〜1〜
永遠の氷河に埋もれし、失われた大陸
百の魔道士が術を振るい、千の奇跡が顕現せし、魔法の王国
彼の地が紡ぎしは、栄光と破滅、賢者と愚者の物語
神官は驕り、魔道士は邪神に見え、コモリオムの都は栄え、そして滅びた
|
劫初の記憶を伝える、禁断の書のみがその名を記す |
「カー、レギ、トゥーラ……目覚めよ、火精……」
エイボンの呪文に反応して、火の紋様を刻まれた炉が起動する。紫色の炎に照らされて、奇
妙な形の実験器具が、禍々しい影を躍らせる。
単眼獣の強酸にも耐える真銀製の鍋に、皮袋から黒く縮れた物体を数片取り出し、ぱらぱらと
太陽系を模した測時盤の目盛りが、きっちり三つ進んだ瞬間を見計らって。
炉の炎を止める。
そして、すかさず鍋の中で沸き立つ、赤い液体を――。
――ヴァラード焼の茶器に注いだ。
「うむ、やはりアボルミス茶は、エイグロフ山脈の雪解け水で飲むに限る」
さすが大魔道士。茶にも、並々ならぬこだわりがあるようだ。
その芳しい香りを楽しみながら、エイボンは……溜息を吐いた。
分かっている。これが、現実逃避であることぐらい。
エイボンは、壁に掛けられた、奇妙な物体に目をやった。
卵型の金属板。黄金とも銅とも異なる、ぬらぬらした赤い輝きを放っている。
その表面には、羽のない蝙蝠とも、太った蛙とも付かない生き物の姿が刻まれていた。
この品こそ、彼の研鑽の到達点そのものだった。
(長かったな、ここまでは……)
飛行竜の骨で作られた安楽椅子にもたれながら、ここに至るまでの長い道程を思い起こす。
彼の生涯は、運命との絶え間ない戦いだった。
エイボンの父ミラーブは、イックァ大公家に仕える文書管理官だった。特別裕福ではなかった
が、真面目な働きぶりで、公子ザクトゥラの信頼という、何よりの財産を得ていた。
いずれは彼も、父の跡を継ぐはずだった。しかし、運命は彼に、そんな平穏な生涯など許して
権力欲旺盛なイホウンデー神官達は、ザクトゥラ公子に取り入るために、ミラーブを邪魔者と
イックァを追放された父は、過酷な荒野の暮らしで持病が悪化し、間もなく死亡。一人取り残
されたエイボンを救ったのは、父の旧友ザイラックだった。荒野の大魔道士――畏敬の念を込
それが、師との出会いだった。
かくて大ザイラックの弟子となったエイボンは、師の黒片麻岩の館で、若き日々を魔術の修行
雲を呼び雨を降らせ、青銅の像に生命を吹き込み、あるいは水鏡に遠い異界の光景を映し
出し……間近で見る師の技は、若きエイボンに、魔術こそ己の道と信じさせるに十分だった。
何の迷いもなく、師の背を追っていたエイボンに、しかし運命は再び嘲笑を浴びせた。
エイボンが四回目の大祓いを迎えて三年目(二十三歳)、まだまだ半人前の彼を残してザイ
ラックは死んだ――魔術の実験に失敗し、無惨な姿になって。
かつての面影すら留めない師の躯を前に、エイボンは思い知った。魔術とは全てを与えると共
に、全てを奪いもする諸刃の剣であることを。
魔術の業に恐れを生した彼は、師の館から、魔術の道から、一度は逃げ出した。王都ウズ
ルダロウムの路地裏に潜り込み、詐欺師の真似事をして糊口を凌ぎ……このまま、どこまでも
鮮烈な印象と共に、彼女は現れた。
秋の麦穂のような黄金の髪、オンドーアの湖面のような青い瞳。その姿は、今でも瞼の裏に
焼きついている。
彼女は、エイボンを生涯忘れえぬ旅に誘った。しかし、その旅程は短かった。三度、執拗な運
命の追撃に遭い、彼女は……。
そして、エイボンは魔術の道に戻る決意を固めた。運命――時に権力に、時に魔術の業に、
時に人智を超えた存在に、様々な姿で現れては自分を翻弄する、この強大な敵と戦う力を、魔
ムー・トゥーランに戻った彼は、師の館を引き継ぎ、さらなる高みを目指した。館に篭もって、
書物ばかり読んでいた訳ではない。自分と同じように運命に翻弄される人々を、魔術で救うこ
とこそが、何よりの修行だと彼は考えた。
野蛮なヴーアミ族の大群を追い返し、ウスノールを侵食する異界の幻を払い、ファルナヴート
ラ王を誘惑する夢魔を懲らし……次第に彼の名は、尊敬と共に人々の口に上るようになった。
その名声を聞きつけた多くの若者達が、弟子入りを求めてエイボンの元を訪れた。運命と戦
い続けるには、仲間が必要だと感じていた彼は、喜んで彼らを受け入れた。
エイボンの教えを受けた弟子たちもまた、各地で活躍。その師エイボンの名はますます高ま
り……いつしか、彼は亡き師ザイラックと同じ称号、すなわち大魔道士と呼ばれるようになって
それでも彼は、満足することなく研鑽を続け……ついに、究極への扉を手に入れたのだ。
それが、あの金属板だ。
輪を抱く星サイクラノーシュ――異形の神々が住まうという伝説の地へ、その秘宝は一跨ぎで
連れて行ってくれる。遠く上古の時代より、全ての魔術師が求めてきた謎、その答えを目にす
(なぜ躊躇う、エイボンよ……)
未だに、自分はここに留まっている。
彼に、あの扉を授けた存在は忠告した。これは一方通行の道であり、潜れば二度と戻ること
は叶わぬと。だが、この世に、サイクラノーシュで待っている体験以上のものなどあるだろう
か。弟子達も、今では皆一人前になって独立している。躊躇う理由など、何も無いはずなの
何かが、自分を引き止めている。
(フッ、臆病風に吹かれただけだろう。私も人の子よな)
今夜も、決心は付きそうになかった。使い魔に片付けを命じると、エイボンは私室の寝台に
向かった。
窓から覗く満天の星空を、一筋の流星が横切った。
〜2〜
翌日、エイボンは久し振りに館を出て、近くの村に向かった。切れかけているアボルミス茶を
補給するためだ。
無論、使い魔に行かせることもできるのだが、あえて自分の足で歩いた。村人達に会うのが
楽しみだったからだ。大魔道士と言えど一人では寂しいし、寂しいという感覚を忘れてはならな
いと思っている。
忘れてしまったばかりに、己こそが宇宙の中心と驕り、破滅の道を辿った魔道士達を、彼は
幾人も知っているから。
ムー・トゥーランでは珍しい、穏やかな風を楽しみながら歩くと、やがて村が見えてきた。最近
この辺りにでき始めた、新しい開拓村の一つだ。未知の荒野にも果敢に切り込む人の勇気は、
今年の畑の実りはどうだろうかと思いながら、村の門を潜った時だった。
村の様子が、いつもと違うことに気付いた。広場に村人達が集まって、ぼそぼそと囁き合っ
「あ、エイボン様、ちょうどいいところに!」
エイボンの姿を認め、一斉に駆け寄ってくる。村の創立当初から、気さくに相談に乗ってくれて
いるこの大魔道士を、村人達は心から信頼していた。
「何かあったのかな?」
村に、奇妙な闖入者があったのだという。
「走竜飼いのグルカスが、広場に倒れていたのを見つけたんです」
村人ではないのは、すぐに分かった。なにせ人口は五十足らず、村人全員が顔見知りなの
「旅人か? こんな辺境の地に珍しいな」
それだけなら、別にエイボンを頼る必要はない。普通に介抱してやれば済むことだ。
問題は、そいつの風体だった。
「一応、人間のようではあるんですが……」
奇妙な容貌に、奇妙な服装……村人達の語彙では上手く説明できないようだったが、とにかく
それでも、やはり放っておく訳にはいかない。とりあえず、村長の家に運び込み、介抱するこ
とにした。幸い怪我などをしている様子はなく、間もなく意識を取り戻したのだが。
そこで、新たな問題が生じた。
「言葉が、全く通じないんですよ」
何やら必死で訴えているのだが、一体どこの言葉やら、村人達にはチンプンカンプンだっ
唯一つ、“エイボン”と聞こえる部分を除いて。
「私の名を?」
「はい、繰り返し言うんです。エイボン様に会いたがっているんじゃないでしょうか」
はてさて、そんな奇妙な闖入者が、自分に一体何の用だろう。エイボンは、久し振りに血が騒
ぐのを感じた。
興味深い謎は、アボルミス茶と並んで彼が好むものの一つだ。
「分かった、会ってみよう」
村長の家へ向かうと、果たして謎の運び手は、寝台の上で所存無さ気にしていた。
確かに、変わっていた。この世の、神秘という神秘を見尽くしているエイボンの目から見てさ
え。村人達が、旅人と断定できなかったのも無理はない。
烏賊墨の様に黒い髪、ヴーアミ族のような丸い耳、黄色がかった肌。こんな人種、見たことも
聞いたこともない。辺境に住む、未知の蛮族……という判断は、服装を見て即座に撤回した。
|
形はごくシンプルなシャツとズボンなのだが、織り方が分からない程木目細かい布地で、見事
に斑無く染め上げられている。相当高度な技術が使われているに違いない。
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男性だ。まだ若い。
小動物を思わせるくりっとした双眸、ちんまりした鼻、丸みのある頬には、まだ少年のあどけな
さが残っている。おそらく、四回目の大祓いはまだだろう……彼の属する文化に、大祓いの風
習があるのかどうかは定かでないが。
エイボンの姿を認めると、村人達にはチンプンカンプンだという例の言葉で話しかけてくる。
「アヤシイモノジャアリマセン、ヒトヲサガシテイルンデス……」一
|
「どうです、エイボン様。何て言ってるんですか?」
村人は、偉大なるエイボン様に分からぬことなど、何もないと信じきっているようだったが。
「うむ、分からん」
あらゆる言語に精通する――それこそ、太古の蛇人間の楔形文字にまで――エイボンを以
ってしても、さっぱり分からない。他の言語との、類似性すら見出せない。
唯一つ。
「えいぼんサマヲシリマセンカ、マドウシノえいぼんサマヲシリマセンカ……」一
|
エイボン……そう、確かに、その名だけは、聞き取れる。
そして、そこに込められた必死の想いも。
(一体、どこから来たのか。そして、私に何用なのか……)
この世にも、まだ自分の知らないことは残っていたらしい。とりあえず、昨夜サイクラノーシュ
に行くのを延期したのは、正解だったかもしれない。戯れに、そんなことも思ってみた。
「そ、そうですか、困りましたねえ」
「何、問題ない」
エイボンは長衣の袖を探った。その内部は館の魔具庫に繋がっており、空間を越えて物品を
「何せ、書物と違って、人には脳と心があるからな」
エイボンは独特の匂いを放つ黒い丸薬を、袖から取り出し……。
ひょいと、若者の口に放り込んだ。吐き出すでもなく、素直に飲み込む若者。
「どうだ。私の言葉が分かるか?」
「うええ、苦い……あれ!?」
若者が目を丸くする。無理もない。エイボンや村人達の言葉が、突然理解できるようになった
のだから。それどころか、自らも同じ言葉を話せるようになっている。
いかに魔道士が多い国とは言え、やはり驚異には違いない。
「私が作った、言語習得の秘薬だ。脳に情報を刻むことで、どんな言語も即座に習得できる」
作り方については、あえて言わない。言語学者の脳を乾燥させた粉末を練り上げて……等と
言われて平然としていられるのは、魔道士だけだろうから。
「す、すごい! あなたは魔道士ですか!?」
若者は、子供のように目を輝かせている。こういう目で見られるのは慣れているエイボンでさ
え、くすぐったくなる程の、それは強烈な憧れだった。
「で、では、エイボンという人を知りませんか!? あなたと同じ魔道士なんですが……」
一転して、身を乗り出す。やはり、そうだった。この若者は自分を探していたのだ。それにして
も、ここはどこだとか、今はいつだとか、もっと優先順位が高い質問は、いくらでもありそうなも
(余程、必死に探していたと見えるな)
もう少し、その謎について考えてみたかったのだが、焦らすのも気の毒で。
「エイボンは私だが」
つい、素直に名乗ってしまったのだが――
――それを聞いた若者の反応は、劇的だった。
あんぐりと大口を開き、次いでぶるぶると肩を震わせ……。
「ぼ、僕は、何て幸運なんだ……こんなに早くお会いできるなんて……!」
がばぁっ! 寝台から飛び降り、蛙のように床に這い蹲る。
そして、叫んだ。
「エ、エイボン様、僕を弟子にして下さい!!」
謎の一端はあっさり解けた。弟子志願だったようだ。考えてみれば、若者がエイボンを訪ね
てくる理由としては、至極真っ当なものである。彼のあまりの奇妙さに、一番ありそうな可能性を
すっかり失念していた。
「お、お願いします、何でもしますから! ええ、“死ね”以外なら、どんなことでも……!」
数多くの弟子を取ってきたエイボンだが、ここまで必死の――いやはや、文字通りの――志
願者は初めてだった。きっと、その願いだけを支えに、言葉も通じない異郷を渡ってきたのだ
だから、とても申し訳なかったのだが。
「若者よ、そなたの覚悟を疑うつもりはないが……」
疑うつもりはないからこそ、いい加減な返事はすべきではない。
「見ての通り、私はもう老いぼれだ。そなたが一人前になるまで、指導してやれる保障はない」
少しだけ嘘を吐いた。寿命が尽きるのは、まだ大分先だ。だが、それまであの館にいられる
かどうか分からないのは、本当だ。
とりあえず昨夜は取り止めたが、その内、嫌でもサイクラノーシュに向かわなければならなく
感じるのだ。あの底意地の悪い運命が、またしても蠢き始めているのを。
修行半ばで、師を喪う――この若者にまで、自分と同じ苦労はさせたくない。
「幸い、私には、すでに独立している弟子が多くいる。その中の何人かを紹介しよう」
しかし、若者は頑として聞き入れなかった。相変わらず、床に這い蹲ったままの姿勢――懇願
を意味するらしい。当人は必死なのだろうが、はっきり言って珍妙だ――で、あなたの元で修
行できなければ意味がないんですと言い募る。
そのあまりの必死さに、エイボンは……。
僅かに、瞼を細めた。それを感じ取ったか、若者の背にぴくりと緊張が走る。
「何を好き好んで、こんな老いぼれに弟子入りを?」
エイボンは〈魔道士エイノクラの物語〉に登場する魔道士ゴッドラムのことを思い出していた。
対立する魔道士エイノクラを暗殺するため、素性を偽って彼に弟子入りする策謀家だ。
ゴッドラムと同じようなことを考えそうな連中には、心当たりがある。最近感じている運命の策
動は、あるいは目の前のこの……。
だが、すぐに、エイボンは己の深読みに苦笑することになった。
「そそそ、それは、その〜、そう! 小さい頃、お祖父ちゃんからエイボン様のご活躍を聞いて、
ずっと憧れてて……いやあ、ウスノールの街を、異界の幻から救ったお話は有名ですよ〜、
冷や汗だらだら、視線は右に左に自由遊泳。
こんな正直者に間諜をさせる程、あの連中も……。
(まあ、人手不足ではなかろうな)
だが、それなら、なんの目的で?
若者の瞳を、正面から見据える。
森の泉の水面のような瞳だった。底の底まで澄み切って丸見えで……にも関わらず、真意は
おそらく、それもまた、純粋であるが故に、透明で。
(ああ、また悪い癖が出てきたな)
解かれざる、謎。
それを放置しておくことは、エイボンにとっては、目の前に置かれた贈り物の中身を、確かめ
ずにおくに等しい。
彼を買収するのに、金も宝石も必要ない。謎を用意すれば十分だ。
異邦の言葉を話す、熱烈な弟子入り志願者。
この若者は、まさに自分自身を賄賂に持ってきた訳だ。
(駄目だ。サイクラノーシュ行きは、当分延期だな)
何とか、運命の邪魔が入らないことを祈ろう――
――この謎を解き明かす、その時までは。
「分かった。弟子入りを認めよう」
あまりにあっさり。傍から聞く分には、そうとしか聞こえなかっただろう。
「ほ、本当なんです、信じて下さ……え?」
おかげで、何を言われたのか、若者も咄嗟に理解できなかったようである。
「ただし、そなたが一人前になる前にぽっくり逝っても、恨んでくれるなよ?」
お道化るエイボンに、ようやく若者の顔に歓喜が広がり始める。例の蛙姿勢のまま、もういいと
言うまで頭を下げ続けた。
「ところで、何と呼べばいいのかな、我が新しき弟子よ?」
「あ、はい、トガミツカサと言います」
「トガミツ……変わった名前だな」
「な、長かったら、ツカサと呼んで下さい」
――こうしてエイボンは、生涯最後の弟子を迎えたのだった。
〜3〜
館に着いても、新たなる弟子ツカサの歓喜は続いていた。門番の魔石像に、掃除中の使い魔
に、呪文一声で明かりを灯す燭台に、いちいち子供のような歓声を上げている。
|
祖父にエイボンの活躍を聞かされて云々という話はともかく、魔道士に憧れていたと言うのは、
「あれは、マンドラゴラの根に、ワイバーンの毒袋に……あの赤いのは、火霊石ですね! あ
んなに純度が高そうなのは、初めて見たなぁ」
棚に並ぶ魔術の触媒を、尽く当ててみせるのを見て、少し感心する。知らない者の目には、
がらくたにしか見えないはずだ。魔術に関して、全くの素人ではないようだ。
|
「詳しいではないか。どこで学んだのだ?」
「家にあった魔道書で見たんです。祖父はミスカドダイガクでジンルイガクのキョウジュをしてい
言語習得の秘薬が上手く効いていないのだろうか。後半は良く意味が分からなかったが。
そこで、不意にツカサは表情を沈ませる。
「そこに書かれていた魔術も、一通り試したんですけど、全然上手くいかなくて……僕には、魔術
の才能がないんでしょうか」
「ふむ、では試してみるか?」
テーブルに飛竜の皮を敷き、その上に罪人の骨の粉で魔方陣を描く。中心にパピルスの繊維
で編んだ人形を置き、賦活の呪文を詠唱。
「エクト、ラ、オーム……来たれ、意思。汝が肉体、ここに在り……」
それは一見、お呪いとでも呼ぶべき手軽さだったが。
その効果は、確かに魔術だった。どくんどくんと脈動するように、人形の胸が上下し始め…
ぴょこりと、起き上がる。
唖然とするツカサの前で、仮初の意思を与えられた人形は、くるくると踊っている。
「ええっ!? む、無理ですよぅ」
「私のやり方は見ていたであろう? あの通りにすればいいのだ。簡単ではないか」
「ほ、本当に、それだけで、できるんですか……?」
躊躇いながらも、ツカサはエイボンのやり方を、忠実に真似てみせる。
「うう、何で……」
今度は、人形はぴくりとも動かない。項垂れるツカサとは対照的に、エイボンは何やら納得顔
「案ずるな。できなかったのは、そなたに才能がないからではない」
「よいか、そなたは、私の手順を完璧に真似て見せた。ただ一つのものを除いてな。それが何
か、分かるか?」
「え、えーと……呪文の発音が不正確だったんでしょうか。それとも、魔方陣を書き間違えたと
「そうではない。そなたに足りなかったものは……心象よ」
「心象……ですか?」
「左様、心象こそ、魔術の基礎にして奥儀……」
そもそも、魔術と技術の違いは何か……どちらも、道具を用意し、手順を踏む必要があるの
は同様だ。だが、魔術にはそれらに加え、もう一つ必要なものがある。
それが、術者が心に思い浮かべる具象、すなわち心象だ。
「私は魔方陣を描き、呪文を唱えながら……」
エイボンは、儀式をゆっくりと再現しながら解説する。
「思い描いていたのだ。呪文の一語一句が虚空に浮かび、魔方陣を中心に練り上げられ、仮初
の魂となり人形に宿る様を……魔方陣も呪文も、術者の心象が伴って、初めて力を持つのだ」
魔術の原型は、天地自然に捧げる祈りだという。雨を降らせたまえ、疫病を鎮めたまえ……た
だ只管心で願うだけだったものに、次第に言葉や儀式を補助に用いるようになり、現在の形にな
だが、まずは心象ありきなのだ。
「そうか……僕は何も考えずに、ただ手と口を動かしていただけだったから」
「左様、心象が伴わぬ呪文は、ただの寝言。心象が伴わぬ魔方陣は、落書きに過ぎぬ」
できなかったのは、ツカサに才能がないからではない……確かに、こんなものは、才能以前の
「よい練習の仕方を教えよう。そうだな……うむ、これがいいか」
大きめの銀貨をツカサに渡す。古い十分の一パズール銀貨だ。
まず、銀貨をじっくり見て、その形状を覚える。覚えたら、目を閉じ、瞼の裏に銀貨の姿を思
い描く。
これをひたすら繰り返すのだ。形、重さ、手触りなど、現実のそれと変わらないぐらい、リアル
な心象が思い描けるようになるまで。
「これが、そなたの修行の第一歩だ。魔術の世界へと飛び立つために、まず翼の動かし方を学
ぶのだ。呪文の発音だの、魔方陣の構成だのは、その後だ」
ツカサは戸惑ったように、銀貨を見つめている。こんな、何の変哲もない物体が、驚異に満ち
「信じられぬか?」
その気持ちはよく分かる。かつての自分も、そうだったから。
「まあ、焦らずやることだ」
〜4〜
それから一週間。ツカサは、掃除や食事の支度などの弟子の勤め――まだ、儀式や実験の
手伝いはできないので――の傍ら、地道に修行を重ねていた。
|
今も、鍋の湯が沸くまでの時間を無駄にすまいと、銀貨を手に取る。
じっと見つめ……ぎゅっと目を閉じる。
古びて黒ずんだ銀の色、ひんやりした感触、表面に刻まれたロルクァメスロス王の肖像……細
部まで目に焼き付けたはずなのに。
瞼を閉じた途端、それらはぼやけて霧散してしまう。
ツカサの苦戦が、エイボンには手に取るように分かる。他でもない、ザイラックに弟子入りし
た彼自身が、最初に望んだ修行だからだ。
「どうだ、簡単なようで難しかろう?」
「はい、自分がいかに眼にばかり頼っていたのか、よく分かりました」
「そなたは、まだましな方だ。王都の貴族連中などは、もっとひどい。眼に見えるものしか信じ
ず、金銀で己を飾ることにばかり腐心しておる。眼に見える範囲など、事象のほんの表面に過ぎ
「……僕らが魔術を使えなくなったのも、そういった理由なんだろうなぁ」
「? 何のことかな」
「あ、いえ、何でもありませんっ。も、もうすぐ、お食事できますよ」
ショングア豆のスープとパン、そして魚の酢漬けという質素な食事を終えた後で、エイボンは思
い出した。
「そう言えば、あの部屋をまだ見せていなかったな。来るがよい」
いくつもの扉を開錠の術で開けつつ、正五角形の館の中心へ向かう。そう、その部屋はまさ
に、この館の中心だった。館の分厚い黒片麻岩の壁は、そこを守るためにあると言っても過言
そして、一際頑丈そうな、最後の扉が開くと。
ツカサが感動の溜息を漏らす。
その部屋は、館のどの部屋よりも広かった。おそらく、二、三階分の吹き抜けになっているで
あろう、天井もとびきり高い。その壁一面に、ぎっしりと本や巻物が詰め込まれている。
これぞ、エイボンの魔道の軌跡、魔道書庫だった。
「カダス録、ヴーアミ碑板群……わっわっ、ナコト写本まで!」
ツカサが目を回している。言語習得の秘薬のおかげで、背表紙の題名も読めるようになって
いるのだ……世に数冊とない、稀な魔道書達の。現存する、最後の一冊もあるかもしれない。
失われかけていた知識に、この書庫が永遠の生を与えたのだ。
まさにここは、時を超越した奇跡の空間。
「暇な時にでも読むがよい」
「ええっ!? よ、読んでいいんですか」
ツカサが驚くのも無理はない。魔道書の中には、魔物の召喚術なども記されている。無断で召
喚でもされたら、えらいことだ。そのため、弟子の位階によって、読める魔道書を制限している
のが普通なのだ。
「無論だ。書物は読むためのものだ」
だが、エイボンは一切そういったことはしていない。学びたいという弟子の熱意を尊重したい
ツカサは、震える手でナコト写本を開き……たちまち、素材不明の紙のページに釘付けにな
る。苦笑するエイボン。とりあえず、今日の用事は免除してやろう。そっと部屋を出る。
――そして、翌朝を。
エイボンは、大いなる驚きと共に迎えたのだった。
「お師匠様、できました!」
ツカサが何を言っているのか、エイボンは分からなかった。
結局、徹夜したらしい。眼の下には隈が出来ている。しかし、その瞳は、朝日を反射して、宝石
のように輝いていた。
それを見て、ようやくエイボンは悟った。
「……心象がか?」
普通なら、半年は必要だ。エイボンでさえ、三ヵ月掛かったのだ。それを、一週間で成し遂げ
(有り得ん……だが)
この弟子の馬鹿正直ぶりは、よく知っている。
「……分かった、確かめてみよう」
テーブルの上に、一週間前の術場が再現される。魔方陣が描かれ、人形が置かれ。
そして、すうと息を吸い――
「エクト、ラ、オーム……来たれ、意思。汝が肉体、ここに在り……」
――呪文を唱えだした途端、ツカサの目の色が変わった。
エイボンには分かった。弟子の目は、確かに見ている。
真理、を意味する呪文を縦糸に。
自我、理性、情動の呪文が、横糸のように織り込まれ、半透明の人型――魂という名の織物
を形成する様を。
ともすれば、あっけなく四散してしまいそうなそれは、しかし魔方陣の生み出す力場に導かれ
果たして、人形は……。
よろよろとではあるが、確かに起き上がった。
「やったやった! ぼ、僕にもできましたよ、お師匠様!」
感涙に咽ぶツカサとは対照的に、エイボンは呆然としていた。長い魔道を歩む過程で、いくつ
もの奇跡や悪夢を目にしてきた。
これは……あるいは、それらに匹敵するのではないか。
「はい、子供の頃を思い出してみたんです」
「子供の頃?」
ツカサは、懐かしそうに語った。
彼は、外で遊ぶより、家で本を読んでいる方が好きな子供だった。それも、一般の子供が好
むような絵本ではなく、家に代々伝わる怪しげな魔道書をだ。
「あの書庫にいたら、その時の気持ちが蘇ってきたんです」
それを眺めながら、幼いツカサは思い描いた。魔道士や魔物、そして彼らが行使する魔術の
そう、現実の事象の如く、極めてリアルに。
そこで、ツカサは閃いたのだという。
「何となく、今回の修行に通じるものがあるように思えて……」
ひょっとしたら、参考になるかもしれない。そのぐらいのつもりで、試してみることにした。
幼い日々の境地に、今一度帰ってみることを。
一晩中、魔道書を読み漁り、空想に耽った。やがて、ナコト写本から謎の海百合状生物が立ち
上がり、ヴーアミ碑板群は邪神に捧げる祈りを響かせ、カダス録は神の山の姿を描き出し…
…ツカサの精神は、夢幻の世界を漂い始めた。
「そして、はっと気が付くと……」
自分が、何かを握っていることに気付いた。
あの銀貨だった。
無意識の内に、ポケットから取り出したのだろうか。いや、そうではない。なぜなら、ポケットを
探ってみると、ちゃんと銀貨はそこにあった。
銀貨が、二枚に増えていた。
一枚は、師から貰った物だ。
と言うことは、もう一枚は……。
「……と、言う訳なんです」
ツカサは、片手で弄びながら言った……重さも手触りも、本物と寸分変わりない、心象の銀
「つまり、現実と夢の境目が曖昧だった、子供の頃の気持ちに戻ってみたら、自然に出来ちゃっ
た訳でして……」
照れ臭そうな弟子の顔を、エイボンは……ぽかんと見つめていた。
それが次第に苦笑に変わり、やがて呵々大笑になる。
「はっはっは……これは参った。まさか、そんな裏技があろうとは! 童心に返る、か……くく
「だ、駄目ですか? こんな、狡みたいなやり方じゃ……」
なぜ笑われるのか理解していないらしく、ツカサは不安そうにしている。そんな弟子を見ている
と、ますます笑いが込み上げてくるエイボンであった。
「狡などではない。そなたは真理に従ったまでよ。おそらく、これまで誰も気付いていなかった
ツカサに分かるはずもない。
大魔道士たる師匠が、よもや自分を羨んでいるなど。
〜5〜
「ミクト、シュブクァル、ブオ=ノーア……」一
|
ツカサは、霧の海の只中にいた。彼の立つ岩場が突き出している以外は、全く平板な無色の
「我、嘆願す……現世の理を越え……我が誓約……夢幻境へ捧ぐ……」
色だけでなく、音もない。ツカサが詠唱する呪文以外は、完全な無音……いや。
何かが、聞こえる。ばさばさという……羽音?
「大いなる深淵の大帝の騎士よ、霊峰ングラネクの守護者よ、夢幻境の虚空を駆る翼よ……」
ツカサの呪文に応えるように、羽音は徐々に近付いてくる。やがて、分厚い霧のカーテンに
穴が開き……。
差し込む月光に浮かび上がる、黒い影。
「出でよ、夜鬼――……!」
全体としては、人に近い。しかし、その体は滑らかな漆黒の皮膚に覆われ、背中には、蝙蝠を
だが、何より奇怪なのは、その顔だ。
何が奇怪って……何もないのだ。目も口も鼻も。それは、のっぺりとした黒い平面に過ぎなか
った。それにも関わらず、ちゃんと己の召喚者を認識しているようだった。
はっと我に返るツカサ。同時に、霧の海――彼の心象が作り出した、夢と現を分かつ境界の
風景は消え去り、現実の風景が戻ってくる。月光に照らされる館の庭、その中心に描かれた五
角の星。
ツカサの召喚に応じて現れた、有翼の黒い影だけは、変わらずそこにいる。
夜鬼。人々の夢が織り成す世界、夢幻境の夜空を飛び交うという魔物。一説には、深淵の大
帝と呼ばれる存在に仕えており、豊かな夢を生み出す人間を守護するよう、命じられているの
その為か、召喚者に忠実で、魔物としては御し易い部類に入る。
とは言え。
「で、できましたよ、お師匠様!」
(入門して一ヵ月で、ここまで漕ぎ着けるとは……)
自分には、魔術の才能がないのではないかと、案じていたツカサ。
“童心に帰る”ことで、鮮明な心象を描くという裏技に加え、幼い頃から魔道書に親しんでいる
せいで、理解の素地が出来ており、複雑な呪文も魔方陣も、すんなり覚えられる。
彼は、まさに生まれながらの魔道士だった。
「それ、試しに、何か命じてみるがよい」
ツカサのおずおずとした命令に応え、夜鬼が逞しい腕を差し伸べる。
二人を背に乗せ、夜鬼は翼を羽ばたかせる。たちまち小さくなる館。視界を遮る物が眼下に
去り、全方位に開ける展望。北に広がる白き大地は、極北のポラリオン。南に聳えるのは、王
国の屋根エイグロフ山脈か。
「ありがとうございます! お師匠様のご指導のお陰です!」
「いいや、この力強い翼は、始めからそなたの背に備わっていたのだ。私は、その動かし方を
教えたに過ぎん」
びょうびょうと吹き荒ぶ風が、ツカサの黒髪をなびかせる。この新しい弟子は、今、自らの翼
で、未知という名の大空に飛び立とうとしている。
館に戻った後、エイボンはツカサに位階を授けた。見習いとは言え、これで彼も、正式な魔道
士である。普通なら、一年は掛かる道程だ。早過ぎるとは思わない。彼の実力は相応しいものだ
し、これで驕って、道を誤るような男ではないと信じている。
位階の証に授かった黒の長衣に、大喜びで袖を通すツカサを見つめながら、エイボンは深く
深く問い掛けていた。
(そなたは、その翼でどこへ行こうとしているのだ……?)
その謎は、あるいはサイクラノーシュの真実以上に、深遠なのかもしれない。
〜6〜
エイボンは、風の噂に耳を傾けていた。
文字通りの意味で。
館の屋上に描かれた、風精の魔方陣。その中心に立つエイボンの耳には、王国中で囁かれ
る噂が、風に乗って運ばれて来ているのだ。この術のおかげで、彼はこの館にいながらにし
て、執政官並に王国の情勢に精通していた。
彼は、ある単語が含まれる噂を、特に重点的に聞いていた。
――イホウンデーを讃えよ! イホウンデーは偉大なり!
――ズスの街にも、イホウンデーの神殿を……。
――やれやれ、イホウンデーの神官様方には逆らえん……。
エイボンは、ふさふさした眉をしかめた。思った通り、イホウンデーの教団は、ますます勢力
を拡大しているようだ。
旧王都コモリオムの崩壊、ヴァルダナクス皇帝の急逝――暗殺という噂もある――、そして
、じわじわと進む氷河の侵攻……相次ぐ危難に、人々は縋るものを求めているのだ。
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いや、違う。別に、父の仇め許すまじ等と思っている訳ではない。もう昔の話だし、第一教団
の人間全てが、父を陥れた訳ではない。
ただ、少し悔しいような気は、した。
(所詮、魔術で人を救うことなどできぬか……)
その時。
エイボンの首から下がった護符が、ぶるぶると震えだした。
(ツカサの身に、何かが?)
護符には、彼の黒髪が編みこんである。本体に何らかの危険が迫ると、こうして知らせてくれ
ツカサは、今、あの村に買出しに行かせている。
弟子入りして、すでに三ヵ月。その間、彼も、エイボンの共で、何度か村に通っている。最初
は気味悪がっていた村人達とも、今ではすっかり打ち解けていた。エイボンの保障付きだし、
何より彼の人柄は、ちょっと会話すれば、まあすぐ分かることである。
だから、村人との騒動とは考えられないのだが。
ふと、嫌な予感が、脳裏を過ぎる。
(よもや、運命の奴が……)
これまでの、運命の手口を思い起こす。そうだ、奴はまず、大切な人達から攫っていく。
そして、今度はツカサを? エイボンの表情が、俄かに険しくなる。
久し振りに、彼の力を借りるべき時かもしれない。エイボンは、虚空に向かって、その名を呼
――それから、僅か数分後。エイボンは村外れにいた。
久し振りだったが、“旧友”の翼は衰えていないようだ。
「ご苦労だった、もう帰ってよいぞ」
エイボンの労いに返ってきたのは、ギャーッともグエーッともつかない奇声だった……心配し
てくれているのだと理解できる者は、この世でエイボン唯一人だろう。
運命が、手薬煉引いて待ち構えているかもしれない。確かに、同行してもらいたいのは山々だ
ったが、さすがに村が大騒ぎになるだろう。何とか説き伏せ、エイボンは一人村の門を潜った。
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まず村人に話を……聞くまでもなかった。広場の騒ぎは、嫌でも目に付いた――何だか、最
近、この村は平穏に縁がない。
おろおろと顔を見合わせる村人達。
そして、彼らの素朴な服装とはあまりに対照的な、けばけばしい一団。
金糸銀糸で飾り立てた法衣姿と、その護衛であろう、装飾過剰な鎧の兵士達。そいつらが自
慢気に被っている、鹿の角を模した額冠に、彼は忌まわしい程に見覚えがあった。
(イホウンデー教団の連中か)
ご苦労にも、こんな辺境にまで進出を図っており、神殿建築の計画もあるらしいと、以前村長
から聞いていた。あるいは、その下見にでも来たのかもしれないが。
何故、ツカサを取り囲んで、槍を突き付けているのか。
(やっかいな奴がいるな)
法衣姿……一団を率いる神官の顔を見て、ますます眉間の皺を深めるエイボン。
「あっ、エイボン様! た、大変なんです。お弟子さんが……」
びくっ! 村人達の口から出た名に、そいつは一瞬、背中に緊張を漲らせ――。
「これはこれは、大魔道士エイボン殿。このような所で、奇遇ですなぁ」
――しかし、振り返った顔には、意地でもそんな内心は浮かべまいとしている。
傲然と天を指す太い眉。法衣の下の腹は、脂肪だの我欲だの様々なものを溜め込んで膨ら
み、猛禽を思わせるぎょろっとした目は、絶えず相手の急所を探っている。
まあ、一度見たら、忘れられない容貌ではある。
「モルギ殿、我が弟子がどうかしたかな?」
異端審問官次席、教団の勢力拡大の急先鋒として知られる男だ。
以前、オッゴン=ザイの街で進めていた強引な改宗運動を、エイボンに挫かれて以来――ほ
んの、意趣返しぐらいのつもりだったのだが――、彼を目の仇にしているのだ。
嫌な予感が、的中したようだ。運命は、今度はこの男を、刺客に仕立て上げるつもりらしい。
(この男も、災難だな)
まさか、同情されている等とは夢にも思わず。モルギは、傲然と背を聳やかす。一方、護衛の
兵士達は、あからさまに腰が引けている。思わずツカサの包囲を解きかけ……上司に睨ま
れ、慌てて槍を構え直す。
「見よ、この男の異様な風貌を! 魔性の者が化けておるに違いないぞ!」
「ち、違います! 僕は人間です、信じて下さい!」
「ほう、では証明してみせよ」
「しょ、証明と言われても……」
「できまい? では、信じる訳にはいかんなぁ」
異端審問官モルギお得意の論法だ。この手口で、教団の敵に異端の嫌疑を掛け、排除するの
が彼の役目なのだ。
だが、彼の真の敵は、もちろんこんな若造ではなく……。
「しかも、聞けばこやつ、貴殿の弟子などと申しておるではないか! 大魔道士エイボンともあろ
う者が、よもや気付かなかった訳ではあるまい。魔性の者と手を結ぶなど……イホウンデーの
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審判は、何者に対しても公平であるぞ?」
(なるほど、そう来るか)
モルギも、何も本気で、魔性の者云々等と言っている訳ではあるまい。狙いは、あくまでエイ
ボンなのだ。たまたま村で見かけた風変わりな若者が、憎きエイボンの弟子と聞いて、こんな
ことを思い付いたのだろう。
単に、この連中を排除するだけなら簡単だ。緑の崩壊の術で、腐ったジャムに変えようが、ナ
スの谷から大妖虫を召喚して一飲みにさせようが、どうにでもなる。
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だが、そんなことをすれば、教団全てを敵に回すことになり兼ねない。
苦笑するエイボン。自分でも不思議なのだが、この男のことが、決して嫌いではないのだ。ま
あ、喧嘩友達のようなものか。
彼にとって、敵と呼べるものは、唯一つ。運命だけだ。
――その時。
異様な刺激臭が、一同の鼻を衝いた。
「!? な、何だ、この匂いは……」
否、おそらくそれは、匂いなどではない。たかが匂いで、村人や兵士達はともかく、エイボン
やモルギまでもが、この状況で気を逸らすだろうか。
それは、悪臭と脳が錯覚する程――
――濃厚な、悪意だった。
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