〜1〜

「たとえ、死のかげの谷を歩もうとも……」
 自分など、形だけのお飾り司祭だと言っていた栄太郎。だが、黒い司祭衣を纏い、絹のひつぎ
前に聖書の詩篇しへんを読み上げる姿は、チヨの目にはまさに“キリスト教の司祭様”そのものだっ
た。 
 列席している村人達は 、一様に沈痛な表情だった。女性達の中には、すすり泣く人もい
る。彼女は、村人達にも されていたのだろう――自分だって、そうだった。
 対して、壇上の栄太郎は、私情を えずに、淡々と司祭の務めを果たしているように見える。
彼のことをよく らない人間から見たら、たかが使用人のことなど、何とも思っていないようにさ
 えたかもしれない。
 しかし……。 
(そんな がない……)
 あれは、彼の 一杯の抵抗なのだ。両親に続いて、またしても、自分の家族に無慈悲な牙を
いた死への。司祭という役割を殊更ことさら演じることで、自分に言い聞かせているのだ。
 大丈夫、死者の は天国で安らいでいる。だから、悲しむ必要はないのだ、と。
(やっと、ご両親の を乗り越えかけていたところだったのに……)
 今度は何 かかるのだろう、乗り越えるのには。
 さん……)
 結局、彼女の は、単なる事故ということになった。本当のことは、誰にも話していない。話
せる がない。
 だから、彼女の しみを知っているのは、自分だけ。
 さんは、実の姉貴みたいなものだったんだ……」
 彼に悪気がないのは かっているが、チヨは悲しくなる。
 さんにとって、栄太郎さんは弟じゃなかった……)
 絹を埋葬し わって、村人達も去り。
 十字架が ち並ぶ墓地に残っているのは、チヨと栄太郎だけだ。
 絹の を天国に送る鐘の音を聞きながら、彼女の最期の言葉を思い出す。
『そうすれば、 も“祭”に行ける! ご主人様と一緒に……』
 そう、絹は の誰でもない、栄太郎と共に祭に行きたかったのだ。
 主人と 中としてではなく、無論、姉と弟としてでもなく。
 ただの、 と女として。
(いつからだったのかしら……) 
 絹が、そういう みを抱き始めたのは。だが、すぐに、考えるまでもないことに気付く。
 ……最 からだ。
『まるで、お姫様を けに来た王子様みたいだった……』
 しかし、 れている自分には、お姫様の資格などないと、彼女はあくまで女中として、姉として
振る舞い け……まさに、目の前に水がありながら、一滴も飲むことが許されないタンタロス
 しみだ。
(ああ、それじゃあ……) 
 絹は地獄を抜け出した途端、別の地獄にちてしまったのか。そして、苦しみに耐えかねて、
とうとうあんな妄想に かれ……。
 今、 によって、ようやく安らいだというのか。
(キリスト の神様は、何て残酷なの……)
 やるせなさが、ずっしりと胸に し掛かる。遅すぎる、今さら天国の門を開くぐらいなら、どうし
てもっと早く絹を けてくれなかったのか。
 せめて、彼女が石守家に えられるのを、一週間早めるだけでも良かったのに。
「もうすぐ、 だな……」
 村では、すでに の準備が始まっている。今のチヨの目に、それは理解不能な光景と映っ
た。 
 どうして らは、こんな現実を押し付ける神を祭るのだろう。
「……って、 ってるのかい?」
 栄太郎にずばり い当てられ、慌てて否定する。今の彼に、それはあまりに酷な質問だろ
う。 
 だが、 を見上げる彼の顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「そうだな……。ま、俺に信仰心が りないせいかもしれないけど、正直、神様って奴は、何を
考えているのかよく からないな」
 ああ、今なら かる。なぜ彼が“信仰って奴がピンと来ない”のか。
 五年前の悲劇のせいに まっているではないか。
 むしろ、形だけとは え、良く司祭など務まっていると言うべきだろう。できるものなら、神の
胸倉を掴んで、なぜ両親を けてくれなかったと、怒鳴り付けたいぐらいではないのか。
「チヨだって、どうしてあの地震を めてくれなかったんだって思うだろ? 俺達だけじゃない
さ。村の にだって、神様を信じられなくなりかけたことはあっただろう」
 そうだ、自分達だけではない。 もが、家族に見とられながら、安らかな死を迎える訳ではな
い。 
 不条理な死を前に、彼らは わないのか。もう神など信じない、と。
「それでも、俺たちは をする。何百年もの間、ずっと途切れることなく続いてる……どうしてだ
 う?」
「……どうしてでしょう」 
「そりゃあ…… まってるじゃないか」
 栄太郎は、 も無げに言った。
 しいからさ」
「は?」 
「楽しいじゃないか、 って」
 チヨは、はっとする。 
 彼の陽気な笑顔に、 が伝うのが見えて。
「皆で集まって、一緒に いで……まるで、皆と一つになったような気分になる。どんな寂しさを
抱えていても、この ばかりは忘れられる。だから……人は、祭を止めないのかもしれない」
(栄太 さん……)
 チヨの には、確かに映っていた。
 現在の栄太郎に なるように、五年前のまだ幼い頃の彼の姿が。
 同じように、 いながら涙を流している。 
 どちらからともなく……。 
 二人は、 を繋いでいた。
 気が いても、離そうとはしなかった。
 チヨは同時に感じていた。現在の栄太郎の手の頼もしさと、幼い栄太郎の手のいとおしさを。
(…… かい)
 体を ってしまった、父の手とは違う。この手には、ちゃんと血が通っている。側にいてくれ
と、指の一本一本に を込めている。
 一緒に、祭に こうと。
「……お祭、 しみましょうね。絹さんの分も」
「ああ……!」 
 天上の のためなどではない。
 これからも、地上で きなければならない、自分達のために。
 祭は、間もなく まる。

〜2〜

 金谷は、油断なく 囲を見渡した。
 万が一にも、 に見られる訳にはいかない。
 警察と医者には、何とか事故ということで納得なっとくさせた。後は、こいつさえ始末すれば……。
 無論、抵抗は感じる。これは、石守家に代々受けがれてきた物だ。ここまでする必要があ
るのか。村の中に ちていたとでも言えば、済むことではないのか……。
 いや、駄目だ。栄三が聖域にたずさえて行ったはずのこれが、なぜそんな所に落ちていたのかと
問題になるだろう。 が一にも、雪子の死とこれを、結びつけて考えられたら……。
 石守家の威信は、地に堕ちてしまう。のみならず、残された栄太郎の心痛は如何いかばかりか。躊
躇っている場 ではない。これは、栄三と共に行方不明にならなければならないのだ。
『金谷さん、 太郎をお願いね』
 雪子の最後の言葉を い出す。あの時は、祭の間、栄太郎を見ていてくれという意味だとば
かり思っていたが、 なら分かる。彼女は予知していたのだ。もうすぐ自分が、この世からいな
くなることを。 
(はい、奥様。この に代えましても……)
 彼女が した、あの方だけは……。
 金谷が い切り放り投げたそれは、崖の下を流れる深い沢へ、放物線を描いて吸い込まれ
……。 
 ぎらり。 
 水面に ちる寸前、鋭い輝きを放った。
 これで わったと思うなよ、と金谷を嘲笑うかのように。
 慄然りつぜんとする彼を見上げながら、それは い水中に没していく……。
……。 
 明日はいよいよ、 本番だ。
 村人達は総出で準備に たり、栄太郎も教会や役場との打ち合わせで忙殺されていた。無
論、金谷が補佐していたが、それでも れたのだろう。絹の真似をして何とかチヨが作った夕
食を済ませると、早々に自室に って休んだ。
 一方、彼女は、夜中が 付いても、中々寝付けなかった。どうしても、色々なことを考えてしま
う。 
 今までのこと……これからのこと。 
(いつまでも、居候いそうろうさせて頂いてる訳にはいかないわよね……)
 ラジオで くところによると、ようやく帝都の復興も本格的に始まったらしい。祭が終わった
ら、そろそろ今後の の振り方を考えなくては。
 しかし、思考を めると、どうしても胸が苦しくなる。
 太郎さん……)
 今後どうするにせよ、ここを たら彼には会えなくなる。もしかしたら、もう二度と。
 ずっと から分かっていたはずなのに、なぜ今さらこんなに苦しいのか。
『……お祭、 しみましょうね。絹さんの分も』
『ああ……!』 
 あの時を たからに、決まっている。
 思い出す度、 くなる。自分に、よくあんな大胆なことができたものだ。
 栄太郎の手の かさは、今でもはっきり覚えている。
(ええ、そうよ。それで十 じゃない)
 本当なら、住む世界が う人なのだ。父のおかげで奇跡的に巡り合い、色々なことを教えて
もらえた。例えば、男の人が く頼もしいだけでなく、弱く愛おしいものでもあることとか。
 明日の では、さらにたくさんの思い出もできるだろう。それを胸に、帝都に帰ろう。そして、
探さなければならない。 
 父の を乗り越える道を。
 ……一人ぼっちで
 (あんまり夜更 かしすると、明日に差し支えるわ)
 そう い、寝台に潜り込もうとした、その時。
(あ、そう えば……)
 真っ なドレス。
 あまりに色々なことがあって、すっかり れていた。
『母さんが てた奴があったな。貸してやるから、ぜひ着てみてくれよ』
 そう えば、金谷が探しておくと言っていたが、どうなっただろう。
(明 になってから、どたばたしちゃいけないわ)
 金谷に いておかなくては。まだ起きていてくれるといいが。そう思い、部屋を出た時だった。
 金谷の背中が、廊下を がるのが見えた。
(良かった、まだ きてらっしゃったんだ)
 声をかけようと、 を追う。
 彼は、突き当たりにある部屋に入っていく。それを て、チヨは首を傾げた。
(あの部屋は か……)
 今は、もう使 っていない部屋。
 すなわち、 三・雪子夫妻の寝室だった部屋だ。
 あんな所に、 の用があるのだろう。しかも、こんな時間に。
 ……何となく、すぐに をかける気になれず、開いたドアの隙間から、中の様子を窺う。
(金 さん……?)
 床に膝を付いて、こうべれている。何をしているのかは、チヨにも分かるようになっていた。こ
ちら側からは えないが、きっとその両手は、硬く組み合わされているのだろう。
(お り……?)
 彼の にある物に気付いて、はっとする。
(あの だわ……)
 栄三と雪子の微笑は、今は金谷をねぎらっているように見えた。息子が世話になってるね、と。
 その で、金谷は無心に祈り続けている。
(何をお りしていらっしゃるのかしら……)
 やはり、栄太 のことだろうか。いずれにせよ、死者は何も答えてくれない。神と同様に。
 相手が であれ、祈りとは一方通行なものだ。だが、それを無意味だと切り捨てられる程、
チヨは合理主義でも無神経でもない。 にとっては、大切な時間なのに違いない。
邪魔 しちゃいけない……)
 ドレスのことは、明日でいい。そう い、そっとドアから身を離そうと……。
「チヨ様、如何いかがなさいました?」
(あ、あわわ) 
 客人の存在ぐらい、気配で じ取れなくては、執事は務まらないのか。だとしたら、ほとんど
忍者 みだ。
「あ、あの、明日の、お の衣装のことなんですけど……」
「……、はい、 様のドレスですね」
 部屋がもっと るければ、分かっただろうか。
 金谷の瞳孔どうこうが、すうっと収縮したことに。
 ……極度の緊張 で。
「ご安心下さい、用意できております。 の前に、村の女性に着付けてもらいましょう」
「そ、そうですか。わざわざどうも……」 
 そこで会話を ち切っても良かったはずなのだが。
「…… をお祈りしていらっしゃったんですか?」
 やはり、 りたかった。それはきっと、栄太郎にとっても大切なことで。しかし、彼に直接は言
えないことなのだろうから。 
 等と色々と えていたら。
「はい、明日の の無事を祈っておりました」
 意外と 難な返事に、肩透かしを食らってしまった。
「そ、そうですか……」 
 空回りに顔を らめていたのは、しかし短い間だった。それなら、別にこの絵に跪く必要はな
いではないか。 
 戸惑うチヨの視線を、 谷は逸らさずに受け止めた。
「五年前の の悲劇が、二度と繰り返されぬよう……」
「え……?」 
  年前。
  
 何度か話題には ったものの。
 初めてだった。その つが、繋げて語られたのは。
「もしかして、栄太郎さんのご両親が くなられたのって……?」
「……はい」 
 金谷は、 の中の先代夫妻に向き直る。
「五年前の、 の晩でございました」

〜3〜

 祭には、いくつかの 取りがある。
 中でも最も重要とされるのは、最後に行われる、あの黒い石碑に供物くもつそなえる儀式だ。
 聖域には司祭しか れないので、これは彼一人で行わなければならない。
「先代様はもう何十年も、このお役目を果たしてこられたそうです。無論、石碑までの道程みちのりは、知
 くしておいででした。ですから……」
 五年前の の時も、供物を盛った皿を手に、一人聖域の森に向かう栄三を、皆は笑って見
送った。 年そうしてきたように。
 しかし。 
「なぜか、先代様はお りになりませんでした」
 例年なら、せいぜい三十分で ってくるのに。
 一時間経っても、栄三は って来ない。
 歳で山 がきつくなったのかなあと栄太郎が呟き、村人達を笑わせた。
 二時間経っても、 って来ない。
 さすがに、村人達の に動揺が広がり始めた。もしや、お怪我でもされて……。
 三時間が った。
 探しに くべきだという意見も出始めた。しかし、聖域に入れるのは司祭のみ。いかなる場合
でも、禁忌を るのは……。
 困り果てた金谷は、栄三にぐ村の責任者、すなわち雪子の判断をあおごうとした。
 そこに至るまで気付けなかったおのれ迂闊うかつさを、彼は呪っても呪い切れない。
「いつの にか、奥様のお姿も見えなくなっていたのです」
「お、奥 も……!?」
 村人達の手で村中を捜索そうさくしたが、見つからない。無論、屋敷に戻ってもいなかった。残る居場
所は、一つしか えられない。
 彼女も、 域にいるのだ。
「ひょっとして、栄三さんを しに……?」
「……おそらく」 
 事、ここにいたって、ようやく金谷は躊躇いを捨てた。禁忌を破って聖域に踏み込んだ。
 栄三と違って、 を知らない彼は、暗い森に難儀した。それでも、どうにか辿り着いた。
 言い伝えでしか らなかった、あの石碑の元に。
「そこで……発見したのです。 様の変わり果てた姿を」
「!」 
 無惨な、あまりにも無惨な 様だった。
 腹部を切り裂かれ、細長いちょうが何メートルも引きずり出されていたのだという。そこから溢れ
出した血は、雪子の亡骸のみならず、周囲の地面までも赤く染め、血の匂いは咽返むせかえるようだっ
た。 
(うっ……) 
 想像だけで、吐き気をもよおすチヨ。震災で多少は経験がある分、より生々しくイメージできてし
まったのだ。 
「そ、そんな恐ろしい人食い が出る所へ、栄太郎さんは一人で入らなきゃいけないんです
か? いくら司祭のお仕事とは え……」
 道理で、 谷がやけに真剣に祈っていた訳だ。
「せ、せめて、 か対策をした方がいいんじゃないですか。熊除けの鈴を持っていくとか」
 という、チヨの 案に、なぜか金谷は答えずに。
「奥様のご遺体の に、ある物が落ちていました」
「え?」 
 それは、石守家に代々伝わる家宝で、 は先祖である宣教師が使っていた物だという。祭の
間は、司祭がびることになっている。
 つまり、栄三が としていったと考えられるが……。
「どういう かと申しますと……短刀なのです」
「短 ?」
「ええ、儀式で供物を り分ける際に用いますので、刃もちゃんと砥いであります……切れるの
です、 際に」
  れる。
  際に。
 なぜ金谷が、その をやけに強調するのか、チヨには分からなかった。
「奥様のご遺体を、 めてよく検分してみました……」
 雪子は一糸纏わぬ全裸だった。にも わらず、周囲のどこにも、服の破片はおろか、ボタン
一つ ちていなかった。
 引き千切ちぎられたのではない、脱がされたのだ。
「え?」 
 切り開かれた腹部から引きずり出された には、しかし食い千切られたような形跡はなく、完
全に元の形を っていた。
 見方を変えれば、それは医者による解剖かいぼうのようでもあり……。
「……え」 
 雪子は、まるで眠るような姿勢で たわっていた。おかげで金谷も、すぐには死体だと分から
なかったぐらいだ。 
 熊に襲われて、死に物狂いで げ惑ったはずなのに?
「そ、それじゃあ……」 
「ええ、 などではありません。奥様を殺害したものは」
 ようやく、チヨにも み込めてきた。いや、望んでもいないのに、無理矢理口をこじ開けて入っ
てくる。 
 雪子の側に ちていた家宝の短刀。それが何を意味するのか。
「まさか……?」 
 チヨの脳裏に、まざまざとその瞬間が い浮かぶ。
 一向に戻らない夫を心配して、こっそり聖域の森に入った雪子。石碑の前に んでいる夫を
見つけ、 をかける。あなた、どうかなさったの? 応えて、ゆらりと振り返る栄三。
 その には、月明かりにぬめぬめと輝く短刀が……。
 その直後の出来事できごとは、ああ、きっと。佐羽戸の原型たるシュトレゴイカバアルで、夜毎繰り返さ
れていたという、生贄の儀式にそっくりだったに いない。
「そ、それで、栄 さんはどうなったんですか」
 尋ねて、 い出す。そうだ、確か彼は……。
 だに、行方不明です」
 絶句するチヨ。 谷も言葉を途切れさせている。
 耳に痛い程の沈黙が、 らずも、二人が同じ考えであることを物語っていた。
「ほ、本当に、 の可能性はないんですか? 例えば……そう! 誰か別の人が、栄三さんか
ら短刀を奪って、それで奥様を ったのかも……栄三さんも、その人に誘拐でもされて……」
「そうであって欲しいと います。しかし、そうではないかもしれない……」
 栄三が つからない以上、真相は永遠に闇の中だ。
 ただ、一つだけ確かなのは、誰もがチヨのように、栄三の潔白けっぱくを信じるとは限らないというこ
と。実際、栄太郎の父親でなかったら、彼女もどう ったか。
「特に、ご主人様がどうお えになるか……いえ、きっとお父上を信じるとは仰るでしょう。しか
し、あの方も人間です。僅かに残った疑惑の針が、生涯しょうがい胸を痛めることになるかもしれない…
…」 
 思い悩んだ末、金谷が取った選択は、全てを闇にほうむることだった。
 “証拠”になり ねない短刀を密かに処分し、警察と医者を説得し……。
「お二人は熊に われたと、皆に説明させたのです」
「そうだったんですか……」 
 絵画の で微笑んでいた二人を思い出す。とても仲が良さそうに見えたのに。
 だが、すぐに気付く。 は所詮絵だ。未だにモナ・リザの微笑みの意味が断定されていない
のと同様、そんなもの、 の根拠にもなりはしない。
(栄太郎さん……ご両親を くしただけでも、十分悲劇なのに)
 悲劇より酷いものは、 と呼べばいいのか。
「どうして、そんなことに……?」 
 聞いてはみるが、きっと 谷にも分からないのだろうと、チヨは思った。だからこそ、全てを封
印するしかなかった……。 
「“”の仕業 だったのです」
「え?」 
 予想に して。
 いつも りの、きっぱりした口調で、金谷は答えた。
 にも わらず、なぜかチヨは聞き取れなかった。“”。おそらくは主語であろう、その言葉だ
けが。 
「すみません、 、何て……?」
 チヨにわれ、金谷は、まるで蓄音機のレコードのように、己の言葉を忠実に再現した。
けが。 
「“祭”の仕業 だったのです」
けが。 

〜3〜

 “ ”。
 なぜ、その言葉が き取れなかったのか、ようやく分かった。
 あまりにも、突拍子が かったせいだ。
 普段、理路整然とした し方をする金谷の口から出ると、なおさら。
「え、えーと、それは、つまり……」 
 何とか、分り易い解釈をひねり出そうとするが。
「お二人が、お祭の運営方針とかで喧嘩けんかなさって……ってことですか?」
 言いながら、自分でもなかば悟っていた。違う、金谷が言いたいのは、そんなことではない。
 案の定、金谷はいいえとかぶりを振り。
「“ ”が先代様を操り、奥様を殺害させたのです」 
 ……………………。 
 チヨは、ぼんやりと った。自分は、そんなに頭が悪かったのだろうかと。
 なぜ、金谷の っていることが分からないのだろう……。
「佐羽戸の“ ”は、意思を持っているのです」
 金谷の声は、いつもと変わらない。抑揚 の効いた、聞き取り易い……にも関わらず、全く理解
できない。あたかも、外国語か かのように。
「眼に見えず、 れることもできず……しかし、確かに存在しているのです。そして、佐羽戸の
隅々にまで、支配の を伸ばしているのです。おそらくは、聖域の石碑を要にして」
(え、えーと、えーと……) 
 何の例えだろう。ああ、こういうお 、栄太郎さんなら得意そうだけど……チヨは必死に頭を
 るが、さっぱりだ。
 ただ、一つ かなのは。
  
 それに対して、自分がいだくイメージと、金谷が抱くそれが、かなり違っているらしいということ
だ。 
(それにしても……) 
 どうして彼は、急にそんな難解な例えを用いだしたのだろう。執事の心得こころえなのであろう、敬語は
隅々まで完璧だが、表現は簡潔 、事実のみを淡々と話す。それが、チヨが知っている金谷の話
 だったのに。
(金 さん……?)
 彼は、一心に の絵を見つめている。
 その横顔をちらりと み見て、チヨは……。
(!?) 
 ぎょっとした。 
 一体、いつからだろう。そのひたいに、びっしりと汗が浮かんでいたのだ。
 あたかも、熱病にうなされているかのように。
「肉体を持たない“祭”は、生き物のように食物をることはできません。そこで、別の形でかて
得る必要があるのです。その手段が、 か……お分かりになりますか」
「か、金谷さん、具合が いんですか?」
「……生贄 です」
 チヨの など、耳にも入っていない様子で続ける。
「血肉をすする訳ではありません。あるいは、生贄の苦痛や恐怖といった感情を吸収するのかも
しれません。いずれにせよ、長年の えを満たすため、“祭”は先代様を操り、奥様を生贄に
捧げさせたのです」 
(か、金 さん……)
 彼の を、恐る恐る窺う。 
 やはり―― 
 ――そっくりだ。 
『あなたの心臓を食べて、私は らかさを取り戻すの……そうすれば、私も“祭”に行ける!』
 あの の絹と。
 何を っているのか、分からないのも道理。今の金谷の口を動かしているのは、彼の中にし
かない妄想の理屈 なのだから。
「そうとしか、 えられない……でなければ、どうして先代様が奥様を……!」
(ああ、そんな……) 
 彼もなのか。仮面を って、自分と接していたのか。その下に、狂気を秘め隠して。
「そして、お二人だけに き足らず、今度はご主人様まで……!」
「か、金谷さん、もうお みになった方が……」
 金谷の肩が、小刻みに えている。ああ、どうか堪えて。そんなに震えていると、仮面が割れ
てしまう。 
 もう見たくない。親しい人が豹変ひょうへんするところなど……!
「そうはさせるか……ご主人様のお を汚させるぐらいなら……!!」
 ぴきぴきぴきぴきぴきぴきぴき……っ! 
う。 
ぱりぃぃぃぃぃぃぃぃぃんっっっ!!! 
う。 
「いっそ、この手でえええええぇぇぇぇぇっっっっ!!!!」 
 
〜4〜

 砕け った仮面の下から現れた、金谷の素顔は。
 大蛇に め殺されるラオコーン像さながらの、苦悩の表情だった。 
 がばっ! 
 電光のような速度で、 着のポケットから掴み出す。冷ややかに光る、金属の塊を。
(鉄 !?)
 どんな伝手つてで入手したのか、国軍で広く使われている二十六年式拳銃の銃口は、ぶるぶる震
えながらチヨを っている。
「申し ありません、チヨ様……事情をご説明して、自主的に出て行ってもらうべきでした……」
「え……!?」 
 にごり切った沼から沸き立つ泡のように、まわしい記憶がよみがえる。
(ま、まさか……) 
 余所者は出て行け、余所者は て行け、余所者は出て行け……。
(あれは、金谷 さんだったの……!?)
 そうだ、絹の目的は、チヨの心臓を べて、清らかさを取り戻すこと。妄想の理屈とは言え、
彼女にとっては真実だったのだろう。だとしたら、矛盾 するではないか。そう、チヨを追い出してし
まっては、 末転倒のはず。
 ああ、どうして気付かなかったのか。彼女の狂気を隠れみのに、もう一つの狂気が自分を狙っ
ていたことに。 
「いや、無理か……ご主人様が、お しになるはずがない。あの方は、すでに“祭”に取り込ま
れてしまっている……! わたくしに された手は、最早これしかないのです!」
 一体、何が金谷を追い めているのか。それは、彼にしか分からない。
 ただ、一つ かなのは。
 彼には、最早一片の 躇いもないであろうこと。
「お許しを、チヨ 、ご主人様……!!」
 ぴくぴくと痙攣けいれんしながらも、金谷の指が引き金に掛かる。
 のを、 た瞬間。
 チヨの手が、側に置かれた 瓶に伸びた。流れるような動作で投付ける。
「ぐっ!?」 
 顔面を直撃され、金谷が銃口を らす。結果、銃弾が砕いたのは、窓ガラスだった。
 チヨ自身が、自分の 静さ――あるいは冷酷さ――に驚いていた。正当防衛とは言え、この
自分が、躊躇 せず他人を攻撃するなんて。あるいは、無意識では金谷を疑っていたのか。……
だとしたら、仮面を っていたのは、自分も同じだ。
 内省している暇は、今はない。ドアをふさいでいた金谷がよろめいている隙に、横をすり抜け、
廊下に び出す。
「え、栄太 さん! 金谷さんが……!」
 走りながら、必死で叫ぶ。そうだ、 の時とは違う。今は、あの人もいるのだ。きっと助けてく
れる、あの のように……。
 だが、そんなチヨに、無情な宣告が げかけられる。
「無駄です! ご主人様の 食に、睡眠薬を入れさせて頂きました!」
(あああ……) 
 食事が済むなり ってしまったのは、疲労のせいではなかったのだ。
 しかし、それなら、なぜ自分には らなかったのか。考えて、はっとする。おそらく、検死で睡
眠薬が検出され、疑いを向けられるのを防ぐためだろう。現実は見失っても、計算力は えて
いない。 らしい、狂気の陥り方。
(ああ、 谷さんまで、どうして……)
 口では いことを言いながらも、本当は優しい人だと思っていたのに。
 何だったのだろう、この屋敷での 々は。チヨは、恐怖を通り越して悲しくなった。住人四人
の内、二人までもが仮面を被った狂人だった。あの楽しい思い出は、全ていつわりの仮面劇に過ぎ
なかったのか。 
「わたくしが不甲斐無ふがいないばかりに、お二人は……繰り返させはしない、もう二度と……!」
 背後から迫る叫びは、苦しげだった。あたかも、神前に懺悔ざんげする罪人のように。
 谷さん……)
 分かったような がする。彼が狂気に囚われた理由だけは。
 彼は、五年前の悲劇に、ずっと責任を じていたのだ。自分が雪子から目を離さなければ、
防げたのではないかと。栄太郎の にいることが、その重みを片時も忘れさせてくれず、つい
に彼の心は押しつぶされ……。
(あの も、絹さんと同じ……)
 あまりに直向すぎて、修正が かず、破滅への坂道を転がり落ちていくしかなかった。
 何と、 しい運命。
「“ ”めええええぇぇぇぇっっっ!!!」
「ひいっ!?」 
 凶弾が頬をかすめ、飾り棚の皿を粉砕する。
(と、とにかく、 へ……)
 二度目で少しは れたのか、頭の中の地図が真っ白になることはなかった。真っ直ぐに玄関
に向かい、庭に飛び出す。月明かりを頼りに、噴水を迂回うかいし、装飾刈り込みトピアリーの間を潜り抜け、門
に飛付いて。 
(あっ!?) 
 鍵が まっていることに気付いた。
 誰の仕業なのかは、考えるまでもない。ここさえ閉めてしまえば、屋敷は高い柵で囲まれたおり
も同 だ。
 彼は、自らを じ込めた妄想の檻に、チヨも引きずり込んでしまったのだ。
 凍りつくチヨに、背後から 付く足音。そう、檻の主たる、猛獣の。
 慌てて茂みに隠れ、 を殺す。獲物の匂いを嗅ぎ回るかのように、その周囲を足音が執拗
にうろつく。 
「“祭”め、“ ”め、“祭”め、“祭”め、“祭”め、“祭”め……」
 念仏のように り返す、妄執の囁きと共に。
 その内、がさがさと みを掻き分ける音も混じり始める。気付かれたのだ、自分が近くに隠
れていることに。このままでは つかる、かと言って、飛び出すこともできない。ギロチンの刃
が落ちるのを たされている、死刑囚の気分。
(ああ、せめて……) 
 元々、震災で死んでいるはずだったのだ。贅沢ぜいたくは言わない。せめて、明日が終わるまでは、生
 びさせてくれないだろうか。
 そう、栄太郎と一緒に、 に出るまでは……。
 当てにならない に、それでも必死で祈った、その時――。
 うぐっという、苦しげなうめき声。
 続いて、どさりという、おそらくは かが倒れた音。
 それきり、辺りは静寂に まれた。
(な、 が……?)
「チヨ、どこにいるんだ!? もう、 てきても大丈夫だぞ!」

〜5〜

 その声を いた瞬間、チヨはバネのように茂みから飛び出していた。
「栄太 さん!?」
(ああ、 様!)
 神の声を聞いたパウロの如く、チヨは一瞬で を入れ替えた。祈りは通じた。そして、彼を助
けに寄越よこしてくれた。
 やはり、 はいるのだ。
「チヨ、無 か!?」
 栄太郎の が、肩に置かれる。その暖かさ、力強さは、断じて幻覚ではない。
「は、はい。でも、どうして?  谷さんが、夕食に睡眠薬を……」
「ああ、そういうことか。どうも、晩飯の から気分が悪くてさ、部屋に戻ってから、全部吐いち
まったよ。多分、薬が体に わなかったんだろう。ちぇっ、せっかくチヨが作ってくれたのにな」
 ああ、こんな時にまで、この は……のぼせているチヨは気付かなかった。
「これも……の、ご加護 かね」
 と、栄太郎が さく呟いたことに。
「ごめんな、こんな に合わせて。あの脅迫が、金谷の仕業だと薄々気付いていながら……」
「そ、そうだったんですか」 
「まあ……長い付き いだからな。微妙な態度の違いとかで、な」
 ああ、そうだったのか。あの大見得は、 ならぬ金谷に見せるためのものだったのだ。
『お、おやめ さい、ご主人様! どうか冷静に……』
 確かに、彼なら効果抜群ばつぐんだろう。いや、抜群すぎて、逆上させてしまったのだ。
「まさか、ここまでするとは わなかったんだ。俺が甘かったよ」
「え、栄太郎さんのせいじゃないですよ……そ、そうだ!  谷さんは?」
「あいつは……」 
 栄太郎の視線を って、はっとする。
 金谷が、うつ伏せに れていた。
 その体の下から、じわじわと いものが広がっていく……血だ。
「お、お 者様に……!」
「……残念だけど、手遅れだよ。つい、 を込めすぎちまった。刃は心臓に達しているだろう」
 見ると、栄太郎は、チヨの肩に いた方とは反対の手に、何か刃物らしきものを握っている。
その刀身に滴る血は何故か、 えるまでもない。
(ああ、 太郎さんは……)
 自分を うためとは言え、家族に等しい金谷を手にかけてしまったのか。
(あたしのせいだわ、あたしの……) 
  ……あたしのためになら、この人は家族だって殺す
「ご、ご主 様……!」
 息も絶え絶えな、金谷の声。どうにもこうにも、気持ちの整理が付かないが、今は彼の遺言ゆいごん
聞き取る方が 先だ。
 立ち込め始めた血の いを堪えて、耳を近付ける。
「それを、どこで……」 
 何のことか、栄太郎にはすぐ かったらしい。
「ああ、これか?」 
 ひょいと、 に軽々しい仕草で持ち上げてみせたのは、あの刃物だった。月明かりに照らさ
れ、チヨは めてその詳細を目にした。
 一変わったデザインだ。刀身は蛇のように、くねくねと波打 ち……。
(? 気のせいかしら、どこかで たような……)
「家 の……短刀……」
 金谷の苦しげな きに、チヨははっとする。では、あれが……石守家の先祖たる宣教師が伝
えた品。そして、五年前の惨劇を演出した小道具…… い至って、チヨは寒気が走る。
(確か、金谷さんは 分したって……どうして、栄太郎さんが?)
「何、沢の くを散歩してたら見つけたのさ。どうして、あんな所に落ちてたのかな〜」
「い、いけません……それは……!」 
「ああ、 ってるよ」
それ 
「親父が、母さんを生贄に げるのに使ったんだろ?」
それ 
 さらりと、栄太郎が い放った一言は。
 稲妻と して、一同を貫いた。
 永遠とも、一瞬とも かない間を置いて。
「なぜ…… って……」
 金谷が、ようやく したかすれ声に。
「そりゃ、 てたからさ」
 栄太郎は、 然と応えた。
「金谷も 緒にいたじゃないか、忘れたのか?」
 愕然 と向けられたチヨの視線に応えて、金谷は必死に目で訴える。そんなはずはない、そんな
はずはない……。 
 その が、不意に見開かれる。
 ――なあ金谷、 さんはどうして……。
「今でも、よく えてるよ……きれいだったな、真っ赤なドレスを着た母さんは」
 栄太郎は、 かしそうに眼を細めた……ところで、ようやくチヨは感じ始めた。視界がぐにゃ
ぐにゃと歪む の、とてつもない違和感を。
 なぜ、もっと く気付かなかったのか。
(栄太 さんは……)
 そうだ、自分を うためとは言え、家族に等しい金谷を手にかけたのだ。
 なのに、 故。
(全然、 しそうじゃないの?)
 彼の様子は……いつも通りだった。午後のお茶の一時と、何ら変わりない。瀕死ひんしで横たわる金
谷を前にしたその姿 は、まるで、登場する場面を間違えた役者のようだった。
「ま、まさか、あの から、すでに影響が……」
 呆然としていた金谷は、 転、がばっと半身を起こす。
「ご、ご主人様、どうか い留まりを! あなたは“祭”に操られて……」
 勢い余って盛大に吐血しながらも、金谷は必死に言いつのる。死を目前にしても、彼は妄想の
檻から られないのか。
 そんな凄まじい にも、しかし、栄太郎は眉一つ動かさず。
 られてなんかいないさ」
 さらりと即答する に、違和感はさらに増す。
「お膳立ぜんだてしたのは、確かに“祭”だ。この短剣が戻って来たのは、奴の差し金だろう。ひょっとし
たら、チヨが佐羽戸にやって たことさえ……。だが、そこから先は、全て俺の意思だ。俺は…
…チヨと“祭”に きたいんだ」
(え、栄太 さん……)
 やはり、そうだ。 
 彼は、金谷と意思の疎通そつうができている――妄想の檻の中で、咆哮ほうこうを上げている猛獣と。その
証拠に、二人は何度も じ言葉を口にしている。
 “ ”。
 字面じづらだけではない。そこに込められた意味も、ちゃんと共有している。
 いや、二 だけか?
『そうすれば、私も“ ”に行ける!』
(そう、 さんも……)
 明日の村 のことだとばかり思っていた。だが、ひょっとしたら、彼女もその言葉を、金谷と
同じ意味で いていたのではないか。
 分かっていなかったのは、 分だけだったのでは。
(一体、一体、 って何のことなの!?)
 分からない、 からない、だが、一つだけ確かなことは……。
それ 
 私には“ ”に出る資格が汚らわしい犬畜生が“祭”に心臓をおくれえええぇぇぇそうすれば私
も“祭”に行ける“ ”の仕業だったのです“祭”は先代様を操り奥様をあなたは“祭”に操られて
なんかいないさ俺はチヨと一緒に“ ”に“祭”が“祭”を“祭”と“祭”へ“祭”は“祭”“祭”“祭”
“祭”“祭”“祭”“ ”“祭”“祭”“祭”“祭”“祭”“祭”…………。
それ 
 石守家は“ ”に憑かれている。
それ 
「チ、チヨ様、お げ下さ……」
 それが、金谷の最期の言葉となった。 かなくなった金谷を見下ろして、ようやく栄太郎の頬
に涙が う……。
「お み、金谷。長い間、ご苦労さん」
 ……口元には、 みを浮かべたまま。
 絹の時にも せた表情。しかし、今のチヨの目には。
「でも、まあ、明日の“祭”で、また えるよな」
 まるで、違った意味に えた。
 すなわち、 れたからくり人形のような、ちぐはぐな表情に。
(まさか……そんな……まさか……) 
  もなのか。
 優しい 、怒った顔、照れた顔、とぼけた顔、悲しげな顔。
 くるくるとよく変わる、 の顔も全部。
( 仮   ダ ッ タ ノ ? )

〜6〜

「チヨ、明 はいよいよ“祭”だな」
 栄太郎が、チヨに き直る。片手に、家宝の短刀を握ったまま。
 ああ、そうだ。ようやく い出した。あれを、どこで見たのか。
(夢の で、邪教の司祭が握っていた……)
 そうだ、あれを えた宣教師は……つまり、シュトレゴイカバアルが邪教徒の村だった頃、ま
さにそういう用途に使 われていた品なのではないか。
 ある意味、栄三の使 い方は全く正しかったのだ。
「楽しみだな、真っ赤なドレスを たチヨ……きっと綺麗だぜ。母さんにも負けないくらい」
(真っ なドレス……ああ、まさか)
 バラバラに っていたピースが集まり、ようやくその言葉の意味も見えてくる。
 五年前の惨劇。黒い石碑の前に横たえられていた、雪子のむくろ
 腹部を切り裂かれ、腸を メートルも引きずり出され、溢れ出た血で周囲まで赤く染めていた
という、その光景は、幼い栄太郎の には、そう……。
 真っ赤なドレスを着ているように えたことだろう。
(あ……あ……) 
 栄太郎の背後に、 を向ける。
 高い鉄柵の向こうに見えるのは、鬱蒼うっそうと木に覆われた……聖域の森だ。
 視界がぐにゃぐにゃと み、眼前にぬうと立ち上がる。
 黒い石 が。
 それを背景に、鮮血滴る短刀を片手に つ栄太郎の姿は、まさに、あの夢の再現だった。
 そして、今やチヨの にも、はっきり見えていた。
 “祭”の姿 が。
 それは、黒い石碑を中心に、佐羽戸全域に支配の触手を ばしていた。あたかも、巨大な
蜘蛛くもの巣のように。
 これだったのだ。邪教の司祭が持ち んだものは。黒い石碑は、単にこれを納めるための
容器に ぎない。
『“祭”の仕業 だったのです』
 ああ、 なら分かる。金谷は狂ってなどいなかった。
 そう、 て“祭”の仕業だった。他に、どう表現できよう。
 シュトレゴイカバアルでそうしたように、“祭”は佐羽戸でも生贄を めたのだ。そして、栄三を
操り……。 
 だが、数百年の絶食が、雪子一人で たされるはずもなく。
(また、 じことを……)
 栄三に代わって栄太郎で、雪子に わって……ああ、それが誰なのかなど、もう考えるまで
もない。 
 見える……栄太郎の全身に、蜘蛛の巣が み付いて……いや、それどころではない。おそ
らく、 は彼の魂にまで入り込んでいる。最早、彼は蜘蛛の巣を構成する糸そのもの。
(そ、それじゃあ、 谷さんは……)
 彼がなぜ、あんなことをしたのか。 なら、それも分かる。栄太郎に、父と同じ運命を辿らせ
まいとしていたのだ。 
 すでに、“祭”の影響下にある栄太郎を 得しても無駄だろう。そこで、チヨの方を追い出して
しまおうと考えたのだ。そして、あの この手で脅迫し、ついには……。
『ご主人様のお を汚させるぐらいなら、いっそこの手で……!』
 しかし、“祭”に操られた栄太郎に、ことごとく阻止され……。
「チヨ……」 
 栄太郎が近付いて る。短刀――“祭”に与えられた牙を手に。
 飢えた蜘蛛たる“祭”に げるために。
 母の形見の、真っ赤なドレスを せようと。
(い、 ……)
 その、 やかな笑顔に……。
 ないで……)
 ぴきぴきぴきぴきぴき…… まわしいヒビが……ヒビが……。
(見たくない、この のだけは……!)
 ぴきっっっ……! 
(ひいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ………!!!) 
……」 
…………………………………………。 
……」 
 いつまで っても。
(……………………え?) 
 栄太郎の笑顔は、 け散らなかった。
 いや、 け散るも何も、あれは……。
仮面 じゃない……?)
 そう、金谷や絹のような仮面 など、彼は被っていなかった。
 何一つ、 ってなどいなかったのだ。最初から。
『あのさ、気持ち、 かるよ』『そうだ、チヨも出てみないか?』『きっと似合うぜ……真っ赤なドレ
ス』『俺の中には、邪教徒の が流れているんだぜ』『言っただろ、君の力になりたいって』『だ
から……人は、祭を めないのかもしれない』
 そして も。
「チヨ、 きだ」
 びくん、チヨの心臓が ね上がる。
(あたしも……) 
 あまりに飾らない告白に、彼女もまた、 を丸裸にされて。
「帝都に ることなんかない、ずっと一緒にいよう」
 肯きかけたチヨを、最後の理性が し留める。よく見ろ、彼の手を。そこに何がある?
(短刀……あたしに、 いドレスを着せるための……)
 だが、理性の抵抗は いものでしかなかった。なぜなら、チヨはもう理解していたから。
 栄太郎が、チヨに を重ねる――
「……………………!」 
 ――この行為と、片手に った短刀は、何ら矛盾していないのだと。プロポーズする男の手
に、結婚指輪があるのと 様に。
「はい…… 太郎さん……」
 陶然とうぜんと肯くチヨを、栄太郎は強く抱きしめた。
 “祭”が、ゆさゆさと を揺らしている。
 あたかも、二人を 福するように。
……」 
 薄れゆく意識の 、金谷は自嘲の笑みを浮かべていた。
(“ ”だと……?)
 それが、栄三を り、雪子を生贄にしただと……馬鹿な。そんなもの、存在する訳ない。
 全ては、 かな自分が生み出した幻想だ。
 分かっていたはずだ。 年前の惨劇は、きっと……。
 のせいなのだ……)
……」 
 五年前の の前日。
 栄三と雪子の姿 は、肖像画の前にあった。
 しかし、絵の の笑みは、現実の二人の顔にはない。
 彼らの顔に まれているのは、沈痛な表情だ。
 机の には、一枚の紙が置かれている。
 診断書、石守雪子――急性骨髄こつずい性白血病、要入院。
『あなた、栄太郎のことでお が……』
『……私とは、 が繋がっていないのだろう?』
『! ご存 でしたの……』
『父親は…… 谷だね』
 項垂うなだれる雪子の肩に、栄三は優しく手を添える。
『分かっているよ。子供が れない、私のためだったのだろう?』
 いことをしました。あなたはもちろん、栄太郎や金谷さんにも……』
『私は感謝しているよ。おかげで、あの が生まれてくれたのだから』
 雪子の頬を伝う涙が、 かしていく。二人の間に、常に立っていた見えない壁を。
 結婚して十数年、ようやく二人は、 当の意味で夫婦になったのかもしれない。
『お互い しかったね。家族なのに、本当のことを言えなくて』
『でも、それも、もう わり……』
『ああ、私達は明日の“ ”で一つに……』
『ごめんなさい、栄太郎……あなたを いていく私達を、どうか許して……』

〜7〜

  の日。
 山々の向こうに が沈み、普段なら早々に闇に包まれる佐羽戸だが、今晩ばかりは違う。ま
るで川面かわもつどほたるのように、無数の明かりが村に散りばめられている。村人達が手にした、角
灯の だ。
 村人達は一様に、灰色の長衣ローブに身を包んでいる。顔もフードで覆われ、性別すら定かでない。
そんな人々が角灯を にぞろぞろと歩く様は、よく知らない者の目には、少々不気味に映るか
もしれない。 
 同じ衣装に身を包むのは、 に仕える者同士、地を耕す者も家畜を飼う者も、男も女も関係
ないという教えを しているのだ。
 村人達は、大通り沿いにぞろぞろと んでいく。そして、灰色長衣と角灯の長い柵が完成した
頃合いを て。
 ――いつくしみふかき ともなるイエスは つみ とが うれいを とりさりたもう……。 
 賛美歌が始まる。指揮者がいないとは えない程の、見事な合唱だ。
 歌声に かれるように、大通りを、やはり灰色の長衣を纏った一団が行進してきた。長い棒
かついでいる。そこにぶら下げられているのは、羊の丸焼きだ。キリスト教では、羊は聖なる動
物とされ、 への供物に用いられるのだ。
 一団は、大通りに ぶ人々に見守られながら進んでいく。羊はイエス・キリストの象徴でもあ
る。この 進は、十字架を背負わされたイエスが、ゴルゴダの丘へ向かう場面を表しているの
かもしれないと、栄三は分析 していた。
 やがて、教会前に くと、ゆっくりと扉が開く。中から一歩一歩、確かめるような足取りで現れ
た人物だけは、 の村人と区別が付いた。やはり灰色長衣だが、雰囲気が違う。おそらく、彼
が司 だ。
 彼は木の枝を、聖水で満たした水瓶みずがめひたし、供物の羊にぱっと振り掛ける。神への捧げもの
に、俗界のけがれが付いていてはならないため、こうして清めるのだ。この辺りは、神道の“みそぎ
の影響も けているかもしれない。
 清めが済むと、長衣の から短刀を取り出し、羊を解体し始める。
 ……生憎あいにく、気付いた者はいなかった。その短剣が、五年前に失われたはずの物であることに
は。 
「受け取りなさい、これは の血肉である」
 司祭のおごそかな託宣に、村人達がアーメンの大合唱で答える。
 そして……。 
「ああ、みんなご 労さん」
 がらりと るい声になり、村人達を労う。
 無論、司 は栄太郎だった。
「いやいや、 ちゃんもお疲れ様じゃった」
「ご立派でしたよ。 ちゃんももう一人前の司祭様ですのう」
 沈黙を保っていた村人達も緊張を解き、村に やかさが戻ってくる。ここまで来れば、後はも
 しいことはない。
 司祭に、最後の一仕事を せるばかりだ。
「よっこいせっと……じゃあ、 ってくるよ」
 解体した羊から頭部をり分け、銀の器に乗せる、これを聖域の石碑に備えれば、祭は終
了だ。残りは神の恵みに感謝して、広場でもよおされる宴――とは言っても質素なものだが――で
供されるのだ。 
「みんな、腹減ってるだろ?  に始めててくれよ」
「い、いえいえ、お気遣いなく。 ちゃんがお戻りになるまで待ってますよ」
 という村人の言葉は に、無事に戻ってくれという願いが込められていたに違いない。
 その 、七、八歳ぐらいの子供がトコトコと歩み出て、栄太郎の長衣を掴んだ。
「栄太郎の ちゃん、危ないよぉ。熊に食べられちゃうよぉ」
「こ、これこれっ!」 
 母親らしい女性が、慌てて き戻す。周囲の村人達も、フードの下で冷や汗を流している。あ
るいは、 らも薄々気付いているのかもしれない。真相に。
 だが、当の栄太郎はからから笑って、子供の頭を でてやっている。
「平気平気、俺には神様が いてるんだ。熊なんか怖くないさ」
 彼の姿が聖域の森に消えたところで、ようやく村人達から安堵あんどの溜息が漏れる。
「坊ちゃん、 年は大丈夫そうじゃのう」
「ああ、去年までは、どことなく無理なさってる じじゃったからなぁ」
「立ち られたんだろう、よかったよかった」
「帝都から たお客さんのおかげかね」
「ははっ、 にしか興味がない坊ちゃんにも、ついに春が来たか」
「さあ、宴会の 度にかかろう」
「金谷さんも、今日ぐらいは羽目はめを外して……おや、金谷さん、どこだい?」

〜8〜

 すでに、村人達のざわめきも かない。
 それを確 するなり。
 あろうことか、栄太郎は供物の をぽいと投げ捨てた。
 こんな物、 ……いや、“祭”には不要だ。あんな、形骸化した田舎祭とは違う、本物の“祭”
には。 
「そう、熊なんて くないさ……だって」
 灰色の長衣も、躊躇うことなく ぎ捨てる。
「俺自身が、 になったんだからな……!」
 その下から れた、栄太郎の姿は――
 ――まさに だった。
 引き締まった裸身に っているのは、おそらく狼の毛皮製であろう、頭部をそのまま使った被
り物と腰布のみ。素肌の至る所に禍々まがまがしい紋様を描き、石や骨を連ねた首飾りをじゃらじゃらと
 げている。
 この姿 を見て、誰に分かろう。これが、村の皆に愛される栄太郎だと。
 ……いや、一 だけ例外がいる。
 ――チヨ、 たせたな!
 呼びかけに、 みからよろめき出たのは。
 ――ああ、 太郎さん……。
 荒縄で縛り げられたチヨだった。それ以外、何も身に付けていない。
 ――やっと てくれたんですね。
 恋人を見つめるチヨの は、桃幻郷を彷徨っていた。絹さえ羨んだ玉の肌がほんのり赤みを
帯びているのは、 がきついせいではない。未だ膨らみきらぬ胸では、桜色の乳首が切なげ
に揺れ、下半身の茂みは止め無く粘液ねんえきを滴らせている。
 ――へへ、はしたねえなぁ。もう、こんなにらしやがって。
 茂みの奥に隠された、開きかけのつぼみに指を這わされ、チヨは背をらせる。
 ――だって、あなたったら、一晩中もてあそんでおいて、ここから先は明日のお楽しみだって……。
 マタタビに酔った猫のように、栄太郎の胸に頬をこすり付ける。手を繋ぐだけで赤くなっていた
チヨは、もういない。彼と唇を重ねた瞬間、 を構成する六十億個の細胞全てが入れ替わって
しまったのだ。 
 少女の細胞から、めすのそれへ。
 ――ああ、もう我慢できない!  く、早く……。
 ――分かった かった。じゃあ、行こうか。
 栄太郎に縄を握られ、 のように従わされる。時々、逆らって踏ん張って見せると、栄太郎は
にやりと笑って、思い り縄を引く。ぎりぎりと肌に縄が食い込む感触に、チヨは熱い吐息を漏
らし、栄太郎は をぎらつかせる。
 ――逃がさん、お は俺のものだ。
 ――ええ、そうよ、絶対に がさないで……。
 そう、この は二人を繋ぐ絆の証。
 どろどろどろ…… く手から、太鼓の音が聞こえてくる。早くおいでと二人を誘っている。鼓動
が高まる。稚拙ちせつだが力強い原始のリズムに、脳の最も古い部分が共鳴している。
 ぐにゃぐにゃと視界が歪み始める。遠近法が崩壊し、空気はねばり気を帯びて絡みつく。つい
に入り込んだのだ。“祭”の……そう、胎内たいないと言うべき場所に。
 舞台に いた主役とヒロインを、どおおという大歓声が迎える。
 石槍を構えた者、牛のような鼻輪を下げた者、獣の頭蓋骨ずがいこつを被った者……皆、鳥の羽や刺青
で鮮やかな色合いを纏っている。それがわらわらと蠢動しゅんどうする様は、あたかも万華鏡まんげきょうの内部に迷
い込んだかのようだ。 
 ―― ろよ、皆歓迎してくれてるぜ。
 ――まあ! 
 こんな姿を られても、恥ずかしいと思う感覚もすでにない。それどころか、社交界で注目を
浴びる貴婦人のような、 らしい気分だ。
 灰色長衣の村人達の代わりに、極彩色ごくさいしょくの野人の群れ。荘厳な賛美歌ならぬ、おどろおどろし
い太鼓の乱打。羊の丸焼きでなく、 きたチヨ。そして、それを見下ろしているのは、教会では
もちろんなく。 
 “祭”の器たる、黒い 碑だった。
 それは、村の を反転させたかのような、冒涜の光景。だが、こちらこそが“祭”の本来の姿
なのだ。村の は、おそらく石守家の始祖が、村人達を取り込む準備のためにでっち上げた、
仮初かりそめの姿に過ぎない。
 頃合いを見て、 なる“祭”を始めるつもりだったのだろう。しかし、結局それは果たせす、佐
羽戸は数百年もの間、無意味なまがい物の祭を繰り返すことになったのだ。
 しかし、人は忘れても、“祭”は覚えていた。シュトレゴイカバアルから綿々 と続く、自身の記憶
を。 
 大観衆が見守る中、ついに黒い石碑の前に立つ、栄太郎とチヨ。そのなめらかな表面が、鏡の
ように恋人達の姿を している。
 これから、“祭”の一族に わる二人を。
 ――さあ、 めよう。
 ――ウフフ、とっくに まっていますよ。
 ――はは、そうだな。二人でここに たあの時から、全てが……。
 軽やかに地を蹴り、くるくると舞い始める二人。踊りなんて、尋常じんじょう小学校でやったお遊戯ゆうぎしか
経験がないはずなのに、なぜか体が勝手に く。
 きっと、最 のパートナーがいてくれるからだ。
 いつの にか、二人の側に大きな壷が置かれていた。そう、供物に俗界の穢れが付いてい
てはならない。 
  をしなければ。
 観客達から、栄太郎に の枝が投げ渡される。すかさず壷に突っ込むと、ごうっと奇妙な黄
色い炎が い上がる。
 そう、“祭”の禊は、 ではなく、火で行われるのだ。
 ぱちぱちと火の粉をき散らす木の枝を、栄太郎は頭上に振りかぶり……。
 舞い るチヨの背中に、思い切り叩き付ける。
 仰け反り、たまらずよろめく。だが、それも り付けの内だ。すかさず、栄太郎が逞しい腕で
抱き え……。
 べろりと首筋に を這わされ、チヨの全身に電撃が走る。
 円舞、一撃、よろめく、栄太郎が支える。その度にめられ、まさぐられ、愛撫あいぶされる。再び、
円舞、一撃……。苦痛が快楽を き立て、快楽が苦痛を引き立て……背徳のロンドは、二人
を際限無き熱狂の境地へいざなう。
 そうだ、苦痛あってこその快楽ではないか。なのに、現代文明は苦痛を忌避きひし、快楽ばかり追
及する。それがいかに矛盾 したことか、“祭”は教えてくれた。
 苦痛と快楽は、 しく尊いのだ。
 何度、愛撫されたろう。何度、鞭打たれたろう。ついにチヨは力尽きて、地面に がる。びくび
くと痙攣する を、無数の鞭痕が飾っている。
 ――チ、チヨ…… も、もう限界だ……。
 栄太郎が、毛皮の腰布を ぎ捨てる。その下から勢い良く飛び出したものを、チヨは神々し
そうに見つめる。柱のようにそびえ、仔猫のように震えている。頼もしく、愛おしい、まさに彼その
もの。 
 ――いくぞ……。 
 ――ええ、 て……。
 己の体内に通じる裂け目に、チヨは栄太郎の分身を受け れる。
 二人の体が繋がる。まるで、別々の だった今までの方こそ、不自然であったかの如く。そ
のあまりの簡単さに、思わず笑ってしまう。一体、何を躊躇 していたのか。お互い、求めるもの
は、いつも にあったのに。
 もっと へ行きたい、もっと奥へ行きたい、栄太郎はそう願い、何度も突きを繰り返す。もっと
奥まで来て、もっと まで来て、チヨもそう願い、何度も受け容れる。だが、後一歩の所で届か
ない。 
 そう、快楽だけでは駄目 なのだ。
 究極の快楽には、究極の苦痛がともなわなければ。
 ――ああ……。 
 チヨは、うっとりと つめる。
 栄太郎が、家宝の短刀を り上げるのを。
 おめでとう、おめでとう…… かしい声に、二人ははっと周囲を見渡す。
 ――金谷さん、 さん!
 ――親父に、 さんも……みんな、ありがとう。
 みんないる。口々に、おめでとうと んでいる。そうだ、いるに決まっているではないか。みん
 ってこその“祭”だ。
 ああ、そうなのだ。“祭”は“祭”だ。それ以上でも、それ以下でもない。人々がさを晴らすた
めに、一つになろうと集まる 。自分も、それに誘われていただけなのだ。そう、五年前、栄三
と雪 がそうであったように。
 なのに、無知な自分は、“祭”のことを、まるで人食いの化け か何かのように……ああ、そ
う言えば、金谷も同じ勘違いをしていたっけ。目配せすると、彼は照れ いした。
 みんな、笑顔を浮かべている。 も、二人の姿を見ても、嫉妬などしない。そう、“祭”の中で
は全てが一つ。 や彼女は、チヨでもあるのだ。
 そしてもちろん、チヨと 太郎も、これから……。 
 ――ひとつに、なろう……。 
 まるで、天から ちる流星のように。
 短刀がチヨの ずぶりりっ血が泉のようにぷしゃあっ錆びた鉄の匂いがむわああああ
髪入れず刃を らせずばあああああたちまち腹がぱっかあああああ血の泉が噴水と化して
ばぶしゅうっ細長い がフリルのようにずるるるるうううぅぅ広がる血溜まりがどくどくどくどく真っ
赤な生地きじをどこまでもどこまでも際限なく……。
 ――思った りだ! 真っ赤なドレス、よく似合ってるぜ!
 羊を解体した時よりはるかにたくみに短刀を操りながら、栄太郎は間断なく腰を動かしている。
絶叫するチヨ。ああ、苦痛と快楽が火花を らしている。散らしつつ、化学変化を起こして融合
していく……。 
 そう、これこそ二人が、 つになる感覚。
 ああ、 分達は、もうすぐ、もうすぐ……!
「え?」 
 この光景は、現実か か。
 そもそも、“ ”は実在するのか、しないのか。
 全ては、狂人達の 想かもしれない。しかし、それを証明することは、誰にもできない。人が
現実と呼ぶものは、所詮、 が見せる幻でしかないのだ。
 それに、現実だろうが幻だろうが、二人にとってはどうでもいいこと…… 、とても幸せなの
は、間 いないのだから。
「え?」 
 ――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ 
っ!!!!!!!! 
「え?」 
 遂に一つになった二人に、 が拍手を送る。ああ、お父さんもいた。手だけになってしまっ
て、拍手はできないけれど、ばたばたと ね回って祝福してくれている。もう大丈夫、もう寂しく
ない、これでみんな一 ……。
 自分達は、永遠を きる“祭”の一族。
「チヨ、 してるぜ……」
永久とわに……おしたい、します……栄太郎、さ……がはっ!

〜9〜

 それから、 九十年後……。
 かつて、佐羽戸と ばれた場所にて。
「すごい……」 
 かおるは感嘆の溜息を吐いた。
 眼前に聳える、 い石碑を見上げて。
 時代の流れに取り残され、ふもとの村は廃村になってしまったが、その信仰の対象だけは残って
いる。 とも、皮肉な光景だ。
「やっぱり、 二つだ……」
 薫の手には、古めかしい和綴じ本が握られている。思えば、実家の倉でこの本を見つけたこ
とが、御簾門大学民俗学部に入学する切欠きっかけになったのだ。
 表 には〈無銘祭祀書〉とあった。
友美ともみも見てくれよ! 僕の想像が正しければ……」
「はいはい、 かった分かった」
 興奮する薫を て、つくづく物好きな男だと友美は苦笑する。たかが卒業論文のために、わ
ざわざこんな秘境のような に来るなんて。
 もっとも……。 
(その物好きに き合っている私も、同類か)
 こっそり を赤らめた、その時。
 かつん。 
 爪先が、 かを蹴飛ばした。
「あら? ねえ、薫、 か落ちてるよ」
「え?」 
「ナイフ……かしら? 変な ねえ。蛇みたいにぐねぐねして……」
「み、 せてくれ! ひょっとしたら、信仰に関わる物かも……」
 仲睦なかむつまじい二人を、黒い石碑はその表面に静かに映している。招待状を受け取ってくれたこと
を、 ぶように。
「え?」 
 ソシテ、“祭”ガ ビ――――。
「え?」 

〜Fin〜

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