〜1〜
ノックの返事は、いかにも上の空だった。用件すら尋ねない。研究が大詰めとのことで、ここ
二、三日は、いつにも増して書斎に篭もりきりだ。そう言えば、初めて聞いたこの人の声が、ち
ょうどこんなだった。思い出し、くすりと笑う。
ドアを開けても、栄太郎は顔を上げなかった。一心不乱に手元の本に目を走らせている。
思わず、はっとする。その眼差しの、あまりの真剣さに。まるで、合戦に望む侍のよう。いや、
彼にとっては、まさに戦いなのだろう。書物に散りばめられた情報を武器に、謎という手強い敵
に挑む真剣勝負。
(金谷さんには悪いけど……)
この人には、司祭より学者の方が向いていると、彼女は思う。
邪魔するのが忍びなくて――あるいは、彼のその顔をずっと見ていたくて――なかなか声を
栄太郎の方から先に声をかけられてしまい、慌てる。ずっと無言で突っ立ったりして、変に思
「す、すみません。絹さんに頼まれて、お食事持って来ました」
銀の皿には、サンドイッチが盛られていた。食事をする時間も惜しそうな栄太郎のために、絹
が気を利かせたのだ。
「すまねえな、すっかり放ったらかしにしちまって。退屈してたか?」
ハムを挿んだサンドイッチを齧りながら、栄太郎は申し訳なさそうに言った。ここしばらくは、
食事の時ぐらいしか、顔を合わせる機会がなかったのだ。
栄太郎が、彼女でも読めそうな本を貸してくれたし、絹から西洋料理を習ったりもしていたの
で、退屈はしなかったのだが……寂しくはあった。
しかし、彼のあの顔を見た今では、邪魔をしなくて良かったと思う。
「研究、どうですか?」
「うん、まあ、とりあえずは一段落かな」
うーんと背筋を伸ばす栄太郎。疲労困憊の体ではあったが、大仕事を終えた充実感が漲って
「ほ、本当ですか!?」
「いやあ、まだ仮説の域は出てないけどな」
そうは言いながらも、その瞳には、静かな自信が宿っている。チヨは我が事のように嬉しかっ
た。もうすぐ、見られるのかもしれない。悲しみを乗り越え、本来の姿に戻った彼を。
「良かったら、お聞かせ頂けませんか。栄太郎さんの研究成果」
「えー、きっとチヨには退屈だぜ?」
栄太郎は照れ臭そうだ。聴講者たった一名とは言え、彼にとっては、初めての研究発表会だ
ろう。それでも、ぜひとチヨに重ねられ、おほんと咳払い一つ、語り始める。
「えー、そもそも、この研究の目的は何かってことだが……あ、チヨにはもう、あらかた話した
な。そう、あれが何なのか、何のために建てられたのか、それを解明することだ。あの、聖域の
森の奥に佇む……」
黒い石碑。
ぐらり……あの姿を思い出した途端、なぜか襲われた眩暈を堪え、チヨは栄太郎の話に耳を
隠れキリシタンであった佐羽戸村の先祖が、万が一幕府に見られても言い逃れができるよう
に、自分たちにしか分からない暗号で、キリスト教の教えを刻んだ。それが、あの黒い石碑で
父、栄三はそう考えていた。
「俺も、まあ、そんなもんだろうと、漠然と考えていたんだ。あのことがなけりゃ、今でもそう考えて
彼は情報収集も兼ねて、学者や作家などの文化人と手紙をやり取りしているのだが、ある時
その一人、御簾門大学のさる教授に当てた手紙に、何の気はなしに、あの黒い石碑のことを書
「あの石碑のことが、ある本に書かれていたらしいんだ」
「まあ、栄太郎さんの前にも、あの石碑を調べていた人がいたんでしょうか」
そう言うと、栄太郎は何やら意味ありげな笑みを浮かべる。
「? あ、あたし、何か変なこと言いました?」
「いやいや、俺も最初に聞いた時は、そう思ったぜ。ま、とりあえず話を進めよう」
ひょっとしたら、石碑の正体が分かるかもしれない。大いに興味をそそられた彼は、教授に
本の詳細について尋ねたが、残念ながら、彼も噂で聞いただけで、現物は見たことがないとい
ならば、いっそ自分で入手しようと、方々に問い合わせたが、相当珍しい品らしく、一般の書
店からは愚か、図書館からさえ朗報はなかった。そのまま一年が過ぎ、半ば諦めかけていた
「田通書店さんから、連絡が来たってわけさ」
さぞ、嬉しかったことだろう。栄太郎がチヨに恩返ししようとしたのも、なるほど頷ける。
「そして、ようやく手に入ったのが……」
「この本だったんですね」
その古めかしい和綴じ本を、チヨは改めて見る。父が倉庫の奥から見つけ出した時は、埃塗
れだった。栄太郎の要望がなければ、そのまま震災で瓦礫に埋もれてしまっただろう。
題名は〈無銘祭祀書〉。著者名は……。
「ふぉん・ゆんつと……? 随分、変わった名前ですね」
「だろ? その理由は、読んですぐに分かったよ」
冒頭の解説によると、何とこの本は、独逸で書かれた原書――原題Unaussprechlichen Kulten
|
――の和訳だったのだ。著者の名前が風変わりなのも道理、おそらくは独逸人だろう。
「つまりこいつは、日本語で書かれてはいるけど、実質的には独逸人の手で書かれた、独逸の
本だったのさ」
「ど、独逸ですか?」
突然飛び出した、遠い外国の名に戸惑う。
「こりゃ、あの教授の勘違いだと思ったよ。外国の本に、うちの村の石碑のことが書かれている
訳ないもんな?」
結局、あの本は役に立たなかったのか。
「でもまあ、せっかく手に入れた品だし、とりあえず読んでみたんだ」
著者のユンツトは、一風変わった探検家であり、神秘の知識を求めて、各地を旅したのだと
いう。この本は、彼の体験談や考察をまとめたものなのだ。
「しかし、まあ、正直、かなり荒唐無稽な内容だったなぁ」
ユンツト曰く、伝説の一角獣は実在する、不老長寿の魔術師に弟子入りした、地獄を訪れ悪
魔と出会った……。
お父さんたら、そんな本を売りつけたりして……何だか、赤くなるチヨであった。
「極めつけは、この挿話だな。何でもユンツトは、この本を書き上げた後、謎の死を遂げたんだ
密室で、喉を掻き切られた姿で発見されたというのだ。それを知った所有者の多くが、気味
悪がって焼き捨ててしまい、おかげでこの本は、残存数の少ない幻の品になったのだという。
「……それを書いたの、ユンツトさんではないですよね」
「はは、俺は翻訳者あたりが、付け足したんじゃないかって思ってるけどな。まあ、そんな訳で、半
|
ふいに、栄太郎が真剣な表情になる。
「このページを見た途端、“疑”は吹っ飛んじまったよ」
栄太郎が開いて見せてくれたそのページは、半分程が挿絵に占められていたのだが、そこにと
|
ても見覚えのある光景が描かれていたのだ。
丘のような地形に立つ……。
「ああ……勘違いじゃなかったのさ」
それは、まさしくあの黒い石碑だった。
色、形、大きさ、素人目にも瓜二つだ。さらに、ページの隅には、表面に刻まれた文字の拡大
図が描かれているのだが、間違いない、それもそっくりだ。
「いや、確かにそっくりだけど、村の石碑とは別物だよ。その証拠に、背後の地形が違ってるだ
なるほど、佐羽戸の石碑の背後では、山が複雑な稜線をうねらせていたが、挿絵の石碑の
背後に広がっているのは、高低差に乏しい荒野だ。
二つのそっくりな石碑。背景だけが違っている。
「この石碑が存在するのは、洪牙利のシュトレゴイカバアルという村だと書かれている……」
つまり、日本の佐羽戸と、洪牙利のシュトレゴイカバアル、お互いが地球の反対側に位置す
る二つの村に、そっくりな石碑が存在しているのだ。
偶然……などという安直な解釈は、浮かぶ前に霧散してしまう。それぐらい似ているのだ。そ
ういえば、二人で石碑を見に行った時、栄太郎がこの本を開いていた。きっと、挿絵と見比べ
おそらく、そうするまでもなかっただろうけど。一
|
「他の話はともかく、この石碑に関する記述は、信用できると思う」
他ならぬ、自分と栄太郎だけは、そのことを知っている。
栄太郎が目を閉じる。どこか、遠くに思いを馳せているかのように。
「俺も、最初は驚いたよ。でも、よく考えたら、有り得ない話じゃない」
「ああ、佐羽戸村の由来を思い出してみろよ」
弾圧から逃れてきた、隠れ切支丹が作った村……そう、外国の宣教師に率いられた……外
「そう、石守家の先祖と言われる、外国の宣教師……ひょっとしたら、彼は日本に渡る前に、シ
ュトレゴイカバアルの石碑を見ていたのかもしれない。そして後に、佐羽戸にも同じ物を建てた
それがどういうことなのかは、チヨにも理解できた。
「だ、大発見じゃないですか!」
最早、佐羽戸村だけの話ではない。あの石碑こそ、幾万キロもの距離を越えて文化が伝わ
った、紛れもない物証なのだ。
「へへ、チヨもそう思うか?」
「もちろんですよ! ガ、ガッカイとかに発表したらどうですか? きっと有名になれますよ」
「……そうしたいのは、山々なんだけどな」
嬉しそうな顔を、ふと曇らせる。
「ちょっと、問題があって……」
「問題……ですか?」
「ああ、この本には、あの石碑のことが、こう書かれているんだ」
一拍置いて、栄太郎は言った。
「悪魔の憑く石だと……」
「悪魔……!?」
〜2〜
黒い石碑が描かれた挿絵のページ。
しかし、真に驚くべき事実は、文章の中に潜んでいた。
「村の人々は、この石碑を非常に恐れ、決して近寄ろうとはしないらしい。話題に上らせること
さえ、躊躇うと言うんだ」
唖然とするチヨ。てっきり海の向こうの石碑も、佐羽戸のそれと同様、神聖なものとして崇めら
れているとばかり思っていたのだ。
それなのに……悪魔の憑く石?
「と言うのも、この石碑は“前の住人”が遺した物だとされているからなんだ」
現在の住人は、酪農を営むごく普通の農民たちだが、かつては全く違った者たちが住んでい
「何でも、数百年前のシュトレゴイカバアルは、邪神を崇める邪教徒の村だったらしいんだ」
「邪神……!?」
「ああ、神様は神様でも、悪い神様だよ」
そして、彼らがその信仰の要として建てたのが、あの黒い石碑だと言うのだ。
「村の名前も、その名残だろうとユンツトは言ってる……」
シュトレゴイカバアルとは、独逸語で“魔女の村”という意味なのだ。
邪教徒たちは夜毎、黒い石碑の前に集まり、邪神を讃える儀式を繰り広げた。おどろおどろし
い太鼓の音色に合わせて跳ね回り、呪文を唱え、時には生贄を捧げることもあった。
「い、生贄って、まさか……」
「ああ、他の村から攫ってきた赤ん坊や、若い女をな」
邪教徒たちは、哀れな生贄の血を石碑に振りかけ、邪神のさらなる加護を願ったという。
「怖い……」
「ああ、昔のこととは言え、ひどいことしやがるぜ」
開かれたページから、生贄の悲鳴や、邪教徒の哄笑が聞こえてくるような気がして、チヨは思わ
|
ず怖気を震った。
「しかし、悪いことは続かないもんだな。西暦1526年、この地に侵攻してきた土耳古の軍隊によっ
|
て、邪教徒たちは皆殺しにされてしまったらしい」
そして、後にはあの石碑だけが残されたのだ。
「後に、今の住人の先祖となる洪牙利人たちが移住し、シュトレゴイカバアルは平和な村に生ま
れ変わりました。めでたしめでたし……と、言いたいところなんだが」
栄太郎は重い溜息を吐きつつ、続ける。
「俺たちには、大きな謎が残されちまったよな」
「そうさ。何だってうちのご先祖は、そんな邪教の遺物を、わざわざ日本に再現したりしたん
その通りだ。キリスト教にとっては、人を生贄にする邪教など、敵以外の何者でもないだろう
一体、なぜ?
「どういうことなのか、ずっと考えていた……そして最近になって、ようやく一つの仮説に辿り着
(栄太郎さん……)
チヨは、なぜか胸がざわついた。彼は、何を言おうとしているのだろう。このまま、黙って聞い
ていていいのだろうか。だが、まさか、聞きたくないなどと言えるはずもなく。
佐羽戸の歴史を覆す、衝撃の事実を知ることになった。
「俺は、こう考えてる……石守家の先祖と言われる宣教師。実は、彼はキリスト教の宣教師で
はなかった。それは表向きの仮面で、その正体はシュトレゴイカバアルの邪教徒の生き残りだ
果たして、それは彼が奉ずる邪神の加護だったのか。土耳古軍から辛くも逃れた彼は、周囲
の目を欺くためにキリスト教徒に成り済まし、邪教の再興を誓って機会を待った。
「そして訪れた機会が、カトリックの日本への布教活動だったんだな」
フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたことぐらいは、チヨも知っている。それが
確か、1549年……土耳古軍がシュトレゴイカバアルを攻めたのは1526年。なるほど、時期は
一致する。
「彼は、ある目論見を胸に、日本に渡った……」
最初は、あくまでキリスト教の宣教師として振る舞い、人々の信仰を集める。そして、徐々に
“キリストの教え”と偽って、邪神信仰を植えつけていく。何せ元の教えを知らない日本人ばかり
なのだから、手懐けるのは容易い。
後に始まった、幕府の切支丹弾圧は計算外だったが、この危機をも彼は利用した。弾圧を逃
れるためという口実で、外部から閉ざされ、信者だけで構成された村を作り上げたのだ。
そこで、栄太郎は気付いたらしい。
「村の名前の由来だよ。“サバト”から来てるんじゃないかってな」
「……魔女の集会のことさ」
“魔女の村”シュトレゴイカバアルとの奇妙な符合は、おそらく偶然ではない。宣教師、いや、
邪教の司祭は、まさに第二のシュトレゴイカバアルとして、佐羽戸を作ったのだ。
そして、丘の上にあの黒い石碑も再建し、さあ、いよいよ邪教の復活だという段になって…
「なぜか、そいつの目論見は潰えた……多分、村人たちに邪教を植えつける前に、急死してし
後に残されたのは、彼をキリスト教の宣教師だと信じる村人たち。そして、皮肉にも、彼にと
ってはカモフラージュでしかなかったキリスト教は忠実に守られ、佐羽戸は“ごく普通の”隠れ切
支丹の村として長く過ごすことになる。
あの黒い石碑もまた、神聖な物だと信じられたまま……。
としか、言いようがないチヨ。歴史の皮肉さに、呆然とするしかない。しかし、一方で、すっきり
と納得してもいた。そう、黒い石碑を見た時に感じた、あの印象……。
周囲からあまりに浮いた、あの異質な雰囲気には、そういう訳があったのか。
「もう分かっただろ?“問題”が何なのか」
「そ、そうですね。こんなことを、村の人達が知ったら……」
騙されていた、そんな風に感じるのではないか。少なくとも、愉快な訳がない。
「でも、それじゃあ、発表はしないんですか?」
「それがいいだろうなぁ、村のためには」
せっかくの研究成果なのに……しかし、当の栄太郎には、さして落胆した様子はなかった。
「別にいいさ。俺はただ、自己満足のためにやってるだけなんだから」
「栄太郎さん……」
そうだった。彼にとっては、有名になることなど二の次なのだ。
「へへ、親父の奴、自分の説を息子に覆されたと知ったら、どう思うかな」
栄太郎は得られたのだろうか、父を超えたという実感を。分からない。しかし、確かに彼の顔
は、初めて見た時に比べて、幾分大人びて見える。
前進したのは、間違いない。
「悪かったな、変な話を聞かせちまって」
「い、いえ、話してとせがんだのは、あたしですから……」
「いや、俺も誰かに聞いて欲しかったんだ。さすがに、自分一人の胸に仕舞っておくのは、気が
チヨは気付かなかった自分を恥じた。そうだ、他ならぬ栄太郎自身が、一番衝撃を受けてい
るはずではないか。実は邪教徒だった宣教師は、彼の先祖なのだから。
「俺の中には、邪教徒の血が流れているんだぜ。どうだ、怖くなったか?」
「……ご先祖がどうあれ、栄太郎さんは栄太郎さんですよ」
冗談めかしていたが、瞳は真剣だった。
「聞いてくれたのが、チヨで良かったよ」
チヨも嬉しかった。秘密を打ち明ける相手に選ばれて。無論、佐羽戸の住人ではないから、
というのが主な理由であろうが、きっと、それだけではない。
信じてくれていたからだ。
(この世でただ一人、あたしは栄太郎さんの秘密を知っているのね)
何だか、妙な優越感に包まれた、その時。
「どうだ、研究も一段落したし、久し振りに散歩でも……どうした、チヨ?」
「い、いえ、何でも……」
栄太郎の声声で、ようやく硬直が解ける。
(何、今の……?)
それは、背中にべちゃりと何かが張り付いたかのような。ぞっとするほど冷たく、それでいて
妙に生々しい、例えるなら爬虫類的な肌触りの。
そんな感覚が、突如湧き上がったのだ。
だが、念のため背中に手を回しても、無論そこに蛇も蜥蜴もいなかった。
(気のせい……よね)
書斎の扉の向こうで、絹はにこにこと微笑んでいた。
かれこれ一時間近くも、一人で延々と。
絹は、ひたすら微笑んでいる。
そして、そんな彼女の背中を、廊下の角からそっと窺う……。
〜3〜
気が付くと、チヨは見覚えのある場所を歩いていた。
(聖域の森……?)
石守家の司祭のみが入れる、禁断の領域。
夜のようだ。針葉樹の合間から差し込む月光が、闇にヴェールのように揺らめいている。
(あたし、どうしてここにいるんだろう……?)一
|
思考が纏まらない。頭の中に、霞がかかっているようだ。かかったまま、足だけが勝手に前
に進む。
どこからともなく、太鼓の音が聞こえる。和太鼓ではないようだ。早いリズムによる連打は、ど
ろどろどろとも聞こる。聞き慣れない反面、妙に耳に馴染むのは、どこか心臓の鼓動に似ている
やがて、針葉樹が疎らになり、その姿が現れる。
(黒い石碑……)
黒い表面に月光をぬらぬらと照り返す様は、妙に生物的だった。これこそが、石碑の真の姿
なのだと思った。陽光の元では、死んだように眠っていた石碑が、今、月光の元で目を覚まそ
その石碑が、月光を遮って出来た影の中に。
(誰かいる……?)
ぼっ! ぼっ! 石碑の左右に篝火が燃え上がり、その姿を照らし出す。
男だ。しかし、それ以上のことは分からない。
その顔は、獣を模した被り物で隠されていたからだ。
腰に毛皮を巻いただけの半裸で、手首には絡み付く蛇のような腕輪、首には骨を繋いだ首
そして、その手には、ぐねぐねと波打つ、奇妙な刀身の短剣が握られていた。
その姿を見た瞬間、チヨは確信した。自分は、この人の呼びかけに応じて、ここへ来た。
万難を排してでも、来なければならなかったのだと。
どろろろろろっ! 高まる心臓の鼓動に合わせるように、太鼓のリズムが加速する。
これが何なのか、ようやく分かった。
世界中どの宗教、どの民族も、持たないものなどないと断言できる、言わば人類の本能。
(お祭……)
被り物の男が、逞しい腕を差し伸べる――山歩きに慣れていないチヨを、気遣うように。
チヨは、まるで炎に吸い寄せられる蛾のように、その懐に……。
しゃっくりのような声を上げて、布団を跳ね上げる。
そう、チヨは寝台の上にいたのだ。
(あの男の人は……? それに、ここはどこ……?)
窓からは朝日が差し込み、ちゅんちゅんと小鳥の囀りが聞こえてくる。
(あたしの部屋……?)
そう、ここはチヨのために用意された客室だ。そこで、ちゃんと昨晩も天蓋付の寝台に入ったで
聖域の森になど、いるはずがない。
(夢か……)
ようやく、状況を把握する。
(変な夢だったなぁ……)
どうして、あんな夢を見たのか。多分、昨日栄太郎から聞いた、石碑の話のせいだろう。洪牙
利はシュトレゴイカバアル村から、海を越えて“運ばれて”来た、邪神崇拝の……。
そこまで思い出した所で、チヨの心臓が跳ね上がる。
(それじゃあ、あの男の人は……!?)
そうだ、あんな格好をした人が、善良な紳士の訳がないではないか。
(邪教徒だったの……?)
近隣から赤子や乙女を誘拐しては、生贄に捧げたという……あの男が手にしていた物を思
い出し、震え上がる。
そう、短剣だ。いかにも、生贄の血をたっぷり吸い込んでいそうな……。
(夢の中とは言え……)
どうして、警戒もせずに近付いて行ったのか。そうだ、夢の中では、恐怖は感じていなかっ
た。そう言う意味では、あれは悪夢ではない。いや、むしろ、とても高揚した気分だったような気さ
|
そう、あの男が腕を差し伸べるのを見た時、前にもこんなことがあったような気がして……あ
の時も、胸が高鳴って……気付かれやしないかと、気が気でなくて……。
所詮、夢ではないか。いや、夢とは言え、あんなものを見るのは、栄太郎や佐羽戸への冒涜
だ。全ては、遠い過去の、遠い異郷の地でのことだ。
(外の空気でも吸って……)
夢など忘れよう、そう思った。
そして、寝台から出て、スリッパを履いて。
そこで、初めてそれに気付いたのだった。
「“余所者は出て行け”だと……!?」
栄太郎が、憤然と読み上げる。
客室の白い壁紙に、血を思わせる赤いインクで書かれた文章を。
誰に当てたものなのかは、考えるまでもない。
「寝る前は、こんなものはなかったんだな?」
「ま、間違いありません」
つまり、チヨが寝入ってから書かれたことになる。悪意を抱いて、部屋に忍び込んできた何者
かの手によって……その場面を思い浮かべ、震え上がる。絹が肩を抱いていてくれなければ、
パニックに陥ってしまっただろう。
「サンルームの窓が割られていました。そこから侵入したのでしょう」
屋敷を見回ってきた金谷が報告する。
「くそっ、誰がこんなことを……」
「……村の者の仕業かと」
金谷の声には、一切の感情が反映されていなかった。
「まさか!? みんな、チヨのことは歓迎して……」
「ほとんどの者は、そうでしょう。しかし、中には頑迷な輩もいるかもしれません。ご主人様の手
前、態度には出さなかったでしょうが」
栄太郎は愕然としている。チヨも信じたくなかった。村人たちのあの純朴な笑顔の中に、偽りの
|
あの少し後、祭に出てみないかと、栄太郎に誘われている。それが村の“頑迷な輩”の耳に
入って、こんな行動に走らせたのかもしれない。
余所者が祭に出るなど、信仰への冒涜だ、と。
「佐羽戸は数百年もの間、隠れ切支丹の村でした。その名残は、我々が思っている以上に、色濃
|
く残っていたようです」
「聖書に“余所者は追い出せ”なんて書いてないぞ!」
栄太郎が怒鳴る。無論、金谷に怒っている訳ではない。
いつもは遠慮のない絹が、さすがに躊躇いながら言う。
「とりあえず、駐在に連絡しましょう」
栄太郎が何と言いかけたのかは、チヨにも大方見当が付いた。小さな村とは言え、人口は数
百だ。その中から犯人を特定するなど、果たして可能か。第一、仮にできたとして、それで済む
問題ではない。
犯人は何人いるかも分からない、“頑迷な輩”の一人に過ぎないのだから。
(ああ、今日も、いつも通りの一日が始まるとばかり、思っていたのに)
打ちのめされる反面、妙に納得もしてしまう。そう、彼女は嫌という程知っている。日常という
ものが、砂上の楼閣に過ぎないことを。
ほんのちょっとしたことで、いともあっさり崩れ去る。
「ごめんな、チヨ……でも、佐羽戸を嫌いにならないでくれよ」
「そ、そんな、栄太郎さんが謝ることないですよ」
その後、せめてもの対策として、夜間は鎧戸を閉めること、チヨと絹が同じ部屋で寝ることな
どを決めた。
〜4〜
が、その程度で諦める犯人ではなかった。
「ご主人様、お手紙が届いております」
「どれどれ、差出人は……書いてないな。誰からだろう……うっ!? こいつは……」
例の脅迫文が、今度は郵便で届いたり。
「ふ、噴水の中に……」
首を切り落とされた鶏が浮かんでいたり
「何だって!? チヨが……」
「はい、幸いお怪我はなかったのですが……」
買い物帰りに、何者かに石を投げつけられ、危うく直撃しそうになったり。
あの日以来、一日も欠かさずに脅迫は続いた。
異常としか言いようのない執拗さ。しかも、慣れさせまいとするかのように、毎回手を変え品を
変え攻めてくる。
結果、僅か数日で、チヨは参ってしまった。余所者は出て行け、余所者は出て行け、余所者
は出て行け……犯人の脅迫が、四六時中耳元で囁かれているようで、食事も喉を通らない。
「チヨ様を本邸にお留めするのは、危険かもしれません」
金谷がそう言い出すのは、おそらく誰もが予想していただろう。
「ご足労ですが、別荘にでも移って頂くのがよいかと」
チヨもそう思った。これ以上、石守家の人々に迷惑はかけられない。
「チヨ一人でか?」
ぼそりと、栄太郎が呟く。
「もちろん、使用人はお付けします」
「そういう意味じゃない」
静かな声だったが、さしもの金谷が、たじろく程の気迫が込められていた。
「俺達は一緒に行けるのかと聞いてるんだ」
「それは……もうすぐ祭ですので、ご主人様には村を離れられては……」
彼の双眸が、真っ直ぐにチヨを捉える。
「君は、どうしたい?」
何て、澄み切った瞳。一点の曇りもないそこに、自分の姿が映っている。そう、真実の自分の
姿が。
気が付くと、チヨは――
――口にしていた。本当の望みを。
できなかった。あの鏡像に嘘を吐くなんて。それは、彼の瞳の曇りのなさをも、否定すること
「ご、ご迷惑おかけして、申し訳ありませんが……」
「迷惑なもんか。言っただろ、君の力になりたいって」
にっと笑い、いつもの顔に戻る栄太郎。そして、使用人達も。
「そうですよ、こんな時代錯誤な連中の言いなりになることないですよ」
「確かに、それでは石守家の威信に関わりますな」
数日振りに、屋敷にいつもの空気が戻ってくる。その暖かさに包まれ、チヨは確信した。自分
は、これを失いたくないのだと。
もう二度と。
(いずれは、帝都に帰るのだとしても……)
その時は、この暖かさを土産に帰りたい。
「でも、いいの? 危険かもしれないのよ」
「か、覚悟の上です」
「はは、チヨは勇敢だな。じゃあ、俺も勇気を見せなくちゃな。任せろ、秘策があるんだ」
思いもかけない栄太郎の言葉に、一同は目を丸くする。
「絹さん、包丁を持ってきてくれないか。一番、よく切れる奴をな」
「何に使うんです?」
「切り落とすのさ、俺の指を」
あまりに平然と言うので、しばらくの間、誰も反応できなかった。
「ああ、包帯はいらないぜ。巻かないで見せた方が、効果あるだろうからな」
「ご、ご主人様、何を……」
ようやく金谷が動き出したが、その声から、いつもの冷静さは、完全に失われていた。
彼とは対照的に、栄太郎は不敵な笑みさえ浮かべて続ける。
「村中の人間を集めて、言ってやるのさ。見てるか犯人ども、チヨを苛めたら、その度にこうし
なるほど、脅迫には、脅迫で対抗しようと言う訳だ。脅迫者一味とて佐羽戸の人間、栄太郎
は大切な“坊ちゃん”のはずだ。これは効くだろう。
などと感心しているチヨは、実は混乱の極みにいた。
「イエス様は、全人類の罪を肩代わりして、十字架に掛かったんだ。俺だって、犯人の罪を肩
代わりして、指ぐらい落としてやるさ」
「お、おやめ下さい、ご主人様! どうか冷静に……」
「ああ、俺はいたって冷静だぜ?」
その通りだ。彼は冷静で、かつ本気だ。
このままでは、本当にやるだろう。
「え、栄太郎さん、駄目ですよ、あたしなんかのために……」
あわやという所で我に返ったチヨが、慌てて加勢に入る。
しかし、内心では、全く相反する感情が湧き起こっていた。
(栄太郎さんが、あたしを……)
身を挺して、守ってくれようとしている。姫を庇って、矢玉に身を晒す騎士のように。
結局、そんなことしたら、チヨちゃんが責任感じますよという、絹の冷静な指摘で、この案は保
留となったが。
「みんな、大袈裟だなぁ。指の一本や二本落としたって、死にゃしねえって」
栄太郎は気楽そうだった。きっと、本当に指を落としていたとしても、この調子だったろう。
少し……いや、本当にほんの少しだが、それを見てみたかったと思ってしまったのは、いけな
蜂蜜の風呂に浸かっているような心地のチヨは、気付いていない。
背後から吹き付ける、肌では感じられない冷気に。
氷結地獄もかくやという、絶対零度のそれは、しかし、チヨを包む幸福感に弾かれ、びょうび
ょうと狂おしく旋回し……。
やがて、めきめきと結晶していく。
触れるもの全てを切り裂く、凍て付いた氷の刃へと。
その刀身は、透明だった。
最早、一切の迷いは無かった――。
〜5〜
祭とは、何か。
祭の本質とは、何か。
祭る神ではない、祈る願いでもない。
祝詞の文句でも踊りのステップでもなく、儀式の形態でもない。
祭の本質とは、人々の絆である。
そもそも、祭に参加する人々は、何らかの共通点を持っている。同じ土地に住んでいる、同じ
|
生活様式を持っている、同じ神を信じている……。
祭とは、そうした共通点を持つ者同士が、一堂に会することで、お互いが仲間であることを、
再確認する行為である(豊作祈願など、表向き掲げている目的は、実は二の次……とまで言っ
ては、言い過ぎだろうか)。
政治的、あるいは宗教的弾圧などで祭を禁じられると、人々は決まって激しく抵抗する。弾圧
勢力に対して、正面から立ち向かうこともあれば、隠れて祭を続けることもある。その最たる例
が、我が祖先たる隠れ切支丹であろう。
彼らが、そうまでして祭を守ろうとする理由は、唯一つ。祭を禁じられることは、祭を通して繋
がっている、仲間の絆を断ち切られるに等しいからである。
逆を言えば、祭を通して繋がった強い絆が、人々の意思を束ね、そうした集団自衛を可能に
しているとも言える。祭は自治体を守る、防壁の役割を果たしているのだ。
これは、一見美談のようだが、そこには影の面もある。すなわち、過剰な一体感が、全体を
守るためには、個々の犠牲を厭わないという、蟻や蜂の心理をもたらすのである。
その最たるものこそ、人身御供だ。権力者に死後も仕えるため、生きたまま埋葬された“人
|
柱”。子供を神主に仕立て、一年の任期終了時に生贄にしたという“一年神主”など、枚挙に暇
人身御供は外国でも見られ、南米インカ帝国では、太陽の衰えを防ぐためと称して、毎月の
ように、生贄の心臓をナイフで抉り出したという。無論、太陽云々は建前で、真の目的は、人々の
|
その様は、あたかも、便利な道具であったはずの祭に、逆に人間の方が操られているかの
果たして、祭の主催者は人か、それとも祭そのものか。
石守栄三著、〈日本の秘祭、奇祭〉より抜粋
|
栄三の遺作となったその本を閉じて、金谷は壁に掛けられた絵を見上げた。
静謐な月明かりの中、五年前から変わらぬ姿で、栄三と雪子が微笑んでいる。
今年も、もうすぐ祭がやって来る……。
『ご主人様、奥様、いらっしゃいますか!?』
金谷の呼びかけが、聖域の森に木霊する。
角灯の光程度では、到底その奥の闇は照らし出せない。だが、ここにいるのは間違いないの
踏み込む時には、無論強烈な抵抗を感じた。ここは、石守家の当主しか入ることが許されな
い、禁断の領域なのだ。その禁忌は、佐羽戸の民なら、骨の髄まで染み込んでいる。
しかし、金谷は決意した。最早、躊躇っている場合ではない。怪我でもして、動けなくなっている
可能性もある。こんな時に主を助けに行かないで、何のための従者だろう。
あそこを目指すことにする。今もいるかどうかは分からないが、少なくとも一度は立ち寄った
可能性が高い。無論、金谷は始めて行くが、上へ上へと登っていけば、辿り着けるはずだ。
進むにつれ、どんどん濃くなるのを感じる。
村とは明らかに違う、異質な空気が。
あたかも、時空の座標が狂い、世界がこの世ならぬ領域へとずれ込んでいくかのようだ。
(ここでなら、何が起きても不思議ではない……)
現実主義の金谷も、この時ばかりはそう思った。
やがて、木々が疎らになり、その姿が現れる。言い伝えでしか、聞いたことのない、村の信仰
黒い石碑。
金谷は、呆然と見つめた。漠然と想像していたものと、あまりに違って。
外見ではない。漂わせている雰囲気が、だ。
神の教えが刻まれているというから、きっと、伝説に聞く、十戒の石版のような神々しさに違いな
|
いと思っていたのだ。耳を澄ますと、神の声が聞こえてくるような……。
だが、そんなもの、目の前のこれには、微塵もない。
漆黒の表面は、ただただ光を吸い込むばかり。何も発さず、何も語りはしない。それは、人智
の及ばない闇そのものだった。
(我々は一体、何を崇めていたのだ……?)
思わず、角灯を掲げていた右手が、だらんと降りる。
その瞬間、不意に目に飛び込んできた。
モノトーンの周囲とは、対照的な色彩が。
(……赤?)
石碑の根元、月明かりが遮られてできた暗がりに、まるで彼岸花の群生地のように、鮮やかな
|
赤が広がっている。
黒い石碑との強烈なコントラストに目を眩まされたのか、さしもの金谷も、気付くのが一瞬遅
その赤の中に、横たわる人影があることに。
『奥様!?』
石守雪子。石守栄三夫人。
なぜ、もっと早く気付かなかったのか、自分を叱る。一瞬の遅れでさえ、彼の美学は許さな
当然だ。もうかれこれ、二十年近く仕えているお方なのだから。
『奥様、どうなさったのですか!?』
慌てて駆け寄ろうとして……。
匂いに気付いた。
錆びた鉄のように鼻を突く、それでいて、どこか甘くもある……。
嗅ぐのは初めてだ。だが、本能で分かる。それは、誰の体内にも流れているものの匂いなの
すうぅ、肺が勝手に空気を吸い込み始める。
気付いたせいだろう。雪子の周囲に広がる、鮮やかな赤が何なのか。
何の意外性もない、赤と聞いたら、万人が真っ先に連想するであろうもの。
血だ。
血の赤だった。
その何に恥じない、雪のように白い肌を鮮血に染めて。
雪子は、死んでいた。
金谷は絶叫しているつもりだった。限界まで吸い込んだ空気を、今度は限界まで吐き出しな
がら。しかし、現実には、ひゅうひゅうと詰まった笛のような音が洩れているだけだった。
衝撃のあまり、臓腑すら動きを止めている。
あんなに深く、皆を愛していた彼女が。
あんなに深く、皆に愛されていた彼女が。
神にだって、愛されていたはずの彼女が。
(なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだな一
|
ぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜ一
|
気が付くと、金谷は上着を脱いで、雪子の亡骸に被せようとしていた。こんな姿、見られたくは
|
ないだろうから……活動再開には程遠い頭脳では、その程度の気遣いが限界だった。
だが、実のところ、彼が冷静だったとしても、できる事に大差はないのだ。
雪子は、もう死んでいるのだから。
(奥様、わたくしは……)
何と語りかけようとしたのだろう。しかし、内省する機会は訪れなかった。
かつん。爪先が、何かを蹴飛ばした。
ぼんやりと見下ろした目が。
驚愕に見開かれる。
その視線が、雪子の亡骸へと徐々に移っていく。
足元から、じわじわと這い上がる冷たさが何なのか、金谷は自分でも分からなかった。分か
ってしまったら、瞬時に全身が凍ってしまう、そんな気がして。
その時。
――なあ金谷、母さんは何で、
びくん。金谷は全身を硬直させる。とても聞き慣れた声を聞いた気がして。
慌てて周囲を見渡す。そんな、まさか……だが、万が一、そうだったら……。いけない、他の
誰に見られようとも、あの方にだけは見られる訳には。
だが、どこにも恐れた人影はいなかった。
(そうだ、いる訳ない)
あの方は、絹に託してきた。今頃は、屋敷で両親の帰りを待っているはずだ。
(しっかりしろ、幻聴など聞いている場合か。そうだ、せめてご主人様だけでも見つけなければ
そして、確かめなければ。
ここにこれが落ちていたのは、単なる偶然だと。
『ああ、坊ちゃまが……』
両親が帰るまでは起きていると頑張っていた栄太郎だったが、ついに睡魔に負けて、ソファ
ーで舟を漕ぎ始める。お守りを頼まれていた絹は、風邪でも引いたら大変だと、すぐに寝台に
寝かせる。
『本当に、お二人ともどこに行ってしまわれたのかしら』
そういえば……と、絹は思い出す。
ご主人様も奥様も、ここ最近、何となくお元気がなかった。あれが、何かの前兆だったのでは
寝巻きに着替えさせ、布団を掛けてやると、栄太郎はむにゃむにゃと寝言を漏らす。
『なあ金谷、母さんはどうして、地面に横になってるんだ?』
|
夢の中で、両親を探しているのだろうか。もし、お二人がお戻りにならなかったら、この子は
両親を求めて、永遠に夢の世界を彷徨うのでは……絹は、不吉な想像を振り払う。
大丈夫、こんな可愛い坊ちゃまを置いて、どこへも行ってしまうはずがない。
安らかな眠りを願って、電灯を消そうとした、その時。
『せっかくの真っ赤なドレスが、汚れちまうじゃないか……』
スイッチに伸ばした手が止まる。
『赤い……ドレス?』
なぜか、その単語だけが妙に耳に残って。
石守家唯一の跡取り、腕白だが真っ直ぐな、村の宝。その罪のない寝顔を、絹は長い間、見
|
つめ続けていた。
金谷は、一心に肖像画を見つめている。
その拳が……。
小刻みに震えている。
「そう、全ては、“■”の仕業だったのだ……」
その言葉は、真っ黒な憎しみで塗り潰されていた。
「おのれ、“■”め……お二人だけに飽き足らず……そうはさせんぞ。だが、どうすれば……
“■”は、すでにご主人様のお心を……」
憑かれたように繰り返すその言葉を、しかし聞いているのは、肖像画の中の栄三と雪子だ
け。二人はただ、静かに微笑むのみ。あたかも、彼を哀れむかのように。
「迷っている暇はない、かくなる上は……」
〜6〜
「なぁ、変じゃねえ?」
「そ、そんなことないですよ。とってもよくお似合いです」
仕立ての良い三つ揃いのスーツを、確かに栄太郎は違和感なく着こなしていた。髪もきれいに
|
整えられ、ぐっと男前が上がっている。やはり、彼は名家の当主なのだと実感する。
村の中ならいつもの格好で十分だが、さすがに日本基督教会の会合に出るとなると、そうもい
かない。帝都の震災への対応について、話し合われるらしい。車でも往復で半日かかるため、
|
今夜は外泊になる。
今までの彼なら、金谷に任せてしまうところだが。
「ま、いつまでも、金谷に頼ってばかりはいられないしな」
研究が一段落したことが、そう思うきっかけになったに違いない。金谷も一安心だろう。
「でも、俺達がいなくて、大丈夫か? 確かに、あれから何も起きていないけど……」
栄太郎が、指を落とす落とさないの大見得を切ったあの日以来、なぜかチヨへの脅迫は、ぴた
|
りと止んでいた。そうでなければ、彼女を残して屋敷を空ける訳にはいかなかっただろう。
「だ、大丈夫ですよ、絹さんもいますから」
「ご安心下さい、チヨちゃんに手出しはさせません。屋敷に来やがったら、それこそ包丁で指を
切り落としてやりますよ」
「ひゅう、おっかねえ〜。チヨ、絹さんがやり過ぎないように、見張っててくれよ」
笑い声が響く。ついこの間、あんなことがあったばかりとは思えない、それは安らかな一時。
少なくとも、チヨはそう思っていた。
「でも、どうして脅迫を止めたんでしょう? その……誰かは」
だから、その疑問を口にしたのも、ただ、何となくだった。
「ひょっとしたら……見てたのかもな」
緊張した空気は……。
「窓の外からさ」
……ぎりぎりのところで、持ち堪えた。
「もう、ご主人様ったら、チヨちゃんが怯えるでしょ」
「ははっ、冗談だよ。ま、気が変わったんだろ」
「ご主人様、お車の支度が整いました」
「ああ、今行く」
「あの、栄太郎さん、その……」
急にもじもじし始めるチヨ。絹に促され、布包みを栄太郎に差し出す。
「チヨちゃんがね、お弁当を作ってくれたんですよ」
「き、絹さんみたいに、上手にはいきませんでしたけど……」
「ありがとうな。楽しみにしとくぜ」
手渡す際、彼の手が触れて、チヨは落っことしそうになるのを、必死で堪えたことである。
そんな微笑ましい様子を、絹は慈母の如き笑顔で見守って……。
「何がです?」
……ぴくりとも揺らがなかった。
二人を乗せた車が出発する時も、彼女はそのままの顔で見送っていた。
〜7〜
風に揺れる窓に、びくりと肩を震わせる。
夜の屋敷はひっそりと静まり返って、普段は気にならないような物音も、やけに大きく聞こえ
る。やはり、住人が二人もいないせいか。
正直、不安がないではないが、せっかく栄太郎が過去を振り切って、前進しようとしているの
だ。その足を引っ張りたくはなかった。一晩だけの辛抱だ。
(大丈夫よ。あれ以来、何も起きてないし……)
きっと、脅迫者は諦めたのだ。万が一、そうでなかったとしても、しっかり戸締りしたし、絹もい
る。何も手出しできやしない。そう言い聞かせて、栄太郎が貸してくれた〈グリム童話集〉に目を
戻そうとした時だった。
チヨは思わず、犬のように鼻を動かした。
とても、美味しそうな香りが漂ってきたのだ。
(絹さんが、お料理してるのかしら……こんな時間に?)
そろそろ、真夜中になろうかという時刻である。無論、夕食は済んでいる。
(明日の準備かしら。こんな時間まで大変だなぁ)
それなら、何か手伝いをと思い、厨房へ向かうと、予想通り、明かりが点いている。
覗いて見ると、絹は鼻歌を歌いながら、鍋の中身を掻き混ぜていた。
「絹さ……」
声を掛けようとして、一瞬躊躇う。
彼女の後姿に、突拍子もない連想をしてしまって。
真夜中に、一人でこっそり鍋を……そう、まるで、さっきまで読んでいた、グリム童話に出てく
る魔女のような……あの中身は、きっと恐ろしい毒薬で……いひひと歪んだ笑みを浮かべなが
「あら、チヨちゃん。まだ起きてたの?」
等と言うのは、無論妄想だった。振り返った絹は、いつも通りだったし、鍋の中身も香りで分か
る。西洋出汁を煮ているのだ。
「え、ええ、何かお手伝いしましょうか?」
「ウフフ、大丈夫よ。もう、あらかた終わったから。待ってて、何か温かい物でも出すわ」
(あ、あはは、何を考えていたのかなんて)
口が裂けても言えないと思った。
温めた牛乳に口を付けながら、しばらく取り留めのない話をした。
話の合間に、内心溜息を吐くチヨ。
(同じ女で、こうも違うものかしら……)
何回見ても、そう思わずにはいられない。帝都の劇場に立っていても、彼女なら全く違和感
はないだろう。神様は慈悲深い御方だそうだが、公平であるとは、どうしても思えないチヨだっ
「そう言えば、もうすぐですね。村のお祭」
自然に、話題はそのことになる。
「やっぱり、出ることにしたの?」
小さく、しかしきっぱりと、チヨは答えた。
「せっかく、栄太郎さんが誘ってくれたんですもの」
今や、彼女にとって祭は、授賞式か何かに等しい重みを持っていた。誰にどう妨害されよう
が、諦める訳にはいかない。
それは、生まれて初めて彼女が決めた、そう、覚悟と呼べるものだった。
「そうね……うん、心配いらないわよ。ご主人様や、金谷さんも一緒なんだから」
肯きかけて、チヨは首を傾げた。
「え? 絹さんは出ないんですか」
村人全員が参加すると聞いていたのだが。仕事の予定でもあるのだろうか。
「ええ、私には、お祭……」
絹の声が、ほんの微かに――。
「……“祭”に出る資格がないから」
――低くなった。
「資格?」
そんなものが必要だなんて、初耳だった。なにせ、村人ですらない自分だって、参加できるぐ
らいなのだ――それを、よしとしない輩はいるものの――。なのに、れっきとした村人である絹
「ねえ、チヨちゃんのお父さんは、いい人だった?」
突然、脈絡のないことを聞かれて戸惑う。
「え、ええ、まあ。頑固者で、たまに困らされることはありましたけど……」
「そう……羨ましいわ」
絹は、そっと顔を伏せた。彫りの深い顔立ちに、暗い影が落ちる。
「私の父親は、そりゃあどうしようもない男でね。ろくに仕事もせずに、お酒飲んじゃあ、お母さ
んや私に当り散らして……本当に、お母さんも、あの男のどこが良くて結婚したのかしら」
思いもかけない告白に、チヨは胸を突かれた。
「お母さん、とうとう我慢できなくなって、村を出て行ってしまってね。残された私は、前にも増し
て、父親から暴力を受けるようになったわ。本当に、毎日が地獄のようだった……」
(絹さん……)
想像もしなかった。彼女がいつもの笑顔の下に、そんな悲しい過去を隠していたなんて。あ
あ、でも、だからなのか。僅かに隠し切れない暗さが、あの神秘的な雰囲気を、彼女に纏わせ
「いっそ、死んでしまおうかと思っていた矢先に、石守家が救いの手を差し伸べて下さったの。
女中にならないかって。父親は渋ったけど、石守家には逆らえなくてね。ようやく私は、あの男
から解放されたのよ」
「今でも、よく覚えてるわ。ご主人様に……いや、当時は坊ちゃまだったけど」
一転して、微笑みがその顔から影を払う。
「安心しろ、俺が悪い親父から守ってやるからなって、大真面目に言われて……。嬉しいやら、
|
可笑しいやらで、何年かぶりに笑ったわ。まるで、お姫様を助けに来た王子様みたいだった。随
分、ちっちゃな王子様だったけどね」
自分と同じだったのだ。石守家の好意で地獄から救い出され、栄太郎の励ましで笑顔を取り
戻した。嫁にも行かずに女中を続けているのは、その恩返しなのだろう。
……などと、しみじみしているチヨは、首を傾げるのを忘れている。
絹はなぜ、そんな告白をするのだろうと。
今、このタイミングで。
「石守家の皆さんには、本当に感謝してるわ……けど」
チヨは、まだ気付いていない。
絹の笑顔が、石膏像のそれのような、がちがちに強張ったものだという事に。
「残念ながら、すでに手遅れだったのよね……」
「石守家が迎えに来てくれる、一週間ぐらい前からかしら……あの男がね」
がたがたがた。風が窓を揺らす。あたかも、絹を咎めるように。よせ、少女に聞かせるような
話ではないと。
しかし、彼女は意に介さずに……。
「毎晩、私の寝台に入ってくるようになったの」
絹の言葉を、チヨは思わず、つるりと飲み込んでしまった。意味を深く考えずに、それはま
た、随分と子離れのできないお父さんだなあぐらいのつもりで。
ぎょっとしたのは、一瞬後だった。
絹が女中になったのは、六年前だと聞いた。しかし、彼女は当時、すでに十代後半だろう。そ
んな歳の娘が寝ているところに、毎晩父親が入ってくる?
何だ、自分は今、何を飲み込んだのだ。
「信じられる? 仮にも父親が、実の娘にそんな仕打ちをするなんて……」
ようやく気付く。腹の中を這いずり回っている、おぞましい感触に。
「あの男にとって、私は娘じゃなかった。自分を捨てた、憎い妻の分身だったのね。私に覆い被
さりながら、言ってたわ。お前も、ここを出て行くんだろう、俺を捨てる気だろう、そうは行くか、
なぜだろう。歌うかのような、楽しげな口調で、絹は続ける。
「今でも覚えてるわぁ、あの男の放った汚いものが、どろどろと体の中に注ぎ込まれる感覚…
…そうよ、私は汚れてるの。私の血には、あの男の汚れが溶け込んで、今も全身の血管を巡
ってるのよ……ああ、汚い。何て汚い、私」
自分の容姿を、ちっとも鼻にかけない、確かに謙虚な人だとは思っていた。だが、まさか、自分
のことを、そんな風に思っていたなんて。
汚い、などと。
この人も、自分と同じ?
違う。この人は、そう、手遅れだったのだ。
今も、その魂は地獄に囚われたままなのだ。
「もう、分かったでしょ? なぜ、私が“祭”に出られないのか。当然よ、神様がお許しになるは
ずないわ。実の父親に〜〜された、汚らわしい犬畜生の私が、聖なる“祭”に出るなんて。ウフ
フ、だから私は、一人寂しくお留守番……」
それはおそらく、絹の中にしかない掟。しかし、彼女にとっては、絶対の禁忌なのだろう。
私ハ汚レテイル。ダカラ、“祭”ニ出ル資格ナドナイ――。
「き、絹さんは汚れてなんか……」
ようやく絞り出した、チヨの言葉は。
「そう言えばチヨちゃん、ご主人様に〈グリム童話集〉を借りてたわね」
またしても飛び出した脈絡のない話題で、華麗に弾かれた。
「白雪姫はもう読んだ?」
操り人形のように肯くしかないチヨ。糸を握っている絹の思うがままに。
「白雪姫の美しさに嫉妬したお妃が、殺してしまえと召使いに命令する場面があるでしょう? 原典
|
ではね、お妃がした命令はそれだけじゃなかったの。殺した後、その心臓を持ち帰れって言う
「し、心臓を……!?」
「結局、白雪姫を殺せなかった召使いは、代わりに猪の心臓を持って帰るんだけど、お妃はそ
れをどうしたと思う? ……食べちゃうのよ。バターで焼いて、ぺろりとね」
かたかたかた、鍋の蓋が鳴り始める。西洋出汁が、温まってきたのだ。
「何だって、そこまでしたのかしら? 私は、こう思うの……心臓って、命の源ってイメージがあ
るじゃない? お妃はそれを食べることで、白雪姫の清らかさを、我が物にしようとしたんじゃな
いかしら。まさに、一石二鳥って訳よ」
チヨは声もない。
絹の顔を覆う彫像の笑顔に、無数のヒビが入り始めているのに気付いて。
絹は鍋の蓋を開け、中身を覗き込む。その動きは、滑らかだった。舞台女優が、台本通りに
動いているかのように。
一切の迷いなく。
「後は、具材を入れるだけだわ……チヨちゃん、何だか分かるぅ?」
「分かりません……」
そう答えるのが、精一杯だった。
しかし、それで十分だった。
絹の彫像の笑顔を、粉々に打ち砕くには。
「ぅあなたの心臓に決ってるじゃなああああぁぁぁぁぁぁぁい!?!? ひゃあっはははははは
|
ははははははははははは、うひいっひひひひひひひひひひひひひひひひ!!!!!」一
|
〜8〜
その下から現れたのは。
耳まで口を裂くような狂笑と、零れそうなほど見開かれた血走った目。
想像すらしなかった。彼女の顔が、こんな表情に歪みうるなんて。
猛禽の鉤爪のような手付きで、まな板の上のそれを掴む。
そう、よく砥がれた、愛用の洋包丁を。
「まだトクントクンと動いてるチヨちゃんの心臓をね、塩と胡椒で下味付けて、そのままお鍋へぽい
|
っっっっ!!! 西洋出汁でじぃっくりぐつぐつ煮立てれば、美味しい美味しいチヨちゃんの心
臓スープの出来上がりいいいいい!!!」
夢だ、これは夢だ。チヨは必死で、己に言い聞かせる。さっき読んだ〈グリム童話集〉のせい
だ。絹さんが、人食いの魔女になって襲い掛かってくるなんて。
そう思い込みたかったのに。
分かりたくないのに、分かってしまう。危機を目前にした生存本能が、チヨの思考回路にフル
回転を強要している。
「あの脅迫は、絹さんが!?」
余所者は出て行け、余所者は出て行け、余所者は出て行け……あの執拗さ、あの偏執さ、なる
|
ほど、今の絹とぴったり一致する。してしまう、あまりにも。
それでも信じたくないチヨは、必死で彼女を庇う。奇妙なことに。
(で、でも、サンルームの窓が破られていて……絹さんなら、あんなことする必要は……)
しかし、無慈悲な理性は、チヨに現実を見ろと促す。
(偽装……外から入った誰かの仕業に見せかけるための)
それに、何より。
『でも、どうして脅迫を止めたんでしょう? その……誰かは』
『ひょっとしたら……見てたのかもな』
その通りだ。しかし、窓の外からなどではない。
『モウ、ゴ主人様ッタラ、ちよチャンガ怯エルデショ。クケケケケケ』
自分の、すぐ横でだったのだ。
そして、業を煮やして、遂に実力行使に……。
そして、動機。そうだ、絹の目に、自分はどう映っていたのだろう。身も心も汚れきっていると
思い込んでいる彼女の目に、未だ男を知らぬ自分は。
まさに、お妃から見た、白雪姫だったに違いない。
原因があって、結果がある。
これは間違いなく、因果の連なりから成る現実だ。
「き、絹さん、落ち着いて……!」
じりじり、じりじり……獲物を追い詰める、肉食獣の動きで迫る絹。逃げろと執拗に命じる本
能に逆らい、チヨは必死で説得を試みる。
「絹さんは、そんなにお綺麗じゃないですか……!」
同じ女として、羨ましい限りだった絹。
「絹さんは、あんなに優しかったじゃないですか……!」
実の姉妹も同然、とまで言ってくれた絹。
そんな彼女は。
「チヨちゃああぁぁぁぁんん……心臓をおくれえええぇぇぇ……!!」
もう、この世のどこにもいなかった。
遂に生存本能に屈し、転がるように厨房を逃げ出す。
「栄太郎さん、金谷さん……!」
助けを呼ぼうとして、はっと気付く。留守だ、二人とも。絹は、この機会を狙ったに違いない。
今、この屋敷で、自分は人食い魔女と二人きり。
絶望で立ち尽くしたチヨの背後に、凶風が迫る。
きえーっとも、ひゃーっともつかない奇声と共に振り下ろされる洋包丁。
ずばああああ! 奇跡的に、身をかわすチヨ。切り裂かれたのは、服だけだった。その下か
ら覗く、滑らかな少女の肌に、絹の血走った目は釘付けになる。
「ああああ、何て綺麗なの、何て清らかなの、まだ、男に触れられたことすらないんでしょうね!
きっと、その下を流れる血は、出来立てのワインのように清純で芳醇に違いないわ!」
嫉妬……違う、絹の声に漲っているのは、ただただ純粋な羨ましさだった。路上の娼婦が、天
|
上の女神を仰ぎ見ているかのような。
それが、より一層、異様で悲壮だった。
背後から迫る狂笑に追い立てられながら、必死で逃げる。恐怖が知覚を狭める、歪める。廊
下の先が、ドアの向こうが、どうなっているのか思い出せない。あたかも、屋敷が見知らぬ場所
に変わってしまったかのように。
気が付いた時には。
三階のバルコニーに追い詰められてしまっていた。
三方の手摺の向こうは、暗闇の虚空。
そして、背後の唯一の出入り口には。
「待ってえええぇぇぇ……チヨちゃあああぁぁぁん……!」
吹き荒れる風に、長い髪を乱れに乱れさせる絹の姿は、最早魔女そのもの。以前の彼女の
振り上げた洋包丁が、月明かりにぬめぬめと輝く。
「あなたの心臓を食べて、私は清らかさを取り戻すの……そうすれば、私も“祭”に行ける!
突進しながら、絹が放った絶叫は――。
「ご主人様と一緒にいいいぃぃぃぃ―――っっ!!!」
――まるで、血を吐くようで。
(絹さん……そうか)
この人は……。
洋包丁が、チヨの胸を抉る。
寸前で。
ぐらり。絹の体が、傾く。
風のせいだろう。彼女の足元に、植木鉢が転がって来たのだ。
気付かず踏んでしまい、姿勢を崩し……。
気が付くと、バルコニーにはチヨしかいなかった。
しばらく放心していたが、はっと気付き、手摺から身を乗り出す。
ぴかっ! 雷光が、その姿を照らし出す。
「き、絹さん……!?」
チヨは、息を飲んだ。
とっさに連想したのは、昆虫標本だった。
そう、ガラスケースの中で、ピンに貫かれていた蝶のように。
屋敷を囲う鉄柵の尖った先端が、絹の胸を貫き、空中に磔にしていた。
なぜだろう、その死に顔は、とても穏やかで。
その頬を、涙の跡が伝っていた。
『安心しろ、俺が悪い親父から守ってやるからな!』
ああ、何て眩しい……。
あの人の笑顔は、まさに太陽だった。
あの男が支配する闇の世界から、私を助けに来てくれた。
でも、駄目……これ以上は、近づけない。
光の下に出て行ったら、露になってしまう。
あの男に汚された、みすぼらしい姿が。
だから、私にできるのは、光と闇の狭間の暗がりから、あの人の姿を窺うことだけ。
ああ、私も“祭”に行きたかった。
あの人の手で、真っ赤なドレスを着せて欲しかった……。
「駐在と医師には、こちらから連絡しておきます。我々も、すぐに戻りますので……」
「お、おい、ちょっと代わってくれ! チヨ、大丈夫か!? ああ、泣くなよ、君のせいじゃない…
電話口で必死にチヨを宥める栄太郎に聞かれないように、金谷は呟いた。
「駄目だったか……」
|