〜1〜
「ま、まさか……」 
 真っ先に反応 したのは、なぜかツカサだった。
「い、いけない! みんな、 げて!」
「こ、こら、大人 しくしろ……え!?」
 ツカサを り押さえようとした兵士が、絶句する。
 愛用の槍の穂先ほさきまとわり付く、得体の知れないものに気付いて。
 黒い、もやのようだった。
 しかし、その 成分は水蒸気などではない。なぜなら、それは……。
 うごめいていた。脈動していた。生きていた。
 そして、にごった緑の目をかっと開き、周囲に悪意の衝撃波を叩き付ける。
 ねたましい、と。
「う、うわああああ!」 
 兵士が、 を放り出して逃げ出す。村人達も後に続き、広場はたちまちがらんと空いた。そ
の間、黒い靄は、空気力学を完全に無視した動きで、逆巻さかまき、 膨張ぼうちょうし、り固まり……。
 四本足の、獣のような形にっていく。
「こ、こら、 げるな!」
「……モルギ殿 、そなたも逃げた方がよいぞ」
 エイボンの忠告に、しかし皮肉 の響きはない。真剣そのものだ。
「お、おのれ! イホウンデーの神官に歯向 かうか!」
「勘違いするな。その魔物 は、私が召喚した訳ではないぞ」
「な、 ?」
「……こいつを召喚することなど、 にもできはせん」
 召喚とは、魔物との契約である。魔物が欲するもの――えさであったり、術者の魔力であった
り――を代償だいしょうに、奉仕ほうしを約束させる。だが、こいつにばかりは、その手口は通じない。なぜなら、
こいつが するものは……。
 ただ一つ、人間の命だけだから。
「ティンダロスの猟犬りょうけん……」
 悪夢からにじみ出てきたかのような色合いの体、別の生き物のようにうねる長い舌、そして緑
の目に漲る暗い渇望かつぼう。犬との共通点など、四本足であることぐらいしかない。この魔物が猟犬と
呼ばれるのは、外見 ゆえではない。
 彼らは、この世界が属する時間じくの、外側の領域にひそむとされる。普通なら、遭遇そうぐうするはずも
ない存在そんざいなのだ。
 だが、魔道士は別だ。彼らは、様々な目的、手段で、時の壁を乗り越えんとこころみる。水晶玉
で未来を見通し、秘薬で過去を幻視し……そんな らの目が、運悪く猟犬の緑の目と、視線
 わせてしまうことがある。
 そうなれば、奴はたちまち、不運 な魔道士を標的に定める。なぜそうするのかは、知られてい
ない。一説には、不浄の存在 であるが故に、人の持つ純潔さを妬んでいるのだとも言うが。
 ただ確かなのは、その執拗さだ。奴は決して獲物えものを逃さない。どこまでもどこまでも追ってくる。
まさに、うさぎを追い詰める猟犬の如く。
 それが、 の名の由来だ。
「GROOOOOOッ!」 
「ひ、ひいっ!?」 
 エイボンに背を向けるのを躊躇ちゅうちょしていたモルギも、ついに耐えられなくなって逃げ出す。
 しかし、猟犬は彼には もくれず……。
(! やはり……) 
 ツカサを 指している。
 そうだ、猟犬が れる直前、彼は確かに言った。
『ま、まさか……いけない、みんな げて!』
 狙われる 当たりがあったのだ。
(よもや……いや、 違いない)
 護符が知らせたツカサの危機 は、モルギ達などではない。
 こいつのことだったのだ。 
(しかし、なぜツカサが?) 
 水晶占いや、幻視の術は、まだ えていない。猟犬に目を付けられるはずはない。
 分からない。しかし、これだけは える。
 ツカサのこの受難は、自分 の運命に巻き込まれたせいではない。
(この もまた……)
 運命と、 わされているに違いない。
「くっ!」 
 ツカサが、黄玉トパーズをあしらった短杖ワンドを構える。エイボンが、護身用に持たせている物だ。
「アハト!」 
 起動の呪文と に 黄玉から黄金の稲妻が走り、猟犬を狙う。
 だが、数千度のプラズマが、その汚らしい表皮をぐ寸前。
 猟犬は、さっと黒い靄と化して宙に溶け……一瞬後、今度は村人が落としていったくわから、
黒い靄が き上がる。
 カッと開く緑の目が、あざけりをたたえて見えるのは錯覚か。
「だ、駄目 か……」
 猟犬が潜む、外側の領域。そこは、こちらがわとは、物理法則すら異なる世界だという。しか
し、僅かに共通する概念がいねんもあるのだ。
 それが“角度”、特に百二十セス以下 の鋭角だ。
 その僅かな共通概念を として、猟犬はこちら側にやって来る。逆に言えば、百二十セス以
下の鋭角さえあれば、 はこちら側のどこにでも現れることができるのだ。
 ゆえに、武器を るっても当たらず、密室に立て篭ったとしても、部屋の角から、黒い靄が噴
出すのを目撃 するのみ。
 逃げられず、あらがえず。
 ティンダロスの猟犬、その は絶望と同義語。
「お師匠様、逃げて さい! こいつの狙いは、僕なんです!」
 こんな時でも、ツカサは正直 だった。エイボンは苦笑しつつ、長衣の袖を探る……そう、彼は弟
子を猟犬の にくれてやる気など、さらさらなかった。
(猟犬に襲われて生き びた人間は、史上唯一人……かのエイノクラだけだそうだが)
 ならば、自分が二人目になれば むことだ。
 その程度の覚悟 、あっさり決めさせてくれる程度には……。
 この弟子 は、興味深い。
 エイボンが袖から り出したのは、水晶球だった。その内部には、ここでないどこかが映し出
されている。 
 薄暗い場所で、ほのかに輝く魔方陣……。
「アハト!」 
 起動の呪文と に、水晶球は透明に戻り。
 その内部に し出されていた魔方陣が、猟犬の足元に現れる。
 そう、この水晶球は、あらかじめ いておいた魔方陣を、周囲の空間ごと取り込み、必要に
応じて瞬時に び出せるのだ。
 そして使用後は、 収納することも出来る――。
「GYRUッ!?」 
 さしもの猟犬も、予想外だったらしい。 てて魔方陣から離れようとするが、時すでに遅し。
「ウクスナ!」 
 ぐにゃり、空間がゆがみ、魔方陣と共に、その忌まわしい姿が消える。
  りに、静寂が戻ってくる。
「え?」 
 あっけない結末。一見すると、そう えたかもしれない。
無事 か?」
「は、はい。でも、あいつはどこへ……」 
 心するがよい、ここにおる」
 差し された水晶球を見て、ツカサが息を飲む。
 猟犬の緑の が、大写しになっていたのだ。
「三ヵ月かけて準備した、ファロール召喚の陣だったのだがな。まあ、あきらめる他あるまい」
 つまり、魔方陣の再収納に、 き込んでやったのだ。こういう使い方もできるとは、たった今
思い いたのだが。
「い、いけません、お師匠様! こいつは、すぐに て来ますよ!」
「それはどうかな?」 
 エイボンの言うとおり、猟犬 は魔方陣の上をうろうろするばかりだ。一向に、黒い靄に戻って―
―外側の領域に一時退避 して――、水晶球から抜け出す気配はない。
「ど、どうして……あ、そうか!」 
 水晶球の内部は、曲面の空間。百二十セス以下の角度 など、どこにもない。故に、猟犬はもう
 られない。
 見事、エイボンは、エイノクラに いたのだ。
「すごいなぁ、さすがはお師匠 ……」
 あの絶望的状況を、ほんの一瞬の閃きで切り抜けるとは。ツカサは師を、尊敬の眼差まなざしで見つ
め……はっと、表情を強張こわばらせる。
 それに 付いているのか、いないのか。
「ところで、アボルミス は買えたのか?」
「は、はい」 
「ご苦労だったな。では、 に戻ろうか」
「あ、あの……」 
「ま、 てエイボン!」
 何か言いかけたツカサを、逸早いちはやく戻ってきたモルギがさえぎる。そういえば、こいつがいたと慌てる
ツカサとは対照的に、エイボンは悠然 と振り返る。
「どさくさに れて逃げるつもりか!」
「弟子の疑いなら れたであろう? 魔性の者が、魔物に襲われるはずがあるまい」
 そう来るか。でも飲まされたような顔になりながらも、モルギは必死で食い下がる。
「き、貴殿 の自作自演ではないのか!?」
 生憎あいにくだが、この反論も予想していた。エイボンは、すかさず答えた。茶目っ気たっぷりに。
「ほう、では“証明 ”してもらおうか?」
「…………」 
 モルギが無言 になる。
 名状しがたい金切り声と、地団駄ぢだんたを踏む音が聞こえてきたのは、二人が村を出てからだった。
 
 館への帰途 、師弟はずっと無言だった。
 ツカサは口を きかけては中断し、エイボンは……腕を組んで、考え事をしている。
「あ、あの、お師匠 !」
 ついに えられなくなり、ツカサが声を張り上げる。
 かないんですか……どうして、ティンダロスの猟犬なんかに狙われたのかって」
 苦笑するエイボン。つくづく し事のできない男だ。
「どうしても いたいなら聴くが、できれば言わんでくれ」
「え?」 
「せっかく、興味深い に出会ったのだ。もうしばらく、考えていたい」
 エイボンは振り返らなかった。声も無い。
 しかし、師の背中を見つめるツカサの顔からは、徐々に後ろめたさが消えていく。春の陽射ひざ
が、しもを溶かしていくかのように。
 後に残ったのは、 れ隠しの笑みだった。
「分かりました。じゃあ、 いません」

〜2〜
 それからも、エイボンはツカサを き続けた。
 地水火風の精霊を喚起かんきする呪文も、防壁の魔方陣の描き方も、宝石に魔力を付与ふよする技術
も、万物溶解液の調合法も、ゼシュの密林の植生も、狡猾こうかつなファロールのあしらい方も、天の 星々の運行 も……。
 無限に雨を吸い込む大地 の如く、ツカサは尽く吸収していった。
 教えるのが、楽しくて仕方 なかった。そんな時エイボンは、サイクラノーシュのことさえ忘れて
いた。 
 そして、ツカサも。 
「できましたよ、お師匠 !」
 目を輝かせて、そう う時は、きっと……。
「え?」 
(さて、夜もけたし、そろそろ休むとするか)
 エイボンは安楽椅子から腰を浮かせ……鈍い痛みに、眉をしかめる。この世に生を受けて、す
でに百三十年。さすがにもう、自分も くないと実感する。
 私室に戻る途中、ツカサに えた部屋の前を通る。ドアの隙間から、明かりが漏れていた。
最近では、修行の傍ら、独自の研究もしているらしく、毎晩遅くまで、屍獣脂の蝋燭ろうそくから火を絶
やさない。 
 弟子入りから、一年。ツカサは、すでに一人前と べる腕前になっていた。普通なら、十年は
掛かるところを、だ。 
(来年辺りは、独立 のことも考えてやらねばならんな)
 エイボンの苦笑 は……寂しげだった。
 父と と彼女と死に別れ、大勢の弟子を送り出してきたが、未だに別離の痛みには慣れな
い。 
(サイクラノーシュに旅立つ決心 が着かんのも、要するに……)
 寂しいからだろう。この醜くも美しい、いとしき世界と別れるのが。
 自分が去った後、自分 を覚えている人々すら死んだ後、この世界には残るだろうか。
 自分 が生きた証が。
(世の王侯貴族が、城だの彫像だの墳墓ふんぼだの、大袈裟おおげさな物を建てたがるのも、そのせいかもし
れんな) 
 覚えていて欲しいのだ。 が生きていたことを。百年後には、皆、氷河の下に飲まれる運命
だと、薄々分かっていても。はかない抵抗をせずにはいられない。
 だとしたら、自分も らと変わらない。
(どうも、 のせいか……)
 感傷的になっていけない。 でも読んで落ち着こうと、書庫に向かう。
 書棚をめぐっていると……。
(おや?) 
 膨大な蔵書のリストは、全て把握はあくしている。だから、すぐに気付いた。
 見慣れない本が、 れ込んでいる。
 何の獣か判然としない皮で装丁そうていされており、題名はBook of Eibon……見たこともない文字
だ。 
 ぱらぱらとめくってみるが、思った通り、ページは同じ文字で埋め尽くされており、さしものエイ
ボンにも全く めない……。
(! これは……) 
 捲る手が止まる。そのページは、半分程を挿絵さしえが占めていた。
 エイボンが、とてもよく るものが描かれていた。
 ぎいい、背後の が開き。
「あっ、お、お師匠 ……」
 ツカサが狼狽ろうばいしているのを見て、エイボンは瞬時に悟った。
「これは、そなたの かな」
 この文字は、おそらくツカサの故郷 で使われているものなのだろう。
「す、すみません。うっかり、この と取り違えちゃって……」
 彼が狼狽しているのは、しかしそんな理由 ではない。なぜなら、挿絵のページが開かれている
のに気付いて、ますます狼狽を しくしたから。
 見られてはいけないものだったに いない。
「無用心だぞ。モルギ りに見られたら、異端審問に掛けられ兼ねん」
 それは、 のない蝙蝠とも、柔毛に覆われた蛙とも判別できない姿だった。
 そう、サイクラノーシュへの に刻まれた浅彫りとそっくりだ。
 ……そして、扉の贈り主自身の御姿みすがたにも。
「しかし、驚いたな。異国 の書物で、ツァトゥグァの御姿を見ようとは」
 ツァトゥグァ、またの をゾタクア。
 聖なる蟇蛙ひきがえる、暗黒の深淵をべるもの。
 かの神がサイクラノーシュからこの星に降臨こうりんしたのは、遥か太古であるという。ちょうどその頃
、絶頂期を迎えていた蛇人間の文明が、忽然こつぜんと断絶してしまっているのは、おそらく無関係では
ない。 
 人には理解し難いその神性を崇拝すうはいするのは、主に野蛮なヴーアミ族であり、人の間でその信
仰が広まったことはない。あらゆる異教 の神を、邪神と断じ排するイホウンデー教の台頭で、そ の機会はますます っている。
 若き日のエイボンは、ある出来事から、かの の現在の居住地が、魔の山ヴーアミタドレス
であることを知った。運命に対抗する を求めていた彼は、若者らしい無鉄砲さで魔の山に挑
み、かの神との邂逅かいこうを果たしたのだ。
 己の信仰がすたれて久しいというのに、ツァトゥグァはまるで頓着とんちゃくする様子もなく、ひたすら惰眠だみん
むさぼっていた。だが、そんなツァトゥグァにも、好奇心というものはあったらしい。
 己の眼前に現れた、奇妙 な訪問者に興味を示したかの神は、エイボンに取引を持ちかけた。
自分の飢えと好奇心を たしてくれるならば、宇宙の神秘を教えようと。
 それ以来、エイボンは大量の供物くもつ土産みやげ話を捧げに、ツァトゥグァの御座みざを度々訪れた。褒美ほうび
に授けられたかの神の教えが、エイボンを後に大魔道士の地位 に導いたのだ。まさに、彼のもう 一人の師匠と呼ぶべき存在 だ。
 そして、長年の奉仕の として贈られたのが、あの扉なのだ。
 そんな、ツァトゥグァとの っても切れない関係を、この弟子は何故か……。
 っておったのだな、最初から」
 万が一にもイホウンデー神官達の に入らないよう、ツァトゥグァの御名は限られた高弟の
前でしか にしてこなかったというのに。
「私に弟子入りしたのは、ツァトゥグァの を求めてのことか」
「はい……すみませんでした、 っていて」
 かの神の名を すと、警戒されると思ったらしい。
 なるほど、 のどの魔道士でもなく、エイボンに弟子入りする必要があった訳だ。一部が解け
ると、次の謎も芋蔓式いもづるに解けていく。
 すなわち、 のために。
 ……でもおるのか」
 項垂うなだれていたツカサが、はっと顔を上げる。
 手掛かりは、すでに えられていた。
『お師匠様、逃げて さい! こいつの狙いは、僕なんです!』
 そう、ツカサは必要 としているはずなのだ。
 運命と うための力を。
「やっぱり、お師匠 はすごいなぁ……」
 ツカサの弱々しい みは、すぐに消え……。
 残ったのは、沈痛ちんつうな表情。
「ええ、おっしゃるとおりです。僕には、敵がいるんです。とてもとても、強大な敵が……悔しいけど、
人間の力ではかなわない。対抗するには、どうしてもツァトゥグァの力が必要なんです」
 ツカサの“ ”。
 彼の運命が、どのような形態を っているのかは分からないが、いずれにせよ、この弟子は
まさに……。 
(若き日の私と、同じ道を辿たどってここへ来たのだ)
 一を教えれば、十も二十も んでしまう。その驚異的な歩みは、持って生まれた才故と思って
いたが。 
 あるいは、己に した、使命のせいでもあったのかもしれない。
(私が わってやることは……)
 理由は からぬが、できないのだろう。そうでなければ、説明が付かない。ツカサの双眸に
宿る、くらい覚悟の。
 かつての自分 へ――
 ―― いた自分がしてやれることは、唯一つだ。
「よかろう。準備が済み次第しだい、ツァトゥグァに会わせよう」
「お、お師匠 ……」
 ツカサは、 を丸くしている。
「…… じてくれるんですか、ずっと黙っていた僕を」
 苦笑するエイボン。 かに答えは言わなかったが、手掛かりは山程出していただろうに。しか
し、それを言ってしまっては、ツカサも立場 がなかろうから。
「ああ、 じるとも」
 いい ということで、まとめておくエイボンであった。
(まあ、 かに……)
 涙ぐむツカサをなだめながら、しかし思う。
(かつての自分を いたくは、ない)

〜3〜
「うひゃああ」 
 一気に五百エルもの眼下に遠ざかる大地、ツカサは師匠の旧友の羽毛をしっかりとつかんだ。
 途端に上がる、ギャッともグエッともつかない奇声 
「あっ、ご、ごめんなさい、 かったですか?」
「心配するな、久し振りの遠出 で興奮しているだけだ」
 シャンタク 
 異界から、時空を えて飛来するという魔鳥。
 広げた長さ五エルに及ぶ翼、煉獄れんごくの風景を思わせる極彩色の羽、馬を醜悪化させたかのよう
面構つらがまえ。
 見上げる者達に、恐慌を き起こさずにはおかないであろう、彼を……。
「ふむ、こうしていると、 を思い出すな、ファラアポントゥスよ」
 エイボンは個体名で び、友として扱っていた。
 彼との出会いについては省略 するが、若かりし日のエイボンの足となって、王国中を飛び回っ
たものだ。 
「初めてあそこに行った も、そなたの背に乗ってであったな」
 エイボンが見つめる には、王国を南北に分断するエイグロフ山脈が、城壁の如く聳えてい
る。 
 その中でも、頭一つ きん出ている最高峰こそ。
「魔の 、ヴーアミタドレス……ツァトゥグァ様は、あそこに……」
 ツカサの は、緊張で強張っている。無理もない。
 ―― ぬかもしれないのだ。
 考え直せなどとは、エイボンは今さら言わなかった。ツァトゥグァの眼前に立つ危険性は、十分
説明した。何せ、相手は神だ。本来、人など、下僕か餌としか見做みなさない。
 エイボンに示したような好奇心を、ツカサにも す保障はない。もし、そうなれば……彼に向
けるのは、好奇心ではなく、食欲 かもしれない。
 そう聞かされても、ツカサの覚悟は れなかったのだ。
「まあ、そう硬くなるな。私の紹介なのだ。ツァトゥグァとて、そう無碍むげにはすまい」
「そ、そうですよね」 
 弟子の緊張をほぐそうと、あえて気楽そうに言ったが。もしかの神がツカサを生贄に要求してき
たら、長年の聖恩を、あだで返すこともさない覚悟だった。懐に忍ばせた、流星召喚の巻物の
感触を かめる。
 ファラアポントゥスの は、ぐんぐんヴーアミタドレスとの距離を縮めていく。やがて、その山頂
付近に走る、巨大な亀裂が えてきた。
 迷わず、その暗黒の深淵に び込んでいく。
「う、うわわ」 
 ツカサが、 てて頭を引っ込める。
 ごおおとうなりを上げて過ぎ去る岸壁に、しばらくするとそれは現れた。
 くすんだ灰色だった が、異様な色合いに染まり、果ては生き物の内臓のように、ぐにゃぐに
ゃと変形 し……。
 次元のらぎだ。
 ツァトゥグァは、ヴーアミタドレスの地下に まう。その表現は、正確ではない。かの神の御座
は、この亜空間通路の彼方かなたにあるのだ。時空を越えて飛べるファラアポントゥスの翼でなけれ
ば、時空の狭間はざまとらわれ兼ねない。
 だからこそ、 り得ないはずの訪問者エイボンに、ツァトゥグァは興味を示したのかもしれな
い。 
 ファラアポントゥスが、ようやく地面に り立つ。そこは、果てしない暗黒の空間だった。
 古文書が記すその名は、暗黒世界ンカイ。怠惰たいだな神が創造した、寝心地良い揺篭ゆりかごの世界。
 二人がかかげる魔力光の周囲以外は、一面の闇だ。
 にも関わらず、 かる。
 感じる……それが つ、圧倒的な存在感が、この広大な闇を満たしている。
「よし、 ぐぞ」
「は、はい」 
 二人はファラアポントゥスの から、用意してきた供物を下ろす。急ぐ理由は他でもない、ぐ
ずぐずしていると、ツカサを供物 だと勘違いされる恐れがあるからだ。
「我が神ツァトゥグァよ! 供物を受け取りたまえ!」
 真闇やみの虚空に木霊こだまする、エイボンの請願せいがんに応えて。
 びゅおうッ! 
「!?」 
 桃色の疾風、としか形容 できない現象と共に、供物が消え失せる。山のような食用竜の肉とス
ヴァナ果、王宮の にすら耐えられそうな量が、一瞬で。
 ――なぜ、 まで気付かなかったのか。
「こ……これが……」 
 人の存在に気付かず、その足元をうろつくありのように。
 相手があまりに きいと、かえって見過ごしてしまうものなのか。
「ツァトゥグァ ……!?」
 ンカイの は、最初から二人の前にいた。
 羽のない蝙蝠とも、柔毛 に覆われた蛙ともつかない――サイクラノーシュへの扉や、Book of 
Eibonに描かれた似姿 は、まずまず正確なものだったようだ。
 小山のような きさと、それが放つ威圧感以外は。
 にやにや いを浮かべているようにも見える口が、もぐもぐと動いている。それを見て、ツカ
サにはようやく かったようだ。あの大量の供物は、伸縮自在の神の舌に巻き取られて、その
無限の胃袋に えたのだということに。
 死ぬかもしれないという の忠告を、今こそまざまざと実感しただろう。あの舌が、自分に伸
びてきたら……大人しく われる以外、何ができよう。
 だが、真におそれるべきは、舌などではなかった。
 固く じていた――おそらく、数年前エイボンが訪れて以来――神の瞼が上がり始める。
「…………!」 
 その下から れた双眸は、蝙蝠のそれでも蛙のそれでもなかった。
 この に存在する、そしてかつて存在した、いかなる生物にも似ていなかった。なぜなら、そ
こには知性の みがあったからだ。それも、人には到底理解し得ない、異界の知性だ。
 その目は、 て知っていた――
 星々の合間を たすエーテルの潮流も、惑星シャッガイを襲った悲運も、数万年に渡ってヴ
ーアミ族から捧げられた祈りの内容も、この星に生命が生まれた顛末てんまつも、サクサクルースより
続くサイクラノーシュの神々の系譜けいふも。
 そして、たかだか数千年の人類 の歴史も。
 神の は、全て知っていた。
 彼が怠惰なのも、むべなるかな。あまりに くを知りすぎてしまった、神の退屈故なのだ。
「あ……あ……」 
 全知の が、自分を見つめている。
 ツカサの儚き は、その無限の深みにすうと吸い込まれ……。
「くっ……!」 
 ……る、寸前で、かろううじて踏み止まる。
 弟子は見事 、気絶も発狂もしなかった。
 この一年で に付けた知識と、己に課した使命を、支えにして。
(これなら……) 
 すっくと つ弟子の姿に、期待が確信へと変わる。
「我が神よ、聖なる眠りをさまたげることを、しばし許したまえ!」
 エイボンの目配めくばせを受け、ツカサは膝を震わせながらも、師の背後から歩み出る。
 その様子を、ツァトゥグァは たげに見つめていた。が、それが奇跡に等しいことを、エイボン
は知っている。例えるなら、 が、舞い散る木の葉の一枚に注目しているようなものだ。
 だが、自分 はその一枚になったのだ。
 ならば、ツカサにもできるはずだ。この、大いなる を背負った弟子なら。
 神の退屈を、 らわせることができる。
「私はもう十分、貴方の恩寵おんちょうに浴した! 此度こたびの供物の報酬は、我が弟子にお与え下さい!」
 エイボンの請願せいがんを、聞いているのかいないのか。ツァトゥグァは微動だにしない……。
「う!?」 
 先に変化を したのは、ツカサだった。頭を抱えて、膝を付く。
「あ、頭の中に かが……」
「落ち着け、ツァトゥグァがそなたの を探っているのだ。正直に思い浮かべるのだ。かの神
に、何を むのかを」
 心の内をまさぐられるという慣れない感触に、焦点しょうてんを失っていたツカサの瞳が、次第に澄んでい
く。ツァトゥグァの全てを映す とは対照的な、しかしその深みはよく似ている目。
 二対の双眸が、いかなる わせ鏡の無限宇宙を見ているのか。
 は……」
 我知らず漏らした、ツカサの き――と呼ぶには、あまりに強い決意を秘めた、その声に応
えるように。 
 ツァトゥグァのねじれた指が放った光が、ツカサを撃った。
 思わず の巻物を探ったエイボンの手は、しかしすぐに思い留まる。
 彼は無事 だった。
 その手首には、いつの にか腕輪がはまっていた。
 黄金とも とも付かない、ぬらぬらとした赤い輝きを放つ金属製の……そう、サイクラノーシ
ュへの扉と じ材質。おそらく、ツァトゥグァが自らの力を物質化させて創造した――
 ――崇拝者との、契約の 
「あ、ありがとうございます、ツァトゥグァ !」
 何度も を下げるツカサに、怠惰な神はごろりと寝返りを打って応えた。
 つまり。 
成功 か」
「はい!  を貸してくれるそうです!」
 神との交渉は、時間は くとも、密度はとてつもなく濃かったに違いない。ツカサは思わずよ
ろめき、師の に支えられる。
 …… えてやれるのは、これが最後だろう。
(ついに、 れたか……)
 ツァトゥグァとの契約。彼の魔道 の、究極奥儀を受け継ぐ者が。他の弟子達も優秀だったが、
ここまで辿り いたのはツカサだけだ。
 聖なる惰眠を再開したツァトゥグァを、あおぎ見る。自分がサイクラノーシュへ行くのを躊躇って
いたことも、この神はお 通しだろう。
 その長い が、ぴくりと動く。
 それだけで、十分通じた。神のいきはからいに感謝する。
(ええ、これで も……)

〜4〜
 翌 
 二人は、葡萄酒ぶどうしゅを酌み交わしながら談笑していた。
「あの は傑作であったな」
「え〜、ひどいなぁ」 
 出会ってからの、短くも い一年。その間の出来事を、取り留めも無く……そんな二人は、師
弟というより、 の離れた友人のようだった。
 そして、エイグロフの頂から、 が顔を出す頃。
 葡萄酒の最後 の一滴が……。
  きた。
「…………」
「…………」 
「……行くのか」 
「……はい」 
 そう、これは旅立つ弟子との、 れの酒。
「何のお もできなくて、ごめんなさい」
 なら、十分してもらった」
「え?」 
「そなたの謎……もう、一生退屈せずに みそうだ」
 とぼける師に、ツカサも微笑ほほえみを返す。その表情は、出会った頃より、随分と大人びている。
「もう、とっくに全部 かってるんじゃないですか?」
「さて、どうかな?」 
 その ……。
 大地から へ上る流星を、エイボンは一人館の窓から見送った。
 これで、もう い残すことはない。自分の魔道は、ツカサが歩んで行ってくれる。自分には、
決して辿り けない地平の向こうまでも。これで、いつでもサイクラノーシュに旅立てる……。
 いや。 
(そうだ……) 
 その に、一つだけ、やっておかなくてはならない仕事ができた。エイボンは、書庫に急い
だ。 
だ。 
 それから一年後。モルギ いる異端審問団の襲撃から逃れるため、エイボンはサイクラノー
シュへと旅立った。以降、 の姿が、この星で見られることはなかった。
 さらに百年後。ハイパーボリアの大地 は押し寄せる氷河に呑まれ、その輝かしい歴史に幕を
降ろしたのである。 
 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
 ・ 
だ。 
だ。 
だ。 
だ。 
だ。 
だ。 
だ。 
 そして、百万年 ――。

〜5〜
 ツカサは一人、南太平洋上にたたずんでいた。
 百万年前、師に れを告げた時の姿のままで。
「ここが……」 
 知識としては っていたとは言え、始めて見るその光景に息を飲む。
 つい数日前までは、一面の が広がるばかりだったそこは。
 今や、異界と していた。
 見渡す りの、石造建造物群。それを構成する線に、一つとして真っ直ぐなものはない。およ
そユークリッド幾何学きかがくを無視した動きで、うねり、のたうち、絡まり合い……その合間から、うみ
ように緑の粘液ねんえきしたたららせている。
 狂気の画家が呪いを込めて描いた抽象画ちゅうしょうがか、四次元の立体を無理矢理三次元上に展開した
数学モデルか、進化の樹から大きく外れた畸形きけいの生物の躯か。
 どれでもない。 
 何と くべきことに、これは都市なのだ。
 ルルイエ、この を聖地とする者達は、そう呼ぶ。   
 ずずぅぅんっっ……ずずぅぅんっっ……どずずぅぅんっっ……。 
 地 きが、ツカサをよろめかせる。
 地震にしては、おかしい。 れ幅が妙に規則正しく、しかも徐々に大きくなる……。
 それが足音であると、推測 できる人間は、おそらくツカサだけだろう。
「来た……!」 
 それがいるのは、まだ キロメートル先、この異形の都の中心部だ。
 にも わらず、その巨体は、十分目視できた。
 覚悟はしていたとは え、ツカサの全身に震えが走る。肉体を構成する細胞全てが、拒絶反
応を起こしている。 げたい、あんな存在の側には、一秒たりとも居られないと。ツァトゥグァの
目を覗き込んだ とは、また別種の恐怖。
 ひげのように触手を生やした顔……広げれば空を覆い尽くすであろう羽……一枚一枚がテニ
スコート程もあるうろこ……ああ、何と婉曲な表現。これでは、髪の毛一本、爪一枚から、人の姿
説明 するようなものだ。
 有史以来、人類が い描いてきたあらゆる悪夢、その醜悪にして芸術的な集合体。それが
触手、羽、鱗を具えて実体化した……いや、それも違う。その姿は、人の矮小わいしょうな脳がひねり出す
悪夢など、遥かに えている。
 だが、神も悪夢にうなされるとしたら。
 例えば、あんなものを夢見 てかもしれない――。
 いなるクトゥルフ……」
 ツカサがその を呟く。肉体を引き千切ってでも逃げようとする己が細胞を、意志の命令で
踏み まらせながら。
 狂える詩人アルハザードの なる魔道書ネクロノミコンは記す。かの神が地球に降臨したの
は、三億五千万年前。自らに従う眷族けんぞく達と共に、太平洋上に浮かぶ大陸に降り立ち、奇怪なが
らも壮麗な文明を いた。
 だが、神代の時代は突如、 わりを告げた。
 ある時クトゥルフは、聖都ルルイエの霊廟れいびょうながい眠りに付いた。目覚めを願う眷属達の願いは
届かず、やがて大地の変動でルルイエは沈下し始め、かの神諸共もろとも、海底へと消えていった。
 その後、魚類が に上がって両生類になり、やがて恐竜の時代が始まり……ようやく、我々
が一般に知る“地球の歴史”が まったのだ。
 しかし……。 
  
 That is not dead which can eternal lie, and with strange aeons even death may die(そは永久とこしえ
に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫えいごうのもとに死を超ゆるもの).
  
 ネクロノミコンにかの連句を したアルハザードは、全て知っていたに違いない。
 数億年の眠りが、かの神にとっては、つかの間の休息に過ぎないことを。
 201X年、X月X日――。 
 その一報をもたらしたのは、オーストラリア海軍 の戦艦だった。南太平洋、南緯47度9分、西
経126度43分地点に、それまでなかった を発見したと。
 報告は、その後間もなく途切れる。 に広がるルルイエの光景と、霊廟から起き上がるクトゥ
ルフを目にした、船員 の断末魔の絶叫を最後に。
 それは、終わりの始まりを告げる、黙示録もくしろくの号令となった。
 かの神が数億年ぶりに行った奇跡 は、高さ数百メートルの津波で、世界地図の海岸線を一変
させることだった。おそらく、留守中に自宅 に沸いた、ゴキブリを駆除する程度のつもりで。この
段階で、人類 の総人口が二割減った。
 内陸部も無事 ではいられなかった。クトゥルフが放つ思念波は、地球の裏側までも届き、人々
を狂気におちいらせた。刃が、銃弾が、核ミサイルが、殺戮さつりくのための殺戮を撒き散らし、人類の総
人口はさらに った。
 そして、世界の海に っていたクトゥルフの眷属達が、再び神に仕えるため陸に戻ってきた。
あの御方の手をわずらわせてはならぬとばかりに、瓦礫がれきで身を寄せ合う生き残りの人々を、念入り
虐殺ぎゃくさつし始めた。
 人々はさとらざるを得なかった。自分達など、眠れる神が見ている夢の如き、儚い存在に過ぎ
なかったことを。 
 夢は、目覚めと に消える定め。
 ……だとしても、 められないのは、人の強さか未練がましさか。いずれにせよ。
 ツカサ――御簾門みすかど大学民俗学部二年生、戸神司もまた、諦めることができない一人だった。
 戸神家の書庫 には、数々の魔道書が並んでいた。御簾門大学で教授をしていた、亡き祖父が
集めた だ。かつては人類学や宗教学の資料でしかなかったそれらは、今やれっきとした実
用書であることが らかになった。
 人類の、矮小な世界観の から来た神。それに対抗する術は、外なる世界の理を記した、
魔道書の にあるのではないか。そう考えた司は、必死で難解な外国語と格闘した。
 そして、ついに一筋 の希望を見出した。
 Book of Eibon――エイボンの 
 伝説の魔法文明ハイパーボリアで名をせたという、大魔道士エイボンの手なる魔道書。そ
の中に されていた、奇怪なその名。
 ツァトゥグァ――暗黒のンカイでまどろむ、 
 そうだ、神に抗し得るのは、 じ神のみ。何とかして、ツァトゥグァを味方に付ければ……。可
能性はある。現に、エイボンはかの神と親交を結び、恩寵をたまわっていたと、書には記されてい
るではないか。 
 しかし、問題 があった。
 百万年もの歳月を、翻訳ほんやくに次ぐ翻訳によって渡ってきたエイボンの書。その内容には、あちこ
ちに欠落があり、ツァトゥグァに する記述も例外ではなかった。神を味方に付けると言って
も、具体的に をすべきかはさっぱりだ。
 掴みかけたわらが、手をすり抜けていこうとした、その時だった。
 いつも身に付けているお りが、何かに共鳴するように震えだしたのは。
 それは、精緻せいちな細工がほどされた、純銀製らしき鍵で、祖父の遺品だった。
 そう言えば……幼い 、祖父が話してくれたのを思い出した。これは、魔術の鍵。空間の鍵
穴に差し込んで せば、時空の扉が開き、持ち主の望む場所・時代に連れて行ってくれるのだ
と。 
『ただし、 にとって、本当に必要な時が来るまでは使えない。だから、いつも肌身離さず持っ
ておくんだよ……』 
 そうだ、確かに祖父はそう っていた。もしや、今がその時なのか。
 その瞬間、司に天啓てんけいが下った。
 望む場所・時代に れていってくれる……ならば、大魔道士エイボンが生きるハイパーボリア
にも けるのではないか。そうだ、ツァトゥグァを味方に付ける方法なら、エイボンに直接教わ
るのが一番 ではないか!
 何と突飛とっぴな発想、我ながら笑ってしまう。
 だが。 
 神が実在するなら、奇跡だって き得るのではないか。
 自嘲の みは、一瞬にして意味を反転させた。すなわち、この後に及んで、常識などにしが
 いていた自分に。
『信じるよ、お祖父ちゃん。魔術 は……在るよね』
 司は、銀の鍵を に取り、目の前の空間に差込み……。
 カ チ リ 。 
 回した瞬間、 は確かにその音を聞いた。
 果たして、 は開いた。
 あらゆる空間・時間と隣接する、混沌こんとんにして空虚くうきょの超時空への。
『う、うわああああああ!?』 
 燃える氷山が、稲妻の結晶体が、 りを上げて傍らを通過していく。だが、危険は未分化エ
ネルギーの奔流ほんりゅうだけではなかった。
 悪意の異臭 を撒き散らしながら迫る、緑の目。
『ティンダロスの猟犬 ……!?』
 時空の旅は、か弱き人の には、あまりに過酷な試練だった。
 猟犬の牙から逃げながら、司は必死で目をらした。時の闇と、空間の霧の彼方に……見
えた。百万年前、永遠の氷河に まれ消えた、魔法の王国。
 大魔道士エイボンの故郷、 かなるハイパーボリア。
 あそこへ! あの時代へ!  は激流に逆らう小魚の如く、死に物狂いで手を伸ばし……。
 そして。 
 そして。 
「エ、エイボン様、 を弟子にして下さい!!」
 そして。 
 司は天を いで、祖父に報告する。
「お祖父ちゃん、魔術は かに在ったよ……」
 自分は見事 、大魔道士エイボンの弟子になって、ここへ戻ってきたのだから。そう、終わりの始
まりの 。201X年、X月X日、浮上した直後のルルイエへ。
 記憶が かなら、オーストラリア海軍の戦艦がここを発見するのは、約半日後。それからいく
らもたない内に、終わりが始まる。
 つまり。 
 今なら、まだ に合う。運命を、変えられる。いや、変えなければならない。
「…………っ!」 
 司は拳を り締める。真っ白になるぐらい、強く。
 運命がこの 用意している、悪趣味極まる“未来”を呪って。
 幼い 亡くなった両親の代わりに、自分を育ててくれた祖父は、津波に飲まれる。優柔不断
な自分を、いつも叱咤激励しったげきれいしてくれた親友達は、狂乱して殺し合う。
 そして、こんな自分を してくれた女性は。
「…………っ!」 
 クトゥルフの眷属に われ。
「…………っっ!!」 
 司君大好きよと、笑顔で いながら。
 腕を食われ足を引き千切られ を裂かれ内蔵をぶちまけさせられ目玉を飛び出させられ頭  られ脳味噌をちゅるちゅるちゅるちゅる@f%#※k…………。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 
ああああああああ――――――――――――――――っっっ!!!!!!!!!!!」 
  させない。
 あんな未来、絶対 に。
 廃墟と化した街を一人彷徨さまよいながら、何度絶望しかけたことだろう。もう嫌だ、自分も早く皆の
所へ行きたいと、暗い泥濘でいねいに身をゆだねかけた。
 そうしなくて、本当に かった。
 激情の涙で れた双眸で、迫り来るクトゥルフを睨み付ける。相手は自分のことなど、気付い
てもいないことは、 も承知でも。
「確かに、お前は いなるものかもしれない……お前に比べたら、僕達なんか虫ケラでしかな
いのかもしれない……でも、お師匠様はこう ってたぞ……蟻の掘った穴が、巨大な堤防を崩
すこともあるんだって!」 
 右手を、 に突き出す。そこにはまっている腕輪を、奴に見せ付けるように。
「我が は戸神司、大魔道士エイボン最後の弟子……! 虫ケラの力が、どれ程のものか!
 その寝惚ねぼまなこかっ開いて、よぉぉぉく見やがれぇぇぇぇぇぇ――――――っっっっ!!!!」
!」 
 それから、百万 と百一年前。
 だが、超時空的には 時刻。
 黒片麻岩の の書庫で。
 エイボンは、最後 の仕事に取り掛かっていた。
〈我はミラーブの息子 エイボン。我は暗黒世界ンカイにて神と見えた。その名はツァトゥグァ…
…〉 
 飛竜皮の紙に、烏賊墨に浸けた筆でつづる。自らの魔道の記憶を。
 Book of Eibon……あの本をたずさえ、いつか自分の元へやって来る、未だ生まれてもいない弟
子のために。 
(ツカサ…… が最後の弟子よ。人の未来を……!)
!」 
 悠然としたクトゥルフの みが――止まった。
 ルルイエの建造物群を、砂埃すなぼこりのように舞い上げながら起き上がった、その姿を目にして。
 さすがの神も、動揺しているに違いない。さあ、これからだというところに、突然立ちふさがられ
て。 
 同じ に。
「見たか、これぞ魔術……運命 に抗う、人の力だ!」
 肩に乗せた に同調するように。
 ツァトゥグァの全知の が、カッと開かれる。おそらく、サイクラノーシュから降臨して以来の、
完全な覚醒 
 炎の神が まうという恒星フォーマルハウトの如く、ぎらぎらと輝いていた。自分がちょっと昼
寝している隙に、人という絶好の退屈しのぎを根絶ねだやしにしようとした、あの生意気極まる新参者
に、怒り心頭に して。
 地が れる。
  がざわめく。
 神と と人の戦い。この星の歴史が始まって以来の、激震の予感に。
 司は、 の感触を確かめた。そこに忍ばせたエイボンの書を通して、きっと届くと信じて。
  う。
「お師匠様、サイクラノーシュから、 守って下さい……!」



〜Fin〜