〜1〜

 こんこん。 
「あー、どうぞー」 
 ノックの返事は、いかにも上の空だった。用件すらたずねない。研究が大詰めとのことで、ここ
二、三日は、いつにも増して書斎にもりきりだ。そう言えば、初めて聞いたこの人の声が、ち
ょうどこんなだった。 い出し、くすりと笑う。
 ドアを開けても、栄太郎は を上げなかった。一心不乱に手元の本に目を走らせている。
 思わず、はっとする。その 差しの、あまりの真剣さに。まるで、合戦に望む侍のよう。いや、
彼にとっては、まさに いなのだろう。書物に散りばめられた情報を武器に、謎という手強い敵
に挑む真剣勝 
(金谷さんには いけど……)
 この人には、 祭より学者の方が向いていると、彼女は思う。
 邪魔するのが びなくて――あるいは、彼のその顔をずっと見ていたくて――なかなか声を
かけられずにいたら。 
「ん? チヨか、どうした?」 
 栄太郎の方から先に をかけられてしまい、慌てる。ずっと無言で突っ立ったりして、変に思
われなかっただろうか。 
「す、すみません。絹さんに頼まれて、お 事持って来ました」
「おお、そうか」 
 銀の皿には、サンドイッチが盛られていた。 事をする時間も惜しそうな栄太郎のために、絹
が気を かせたのだ。
「すまねえな、すっかり ったらかしにしちまって。退屈してたか?」
 ハムをはさんだサンドイッチをかじりながら、栄太郎は申し訳なさそうに言った。ここしばらくは、
食事の時ぐらいしか、 を合わせる機会がなかったのだ。
「い、いえ、そんなことないですよ」 
 栄太郎が、彼女でも めそうな本を貸してくれたし、絹から西洋料理を習ったりもしていたの
で、退 はしなかったのだが……寂しくはあった。
 しかし、彼のあの を見た今では、邪魔をしなくて良かったと思う。
「研 、どうですか?」
「うん、まあ、とりあえずは一 落かな」
 うーんと背筋を伸ばす栄太郎。疲労困憊こんばいていではあったが、大仕事を終えた充実感がみなぎって
もいた。 
「ほ、 当ですか!?」
「いやあ、まだ 説の域は出てないけどな」
 そうは言いながらも、その には、静かな自信が宿っている。チヨは我が事のように嬉しかっ
た。もうすぐ、 られるのかもしれない。悲しみを乗り越え、本来の姿に戻った彼を。
「良かったら、お かせ頂けませんか。栄太郎さんの研究成果」
「えー、きっとチヨには退 屈だぜ?」
 栄太郎は照れ そうだ。聴講者たった一名とは言え、彼にとっては、初めての研究発表会だ
ろう。それでも、ぜひとチヨに重ねられ、おほんとせき払い一つ、語り始める。
「えー、そもそも、この 究の目的は何かってことだが……あ、チヨにはもう、あらかた話した
な。そう、あれが なのか、何のために建てられたのか、それを解明することだ。あの、聖域の
森の奥にたたずむ……」
 黒い石 
 ぐらり……あの姿を思い出した途端、なぜか襲われた眩暈めまいこらえ、チヨは栄太郎の話に耳を
傾ける。 
る。 
 隠れキリシタンであった 羽戸村の先祖が、万が一幕府に見られても言い逃れができるよう
に、自分たちにしか からない暗号で、キリスト教の教えを刻んだ。それが、あの黒い石碑で
ある。 
 父、栄 はそう考えていた。
「俺も、まあ、そんなもんだろうと、漠然ばくぜんと考えていたんだ。あのことがなけりゃ、今でもそう考えて
いたかもしれない」 
 彼は情報収集も兼ねて、 者や作家などの文化人と手紙をやり取りしているのだが、ある時
その一人、御簾門みすかど大学のさる教授に当てた手紙に、何の気はなしに、あの黒い石碑のことを書
いたところ、 くべき返事があった。
「あの石 のことが、ある本に書かれていたらしいんだ」
「まあ、栄太郎さんの にも、あの石碑を調べていた人がいたんでしょうか」
 そう うと、栄太郎は何やら意味ありげな笑みを浮かべる。
「? あ、あたし、何か変なこと いました?」
「いやいや、俺も最初に いた時は、そう思ったぜ。ま、とりあえず話を進めよう」
 ひょっとしたら、石碑の正体が かるかもしれない。大いに興味をそそられた彼は、教授に
本の詳細について ねたが、残念ながら、彼も噂で聞いただけで、現物は見たことがないとい
う。 
 ならば、いっそ自分で入手しようと、方々に い合わせたが、相当珍しい品らしく、一般の書
店からは か、図書館からさえ朗報はなかった。そのまま一年が過ぎ、半ば諦めかけていた
時……。 
「田通書店さんから、連絡 が来たってわけさ」
 さぞ、嬉しかったことだろう。栄太郎がチヨに恩返ししようとしたのも、なるほどうなずける。
「そして、ようやく に入ったのが……」
「この だったんですね」
 その めかしい和綴じ本を、チヨは改めて見る。父が倉庫の奥から見つけ出した時は、埃塗
れだった。栄太郎の要望 がなければ、そのまま震災で瓦礫に埋もれてしまっただろう。
 題名は〈無銘祭祀書むめいさいししょ〉。著者名は……。
「ふぉん・ゆんつと……? 随分 、変わった名前ですね」
「だろ? その理由は、 んですぐに分かったよ」
 冒頭の解説によると、何とこの本は、独逸ドイツで書かれた原書――原題Unaussprechlichen Kulten
――の和訳だったのだ。著者 の名前が風変わりなのも道理、おそらくは独逸人だろう。
「つまりこいつは、日本語で かれてはいるけど、実質的には独逸人の手で書かれた、独逸の
 だったのさ」
「ど、独逸 ですか?」
 突然飛び出した、 い外国の名に戸惑う。
「こりゃ、あの教授の勘違いだと ったよ。外国の本に、うちの村の石碑のことが書かれている
 ないもんな?」
「ですよねえ……」 
 結局、あの は役に立たなかったのか。
「でもまあ、せっかく に入れた品だし、とりあえず読んでみたんだ」
 著者のユンツトは、一風 わった探検家であり、神秘の知識を求めて、各地を旅したのだと
いう。この本は、 の体験談や考察をまとめたものなのだ。
「しかし、まあ、正直、かなり荒唐無稽こうとうむけいな内容だったなぁ」
 ユンツトいわく、伝説の一角獣は実在する、不老長寿の魔術師に弟子入りした、地獄を訪れ悪
魔と 会った……。
「は、はあ」 
 お父さんたら、そんな を売りつけたりして……何だか、赤くなるチヨであった。
「極めつけは、この挿話いつわだな。何でもユンツトは、この本を書き上げた後、謎の死を遂げたんだ
と」 
 密室で、喉をき切られた姿で発見されたというのだ。それを知った所有者の多くが、気味
悪がって焼き ててしまい、おかげでこの本は、残存数の少ない幻の品になったのだという。
「……それを いたの、ユンツトさんではないですよね」
「はは、俺は翻訳者ほんやくしゃあたりが、付け足したんじゃないかって思ってるけどな。まあ、そんな訳で、半
信半疑で んでたんだけど……」
 ふいに、栄太郎が真剣な表情 になる。
「このページを見た 端、“疑”は吹っ飛んじまったよ」
 栄太郎が開いて見せてくれたそのページは、半分程が挿絵さしえに占められていたのだが、そこにと
ても見覚えのある光景が かれていたのだ。
  のような地形に立つ……。
「こ、これは……!?」 
「ああ…… 違いじゃなかったのさ」
 それは、まさしくあの い石碑だった。
 色、形、大きさ、素人目にもうり二つだ。さらに、ページの隅には、表面に刻まれた文字の拡大
図がえがかれているのだが、間違いない、それもそっくりだ。
「こ、これ、あの……!?」 
「いや、確かにそっくりだけど、 の石碑とは別物だよ。その証拠に、背後の地形が違ってるだ
ろ?」 
 なるほど、佐羽戸の石碑の背後では、 が複雑な稜線をうねらせていたが、挿絵の石碑の
背後に広がっているのは、高低差にとぼしい荒野だ。
 二つのそっくりな石碑。背景だけが っている。
「この石碑が存在するのは、洪牙利ハンガリーのシュトレゴイカバアルという村だと書かれている……」
 つまり、日本の佐羽戸と、洪牙利のシュトレゴイカバアル、お いが地球の反対側に位置す
る二つの に、そっくりな石碑が存在しているのだ。
 偶然……などという安直な解釈は、浮かぶ に霧散してしまう。それぐらい似ているのだ。そ
ういえば、二人で石碑を見に行った 、栄太郎がこの本を開いていた。きっと、挿絵と見比べ
ていたのだ。 
 おそらく、そうするまでもなかっただろうけど。 
「他の話はともかく、この石碑に する記述は、信用できると思う」
「は、はい」 
 他ならぬ、自分と栄太郎だけは、そのことを っている。
「でも、どういうことなんでしょう……?」 
 栄太郎が目を閉じる。どこか、遠くに思いをせているかのように。
「俺も、最初は驚いたよ。でも、よく えたら、有り得ない話じゃない」
「そ、そうなんですか?」 
「ああ、佐羽戸村の由来を い出してみろよ」
 弾圧から逃れてきた、 れ切支丹が作った村……そう、外国の宣教師に率いられた……外
国の……。 
(あ……) 
「もしかして……?」 
「そう、石守家の先祖と われる、外国の宣教師……ひょっとしたら、彼は日本に渡る前に、シ
ュトレゴイカバアルの石碑を ていたのかもしれない。そして後に、佐羽戸にも同じ物を建てた
……」 
 それがどういうことなのかは、チヨにも理解 できた。
「だ、 発見じゃないですか!」
 最早、佐羽戸村だけの ではない。あの石碑こそ、幾万キロもの距離を越えて文化が伝わ
った、 れもない物証なのだ。
「へへ、チヨもそう うか?」
「もちろんですよ! ガ、ガッカイとかに 表したらどうですか? きっと有名になれますよ」
「……そうしたいのは、 々なんだけどな」
 嬉しそうな顔を、ふと らせる。
「ちょっと、 題があって……」
 題……ですか?」
「ああ、この には、あの石碑のことが、こう書かれているんだ」
 一拍 いて、栄太郎は言った。
「悪魔の く石だと……」
「悪 ……!?」

〜2〜

 黒い石碑が かれた挿絵のページ。
 しかし、真に くべき事実は、文章の中に潜んでいた。
「村の人々は、この石碑を非常に れ、決して近寄ろうとはしないらしい。話題に上らせること
さえ、躊躇ためらうと言うんだ」
 唖然あぜんとするチヨ。てっきり海の向こうの石碑も、佐羽戸のそれと同様、神聖なものとしてあがめら
れているとばかり っていたのだ。
 それなのに……悪魔の憑く 
「と言うのも、この石碑は“前の住人”がのこした物だとされているからなんだ」
 現在の住人は、酪農らくのうを営むごく普通の農民たちだが、かつては全く違った者たちが住んでい
たらしい。 
「何でも、数百年前のシュトレゴイカバアルは、邪神 を崇める邪教徒の村だったらしいんだ」
邪神 ……!?」
「ああ、 様は神様でも、悪い神様だよ」
 そして、 らがその信仰の要として建てたのが、あの黒い石碑だと言うのだ。
「村の名前も、その名残だろうとユンツトは ってる……」
 シュトレゴイカバアルとは、独逸語で“魔女の村”という意味 なのだ。
 邪教徒たちは夜毎よごと、黒い石碑の前に集まり、邪神をたたえる儀式を繰り広げた。おどろおどろし
い太鼓の音色に合わせて跳ね回り、呪文を唱え、時には生贄いけにえささげることもあった。
「い、生贄 って、まさか……」
「ああ、他の村からさらってきた赤ん坊や、若い女をな」
 邪教徒たちは、 れな生贄の血を石碑に振りかけ、邪神のさらなる加護を願ったという。
 い……」
「ああ、 のこととは言え、ひどいことしやがるぜ」
 開かれたページから、生贄の悲鳴や、邪教徒の哄笑こうしょうが聞こえてくるような気がして、チヨは思わ
怖気おぞけを震った。
「しかし、悪いことは続かないもんだな。西暦1526年、この地に侵攻してきた土耳古トルコの軍隊によっ
て、邪教徒たちは 殺しにされてしまったらしい」
 そして、 にはあの石碑だけが残されたのだ。
「後に、今の住人 の先祖となる洪牙利人たちが移住し、シュトレゴイカバアルは平和な村に生ま
れ変わりました。めでたしめでたし……と、 いたいところなんだが」
 栄太郎は重い溜息 を吐きつつ、続ける。
「俺たちには、大きな が残されちまったよな」
「ええ……」 
「そうさ。 だってうちのご先祖は、そんな邪教の遺物を、わざわざ日本に再現したりしたん
だ?」 
 その通りだ。キリスト教にとっては、 を生贄にする邪教など、敵以外の何者でもないだろう
に。 
 一 、なぜ?
「どういうことなのか、ずっと えていた……そして最近になって、ようやく一つの仮説に辿り着
いたんだ」 
(栄太 さん……)
 チヨは、なぜか がざわついた。彼は、何を言おうとしているのだろう。このまま、黙って聞い
ていていいのだろうか。だが、まさか、 きたくないなどと言えるはずもなく。
 佐羽戸の歴史をくつがす、衝撃の事実を知ることになった。
「俺は、こう えてる……石守家の先祖と言われる宣教師。実は、彼はキリスト教の宣教師で
はなかった。それは 向きの仮面で、その正体はシュトレゴイカバアルの邪教徒の生き残りだ
った……」 
「ええっ!?」 
 果たして、それは彼がほうずる邪神の加護だったのか。土耳古軍からからくも逃れた彼は、周囲
の目をあざむくためにキリスト教徒に成り済まし、邪教の再興を誓って機会を待った。
「そして れた機会が、カトリックの日本への布教活動だったんだな」
 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト を伝えたことぐらいは、チヨも知っている。それが
確か、1549年……土耳古 がシュトレゴイカバアルを攻めたのは1526年。なるほど、時期は
 する。
「彼は、ある目論見もくろみを胸に、日本に渡った……」
 最初は、あくまでキリスト の宣教師として振る舞い、人々の信仰を集める。そして、徐々に
“キリストの え”と偽って、邪神信仰を植えつけていく。何せ元の教えを知らない日本人ばかり
なのだから、手懐てなずけるのは容易たやすい。
 後に始まった、幕府 の切支丹弾圧は計算外だったが、この危機をも彼は利用した。弾圧を逃
れるためという口実で、外部から ざされ、信者だけで構成された村を作り上げたのだ。
「それが……?」 
「そう、ここ、佐羽戸 だったのさ」
 そこで、栄太郎は 付いたらしい。
 の名前の由来だよ。“サバト”から来てるんじゃないかってな」
「さばと?」 
「……魔女の 会のことさ」
 “魔女の ”シュトレゴイカバアルとの奇妙な符合は、おそらく偶然ではない。宣教師、いや、
邪教の司祭は、まさに 二のシュトレゴイカバアルとして、佐羽戸を作ったのだ。
 そして、丘の にあの黒い石碑も再建し、さあ、いよいよ邪教の復活だという段になって…
…。 
「なぜか、そいつの目論見はついえた……多分、村人たちに邪教を植えつける前に、急死してし
まったんだろう」 
 後に残されたのは、 をキリスト教の宣教師だと信じる村人たち。そして、皮肉にも、彼にと
ってはカモフラージュでしかなかったキリスト は忠実に守られ、佐羽戸は“ごく普通の”隠れ切
支丹の村として長く ごすことになる。
 あの い石碑もまた、神聖な物だと信じられたまま……。
「はあぁ……」 
 としか、 いようがないチヨ。歴史の皮肉さに、呆然とするしかない。しかし、一方で、すっきり
と納得してもいた。そう、 い石碑を見た時に感じた、あの印象……。
 周囲からあまりに いた、あの異質な雰囲気には、そういう訳があったのか。
「もう かっただろ?“問題”が何なのか」
「そ、そうですね。こんなことを、 の人達が知ったら……」
 だまされていた、そんな風に感じるのではないか。少なくとも、愉快な訳がない。
「でも、それじゃあ、発表 はしないんですか?」
「それがいいだろうなぁ、 のためには」
「そんな……」 
 せっかくの研究成果なのに……しかし、 の栄太郎には、さして落胆した様子はなかった。
「別にいいさ。 はただ、自己満足のためにやってるだけなんだから」
「栄太 さん……」
 そうだった。 にとっては、有名になることなど二の次なのだ。
「へへ、親父の 、自分の説を息子に覆されたと知ったら、どう思うかな」
 栄太郎は得られたのだろうか、父を えたという実感を。分からない。しかし、確かに彼の顔
は、初めて見た時に比べて、幾分いくぶん大人びて見える。
 前進したのは、 違いない。
「悪かったな、変な を聞かせちまって」
「い、いえ、 してとせがんだのは、あたしですから……」
「いや、俺も誰かに聞いて欲しかったんだ。さすがに、自分一人の胸に仕舞しまっておくのは、気が
重くてさ」 
「あ……」 
 チヨは気付かなかった自分を じた。そうだ、他ならぬ栄太郎自身が、一番衝撃を受けてい
るはずではないか。 は邪教徒だった宣教師は、彼の先祖なのだから。
「俺の中には、邪教徒の が流れているんだぜ。どうだ、怖くなったか?」
「……ご先祖がどうあれ、 太郎さんは栄太郎さんですよ」
「そうか……」 
 冗談めかしていたが、 は真剣だった。
 いてくれたのが、チヨで良かったよ」
 チヨも嬉しかった。秘密を ち明ける相手に選ばれて。無論、佐羽戸の住人ではないから、
というのが な理由であろうが、きっと、それだけではない。
  じてくれていたからだ。
(この でただ一人、あたしは栄太郎さんの秘密を知っているのね)
 何だか、妙な優越感 に包まれた、その時。
 ぞくりっ。 
(!?) 
「どうだ、研究も一段落したし、 し振りに散歩でも……どうした、チヨ?」
「い、いえ、 でも……」
 栄太郎の 声で、ようやく硬直が解ける。
、今の……?)
 それは、背中にべちゃりと かが張り付いたかのような。ぞっとするほど冷たく、それでいて
妙に生々しい、 えるなら爬虫類的な肌触りの。
 そんな感覚が、突如湧き がったのだ。
 だが、念のため背中に手を回しても、無論そこに蛇も蜥蜴とかげもいなかった。
 のせい……よね)
(!?) 
「ウフフフフ……」 
 書斎の扉の向こうで、 はにこにこと微笑んでいた。
 かれこれ 時間近くも、一人で延々と。
「ウフフフフ……」 
  は、ひたすら微笑んでいる。
「ウフフフフ……」 
 そして、そんな彼女の背中を、廊下の からそっと窺う……。

〜3〜

(ここは……?) 
 気が付くと、チヨは見覚えのある場所を いていた。
(聖域の ……?)
 石守家の司祭 のみが入れる、禁断の領域。
 夜のようだ。針葉樹の合間から し込む月光が、闇にヴェールのように揺らめいている。
(あたし、どうしてここにいるんだろう……?) 
 思考が纏まらない。頭の中に、かすみがかかっているようだ。かかったまま、足だけが勝手に前
 む。
 どこからともなく、太鼓の が聞こえる。和太鼓ではないようだ。早いリズムによる連打は、ど
ろどろどろとも聞こる。聞き慣れない反面、妙に耳に馴染なじむのは、どこか心臓の鼓動に似ている
からだろうか。 
 やがて、針葉樹が らになり、その姿が現れる。
 い石碑……)
 黒い表面に月光をぬらぬらと り返す様は、妙に生物的だった。これこそが、石碑の真の姿
なのだと思った。陽光の では、死んだように眠っていた石碑が、今、月光の元で目を覚まそ
うとしている。 
 その石碑が、月光を って出来た影の中に。
 かいる……?)
 ぼっ! ぼっ! 石碑の左右に篝火かがりびが燃え上がり、その姿を照らし出す。
 男だ。しかし、それ以上のことは からない。
 その顔は、獣を模したかぶり物で隠されていたからだ。
 腰に毛皮を巻いただけの半裸で、手首には絡み付く蛇のような腕輪、首には骨を いだ首
飾り。 
 そして、その には、ぐねぐねと波打つ、奇妙な刀身の短剣が握られていた。
 その姿 を見た瞬間、チヨは確信した。自分は、この人の呼びかけに応じて、ここへ来た。
 万難を してでも、来なければならなかったのだと。
 どろろろろろっ!  まる心臓の鼓動に合わせるように、太鼓のリズムが加速する。
(そうか、これは……) 
 これが なのか、ようやく分かった。
 世界中どの宗教、どの民族も、 たないものなどないと断言できる、言わば人類の本能。
 そう、これは……。 
(お ……)
 被り物の男が、たくましい腕を差し伸べる――山歩きに慣れていないチヨを、気遣うように。
(ああ……) 
 チヨは、まるで炎に吸い寄せられるのように、そのふところに……。
(ああ……) 
 しゃっくりのような を上げて、布団を跳ね上げる。
「……え?」 
 そう、チヨは寝台の にいたのだ。
(あの の人は……? それに、ここはどこ……?)
 窓からは朝日が差し込み、ちゅんちゅんと小鳥のさえずりが聞こえてくる。
(あたしの 屋……?)
 そう、ここはチヨのために用意された客室だ。そこで、ちゃんと昨晩も天蓋てんがい付の寝台に入ったで
はないか。 
 聖域の になど、いるはずがない。
 か……)
 ようやく、状況を把握はあくする。
(変な だったなぁ……)
 どうして、あんな を見たのか。多分、昨日栄太郎から聞いた、石碑の話のせいだろう。洪牙
利はシュトレゴイカバアル から、海を越えて“運ばれて”来た、邪神崇拝の……。
 そこまで い出した所で、チヨの心臓が跳ね上がる。
(それじゃあ、あの の人は……!?)
 そうだ、あんな格好をした が、善良な紳士の訳がないではないか。
(邪教 だったの……?)
 近隣から赤子や 女を誘拐しては、生贄に捧げたという……あの男が手にしていた物を思
い出し、震え がる。
 そう、短剣だ。いかにも、生贄の をたっぷり吸い込んでいそうな……。
 の中とは言え……)
 どうして、警戒もせずに近付いて行ったのか。そうだ、 の中では、恐怖は感じていなかっ た。そう言う意味では、あれは悪夢ではない。いや、むしろ、とても高揚こうようした気分だったような気さ
えする。 
 そう、あの男が を差し伸べるのを見た時、前にもこんなことがあったような気がして……あ
の時も、胸が高鳴って…… 付かれやしないかと、気が気でなくて……。
(……やめよう) 
 所詮、 ではないか。いや、夢とは言え、あんなものを見るのは、栄太郎や佐羽戸への冒涜
だ。全ては、遠い過去の、 い異郷の地でのことだ。
(外の空気でも って……)
  など忘れよう、そう思った。
 そして、寝台から出て、スリッパをいて。
「え?」 
 そこで、 めてそれに気付いたのだった。
(ああ……) 
「“余所者は て行け”だと……!?」
 栄太郎が、憤然 と読み上げる。
 客室の い壁紙に、血を思わせる赤いインクで書かれた文章を。
 誰に てたものなのかは、考えるまでもない。
「寝る は、こんなものはなかったんだな?」
「ま、 違いありません」
 つまり、チヨが寝入ってから かれたことになる。悪意を抱いて、部屋に忍び込んできた何者
かの によって……その場面を思い浮かべ、震え上がる。絹が肩を抱いていてくれなければ、
パニックに ってしまっただろう。
「サンルームの が割られていました。そこから侵入したのでしょう」
 屋敷を 回ってきた金谷が報告する。
「くそっ、 がこんなことを……」
「……村の者の仕業しわざかと」
 金谷の には、一切の感情が反映されていなかった。
「まさか!? みんな、チヨのことは歓迎 して……」
「ほとんどの者は、そうでしょう。しかし、中には頑迷なやからもいるかもしれません。ご主人様の手
前、態度には さなかったでしょうが」
「そんな……」 
 栄太郎は愕然がくぜんとしている。チヨも信じたくなかった。村人たちのあの純朴じゅんぼくな笑顔の中に、偽りの
仮面が じっていたなんて。
(ああ、ひょっとして……) 
 あの少し後、祭に てみないかと、栄太郎に誘われている。それが村の“頑迷な輩”の耳に
入って、こんな行動に らせたのかもしれない。
 余所者が祭に出るなど、信仰への冒涜 だ、と。
「佐羽戸は数百年もの間、隠れ切支丹の村でした。その名残なごりは、我々が思っている以上に、色濃
 っていたようです」
「聖書に“余所者は追い出せ”なんて いてないぞ!」
 栄太郎が怒鳴る。無論、金谷に っている訳ではない。
「それで、これからどうします?」 
 いつもは遠慮のない が、さすがに躊躇いながら言う。
「とりあえず、駐在に連絡 しましょう」
「でも……いや、そうだな」 
 栄太郎が何と いかけたのかは、チヨにも大方見当が付いた。小さな村とは言え、人口は数
百だ。その から犯人を特定するなど、果たして可能か。第一、仮にできたとして、それで済む
 ではない。
 犯人は何人いるかも からない、“頑迷な輩”の一人に過ぎないのだから。
(ああ、今日も、いつも りの一日が始まるとばかり、思っていたのに)
 打ちのめされる反面、 に納得もしてしまう。そう、彼女は嫌という程知っている。日常という
ものが、砂上の楼閣ろうかくに過ぎないことを。
 ほんのちょっとしたことで、いともあっさり れ去る。
「ごめんな、チヨ……でも、佐羽戸を いにならないでくれよ」
「そ、そんな、栄太郎さんが ることないですよ」
 その 、せめてもの対策として、夜間は鎧戸を閉めること、チヨと絹が同じ部屋で寝ることな
どを めた。

〜4〜

 が、その程度で める犯人ではなかった。
「ご主人様、お手紙が いております」
「どれどれ、差出人は…… いてないな。誰からだろう……うっ!?  こいつは……」
 例の脅迫きょうはく文が、今度は郵便で届いたり。
「きゃあっ!」 
「どうしたの、チヨちゃん!?」 
「ふ、噴水の に……」
 首を切り落とされたにわとりが浮かんでいたり
 だって!? チヨが……」
「はい、 いお怪我はなかったのですが……」
 買い物帰りに、 者かに石を投げつけられ、危うく直撃しそうになったり。
 あの 以来、一日も欠かさずに脅迫は続いた。
 異常としか言いようのない執拗しつようさ。しかも、慣れさせまいとするかのように、毎回手を変え品を
変え めてくる。
 結果、僅か数日で、チヨは ってしまった。余所者は出て行け、余所者は出て行け、余所者
は出て け……犯人の脅迫が、四六時中耳元で囁かれているようで、食事も喉を通らない。
「チヨ様を本邸にお めするのは、危険かもしれません」
 金谷がそう言い すのは、おそらく誰もが予想していただろう。
「ご足労ですが、別荘にでも って頂くのがよいかと」
(それしかない……) 
 チヨもそう った。これ以上、石守家の人々に迷惑はかけられない。
「チヨ一 でか?」
 ぼそりと、栄太郎が く。
「もちろん、使用 はお付けします」
「そういう意味 じゃない」
 静かな だったが、さしもの金谷が、たじろく程の気迫が込められていた。
「俺達は一緒に けるのかと聞いてるんだ」
「それは……もうすぐ ですので、ご主人様には村を離れられては……」
「そういうことだ。で、チヨ」 
 彼の双眸が、真っ直ぐにチヨをとらえる。
 は、どうしたい?」
(ああ……) 
 何て、澄み切った瞳。一点の りもないそこに、自分の姿が映っている。そう、真実の自分の
姿 が。
 気が くと、チヨは――
「ここにいたいです……」 
 ――口にしていた。本当の みを。
 できなかった。あの鏡像に を吐くなんて。それは、彼の瞳の曇りのなさをも、否定すること
だから。 
「ご、ご迷惑おかけして、 し訳ありませんが……」
「迷惑なもんか。 っただろ、君の力になりたいって」
 にっと笑い、いつもの に戻る栄太郎。そして、使用人達も。
「そうですよ、こんな時代錯誤な連中の いなりになることないですよ」
「確かに、それでは石守家の威信に わりますな」
 数日振りに、屋敷にいつもの 気が戻ってくる。その暖かさに包まれ、チヨは確信した。自分
は、これを いたくないのだと。
 もう二 と。
(いずれは、帝都に るのだとしても……)
 その時は、この暖かさを土産みやげに帰りたい。
「でも、いいの?  険かもしれないのよ」
「か、覚悟の です」
「はは、チヨは勇敢だな。じゃあ、 も勇気を見せなくちゃな。任せろ、秘策があるんだ」
 思いもかけない栄太郎の言葉に、一同は を丸くする。
「絹さん、包丁を ってきてくれないか。一番、よく切れる奴をな」
「何に使 うんです?」
「切り落とすのさ、 の指を」
 あまりに平然と うので、しばらくの間、誰も反応できなかった。
「ああ、包帯はいらないぜ。 かないで見せた方が、効果あるだろうからな」
「ご、ご主人様、 を……」
 ようやく金谷が き出したが、その声から、いつもの冷静さは、完全に失われていた。
彼とは対照的に、栄太郎は不敵な みさえ浮かべて続ける。
「村中の人間を集めて、言ってやるのさ。見てるか犯人ども、チヨをいじめたら、その度にこうし
てやるぞってな」 
 なるほど、脅迫には、脅迫で対抗しようと う訳だ。脅迫者一味とて佐羽戸の人間、栄太郎
は大切な“坊ちゃん”のはずだ。これは くだろう。
 などと感心しているチヨは、 は混乱の極みにいた。
「イエス様は、全人類の を肩代わりして、十字架に掛かったんだ。俺だって、犯人の罪を肩
代わりして、指ぐらい としてやるさ」
「お、おやめ さい、ご主人様! どうか冷静に……」
「ああ、 はいたって冷静だぜ?」
 その りだ。彼は冷静で、かつ本気だ。
 このままでは、本当 にやるだろう。
「え、栄太郎さん、駄目 ですよ、あたしなんかのために……」
 あわやという で我に返ったチヨが、慌てて加勢に入る。
 しかし、内心では、 く相反する感情が湧き起こっていた。
(栄太 さんが、あたしを……)
 身をていして、守ってくれようとしている。姫をかばって、矢玉に身をさらす騎士のように。
 結局、そんなことしたら、チヨちゃんが責任 じますよという、絹の冷静な指摘で、この案は保
 となったが。
「みんな、大袈裟おおげさだなぁ。指の一本や二本落としたって、死にゃしねえって」
 栄太郎は気楽そうだった。きっと、本当に を落としていたとしても、この調子だったろう。
 少し……いや、本当にほんの しだが、それを見てみたかったと思ってしまったのは、いけな
いことだろうか。 
 蜂蜜はちみつの風呂に浸かっているような心地のチヨは、気付いていない。
 背後から き付ける、肌では感じられない冷気に。
 氷結地獄もかくやという、絶対零度のそれは、しかし、チヨを む幸福感に弾かれ、びょうび
ょうと おしく旋回し……。
 やがて、めきめきと 晶していく。
 触れるもの全てを切り裂く、て付いた氷の刃へと。
 その 身は、透明だった。
 最早、一切の いは無かった――。

〜5〜

  とは、何か。
  の本質とは、何か。
  る神ではない、祈る願いでもない。
 祝詞のりとの文句でも踊りのステップでもなく、儀式の形態でもない。
 祭の本質とは、人々のきずなである。
 そもそも、 に参加する人々は、何らかの共通点を持っている。同じ土地に住んでいる、同じ
生活様式を持っている、 じ神を信じている……。
  とは、そうした共通点を持つ者同士が、一堂に会することで、お互いが仲間であることを、
再確認する行為である(豊作祈願など、表向き げている目的は、実は二の次……とまで言っ
ては、言い ぎだろうか)。
 政治的、あるいは宗教的弾圧などで を禁じられると、人々は決まって激しく抵抗する。弾圧
勢力に対して、正面から立ち向かうこともあれば、隠れて を続けることもある。その最たる例
が、我が祖先たる れ切支丹であろう。
 彼らが、そうまでして を守ろうとする理由は、唯一つ。祭を禁じられることは、祭を通して繋
がっている、仲間の を断ち切られるに等しいからである。
 逆を言えば、祭を通して繋がった強い絆が、人々の意思をたばね、そうした集団自衛を可能に
しているとも言える。 は自治体を守る、防壁の役割を果たしているのだ。
 これは、一見美談のようだが、そこには の面もある。すなわち、過剰な一体感が、全体を
守るためには、個々の犠牲をいとわないという、ありはちの心理をもたらすのである。
 その最たるものこそ、人身御供ひとみごくうだ。権力者に死後も仕えるため、生きたまま埋葬された“人
柱”。子供を神主に仕立て、一年の任期終了時に生贄にしたという“一年神主”など、枚挙にいとま
がない。 
 人身御供は外国でも見られ、南米インカ帝国では、太陽のおとろえを防ぐためと称して、毎月の ように、生贄の心臓をナイフでえぐり出したという。無論、太陽云々うんぬんは建前で、真の目的は、人々の
一体感を保つことだった だが。
 その様は、あたかも、便利な道具であったはずの に、逆に人間の方が操られているかの
ようである。 
 果たして、 の主催者は人か、それとも祭そのものか。
(ああ……) 
石守栄三著、〈日本の秘祭、奇祭〉より抜粋ばっすい
(ああ……) 
 ……ぱたん。 
 栄三の遺作となったその を閉じて、金谷は壁に掛けられた絵を見上げた。
 静謐せいひつな月明かりの中、五年前から変わらぬ姿で、栄三と雪子が微笑んでいる。
 今年も、もうすぐ がやって来る……。
だ。 
『ご主人様、 様、いらっしゃいますか!?』
 金谷の呼びかけが、聖域の森に木霊こだまする。
 角灯ランタンの光程度では、到底その奥の闇は照らし出せない。だが、ここにいるのは間違いないの
だ。 
 踏み込む には、無論強烈な抵抗を感じた。ここは、石守家の当主しか入ることが許されな
い、禁断の領域なのだ。その禁忌きんきは、佐羽戸の民なら、骨のずいまでみ込んでいる。
 しかし、金谷は決意した。最早、躊躇ためらっている場合ではない。怪我でもして、動けなくなっている
可能性もある。こんな に主を助けに行かないで、何のための従者だろう。
(とりあえず……) 
 あそこを目指すことにする。 もいるかどうかは分からないが、少なくとも一度は立ち寄った
可能性が高い。無論、金谷は めて行くが、上へ上へと登っていけば、辿り着けるはずだ。
 進むにつれ、どんどん くなるのを感じる。
 村とは らかに違う、異質な空気が。
 あたかも、時空の座標が い、世界がこの世ならぬ領域へとずれ込んでいくかのようだ。
(ここでなら、 が起きても不思議ではない……)
 現実主義の金谷も、この ばかりはそう思った。
 やがて、木々が疎らになり、その姿 が現れる。言い伝えでしか、聞いたことのない、村の信仰
の要。 
 黒い石 
『こ、これが……?』 
 金谷は、呆然と つめた。漠然と想像していたものと、あまりに違って。
 外見ではない。 わせている雰囲気が、だ。
 神の教えが刻まれているというから、きっと、伝説に聞く、十戒の石版のような神々こうごうしさに違いな
いと思っていたのだ。 を澄ますと、神の声が聞こえてくるような……。
 だが、そんなもの、目の前のこれには、微塵みじんもない。
 漆黒しっこくの表面は、ただただ光を吸い込むばかり。何も発さず、何も語りはしない。それは、人智
およばない闇そのものだった。
(我々は一体、 を崇めていたのだ……?)
  わず、角灯を掲げていた右手が、だらんと降りる。
 その瞬間、不意に に飛び込んできた。
 モノトーンの 囲とは、対照的な色彩が。
(…… ?)
 石碑の根元、月明かりが遮られてできた暗がりに、まるで彼岸花ひがんばなの群生地のように、鮮やかな
赤が がっている。
 黒い石碑との 烈なコントラストに目を眩まされたのか、さしもの金谷も、気付くのが一瞬遅
れた。 
 その の中に、横たわる人影があることに。
『奥 !?』
 石守 子。石守栄三夫人。
 なぜ、もっと く気付かなかったのか、自分を叱る。一瞬の遅れでさえ、彼の美学は許さな
い。 
 当然だ。もうかれこれ、二十年近く えているお方なのだから。
『奥 、どうなさったのですか!?』
 慌てて け寄ろうとして……。
『!』 
 匂いに 付いた。
 びた鉄のように鼻を突く、それでいて、どこか甘くもある……。
 嗅ぐのは初めてだ。だが、本能で分かる。それは、誰の体内にも れているものの匂いなの
だから。 
 すうぅ、 が勝手に空気を吸い込み始める。
 気付いたせいだろう。雪子の周囲に がる、鮮やかな赤が何なのか。
 何の意外性もない、 と聞いたら、万人が真っ先に連想するであろうもの。
  だ。
  の赤だった。
 その何に恥じない、雪のように白い肌を鮮 に染めて。
  子は、死んでいた。
 金 は絶叫しているつもりだった。限界まで吸い込んだ空気を、今度は限界まで吐き出しな
がら。しかし、現実には、ひゅうひゅうと詰まった笛のような音がれているだけだった。
 衝撃のあまり、臓腑ぞうふすら動きを止めている。
(なぜだ) 
 あんなに深く、 を愛していた彼女が。
(なぜだ) 
 あんなに深く、 に愛されていた彼女が。
(なぜだ) 
 神にだって、 されていたはずの彼女が。
(なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだな 
ぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜ 
なぜだなぜだ!?!?!?!?) 
 ――どれぐらい、そうしていただろうか。 
 気が付くと、金谷は上着を脱いで、雪子の亡骸なきがらに被せようとしていた。こんな姿、見られたくは
ないだろうから……活動再開には程遠い頭脳 では、その程度の気遣いが限界だった。
 だが、 のところ、彼が冷静だったとしても、できる事に大差はないのだ。
 雪子は、もう んでいるのだから。
(奥 、わたくしは……)
 何と りかけようとしたのだろう。しかし、内省する機会は訪れなかった。
 かつん。爪先つまさきが、何かを蹴飛ばした。
 ぼんやりと見下ろした が。
『こ、これは……!?』 
 驚愕きょうがくに見開かれる。
 その視線が、 子の亡骸へと徐々に移っていく。
(どういう……ことだ……?) 
 足元から、じわじわとい上がる冷たさが何なのか、金谷は自分でも分からなかった。分か
ってしまったら、瞬時に全身が ってしまう、そんな気がして。
 その 
 ――なあ金谷、 さんは何で、
(!?) 
 びくん。金谷は全身を硬直させる。とても き慣れた声を聞いた気がして。
 慌てて周囲を 渡す。そんな、まさか……だが、万が一、そうだったら……。いけない、他の
誰に見られようとも、あの にだけは見られる訳には。
 だが、どこにも恐れた 影はいなかった。
(そうだ、いる ない)
 あの方は、絹に してきた。今頃は、屋敷で両親の帰りを待っているはずだ。
(しっかりしろ、幻聴など いている場合か。そうだ、せめてご主人様だけでも見つけなければ
……) 
 そして、 かめなければ。
 ここにこれが ちていたのは、単なる偶然だと。
……) 
『ああ、 ちゃまが……』
 両親が帰るまでは きていると頑張っていた栄太郎だったが、ついに睡魔に負けて、ソファ
ーで舟をぎ始める。お守りを頼まれていた絹は、風邪でも引いたら大変だと、すぐに寝台に
 かせる。
『本当に、お二人ともどこに ってしまわれたのかしら』
 そういえば……と、 は思い出す。
 ご主人様も奥 も、ここ最近、何となくお元気がなかった。あれが、何かの前兆だったのでは
……。 
 寝巻きに着替えさせ、布団を けてやると、栄太郎はむにゃむにゃと寝言を漏らす。
……。 
『なあ金谷、 さんはどうして、地面に横になってるんだ?』
……。 
 ………………。 
 夢の中で、両親を しているのだろうか。もし、お二人がお戻りにならなかったら、この子は
両親を めて、永遠に夢の世界を彷徨うのでは……絹は、不吉な想像を振り払う。
 大丈夫、こんな可愛い坊ちゃまを いて、どこへも行ってしまうはずがない。
 安らかな りを願って、電灯を消そうとした、その時。
『せっかくの っ赤なドレスが、汚れちまうじゃないか……』
 スイッチに ばした手が止まる。
 い……ドレス?』
 なぜか、その単語だけが に耳に残って。
 石守家唯一の跡取り、腕白わんぱくだが真っ直ぐな、村の宝。その罪のない寝顔を、絹は長い間、見
つめ けていた。
……。 
 金谷は、 心に肖像画を見つめている。
 その が……。
 小刻みに えている。
「そう、全ては、“”の 業だったのだ……」
 “”。 
 その言葉は、真っ黒な しみで塗り潰されていた。
「おのれ、“”め……お二人だけにらず……そうはさせんぞ。だが、どうすれば……
”は、すでにご主人様のお を……」 
 “”、“”、“”、“”、“”。 
 憑かれたように り返すその言葉を、しかし聞いているのは、肖像画の中の栄三と雪子だ
け。二人はただ、 かに微笑むのみ。あたかも、彼を哀れむかのように。
「迷っている はない、かくなる上は……」

〜6〜

「なぁ、 じゃねえ?」
「そ、そんなことないですよ。とってもよくお 合いです」
 仕立ての良い三つ揃いスリーピースのスーツを、確かに栄太郎は違和感なく着こなしていた。髪もきれいに
整えられ、ぐっと男前が がっている。やはり、彼は名家の当主なのだと実感する。
 村の中ならいつもの格好で十分だが、さすがに日本基督キリスト教会の会合に出るとなると、そうもい かない。帝都の震災への対応 について、話し合われるらしい。車でも往復で半日かかるため、
今夜は 泊になる。
 今までの なら、金谷に任せてしまうところだが。
「ま、いつまでも、金谷に ってばかりはいられないしな」
「……そうですね」 
 研究が一段落したことが、そう うきっかけになったに違いない。金谷も一安心だろう。
「でも、俺達がいなくて、大丈夫か?  かに、あれから何も起きていないけど……」 
 そう。 
 栄太郎が、指を落とす落とさないの大見得おおみえを切ったあの日以来、なぜかチヨへの脅迫は、ぴた
りと止んでいた。そうでなければ、彼女を して屋敷を空ける訳にはいかなかっただろう。
「だ、大丈夫ですよ、 さんもいますから」
「ご安心下さい、チヨちゃんに 出しはさせません。屋敷に来やがったら、それこそ包丁で指を
切り としてやりますよ」
「ひゅう、おっかねえ〜。チヨ、 さんがやり過ぎないように、見張っててくれよ」
 笑い声が響く。ついこの 、あんなことがあったばかりとは思えない、それは安らかな一時。
 少なくとも、チヨはそう っていた。
「でも、どうして脅迫を めたんでしょう? その……誰かは」
 だから、その疑問を にしたのも、ただ、何となくだった。
「ひょっとしたら…… てたのかもな」
 ぴくり。 
 緊張した空 は……。
 の外からさ」
 ……ぎりぎりのところで、持ちこたえた。
「ええっ?」 
「もう、ご主人様ったら、チヨちゃんが えるでしょ」
「ははっ、冗談だよ。ま、 が変わったんだろ」
「ご主人様、お車の 度が整いました」
「ああ、今 く」
「あの、 太郎さん、その……」
「ん? どうした」 
 急にもじもじし始めるチヨ。絹にうながされ、布包みを栄太郎に差し出す。
「チヨちゃんがね、お弁当を ってくれたんですよ」
「へえ」 
「き、絹さんみたいに、 手にはいきませんでしたけど……」
「ありがとうな。 しみにしとくぜ」
 手渡す際、彼の手が れて、チヨは落っことしそうになるのを、必死で堪えたことである。
 そんな微笑ましい様子を、絹は慈母のごとき笑顔で見守って……。
「へえ」 
「よいのか」 
「へえ」 
 金谷の きに、絹の笑顔は……。
 がです?」
 ……ぴくりとも らがなかった。
 二人を乗せた が出発する時も、彼女はそのままの顔で見送っていた。

〜7〜

 がたっ……。 
 風に揺れる に、びくりと肩を震わせる。
 夜の屋敷はひっそりと まり返って、普段は気にならないような物音も、やけに大きく聞こえ
る。やはり、住人が 人もいないせいか。
 正直、不 がないではないが、せっかく栄太郎が過去を振り切って、前進しようとしているの
だ。その を引っ張りたくはなかった。一晩だけの辛抱だ。
(大丈夫よ。あれ以来、 も起きてないし……)
 きっと、脅迫者は めたのだ。万が一、そうでなかったとしても、しっかり戸締りしたし、絹もい
る。 も手出しできやしない。そう言い聞かせて、栄太郎が貸してくれた〈グリム童話集〉に目を
戻そうとした だった。
「…………?」 
 チヨは わず、犬のように鼻を動かした。
 とても、美味しそうな りが漂ってきたのだ。
 さんが、お料理してるのかしら……こんな時間に?)
 そろそろ、 夜中になろうかという時刻である。無論、夕食は済んでいる。
(明日の 備かしら。こんな時間まで大変だなぁ)
 それなら、何か手伝いをと思い、厨房ちゅうぼうへ向かうと、予想通り、明かりが点いている。
 のぞいて見ると、絹は鼻歌を歌いながら、鍋の中身をき混ぜていた。
 さ……」
 声を けようとして、一瞬躊躇う。
 彼女の後姿 に、突拍子もない連想をしてしまって。
 真夜中に、一 でこっそり鍋を……そう、まるで、さっきまで読んでいた、グリム童話に出てく
る魔女のような……あの 身は、きっと恐ろしい毒薬で……いひひと歪んだ笑みを浮かべなが
ら……。 
「あら、チヨちゃん。まだ きてたの?」
 等と言うのは、無論妄想もうそうだった。振り返った絹は、いつも通りだったし、鍋の中身も香りで分か
る。西洋出汁だしを煮ているのだ。
「え、ええ、 かお手伝いしましょうか?」
「ウフフ、大丈夫よ。もう、あらかた わったから。待ってて、何か温かい物でも出すわ」
(あ、あはは、 を考えていたのかなんて)
 口が けても言えないと思った。
 温めた牛乳に を付けながら、しばらく取り留めのない話をした。
(はぁ、それにしても……) 
 話の 間に、内心溜息を吐くチヨ。
(同じ で、こうも違うものかしら……)
 何回見ても、そう わずにはいられない。帝都の劇場に立っていても、彼女なら全く違和感
はないだろう。 様は慈悲深い御方だそうだが、公平であるとは、どうしても思えないチヨだっ
た。 
「そう えば、もうすぐですね。村のお祭」
 自然に、 題はそのことになる。
「やっぱり、 ることにしたの?」
「……はい」 
 小さく、しかしきっぱりと、チヨは えた。
「せっかく、栄太郎さんが ってくれたんですもの」
 今や、彼女にとって は、授賞式か何かに等しい重みを持っていた。誰にどう妨害されよう
が、諦める にはいかない。
 それは、 まれて初めて彼女が決めた、そう、覚悟と呼べるものだった。
「そうね……うん、 配いらないわよ。ご主人様や、金谷さんも一緒なんだから」
 うなずきかけて、チヨは首をかしげげた。
「え?  さんは出ないんですか」
 村人全員が 加すると聞いていたのだが。仕事の予定でもあるのだろうか。
「ええ、 には、お祭……」
 絹の声が、ほんのかすかに――。
「……“ ”に出る資格がないから」
 ―― くなった。
「資 ?」
 そんなものが 要だなんて、初耳だった。なにせ、村人ですらない自分だって、参加できるぐ
らいなのだ――それを、よしとしない はいるものの――。なのに、れっきとした村人である絹
が、なぜ? 
「ねえ、チヨちゃんのお父さんは、いい だった?」
「え?」 
 突然、脈絡のないことを かれて戸惑う。
「え、ええ、まあ。頑固者で、たまに らされることはありましたけど……」
「そう……うらやましいわ」
 絹は、そっと を伏せた。彫りの深い顔立ちに、暗い影が落ちる。
「私の父親は、そりゃあどうしようもない でね。ろくに仕事もせずに、お酒飲んじゃあ、お母さ
んや私に当り らして……本当に、お母さんも、あの男のどこが良くて結婚したのかしら」
  いもかけない告白に、チヨは胸を突かれた。
「お さん、とうとう我慢できなくなって、村を出て行ってしまってね。残された私は、前にも増し
て、父親から暴力を けるようになったわ。本当に、毎日が地獄のようだった……」
 さん……)
 想 もしなかった。彼女がいつもの笑顔の下に、そんな悲しい過去を隠していたなんて。あ
あ、でも、だからなのか。 かに隠し切れない暗さが、あの神秘的な雰囲気を、彼女に纏わせ
ていたのか。 
「いっそ、 んでしまおうかと思っていた矢先に、石守家が救いの手を差し伸べて下さったの。
女中にならないかって。 親は渋ったけど、石守家には逆らえなくてね。ようやく私は、あの男
から解 されたのよ」
「そうだったんですか……」 
「今でも、よく えてるわ。ご主人様に……いや、当時は坊ちゃまだったけど」
 一転して、微笑みがその から影を払う。
「安心しろ、俺が悪い親父から守ってやるからなって、大真面目まじめに言われて……。嬉しいやら、
可笑おかしいやらで、何年かぶりに笑ったわ。まるで、お姫様を助けに来た王子様みたいだった。随
分、ちっちゃな 子様だったけどね」
(そうか、この人も……) 
 自分と じだったのだ。石守家の好意で地獄から救い出され、栄太郎の励ましで笑顔を取り
戻した。嫁にも かずに女中を続けているのは、その恩返しなのだろう。
 ……などと、しみじみしているチヨは、 を傾げるのを忘れている。
 絹はなぜ、そんな 白をするのだろうと。
  、このタイミングで。
「石守家の さんには、本当に感謝してるわ……けど」
 チヨは、まだ 付いていない。
 絹の笑顔が、石膏せっこう像のそれのような、がちがちに強張 ったものだという事に。
「残 ながら、すでに手遅れだったのよね……」
「え?」 
「石守家が えに来てくれる、一週間ぐらい前からかしら……あの男がね」
 がたがたがた。風が窓を揺らす。あたかも、絹をとがめるように。よせ、少女に聞かせるような
 ではないと。
 しかし、彼女は に介さずに……。
「毎晩、 の寝台に入ってくるようになったの」
「は、はあ」 
 絹の言葉を、チヨは わず、つるりと飲み込んでしまった。意味を深く考えずに、それはま
た、随分と子離れのできないお さんだなあぐらいのつもりで。
 ぎょっとしたのは、一瞬 だった。
「…………え!?」 
 絹が女中になったのは、六年前だと いた。しかし、彼女は当時、すでに十代後半だろう。そ
んな の娘が寝ているところに、毎晩父親が入ってくる?
 何だ、 分は今、何を飲み込んだのだ。
「信じられる?  にも父親が、実の娘にそんな仕打ちをするなんて……」
(あ……あ……) 
 ようやく気付く。 の中を這いずり回っている、おぞましい感触に。
「あの にとって、私は娘じゃなかった。自分を捨てた、憎い妻の分身だったのね。私に覆い被
さりながら、 ってたわ。お前も、ここを出て行くんだろう、俺を捨てる気だろう、そうは行くか、
逃げられないようにしてやる……」 
 なぜだろう。 うかのような、楽しげな口調で、絹は続ける。
「今でも えてるわぁ、あの男の放った汚いものが、どろどろと体の中に注ぎ込まれる感覚…
…そうよ、私は れてるの。私の血には、あの男の汚れが溶け込んで、今も全身の血管を巡
ってるのよ……ああ、 い。何て汚い、私」
(そんな……) 
 自分の容姿を、ちっとも鼻にかけない、確かに謙虚けんきょな人だとは思っていた。だが、まさか、自分
のことを、そんな に思っていたなんて。
  い、などと。
 この も、自分と同じ?
 違う。この は、そう、手遅れだったのだ。
 今も、その魂は地獄に われたままなのだ。
「もう、 かったでしょ? なぜ、私が“祭”に出られないのか。当然よ、神様がお許しになるは
ずないわ。 の父親に〜〜された、汚らわしい犬畜生の私が、聖なる“祭”に出るなんて。ウフ
フ、だから私は、一人寂しくお 守番……」
 それはおそらく、絹の中にしかないおきて。しかし、彼女にとっては、絶対の禁忌なのだろう。
 私ハ レテイル。ダカラ、“祭”ニ出ル資格ナドナイ――。
「き、絹さんは れてなんか……」
 ようやくしぼり出した、チヨの言葉は。
「そう えばチヨちゃん、ご主人様に〈グリム童話集〉を借りてたわね」
 またしても び出した脈絡のない話題で、華麗に弾かれた。
「白雪姫はもう んだ?」
 操り人形のように くしかないチヨ。糸を握っている絹の思うがままに。
「白雪姫の美しさに嫉妬 したお妃が、殺してしまえと召使いに命令する場面があるでしょう? 原典
ではね、お妃がした命令はそれだけじゃなかったの。殺した後、その心臓を持ち帰れって 
のよ」 
「し、 臓を……!?」
「結局、白雪姫を殺せなかった召使いは、代わりにいのししの心臓を持って帰るんだけど、お妃はそ
れをどうしたと う? ……食べちゃうのよ。バターで焼いて、ぺろりとね」
 かたかたかた、鍋のふたが鳴り始める。西洋出汁が、温まってきたのだ。
「何だって、そこまでしたのかしら?  は、こう思うの……心臓って、命の源ってイメージがあ
るじゃない? お妃はそれを べることで、白雪姫の清らかさを、我が物にしようとしたんじゃな
いかしら。まさに、一石二鳥って よ」
 チヨは もない。
 ぴきぴきぴき……。 
 絹の顔を覆う彫像ちょうぞうの笑顔に、無数のヒビが入り始めているのに気付いて。
「さあて、そろそろいいかしら」 
 絹は鍋の蓋を開け、中身を覗き込む。その動きは、なめらかだった。舞台女優が、台本通りに
 いているかのように。
 一切の いなく。
「後は、具材を入れるだけだわ……チヨちゃん、 だか分かるぅ?」
 かりません……」
 そう えるのが、精一杯だった。
 しかし、それで 分だった。
 ぴきぴきぴきぴきぴきぴきぴき……っ! 
「ら」 
ぱりぃぃぃぃぃぃぃぃぃんっっっ!!! 
「ら」 
 絹の 像の笑顔を、粉々に打ち砕くには。
「ぅあなたの 臓に決ってるじゃなああああぁぁぁぁぁぁぁい!?!? ひゃあっはははははは
ははははははははははは、うひいっひひひひひひひひひひひひひひひひ!!!!!」 

〜8〜

 その から現れたのは。
 耳まで口を裂くような狂笑と、こぼれそうなほど見開かれた血走った目。
 想像すらしなかった。彼女の顔が、こんな表情にゆがみうるなんて。 
 がっ! 
 猛禽もうきん鉤爪かぎつめのような手付きで、まな板の上のそれをつかむ。
 そう、よくがれた、愛用の洋包丁を。
「まだトクントクンと動いてるチヨちゃんの心臓をね、塩と胡椒こしょうで下味付けて、そのままお鍋へぽい
っっっっ!!! 西 洋出汁でじぃっくりぐつぐつ煮立てれば、美味しい美味しいチヨちゃんの心
臓スープの出来 がりいいいいい!!!」
 夢だ、これは だ。チヨは必死で、己に言い聞かせる。さっき読んだ〈グリム童話集〉のせい
だ。 さんが、人食いの魔女になって襲い掛かってくるなんて。
 そう い込みたかったのに。
「ま、まさか……」 
 分かりたくないのに、 かってしまう。危機を目前にした生存本能が、チヨの思考回路にフル
回転を強要 している。
「あの脅迫は、 さんが!?」
 余所者は出て行け、余所者は出て行け、余所者は出て行け……あの執拗さ、あの偏執へんしつさ、なる
ほど、今の とぴったり一致する。してしまう、あまりにも。
 それでも信じたくないチヨは、必死で彼女をかばう。奇妙なことに。
(で、でも、サンルームの窓が破られていて…… さんなら、あんなことする必要は……)
 しかし、無慈悲な理性は、チヨに現実を ろと促す。
(偽装…… から入った誰かの仕業に見せかけるための)
 それに、 より。
『でも、どうして脅迫を めたんでしょう? その……誰かは』
 そう、それはなぜだ。 
『ひょっとしたら…… てたのかもな』
 その りだ。しかし、窓の外からなどではない。
『モウ、ゴ 人様ッタラ、ちよチャンガ怯エルデショ。クケケケケケ』
 自分の、すぐ でだったのだ。
 そして、業を やして、遂に実力行使に……。
(ああ、そんな……) 
 そして、動機。そうだ、 の目に、自分はどう映っていたのだろう。身も心も汚れきっていると
思い込んでいる彼女の に、未だ男を知らぬ自分は。
 まさに、お妃から た、白雪姫だったに違いない。
 原因があって、結果 がある。
 これは間違いなく、因果 の連なりから成る現実だ。
「き、 さん、落ち着いて……!」
 じりじり、じりじり……獲物を追い詰める、肉食獣の動きで迫る 。逃げろと執拗に命じる本
能に らい、チヨは必死で説得を試みる。
「絹さんは、そんなにお綺麗 じゃないですか……!」
 同じ として、羨ましい限りだった絹。
「絹さんは、あんなに しかったじゃないですか……!」
 実の姉妹も同然、とまで ってくれた絹。
 そんな彼女 は。
「チヨちゃああぁぁぁぁんん……心臓 をおくれえええぇぇぇ……!!」
 もう、この のどこにもいなかった。
「ひいぃっ!」 
 遂に生存本能にくっし、転がるように厨房を逃げ出す。
「栄太郎さん、 谷さん……!」
 助けを ぼうとして、はっと気付く。留守だ、二人とも。絹は、この機会を狙ったに違いない。
 今、この屋敷で、 分は人食い魔女と二人きり。
 絶望で ち尽くしたチヨの背後に、凶風が迫る。
 きえーっとも、ひゃーっともつかない奇声と に振り下ろされる洋包丁。
「きゃああっ!」 
 ずばああああ! 奇跡的に、 をかわすチヨ。切り裂かれたのは、服だけだった。その下か
ら覗く、滑らかな少女の に、絹の血走った目は釘付けになる。
「ああああ、何て綺麗なの、 て清らかなの、まだ、男に触れられたことすらないんでしょうね!
 きっと、その下を流れる血は、出来立てのワインのように清純で芳醇ほうじゅんに違いないわ!」
 嫉妬 ……違う、絹の声に漲っているのは、ただただ純粋な羨ましさだった。路上の娼婦しょうふが、天
上の女神をあおぎ見ているかのような。
 それが、より一層、異様 で悲壮だった。
 背後から迫る狂笑に追い立てられながら、必死で逃げる。恐怖が知覚をせばめる、歪める。廊
下の先が、ドアの こうが、どうなっているのか思い出せない。あたかも、屋敷が見知らぬ場所
 わってしまったかのように。
 気が いた時には。
(あっ!) 
 三階のバルコニーに い詰められてしまっていた。
 三方の手摺てすりの向こうは、暗闇の虚空。
 そして、背後の 一の出入り口には。
 ってえええぇぇぇ……チヨちゃあああぁぁぁん……!」
「ひいいぃぃ!?」 
 吹き荒れる風に、長い を乱れに乱れさせる絹の姿は、最早魔女そのもの。以前の彼女の
面影おもかげなど、もうどこにもない。 
 振り げた洋包丁が、月明かりにぬめぬめと輝く。
「あなたの心臓を べて、私は清らかさを取り戻すの……そうすれば、私も“祭”に行ける! 
そう……」 
 だっ! 
 突進しながら、 が放った絶叫は――。
「ご主人 と一緒にいいいぃぃぃぃ―――っっ!!!」
 ――まるで、 を吐くようで。
 さん……そうか)
 この は……。
 洋包丁が、チヨの を抉る。
  前で。
「――――っ!?」 
 ぐらり。 の体が、傾く。
 風のせいだろう。彼 の足元に、植木鉢が転がって来たのだ。
 気付かず んでしまい、姿勢を崩し……。
(…………え?) 
 気が くと、バルコニーにはチヨしかいなかった。
 しばらく放心 していたが、はっと気付き、手摺から身を乗り出す。
 ぴかっ! 雷光が、その姿 を照らし出す。
「き、 さん……!?」
 チヨは、 を飲んだ。
 とっさに連想 したのは、昆虫標本だった。
 そう、ガラスケースの で、ピンに貫かれていた蝶のように。
 屋敷を囲う鉄柵の尖った先端が、絹の胸を貫き、空中にはりつけにしていた。
 なぜだろう、その死に は、とても穏やかで。
 その頬を、涙の が伝っていた。
……。 
『安心しろ、俺が い親父から守ってやるからな!』
 ああ、何てまぶしい……。
 あの の笑顔は、まさに太陽だった。
 あの が支配する闇の世界から、私を助けに来てくれた。
 でも、駄目……これ以上は、 づけない。
 光の下に出て行ったら、あらわになってしまう。
 あの男に された、みすぼらしい姿が。
 だから、私にできるのは、光と闇の狭間はざまの暗がりから、あの人の姿を窺うことだけ。
 ああ、 も“祭”に行きたかった。
 あの人の で、真っ赤なドレスを着せて欲しかった……。
……。 
「駐在と医師 には、こちらから連絡しておきます。我々も、すぐに戻りますので……」
「お、おい、ちょっと わってくれ! チヨ、大丈夫か!? ああ、泣くなよ、君のせいじゃない…
…」 
 電話口で必死にチヨをなぐさめる栄太郎に聞かれないように、金谷は呟いた。
駄目 だったか……」
 
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