リリウム・ロンギフロルム




寄せられる腕は確かに愛しいと思う。
寄せられる言葉は確かに愛しい。

あぁ、けれども俺は。

部屋で一人、安かった座椅子に持たれながら文庫本に目を落としていた。
蛍光灯に、スタンドライト。充分するぎるほど明るい中で、小さな文字は鮮明に脳に飛び込んでくる。
ページに影を落とす己の其れとは別の影が、ふと落ちた。
背後に気配なく近寄られ、一瞬肩が震えて胃が縮こまったが相手は分かっている。 栞を挟んだ文庫本を机に置いて、振り返る。
その間、後ろに立っているこの男は何も言わず、何もせず、ただ立ち尽くしていた。

座ればいいのに。

そう思いながら、振り返った首を持ち上げ顔を上げた。
蛍光灯の光で顔に影が掛かっている。

「おかえり、阿含」

影に笑みが浮かんだ。
座る座椅子の横に回って、阿含が腰を下ろす。仕草を目で追いながら、身体を阿含の方へと 向きなおした。からん、とサングラスを机に放った阿含の腕がこちらに伸びて来る。 後頭部に回された腕に少しの力が入り、引き寄せられる。
座椅子から少し腰がずれてしまった。

「ただいま」

生暖かい息と共に、皮膚に響いた自分と同じ声。
かさつく唇に同じように少しかさついた唇が合わさる。
僅かな唾液で僅かな潤いを持ち、互いの剥き出しの内臓の薄い皮を
繋げ合わせて離れることを拒んでいるかのように、まるでボンドでくっつけたみたいに繋がる。
離れていく際、その所為で上唇が引っ張られた。

「今日は早いんだな」

抱きしめて離さない阿含の肩口に顎を置いたまま、本当に珍しく早く帰ってきたから 思わずそんな言葉が出た。くつくつと耳の傍で阿含が喉を震わせているのが分かる。

「最近、何処に行っても面白くねぇんだよ」

「そうか・・・」

それだけ零して会話が止まった。抱きしめる腕が背中を撫でる。
比べて、俺の腕は未だぶらりと垂れ下がっている。

それに阿含は不満を言うことは無いが、焦れるのか更に強く腕を絡ませる。

いつも。
いつもと同じ。


藍から漆黒に染まった夜間に、他の寮生も寝静まった時刻。

「何でもしてやる。何でも、だ。何が欲しい?何を俺はお前にすればいい?金?セックス?服?」

熱い息と、律動を繰り返しながら、声を殺そうと食い縛った唇をその指で解しながら、頬や耳朶、瞼。
余すとこなく口付けを落として阿含はそう囁く。

何度も。
何度も。

「何でも言ってくれて、いい、よ。叶えてやる」

熱を帯びた声が耳元を擽る度に、解された唇は堪えきれずに声を漏らした。

「何も、いらない。阿含、何もいらない。欲しいものは、そう、じゃないんだ」

荒い息を必死で抑えながら、眼前に見える阿含を見据えて訴えた。

「じゃぁ、何だよ。金でもセックスでもねぇって、何?」
お前、誰とも違うから何が欲しいかわかんねぇよ。

いつも阿含は最後にそう言う。
そしていつも本当の答えを伝えられないでいる。


阿含は何でもくれた。何でも与えてくれた。
資金の出所は大概が不純なモノではあったけれど、換えられて齎される品は 決して不純ではなかった。
痛いほどの思いがきっと詰め込まれている。
口角だけを持ち上げて、まるで要らないものを渡すかのように笑いながら差し出す。 けれど、サングラスで隠れた目がどこか不安を、真摯な思いを隠せずにいることを知っていた。
受け取れば酷く嬉しそうに笑うことも知っていた。
それは幼い頃から変わらない表情。
初めて阿含から捧げられた時は、本当に嬉しかった。学校で作ったちゃちな物だった。
いらないからやるといった態度だったし、きっとそうだったんだろう。けれど嬉しかった。
何かを阿含が人に与えるという初めての行為の相手が自分だったことが嬉しかった。
それ以来、欲しいと呟いたものを、ささやかな物を阿含は次の日には手に入れて この手の中に贈ってくれた。
そうして何度も受け取るたびに、ある感情が身を焼いた。
それは家族愛なんて暖かいものではなかった。もっと熱く、深いものだった。
想いを抑えることは出来ず、阿含に気付かれるのは時間の問題だった。
阿含から贈られる品を受け取るたびに、頬が高揚したからだ。

阿含がそうやって自分の為だけに何かをくれることや 他の誰も知らないだろう表情を見せてくれる事に、優越感を覚えた事だってある。
俺だけに。
あの阿含が俺だけに。
浅ましい思いは溢れて零れだしそうだった。
同じ感情を持つ弟に、こんな醜い感情を勘付かれたくはなかった。

与えられる物を拒む事にした。
そうすれば何も気付かれないと思ったからだ。
本心も浅ましい姿も、気付かれたくはなかった。
何度も何でも贈る阿含を何度も拒んだ。


その日も此間と同じように座椅子に座って、読みかけの本に目を落としていた。 数日前に部屋を出て行ったっきり帰ってこないもう一人の部屋の主とは連絡を一切取っていない。
静かな部屋が好きだから、一人で趣味に没頭する時間が好きだから 煩く連絡を取るつもりもなかった。
部屋の扉が開くと音がして、やっと帰ってきたのかと開かれた扉を向いた。
扉の前に立つ姿を確認して、何か左手に握っていることに気付く。
近づく足音と、かさかさと乾いた音が交じり合っていた。

「やる」

差し出された品を受け取って、締め付けられる思いがした。
鼻を擽る甘い匂いが、まるで薬物のように身体に染み渡り、脳を溶かす。
目の前で甘い匂いを放つ花弁を見て、それを持つ阿含を見た。
白い花弁には一点の曇りも無い。

何でこんなものを、と思う。

見上げたサングラスで隠れている目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。

あぁ、もうこれ以上は。
あぁ、もう何も。
何も与えないで欲しい。

阿含から何かを貰うことはもう出来なかった。
あまりに大きなものを、知らずに受け取っていることに気付いたからだ。
身体を繋げて、その身を貰った。同じ感情を持っていると分かり合い、その心を貰った。
気付くには遅すぎて、身の回りには今まで貰った想いの品が溢れていた。
もう、貰えない、そう思った。これ以上何も貰えない。

指を伸ばして、飾り気の無い包まれただけの花を抱き寄せると、安堵したような息をついて 阿含が正面に腰を下ろした。
花を見る視界に衣擦れの音と共に、阿含の半身が覗く。からんと乾いた音に顔を上げると
サングラスを外していた。
裸の目は変わらず真っ直ぐで、思わず目を背けたくなる。

意識的に目を細めて、口角を上に上げる。
上手く、いつもと同じように笑えているだろうか。
あの時と同じように、最初に贈られた物を受け取ったときと同じように 心底嬉しがっている顔で、笑えているだろうか。
いらないと言いながら意識して浮かべた笑顔は、しっかりと笑みとなって阿含に見えているだろうか。

呼吸をするだけで震えを起こしそうになる唇を一度噛み締め、細く息を吐いた。 気付かれないほど小さく細く。
そして一言。たった一言だけを言葉にする。


「いらない、阿含」


両腕で抱いていたソレを身体の横へ寝かせると、がさりと華奢な姿の割には派手な音を立てた。
中で包まれている白い花弁は、少し弱々しく、少し先端が萎れ始めている。

沈黙が痛い。何か文句を、罵声を浴びせられた方が楽だ。
なのにいつも阿含は拒む自分を罵ろうとはしなかった。
目の前に座る阿含が身体を前のめりにさせ、隣に寝かせた花束をその手に掴んだ。 身体の横を通った腕に内心身震いが起こる。畳に擦れてビニールがかさかさと音を立てた。

「なぁ、雲水」

腕の中に戻した白い花弁を見下ろしていた目が、動く。
視線が絡み合う。ぞわりと背筋が痺れる。

「お前、本当に欲しいものは何?」

息が詰まる。手の中で、包まれた花束を弄んでいる。
かさかさと揺れて、白い花弁も揺れて。
言えたらいい。
本当に欲しいものはあるんだ、と言えたらいいとずっと思っていた。
それでも口に出せないのは。

言い出せないのは、自分が変わるのが怖いからだ。

「雲水」

肩が震えた。動けない。
阿含は何も言わないし、動かない。少しの距離が気の遠くなるほど遠いものに思えた。

「言ってくれねぇとさすがの俺でもわかんねぇよ」

声と共に、花束が弧を描いて机の傍に置いてあるゴミ箱の中に消えていった。
顔を合わす事が出来ずに、阿含の手から離れていく花束を顔で追った。
がこんと音を立てた白い綺麗な花束は、花弁も散ってしまったに違いない。
綺麗な白は汚れただろう。
綺麗な想いを汚してしまった。

アルミの中で枯れていくだろう想いを思った。

顔を背けていると腕を引かれ、耳朶を唇が掠めた。
抱きしめる腕は背を包み、耳元を擽る唇が、いらないと言ったのはお前だと囁いた。
首筋に生暖かい息がかかり特殊な髪型が揺れては肩を撫でた。
落ち着かない鼓動は、きっと阿含の耳にも届いている。落ち着けと言い聞かせても、 包む腕と密着した体温に身体が嬉しいと叫ぶ。


本当に欲しい物。
本当は。
本当は阿含しかいらない。
阿含しかいらない。
阿含が傍に居てくれさえすれば、何も物なんていらなかった。
想いだけで充分だったし、受ける行為だけでこの身は歓喜で満たされた。

言葉に出来たらどれだけいいだろう。

けれど言えない。

「なぁ、雲水」

顔を肩口に埋めたままくぐもった声で名前を呼ばれた。
声に何かを決意した色が浮かぶ。

やめろ。
駄目だ、阿含。
阿含が何を言いたがっているのか、分かってしまった。
同じ感情、同じ血、同じ遺伝子。結局は一つだと思う。

言ったら、駄目だ。

浅ましく喜ぶこの姿を見せたくない。
変わってしまうことが怖い。

どうか何も言わないでくれ。

言ってしまえば、もう戻れない。今の自分に戻れなくなってしまう。
浅ましい思いが、溢れて、溢れすぎて、阿含が思っている雲水という人間はいなくなる。
酷く醜い部分しか残らない気がしていた。自分が変わってしまう恐怖が、身を蝕む。
思わず腕を伸ばして阿含の背を掴む。震えが収まらない。

意味を履き違えてくれるな、と願いながらその身体に縋った。