん》しなかった。気休めを言わないからこそ、信じられる。この人は確
かに、この痛《 》みを知っていると。
(この人は、あたしを分《 》かってくれている)
「未だに、確信《 》は持てないんだ。自分がちゃんと、両親の死を乗り越えたのかどうか……でも、
まあ、こうしてそれなりにやれてるのは、金《 》谷と絹さんがいてくれるおかげだな」
 勿体無いお言葉にございます、等と恐縮《きょうしゅく》するでもなく、金谷と絹は涼しい顔だった。それを見
て、チヨにも分かった。彼《 》らと栄太郎は、単なる主従ではなく、家族にも等しい関係なのだと。 
 そして。一《 》
「だからさ、今度は俺が、誰《 》かの力にならなきゃいけないと思うんだ。昔の俺と、同じ痛みを背
負った誰《 》かの」
 チヨとも、同じ関係を築きたいと、彼《 》は言ってくれているのだ。
 たとえ短い時《 》間でも、家族でいようと。
「チヨ、君を迎えるのは、半分は親父さんの恩に報《むく》いるためだけど、もう半分は……」
 君のため、とはあえて言《 》わずに。
「……俺の勝手だよ。だから、遠《 》慮はいらない。今日から、ここを自宅だと思ってくれよ、な? 
金谷も絹さんも、そのつもりで頼《 》むぜ」
「……畏《かしこ》まりました」
「もちろんですよ。楽《 》しくやっていきましょうね」
「はい……はい……!」一《 》
 ここに来て良かった、心《 》からそう思った。
 まだ、胸は痛んでいる。しかし、きっと乗《 》り越えられる。ここでなら。
シャンデリアのきらめきが、涙で滲《にじ》む。もう、豪華な内装を見ても、嘲笑われているようには感
じない。一《 》
 全てが光り輝いて、自分を励《はげ》ましてくれているかのようだった。
は一《 》
 こうして石《 》守邸は、新たな住人を迎えたのだった。
 そんな様子を、それは村《 》外れの丘から、無言で見下ろしている。
 今はまだ、その黒い面《おもて》に何も映すこと無く。

〜6〜

「おはようございます、栄《 》太郎さん」
「ふわああ、おう、チヨは早《 》起きだな……うわっ、どうしたんだよ、その格好?」
 チヨを一目見るなり、栄《 》太郎は目を丸くする。無理もない。絹と同じ、女中のお仕着せ姿だっ
たのだ。一《 》
「に、似《 》合いませんか?」
「い、いや、そんなことねーけど……」一《 》
「ウフフ、お世話になりっ放しじゃ悪《 》いから、私の仕事を手伝いたいんですって」
 朝食の支度をしながら、絹が悪戯《いたずら》っぽく笑う。チヨが着ているのは、彼女のお下がりだろう。
「お客様にそんなことをさせる訳《 》には……」
 新聞にアイロンを掛けていた――こうして乾《 》かさないと、インクで手が汚れるのだ――金谷の
重々しい声に、やっぱり出すぎた真似だったろうかと一瞬挫《くじ》けかけるが、ぎゅっと拳を握り締め
て、自分を奮《ふる》い立たせる。
「栄太郎さん、仰《 》たでしょう? ここを、自分の家だと思ってくれって。自分の家なんだから、家
事をするのは当たり前《 》ですよ」
「なるほど、それもそうか」一《 》
 栄太郎は苦笑いを浮かべ、使用人たちと目配《めくば》せを交《か》わす。それだけで、意思の疎通《そつう》には十分
なのだった。一《 》
『その方がいいですよ。何もしなくていいでは、かえって気疲《 》れします』
『止むを得ません。動いている方が、チヨ様もお気持ちが紛《まぎ》れるでしょうし』
『そうだな……』一《 》
「じゃあ、頼《 》もうかな」
「はい!」一《 》
「あ、絹さんに苛《いじ》められたら、言いつけてくれていいからな〜」
「は、はあ」一《 》
「まあ、失敬な、そんなことしませんよ。私達、もう実《 》の姉妹も同然ですもの。ねえ?」
「そ、そうですね」一《 》
 こうしてチヨは、客人でありながら、女中の仕事もするという、傍《はた》から見れば奇妙な立場に身
を置《 》くことになった。
 朝食を済ませた後、早速《さっそく》、絹と共に屋敷の掃除にかかる。ガラス窓や絨毯など、 家事には慣
れているチヨでも、扱いが分からない物《 》も多い。しかし、絹が丁寧に教えてくれたので、すぐに
飲み込《 》めた。 
 それにしても。一《 》
(ひ、広《 》い)
 とても、一日では終わらない。案《あん》の定《じょう》、一日ごとに掃除する場所を決めて、一週間で屋敷を
一回りするようにしているらしい。客《 》室など、普段は使わない部屋も多いので、それで十分ら
しいが。一《 》
 いや、それにしたって、洗《 》濯や食事の支度など、他の仕事もあるだろうに、よく彼女一人でや
れているものだ。一《 》
 掃除の合間に、他《 》の二人の日常も目にした。
 金谷は、栄太郎の身支度を手伝い終えると――靴紐《くつひも》くらい自分で結べると彼は嫌がっていた
が――各種請求書や銀行手帳をまとめ、てきぱきと家《 》計簿を付け始める。電話が鳴ると、真
っ先に受話器を取り、丁寧に対応する。まさに縦横無尽《じゅうおうむじん》だ。
 執事の仕事がどんなものか、チヨは具《 》体的には良く知らなかったのだが、見ての通り、その 内容は多岐《 》に渡り、とても一言では言えない。あえて纏《まと》めるなら、主人が本業に集中できるよう、
身の回りの世話をし、代理として事務や接《 》客を行うこと、なのだが。
「ご主人様、次回の日《 》曜のミサについてですが……」
「い、今、ちょっと忙《 》しくてさ〜。金谷が代わってくれよ」
 そそくさと書《 》斎に逃げ込んでしまう栄太郎に、やれやれと肩を落とす金谷。優秀な彼は、主人
の本《 》職である教会の仕事まで肩代わりしているらしい。
「目下《もっか》のところ、ご主人様は研究に夢中ね。おかげで、教会のことは金谷さんに任せっ放し」
 くすくす笑っていた絹が、ふと笑みを曇《くも》らせる。
「……本当に、お父《 》様にそっくり」
 彼女の視線の先にある物《 》に気付いて、チヨははっとする。
 百号程もある、大きな油絵《 》だった。二人の人物が描かれている。椅子に腰掛けた司祭の正
装姿の紳士と、その傍《かたわ》らに立つイブニングドレス姿の婦人。二人とも、穏やかな眼差《まなざ》しで屋敷を
見守《 》っている。
「あの絵《 》……」
「ええ……ご主人様のご両親、先代当主の栄三《えいぞう》様と、雪子《ゆきこ》奥様よ」
 絹に確認するまでもなく、チヨは確信していた。婦人の面差《おもざ》しには、栄太郎と重なる部分があっ
たから。一《 》
「お父様も、何か学《 》問を?」
「ええ、古い宗教とか呪術とかいったものを研究なさって……本も沢山《たくさん》書かれていて、その道で
は有《 》名だったらしいわよ」
「もしかして、栄《 》太郎さんの研究も……?」
 書斎で塔を成していた書《 》物の題名を思い出す。古い宗教や呪術……確かに、そういった関
係のものが多《 》かった気がする。
「そうね……お父《 》様のお背中を、追っていらっしゃるのかもしれないわね」
 それが分《 》かっているからだろうか。金谷も強くは言わないらしい。
「お二人は、どうしてお亡《 》くなりに……?」
「森で、熊に襲《 》われたらしくてね……」
 栄三の方は、未だに遺《 》体が見つからないのだという。こんなお屋敷に住む人が、そんな死に
方をするとは、誰が予《 》想しただろう。しかし、それを言うなら、震災で死んだ父も同様か。死は
本当に気まぐれで、そして無《 》慈悲だ。
(五年《 》前ということは……)
 当時、栄《 》太郎は十代前半だろう。今のチヨよりも幼かったのだ。そんな年頃の子が、死の不
条理さに受けた衝撃は、察《 》して余りある。
(どうすれば、乗り越《 》えられるのかしら……そんな悲しみを)
 それは、彼《 》女自身への問いかけでもある。
 父の死を乗《 》り越えるために、自分はどうすればいいのだろう?

〜7〜

 午後からは、栄《 》太郎に連れられて外に出た。村を案内すると共に、チヨを村人たちに紹介し
たいとのことだった。チヨを屋敷の中に保《 》護するのではなく、この村で“生活”させてやりたい
と、栄《 》太郎は考えているのだろう。彼の心遣いが有難かった。
 栄《 》太郎の案内で、村人たちの暮らしを見せてもらう。佐羽戸村は外見だけでなく、その営《いとな》みも
西洋式《 》だった。
 風車で小麦を引き、パンを焼く。家畜の乳からバターやチーズを作り、毛を紡《つむ》いで糸を作る。
果樹園の葡萄《ぶどう》は樽《たる》に詰められ、ワインになる。
 以前は自分達用に作っているだけだったが、明治の中頃ぐらいから西洋文化を尊《とうと》ぶ富裕層
に飛ぶように売れるようになり、これが石守家の富の礎《いしずえ》になったのだ。
(本当に不《 》思議な村……)
 改めて、そう思わずにはいられない。まるで日《 》本の中でここだけが、存在する時空間を異《こと》
にしているかのようだ。一《 》
 村人たちは、栄太郎の姿を見かけると、皆《 》笑みを浮かべ『坊ちゃん、こんにちは』『いい天気
ですねえ』と、口々に挨《 》拶する。
 昨日、車に頭を下げる村人たちを見て、大名行列に平伏《ひれふ》す農民のようだと思った。しかし、こう
して彼らを間近に見て、そのイメージは違《 》うことが分かった。確かに恭しい態度ではあるが、殿
様に対するような、恐れ混じりのそれではない。もっと親《 》しく、明け透けな感じだ。
 栄太郎も屈託《くったく》のない笑顔で『腰の調子はどうだ?』『今度曾孫《ひまご》が生まれるんだって?』と応じて
いる――村人たちの顔はおろか、その付《 》加情報も全部暗記しているらしい。
 それを見て、チヨは理《 》解した。金谷や絹とそうであるように。
「栄太郎さんと村《 》の人たち、まるで家族みたいですね」
「まあな。元が、隠れ切支丹《 》の村だからかもな。村の結束は、とても固いんだ」
 団結しなければ、生き残れない。そんな、過酷な歴史の賜物《たまもの》なのだろう。もっとも、強い結束
は、強い排他性と、しばしば表裏《ひょうり》一体であったりもするが……。
「ところで坊《 》ちゃん、そちらのお嬢さんは?」
「ああ、恩人の娘《 》さんで……」
 栄太郎が紹《 》介すると、すぐにチヨにも同じ笑みを向けてくれる。佐羽戸へようこそ、変わった
村で驚かれたでしょうと歓《 》迎し、女性達など、彼女の身の上を聞いて、涙を流して同情してくれ
た。一《 》
「ほっとしました。隠れ切支丹の村だから、余所者《よそもの》は警戒されるかと思っていましたけど……」
「まさか。聖書にも書いてあるぜ。“汝《なんじ》の隣人を愛せよ”って。この村で暮らす以上、チヨだって
隣人《 》さ」
 佐羽戸村。風変わりな、しかし暖《 》かな村。
(ああ、きっと)一《 》
 栄太郎の気性は、この村によって育《はぐく》まれたに違いない。村を包む、穏やかで大らかな空気
は、彼の印象とぴったり重《 》なるから。
 村を一通り回り、最後にやって来たのは教《 》会だった。村の中では、石守邸に次いで大きな建
物《 》だろう。
 ステンドグラスから差し込む光、頭上に十字架を掲げる祭壇《さいだん》、重厚な音色を響かせるパイプオ
ルガン。ほぼ無宗教のチヨでさえ、思わず跪《ひざまず》きたくなるような、荘厳《そうごん》な雰囲気だ。
 出迎えてくれた助《 》祭――司祭の手伝いのような人――の老人が、栄太郎に笑いかける。
「坊ちゃん、金谷《 》さんがぼやいとりましたよ。そろそろ、教会の仕事に本腰を入れて欲しいなぁ
って」一《 》
「あ、あはは、まあ、その内《 》な」
 誤魔化《ごまか》し笑いを浮かべていた栄太郎だったが、ふと声を低くして囁く。隣のチヨにしか聞こえな
いように。一《 》
「金谷には悪いけど、正直あんまり興《 》味ないんだよなぁ。司祭の仕事って」
「そ、そうなんですか?」一《 》
「ああ、どうも信仰って奴《 》がピンと来なくてさ。おかげでこの通り、司祭の家に生まれたから司祭
をしてるだけの、お飾り司《 》祭になっちまってる訳だよ」
 そういうものかもしれない。実《 》家が寺だからという理由だけで、僧侶になる人も多いらしいし
……その程度に考《 》えてしまった。栄太郎の言い方が冗談めいていたせいで。もう少し深く考え
れば、十分推測《 》できたはずなのに。
 なぜ、彼が“信仰《 》って奴がピンと来ない”のか。
「そう言えば、坊《 》ちゃん。そろそろ祭の準備を始めるんじゃが、例年通りでいいかのう」
「ど、どうかなぁ、金《 》谷に聞いておくよ」
 全くしょうがない司《 》祭だよなぁと、照れ笑いを浮かべていた栄太郎は、ふと遠い目になる。
「そうか、もう祭《 》りの時期か」
「お祭《 》があるんですか?」
「ああ、神様に秋の実りを感謝する、いわゆる収穫《しゅうかく》祭の一種だな」
 キリスト教の祭と、土着の自然信仰が融合《ゆうごう》して生まれた、この村独自の祭らしい。村人全員が
参加する、大規《 》模なものだそうだ。
 そこで、栄太郎はぱっと顔《 》を輝かせる。
「そうだ、チヨも出てみないか? 村に溶《 》け込むいい機会だぜ」
「あ、あたしもですか? 大《 》丈夫かしら……」
 宗教色の強い厳粛《げんしゅく》な祭のようだし、不慣れな自分などが加わったら、場を乱してしまうのでない
か。チヨは躊躇《ちゅうちょ》したが、栄太郎はどんと胸を叩き。
「平気平気、何も難《 》しいことはねえよ。俺が付いていてやるしさ」
 俺が付いていてやる、その言葉に、チヨはどきりと胸を弾《はず》ませた。
(栄太郎《 》さんと一緒に、お祭に……)
 去年の、隅田川の夏祭りを思《 》い出す。友人が、気になっていた男性に、一緒に行こうと誘わ
れたと喜んでいた。祭、それは多くの人目に晒《さらさ》される晴れの日であり、そこへ男女が一緒に行
くというのは、言わば……宣《 》言を意味したのだ。
(馬鹿《 》ね、あたしったら。考えすぎよ)
 栄太郎《 》に、そんなつもりがある訳ない。彼はあんな豪邸を構える名家の当主、対して自分は
何だ? 大して儲《もう》けもない小さな書店の娘……ですら、すでにない。ただの孤児ではないか。
彼はただ、親《 》切で言ってくれているだけだ。そうに決まってる……。

〜8〜

 屋敷に帰る前《 》に、寄りたい所があると栄太郎に言われ、連れられて来たのは、村外れの森
だった。この付《 》近には人家もなく、ひっそりとしている。
 彼は、きょろきょろと周囲の様子を窺《うかが》っている。どうしたんですかと訊くと、シッと口元に人差し
指を立てて、ひそひそと囁《 》く。
「ここから先は、聖域《せいいき》だからな。司祭しか入っちゃいけないんだ」
「聖域《 》……」
 聖域、神のおわす領域。チヨも神社の裏山などが、注連縄《しめなわ》で閉ざされているのを見たことがあ
る。一《 》
「じゃあ、あたしはここで……」一《 》
「いいっていいって、チヨも来《 》いよ」
「ええっ、い、いいんですか?」一《 》
 幼心にも、みだりに立《 》ち入ってはいけないと感じた、あの感覚を思い出す。それは日本人の
遺伝子に刻まれた、根《 》源的なものだろう。
 だが、栄太《 》郎は『ちょっとぐらいなら、神様も大目に見てくれるさ』とあっけらかんとしたものだ
った。キリスト教の神様は、随分と寛容《かんよう》であられるらしい。
 彼に続いて、おっかなびっくり聖域の森に入る。針葉樹の太く真っ直ぐな幹《 》が整然と並ぶ様
は、どこか神殿の柱に似ていて、人《 》智を超えた作用が、この森を作り上げたのではないか、そ
んな幻想を抱《いだ》かせる。
 道はかなりの急勾配《こうばい》だった。どうやらこの森は、斜面に沿って広がっているらしい。生粋《きっすい》の帝都
っ子で、山歩きに慣れていないチヨが青《 》色吐息でいると、当然の義務のように栄太郎が手を引
いてくれた。一《 》
(あ、あわわ)一《 》
 男性の硬い手の感触に、鼓動《こどう》が早まる。掌《てのひら》の血管を通して伝わってしまうのではないかと思
うと、気が気《 》ではない。
「と、ところで、何《 》をしに行くんですか?」
 せめて、彼の注意を逸《そ》らさなくてはと話しかける。
「ああ、どうしても、確《 》かめたいことがあってさ。チヨにも、ぜひ見てもらいたいし。ちょっとしたモ
ンだぜ、あれは」一《 》
 栄太郎は、何やら得《 》意気だ。友達に“秘密の場所”を教える子供のように。
 徐々に木々が疎《まばら》らになり、やがて開けた場所に出る。そこは、村を見下ろす小高い丘だっ
た。うねる様な山と谷の稜《 》線が描きだす展望は絶景だったが、しかしチヨは全く目に入らなか
った。一《 》
 広場の中心に聳《そび》えるそれが、他の一切を無視せしめる程の存在感を放っていたからだ。
「こ、これは……」一《 》
 高さ二丈《 》弱(約五メートル)、差し渡しはその約半分の、完全な八角柱。
 に、空《 》間が黒く抜け落ちている。
 神という画《 》家が、そこだけ創造の筆を入れ忘れてしまったかのように。
(いいえ、そうじゃない……)一《 》
 チヨは目を瞬《またた》いて、錯覚を振り払う。
 あれは、黒《 》い、実体ある物体だ。
 にも関わらず、あのように錯覚してしまったのだ。その黒《 》さの、あまりの深みに。
「石碑《せきひ》……?」
 ようやく、その正《 》体に思い至る。
「へへ、驚《 》いたか?」
「え、ええ……」一《 》
 緑の息吹《いぶき》満ちる森の中に、突如として現れたその姿は、この上なく異様だった。
 材質は石炭……それとも、黒溶岩か。いや、間近で見ると、つるりとしていて、僅《わず》かに透明感
がある。非常に色の濃《こ》い黒水晶、と言うのが一番近いかもしれない。
 その表面には、うねうねとした線《 》が、不規則に刻まれている。そうかと思えば、太陽や角のあ
る動物を思わせる形《 》が、不意に現れたり……文字、そして文章、なのだろうか、これは?
「言い伝えによれば、村のご先祖が、この土地に移り住んだ時に建立《こんりゅう》したらしい。確か、禁教令
の直後だから……ざっと、三百年かそこらは経《た》っているはずだな」
 それ以来、この石《 》碑は村の信仰の要として、大切に守られてきた。石守家の家名はそもそ
も、この“石”碑を“守”る役目を担《にな》うことに由来するらしい。
「何のために、建《 》てられたんでしょう……?」
「それが、間《 》抜けなことに……よく分からないんだよな」
 長い年月を経《へ》る間に、答えを知る者はいなくなってしまったらしい。
 そもそも、この文《 》字が何語なのかも分からない。少なくとも、漢字ではない。宣教師の母国語
という可能性も考《 》えられたが、ヨーロッパのどこにも、こんな文字を使う言語はなかった。
「ひょっとしたら、実《 》在の言語じゃなく、暗号のようなものかもしれない。刻まれているのは、キリ
スト教の教えか何《 》かで、万が一、幕府に見られても言い逃れできるようにしてあるんだ……と
いうのが、親父の説《 》なんだけど」
 そこで言葉を切り、栄太郎が浮かべた表情は、悪戯《 》を企んでいる子供のようだった。
「俺の考《 》えは、ちょっと違うんだよな〜」
「そうなんですか?」一《 》
「ああ、それを証明するのが、今やってる研《 》究なのさ。へへ、見てろよ、もうすぐ、親父の鼻を
明《 》かしてやるぜ」
 表情とは裏腹に、彼の瞳は直向《ひたむき》だった。それを見て、チヨはさっと光が差すのを感じた。眼には
見えない、希《 》望の光だ。
(そうだったんだ。栄《 》太郎さんは……)
 彼が学問を通して、父の背を追っていることは知っていた。だが、それは、父の背に寄り添《そ》う
ためなどではなかったのだ。一《 》
 乗り越えるためだ。父の背を、悲しみ諸共《もろとも》。
(もう見つけて、歩き始《 》めていたんだ 自分の道を)
 石守家が代々守り続けてきた、石《 》碑に関する考察……なるほど、ちょうどいい研究テーマか
もしれない。一《 》
(上手《 》くいくといいですね)
 あの和綴じ本を開き、何《 》やら石碑と熱心に見比べている彼に、心の中で声援を送る。彼が父
を越え、悲しみを越える姿を見られれば、きっと、自分も励《 》みになるだろうから。
(あたしも、がんばらなくちゃ)一《 》
 その時《 》。
 ぬっと、影がチヨを覆《おお》った。
 はっと顔を上げると、自分がいつの間《 》にか、石碑が落とす影の中にいることに気付く。まる
で、石碑が自分に圧《の》し掛《か》かろうとしているように思え、チヨは慌てて影から抜け出した。
 こうして、改めて見《 》てみると。
(……変な物《 》だなぁ)
 村の人たちには悪《 》いが、そう思わずにはいられない。キリスト教の教えはよく知らないが、少 なくとも、佐羽戸村の長閑《のどか》な空気と、この真っ黒な石碑は、まるでイメージが繋《つな》がらない。じっと見
つめていると、違和感《いわかん》のあまり頭がぐらぐらしてくる……。
「おう、お待《 》たせ。そろそろ帰……」
 振り返った栄太郎が、はっと表情を強張《こわば》らせる。
「チヨ、どうしたんだ、その手《 》!?」
「え?」一《 》
 指摘されて、初めて気が付《 》く。
 自分の右手の甲から、血が滴《したた》っていることに。
 見ると、ごく浅《 》くだが、切り傷が走っている。
「葉っぱか何《 》かで切ったのかしら? た、大したことないですよ」
「いや、黴菌《ばいきん》でも入ったら大変だ。とりあえず、ハンケチで……ああ、くそ、持ってこなかった。
じゃあ、これで」一《 》
 栄太郎は、躊躇うことなくシャツの裾《すそ》を引き千切る。包帯代わりにするつもりだろう。
「あ、あわわ、すいません、そんな上等な生地《きじ》を……」
「いいって、気《 》にすんなよ」
 そして、彼はシャツの切れ端《はし》を、チヨの手の甲に……。
 …………。一《 》
 ………………?一《 》
(……あれ?)一《 》
 いつまで経っても、巻《 》いてくれない。
(栄太郎《 》さん……?)
 彼は、チヨの切《 》り傷を、食い入るように見つめている。
 いや、そこから滴《 》る、真っ赤な血を。
 まるで、時が止《 》まってしまったかのようだった。そんな風に錯覚するぐらい、栄太郎は動かな
い。チヨも動けない。ただ、じわじわと溢《 》れ出す血のみが、時を刻んで――。
は一《 》
 夜の闇よりもなお黒とはあらゆる色を内《 》包するとても豊潤な完璧な黒が解れ無限の色彩が
溢れきらきらくるくる人々は手に手に松《 》明色鮮やかな衣装母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な
母さんは真っ赤な母さんは真っ赤な母《 》さんは真っ赤な母さんは真っ赤な……!
は一《 》
 沈黙は、不《 》意に破られた。
「なあ、チヨ……」一《 》
「は、はい?」一《 》
 チヨはどきりとする。だって、栄太郎の声は、夜《 》闇に紛れて、秘密を打ち明けるようなそれだ
ったから。一《 》
(え、栄太《 》郎さん、何を……)
 だが、彼女が何を予想しようと、それは尽《ことごく》く外れたに違いない。
は一《 》
君なら、きっと似《 》合うぜ……真っ赤なドレス
は一《 》
「……………………え?」一《 》
 何を言われたのか、チヨは即《 》座には理解できなかった。
 あまりにも、脈絡《みゃくらく》が無さ過ぎて。
 栄太郎の顔は、逆《 》光になってよく見えないが、口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
 その背後から、あの黒《 》い石碑が、無言でチヨを見下ろして……。
「あ、ああ、ごめん、ぼーっとしちまって」一《 》
 はっと我に返り、手当てを再開する。研究で夜更《よふ》かしし過ぎたかな、と笑いながら。その様子
は、すでにいつもの彼《 》だった。
 ……では、さっきまでの彼《 》は?
「あの、栄太郎さん、赤《 》いドレスって?」
「……、ああ、祭《 》の衣装なんだ」
 一拍《いっぱく》の間があったことに、チヨは気付かなかった。
「そう言えば、母さんが着《 》てた奴があったな。貸してやるから、祭では、ぜひ着てみてくれよ」
「い、いいんですか?」一《 》
「ああ、もちろん……」一《 》
 再《 》び――。
 ――栄《 》太郎の口元に、あの笑みが浮かぶ。
「……母《 》さんも、きっと喜ぶよ」

〜9〜

(よし、きれいになったわ)一《 》
 柔らかい布で、ガラス窓を丁寧に磨《みが》く。埃が落ちると、差し込む日差しを反射してきらきらと輝
きだし、チヨは充実した気《 》分になる。あたかも、綺麗にしてくれてありがとうと、屋敷に感謝され
ているかのようで。一《 》
 最初に見た時は、まるで舞台の大道具のように、現実味がなかったこの屋敷。毎日、丹精《たんせい》込め
て掃除してきたおかげか、ようやく実《 》感できるようになってきた。自分は確かに、ここで暮らして
いる。生《 》きているのだと。
 生《 》きているという実感。
 今なら分かる。普段は無意識にしか感じていないから、何かの拍子《ひょうし》に見失ってしまうと、取り戻
すのが難《 》しい。
 取り戻《 》せたのは。
(石守家《 》のみなさんのおかげだわ……本当に)
 彼女が石守家《 》に迎えられてから、すでに一週間が過ぎていた。ここでの暮らしにも、大分慣
れてきた。仕事《 》のことだけではない。栄太郎はもちろん、使用人の二人とも、もうすっかり打ち
解《 》けていた。
「チヨちゃん、一休みしてお茶《 》にしましょうか」
「あ、はい」一《 》
 もう実の姉妹も同然、などとお道化《どけ》ていた絹。実際、同性の話し相手ができたのが嬉しかった のだろう。仕事の合間によく、化粧《けしょう》や服飾など女同士の会話で盛り上がり、今や栄太郎が嫉妬《しっと》す
るぐらいの仲良《 》しだ。
「金谷《 》さんもどうですか」
「いえ、使用人ごときが、お客様と相席など。絹も、あまり馴《な》れ馴れしくしては……」
 彼のことも、もう分かっている。相《 》変わらず口数は少ないし、いざ口を開けば固いことばかり
だが、あくまで執事として一《 》応言っているだけで、本当は人情がよく分かっている人だと。
「あら、お一《 》人じゃ退屈でしょうから、お付き合いして差し上げるんですよ。これも使用人の務め
ですよ」一《 》
 すかさず、絹が言い包《くる》める。金谷は二、三度口をぱくぱくさせるも、すぐに折れて席に着く。こ
ういうのが、いつものパターンらしい。面《 》倒臭い人でしょ? と絹に目で訴えられ、チヨは苦笑
で応える。一《 》
 柔らかい日《 》差しが差し込むサンルームで、紅茶のカップを傾け合う。しばらく、栄太郎の昔の
話で盛り上がった。よく私のスカアトを捲《まく》ろうとしては、奥様に叱られてねえ等と絹が笑い、金
谷が慌てて止《 》める。
「絹さんは、栄太郎《 》さんが小さい頃からこちらに?」
「ええ、先のご主人様《 》と、奥様が亡くなる一年ぐらい前からだから……ざっと六年前からお世話
になってる計算《 》ね」
 日本の女中は、若い女性の花《 》嫁修業代わりという面が多分にあり、雇用期間はせいぜい
一、二年であることが多かった。六《 》年というのは、かなり長い部類であろう。
(どうして、お嫁《 》に行かないのかしら……?)
 この人なら、さぞ引く手数多《あまた》だろうに。
「金谷《 》さんはいつから?」
「ご主人様《 》がお生まれになる前からです」
 平然と言《 》われ、チヨは絶句する。
「元々は、奥《 》様のご実家にお仕えしていたんですよね?」
「はい、奥《 》様のお供で石守家に入って、十数年……奥様のご実家にいた頃も含めれば、もうか
れこれ、二《 》十年になりますか」
 まさに、生涯を栄太郎の一族に捧《ささ》げていると言えよう。おかげで婚期を逃しちゃって、未だに
独身よと絹は笑う。しかし、後悔は微塵《みじん》もないのだろうと、チヨは思う。
 今なら分かる。血縁ばかりが、家《 》族ではない。絹が嫁に行かないのも、似た理由かもしれな
い。一《 》
「ご主人様に、お祭に誘《 》われたんですって?」
「あ、はい、村に溶《 》け込む、ちょうどいい機会だからって……」
 サンルームの大きな窓《 》からは、広大な庭が望める。自然を再現する日本式庭園とは対照的
な、左右対称の西洋式庭園だ。花壇には、糸屑のような繊細《 》な葉に、淡い桃色の花弁を持つ花
が、風に揺《 》れている。
「ああ、コスモスが……あれが咲《 》き始めると、今年もお祭の季節だなって実感するわ」
「きれいなお花《 》ですね」
「ええ、奥様がお好きだった花《 》でね。五年前のあの日も、きれいに咲いて……」
 かちゃん。一《 》
 金谷がカップを置《 》く音のせいで、後半はよく聞き取れなかった。
「え?」一《 》
「う、ううん、何《 》でもないの。ところで、お祭に出るなら、衣装を用意しなくちゃね」
「そうでした。村《 》の仕立屋に注文しましょう」
「あ、それなら……」一《 》
 そう言《 》われて、チヨは思い出した。
「栄太郎《 》さんが、お母様が使っていた物を貸して下さるそうで……」
『君なら、きっと似《 》合うぜ……』
「真っ赤《 》なドレスなんですよね?」
 そう言った瞬《 》間。
は一《 》
ぴしっっっっ。
は一《 》
 ――と。一《 》
 空気が凍りつく音《 》を、チヨは確かに聞いた。
(え?)一《 》
 絹の動《 》きが、止まっている。
 金谷の動《 》きも、止まっている。
 ティーカップを手にしたまま、ぴくりとも動《 》かない。
 二人の様《 》子には、覚えがあった。そう、チヨの手から流れる血を、時が止まったかのように凝
視し続ける栄太郎《 》。
 あの時の彼《 》に、そっくりだ。
 さっきまでの賑《にぎ》わいが嘘のように、サンルームは静まり返っている。
「あ、あの……?」一《 》
 口を開きかけたチヨは、しかし喉《のど》が引き攣《つ》って何も言えなくなった。
「赤《 》い……?」
 ぐりっ。一《 》
「ドレス……?」一《 》
 ぐりりっ。一《 》
 と、眼球の動《 》きだけで、二人に視線を合わせられて。
「ご主人様《 》が……?」
「そう、仰《 》ったのですか……?」
 二人の視線は、ぴたりとチヨに照《 》準を合わせている。あたかも、暗殺者の銃口のように。そ
れが呪縛となって、チヨに視線を逸《そ》らすことを許さない。答えをはぐらかすことを許さない。
 ――ええ、そうですよ。一《 》
 その一言《 》が、しかしなぜか出てこない。
 だって、今の二人は、まるで別《 》人のようで、反応が全く予想できなくて。
(こ、この人達《 》は……誰?)
 何を馬鹿なことを、という理《 》性の抗議は、あまりに弱々しかった。
 知らない、こんな人達《 》は知らない。どこへ行ってしまったのだ。自分のよく知る絹と金谷は。
「奥様《 》の……?」
「赤《 》いドレスを……?」
 お互いの視線を絡《から》めたまま、ぴくりとも動かない三人。それはまるで、一昔前、英国《イギリス》で流行《はや》った
という、交霊術の実《 》験のようだった。
 得体《えたい》の知れないものが、絹と金谷に取り憑《つ》いて……。
(チヨちゃん?)一《 》
(チヨ様《 》)
 二人が、視線だけで問《 》いかける。
(チヨちゃん?)一《 》
(チヨ様《 》)
 繰《く》り返し、繰り返し。
(チヨちゃん?)一《 》
(チヨ様《 》)
 答《 》えるまで、何回でも――。
(チヨちゃん?)(チヨ様《 》)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ
様)(チヨちゃん?)(チヨ様《 》)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)
(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様《 》)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃ
ん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様《 》)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨ
ちゃん?)(チヨ様《 》)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)
(チヨちゃん?)(チヨ様《 》)(チヨちゃん?)(チヨ様)(チヨちゃん?)(チヨ様)
は一《 》
( ( 仰《 》 っ た の か 、あ の 方 が ? ) )
は一《 》
「あ〜、喉渇《かわ》いた〜。お、ちょうどいいや、俺にもくれよ」
 階段の上から投げかけられた、栄太郎の暢気《のんき》な声が、場の空気を塗り替える。
 異常から、日《 》常へ。
「それはいいわね! チヨちゃんなら、きっと似《 》合うわよ」
「畏《 》まりました。後ほど探しておきましょう」
「え?」一《 》
 一瞬、二人《 》が何を言っているのか、チヨは分からなかった。
 何のことはない。会《 》話の続きをしているのだ。
 そう、空気が凍《 》りつく前の会話を――何事もなかったかのように。
「あ、俺、ジャムで飲《 》みたいな」
「ウフフ、ご主人様ったら甘《 》党なんだから」
 サンルームに、賑わいが戻《 》ってくる。
 絹も、金谷も、戻《 》もかも、すっかり元通りだ。
 あの、白昼夢のような空《 》白の時間を、チヨの記憶にだけ残して。
「ところで、何の話《 》してたんだ?」
「駄目駄目、女同《 》士の話ですから、殿方はご遠慮願いますよ」
「ちぇー、俺だけ除《の》け者にしやがってよぅ。なあ、チヨ、教えてくれよ〜」
「た、たいしたことじゃないですよ」一《 》
(何《 》だったのかしら、あれは……)
 いくら考えても、しかし分《 》かるはずもなく。
 結局、何かの気のせいだったのだという、一番安直な解釈《かいしゃく》に落ち着くことにした。
は一《 》
その夜《 》。
「ええ、きっと似《 》合うわよ。チヨちゃんなら……」
 絹は使用人用浴室――そんなものまで、この屋敷にはある――で、陶器の浴槽に浸《つか》かりな
がら、呟《 》いていた。
 ざばあと浴槽から立ち上がり、鏡《 》の前に立つ。
 豊かな胸、引き締まった腰、すらりとした手足、ギリシャの女神像のような肢体《したい》が、湯で桜色に
染まる様は、この世のものとも思えぬ風情《ふぜい》だった。
 しかし、絹はそんな己の肉体を誇《 》るでもなく、無表情に鏡を見つめ……。
 ずぶり。一《 》
 下腹部の、茂みに隠された割れ目に、細長い指を潜《もぐ》り込ませる。
「汚《 》れてさえいなければ……」
 ずぶりっ、ずぶりっ、ずぶりっ、絶え間なく指を出し入れする。自慰《じい》と言うには、しかし、その動き
は、あまりに乱《 》暴だった。あたかも、その奥から、何かを引きずり出そうとしているかのように。
「汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ……」
 やがて、割れ目が湿《しめ》りだしても、絹の顔に、快楽など欠片も浮かばなかった
 その代わりと言ってもいいものか。眉間《みけん》に、ぎりぎりと皴《しわ》が刻まれていく。ペルセウスに討ち取ら
れた、メデューサの首さながらの、忌々《いまいま》しげな……。
「汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなけれ
ば、汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなけ
れば、汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいな
ければ、汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえい
なければ、汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえ
いなければ、汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、汚れてさ
えいなければ、汚《 》れてさえいなければ、汚れてさえいなければ、…………私だって…………」
は一《 》
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は一《 》