〜1〜
真っ先に反応したのは、なぜかツカサだった。
「い、いけない! みんな、逃げて!」
「こ、こら、大人しくしろ……え!?」
ツカサを取り押さえようとした兵士が、絶句する。
愛用の槍の穂先に纏わり付く、得体の知れないものに気付いて。
黒い、靄のようだった。
しかし、その主成分は水蒸気などではない。なぜなら、それは……。
蠢いていた。脈動していた。生きていた。
そして、濁った緑の目をかっと開き、周囲に悪意の衝撃波を叩き付ける。
妬ましい、と。
兵士が、槍を放り出して逃げ出す。村人達も後に続き、広場はたちまちがらんと空いた。そ
の間、黒い靄は、空気力学を完全に無視した動きで、逆巻き、 膨張し、凝り固まり……。
四本足の、獣のような形に成っていく。
「こ、こら、逃げるな!」
「……モルギ殿、そなたも逃げた方がよいぞ」
エイボンの忠告に、しかし皮肉の響きはない。真剣そのものだ。
「お、おのれ! イホウンデーの神官に歯向かうか!」
「勘違いするな。その魔物は、私が召喚した訳ではないぞ」
「な、何?」
「……こいつを召喚することなど、誰にもできはせん」
召喚とは、魔物との契約である。魔物が欲するもの――餌であったり、術者の魔力であった
り――を代償に、奉仕を約束させる。だが、こいつにばかりは、その手口は通じない。なぜなら、
唯一つ、人間の命だけだから。
「ティンダロスの猟犬……」
悪夢から滲み出てきたかのような色合いの体、別の生き物のようにうねる長い舌、そして緑
の目に漲る暗い渇望。犬との共通点など、四本足であることぐらいしかない。この魔物が猟犬と
呼ばれるのは、外見ゆえではない。
彼らは、この世界が属する時間軸の、外側の領域に潜むとされる。普通なら、遭遇するはずも
ない存在なのだ。
だが、魔道士は別だ。彼らは、様々な目的、手段で、時の壁を乗り越えんと試みる。水晶玉
で未来を見通し、秘薬で過去を幻視し……そんな彼らの目が、運悪く猟犬の緑の目と、視線
そうなれば、奴はたちまち、不運な魔道士を標的に定める。なぜそうするのかは、知られてい
ない。一説には、不浄の存在であるが故に、人の持つ純潔さを妬んでいるのだとも言うが。
|
ただ確かなのは、その執拗さだ。奴は決して獲物を逃さない。どこまでもどこまでも追ってくる。
まさに、兎を追い詰める猟犬の如く。
それが、奴の名の由来だ。
エイボンに背を向けるのを躊躇していたモルギも、ついに耐えられなくなって逃げ出す。
しかし、猟犬は彼には目もくれず……。
ツカサを目指している。
そうだ、猟犬が現れる直前、彼は確かに言った。
『ま、まさか……いけない、みんな逃げて!』
狙われる心当たりがあったのだ。
(よもや……いや、間違いない)
護符が知らせたツカサの危機は、モルギ達などではない。
水晶占いや、幻視の術は、まだ教えていない。猟犬に目を付けられるはずはない。
分からない。しかし、これだけは言える。
ツカサのこの受難は、自分の運命に巻き込まれたせいではない。
(この男もまた……)
運命と、戦わされているに違いない。
ツカサが、黄玉をあしらった短杖を構える。エイボンが、護身用に持たせている物だ。
起動の呪文と共に 黄玉から黄金の稲妻が走り、猟犬を狙う。
だが、数千度のプラズマが、その汚らしい表皮を薙ぐ寸前。
猟犬は、さっと黒い靄と化して宙に溶け……一瞬後、今度は村人が落としていった鍬から、
黒い靄が吹き上がる。
カッと開く緑の目が、嘲りを湛えて見えるのは錯覚か。
「だ、駄目か……」
猟犬が潜む、外側の領域。そこは、こちら側とは、物理法則すら異なる世界だという。しか
し、僅かに共通する概念もあるのだ。
それが“角度”、特に百二十セス以下の鋭角だ。
その僅かな共通概念を門として、猟犬はこちら側にやって来る。逆に言えば、百二十セス以
下の鋭角さえあれば、奴はこちら側のどこにでも現れることができるのだ。
ゆえに、武器を振るっても当たらず、密室に立て篭ったとしても、部屋の角から、黒い靄が噴
出すのを目撃するのみ。
逃げられず、抗えず。
ティンダロスの猟犬、その名は絶望と同義語。
「お師匠様、逃げて下さい! こいつの狙いは、僕なんです!」
こんな時でも、ツカサは正直だった。エイボンは苦笑しつつ、長衣の袖を探る……そう、彼は弟
子を猟犬の餌にくれてやる気など、さらさらなかった。
(猟犬に襲われて生き延びた人間は、史上唯一人……かのエイノクラだけだそうだが)
ならば、自分が二人目になれば済むことだ。
その程度の覚悟、あっさり決めさせてくれる程度には……。
この弟子は、興味深い。
エイボンが袖から取り出したのは、水晶球だった。その内部には、ここでないどこかが映し出
薄暗い場所で、仄かに輝く魔方陣……。
起動の呪文と共に、水晶球は透明に戻り。
その内部に映し出されていた魔方陣が、猟犬の足元に現れる。
そう、この水晶球は、あらかじめ描いておいた魔方陣を、周囲の空間ごと取り込み、必要に
応じて瞬時に呼び出せるのだ。
そして使用後は、再収納することも出来る――。
さしもの猟犬も、予想外だったらしい。慌てて魔方陣から離れようとするが、時すでに遅し。
ぐにゃり、空間が歪み、魔方陣と共に、その忌まわしい姿が消える。
辺りに、静寂が戻ってくる。
あっけない結末。一見すると、そう見えたかもしれない。
「無事か?」
「安心するがよい、ここにおる」
差し出された水晶球を見て、ツカサが息を飲む。
猟犬の緑の目が、大写しになっていたのだ。
「三ヵ月かけて準備した、ファロール召喚の陣だったのだがな。まあ、諦める他あるまい」
つまり、魔方陣の再収納に、巻き込んでやったのだ。こういう使い方もできるとは、たった今
思い付いたのだが。
「い、いけません、お師匠様! こいつは、すぐに出て来ますよ!」
エイボンの言うとおり、猟犬は魔方陣の上をうろうろするばかりだ。一向に、黒い靄に戻って―
―外側の領域に一時退避して――、水晶球から抜け出す気配はない。
水晶球の内部は、曲面の空間。百二十セス以下の角度など、どこにもない。故に、猟犬はもう
出られない。
見事、エイボンは、エイノクラに続いたのだ。
「すごいなぁ、さすがはお師匠様……」
あの絶望的状況を、ほんの一瞬の閃きで切り抜けるとは。ツカサは師を、尊敬の眼差しで見つ
め……はっと、表情を強張らせる。
それに気付いているのか、いないのか。
「ところで、アボルミス茶は買えたのか?」
「ご苦労だったな。では、館に戻ろうか」
「ま、待てエイボン!」
何か言いかけたツカサを、逸早く戻ってきたモルギが遮る。そういえば、こいつがいたと慌てる
ツカサとは対照的に、エイボンは悠然と振り返る。
「どさくさに紛れて逃げるつもりか!」
「弟子の疑いなら晴れたであろう? 魔性の者が、魔物に襲われるはずがあるまい」
そう来るか。酢でも飲まされたような顔になりながらも、モルギは必死で食い下がる。
「き、貴殿の自作自演ではないのか!?」
生憎だが、この反論も予想していた。エイボンは、すかさず答えた。茶目っ気たっぷりに。
「ほう、では“証明”してもらおうか?」
モルギが無言になる。
名状し難い金切り声と、地団駄を踏む音が聞こえてきたのは、二人が村を出てからだった。
館への帰途、師弟はずっと無言だった。
ツカサは口を開きかけては中断し、エイボンは……腕を組んで、考え事をしている。
「あ、あの、お師匠様!」
ついに耐えられなくなり、ツカサが声を張り上げる。
「訊かないんですか……どうして、ティンダロスの猟犬なんかに狙われたのかって」
苦笑するエイボン。つくづく隠し事のできない男だ。
「どうしても言いたいなら聴くが、できれば言わんでくれ」
「せっかく、興味深い謎に出会ったのだ。もうしばらく、考えていたい」
エイボンは振り返らなかった。声も素っ気無い。
しかし、師の背中を見つめるツカサの顔からは、徐々に後ろめたさが消えていく。春の陽射し
が、霜を溶かしていくかのように。
後に残ったのは、照れ隠しの笑みだった。
「分かりました。じゃあ、言いません」
〜2〜
それからも、エイボンはツカサを導き続けた。
地水火風の精霊を喚起する呪文も、防壁の魔方陣の描き方も、宝石に魔力を付与する技術
も、万物溶解液の調合法も、ゼシュの密林の植生も、狡猾なファロールのあしらい方も、天の
星々の運行も……。
|
無限に雨を吸い込む大地の如く、ツカサは尽く吸収していった。
教えるのが、楽しくて仕方なかった。そんな時エイボンは、サイクラノーシュのことさえ忘れて
「できましたよ、お師匠様!」
目を輝かせて、そう言う時は、きっと……。
(さて、夜も更けたし、そろそろ休むとするか)
エイボンは安楽椅子から腰を浮かせ……鈍い痛みに、眉を顰める。この世に生を受けて、す
でに百三十年。さすがにもう、自分も若くないと実感する。
私室に戻る途中、ツカサに与えた部屋の前を通る。ドアの隙間から、明かりが漏れていた。
最近では、修行の傍ら、独自の研究もしているらしく、毎晩遅くまで、屍獣脂の蝋燭から火を絶
弟子入りから、一年。ツカサは、すでに一人前と呼べる腕前になっていた。普通なら、十年は
(来年辺りは、独立のことも考えてやらねばならんな)
エイボンの苦笑は……寂しげだった。
父と師と彼女と死に別れ、大勢の弟子を送り出してきたが、未だに別離の痛みには慣れな
(サイクラノーシュに旅立つ決心が着かんのも、要するに……)
寂しいからだろう。この醜くも美しい、愛しき世界と別れるのが。
自分が去った後、自分を覚えている人々すら死んだ後、この世界には残るだろうか。
自分が生きた証が。
(世の王侯貴族が、城だの彫像だの墳墓だの、大袈裟な物を建てたがるのも、そのせいかもし
覚えていて欲しいのだ。己が生きていたことを。百年後には、皆、氷河の下に飲まれる運命
だと、薄々分かっていても。儚い抵抗をせずにはいられない。
だとしたら、自分も彼らと変わらない。
(どうも、歳のせいか……)
感傷的になっていけない。本でも読んで落ち着こうと、書庫に向かう。
書棚を巡っていると……。
膨大な蔵書のリストは、全て把握している。だから、すぐに気付いた。
見慣れない本が、紛れ込んでいる。
何の獣か判然としない皮で装丁されており、題名はBook of Eibon……見たこともない文字
ぱらぱらと捲ってみるが、思った通り、ページは同じ文字で埋め尽くされており、さしものエイ
ボンにも全く読めない……。
捲る手が止まる。そのページは、半分程を挿絵が占めていた。
エイボンが、とてもよく知るものが描かれていた。
ぎいい、背後の扉が開き。
「あっ、お、お師匠様……」
ツカサが狼狽しているのを見て、エイボンは瞬時に悟った。
「これは、そなたの物かな」
この文字は、おそらくツカサの故郷で使われているものなのだろう。
「す、すみません。うっかり、この本と取り違えちゃって……」
彼が狼狽しているのは、しかしそんな理由ではない。なぜなら、挿絵のページが開かれている
のに気付いて、ますます狼狽を激しくしたから。
見られてはいけないものだったに違いない。
「無用心だぞ。モルギ辺りに見られたら、異端審問に掛けられ兼ねん」
それは、羽のない蝙蝠とも、柔毛に覆われた蛙とも判別できない姿だった。
そう、サイクラノーシュへの扉に刻まれた浅彫りとそっくりだ。
……そして、扉の贈り主自身の御姿にも。
「しかし、驚いたな。異国の書物で、ツァトゥグァの御姿を見ようとは」
ツァトゥグァ、またの名をゾタクア。
聖なる蟇蛙、暗黒の深淵を統べるもの。
かの神がサイクラノーシュからこの星に降臨したのは、遥か太古であるという。ちょうどその頃
、絶頂期を迎えていた蛇人間の文明が、忽然と断絶してしまっているのは、おそらく無関係では
|
人には理解し難いその神性を崇拝するのは、主に野蛮なヴーアミ族であり、人の間でその信
仰が広まったことはない。あらゆる異教の神を、邪神と断じ排するイホウンデー教の台頭で、そ
の機会はますます減っている。
|
若き日のエイボンは、ある出来事から、かの神の現在の居住地が、魔の山ヴーアミタドレス
であることを知った。運命に対抗する力を求めていた彼は、若者らしい無鉄砲さで魔の山に挑
み、かの神との邂逅を果たしたのだ。
己の信仰が廃れて久しいというのに、ツァトゥグァはまるで頓着する様子もなく、ひたすら惰眠
|
を貪っていた。だが、そんなツァトゥグァにも、好奇心というものはあったらしい。
己の眼前に現れた、奇妙な訪問者に興味を示したかの神は、エイボンに取引を持ちかけた。
自分の飢えと好奇心を満たしてくれるならば、宇宙の神秘を教えようと。
それ以来、エイボンは大量の供物と土産話を捧げに、ツァトゥグァの御座を度々訪れた。褒美
に授けられたかの神の教えが、エイボンを後に大魔道士の地位に導いたのだ。まさに、彼のもう
一人の師匠と呼ぶべき存在だ。
|
そして、長年の奉仕の証として贈られたのが、あの扉なのだ。
そんな、ツァトゥグァとの切っても切れない関係を、この弟子は何故か……。
「知っておったのだな、最初から」
万が一にもイホウンデー神官達の耳に入らないよう、ツァトゥグァの御名は限られた高弟の
前でしか口にしてこなかったというのに。
「私に弟子入りしたのは、ツァトゥグァの力を求めてのことか」
「はい……すみませんでした、黙っていて」
かの神の名を出すと、警戒されると思ったらしい。
なるほど、他のどの魔道士でもなく、エイボンに弟子入りする必要があった訳だ。一部が解け
ると、次の謎も芋蔓式に解けていく。
すなわち、何のために。
「敵……でもおるのか」
項垂れていたツカサが、はっと顔を上げる。
手掛かりは、すでに与えられていた。
『お師匠様、逃げて下さい! こいつの狙いは、僕なんです!』
そう、ツカサは必要としているはずなのだ。
運命と戦うための力を。
「やっぱり、お師匠様はすごいなぁ……」
ツカサの弱々しい笑みは、すぐに消え……。
残ったのは、沈痛な表情。
「ええ、仰るとおりです。僕には、敵がいるんです。とてもとても、強大な敵が……悔しいけど、
人間の力では敵わない。対抗するには、どうしてもツァトゥグァの力が必要なんです」
ツカサの“敵”。
彼の運命が、どのような形態を取っているのかは分からないが、いずれにせよ、この弟子は
(若き日の私と、同じ道を辿ってここへ来たのだ)
一を教えれば、十も二十も学んでしまう。その驚異的な歩みは、持って生まれた才故と思って
あるいは、己に課した、使命のせいでもあったのかもしれない。
(私が代わってやることは……)
理由は分からぬが、できないのだろう。そうでなければ、説明が付かない。ツカサの双眸に
宿る、昏い覚悟の。
かつての自分へ――
――老いた自分がしてやれることは、唯一つだ。
「よかろう。準備が済み次第、ツァトゥグァに会わせよう」
「お、お師匠様……」
ツカサは、目を丸くしている。
「……信じてくれるんですか、ずっと黙っていた僕を」
苦笑するエイボン。確かに答えは言わなかったが、手掛かりは山程出していただろうに。しか
し、それを言ってしまっては、ツカサも立場がなかろうから。
「ああ、信じるとも」
いい話ということで、まとめておくエイボンであった。
(まあ、確かに……)
涙ぐむツカサを宥めながら、しかし思う。
(かつての自分を疑いたくは、ない)
〜3〜
一気に五百エルもの眼下に遠ざかる大地、ツカサは師匠の旧友の羽毛をしっかりと掴んだ。
途端に上がる、ギャッともグエッともつかない奇声。
「あっ、ご、ごめんなさい、痛かったですか?」
「心配するな、久し振りの遠出で興奮しているだけだ」
シャンタク鳥。
異界から、時空を越えて飛来するという魔鳥。
広げた長さ五エルに及ぶ翼、煉獄の風景を思わせる極彩色の羽、馬を醜悪化させたかのよう
な面構え。
見上げる者達に、恐慌を巻き起こさずにはおかないであろう、彼を……。
「ふむ、こうしていると、昔を思い出すな、ファラアポントゥスよ」
エイボンは個体名で呼び、友として扱っていた。
彼との出会いについては省略するが、若かりし日のエイボンの足となって、王国中を飛び回っ
「初めてあそこに行った時も、そなたの背に乗ってであったな」
エイボンが見つめる先には、王国を南北に分断するエイグロフ山脈が、城壁の如く聳えてい
その中でも、頭一つ抜きん出ている最高峰こそ。
「魔の山、ヴーアミタドレス……ツァトゥグァ様は、あそこに……」
ツカサの肩は、緊張で強張っている。無理もない。
――死ぬかもしれないのだ。
考え直せ等とは、エイボンは今さら言わなかった。ツァトゥグァの眼前に立つ危険性は、十分
説明した。何せ、相手は神だ。本来、人など、下僕か餌としか見做さない。
エイボンに示したような好奇心を、ツカサにも示す保障はない。もし、そうなれば……彼に向
けるのは、好奇心ではなく、食欲かもしれない。
そう聞かされても、ツカサの覚悟は折れなかったのだ。
「まあ、そう硬くなるな。私の紹介なのだ。ツァトゥグァとて、そう無碍にはすまい」
弟子の緊張を解そうと、あえて気楽そうに言ったが。もしかの神がツカサを生贄に要求してき
たら、長年の聖恩を、仇で返すことも辞さない覚悟だった。懐に忍ばせた、流星召喚の巻物の
感触を確かめる。
ファラアポントゥスの翼は、ぐんぐんヴーアミタドレスとの距離を縮めていく。やがて、その山頂
付近に走る、巨大な亀裂が見えてきた。
迷わず、その暗黒の深淵に飛び込んでいく。
ツカサが、慌てて頭を引っ込める。
ごおおと唸りを上げて過ぎ去る岸壁に、しばらくするとそれは現れた。
くすんだ灰色だった壁が、異様な色合いに染まり、果ては生き物の内臓のように、ぐにゃぐに
ゃと変形し……。
次元の揺らぎだ。
ツァトゥグァは、ヴーアミタドレスの地下に住まう。その表現は、正確ではない。かの神の御座
は、この亜空間通路の彼方にあるのだ。時空を越えて飛べるファラアポントゥスの翼でなけれ
ば、時空の狭間に囚われ兼ねない。
だからこそ、有り得ないはずの訪問者エイボンに、ツァトゥグァは興味を示したのかもしれな
ファラアポントゥスが、ようやく地面に降り立つ。そこは、果てしない暗黒の空間だった。
古文書が記すその名は、暗黒世界ンカイ。怠惰な神が創造した、寝心地良い揺篭の世界。
二人が掲げる魔力光の周囲以外は、一面の闇だ。
にも関わらず、分かる。
感じる……それが放つ、圧倒的な存在感が、この広大な闇を満たしている。
「よし、急ぐぞ」
二人はファラアポントゥスの背から、用意してきた供物を下ろす。急ぐ理由は他でもない、ぐ
ずぐずしていると、ツカサを供物だと勘違いされる恐れがあるからだ。
「我が神ツァトゥグァよ! 供物を受け取り給え!」
真闇の虚空に木霊する、エイボンの請願に応えて。
桃色の疾風、としか形容できない現象と共に、供物が消え失せる。山のような食用竜の肉とス
ヴァナ果、王宮の宴にすら耐えられそうな量が、一瞬で。
――なぜ、今まで気付かなかったのか。
人の存在に気付かず、その足元をうろつく蟻のように。
相手があまりに大きいと、かえって見過ごしてしまうものなのか。
「ツァトゥグァ様……!?」
ンカイの主は、最初から二人の前にいた。
羽のない蝙蝠とも、柔毛に覆われた蛙ともつかない――サイクラノーシュへの扉や、Book of
Eibonに描かれた似姿は、まずまず正確なものだったようだ。
小山のような大きさと、それが放つ威圧感以外は。
にやにや笑いを浮かべているようにも見える口が、もぐもぐと動いている。それを見て、ツカ
サにはようやく分かったようだ。あの大量の供物は、伸縮自在の神の舌に巻き取られて、その
無限の胃袋に消えたのだということに。
死ぬかもしれないという師の忠告を、今こそまざまざと実感しただろう。あの舌が、自分に伸
びてきたら……大人しく食われる以外、何ができよう。
だが、真に畏れるべきは、舌などではなかった。
固く閉じていた――おそらく、数年前エイボンが訪れて以来――神の瞼が上がり始める。
その下から現れた双眸は、蝙蝠のそれでも蛙のそれでもなかった。
この星に存在する、そしてかつて存在した、いかなる生物にも似ていなかった。なぜなら、そ
こには知性の深みがあったからだ。それも、人には到底理解し得ない、異界の知性だ。
その目は、全て知っていた――
星々の合間を満たすエーテルの潮流も、惑星シャッガイを襲った悲運も、数万年に渡ってヴ
ーアミ族から捧げられた祈りの内容も、この星に生命が生まれた顛末も、サクサクルースより
そして、たかだか数千年の人類の歴史も。
神の目は、全て知っていた。
彼が怠惰なのも、むべなるかな。あまりに多くを知りすぎてしまった、神の退屈故なのだ。
全知の目が、自分を見つめている。
ツカサの儚き魂は、その無限の深みにすうと吸い込まれ……。
……る、寸前で、辛うじて踏み止まる。
弟子は見事、気絶も発狂もしなかった。
この一年で身に付けた知識と、己に課した使命を、支えにして。
すっくと立つ弟子の姿に、期待が確信へと変わる。
「我が神よ、聖なる眠りを妨げることを、しばし許し給え!」
エイボンの目配せを受け、ツカサは膝を震わせながらも、師の背後から歩み出る。
その様子を、ツァトゥグァは眠たげに見つめていた。が、それが奇跡に等しいことを、エイボン
は知っている。例えるなら、人が、舞い散る木の葉の一枚に注目しているようなものだ。
だが、自分はその一枚になったのだ。
ならば、ツカサにもできるはずだ。この、大いなる謎を背負った弟子なら。
神の退屈を、紛らわせることができる。
「私はもう十分、貴方の恩寵に浴した! 此度の供物の報酬は、我が弟子にお与え下さい!」
エイボンの請願を、聞いているのかいないのか。ツァトゥグァは微動だにしない……。
先に変化を現したのは、ツカサだった。頭を抱えて、膝を付く。
「あ、頭の中に何かが……」
「落ち着け、ツァトゥグァがそなたの心を探っているのだ。正直に思い浮かべるのだ。かの神
に、何を望むのかを」
心の内を弄られるという慣れない感触に、焦点を失っていたツカサの瞳が、次第に澄んでい
く。ツァトゥグァの全てを映す目とは対照的な、しかしその深みはよく似ている目。
|
二対の双眸が、いかなる合わせ鏡の無限宇宙を見ているのか。
「僕は……」
我知らず漏らした、ツカサの呟き――と呼ぶには、あまりに強い決意を秘めた、その声に応
ツァトゥグァの捩れた指が放った光が、ツカサを撃った。
思わず懐の巻物を探ったエイボンの手は、しかしすぐに思い留まる。
彼は無事だった。
その手首には、いつの間にか腕輪がはまっていた。
黄金とも銅とも付かない、ぬらぬらとした赤い輝きを放つ金属製の……そう、サイクラノーシ
ュへの扉と同じ材質。おそらく、ツァトゥグァが自らの力を物質化させて創造した――
――崇拝者との、契約の証。
「あ、ありがとうございます、ツァトゥグァ様!」
何度も頭を下げるツカサに、怠惰な神はごろりと寝返りを打って応えた。
「成功か」
「はい! 力を貸してくれるそうです!」
神との交渉は、時間は短くとも、密度はとてつもなく濃かったに違いない。ツカサは思わずよ
ろめき、師の腕に支えられる。
……支えてやれるのは、これが最後だろう。
(ついに、現れたか……)
ツァトゥグァとの契約。彼の魔道の、究極奥儀を受け継ぐ者が。他の弟子達も優秀だったが、
聖なる惰眠を再開したツァトゥグァを、仰ぎ見る。自分がサイクラノーシュへ行くのを躊躇って
いたことも、この神はお見通しだろう。
その長い耳が、ぴくりと動く。
それだけで、十分通じた。神の粋な計らいに感謝する。
(ええ、これで私も……)
〜4〜
翌日。
二人は、葡萄酒を酌み交わしながら談笑していた。
「あの時は傑作であったな」
出会ってからの、短くも濃い一年。その間の出来事を、取り留めも無く……そんな二人は、師
弟というより、歳の離れた友人のようだった。
そして、エイグロフの頂から、月が顔を出す頃。
葡萄酒の最後の一滴が……。
尽きた。
そう、これは旅立つ弟子との、別れの酒。
「何のお礼もできなくて、ごめんなさい」
「礼なら、十分してもらった」
「そなたの謎……もう、一生退屈せずに済みそうだ」
惚ける師に、ツカサも微笑みを返す。その表情は、出会った頃より、随分と大人びている。
「もう、とっくに全部分かってるんじゃないですか?」
その後……。
大地から天へ上る流星を、エイボンは一人館の窓から見送った。
これで、もう思い残すことはない。自分の魔道は、ツカサが歩んで行ってくれる。自分には、
決して辿り着けない地平の向こうまでも。これで、いつでもサイクラノーシュに旅立てる……。
その前に、一つだけ、やっておかなくてはならない仕事ができた。エイボンは、書庫に急い
それから一年後。モルギ率いる異端審問団の襲撃から逃れるため、エイボンはサイクラノー
シュへと旅立った。以降、彼の姿が、この星で見られることはなかった。
さらに百年後。ハイパーボリアの大地は押し寄せる氷河に呑まれ、その輝かしい歴史に幕を
|
そして、百万年後――。
〜5〜
ツカサは一人、南太平洋上に佇んでいた。
百万年前、師に別れを告げた時の姿のままで。
知識としては知っていたとは言え、始めて見るその光景に息を飲む。
つい数日前までは、一面の海が広がるばかりだったそこは。
今や、異界と化していた。
見渡す限りの、石造建造物群。それを構成する線に、一つとして真っ直ぐなものはない。およ
そユークリッド幾何学を無視した動きで、うねり、のたうち、絡まり合い……その合間から、膿の
ように緑の粘液を滴らせている。
|
狂気の画家が呪いを込めて描いた抽象画か、四次元の立体を無理矢理三次元上に展開した
数学モデルか、進化の樹から大きく外れた畸形の生物の躯か。
|
何と驚くべきことに、これは都市なのだ。
ルルイエ、この地を聖地とする者達は、そう呼ぶ。
ずずぅぅんっっ……ずずぅぅんっっ……どずずぅぅんっっ……。一
|
地響きが、ツカサをよろめかせる。
地震にしては、おかしい。揺れ幅が妙に規則正しく、しかも徐々に大きくなる……。
それが足音であると、推測できる人間は、おそらくツカサだけだろう。
それがいるのは、まだ数キロメートル先、この異形の都の中心部だ。
にも関わらず、その巨体は、十分目視できた。
覚悟はしていたとは言え、ツカサの全身に震えが走る。肉体を構成する細胞全てが、拒絶反
応を起こしている。逃げたい、あんな存在の側には、一秒たりとも居られないと。ツァトゥグァの
目を覗き込んだ時とは、また別種の恐怖。
髭のように触手を生やした顔……広げれば空を覆い尽くすであろう羽……一枚一枚がテニ
スコート程もある鱗……ああ、何と婉曲な表現。これでは、髪の毛一本、爪一枚から、人の姿
を説明するようなものだ。
有史以来、人類が思い描いてきたあらゆる悪夢、その醜悪にして芸術的な集合体。それが
触手、羽、鱗を具えて実体化した……いや、それも違う。その姿は、人の矮小な脳が捻り出す
だが、神も悪夢に魘されるとしたら。
例えば、あんなものを夢見てかもしれない――。
「大いなるクトゥルフ……」
ツカサがその名を呟く。肉体を引き千切ってでも逃げようとする己が細胞を、意志の命令で
踏み止まらせながら。
狂える詩人アルハザードの手なる魔道書ネクロノミコンは記す。かの神が地球に降臨したの
は、三億五千万年前。自らに従う眷族達と共に、太平洋上に浮かぶ大陸に降り立ち、奇怪なが
らも壮麗な文明を築いた。
だが、神代の時代は突如、終わりを告げた。
ある時クトゥルフは、聖都ルルイエの霊廟で永い眠りに付いた。目覚めを願う眷属達の願いは
届かず、やがて大地の変動でルルイエは沈下し始め、かの神諸共、海底へと消えていった。
その後、魚類が陸に上がって両生類になり、やがて恐竜の時代が始まり……ようやく、我々
が一般に知る“地球の歴史”が陸まったのだ。
That is not dead which can eternal lie, and with strange aeons even death may die(そは永久
に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの).
ネクロノミコンにかの連句を記したアルハザードは、全て知っていたに違いない。
数億年の眠りが、かの神にとっては、束の間の休息に過ぎないことを。
その一報をもたらしたのは、オーストラリア海軍の戦艦だった。南太平洋、南緯47度9分、西
経126度43分地点に、それまでなかった島を発見したと。
報告は、その後間もなく途切れる。島に広がるルルイエの光景と、霊廟から起き上がるクトゥ
ルフを目にした、船員の断末魔の絶叫を最後に。
それは、終わりの始まりを告げる、黙示録の号令となった。
かの神が数億年ぶりに行った奇跡は、高さ数百メートルの津波で、世界地図の海岸線を一変
させることだった。おそらく、留守中に自宅に沸いた、ゴキブリを駆除する程度のつもりで。この
内陸部も無事ではいられなかった。クトゥルフが放つ思念波は、地球の裏側までも届き、人々
を狂気に陥らせた。刃が、銃弾が、核ミサイルが、殺戮のための殺戮を撒き散らし、人類の総
そして、世界の海に散っていたクトゥルフの眷属達が、再び神に仕えるため陸に戻ってきた。
あの御方の手を煩わせてはならぬとばかりに、瓦礫で身を寄せ合う生き残りの人々を、念入り
人々は悟らざるを得なかった。自分達など、眠れる神が見ている夢の如き、儚い存在に過ぎ
夢は、目覚めと共に消える定め。
……だとしても、諦められないのは、人の強さか未練がましさか。いずれにせよ。
ツカサ――御簾門大学民俗学部二年生、戸神司もまた、諦めることができない一人だった。
戸神家の書庫には、数々の魔道書が並んでいた。御簾門大学で教授をしていた、亡き祖父が
集めた物だ。かつては人類学や宗教学の資料でしかなかったそれらは、今やれっきとした実
用書であることが明らかになった。
人類の、矮小な世界観の外から来た神。それに対抗する術は、外なる世界の理を記した、
魔道書の中にあるのではないか。そう考えた司は、必死で難解な外国語と格闘した。
そして、ついに一筋の希望を見出した。
Book of Eibon――エイボンの書。
伝説の魔法文明ハイパーボリアで名を馳せたという、大魔道士エイボンの手なる魔道書。そ
の中に記されていた、奇怪なその名。
ツァトゥグァ――暗黒のンカイでまどろむ、神。
そうだ、神に抗し得るのは、同じ神のみ。何とかして、ツァトゥグァを味方に付ければ……。可
能性はある。現に、エイボンはかの神と親交を結び、恩寵を賜っていたと、書には記されてい
しかし、問題があった。
百万年もの歳月を、翻訳に次ぐ翻訳によって渡ってきたエイボンの書。その内容には、あちこ
ちに欠落があり、ツァトゥグァに関する記述も例外ではなかった。神を味方に付けると言って
も、具体的に何をすべきかはさっぱりだ。
掴みかけた藁が、手をすり抜けていこうとした、その時だった。
いつも身に付けているお守りが、何かに共鳴するように震えだしたのは。
それは、精緻な細工が施された、純銀製らしき鍵で、祖父の遺品だった。
そう言えば……幼い頃、祖父が話してくれたのを思い出した。これは、魔術の鍵。空間の鍵
穴に差し込んで回せば、時空の扉が開き、持ち主の望む場所・時代に連れて行ってくれるのだ
『ただし、司にとって、本当に必要な時が来るまでは使えない。だから、いつも肌身離さず持っ
そうだ、確かに祖父はそう言っていた。もしや、今がその時なのか。
その瞬間、司に天啓が下った。
望む場所・時代に連れていってくれる……ならば、大魔道士エイボンが生きるハイパーボリア
にも行けるのではないか。そうだ、ツァトゥグァを味方に付ける方法なら、エイボンに直接教わ
るのが一番ではないか!
何と突飛な発想、我ながら笑ってしまう。
神が実在するなら、奇跡だって起き得るのではないか。
自嘲の笑みは、一瞬にして意味を反転させた。すなわち、この後に及んで、常識などにしが
み付いていた自分に。
『信じるよ、お祖父ちゃん。魔術は……在るよね』
司は、銀の鍵を手に取り、目の前の空間に差込み……。
回した瞬間、彼は確かにその音を聞いた。
果たして、扉は開いた。
あらゆる空間・時間と隣接する、混沌にして空虚の超時空への。
燃える氷山が、稲妻の結晶体が、唸りを上げて傍らを通過していく。だが、危険は未分化エ
ネルギーの奔流だけではなかった。
悪意の異臭を撒き散らしながら迫る、緑の目。
『ティンダロスの猟犬……!?』
時空の旅は、か弱き人の身には、あまりに過酷な試練だった。
猟犬の牙から逃げながら、司は必死で目を凝らした。時の闇と、空間の霧の彼方に……見
えた。百万年前、永遠の氷河に呑まれ消えた、魔法の王国。
大魔道士エイボンの故郷、遥かなるハイパーボリア。
あそこへ! あの時代へ! 司は激流に逆らう小魚の如く、死に物狂いで手を伸ばし……。
「エ、エイボン様、僕を弟子にして下さい!!」
|
司は天を仰いで、祖父に報告する。
「お祖父ちゃん、魔術は確かに在ったよ……」
自分は見事、大魔道士エイボンの弟子になって、ここへ戻ってきたのだから。そう、終わりの始
まりの地。201X年、X月X日、浮上した直後のルルイエへ。
記憶が確かなら、オーストラリア海軍の戦艦がここを発見するのは、約半日後。それからいく
らも経たない内に、終わりが始まる。
今なら、まだ間に合う。運命を、変えられる。いや、変えなければならない。
司は拳を握り締める。真っ白になるぐらい、強く。
運命がこの後用意している、悪趣味極まる“未来”を呪って。
幼い頃亡くなった両親の代わりに、自分を育ててくれた祖父は、津波に飲まれる。優柔不断
な自分を、いつも叱咤激励してくれた親友達は、狂乱して殺し合う。
そして、こんな自分を愛してくれた女性は。
クトゥルフの眷属に襲われ。
司君大好きよと、笑顔で言いながら。
腕を食われ足を引き千切られ腹を裂かれ内蔵をぶちまけさせられ目玉を飛び出させられ頭
を割られ脳味噌をちゅるちゅるちゅるちゅる@f%#※k…………。
|
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ一
|
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ一
|
ああああああああ――――――――――――――――っっっ!!!!!!!!!!!」一
|
来させない。
あんな未来、絶対に。
廃墟と化した街を一人彷徨いながら、何度絶望しかけたことだろう。もう嫌だ、自分も早く皆の
所へ行きたいと、暗い泥濘に身を委ねかけた。
そうしなくて、本当に良かった。
激情の涙で濡れた双眸で、迫り来るクトゥルフを睨み付ける。相手は自分のことなど、気付い
てもいないことは、百も承知でも。
「確かに、お前は大いなるものかもしれない……お前に比べたら、僕達なんか虫ケラでしかな
いのかもしれない……でも、お師匠様はこう言ってたぞ……蟻の掘った穴が、巨大な堤防を崩
右手を、天に突き出す。そこにはまっている腕輪を、奴に見せ付けるように。
「我が名は戸神司、大魔道士エイボン最後の弟子……! 虫ケラの力が、どれ程のものか!
その寝惚け眼かっ開いて、よぉぉぉく見やがれぇぇぇぇぇぇ――――――っっっっ!!!!」
それから、百万年と百一年前。
だが、超時空的には同時刻。
黒片麻岩の館の書庫で。
エイボンは、最後の仕事に取り掛かっていた。
〈我はミラーブの息子エイボン。我は暗黒世界ンカイにて神と見えた。その名はツァトゥグァ…
飛竜皮の紙に、烏賊墨に浸けた筆で綴る。自らの魔道の記憶を。
Book of Eibon……あの本を携え、いつか自分の元へやって来る、未だ生まれてもいない弟
(ツカサ……我が最後の弟子よ。人の未来を……!)
悠然としたクトゥルフの歩みが――止まった。
ルルイエの建造物群を、砂埃のように舞い上げながら起き上がった、その姿を目にして。
さすがの神も、動揺しているに違いない。さあ、これからだというところに、突然立ち塞がられ
同じ神に。
「見たか、これぞ魔術……運命に抗う、人の力だ!」
肩に乗せた司に同調するように。
ツァトゥグァの全知の目が、カッと開かれる。おそらく、サイクラノーシュから降臨して以来の、
完全な覚醒。
炎の神が住まうという恒星フォーマルハウトの如く、ぎらぎらと輝いていた。自分がちょっと昼
寝している隙に、人という絶好の退屈凌ぎを根絶やしにしようとした、あの生意気極まる新参者
に、怒り心頭に発して。
地が揺れる。
空がざわめく。
神と神と人の戦い。この星の歴史が始まって以来の、激震の予感に。
司は、懐の感触を確かめた。そこに忍ばせたエイボンの書を通して、きっと届くと信じて。
願う。
「お師匠様、サイクラノーシュから、見守って下さい……!」
〜Fin〜
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